根香寺
根香寺は、五色台東部の青峰山頂の東側にある天台宗寺院で、山号は青峰山、院号は千手院で、千手観音を本尊とします。山の枯木の根が香ったことから「根香寺」と名付けられたこと、智証大師円珍は、この霊木から本尊を彫ったことが伝えられます。また香気が遠く流れて川の水がかぐわしかったので、「香川」が郡名になったとも云われます。この寺には怪物「牛鬼」の伝説がつたわっていて、弓の名人が牛鬼を退治し、その2本の角を納めた寺としても有名です。根香寺
この寺について記した古代の文献史料はないようです。
ただ根香寺が保管する考古資料には7世紀の遺物があるので、境内周辺地から出土したものであるとすれば、根香寺は古代の山岳系の寺院にルーツをもつ可能性もでてくるようです。
根香寺の手前の第81番札所白峯寺の『白峯寺縁起』(応永13年(1406)には、根香寺の成立に関わることが次のように記されています。
白峯寺は、空海が地を定め、貞観2年(860)に円珍が山の守護神の老翁に会い、十体の仏像を造立し、49院を草創した。そして十体の仏像のうち、 4体の千手観音が白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺にそれぞれ安置された。
白峯寺は「五色台」の西方の白峰山上にある山岳寺院です。
吉水寺は近世に無住となりますが、白峯寺と根香寺の間にあった山岳寺院です。白牛寺は、国分寺とされています。ここからは根香寺はこれらの寺と結ばれた「五色台」の山岳寺院だったこと、そして山林修行の場として修験者たちが集まってくる行場のひとつであったことがうかがえます。そういう目で見ると、三豊の五剣山や善通寺の五岳が修験者の「中辺路」ルートで、各行場を結ぶ拠点として観音寺や本山寺、あるいは弥谷寺や曼荼羅寺、善通寺があったように、五色台のこれらの4つの山林寺院も「中辺路」ルートで結ばれていたとも考えられます。そこへ熊野行者や高野聖たちの廻国修験者が修行のために海からやって来るようになります。彼らが行場にお堂を構え、山林寺院へと成長して行ったというストーリーが描けます。根香寺の成立については、空海と円珍(智証大師)という讃岐のふたりの大師が関わっていたことになります。
今回は、根香寺の創建を初めとする歴史について見ていこうと思います。テキストは「上野進 根香寺の歴史 根香寺調査報告書2012年 香川県教育委員会発行」です。
円珍の根香寺創建関与説については、次のふたつの説があるようです。
A空海が草創し、後に円珍が再興した「空海創建=円珍中興」説B円珍のみを開基とする「円珍単独開基」説
Aの「空海創建=円珍中興説」は、讃岐最初の地誌とされる『玉藻集』(延宝5年(1677)に、次のように記されています。
「この地は弘法大師開き給ひて、千手現音を作り、一堂を作り安置し、後智証大師遊息し、台密兼備の寺となり」
この説をとるのが次の史料です
①遍路案内記の『四国偏礼霊場記』
②明和5年(1768)の序文がある『三代物語』
③弘化4年(1847)の『金毘羅参詣名所図会』
一方、Bの「円珍単独開基説」は、延享3年(1746)に作成された根香寺の縁起『青峰山根香寺記』で次のように記されています。
「(根香寺)開基は円珍で、青峰を訪れた円珍が老翁に導かれ、蓮華谷に金堂を造立して本尊を安置したのが当寺の始まりで、「中比」は専ら「密乗」を修し、寛文4年(1664)に天台宗に復した」
この円珍単独開基説は江戸時代前期までさかのぼり、寛文9年に各郡の大政所が提出した『御料分中宮由来・司寺々由来』には根香寺が「貞観年中(859~877)智証大師の造立」されたと記されます。ここで研究者が注目するのは、これに続く次の記述です。
「往古は天台宗、中古は真言、只今は天台に帰服」
ここからは、古代・中世の根香寺には真言・天台両勢力が並存し、 しだいに真言宗が優位を占めていったことがうかがえます。それは、寺院を拠点とした修験者の勢力関係を背景としたものだったのかもしれません。そして、真言系修験者が優位を占めるようになったことがA空海単独開基説を生む背景となったと研究者は考えています。
円珍坐像(長尾寺)
正平12年(1357)の「讃州根香寺両界曼荼羅供養願文」には、根香寺の花蔵院と根香寺が「両大師聖跡」と記されています。
つまり、次のふたつの聖跡があったことが分かります。
花蔵院が弘法大師空海の聖跡根香寺が智証大師円珍の聖跡
ここからは根香寺の開基を「両大師」とする説も中世からあったことがうかがえます。
中世の根香寺については分からないことが多いようです。
根香寺本堂裏(北方向)の発掘調査からは、2基の塚跡が並んで出てきました。これらは12世紀後半のものとされ、墳墓と供養塚と研究者は考えているようです。ここに眠っているが地域の有力者だったとすると、鎌倉時代初期の根香寺の保護者の墓とも考えられます。
寛文9年(1669)の『御料分中宮由来。同寺々由来』には、次のように記されています。
「往古は七堂伽藍をもち、寺中九十九坊を数えた」
近世の縁起『根香寺略縁起』には、次のように記します。
「往古は南の後夜谷、中の蓮華谷、北の毘沙門谷の三谷に分けられ、後夜谷の東南に楼門、北峰に護世堂がそれぞれあった」
延享3年(1746)の縁起『青峰山根香寺記』には、具体的な子院名として、千手院・道蓮房。円覚房・如法房・燈明房・薬師房があげられています。ここからは、中世の根香寺では千手院を中心として、山内にいくつかの子院があったことが考えられます。
このうち薬師房は、現在根香寺の末寺である薬師寺(高松市鬼無町是竹)のようで、近代には根香寺の隠居所となっていました。中世の根香寺には真言・天台両勢力があったことは、先に見たとおりですが、真言系・天台系など複数の子院が並存していた可能性もあります。
さらに『根香寺略縁起』・『青峰山根香寺記』では「当寺東北の平賀の大門は、当山の惣門の跡」と記します。寺域が広大で、中古までは千石千貫の寺産があったと主張しています。また『青峰山根香寺記』では寺領として、香川郡河辺郷(高松市川部町)を挙げます。河辺郷は香東川をややさかのぼったところにあり、根香寺とは距離があります。根香寺が散在する寺領をもっていたのかもしれませんが、詳しいことは分かりません。
近世の寺社縁起の作成動機の一つは、「寺領」の確保でした。
そのために「往古は広大な寺領や境内を持ち、大きな伽藍を擁していた」とするのが縁起作成の作法です。そのためこれらの記述を、研究者がそのまま鵜呑みにすることはありません。
近世の寺社縁起の作成動機の一つは、「寺領」の確保でした。
そのために「往古は広大な寺領や境内を持ち、大きな伽藍を擁していた」とするのが縁起作成の作法です。そのためこれらの記述を、研究者がそのまま鵜呑みにすることはありません。
「根香寺」の名称の初見資料は、智証大師像(根香寺本堂)の底銘に記されていました。ここに元徳3年(1331)の年紀があることが近年の調査で分かっています。
この智証大師像は、阿閣梨道忍が根香寺に奉献したものです。智証とゆかりの寺とされていたから智証大師像を奉納したのでしょう。ここからも根香寺が円珍と関わりがあった寺院とする考えが鎌倉時代末期にあったことが裏付けられます。
「智証大師像」の底銘 鎌倉時代の年号が見えます。内容は以下の通り
讃州 根香寺
奉造之 智澄大師御影一林
大願主 阿闇梨道忍
佛 師 上野法橋政覚
彩 色 大輔法橋隆心
元徳三年 八月十八日
この智証大師像は、阿閣梨道忍が根香寺に奉献したものです。智証とゆかりの寺とされていたから智証大師像を奉納したのでしょう。ここからも根香寺が円珍と関わりがあった寺院とする考えが鎌倉時代末期にあったことが裏付けられます。
不動明王立像(根香寺五大堂安置)
五大明王像の中の不動明王立像(根香寺五大堂安置)は像内墨書があり、弘安9年(1286)に造立されたことも近年の調査で分かっています。伝来仏として後世に、他の寺から運び込まれた可能性もありますが、年代の分かる貴重な資料です。
五大明王像の中の不動明王立像(根香寺五大堂安置)は像内墨書があり、弘安9年(1286)に造立されたことも近年の調査で分かっています。伝来仏として後世に、他の寺から運び込まれた可能性もありますが、年代の分かる貴重な資料です。
南北朝時代の根香寺については、先ほど見た正平12年(1357)に「女大施主」が両界曼荼羅を根香寺に寄進し、供養が行われたことを示す史料があります。寄進者の「女大施主」はよく分からない人物ですが、有力者の在家信者なのでしょう。ここからは、根香寺が周辺地域の人々の信仰を集めていたことがうかがえます。
古代寺院は、有力豪族の氏寺として創建されました。
そのため古代寺院は地域の古代豪族が衰退し、姿を消すと保護者を失い、寺院も退転していきます。中世寺院が存続していくためには、地域の有力者の支持と支援が必要でした。そのための手法が修験道の呪いや護符配布であり、祖先供養であったようです。
そのため古代寺院は地域の古代豪族が衰退し、姿を消すと保護者を失い、寺院も退転していきます。中世寺院が存続していくためには、地域の有力者の支持と支援が必要でした。そのための手法が修験道の呪いや護符配布であり、祖先供養であったようです。
「讃州根香寺両界曼荼羅供養願文」には、当山には花蔵院と根香寺のふたつの院房があると記します。
花蔵院は発光地大士が建立し、「五大念怒霊像」の効験はすでに年を経ているとします。それに対して、根香寺は智証大師円珍が草創し、「千手慈悲之尊容」の利益は日々新なものだと記します。そして「両大師聖跡」を並べているとします。この発光地大士とは弘法大師空海のことをさしているようです。弘法大師の効験は古くて効かない、円珍の方が効力があると云っているのです。その上で「両大師聖跡」を並べています。ここからも花蔵院の開基が弘法大師空海、根香寺の開基が智証大師円珍と考えていたことが分かります。花蔵院については他に関連記事がなく、根香寺との関係もよく分からないようですが、南北朝時代は両者を中心に一山が形成されていたようです。
花蔵院は発光地大士が建立し、「五大念怒霊像」の効験はすでに年を経ているとします。それに対して、根香寺は智証大師円珍が草創し、「千手慈悲之尊容」の利益は日々新なものだと記します。そして「両大師聖跡」を並べているとします。この発光地大士とは弘法大師空海のことをさしているようです。弘法大師の効験は古くて効かない、円珍の方が効力があると云っているのです。その上で「両大師聖跡」を並べています。ここからも花蔵院の開基が弘法大師空海、根香寺の開基が智証大師円珍と考えていたことが分かります。花蔵院については他に関連記事がなく、根香寺との関係もよく分からないようですが、南北朝時代は両者を中心に一山が形成されていたようです。
北野経王堂一切経(大報恩寺蔵)
室町時代の根香寺の動向を伝える史料も少ないようです。数少ない一つが、応永19年(1412)に書写された北野経王堂一切経(大報恩寺蔵)です。
この一切経は、北野天満天神法楽のため東讃岐の虚空蔵院(与田寺)覚蔵坊増範が願主となり、諸国の僧俗200人あまりの助力を得て北野経王堂で勧進書写されたものです。そこには多くの讃岐の僧侶とともに「讃州香西郡根香寺住呂(侶)長宗」の名が見えます。ここからは根香寺の僧が、増範の書写事業に参加していたことが分かります。
この一切経は、北野天満天神法楽のため東讃岐の虚空蔵院(与田寺)覚蔵坊増範が願主となり、諸国の僧俗200人あまりの助力を得て北野経王堂で勧進書写されたものです。そこには多くの讃岐の僧侶とともに「讃州香西郡根香寺住呂(侶)長宗」の名が見えます。ここからは根香寺の僧が、増範の書写事業に参加していたことが分かります。
また、寛正3年(1462)7月、将軍足利義政に対して、根香寺勧進帳への御判について披露があります。
これは讃岐守護細川持賢が望み申したためとされます。根香寺には、天人が藉糸(蓮の繊維からとる糸)で織ったと伝える奇異の浄土曼荼羅が所蔵され、 これを義政にも見せています。当初、勧進帳に御判を与えることについては、先例がないとして認められなかったようです。それが細川持賢の申し出で、御判が与えられることになったと伝えられます。8月に浄土曼荼羅は持賢から義政へ献上され、翌4年4月に義政から太刀と馬が下されることとなり、持賢がその礼を述べています。
このように根香寺が勧進を実施しようとして、それを守護細川氏で支えています。つまり守護の細川家の保護を受ける寺になっていたようです。
これは讃岐守護細川持賢が望み申したためとされます。根香寺には、天人が藉糸(蓮の繊維からとる糸)で織ったと伝える奇異の浄土曼荼羅が所蔵され、 これを義政にも見せています。当初、勧進帳に御判を与えることについては、先例がないとして認められなかったようです。それが細川持賢の申し出で、御判が与えられることになったと伝えられます。8月に浄土曼荼羅は持賢から義政へ献上され、翌4年4月に義政から太刀と馬が下されることとなり、持賢がその礼を述べています。
このように根香寺が勧進を実施しようとして、それを守護細川氏で支えています。つまり守護の細川家の保護を受ける寺になっていたようです。
戦国時代の根香寺も同時代史料はありません。
江戸時代の『根香寺略縁起』には元弘・建武擾乱に衰微し、天正前後の兵乱に破壊されたと記します。元弘・建武の頃に被害をうけたのかは確認できませんが、天正13年(1585)3月20日に焼失したことが『三代物語』や『讃岐国名勝図会』も記されています。天正年間(1573~92)の衰退は、諸史料に書かれ一致します。長宗我部元親の侵攻によるものなのか、それ以前の阿波三好によつものなのかは分かりませんが、断続的にこの時期は戦乱が続きますので、根香寺もこの時期に兵火にかかった可能性はあります。
『青峰山根香寺記』では永正(1504~21)以来、南海賊が大蜂起したもあります。海からの海賊たちの襲来を記録するの讃岐の史料ではこれだけのようです。しかし、『三代物語』には、この海賊襲来も「永正以来」でなく「天正年間」となっています。
天正年間の火災によって本尊・諸仏像などをことごとく焼失したとするのは『三代物語』や『金毘羅参拝名所図会』で、再興の際に、吉水寺から霊仏・霊宝を移して旧観に復したと記します。他方、「青峰山根香寺記』や『讃岐国名勝図会』では本尊千手観音像・不動明王像・毘沙門天像は焼け残ったと記します。
香西氏の勝賀場
根香寺は、有力な戦国武将である香西氏の居城・勝賀城ともほど近い位置にあります。
この香西氏と天正の火災にまつわる伝承も残されています。『三代物語』や『南海通記』(23)には、天正13年5月10日、香西氏が西長尾城に赴く際、勝賀城にあった香西家の証文・家宝等を根香寺の仏殿に入れて去り、それを盗賊が奪おうとして仏殿に火をかけ、香西家累代の証文はもちろん本尊霊宝も焼失したと記します。
根香寺本堂裏(北西方向)には、凝灰岩製の地蔵菩薩坐像があり、次のように記されています。
「弘治丙□二年宗春 禅門 □日」
ここからは、この地蔵さんが弘治2年(1556)に宗春によって寄進されたことが分かります。『讃岐国名勝図会』に、次のように記されている地蔵と同じもののようです。
古墳三基
本堂後の山にあり、土人、はらいたみの地蔵といふ、
一基は弘治二年禅門宗春とあり
宗春がどんな人物なのかは分かりませんが、年紀が入った資料として貴重です。
根香寺本堂裏(北方向)の発掘調査では、12世紀後半の2基の塚跡が並んで出てきたことは、先述したとおりです。ここには15世紀後半から16世紀の五輪塔が設置されています。この時期の根香寺では、石仏や石塔を用いた宗教活動が行われていたことがうかがえます。これらは以前に見た弥谷寺で、石造物の寄進がおこなされていたこととつながるものを感じます。弥谷寺に隣接する天霧城を居城とする香川氏が五輪塔を造立し続けているのと重なります。
生駒一正
天正15年(1587)、生駒親正は、豊臣秀吉から讚岐国15万石を与えられて国守として入部します。これが讃岐の戦国時代の終了で、近世の始まりになると研究者は考えています。根香寺の復興が始まるのもこの時期で、生駒親正の子である一正は、慶長年間(1596~1615)に根香寺の堂字を再建して良田を寄進したと伝えられます。寺領高は18石余です。生駒一正のもとで、根香寺も以前に見た弥谷寺も復興の道を歩み始めます。これは、阿波や土佐に比べると、復興のスタートが早かったようです。
松平頼重
寛永17年(1640)の生駒騒動によって生駒高俊が讚岐を没収された後、東讃岐12万石を与えられたのが松平氏です。高松藩初代の松平頼重は、いくつかの宗教戦略をもっていました。そのひとつが真言王国の讃岐に天台宗の寺院を復活させるという政策です。いざという時に真言勢力へのくさびとしての役割を期待していたのかも知れません。その代表寺院が根香寺と長尾寺になります。長尾寺については以前にお話ししたので省略します。
根香寺に対しては承応2年(1653)に本堂を再興し、天台宗に改宗させて聖護院門跡の末寺としています。そして根香寺の境内整備を進めます。延宝年間(1673~81)、頼重は住持龍海に命じて新たに金堂・護摩堂・祖師堂及び僧房・眠蔵・資具をつくらせています。さらに延宝4年(1676)には、千手観音堂の再建を行い、寺領加増を行い30石にしています。その上に頼重は、大師袈裟や什物等の修理も行って、四大明王像を造像して、不動明王像とあわせて五大尊としたと伝えられてきました。しかし、近年の解体修理で四大明王は頼重の隠居屋敷のプライベートな祈念堂に安置されたもので、彼の死後に根来寺に移されたことが分かっています。
松平頼重が京の仏師に作らせた四大明王(根香寺)
頼重は、正月・5月・9月に国家鎮護のために五大尊護摩法を修するように命じたとされます。研究者が注目するのは、この祈祷が「殿様御安全之御祈祷」として、以後も継続して行われたことです。こうして根香寺は、高松藩における有力な祈祷寺院に位置づけられていきます。
千手観音(根香寺)
根香寺では、髙松藩によって命じられた五大尊護摩法が年に3回行われたほかにも、33年に1度、本尊千手観音が開帳されます。こうして根香寺は松平藩の保護を受けながら、庶民の信仰も集めるようになります。これは頼重が金毘羅大権現を保護し、境内整備を重ねて、庶民を引き寄せ、庶民化していくのと同じやり方です。
承応2年に澄禅が記した『四国遍路日記』には、長尾寺を参詣した際の記事として次のように記します。
「当国二七観音トテ諸人崇敬ス、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺。根香寺。志度寺、当寺ヲ加エテ七ケ所ナリ」
ここからは、根香寺が高松周辺の七観音の一つとして庶民にも崇敬されていたことが分かります。このように高松藩主をはじめ、庶民の信仰を集めた根香寺でしたが、享保3年(1718)に罹災し、護摩堂・客殿・玄関・眠蔵・庫裏を焼失します。
その際に縁起や山図なども失ったと云います。その後の根香寺では、堂宇再建が大きな課題となります。焼失から約20年後の元文2年(1737)の正月18日から9月17日まで、住持俊海は高松の蓮花寺で本尊千手観音の出開帳を実施しています。これは復興資金の調達を目的としたものと考えられます。その時のことが次のように記します。
「当寺観音堂護摩堂其外及大破難捨置御座候、然共自カニ而者修覆茂難仕候」
意訳変換しておくと
「当寺の観音堂や護摩堂など其外の堂宇も大破しているが、捨置れたままである。しかし、自カで修復することは困難である
ここからは大火から20年経っても復興途上にあったことが分かります。根香寺復興は順調には進まなかったようです。
当時の住持俊海は、寺の縁起『根香寺略縁起』も著しています。その時期はよく分かりません。が、俊海の住職期間は享保17年~寛保元年(1741)ですので、この期間のことと思われます。おそらく享保3年の火災で縁起が失われたので、新たな縁起作成をおこなったと研究者は推測します。
髙松での出開帳から3年後の元文5年は、智証大師850回忌に当たります。この年には、智証大師の誕生地である金倉寺でも法会が行われ、根香寺も参加しています。同年に実施された智証大師像の修復も、智証大師850回忌の関連行事として行われたことが考えられます。さらに云えば先の出開帳や縁起作成なども、この回忌にあわせて住持俊海が取り組んでいた一連の記念行事だった可能性を研究者は指摘します。
俊海から代替わりした住持受潤は、延享3年(1746)に、新たな縁起作成と寺内整備に着手します。
こうして出来上がるのが同年5月に完成した『青峰山根香寺記』です。この縁起は、円珍と地主神の市瀬明神が出会って、根香寺が草創されたというストーリー性をもった縁起で、それまでの『根香寺略縁起』とはひと味違うものに仕上がっています。復興資金の勧進活動のためには、人々の関心をひく物語性のある縁起が求められていたのかも知れません。このあたりは善通寺本堂の勧進活動に見習ったようにも思えます。
こうして出来上がるのが同年5月に完成した『青峰山根香寺記』です。この縁起は、円珍と地主神の市瀬明神が出会って、根香寺が草創されたというストーリー性をもった縁起で、それまでの『根香寺略縁起』とはひと味違うものに仕上がっています。復興資金の勧進活動のためには、人々の関心をひく物語性のある縁起が求められていたのかも知れません。このあたりは善通寺本堂の勧進活動に見習ったようにも思えます。
青峰山根香寺記を絵図化した根香寺古図
一方、同年8月には五代藩主松平頼恭と住持受潤のもとで、鎮守社(「山王新羅護法三所」)が建造されます。
寛延4年(1751)には、大政所を願主として二王尊像がつくられますが、この費用は郡中からの寄附25両、先住の良遍と笠居村小政所からの寄附10両でまかなわれています。根香寺が地域の有力者の支援を受ける寺に成長していたことが分かります。これは、以前に見た弥谷寺でも同じことでした。多度津藩の祈祷所となることで、弥谷寺は地域の大庄屋や庄屋、村役人などのイヴェント集会所となり、彼らの支援を受けるようになり、いつしか菩提寺的な役割を引き受けるようになります。そして、祖先供養の墓標を弥谷寺に建てるようになります。それは、地域の有力者が弥谷寺の保護・支援者となるプロセスでもありました。地域有力者の支援を受けるようになるための前提には、藩のお墨付きが必要だったようです。
根香寺境内緒堂変遷表
宝暦4年(1754)には五大尊堂と智証大師堂が再建され、千手観音堂の修復も行われています。
五大尊堂の明王たち(根香寺)
諸堂の修飾は頼恭が領内の人別銭によってつくらせたと云います。このように頼恭の保護のもとで寺内整備が大きな進展をみせたようです。その後は、同8年に、住持玄詮のもとで本尊千手観音宝前の「石雁」が造営されます。「石雁」が何をさすのか分からないようですが、大型の石造構造物と推測され、この造営はかなりの大規模事業で、郡内の多くの人々の協力があったようです。こうして、根香寺は地域の人々の寺として、人々の流す汗で整備が行われていくようになります。
以後のイヴェントや行事を見ておくことにします。
明和4年(1767)2月1日から4月28日まで、30年毎の本尊千手観音の開帳が行われます。この時には、領分へ仏飩袋を配り、それによって得られた寄銀で建物・屋根等の修復も行われています。寛政8年(1796)には、住持玄章のもとで、五大尊堂・智証大師堂の修復が行われます。諸堂の修飾については、松平頼起が領内の人別銭で造らせたと伝えられます。頼起は同4年に没しているので、生前に諸堂の修復が命じられていたことになります。
近代の根香寺
江戸時代に興隆した讃岐寺院の多くは、明治初年の廃仏毀釈の動きの中で寺領没収など経済的な打撃をうけることになります。特に白峰寺の被害は大きかったことは以前にお話ししました。根香寺も、その例にもれなかったようですが、史料的にはまだよく分からないようです。
近代根香寺の興隆に努めた人物として『下笠居村史』に紹介されているのが青峯良覚です。
良覚は明治33年に薬師寺から転住し、昭和19年に総本山塔頭光浄院へ転住するまで約40年近く根香寺住職をつとめています。その間の業績は以下の通りです。
大正14年(1925)に、当山中興開山にあたる龍海の200回忌を記念して水かけ地蔵を安置
昭和6年(1931)に「当山開基一千百年」を記念して役行者立像を安置
昭和19年(1944)に総本山園城寺執事長兼会計部長、
昭和23年に園城寺宗管長を歴任
昭和29年に帰住
『下笠居村史』によれば、戦後の農地改革や国営開墾などがあった混乱期に根香寺復興に努力したのもこの良覚であったといいます。彼を中心として近代の根香寺は維持されたと評価しています。
戦後の根香寺において、研究者が注目するのが本尊千手観音像と、安置場所である本堂をめぐる動きです。
昭和30年(1955)に、本尊千手観音像が重要文化財に指定されます。加えて昭和41年からは本堂の解体修理が行われ、4年後の45年に改修を終えます。この本堂の改修は、本尊千手観音像の30年毎の開帳にあわせたもので、一段上の敷地を造成して回廊を巡らせ、その敷地中央上部に本堂を移築するという大規模なものになりました。それが現在の伽藍配置につながることになります。また大師堂の改修も行われ、同じく昭和45年に本堂とともに改修を終えます。本堂安置の本尊千手観音像の開帳は、平成15年(2003)に実施されています。
戦後の根香寺において、研究者が注目するのが本尊千手観音像と、安置場所である本堂をめぐる動きです。
昭和30年(1955)に、本尊千手観音像が重要文化財に指定されます。加えて昭和41年からは本堂の解体修理が行われ、4年後の45年に改修を終えます。この本堂の改修は、本尊千手観音像の30年毎の開帳にあわせたもので、一段上の敷地を造成して回廊を巡らせ、その敷地中央上部に本堂を移築するという大規模なものになりました。それが現在の伽藍配置につながることになります。また大師堂の改修も行われ、同じく昭和45年に本堂とともに改修を終えます。本堂安置の本尊千手観音像の開帳は、平成15年(2003)に実施されています。
最後に根香寺と遍路の関係について見ておきましょう。
根香寺に遍路関係資料が出てくるのは、江戸時代中期になってからのようです。宝暦12年(1762)9月の棟札があり、ここには常接待堂と茶料田4反余が寄付されたことが記されています。勧進者は根香寺住持玄詮、施主は香西村の吉田屋嘉平衛です。天保4年(1833)の『青峰山根香寺由緒等書上控』には「茶接待所」と記されています。弘化4年(1847)の『金毘羅参詣名所図会』には、「茶堂(石階の半途にあり)」と記されます。ここからは宝暦12年以来、継続して根香寺の接待堂で遍路接待が行われていたことがうかがえます。
金毘羅参詣名所図会の根香寺 仁王門前に茶屋・境内中程に茶堂
19世紀になると大坂からの金毘羅詣客が急増します。
金毘羅信仰の隆盛を背景に、金比羅金光院は境内整備を進めます。それが西日本一の大建築物「金堂(現旭社)」の建立です。計画から約30年間の工事期間を経て、19世紀半ばに金堂は姿を見せ始めます。金堂整備と同時に進められたのが石段や玉垣・石畳の整備です。これらは周辺の参拝客の寄進で行われます。このやり方は周辺寺院でも取り入れられていきます。
19世紀になると大坂からの金毘羅詣客が急増します。
金毘羅信仰の隆盛を背景に、金比羅金光院は境内整備を進めます。それが西日本一の大建築物「金堂(現旭社)」の建立です。計画から約30年間の工事期間を経て、19世紀半ばに金堂は姿を見せ始めます。金堂整備と同時に進められたのが石段や玉垣・石畳の整備です。これらは周辺の参拝客の寄進で行われます。このやり方は周辺寺院でも取り入れられていきます。
文政13年(1830)につくられた根香寺の玉垣にも、寄進した多くの人々の名が刻まれています。
その中には、根香寺周辺地域の人々はもとより、志度・小豆島・倉敷・大坂などの海を越えた遠方の支援によって玉垣が造立されたことが分かります。研究者が注目するのは、この玉垣の造立に次のような接待講も参加していることです。
「香西釣西本町摂待講中」「木沢村摂待講中」「生島摂待講中」
これらの遍路接待を行う講集団が先頭に立って玉垣を造立したようです。香西、木沢、生島は根香寺周辺の村です。それぞれの地域において講を組織した人々が、根香寺のために遍路接待に奉仕していたことが分かります。
根香寺への遍路道
第81番札所白峯寺から第82番札所根香寺までの遍路道は、今でもその雰囲気が良く残っています。しかし、江戸時代には遍路を悩ませる難所として知られていたようです。『金毘羅参詣名所図会』には、次のように記します。
「白峯寺と根香寺をつなく道は、50余町にわたって山道で、南に位置する新居村を除けば他に人家がなく、足弱の遍路はここに悩むことが少なくない」
実際に、根香寺の墓地には遍路墓もあって、行き倒れた遍路者も少なくなかったようです。そこで天保9年、この区間の間に笠居村香西郷などの「信心同士の輩」が吉水茶堂や草屋を建てて往き暮れた者を泊めたと云います。これも根香寺の遍路への接待のひとつでしょう。
『青峰山根香寺由緒等書上控』には「休所」の記載があります。
この「休所」は参詣人や遍路を対象として申方向・丑方向・亥方向にそれぞれあったもので、次のように記します。
「右ハ山上之義殊人家遠ニ而参詣人井四国辺路等休息所無之、大二難渋仕候間、前々ヨリ有来申候所及破壊二、当時取除置御座候
かつては参詣人や遍路のためにあったようですが、天保4年以前に壊れて取り除かれたようです。
この他には、根香寺境内に天保9年の接待講碑があります。
「永代寒中摂待」とあるので、高松や香西の講員が永代にわたって冬期に接待をおこなうことを宣言したものです。供養導師は西光寺の法印良諦で、香西に所在する真言宗寺院の西光寺が関わっています。先に見た吉水茶堂の完成と同じ年にあたるので、この時期には香西の人々がさかんに接待の活動をおこなっていたことがうかがえます。
以上をまとめておくと
①根香寺創建については、「空海創建=円珍(智証大師)中興」説と「円珍単独創建説」にふたつがある。
②根来寺は五色台という行場に形成された山林寺院のひとつであり、白峰寺や国分寺と「中辺路」ルートで結ばれていた。
③そこには熊野行者や高野聖、時衆念仏聖など廻国の修験者たちが滞在し、活動の拠点となっていた。
④そのため宗教的には熊野信仰 + 浄土=阿弥陀信仰 + 時衆念仏信仰 + 弘法大師信仰などが混じり合う混沌とした世界を形成していた。
⑤中世末から近世初頭にかけては、高野聖たちによって高野山信仰や弘法大師信仰が強くなり、根香寺は真言化を強めた。
⑥それに対して髙松藩初代藩所の松平頼重は、政策的な理由から根香寺を真言宗から天台宗に改宗させ、保護化した。
⑦天台改宗後に作られた縁起には「円珍単独創建説」が強く打ち出されるようになった。
⑧髙松藩の祈祷寺として整備され、保護を受けるようになった根香寺は、地域の有力視の支持を受けるようになり、庶民の支持も集めるようになった。
⑨四国遍路が活発化する江戸後半期になると、周辺の民衆は根香寺のサポーターとして遍路接待を活発に行うようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「上野進 根香寺の歴史 根香寺調査報告書2012年 香川県教育委員会発行」
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