瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:有岡大池


前回は鎌倉時代初期の承元三年(1209)8月に、左大臣で讃岐国守でもある藤原公継(徳大寺公継)が善通寺に、生野郷内の「重光名見作田六町」を善通寺御影堂に納めよという指示を讃岐留守所に出していることをみました。この名田からの収入は、御影堂のためだけに使用せよとの命で、善通寺にとって数少ない自前の収入源になります。これが生野修理免のはじまりです。 それから40年後の宝治3年(1249)2月のことです。
九条道家
九条道家
善通寺にとって大きな意味を持つ寄進が、九条道家によっておこなわれます。
九条道家は4代鎌倉将軍藤原頼経の父親にあたり、当時の朝廷の最大実力者でもあったようです。まずは道家が何者であったのかを彼の事績を年表化して見ておきましょう。

九条道家系図

   九条道家は、第4代将軍藤原頼経の実父です。
1219年 3代将軍・源実朝が暗殺。次期将軍に道家の三男・三寅(当時2歳・後の藤原頼経)
1221年 承久の乱で朝廷方敗北。道家も摂政罷免される。
1225年 北条政子死去。道家の子・頼経が正式に征夷大将軍に任命。
承久の乱後の朝廷では、幕府との関係が深かった岳父の西園寺公経が最大実力者として君臨。
1228年 岳父西園寺公経の信任を受けて関白就任。
1229年 道長の長女(藻璧門院)を後堀河天皇の入内させ、秀仁親王(後の四条天皇)出産。
1232年 後堀河天皇が即位し、道家は外祖父として実権を完全掌握。長男の教実は摂政となっり、九条家は朝廷の最大有力家として君臨
1238年 鎌倉の頼経が上洛して約20年ぶりに父子再会。慈源がわずか20歳で天台座主就任。道家は叔父の大僧正良快を戒師として出家。法名は行恵。「禅閤」として権勢を誇る。
  こうしてみると、九条道家は岳父の西園寺公経のポストを引き継いだ最重要人物であることが分かります。同時に、讃岐国守も引き就いています。そして、岳父の西園寺公経は、弘法大師御影信仰を持ち、善通寺に生野修理免を寄進した人物だったのです。これも引き継いだようです。
 九条道家は、権勢が絶頂にあった宝治3年(1249)2月、讃岐留守所に次のような庁宣は発しています。
庁宣は、次の2つの内容からなります。その第一の部分を意訳で見ておきましょう。
寺領の近辺を憚らず猟をするものが多いので、しばしば猪や鹿が追われて寺の霊場内に逃げこみ、そこで命を落すことがある。浄界に血を流すことは罪業の至りであり、まして寺の近くでの殺生は法によってもとどめられていることである。よって生野郷西畔を、普通寺領に準じ、四至を定めてその内での殺生を禁止する。

 四至とは東西南北四方の境界のことで、殺生禁断が定められた境界は、次の通りです。
東は善通寺南大門の作道を限り、
西は多度三野両郡の境の頸峰の水落を限り、
南は大麻山峰の生野郷領分を限り、
北は善通寺領五岳山南舵の大道(南海道?)を限る
これを地図で示してみる以下のようになります。
善通寺生野修理免2
善通寺生野郷修理免

もちろんこの地域が普通寺の所領になったわけではありませんが、「殺生禁断」エリアという形で寺の支配力を拡げていくための重要アイテムになります。
国司庁宣の2番目の内容は次のようなものです。

善通寺は大師降誕の霊場であるにもかかわらず、年を経て荒れている。そのため殺生禁断を定めた境界内の公田(国所有田)のうち12町を寺の修造料にあてることにする。
 ただし、この地域には、他人に与えられた給田、除田(租税免除の田)などがあるから、それを寺領に混入してはならない。また施人された一二町以外の郷田に対して寺が手を出してはいけない。 一方修理料にあてられた田地に対しては、国衙も本寺も妨げをしてはならず、「只当寺進退と為て、其沙汰致さしむべし」。
 
 ここからは善通寺伽藍修繕のために、生野郷の国衙領12町を善通寺の管理・支配にまかせるとあります。庁宣によると、この寄進は「禅定太閤=出家後の九条道家」の意向であることが分かります。
こうして善通寺は、九条道長によって、生野郷に次の二つの権益を確保することができました。
①国衛領である生野郷内で新しく12町の田地を寺領とすることができたこと。
②生野郷西部に殺生禁断エリアを認められ、寺の支配を拡げていく基盤を獲得したこと。
善通寺寺領 鎌倉時代
善通寺領

しかし、生野修理免は大きな問題を抱えていました。下文には次のように記されています。
但し、①地頭土居給并に②御厩名等は、寺家之を相綺うべからず。

①「地頭土居」というのは、堀内とも呼ばれる地頭の屋敷地です。「土居給」は、その屋敷地に附属して課役が免除された田地で、一般には地頭の支配がもっとも強く及んでいるとされます。ここからは、生野修理免には地頭の屋敷や直営地があったことが分かります。これが善通寺の紛争の相手となります。
 また②「御厩名」は、国衛留守所の役所の一つである御厩の役人の給名田です。これも地頭が兼帯していたようです。このような武士の所領が寺領エリアの中にあったことになります。それに対して「寺家相綺うべからず」と、寺が干渉してはならない治外法権の地とされたのです。
 彼らは国衙領の有力武士であって、寺の支配下にはありません。さらに、地域の豪族として寺領化以前から土地や農民に根強い勢力をもっていたはずです。それまで生野郷を事実上の領地としてきた郷司・地頭にとっては、今回の寄進は、結果的には自分の支配エリアを善通寺に削られたことになります。そのため善通寺に対して、いろいろな示威行為を繰り返したようです。
 これに対して善通寺が頼みにできるのは、寺の領知権を認めた国衛のいわば「お墨付」だけなのです。
しかし、国衛の実質的な支配者は、郷司らの仲間の留守所役人=在庁官人です。具体的には綾氏につながる讃岐藤原氏が大きな力を持ち、生野郷の地頭もその一員だったかもしれません。これでは国衙の保証もあてにはできません。
正嘉2年(1257)12月、後嵯峨上皇院宣
正嘉2年(1257)12月、後嵯峨上皇院宣
 例えば善通寺側では、正嘉2年(1257)12月、後嵯峨上皇に願って「生野郷免田相違あるべからず」という次のような国司あての院宣をだしてもらっています。
当國善通寺申す生野郷免田事、代々の國司庁宣に任せ、向後相違有るべからずの由、早く下知せらるべし者、院御気色此の如し、乃執達件の如し
十二月廿四日                                     宮内卿
讃岐守殿
しかし、この院宣もあまり効果はなかったようで、その後も郷司の侵害は続きます。
弘長三年(1263)年12月になって、国司の調停で、寺と郷司との間で「和与(わよ)」で相方の譲り合いによる和解が成立します。
和与条件をとりきめた留守所下文には次のように記されています。
「且は郷司和与状に任せ、 向後の違乱を停止すべき、 生野郷内善通寺免田山林荒野開資寺領の事」
「宝治二年施人の際の四至を示し、四至の内側になる南大門作道通の西側では、寺領免田はもとより、さきに寺領の内に混じてはならないとされていた他人の給田である社免人土居田等まで「寺家一向進退すべし」として寺の支配下に入れること、
意訳変換しておくと
四至の外側にあたる作道以東に存在する寺の免田(承元二年に施入された田地?)は、四至内の公田ととりかえ(相博)て寺領にまとめること。

このとりきめは結果として、善通寺側に、多くのものをもたらします。その上に以下のようにもあります。
「自今以後、此旨を存し、國使人部丼びに本寺の妨を停止」

ここからは、租税の徴収などのため国の役人が寺領内に入ることや、本寺随心院の干渉をやめさせることが定められたことが分かります。いわゆる不輸不入権を手に入れています。これは寺領発展の大きな武器になります。
生野修理免についての今までの流れを年表化しておきましょう。
①承元3年(1209)8月 生野郷内重光名見作田6町を善通寺郷影堂に寄進
②宝治3年(1249)3月 生野郷西半を善通寺領に準じ殺生禁断として12町を修造料に
③弘長3年(1263)12月 郷司との和与で生野郷西半を「寺家一向進退」の不入の地に
④有岡大池の完成 一円保絵図の作成
⑤徳治2年(1307)11月 当時百姓等、一円保差図を随心院に列参し提出
上の資料を見ると、善通寺の生野郷での免田面積は、①で6町、②の宝治3年に12町になり、40年間で倍になっています。この階段では一円保の水利は「生野郷内おきどの井かきのまた(二つの湧水)」に全面的に頼っていたいたと記されています。13世紀前半には、有岡大池はまだ築造されていなかったようです。
DSC01108
有岡大池と大麻山

 有岡大池の築造時期を、もう少し詳しく紋りこんでおきましょう。
②で免田が、6町から12町に倍増したとはいえ、善通寺が生野郷の一円的な支配権を得たわけではありません。有岡大池は、弘田川を塞き止め、谷間を提防で塞いだ巨大な谷池です。しかも、池自体は生野郷の西半に属しています。有岡大池着手のためには、生野郷での排他的な領域的支配権が確立されなければできません。それが可能になるのは、生野郷司と善通寺の間で和解が成立して、生野郷西半について善通寺の領域支配が確立する必要があります。それを、具体的には③の弘長3年12月以降と研究者は考えているようです。
 この池の築造には、何年かの工事期間が必要になります。それを加えると、有岡大池完成の時期は早くとも1270年前後になります。そして、古代の首長が眠る王墓山古墳や菊塚古墳の目の前に、当時としては見たこともない長く高い堤防を持ったため池が姿を現したのです。これは、善通寺にとっては、誇りとなるモニュメント的な意味も持っていたのでないでしょうか。
それが14世紀初頭に描かれた⑤の一円保絵図には、誇らしげに描き込まれています。
一円保絵図 有岡大池
一円保絵図に描かれた有岡大池

しかし、不輸不入権を得た生野修理免は、それ以後の文書の中には登場しません。史料がないことは、寺領が寺の手をはなれていったことだと研究者は推測します。善通寺の生野郷修理免の支配は、南北朝動乱のうちに周辺武士たちの押領や侵入で有名無実となっていったようです。
一円保絵図 東部
善通寺一円保絵図
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

一円保絵図 原図
一円保絵図
善通寺宝物館には、一円保絵図と云われる絵図があります。

一円保絵図 東部
一円保絵図トレス図

寺の伽藍と背後の五岳山、周辺に広がる寺領を描いた縦約80㎝横約160㎝の絵図です。もともとは善通寺の本寺であった京都山階の随心院に保管されていたようです。それが明治40年(1907)に善通寺に持ち帰えられ、現在では重要文化財に指定されています。絵図は小さくたたんで表紙がつけてあり、表紙をあけたところに、次のように記されています。

「徳治二年(1307)丁未十一月 日 当寺百姓烈参(列参)の時これを進(まい)らす」「一円保差図」

「差図(指図)」とは絵図面のことです。
この記入から、この絵図が鎌倉時代末期の徳治二年に善通寺寺領の農民たちが京都に上り、随心院に提出したものであることがわかります。この地図がどうしてつくられ、京都の本寺に保管されていたのでしょうか?この絵図を見ていくことにします。

善通寺一円保の位置
善通寺一円保の範囲

まずこの絵図に描かれている鎌倉時代末期の善通寺の伽藍をみてみましょう。

一円保絵図 中央部

 絵図は普通の地図とは異なって南が上になっていて、北から南を見る形になります。
右が西、左が東です。絵図の東より、やや南側(上側)に善通寺の伽藍が描かれています。ちなみに、絵図の方形は106㍍×106㍍で一坪にあたります。青く塗られているのは、川や用水路のようです。詳しく描かれています。制作意図と関係があるようです。
まずは善通寺の伽藍にズームインしてみましょう
善通寺一円保絵図
善通寺一円保絵図 

①境内は二町(212㍍)四方で塀に囲まれています。ここが多度郡条里の「三条七里17~20坪」の「本堂敷地」にあたる場所になります。
②東院境内の上方中央の長方形の図は(G)南大門で、傍に松の大樹が立っています。
③南大門を入ったところに点線で二つ四角が記されています。二つめの四角は(K)五重塔の基壇で、まん中の点は(J)塔の心礎のようです。五重塔は延久二年(1070)に大風のために倒れてから、そのあと再建されていないようです。
④中央にあるのは(A)金堂で、『南海流浪記』には
「二階だが裳階があるので四階の大伽藍にみえる」
とあります。この絵図では三階にみえます。

zentuji128一円保差図
善通寺一円保絵図 善通寺伽藍部分
一円保絵図 善通寺伽藍

⑤金堂の下にあるのは(E)講堂で、『流浪記』に破壊して後、「今新に造営された」と記されている建物です。
⑥絵図でみると、善通寺の伽藍配置は門・塔・金堂・講堂とならびますので四天王寺式の配置であったことが分かります。
⑦金堂の右下にみえるのは(F)常行堂で、塔と同じく延久の大風で倒壊しましたが、道範が訪れた時には新しく造営されていました。
⑧『流浪記』には、金堂の左下に描かれている二重の宝塔に、大師の御影が納められているとあります。その後御影を安置する(B)御影堂が建てられました。金堂の左に見える建物がそれです。⑨宝塔は、寛文の絵図では法花(華)堂となっています。
⑩講堂の左にあるのは(C)護摩堂、右にあるのは閻魔堂で、境内の右上隅に柴垣様のもので囲まれているのは(M)鎮守五社明神、その下に(L)鐘楼がみえます。

17 世紀の讃岐国善通寺における西院伽藍の変遷について4

⑪伽藍の右(西側)中央から直線の道がのびており、その先にあるのが(I)誕生所です。
⑫左右に囲む塀のある門を入ると三方に柴垣を廻らせた境内があり、中央に御堂が建っています。道範が鎮壇法を修して造営し、木彫の大師像が安置された御堂でしょう。左に小堂、右に石塔が二基描かれています。
⑬誕生院の裏の小山は八幡山で、山上には弘法大師の出身氏族である佐伯氏の祖先をまつる祖廟堂があり、遊園地が設けられて、家族連れのピクニックなどに最適の地でした。今は、削られて駐車場になっています。
⑭八幡山のうしろの山が香色山で、麓の安養院は善通寺の子院の一つです。
⑮香色山のうしろの山は筆ノ山、そのうしろの山は行道所のある我拝師山で、他の山々は略されているようです。
一円保絵図 有岡大池
善通寺一円保絵図
 次に善通寺の周囲の一円保寺領を見てみましょう。
 絵図に引かれている縦横の線は条里の区画です。これを前回に示した寺領条里図とくらべると、ほとんど一致します。ここからは12世紀に国司藤原経高によって善通寺の周辺に集められた一円化寺領が、そのまま一円保になったことがうかがえます。
3善通寺HPTIMAGE
善通寺一円寺領坪付図

 よく見ると善通寺周辺の寺領は詳しく描かれていて、境内の東側の地域(現赤門筋)には、特に家が多く描かれています。この辺りは現在でも市の中心地で、早くから住居地として発展していたようです。

善通寺一円保の位置

この地域と境内周辺の地名を見ると
「そうしゃう(僧正)」
「そうつ(僧都)」
「くないあしやり(宮内阿閣梨)」
「ししう(侍従)」
「あわのほけう(阿波法橋)」
などの僧名を思わせる注記が見えます。
一円保絵図 北東部

そこに住んでいる僧侶の房があったのではないかと研究者は考えているようです。善通寺には「安養院、玉泉院など四九の子院が寺領内にあった」と伝えられています。子院は有力な僧の住房から発展したものが多く、絵図の僧房の中にも、のちに子院になったところがあるかもしれません。

 「行政機関」を探してみましょう
絵図の左上のところに「田ところ」とあります。これは田所で、寺領の田地を管理する役人です。絵図の右下の曼荼羅寺の上には「そうついふくし(惣追捕使)のりよう所(領所)」という記載があります。惣追捕使も寺領役人で、領内の治安を担当します。
 公文とあれば、そこが年貢収納などに当る公文という役人がいたところで、寺領役人の中心地だったことが分かるのですが、この絵図では公文は見当たらないようです。
  絵図左下のまん中あたりに石塔が描かれています。
これは遊塚(ゆうづか)と呼ばれていました。空海が真魚と呼ばれた子供の頃よく遊んだところで、仙遊原と名付けられ、その古蹟を伝えるために建てられた塔です。伽藍の左上にみえる「くらのまち(倉の町)」は年貢類を納める倉のあったところ、左端の木が描かれている坪の下にある「とうし くらのまちりよう(当寺倉の町領)」は、倉の維持に必要な費用を出す領地のようです。


  絵図の左側下半分に、宗光、光貞、利友、重次など人名のような記載があります。
これは名田で、年貢・公事(雑税・労役)の割り付け単位になったようです。名田につけられた名前は名田からの年貢・公事の納入責任者で、名主といいます。名田が成立したころ(平安末、鎌倉初期)には、実際にその名の名主が年貢の納入責任を負い、名田の管理経営も行っていたようです。しかし、時代が経つにつれて名主の名前も変わり、田地も切り売りされたり、質入れされたりして所有者がばらばらになって、次第に名田の名前はただの地名のようになっていきます。
 それでも、旧名田からの租税は名主の家柄のものがとりまとめて納めていたようです。彼らは当時も、村落の中心的地位にいたようです。この絵図は周辺の荘園との水争の解決を本寺に求めて上京する際に作成されたものと研究者は考えています。絵図を持って上京し、随心院に列参したのも彼ら名主だったのかもしれません。
 絵図の同じ部分に寺家作と記されているところは寺の直属地です。といっても善通寺が下人などを使って直接経営しているのではないようです。寺領内の小農民(小百姓)に土地を貸し小作化していたようです。名田内の田畠も小百姓によって小作されていたところが多かったようです。
1087壱岐湧
「壱岐湧」

 善通寺周辺の田畠は2つの水源から流れ出る水によってうるおされています。
 一円保絵図 有岡大池

水源の一つは図の右上に①「ありを口(か)」と記されている池で、この周辺は「古代善通寺王国の王家の谷」でいくつもの前方後円墳がならぶ聖域です。大墓山古墳と菊塚古墳の間の谷を流れる弘田川の源流をせき止めた池が有岡大池です。この池が古くから造られていたことが分かります。ここから流れ出す②弘田川は、現在でも誕生所の裏を通って、多度津の白方で瀬戸内海に流れ出ています。

PIC00216
二頭出水
 もうひとつの水源は、絵図の左上(東)にみえる3つの出水(湧水)です。

一円保絵図 北東部

「をきとの」
とみえるのは、生野町木熊野神社の南側にある「壱岐湧」とよばれている出水です。その東は字がかすれていて読めませんが「柿俣の井」で、磨臼山の東麓にある出水のようです。3つ目は名前は記されていませんが、現在の②二頭出水だといわれます。絵図からは、水が用水路を通じて西に流され、条里制に沿って北側に分水されている様子がうかがえます。四国学院の図書館建設に伴う発掘調査からは、北流して旧練兵場方面に導水されていたことを推測させる弥生後期の用水路跡もでてきています。これらの湧水が弥生時代以来の善通寺周辺の水田の重要な水源であったことが分かります。古代善通寺の発展の原動力となった湧水群です。

DSC03975
 五岳の我拝師山
善通寺文書のなかに、善通寺の住僧たちの訴えを裁いた国司庁宣があります。
その第三条に、善通寺の寺領の用水は生野郷の「興殿と柿俣」の出水に頼っていて、もしこの出水からの用水が来なかったら寺領の田んぼは干上がってしまうという訴えがあります。ここからは、出水周辺の勢力からの供水妨害があったことがうかがえます。善通寺の管理権は、東の出水付近までは及んでいなかったようです。

一円保絵図 現地比定
善通寺一円保の範囲

3つの出水は寺領の外、国司支配下の公領生野郷にあります。有岡の大池も国衛の築造でしょう。

そうすると用水の確保は讃岐国司との交渉になります。善通寺だけの交渉では相手にしてもらえず、本寺の随心院にのり出してもらわなければなりません。善通寺寺領の百姓の上京は、その請願陳情のためだったのではないかと研究者は考えているようです。そう考えれば、絵図に両水源とそれからの用水の流れが丁寧に描かれている理由が見えてきます。絵図は、説明資料として作成されて京都に持参され、これに基づいて状況説明が京都の本寺に行われたのではないでしょうか。善通寺周辺が詳しく書かれているのに、曼荼羅寺周辺の寺領の描き方が簡単なのは、両水源からの水掛りに無関係だったからと考えれば、納得がいきます。
1善通寺
江戸時代の善通寺伽藍と五岳
 善通寺一円保絵図は、誰が書いたのか?
 この絵図は五岳山の山容のタッチとかラインに大和絵風の画法が見て取れます。これは素人の農民の絵ではありません。それでは誰が描いたのでしょうか。研究者は「絵図の作成には善通寺が関わっていた」と考えているようです。例えば、この京都陳情から6年後の正和二年(1313)に作られた豊中町本山寺の二天王像の彩色は善通寺の絵師正覚法橋が行っています。善通寺には、専属の絵師がいたのです。それだけの要員と組織があったことが分かります。

一円保絵図 現地比定拡大
善通寺一円保の比定図拡大

 また、一円保の領主である善通寺は、農民の実状がよくわかっていたはずです。絵図の作成ばかりではなく、農民らの上京にも協力したのではないでしょうか。鎌倉後期の一円保では、名主層を中心に、用水争論などで力を合わせる村落結合が形成される時期になります。善通寺は領主であると同時に、その「財源」となる村落を保護支援する役割を果たしていたようです。同時に農民たちの精神的拠りどころにもなっていたのかもしれません。

   こうして、11世紀後半からの末法の時代に入り、本寺の収奪と国衛からの圧迫で財政的な基盤を失い、伽藍等も壊れたままで放置されていた善通寺に、反転の機会が訪れます。それは一円保という形で寺の周辺に寺領が定着していくのと足並みを揃えるかのように始まります。
参考文献 鎌倉時代の善通寺 善通寺史所収


  2有岡古墳群2jpg

古代人には、次のような死生観があったと民俗学者たちは云います。

祖先神は天孫降臨で霊山に降り立ち、
死後はその霊山に帰り御霊となる

御霊となって霊山に帰る前の死霊は、霊山の麓の谷に漂うとかんがえたようです。また、稲作に必用な水は霊山から流れ出してきます。その源は祖先神が御霊となった水主神が守ってくれると信じていました。
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五岳の南側麓の有岡地区
 練兵場遺跡群から南西に伸びる香色山・筆ノ山・我拝師山の五岳と、その南の大麻山にはさまれた弘田川流域を「有岡」と呼んでいます。このエリアからは住居跡など生活の痕跡があまり出てきません。それに比べて、多くの古墳や祭祀遺跡が残されています。ここからは霊山に囲まれた有岡エリアは、古くから聖域視されていたことがうかがえます。古代善通寺王国の首長達にとって、自分が帰るべき霊山は大麻山と五岳だったようです。そして、ふたつの霊山に囲まれた有岡の谷は「善通寺王国の王家の谷」で聖域だったと、私は解釈しています。
1善通寺有岡古墳群地図
 善通寺王国の王家の谷に築かれた前方後円墳群
 有岡地区には弥生時代の船形石棺に続き、7世紀まで数多くの古墳が築かれ続けます。大麻山の頂上付近に天から降り立ったかのように現れた野田院古墳の後継者たちの前方後円墳は、以後は有岡の谷に下りてきます。そして、東から西に向かってほぼ直線上に造営されていきます。それを順番に並べると次のようになります。
①生野錐子塚古墳(消滅)
②磨臼山古墳
③鶴が峰二号墳(消滅)
④鶴が峰四号墳
⑤丸山古墳
⑥王墓山古墳
⑦菊塚古墳
地図で確認すると先行する古墳をリスペクトするように、ほぼ直線上に並んでいるので、「同一系譜上の首長墓群」と研究者は考えているようです。この中でも有岡の真ん中の丘の上に築かれた王墓山古墳は、整備も進んで一際目を引くスター的な存在です。

2王墓山古墳1
王墓山古墳
 王墓山古墳は、古くから古代の豪族の墓と地元では伝えられてきました。
そのため山全体が王(大)墓山と呼ばれていたようです。大きさは全長が46m、後円部の直径約28mと小型の前方後円墳です。大正時代には国によって現地調査が行われ、昭和8年に刊行された「史蹟名勝天然記念物調査報告」に国内を代表する古墳として紹介されています。
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王墓山古墳の横穴部 

この古墳の最初の発掘調査は、1972年度に実施されました。当時は、墳墓全体がミカン畑で、所有者が宅地造成を計画したために記録保存を目的として調査が実施されたようです。ところが開けてみてびっくり! その内容をまとめておくと
①構築は古墳時代後期(六世紀後半)
②全国的に前方後円墳が造られなくなる時期、つまり県下では最後の前方後円墳(現在では菊塚がより新しいと判明)
③埋葬石室は県下では最も古い形態の横穴式石室=前方後円墳の横穴式石室
④玄室内部からは九州式「石屋形」が発見。→九州色濃厚
2王墓山古墳2

「石屋形」というのは、当時の私は初めて耳にする用語でした。
これは石室内部を板石で仕切り、被葬者を安置するための構造物だそうです。熊本を中心に多く分布するようですが、四国では初めての発見でした。石室構造は九州から影響を受けたものです。ここに葬られた人物は、ヤマトと同じように九州熊本との関係が深かったことがうかがえます。埋葬された首長を考える上で、重要な資料となると研究者は考えているようです。
 王墓山古墳は盗掘を受けていたにもかかわらず、石室内部には数多くの副葬品が残されていました。その副葬品は、赤門筋の郷土博物館に展示されています。 
1王墓山古墳1

ここの展示品で目を引くのは「金銅製冠帽」です。
冠帽とは帽子型の冠で、朝鮮半島では権力の象徴ででした。冠帽を含め金銅製の冠は国内ではこれまでに30例程しか出ていません。ほぼ完全な形で出土したのは初めてだったようです。しかし、出土時には、その縁を揃えて平らに潰して再使用ができないような状態で副葬されていました。権力の象徴である冠は、その持ち主が亡くなると、伝世することなく使用できないようにして埋葬するというのが当時の流儀だったようです。
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善通寺郷土博物館
 王墓山古墳の副葬品で、研究者が注目するものがもうひとつあります。
それは、多数出土した鉄刀のうちのひとつに「銀の象嵌」を施した剣があったのです。象嵌とは刀身にタガネで溝を彫り金や銀の針金を埋め込んで様々な模様の装飾を施すものです。ここでは連弧輪状文と呼ばれる太陽のような模様が付けられていました。刀身に象嵌の装飾を持つ例は極めて少なく、これを手に入れる立場にこの被葬者はいたことがわかります。
 6世紀後半、中央では蘇我氏が台頭してくる時代に有岡の谷にニューモデルの横穴式前方後円墳を造り、中央の豪族に匹敵する豪華な副葬品を石室に納めることのできる人物とは、どんな人だったのでしょうか。
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 「この人物は、後に空海を世に送り出す佐伯氏の先祖だ」

と研究者の多くは考えているようです。
 大墓山古墳と奈良斑鳩の法隆寺のすぐ近くにある藤ノ木古墳の相似性を研究者は次のように指摘します。
 王墓山古墳と同じように六世紀後半の構築である藤ノ木古墳でも冠は潰されて出土していて、同じ葬送思想があったことがわかります。また、複数出土した鉄刀の1点に連弧輪状文の象嵌が確認されているほか、複数の副葬品と王墓山古墳の副葬品との間には多くの類似点があることが判明しています。そのため、王墓山古墳の被葬者と藤ノ木古墳の被葬者の間には、何かつながりがあったのではないかと考えられています。
ロマンの広がる話ではありますが、大墓山はこのくらいにして・・・

王墓山ほどに注目はされていませんが、発掘で重要性ポイントがぐーんとあがった古墳があります。

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 それが菊塚古墳です-もうひとつの佐伯氏の墓?
この古墳は、有岡大池の下側にあり、後円部に小さな神社が鎮座しますが、原型はほとんどとどめていません。これが古墳であるとは、誰もが思わないでしょう。しかし、築造当時は、弘田川をはさんで王墓山古墳と対峙する関係にあったようです。全長約55mの前方後円墳で、後円部の直径は約35m、更に周囲に平らな周庭帯を持つため、これを含めると全長約90m、幅は最大で約70mという大きさで、大墓山より一回り大きく「丸亀平野で一番大きな古墳」だということが分かりました。
 発掘前は、その形状から古墳時代中期の構築ではないかと考えられていたようです。しかし、後円部に露出した巨大な石材の存在や埴輪を持たない点などから、王墓山古墳よりやや後に作られた古墳であることが分かりました。そして平成10年の発掘調査によって、王墓山古墳と同じ横穴式石室で、その中に「石屋形」も見つかりました。
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一番右側が「石屋形」
 石室上部は盗掘の際に壊されて、石室内部も多くの副葬品が持ち去られていました。しかし、副葬品の内容や石室の規模・構造などから、王墓山古墳と同様に首長クラスの人物の墓とされています。さらに石室や副葬品の内容を検討したところ、ふたつの古墳が築かれた時期は非常に近いことが分かりました。ここから大墓山と菊塚に葬られた人物は、6世紀後半の蘇我氏が台頭してくる時代に活躍した佐伯一族の家族の首長ではないかと研究者は考えているようです。

1菊塚古墳

 有岡の小さな谷を挟んで対峙するこの二基の古墳を比較すると、墳丘や石室の規模は菊塚が一回り大きいようです。それが両者の一族内での関係、つまり「父と子」の関係か、兄弟の関係なのか興味深いところです。
 有岡の谷に前方後円墳が造営されるのは、菊塚が最後となります。そして、その子孫達は百年後には仏教寺院を建立し始めます。その主体が、佐伯氏になります。大墓山や菊塚に眠る首長が国造となり、律令時代には地方や区人である多度郡の郡司となり、善通寺を建立したと研究者は考えているようです。つまり、ここに眠る被葬者は、弘法大師空海の祖先である可能性が高いようです。

参考文献 国島浩正 原始古代の善通寺 善通寺史所収


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