瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:木島坐天照御魂神社

京都の養蚕(こかい)神社は、太秦の木島坐天照御魂神社の中にある境内社です。しかし、今では本社よりも有名になっているような気もします。この地は山城秦氏の本拠地で、秦氏は「ウズマサ」とも呼ばれました。古代の秦氏と太秦(うずまさ)関係を、まず見ておきましょう。
『日本書紀』雄略天皇十五年条には、秦酒公について次のように記されています。

秦酒公
秦酒公

詔して秦の民を聚りて、秦酒公に賜ふ。公乃りて百八十種勝を領率ゐて、庸調(ちからつき)の絹練を奉献りて、朝庭(みかど)充積む。因りて姓を賜ひて㝢豆麻佐(うずまさ)と曰く。一に云はく、㝢豆母利麻佐(うつもりまさ)といへるは、皆満て積める貌なり。

意訳変換しておくと
朝廷は詔して秦の民を集めて、秦酒公に授けた。以後秦酒公は百八十種勝(ももあまりやそのすぐり)を率いて、庸調(ちからつき)の絹を奉献して、朝庭(みかど)に奉納した。そこで㝢豆麻佐(うずまさ)という姓を賜った。一説には、㝢豆母利麻佐(うつもりまさ)といへるは、絹が積み重ねられた様を伝えるとも云う。

ここからは、秦酒公が絹を貢納して「㝢豆麻佐(うずまさ)=太秦」とい姓を賜ったことが記されています。
その翌年の『日本書紀』の雄略紀16年7月条には、次のように記されています。

詔して、桑に宜き国県にして桑を殖えしむ。又秦の民を散ち遷して、庸調を献らしむ。

  ここには葛野に桑を植え、秦の民を入植させて、庸調として絹を貢納させたとあります。肥沃な深草エリアに比べると、葛野の地は標高も高く水利も悪い所です。当然、葛野の開発は深草よりも遅れたはずです。秦氏の各集団を動員して開拓させても、水田となしうる地は少なく、多くは畦地(陸田)だったことが予想できます。そこで秦氏が養蚕にとりくんだとしておきます。
『新撰姓氏録』(左京諸蕃上)は、太秦公宿爾のことが次のように記されています。

太秦公宿爾(うずまさのきすくね) 秦始皇帝の三世孫、孝武王自り出づ。男、功満王、帯仲彦(たらしねひこ)天皇の八年に来朝く。男、融通王(一説は弓月王)、誉田天皇の十四年に、廿七県の百姓を来け率ゐて帰化り、金・銀・玉・畠等の物を献りき。大鷺鵜天皇の御世に、百廿七県の秦氏を以て、諸郡に分ち置きて、即ち蚕を養ひ、絹を織りて貢り使めたまひき。天皇、詔して曰く。秦王の献れる糸・綿・絹品(きぬ)朕服用るに、柔軟にして、温暖きこと肌膚の如しとのたまふ。仍りて姓を波多(はた)と賜ひき。次に登呂志公。秦公酒、大泊瀬幼武(はつせわかため)天皇の御世に、糸・綿・絹吊を委積(うちつ)みて岳如(やまな)せり。天皇、嘉(め)でたまひ、号を賜ひて㝢都万佐(うずまさ)と曰ふ。
 
意訳変換しておくと
太秦公宿爾(うずまさのきすくね)は、中国の秦始皇帝の三世孫で、孝武王の系譜につながる。功満王は、帯仲彦(たらしねひこ)天皇の八年に来朝した。融通王(一説は弓月王)は、誉田天皇の十四年に、廿七県の百姓を引いて帰化した。その際に、金・銀・玉・絹等の物を貢納した。大鷺鵜天皇の御世に、127県の秦氏を、諸郡に分ち置いて、蚕を養い、絹を織る体制を作った。その貢納品について天皇は「秦王の納める糸・綿・絹品(きぬ)を服用してみると、柔軟で、暖いことは肌のようだ」と誉めた。そこで波多(はた)の姓を授けた。次に登呂志公や秦公酒は、大泊瀬幼武(はつせわかため)天皇の御世に、糸・綿・絹吊を朝廷に山のように積んで奉納した。天皇はこれを歓んで、㝢都万佐(うずまさ:太秦)という号を与えた。

ここには次のようなことが読み取れます
①秦氏は、秦の始皇帝の子孫とされていたこと
②一時にやって来たのではなく、集団を引き連れて何波にも分かれて渡来してきたこと
③引率者は○○王と称され、金・銀・玉・絹等をヤマト政権の大王にプレゼントしていること
④ヤマト政権下の管理下に入り、糸・綿・絹品(きぬ)を貢納したこと
⑤それに対して㝢都万佐(うずまさ:太秦)の姓が与えられたこと

秦氏の渡来と活動

『新撰姓氏録』(山城国諸蕃)には、秦忌寸について次のように記されています。
秦忌寸 太秦公宿祓と同じき祖、秦始皇帝の後なり。(中略)普洞王の男、秦公酒(秦酒公)、大泊瀬稚武天皇臨囃の御世に、奏して称す。普洞上の時に、秦の民、惣て却略められて、今見在る者は、十に一つも在らず。請ふらくは、勅使を遣して、検括招集めたまはむことをとまをす。天皇、使、小子、部雷を遣し、大隅、阿多の隼人等を率て、捜括鳩集めじめたまひ、秦の民九十二部、 一万八千六百七十人を得て、遂に酒に賜ひき。
  意訳変換しておくと
秦忌寸(いみき)は、太秦公宿祓と同じき祖先で、秦始皇帝の末裔である。(中略)
普洞王の息子の秦公酒は、秦の民が分散して諸氏のもとに置かれ、おのおのの一族のほしいままに駈使されている情況を嘆いていた。そこで、大泊瀬稚武(おおはつせわかため)天皇に、次のように申し立てた。普洞王の時に、秦の民は総て分散させられて、今ではかつての十に一にも過ぎない数となってしまった。つきては、勅使を派遣して、検索して招集していただきたい。天皇はこれに応えて、使(つかい)、小子(ちいさこ)、部雷(べいかづち)を全国に派遣して、大隅や阿多の隼人等にも命じて、探索活動を行った。その結果、秦の民九十二部1867。人を見つけ出し、秦公酒に引き渡した。
 酒公はこの百八十種勝(ももあまりやそ の すぐり)を率いて庸、調の絹や縑(かとり)を献上し、その絹が朝廷にうず高く積まれたので、「禹豆麻佐」(うつまさ)の姓を賜った
ここでは太秦公宿禰と同祖で、秦公酒の後裔、また摂津・河内国諸番に秦忌寸と同祖で弓月王の後裔であり、養蚕・絹織に秦氏が関係していたことが記されています。

さらに時代を下った『二代実録』仁和三年(887)7月17日条には、従五位下時原宿爾春風が朝臣姓を賜わった記事に、春風が次のように語ったことが次のように記されています。

自分は秦始皇帝の11世孫功満王の子孫で、功満王が帰化入朝のとき「珍宝蚕種等」を献じ奉った。

祖先が「蚕種」に関係したことを挙げています。子孫からしても秦氏と養蚕は切り離せないと思っていたことがうかがえます。

技術集団としての秦氏

『三国史記』新羅本紀には、始祖赫居世や五代婆沙尼師今が養蚕を奨めたと記します。
養蚕神社の祭祀者である秦氏は、新羅国に併合された加羅の地からの渡来人ですから新羅系とされます。『三国史記』の知証麻立14年(503)十月条には、古くは斯麿・新羅と称していた国号を、この年に「新羅」に定めたと記します。そして「新」は「徳業が日々に新たになる」、「羅」は「四方を網羅する」の意とします。しかし、その前から国号を、「シロ・シラ」といっていたので、新羅国は「白国」でした。
 6世紀になると秦氏の族長的な人物として活躍するのが、秦河勝(はたかわかつ)です。

秦川勝
            秦川勝 聖徳太子のブレーンとして活躍
彼は、聖徳太子の側近として活躍する人物で、新羅使の導者を3回動めています。『日本書紀』には、推古11年・24年・31年に新羅王から仏像を贈られたと記します。21年の記事には、仏像を「葛野秦寺」に収めたとあります。これが広隆寺になるようです。24年の記事には新羅仏とあって寺は記されていませんが、『聖徳太子伝暦』『扶桑略記』には蜂岡寺(これも広隆寺のこと)に置いたとあります。また、11年の仏像については『聖徳太子伝補閥記』や『聖徳太子伝暦』に「新羅国所献仏像」とあります。『扶桑略記』は広隆寺縁起を引き、国宝第一号となった「弥勒仏」のことだとします。
3つの半跏首位像 広隆寺・ソウル

大和飛鳥に公伝した仏教は百済系の仏教です。しかし、秦氏はそれ以前から弥勤信仰を重視する新羅の仏教を受けいれていた節が見られます。秦河勝が京都の太秦に広隆寺を建立するが、その本尊は新羅伝来の弥勤半伽思惟像です。平安仏教の改革者となった最澄も渡来系で、留学僧として唐に出向く前には香春神社で航海の安全を祈り、帰国後にも寺院を建立しています。
『広隆寺来由記』には、白髪の天神が広隆寺守護のため新羅から飛来たと記します。こうしてみると「養蚕 ー 新羅 ー 秦氏」は一本の糸で結ばれています。「天日矛の説話を有する地域と秦氏の居住区は、ほぼ完全に重複している」と研究者は考えています。天之日矛は新羅国の皇子です。

古墳時代の養蚕地域

この遺跡分布図は弥生から古墳時代前期の秦氏渡来前の養蚕・絹織地の分布を示しています。
 この遺跡分布図と天之日矛伝承地は、ほぼ重なります。これをどう考えればいいのでしょうか?
秦氏の渡来時期のスタートは五世紀前後とされます。天之日矛伝承は垂仁紀のこととして記されています。そこから天之日矛伝承は秦氏渡来以前の新羅・加羅の渡来伝承とされます。そうすると、秦氏も先住渡来人エリアで、養蚕・絹織に従事したことが考えられます。そういう視点からすると分布図からは次のような事が読み取れます。
①北九州や日本海側の出雲・越前に多く、瀬戸内海側にはない。
②新羅系渡来人によって、日本海を通じて古代の養蚕は列島にもたらされた。
③その主役は新羅・秦氏で、それが新羅神社の白神信仰、白山神社の白山信仰につながる

どうして養蚕神社は木島坐天照御魂神社の境内社なのでしょうか?
それは、木島坐天照御魂神社の白日神(天照御魂神)と桑・蚕がかかわるからだと研究者は考えています。
『三国遺事』が伝える新羅の延鳥郎・細鳥女伝説は、つぎのようなものです。
 この地に延烏(ヨノ)という夫と細烏(セオ)という妻の夫婦が暮らしていました。ある日、延烏が海岸で海草を取っていたら、不思議な岩(亀?)に載せられてそのまま日本まで渡って行き、その地の人々が彼を崇めて王に迎えた(出雲・越前?)というのです。一人残された細烏は夫を探すうちに、海岸に脱ぎ捨てられた夫の履物を発見し、同じく岩に載ることで日本に渡り、夫と再会して王妃となりました。
 しかし、韓国では日と月の精であった二人がいなくなると、日と月の光が消えてしまった。それで王が使者を日本に送って戻ってきてくれるようにいうのですが、延烏は「天の導きで日本に来たのだから帰ることはできない」と断ります。代わりに王妃が織った絹を送り、それで天に祭祀を捧げるようにいいます。実際にそのようにすると、光は戻ってきたので、新羅王はその絹を国宝とし、祭祀をした場所を「迎日県」としたというのです。そこは現在の浦項市南区烏川邑にある日月池であるといいます。

養蚕には桑の木が欠かせません。中国では、太陽は東海の島にある神木の桑から天に昇るとされ、日の出の地を「扶桑」と呼びました。『礼記』にも「后妃は斎戒し、親ら東に向き桑をつむ」と記します。桑をつむのに特に「東に向く」のは、扶桑のこの由来からくるようです。
太陽の中に三本足の鳥がいるという伝承は、古くから中国にあり、新羅の延鳥郎・細鳥女も、日神祭祀にかかわる名のようです。このように、桑は太陽信仰と結びついているから、日の出の地を「扶桑」と書きます。

以上をまとめておきます。
①渡来系の秦氏は深草にまず定着し、その後に太秦周辺の開発を進めた。
②水利の悪い太秦地区には、桑が植えられ先端テクノの養蚕地帯が秦氏によって形成された
③秦氏は多くの絹を朝廷に提供することで、官位を得た。
④また、そこに新羅系の白日信仰(日読み)の木島坐天照御魂神社や養蚕神社を建立した。
⑤養蚕や白日神信仰については「新羅 → 日本海 → 出雲 → 越前」という流れがうかがえる。
⑥仏教伝来期には、天皇家や蘇我氏に先行して氏寺を建立していた痕跡もうかがる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 綾氏の研究325P 養蚕(こかい)神社 秦氏と養蚕と白神信仰

木島坐天照御魂神社さんへ行ってきました | 京都市工務店 京町家工房
                   木島坐天照御魂神社

京都の木島坐天照御魂神社は、明治の神仏分離前までは秦氏の氏寺・広隆寺境内の最東端に鎮座してました。広隆寺と引き離されてからは、境内社の蚕養神社の方が有名になってしまって「蚕の社」と呼ばれることの方が多いようです。『延喜式』神名帳には、山城国葛野郡の条に「木島坐天照御魂神社」と記されています。天照御魂神社と称する寺院は、『延喜式』神名帳には、この神社以外には次の3つがあります。
大和国城上郡の他田坐天照御魂神社
大和国城下郡の鏡作坐天照御魂神社
摂津国島下郡の新屋坐天照御魂神社
この三社は、尾張氏と物部氏系氏族が祭祀していました。尾張氏は火明命、物部氏は饒速日命を祖としますが、『旧事本紀』(天孫本紀)は、両氏の始祖を一緒にして、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」
と記します。両氏の始祖を「天照国照彦」といっているのは、「天火明」「櫛玉饒速日」の両神を、「天照御魂神」とみていたからと研究者は考えています。それでは尾張氏・物部氏がという有力氏族が祭祀氏族だった天照御魂神を、渡来系の秦氏がどうして祀っていたのでしょうか? 
その謎を解くのが、わが国唯一とされる「三柱鳥居」だと研究者は考えています。

木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)

「三柱鳥居」は「三面鳥居」「三角鳥居」とも呼ばれますが、現在のものは享保年間(1716~36)に修復されたもののようです。この鳥居については、明治末に景教(キリスト教の異端ネストリウス派)の遺跡で、これを祀る秦氏はユダヤの末裔という説が出されて、世間の話題となったようです。

西安碑林博物馆
          大秦(ローマ帝国)景教流行中国碑(長安碑林博物館)
この説を出したのは東京高等師範学校の教授佐伯好郎で、「太秦(萬豆麻佐)を論ず」という論文で次のように記します。

①唐の建中2年(782)に建てられた「大秦景教流行中国碑」が長安の太秦寺にあること
②三柱鳥居が太秦の地にあること
③三角を二つ重ねた印がユダヤのシンボルマーク、ダビデの星であること
④太秦にある大酒神社は元は「大辟神社」だが、「辟」は「聞」で、ダビデは「大開」と書かれること
以上から、木島坐天照御魂神社や大酒神社を祭祀する秦氏(太秦忌寸)は、遠くユダヤの地から東海の島国に流れ来たイスラエルの遺民だとしました。そして、秦氏に関する雄略紀の記事から、景教がわが国に入った時期を5世紀後半としました。しかし、景教が中国に入ったのは随唐帝国成立後のことで、正式に認められたのが638年のこですから佐伯説は成立しません。また「太秦」表記は、『続日本紀』の天平14年(742)8月5日条の、秦下島麻呂が「太秦公」姓を賜わったというのが初見です。したがって、「太秦」表記を根拠に景教説を立てるのも無理です。三柱鳥居についてこうした突飛もないような説が出るのは、他に類例のない鳥居だからでしょう。
この三柱鳥居は、何を遥拝するために建てられたのでしょうか?
それは冬至と夏至の朝日・夕日を遥拝するためで、その方位を示すための鳥居であると研究者は考えています。三柱鳥居と秦氏と関係の深い山の方位を図で見てみましょう。ここからは次のような事が読み取れます。

三柱鳥居 木島坐天照御魂神社
白日神信仰 木島坐天照御魂神社

①冬至の朝日は稲荷大社のある稲荷山から昇るが、この山は秦氏の聖地。
②夏至の朝日は比叡山系の主峯四明岳から昇るが、比叡(日枝)山の神も秦氏の信仰する山
③冬至に夕日が落ちる愛宕山は、白山開山の秦泰澄が開山したといわれている秦氏の山岳信仰の山
④夏至には夕陽が落ちる松尾山の日埼峯は秦氏が祀る松尾大社の聖地。
こうしてみると、冬至の朝日、夏至の夕日が、昇り落ちる山の麓にそれぞれ秦氏が奉斎する稲荷神社・松尾大社があり、その方向に、三柱を結ぶ正三角形の頂点が向いています。三柱を結ぶ正三角形の頂点のうち二点は、稲荷と松尾の三社を指し示します。もう一点は双ヶ丘です。

白日神は日読み神

研究者が注目するのは、双ヶ丘の三つの丘の古墳群です。
一番高い北側の一ノ丘(標高116m)からニノ丘・三ノ丘と低くなっていきます。一ノ丘の頂上には古墳が1基、 一ノ丘とニノ丘の鞍部に5基、三ノ丘周辺に13基あります。この内の一ノ丘頂上古墳は、秦氏の首長墓である太秦の蛇塚古墳の石室に次ぐ大規模石室を持ちます。

京都双ケ岡1号墳 秦氏の首長墓

日本歴史地名大系『京都市の地名』の「双ヶ丘古墳群」の項で1号墳について次のように記します。

「他の古墳に比べて墳丘や石室の規模が圧倒的に大きくしかも丘頂部に築造されているところからみて、嵯峨野一帯に点在する首長墓の系譜に連なるものであろう。築造の年代は、蛇塚古墳に続いて七世紀前半頃と推定される」

「一ノ丘とニノ丘の間に点在する古墳及び三ノ丘一帯の古墳は、いずれも径10mないし20mの円墳で、いわゆる古墳後期の群集墳である。(中略) 双ヶ丘古墳群は、その所在地からみて秦氏との関連が考えられ、墓域は若千離れているが、嵯峨野丘陵一帯の群集墳とも深いかかわりをもっているとみてよいだろう」

ここからは、双ヶ丘は嵯峨野一帯の秦氏の祖霊の眠る聖地で、三柱鳥居の正三角形の頂点は、それぞれ秦氏の聖地を指し示している記します。太陽が昇る方位だけでなく、沈む方位や祖霊の眠る墓所の方位を示していることは、この地も死と再生の祈りの地だったと云えそうです。その再生祈願の神が天照御魂神と研究者は考えています。

尾張氏や物部氏が祭祀する天照御魂神を、なぜ、渡来氏族の秦氏が祀るのでしょうか?
それは朝鮮でも同じ信仰があったからと研究者は推測します。白日神の信仰が朝鮮にあることは、『三国遺事』(1206~89)の日・月祭祀の延鳥郎・細鳥女伝承から推測できます。

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三国遺事には祭天儀礼をおこなった場所を「迎日県」と記します。迎日県は現在の慶尚北道迎日郡と浦項市に比定されているようです。向日と迎日の違いはありますが、迎日郡には白日峯があります。向日神社の冬至日の出方位に朝日山があるように、白日峯の冬至日の出方位(迎日県九竜浦邑長吉里)には迎日祭祀の山石があります。
白日神 韓国
                    九竜浦邑(慶州の真東)

この岩は「わかめ岩」と呼ばれ、 この地方の名産の海藻の採れるところだったようです。
『三国遺事』は、この地の延鳥郎・細鳥女伝説を次のように伝えます。
 この地に延烏(ヨノ)という夫と細烏(セオ)という妻の夫婦が暮らしていました。ある日、延烏が海岸で海草を取っていたら、不思議な岩(亀?)に載せられてそのまま日本まで渡って行き、その地の人々が彼を崇めて王に迎えた(出雲・越前?)というのです。一人残された細烏は夫を探すうちに、海岸に脱ぎ捨てられた夫の履物を発見し、同じく岩に載ることで日本に渡り、夫と再会して王妃となりました。
 しかし、韓国では日と月の精であった二人がいなくなると、日と月の光が消えてしまった。それで王が使者を日本に送って戻ってきてくれるようにいうのですが、延烏は「天の導きで日本に来たのだから帰ることはできない」と断ります。代わりに王妃が織った絹を送り、それで天に祭祀を捧げるようにいいます。実際にそのようにすると、光は戻ってきたので、新羅王はその絹を国宝とし、祭祀をした場所を「迎日県」としたというのです。そこは現在の浦項市南区烏川邑にある日月池であるといいます。
□「虎のしっぽの先」から海の向こうの日本を望みました! | 韓国・ソウルの中心で愛を叫ぶ!
     「虎尾串(ホミゴッ)」の海を臨む公園にある「延烏郎(ヨノラン)と細烏女(セオニョ)」の像
延鳥郎は海藻を採りに行き、岩に乗って日本へ渡ったと『三国遺事』は記します。岩に乗る延鳥郎とは、海上の岩から昇る朝日の説話化でしょう。白日峯の冬至日の出方位にある雹岩は、太陽の岩なのでしょう。この岩礁地帯は現在も聖域になっているようです。以上からは、迎日祭祀が朝鮮でおこなわれていたことが分かります。
以上をまとめておくと
新羅の迎日県の白日峯にあたるのは、三柱鳥居の地からの迎日の稲荷山、比叡山系の四明岳
木島坐天照御魂神社の鎮座地は、白日神祭祀の聖地、祭場で、そこに三柱鳥居が建つ
ここでは秦氏が祀る天照御魂神社の三柱鳥居は、朝鮮の迎日祭祀の白日神の信仰と、稲荷大社にみられる祖霊信仰がミックスした信仰のシンボルとされていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 秦氏の研究312P 木島坐天照御魂神社 ~三柱鳥居の謎と秦氏~



『古事記』の大年神神統譜には、兄弟神として白日神・韓神・曽宮理神・聖神が記されています。

伊怒比売(いのひめ)は神活須毘神(かむいくすびのかみ)の娘

大年神と伊怒比売(いのひめ)との間に生まれた兄弟五神
  この兄弟五神については、その神名から渡来系の神とされ、秦氏らによって信仰された神とされます。大年神の系譜中の神々については、農耕や土地にまつわる神が多いのが特徴です。これは民間信仰に基づく神々とする説や、大国主神の支配する時間・空間の神格化とする説があるようです。さらに日本書紀のこの系譜の須佐之男命・大国主神から接続される本文上の位置に不自然さがあり、その成立や構造については、秦氏の関与や編纂者の政治的意図があったことが指摘されています。今回は、この五兄弟の中の白日神について見ていくことにします。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究372P    志呂志(しろし)・白髭神社~白神信仰と秦氏~」です。

西日長男は、白日神と志呂志神の関係について、次のように記します。

式神名帳に所載の近江日高島郡志呂志神社は、日吉三宮と呼ばれ、今、鴨村に鎮座し、その地はもと賀茂別雷神社の社領であったともいうから、神系の上からしても、『白日』が「志呂志」に転訛したものではなかろうか。
 即ち、志呂志神社の祭神は、日吉三宮(今の大宮)の祭神大山昨神や賀茂別雷神社の祭神別雷神や兄弟又は伯叔父に当られる白日神で、そのために日吉三宮と呼ばれたのではあるまいか。そうして、この志呂志神社は滋賀郡小松村大字鵜川に鎮座の白髭神社、即ち、かの比良明神とも同一祭神を祀っているのではなかろうか。而して『比良神」が『夷神』で蕃神の意であろうことは殆ど疑いを納れないであろう。

西田長男のいう「蕃神」は、「新撰姓氏録』が渡来系氏族を「諸蕃」としたことをうけた表現です。
  秦氏らによって信仰された渡来系の神々ということになります。ここでは、「白日が志呂志に転じた」という説を押さえておきます。
志呂志(しろし)神社境内にあった古墳を見ておきましょう。

KONICA MINOLTA DIGITAL CAMERA
志呂志神社の森
高島市南部の鴨川とその北を流れる八田川が合流する南側の小さな森に志呂志神社は鎮座します。
かつての境内の中にあったのが高島市唯一の前方後円墳とされる鴨稲荷山古墳です。明治35年の道路工事中に、後円部の東南に開口した横穴式石室から擬灰岩製家形石棺が発見され、石棺から遺物が出土しました。更に大正12年、梅原末治らによって発掘調査がおこなわれ、石棺内から金製垂飾耳飾、金鋼製冠、双魚侃、沓などの金、金鋼製の装飾品が出土します。
注目したいのは、副葬品が「朝鮮半島直輸入」的なものが多いことです。

伽耶の新羅風イヤリング. 陝川玉田M4号墳jpg
伽耶の新羅風イヤリング(陝川玉田M4号墳)

鴨稲荷山古墳出土の耳飾り

冠(復元品)

                      沓(復元品)
①冠と耳飾りは、新羅の王都慶州の金冠塚の出土品
②沓も、朝鮮半島の古墳からほぼ同類
③水品切子玉、玉髄製切子玉、琥珀製切子玉、内行花文鏡、双竜環頭大刀、鹿角製大刀、鹿角製刀子などのうちで、環頭大刀、鹿角製刀子は朝鮮半島に類似品あり。
④棺外からは馬具と須恵器が出土
京国大学による鴨稲荷山古墳の発掘調査書(1922年(大正11年)7月)は、次のように記します。
被葬者の性別は
「武器などの副葬品の豊富である点から、もとより男子と推測することが出来る。」
「(副葬品については)日本で製作せられたにしても、それは帰化韓人の手によったものであり、その全部あるいは一部が彼の地から舶載したものとしても、何らの異論はない。」
出土品の冠、装飾品が、朝鮮半島に源流を持つ物であるとします。
「(被葬者の出自については)此の被葬者が三韓の帰化人もしくは、其の子孫と縁故があったろうと云ふ人があるかも知れない。しかしそれには何の証拠もない。」
と、朝鮮半島からの渡来人説には慎重な立場を取っています。
そして「当時において格越した外国文化の保持者であり、外国技術の趣味の愛好者であった。」と指摘します。

被葬者についてはよく分からないようです。『日本書紀』継体天皇即位前条には、応神天皇(第15代)四世孫・彦主人王近江国高島郡の「三尾之別業」にあり、三尾氏一族の振媛との間に男大迹王(のちの第26代継体天皇)を儲けたと記します。継体天皇の在位は6世紀前半とされ、三尾氏からは2人の妃が嫁いでいます。そのため被葬者としては三尾氏の首長とする説があります。しかし、高島の地方豪族であった三尾氏の古墳にしては、あまりにも「豪華すぎる」と否定的な意見もあるようです。いろいろな候補者はありますが、本命はいないようです。
 この古墳が鴨稲荷山古墳と呼ばれていたことを見ておきましょう。
志呂志神社はの地名は「高島町大字鴨」で、その名の通りかつての鴨村です。
鴨というのは、上賀茂(賀茂別雷)神社の社領だったからで、上賀茂神社の祭祀に秦氏や秦氏奉斎の松尾大社社司が関わっていました。

全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景は?

また、稲荷山古墳というのも古墳上に稲荷神社が勧進され祀られていたからです。古墳の上に稲荷神社が祀られるのは、伏見大社の修験者たちが「お塚信仰」を拡げ、稲荷神社を古墳に勧進したからだったことは以前にお話ししました。以上のような状況証拠を重ねると、稲荷社や志呂志神社は、古墳に葬られた祖先神やお塚信仰への秦氏と鴨(賀茂)氏による祭祀だったことがうかがえます。この古墳の被葬者を、秦氏は自分たちの祖先として信仰していた可能性があります。

  最初に見た「白日神=志呂志神」説を、見ていくことにします。

蚕の社ー木嶋坐天照御魂神社

木島坐天照御魂神社(木島神社)の中にある向日神社は白日神を祭り、秦(秦物集氏)が信仰していたことは以前に次のようにお話ししました。

①向日神社は、朝日山から昇る冬至の朝日、日の岡から昇る夏至の朝日の遥拝地
②朝鮮の慶尚北道迎日郡の白日峯が海岸の雹岩から昇る冬至の朝日の遥拝地

これに対して、志呂志神社から見た冬至日の出方位は、竜ヶ岳山頂(1100m)、夏至日の出方位は、見月山山頂(1234m)になります。志呂志神社も向日神と関係があるようです。
向日神について南方熊楠は、次のように記します。
「万葉集に家や地所を詠むとて、日に向ふとか日に背くとか言うたのが屡ば見ゆ。日当りは耕作畜牧に大影響有るのみならず、家事経済未熟の世には家居と健康にも大利害を及せば、尤も注意を要した筈だ。又日景の方向と増減を見て季節時日を知る事、今も田舎にに少なからぬ。随って察すれば頒暦など夢にも行れぬ世には、此点に注意して宮や塚を立て、其影を観て略時節を知た処も本邦に有ただろう。されば向日神は日の方向から家相地相と暦日を察するを司った神と愚考す」
意訳変換しておくと
「万葉集で家や地所について詠んだ歌には、「日に向ふ」とか「日に背く」という表現がある。日当りは、農耕や木地には大きな影響をもたらすばかりか、様々な点で未熟な時代だった古代には、生活や健康にも大きな影響をもたらし、そのことには注意を払ったはずだ。日の出・日の入りの方向と増減を見て季節や時日を知ることは、今でも田舎ではよく用いられている。とすれば暦の配布などがない時代には宮や塚を立て、その影を観て時節を知たこともあったろう。そうだとすれば向日神は、日の方向から家相地相と暦日を察することを司った神と私は考える」

そして次のようにも記します。(意訳要約)
  オリエンテーションとは、日の出の方向を基準として方位や暦目(空間と時間)をきめること。「方位」という言葉はラテン語の「昇る」からきている。ストーンヘンジについては、中軸線が夏至の日の出線になり、その他の石の組合せによって日と月の出入りが観測できるので、古代の天文観測所とする説がある。また、神殿の集会所とする説もある。

冬至や夏至の「観測」を、わが国では「日読み」といったようです。
「日読み」は重要な「マツリゴト」でもありました。「日」という漢字には「コヨミ(暦)」の意味もあります。『左氏伝』に「天子有・日官、諸候有二日御」とあり、その注に、「日官・日御は暦数を典じる者」とあります。向日神社が「日読み」の神社であることは、冬至・夏至日の出方向に朝日山・日の岡があることからも推測できます。もうひとつは白日神の兄弟神に聖神がいることです。柳田国男は、「聖は「日知り」だと云います。そうだとすれば、「日読み」と「日知り」の神が兄弟神なのは当然です。
秦氏が信仰する木島坐天照御魂神社も、白日神社です。
木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)

この神社にある三柱鳥居は、稲荷山の冬至、比叡山(四明岳)の夏至の日の出遥拝のためにある「日読み鳥居」と研究者は考えています。

三柱鳥居 木島坐天照御魂神社
白日神信仰 木島坐天照御魂神社

志呂志神社、向日神社、木島坐天照御魂神社は、かつては川のそばにあったようです。

ここにも朝鮮神話と結びつく要素があります。新羅の白日峯の夏至日の出遥拝線上の基点に悶川があります。朝鮮語の「アル」は日本語の「アレ(生れ)」です。この川のほとりに新羅の始祖王赫居世が降臨します。「赫」は太陽光輝の「白日」のことで、アグ沼のほとりで日光に感精した女の話が『古事記』の新羅国王子天之日矛説話に載せられています。このアグ沼も悶川と同じです。三品彰英は、経井を「みあれの泉」「日の泉」とします。  川・沼・井(泉)などのそばで日女(ひるめ)が日光(白日)を受けて日の御子(神の子)を生むのは、日の御女が「日読み(マツリゴト)」をおこなう「日知り」の人だからと研究者は推測します。
以上をまとめておきます。

白日神は日読み神

①大年神神統譜に出てくる兄弟神「白日神・韓神・曽宮理神・聖神」は、渡来系の神々である。
②『白日神』=「志呂志」=「白髪神」である。
③白日神を祀る近江高島町鴨の志呂志神社は、古墳に葬られた祖先神やお塚信仰への秦氏と鴨(賀茂)氏による祭祀が行われていた
④冬至や夏至の「観測」は「日読み」で、白日神は日読みの神で、聖(日知り)神でもあった。 
⑤「日読み」は重要な「マツリゴト」で、「日」という漢字には「コヨミ」の意味もあった。
⑥ 木島坐天照御魂神社の三柱鳥居は、稲荷山の冬至、比叡山(四明岳)の夏至の日の出遥拝のためにある「日読み鳥居」で、この神社も白日神が祀られていた。
⑦『古事記』の「新羅国王子天之日矛説話」からは、これらの神々が朝鮮半島の神々であったことがうかがえる。
⑧川・沼・井(泉)などのそばで日女が日の御子(神の子)を生むのは、「日読み(マツリゴト)」をおこなう「日知り」の「先端技術知識者」であったから。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大和岩雄 秦氏の研究372P    志呂志(しろし)・白髭神社~白神信仰と秦氏~

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