暁鐘成(あかつきかねなる)の「金毘羅参詣名所図会」弘化4(1847)
以前に幕末の「讃岐国名勝図会」(嘉永7年(1854))の出版までの経緯をみました。今回は、それよりも少し早く刊行された「金毘羅参詣名所図会」を見ていくことにします。 テキストは「谷崎友紀 近世讃岐の名所と金毘羅参詣に関する基礎的な研究 ~『金毘羅参詣名所図会』を題材に~ せとうち観光専門職短期大学紀要」です。
『金毘羅参詣名所図会』の出版は、弘化4(1847)年です。
作者の暁鐘成は、幕末の大坂の出版界では最も人気のある戯作者で、浮世絵絵師でもあったようです。その出版分野は、啓蒙書、名所図会、洒落本、読本、有職故実、随筆、狂歌など広範囲で、博覧強記ぶりが知られます。彼が40歳という脂ののりきった時に、取り組んだのが「金毘羅参詣名所図会」ということになります。これは、今では香川県立図書館のデジタルライブラリーで見ることが出来ます。その序文には、次のように記します。
今年後の皐月のはじめなりけん、たまもよし狭貫なる象頭山にまうで、みな月の末までかの国わたりにあそび、名くはしき海山けしきあるところどころ、あるは神廟・仏室のたぐひ、あるは宮闕のあと、古戦場など、人のまうでとはんかぎり、玉鉾の道をつくし、夏草のつゆもらさず、その真景を画にうつさせ、かつ古歌・旧記および土人の口碑も正しきは摘みとり、すべてことのさまつばらにかきのせ六巻となし、金毘羅参詣名所図会と号く。(中略)
弘化三とせの長月 植松修理権太夫源雅恭朝臣 雅恭しるす
意訳変換しておくと
今年の5月始めに、讃岐の象頭山金毘羅山に詣で、6月末まで讃岐国中を巡った。名所と云われる海山や神廟・仏室の類い、あるいは古戦場などまで、人の行きそうな所のかぎりまで、夏草の梅雨まで、その景色を絵に写させた。また、古歌・旧記や現地の碑文なども正しく読取り、すべてのことを子細に載せて六巻にまとめ、金毘羅参詣名所図会と名付けた。(中略)
弘化三年長月 植松修理権太夫源雅恭朝臣 雅恭しるす
ここからは、次のようなことが分かります。
①暁鐘成は弘化3(1846)年の閏5 月から6 月末までの2ヶ月間、画家の浦川公佐を連れて讃岐国を訪れて現地調査をおこなったこと。
②名のある海や山などの景勝地、神社仏閣、宮城跡、古戦場を名所として取材した。
③古歌や古典籍類の記述や、土地の人の話・伝承なども正しいものは記載した
現地調査を行った旧暦6月は、現在の7月にあたり、猛暑に苦しめながらの取材旅行だったようです。現地踏査と絵師の絵をまとめて、出版に漕ぎつけたのが翌年の春になります。その第一巻冒頭に、次のように記します。
①「円亀の津に渡るハ多くハ詣人浪華より船にて下向なすにより先船中より眺望の名所を粗出せり」②「摂播の海辺ハ先板に詳なれバ、是を省き備前の海浜より著すなり」
意訳変換しておくと
①「丸亀港に渡る参詣人の多くは、浪華から船で向かう者が多いため、まずは船中からの眺望の名所を載せた」②「摂津・播磨の海辺については既に出版されたものに詳しく記されているので、この図会では備前の海辺から著すこととした」
「浪華川口出帆之図」(金毘羅参詣名所図会)
こうして、1巻冒頭には「浪華川口出帆之図」、つまり大坂の河口を発した船出図からスタートします。そして、その次は備前国の歌枕である「虫明の迫門」に一気に飛びます。それを目次で見ておきましょう。金毘羅参詣名所図会第1巻目次
目次の「各名勝」を、谷崎友紀氏が地図上に落とした分布地図です。
赤点が1巻に出てくる名所分布位置です。大坂にひとつぽつんと離れてあるのが先ほど見た「浪華川口出帆之図」になります。そして、次が「虫明の瀬戸」です。そのほとんどが備前沿岸部か島々になります。そして、船からみた湊や島の様子が描かれていて、船上からの移り替わるシークエンスを追体験できるように構成されています。これまでにない試みです。
虫明の瀬戸 金毘羅参詣名所図会
2巻 橙色 丸亀 → 金毘羅 → 善通寺3巻 黄色 善通寺→ 弥谷寺 → 観音寺4巻 黄緑 仁尾 → 多度津 → 丸亀 → 宇多津5巻 緑 坂出 → 白峰 → 高松6巻 青 屋島
2巻の名所は橙色で、丸亀湊から金毘羅大権現を経て善通寺までです。
丸亀港(金毘羅参詣名所図会)
冒頭は、丸亀湊への着船から始まります。備讃瀬戸上空から俯瞰した構図で、金毘羅船が丸亀港に入港する様子や、その奥にある町と城の様子が描かれています。そのあとは、上陸した参拝客がたどる金毘羅街道沿いの名所が取り上げられています。そして、目的地となる金毘羅大権現と境内の建物が取り上げられます。ここからは以前にお話ししましたので省略します。 3巻は、分布地図では黄色で、善通寺近くの西行庵から始まります。それから西に向かい弥谷寺、三豊の琴弾八幡宮や観音寺のほかに、伊吹島、大島といった讃岐国西部の島々が取り上げらます。
4巻は黄緑で、讃岐の三豊の仁尾の浦(三豊市)から始まります。
仁尾の浦(金毘羅参詣名所図会)
ここでは、島々のほかに海中にみえる特徴的な奇巌なども取り上げられています。それから海岸沿いに東へ向い、海岸寺、多度津、宇多津などが紹介されます。さらに、飯野山を経て、崇徳天皇の過ごした雲井御所の旧跡(坂出市)までが記載されています。 5巻が緑で冒頭が、綾川です。
白峯寺や崇徳天皇陵の記載がみられる。さらに東へ向かい、札所である国分寺・根来寺などを経て、鷲田の古城(高松市東ハゼ町)までが取り上げられています。
白峯寺や崇徳天皇陵の記載がみられる。さらに東へ向かい、札所である国分寺・根来寺などを経て、鷲田の古城(高松市東ハゼ町)までが取り上げられています。
最終6巻は青で、石清尾八幡宮から始まり、高松城、屋島が取り上げられます。
石清尾八幡宮(金毘羅参詣名所図会第6巻)
屋島では、源平合戦にまつわる旧跡が紙面の多くを占めています。この巻は、平家一門が逗留したとされる六萬寺(高松市牟礼町)で終わっています。屋島山南麓(金毘羅参詣名所図会)
『金毘羅参詣名所図会』に取り上げられた名所の地理的範囲を、整理しておきます。
①「金毘羅参詣名所図会」という書名ではあるが、金毘羅大権現以外の名所も取り上げている
②瀬戸内海沿岸の名所を中心に記載している
③金毘羅・善通寺以外では、内陸部の名所は取り上げていない
④屋島から東部は取り上げられていない
⑤四国霊場札所がよく取り上げられている
①については、丸亀に上陸した金毘羅参詣客は、金毘羅山だけでなく善通寺・弥谷寺・海岸寺・道隆寺という「七ケ寺参り」を行っていたことを以前にお話ししました。十返舎一九の弥次さん・喜多さんもそうでした。ついでに何でも見てやろうという精神が強かったようです。そのため観音寺や仁尾などの海沿いの名勝地も含めたのかもしれません。
④については、『名所図会』の作成段階では、続編を作るつもりだったようです。冒頭に次のように記しています。
「其境地を妄失して朧気なるハ、図を出さず。且炎暑の苦熱に労れて碑文など写し得ざるあり。則ち雲井の御所の碑、太夫黒の碑、花立碑、宝蔵一覧の記、霊験石の類ひなり。是等ハ再回彼土に渡海し、委く写して拾遺の編に詳かにすべし」
意訳変換しておくと
「各名所を訪ねたが記憶が曖昧なところ、炎暑のために碑文などが写せなかった所がある。それは、雲井の御所の碑、太夫黒の碑、花立碑、宝蔵一覧の記、霊験石などである。これらについては、再度訪問し、写して拾遺編(続編)で詳細にするつもりである」
しかし、続編が出版されることはありませんでした。
各名所には、どこが選ばれているのでしょうか、また。その「選考基準」は何なのでしょうか? 谷崎友紀氏は、次のような表を作成しています。
B その次に多い④「旧跡 90ヶ所」には、源平合戦の古戦場などが含まれる。
上位3つは③②④が圧倒的に多いことをここでは押さえておきます。『金毘羅参詣名所図会』に取り上げられた名所は、寺社と旧跡が中心だと研究者は判断します。
下表は研究者が、構図を近景から超遠景の4 つに分類したうえで、名所の属性別に集計をしたものです。
ここからは次のようなことが分かります。
①伝承と寺社が突出して多いこと②3番目に多いのが和歌関係、4番目が旧跡③構図をみてみると、最も図絵の多い伝承は近景・中景の構図で描かれている④寺社は、すべて遠景で描かれている。
④の寺社を遠景で描くのは、『都名所図会』で秋里籬島が最初に用いた手法と研究者は指摘します。鳥瞰図のように俯瞰的な視点で描くことで、堂塔塔頭を含む寺社を1枚の絵におさめることができるようになりました。
伝承は、旧跡にまつわる過去の様子を想像で描いたものです。
例えば、丸亀の光明庵で法然が井戸を掘ったという伝承や、屋島合戦で那須与一が扇を射る様子がこれに当たります。鐘成自身が取材に訪れて目にした名所の様子ではなく、伝承上の場面を近い視点から描いています。
『金毘羅参詣名所図会』を見ると、海辺の風景が多いのに気づきます。
海上からの風景は1巻、陸上からの風景は 3・4 巻に多く載せられています。大坂から丸亀へ向かう1巻では、実際に船上からみた風景が描かれています。
また西讃(現在の観音寺市・三豊市)の名所を取り上げた3・4巻では、海岸からみた風景が描かれています。
このような図絵の上部には和歌が添えられています。
名所として描かれた風景に和歌を付けるのは、『都名所図会』からの伝統のようです。しかし、金毘羅参詣名所図会の風景は、自然景と人文景・生活景が入り混じった風景で、少し色合いが異なるようです。
下津井 金毘羅参詣名所図会第1巻
また西讃(現在の観音寺市・三豊市)の名所を取り上げた3・4巻では、海岸からみた風景が描かれています。
鯛網(金毘羅参詣名所図会)
とくに海上からの風景には、海や山といった自然景のほかに、湊の様子、家々が建ち並ぶさま、停泊・航行している船、塩浜で塩をつくっている人々の生活といった人文景・生活景が描かれています。このような図絵の上部には和歌が添えられています。
善通寺五岳 筆の山(金毘羅参詣名所図会)
名所として描かれた風景に和歌を付けるのは、『都名所図会』からの伝統のようです。しかし、金毘羅参詣名所図会の風景は、自然景と人文景・生活景が入り混じった風景で、少し色合いが異なるようです。
以上見てきたように描かれた対象は,伝承と寺社が多く,信仰的な要素が強いようです。しかし、「新しい風景の見方の萌芽」が見られると研究者は指摘します。歌枕と旧跡をもとめて旅をしていた旅人たちは,伝統的な風景観から脱却し,自然の景観を美しい風景としてもとめるようになります。
「下津井ノ浦ノ後山扇峠より南海眺望之図」(金毘羅参詣名所図会)
鷲羽山の扇の峠からみたもので、「近代的な風景観の萌芽」とも云えます。ほかにも,海上から湊を望む図絵には,停泊する船や建ち並ぶ家々といった人文景と,塩浜の製塩業や漁業の様子といった生活
景が描かれており,ここでも和歌に表象された風景ではなく,実際の風景が名所として描かれていた。
以上を整理しておくと
①「金毘羅参詣名所図会」は、弘化4(1847)年に、大坂の暁鐘成によって出版された
②彼は、出版のために絵師を伴い約2ヶ月間、讃岐を現地調査した。
③備前からはじまり 丸亀 → 琴平 善通寺 → 観音寺 → 庄内半島 → 多度津 → 丸亀 → 坂出 → 高松 → 屋島の順に、讃岐の名所をセレクトして6巻の絵図とした
④しかし、屋島以東や内陸部は取材対象とはならず、名勝も描かれいない
⑤名勝に選ばれたのは、「神社仏閣・堂塔伽藍・旧跡」が多い。
⑥しかし、美しい自然の景観や、シークエンスを描くなど、伝統的な名所旧跡紹介から抜け出そうとするものもある。
讃岐国名勝図会は、金毘羅参詣名所図会が取り上げられなかった屋島以東の名勝からスタートします。そして、西讃の名所については出版されることはありませんでした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「谷崎友紀 近世讃岐の名所と金毘羅参詣に関する基礎的な研究 ~『金毘羅参詣名所図会』を題材に~ せとうち観光専門職短期大学紀要
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