瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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大般若経 正覚寺
塩飽本島正覚院の大般若経 1巻巻頭
香川県には、大般若経がいくつかの寺や神社の残されているようです。このお経は全部揃えると600巻にもなり、かなりの分量になります。常備するためには写経する必要があります。以前に、平城京の都で行われていた国の写経所で行われていた工程を見ましたが、人手と資材のかかる大事業でした。中世になると地方の有力寺院でも大般若経の写経が行われるようになります。例えば、大川郡の与田寺は増吽よって「瀬戸内の写経センター」として機能していたことは、以前にお話しした通りです。増吽に周辺には、日頃から写経に携わっていた僧侶のネットワークが形成されていていました。そして写経依頼が出されると、瀬戸内海沿岸や阿波の僧侶達が宗派を超えて「結衆」し、担当を任された巻の写経を行っていたことを以前に見ました。
 それでは、寺や神社に納められた大般若経は、どのように「活用」されていたのでしょうか。
大般若波羅蜜多経(略して大般若経)は、この経を供養するものは諸々の神によって、護られると説かれました。そのために多くの人々に信仰され、災いを除くためにその転読が盛んに行われてきました。転読とは、一体何なのでしょうか?
讃岐の中世 大内郡水主神社の大般若経と熊野信仰 : 瀬戸の島から

 大船若緑六百巻を全部読むことは無理です。
そこで、いろいろな「省略」法が考えられます。例えばチベットのラマ教では、お経を納めた経蔵のまわりを回るとを読んだのと同じ功徳があるとされるようになります。わが国でもお経が収められた六角経蔵や八角経蔵をぐるぐる回っていたようです。そして、大般若経の場合は、お経を一巻一巻広げて、十人なら十人の坊さんが並んで、それぞれ三行か五行ずつ読んでいくという転読スタイルが出来上がったようです。
 地方では「ショーアップ化」されたいろいろな転読スタイルが行われるようになります。
例えば、紀州の山間部では、お経の巻物を本堂の床に転がし、巻頭部分だけを読み巻き戻すというスタイルも登場します。熱が入ってくると、巻物は投げたようで、かなり手荒に扱われたようです。当然、傷みます。そういう意味では、大般若経は破損する経典だったのです。そのため補修修繕が欠かせなかったようです。しかし、このような目に見える形の祈願を庶民は好みます。中世になると転読に便利なように巻物から「折り本」に、形が変えられます。
大般若経 転読

折り本の先を扇形に開いて、片方からサラサラと広げては、その間に七行、五行、三行と読んでいきます。それが悪魔払いだということになり、般若声といわれる大きな声で机をたたいて読んでいくスタイルが定着します。庶民にとっては、こちらの方がショーアップ化されて「ありがたみ」があるように思えたのでしょう。これが各地の寺院や神社の祭礼にも取り込まれていきます。
 当時は、神仏混淆で、神社の祭礼も別当寺の社僧が取り仕切っていた時代です。僧侶達が主役となる大般若経転読の行事は、急速に郷村に広がります。このような動きが大般若経の写経活動の背景にあったことを押さえておきます。こうして大般若経の転読は、豊作析願、祈雨・止雨祈願、疾病抜除、その他災害を防ぎ、安寧維持のために盛んに行われるようになります。
大般若経 箱担ぎ
箱に入れられた大般若経を担いでの村まわり
 
四国霊場の本山寺では近世には、大般若経六百巻が村回りをしていたようです。
大般若経のお経の入った箱を担いで村を回ります。これも地域を回って読む一つのやり方ですから、「転読」といえるのかもしれません。住職が手にするのは「理趣分」という四百九十五巻のうち一冊だけです。それを各家々で七五三読みで読みます。大般若の箱を担いで歩くのは村の青年たちです。村を一軒一軒回って転読します。この際に、折り本からです風を「般若の風」と呼びました。この風に当たれば病気にならないというのです。有難いお経の起こす風が信仰対象になっていたようです。

 大般若経は全六百巻もあるお経です。
それを備えるための書写や版経の刊行は大事業でした。その実現のためには、大きな資力や人的な結集を必要とされました。作成後も、それを維持するためには多くの費用と努力が求められます。逆に、大般若経がどのように作られたか、それがどのように維持されてきたのか、あるいは退転したのかについての研究が進むにつれて、いろいろなことが少しずつ分かってきたようです。今回は、塩飽本島の正覚院に残された大般若経が、どのようにしてここにやってきたのかを追いかけて見ましょう。
テキストは「加藤優 本島正覚院と与島法輪寺の大般若経  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」です
香川県丸亀市本島町泊の寺院一覧 - NAVITIME
正覚院
本島泊の妙智山観音寺正覚院は真言宗醍醐派の寺院で、塩飽諸島きっての古利として知られています。
この寺は京都の醍醐寺を開いた理源大師聖宝の生誕地という伝承もあり、現在も広く信仰を集めています。そして今でも護摩法要が営まれるなど密教山岳寺院の性格を色濃く残しています。中世には修験者たちの活動の舞台となった気配がします。

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正覚院(丸亀市本島)
 「正徳三年六月改」とある『塩飽島諸訳手鑑』によれば塩飽諸島には真言宗寺院33ヶ寺、天台宗1ヶ寺、浄土宗2ヶ寺があったと伝えます。真言宗寺院が圧倒的に多かったことが分かります。正覚院は、その中でも真言宗寺院の本山として大きな位置を占めていました。この寺には国指定重要文化財や県指定、九亀市指定の文化財がいくつかあります。
その中でも国指定重文の本尊観音菩薩坐像は脇侍の不動明王像、毘沙門天像とともに鎌倉時代初期のすぐれた中央作とされます。その他にも鎌倉時代初期の線刻十一面観音鏡像等もあり、正覚院の由緒を物語るものになっています。
正覚院 夏まつり】アクセス・イベント情報 - じゃらんnet
正覚院の夏祭り
 正覚院は寺伝では空海開基、聖宝中興としていますが、そこまで遡るのは文献史料の上では難しいようです。しかし、寺のある泊地区は古来からの本島の中心地区であったようです。
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正覚寺には、九亀市指定文化財の大般若経があります。
現在は「二〇六帖」が確認され、全て折本のようです。これらは次の2種類に分類できるようです
①南北朝時代の写経で、表紙が渋引きし刷毛目文様の193帖
②鎌倉時代建保五年(1217)の奥書のある写経で、藍色表紙の11帖
①の南北朝以前の193帖を書写の時代で分けると、次のようになるようです
平安時代院政期 一帖
鎌倉時代前期 五帖
南北朝時代 百八十三帖
室町時代 三帖
江戸時代 一帖
大般若経は、最初にお話ししたように「投げられるお経」でしたから、破損や散逸が起きます。その度に不足の巻を補写・購入・寄進等によって補充していくことになります。そのために異なる時代、異なる装填の経典が混じってくるようになるようです。

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正覚院

この寺の大般若経が揃えられたのは南北朝時代のことなのに、鎌倉時代のものと思われる巻が含まれているのは、どうしてでしょうか。
①勧進の際の収集経(新たに写経されたものでなく既存流通の巻を購入した)
②後に欠けた不足の巻を寄進等などで補完したときに、鎌倉時代前期に書写されたものが、やってきて600巻の中に加えられた
などが考えられます。奥書に、勧進が開始されたとみられる文和四年よりも前の巻もあるようです。そして、もとからこの寺にあったものではないようです。大般若経は移動する経典なのです。それでは、いつどこからこのてらにやってきたのでしょうか?

大般若経 正覚院第1巻奥書

上の巻第一には「文和四年十月十一日 始之」とあります。讃岐の守護細川繁氏治政下で、三野の秋山泰忠が本門寺を建立していた頃の文和四年(1355)十月に、この巻から書写が開始されたようです。巻第五百七十二・五百七十三には「願主」という文言があります。書写事業の願主がいて、さらにそれを進める勧進者がいたことが分かります。しかし「願主」の下は空白です。そのため、誰がどのような動機でこの事業を開始したか分かりません。奥書があるのは巻第四百代に入ってからで、それを列記すると、次のようになります
巻第四百七      延文二年十一月八日
巻第四百九      延文二年十一月十三日
巻第四百九十二   延文二年十一月二十三日
巻第五百十七  延文二年十一月十四目
巻第五百二十七 延文二年十一月十八日
巻第五百二十八 延文二年十一月二十一目
巻第五百三十二 延文一二年二月二十日
巻第五百五十二一 延文二年十二月十三日
巻第五百七十一 延文三年二月十九日
巻第五百七十二 延文三年二月十八日
巻第五百七十三 延文三年二月十日
巻第五百八十八 延文三年二月十六日
巻第五百八十九 延文三年二月一日
延文二年(1357)十一月から翌年二月にかけて、巻次を追って書写が進行していることがうかがえます。四ヶ月間で二百巻の書写ペースです。文和四年十月から延文二年十月まで約二年間で四百巻を書写したことになります。大般若経の書写には、十年くらいはかかることはよくありました。それからすれば、このペースは速い方です。書写スタッフが充実していたことがうかがえます。スタッフは僧侶だけで、俗人はいないようです。僧侶でその所属の分かるものを挙げて見ると、次のようになります。
①巻第四百七・四百九    讃州安国寺北僧坊 明俊
②巻第五百十七      如幻庵居 比丘慈日
③巻第五百二十七      讃岐州宇足長興寺方丈 恵鼎
④巻第五百二十八      讃州長興知蔵寮 沙門聖原
⑤巻第五百五十三    讃州綾南条羽床郷西迎寺坊中 
同郷大野村住 金剛佛子宥伎
⑥巻第五百七十二・五百七十三
讃岐國仲郡金倉庄金蔵寺南大門大賓坊 信勢
①の安国寺は、足利尊氏・直義兄弟が、夢窓疎石の勧めにより、元弘以来の戦死者の供養をとむらい平和を析願するため、各国守護の菩提寺である五山派の禅院を指定した寺院です。讃岐では宇多津の長興寺が安国寺に宛てられたとされます。
③④の長興寺は細川氏の守護所の置かれた宇(鵜)足郡宇多津に細川顕氏が建立した神宗寺院のようです。真木信夫氏は『丸亀の文化財 増補改訂』の中で、①③④を挙げて安国寺は長興寺であることを示すものとしています。しかし、①③④は同じ延文二年十一月に書写されています。もし長興寺が安国寺に指定されたとすると、一寺の寺が二つの寺名を使っていたことになります。そんなことがあるのでしょうか。
②の如幻庵については、何も史料がありません。禅宗系寺院の庵室の可能性を研究者は指摘するのみです。
⑤羽床の西迎寺は今はありません。綾南条羽床郷とあるので宇多津から南方の阿野郡内にあった寺のようです。同じく⑤の大野村についても分かりません。書写をした宥伎は金剛佛子とあるので西迎寺は密教寺院であったようです。
愛媛県越智郡玉川町の龍岡寺蔵大般若経巻第五百九十八奥書には、西迎寺のことが次のように記されています。
迂時康暦第三辛酉二月参拾日 讃洲綾南條羽床郷西迎寺坊中令書写畢 金剛資有俊

ここからは羽床郷にあった西迎寺では、約30年後の康磨三年(1381)にも大般若経の書写が行われていたことが分かります。羽床は南の山を超えるとまんのう町種子の金剛院と近い位置にあります。金剛院からは多くの経塚が出土しています。金剛院は書経センターで、宗教荘園の役割を果たしていたことを報告書は記します。その周辺部の寺院でも大般若経の書写が行われていたことがうかがえます。

⑥の金蔵寺は智証大師円珍ゆかりの寺院で那珂部(善通寺市)にある天台宗寺院で、四国霊場でもあります。その大宝坊は応永十七年三月の金蔵寺文書に見える「大宝院」の前身のようです。
この寺は、多度津の道隆寺と共に、写経センターとして機能するようになります。経典類も数多く集められ、学問所として認められ、多くの学僧が訪れるようになり、地域の有力寺院に成長していきます。大川郡の与田寺と同じような役割を果たしていたと私は考えています。
 この他にも、所属の分からない巻第四百九十三・五百八十八書写の金剛佛子宥海、巻第五百七十一書写の金剛仏子宥蜜も「金剛」がつくので密教僧であり、宥伎との関係が推測されます。

以上からは、僧侶等は真言や天台など宗派にかかわらず書写事業に参加していたことがうかがえます。
大般若経の書写には、「知識」を広く結縁するという願いがあるためか宗派の枠を越えて行われます。当時の讃岐では、増吽のいた大川郡の与田寺が書写センター的な役割を果たして、いくつもの大般若経の書写を行っていることは以前お話ししたとおりです。また奥書にみえる寺は、宇多津のヒンターランドの讃岐国中央部に当たります。おそらく奥書記載のない他巻の結縁者も、多くはその圏内の者であったと研究者は考えているようです。

 その中でも中心的な位置をしめた寺院は、どこでしょうか。
①~⑥までの中で云えば、「願主」の記載のある巻第五百七十一・五百七十三を書写した金蔵寺のようです。金蔵寺が書写事業の中心であったことは、この大投若経のその後の変遷からも分かるようです。
以上をまとめておくと次のようになります
残された奥書からからは、文和四年(1355)に写経事業が始まり、延文二年(1358)年頃には全巻が完成したことが分かります。これは異例の速いスピードでした
  その70年後に、一部が失われたか破損したようで永享八年(1426)に補写された巻もあります。そして、延徳三年(1491)に、多度郡道隆寺の僧が願主となって、那珂郡下金倉惣蔵社の所有となっていた大般若経一部六百巻を折り畳む事業が行われます。これが最初の改装で、巻物から旋風葉にスタイルが変更されたようです。

 延文三年(1358)に完成した大般若経が、どこに納められたかは分かりません。
しかし、その後に破損が生じたためか永享七年(1435)に那珂郡杵原宝光寺の慶宥により書写され補充されています。宝光寺という寺は今はありませんが、慶宥は三宝院末弟とあるので真言宗醍醐寺系の寺院に関係ある僧侶だったのでしょう。那珂郡杵原は、現在の九亀市柞原町で、宇多津と金蔵寺との中間にあたります。宝光寺僧が書写補配したことから、この周辺部に大般若経が置かれていたことはうかがえます。
大般若経 正覚院 下金倉
讃州仲郡金倉下村の惣蔵社の「御経」と読めます

 どこに保管されていたのかが分かるのは延徳三年(1491)になってからです。
下金倉村の惣蔵社(官)の常住経として保管されるようになったことが上の奥書から分かります。下金倉は金倉川河口の右岸で、金蔵寺の北方約3kmの地です。しかし、惣蔵社という神社は、今はありません。
延徳三年は、書写が完成した延文三年から130年以上も経っていますが、もしかしたら最初からこの惣蔵社に置かれていたのかもしれません。近年の各地の大般若経調査で明らかになったことのひとつに、明治の神仏分離以前は神社に大般若経があったことです。大般若経が村落での信仰の対象として、神社の祭礼で使用されていたのです。そういう視点からすれば、大般若経書写が最初から惣蔵社に奉納するために行われたとかんがえることもできます。宗派を越えた結縁者(書経参加者)のネットワークからは金蔵寺という一寺院へ納めるためというよりも、地域での信仰の対象であった神社に備えるために行われた可能性が高いと研究者は考えているようです。

大般若経 正覚院道隆寺願主 2
巻第六百の奥書
 延徳三年の奥書には他にも興味深い記載があるようです。
それは、上の巻第六百の奥書です。ここには
「讃州多度郡於道隆寺宝積院奉如件」

とあり、全六百巻が多度那道隆寺宝積院で「折られている」ことが分かります。「折る」とは、巻物を折本に改装することです。この時に巻子本から旋風葉に変わったようです。軸を取り外して、一定の行数で折り畳み、前後の表紙と包背布を付けることは、私が思うような簡単な作業ではないようです。これには専門の経師の技術が必要でした。大規模な修理や改装になるので「再興」とみなされ、発願者がいる場合もあります。この場合も「再興事業」の大願主として道隆寺の権大僧都祐乗と権少僧都祐信の二人の名が最後に記されています。

大般若経 正覚院道隆寺願主

 巻第四百七には、祐信は道隆寺別当と記されます。
道隆寺は以前にもお話ししたように「海に開かれた寺院」として、塩飽や白方、庄内半島などの寺社を末寺として、地域の中核寺院の機能を持つようになっていました。その道隆寺が惣蔵社の大般若経の折本化を行ったようです。
道隆寺 中世地形復元図
中世の堀江湊と道隆寺周辺の復元図
道隆寺は、金倉川を隔てて下金倉の西側に位置します。
道隆寺文書には永正八年(1511)頃には、下金倉に道隆寺の所領があったと伝えます。延徳三年頃には、下金倉にあった惣蔵社を末寺とするようになっていたのかもしれません。それが改装事業をおこなう契機になったのでしょう。

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木烏神社(塩飽本島 泊)

それでは、下金倉にあった大般若経がどうして塩飽に移されたのでしょうか? 
下の巻第四・三百八・三百二・三百二の奥書からは、惣蔵社の大般若経が天正十三年(1585)には海を渡って塩飽島(本島)泊浦の木鳥宮(神社)の経典となっていたことが分かります。木烏神社は本島泊の鎮守社です。
大般若経 本島木烏神社

 ここには、木鳥宮経典として社殿から出さずに護持されるべきものであったが、「衆分流通」であると記します。「流通」とは、もともとは仏の教えを広めるという意味ですが、ここでは鎮守神祭祀を担う泊浦住民共通の経典という意味のようです。ここからは、この大般若経が木烏神社で年中行事や臨時の転読等に用いられていたことが分かります。
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   木烏神社本殿から鳥居方面を眺める 直ぐ向こうが備讃瀬戸

 この年に西山宝性寺住持秀憲が破損していた六巻を修復し、不足の巻を補っています。西山とは泊の西山で、宝性寺はかつては正覚院の末寺であり、木烏神社とも関係があった寺院だったようです。
なぜ大投若経がこの島に移されたのか、それはいつのことかなど詳しいことは分かりません。ただ、道隆寺と正覚院は同じ醍醐寺系の寺院として密接な関係にあったようです。
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正覚寺
正覚院の『道隆寺温故記』を年代順に並べ、年表化してて見ましょう。

弘治二(1556)年九月二十日 道隆寺僧秀雄が正覚院尊師堂の供養。
天正三年(1575)二月十八日 道隆寺の良田が正覚寺本堂の入仏供養導師を勤めています。
天正十八年(1590)年   秀吉の塩飽朱印状発行 
文禄元(1592)年 道隆寺の良田が正覚寺に移り、道隆寺院主として正覚院を兼帯
慶長十年(1605)十月十六日 良田が塩飽で死亡。
以前にもお話しした通り、道隆寺の布教戦略は塩飽への教線ラインの参入拡大で、本島の正覚寺を通じて、塩飽の人とモノの流れの中に入り込んでいくものでした。そのために道隆寺院主の良田は、正覚院を兼帯し本島で生活していたようです。ここからは道隆寺にとって、塩飽本島は最重要の拠点だったことがうかがえます。それが下金倉にあった大般若経を、塩飽泊浦に移す背景になったと研究者は考えているようです。分かるのは、戦国時代に道降寺信仰圏内にあった下金倉の惣蔵社から、塩飽本島に移されたという事実だけです。  
 その大般若経が現在の正覚寺移ったのは、近代になってからのようです。その理由については、よく分かっていないようです。

以上をまとめておくと次のようになります。
①14世紀半ばに、金蔵寺が願主となり大般若経600巻が書写された。それがどこに納められたかは分からない。
②この大般若経は、15世紀末には那珂郡の下金倉惣蔵社の所有となっていたことが分かる。
③それを、多度郡道隆寺が願主となって、「折り本」化するスタイル変更が行われた
④戦国時代末に道隆寺の塩飽布教の一環として、下金倉の惣蔵社(官)の大般若経は、本島の木烏神社に移され、別当寺のもとで祭礼に使用された。
⑤明治の神仏分離などで、別当寺が退転する中で、仏具とともに正覚寺に移された。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「加藤優 本島正覚院と与島法輪寺の大般若経  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」です

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塩飽本島の笠島集落
江戸時代の塩飽諸島は、朱印状を与えられた廻船の島として特別な位置を持つようになります。
天正十八(1590)年秀吉の朱印状によって、塩飽島1250石が、船方650人の領知するところとなります。船方(水主)650役の島として、秀吉の直轄領に指定され、小田原攻や朝鮮出兵に関わりました。この朱印状は、家康によって安堵され、江戸時代も幕府の直轄領として、650人の水主役を果し「船方御用相勤」を続けます。
 このような島は、他にはありません。芸予諸島の村上水軍と比べると、非常に有利な条件で中世の財産を、近世に持ち込むことができたと云えるかもしれません。このように塩飽島の水主役は、秀吉の天下統一・対外政策とかかわって設定されたものであることを前回はみてきました。
 江戸時代半ばになると、その性格を次第に変えていくようになります。戦時の後方支援という役割から朝鮮通信使や長崎奉行の送迎など幕府の政治・外交上に関係する海上輸送業務に従事することが任務になっていきます。
 塩飽島における政務は人名から選ばれた「年寄・庄屋・年番」などによって行われました。
近世初期に「年寄」を勤めたのは入江氏・真木氏・古田氏・宮本氏などです。寛永以後は、吉田氏と宮本氏を中心に自宅を塩飽政所と称し、浦(本島と広島)や島に置いた庄屋・年番を続轄して支配が行われました。そのため世襲化した年寄の支配がだんだん強大となり、人名内部からも反発が生まれ、寛政元年年四月には巡見使へ政所改革の訴願が行われます。これを契機に、行政改革が行われたことは以前にお話しした通りです。
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 この改革の一環として、政務センターとしての勤番所が建設され、ここで塩飽島の行政が行われるようになります。
塩飽島の行政は、この寛政改革によって塩飽政所行政(年寄の自宅)から塩飽勤番所行政へと変り、組織的にガラス張りで行われるようになったともいえます。そして年寄を中心とする勤番所行政は、明治五年まで続くことになります。
 近世初頭の年寄支配の強さの背景として、研究者は次のような要因を挙げます
①中世以来の在地土豪の出身であり、土地所持者であったこと
②船方の棟梁で廻船業者であり、社会的地位が高く、経済力が卓越していたこと
年寄たちが「土地所有 + 廻船業者」によって経済力をもっていたことが大きかったようです。宝永元年八月「塩飽嶋中納方配分帳」(塩飽勤番所保管文書)からは、当時の年寄四人の年寄役が、飛び抜けた配分高を得ていたことが分かります。その年寄の残したものを見てみましょう。
年寄役の一人である笠島浦の吉田彦右衛(彦右衛門は世襲名)は、笠島浦の奥まった所に約271坪の屋敷をもっていました。
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そして、菩提寺の浄土宗専称寺境内には「塩飽笠嶋之住人吉田彦右衛門家永」と刻まれた大きな「人名墓」と呼ばれる墓石を残しています。これは高さ2,3m、幅75㎝・厚さ44㎝の逆修墓石で、寛永四(1627)年八月四日に建立されたものです。
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この他にも家永(長)は、八幡宮(泊浦宮之浜)の大鳥居を、寛永五年六月に年寄宮本家とともに奉献しています。大鳥居には「塩飽嶋政所吉田彦右衛門家長」と刻まれています。寛永年間頃の政所(年寄)吉田彦右衛門家永が、豊かな財力を持っていたことがうかがえます。
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 泊浦の年寄宮本家も吉田彦右衛に並ぶ財力の持主だったようです。
年寄宮本半右衛門も、笠島の吉田家が「人名墓」を建てた同じ年の寛永四(1627)年に、初代宮本伝太夫の墓を作っています。
塩飽島(香川県丸亀市本島町)泊浦木烏神社鳥居 八幡神社鳥居と 小烏 (こがらす) 神社鳥居は薩摩石工、 紀加兵衞 (きのかへい)  作である。寛永四年(一六二七)作である。 木烏神社 甲生浦、徳玉神社(安徳天皇は屋島敗戦後塩飽に移られた)
木烏神社(泊浦)の大鳥居

同時に木烏神社(泊浦)の大鳥居を、薩摩の石大工紀加兵衛に製作させ奉献しています。寛永年間には、笠島浦の吉剛家と泊浦の宮本家は、豊かな財力をきそい合っていたようにも見えます。八幡宮の大鳥居建立には吉田彦右衛門家長をはじめとする吉田家が中心となり、それに宮本家も加わっています。また木烏神社の大鳥居建立には宮本半右衛門正信をはじめとする宮本家が中心となり吉田家も加わり建立しています。この時期、年寄の両家を中心として塩飽島は、廻船業などで繁栄し、黄金時代を迎えていた時代です。それが立派な墓石や大鳥居の建立となって、今に残っているのでしょう

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このような塩飽の繁栄は、いつまで続いたのでしょうか。
廻船業は競争時代に突入し、相対的に塩飽島の地位は低下していきます。明和二(1765)年八月「塩飽嶋明細帳」(塩飽勤番所保管文書)には、次のような記録が残っています
一、船数大小合三百弐拾壱艘
七艘    千百石積より千四百石積迄    廻船
五拾七艘 四百五十石積より三十石積迄  異船
拾壱艘    五十石積より入石積迄      生船
弐拾三艘  三拾五石債より弐十石積迄    柴船
八十八艘  弐拾五石積より八石積迄    通船
百三十三艘 十三石積より五石積迄      猟船
式艘    三十石積            網船
嶋々之者共浦稼之儀、先年者廻船多御座候而、船稼第一二付候得共、段々廻船減候二付、異船稼並猟働付候者茂御座候、且又他国江罷越、廻胎小舟之加子働仕、又ハ大工職付近国江年分為渡世罷出候、老人妻子共農業仕候
意訳変換しておくと
塩飽では、かつては廻船が多くあり船稼が第一だった。ところが、明和2(1765)年になると塩飽島の人々の職業は、廻船を中心とする船稼から、廻船・異船(貸船)・猟働・他国の廻船・小舟の加子働きや大工職などで出稼ぎする者が多くなり、老人子共は島に残り農業を行うようになってしまった。

これは、島の窮状を訴えるための文書なので、そのままには受け取れませんが、廻船中心に栄えた経済繁栄が失われ衰退しつつあることを危機感を持って訴えています。
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笠島集落

正式文書に「人名」と言う言葉は出てきません。「船方」が正式な呼び名です。
 年寄は別な表現をすれば、船方650人のメンバーの一人でもありました。近世初期の年寄は、一族で多くの船方を担当したはずです。この船方を何時の頃からか塩飽島においては、人名と呼ぶようになります。しかし、江戸時代には公式文書には、この呼称は使用されていません。使われているのは「船方」(水主)です。それも年寄と大坂船手奉行・大坂町奉行との間の文書のやりとりの中に限られ、年寄からの文言に対して具体的に指示する必要から便宜上使用しているだけだと研究者は指摘します。
 明治になっての維新後秩禄処分の金禄公債証書交付願のやりとりの中でも、政府は水主という言葉を使用し、人名という言葉は全く使用していません。つまり近世・近代において人名という呼称は、塩飽島で私的に使用されてはいますが、公的には使用されていなかったことは押さえておきたいと思います。
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笠島集落
それでは「人名」という言葉が広がったのは、いつからなのでしょうか。
塩飽島の人々の間で、人名に対する認識が深まるのは、版籍奉還・秩禄処分の問題を通してのことのようです。金禄公債証書交付願の運動(明治9年~34年頃まで)を通して、人名650人の結束は強められていきます。その動きを見てみましょう。笠島町並保存地区文書館展示史料には、明治になっての豊臣神社の勧進運動の記録が残っています。
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尾上神社(笠島浦)
笠島浦では、明治14年11月に、人名78人が、尾上神社境内へ豊臣神社(小祠)の新設を那珂多度部長三橋政之宛願い出て、許可されます。その願文には次のように記されます。(意訳)
 維新によって領知権は消滅したが、秀古の発拾した朱印状によって島民の生活は支えられた、その恩に報ゆるために笠島の人名同志78八人が相談して、「豊霊ヲ計請シ歌祥デ悠久二存仁セン」として、豊臣神社(小祠)の新設した。その経費は人名78人の献金で、維持費は人名の共有山林を宛てた。

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笠島の尾上神社
笠島の尾上神社の上り口にある豊臣神社の前には、二本の石柱が立っています。向って左の石柱には
「国威輝海外」(表)、
「当浦於七十八人 明治三十一年一月元旦建之」(裏)
右の石柱には
「忠勤致皇室」(表)
「天正年間征韓之役従軍塩飽六百五十中」(裏)
と刻まれています。この二本の石柱は、日清戦争の勝利と秀吉の朝鮮出兵を歴史意識としてダブらせて建てられたようです。日清戦争の勝利記念と自分たちの先祖の朝鮮出兵が結びつけることで、ナショナリズムの高揚運動と、人名の子孫としてのプライドを忘れまいというる意図が見えてきます。このように豊臣神社や石柱の新設建立に、笠島浦の人名は結束して行動しています。この豊臣神社のある尾上神社の境内には「一金四百円 当浦人名中」(年不記)刻まれた寄付金の石柱もあります。
塩飽島(香川県丸亀市本島町)泊浦木烏神社鳥居 八幡神社鳥居と 小烏 (こがらす) 神社鳥居は薩摩石工、 紀加兵衞 (きのかへい)  作である。寛永四年(一六二七)作である。 木烏神社 甲生浦、徳玉神社(安徳天皇は屋島敗戦後塩飽に移られた)
 今度は泊浦の木烏神社境内を見てみましょう。ここには、次のような刻字のある石碑が泊浦人名90人によって建てられています。
「豊公記念碑海軍大将子爵斉藤実書」(表)
「塩飽嶋中人名六百五拾名之内泊浦人名九拾人 昭和三年十一月建之」(裏)
以上のように本島の笠島浦・泊浦を歩いただけでも「人名」と刻した石柱・記念碑などがいくつも目に入ってきます。朱印状の船方650人は人名として昭和期まで結束して活躍していることが分かります。
3  塩飽  弁財船

 天正十八(1590)年の秀吉朱印状の「船方六百五十人」の船方は、戦時の水主役が勤まる650人であったはずです。しかし、江戸時代の天下泰平の時代になると、水主役の代銀納が行われるようになります。
広島の江の浦庄屋七郎兵衛の安永八年の記録「江ノ浦加子竃数並大小船数」には、次のように記されています。
加子(水主)一人役株を持つ八左衛門は、職業(渡世)は木挽、同喜十郎は農業、同太治郎は異船(貸船)商売、同新七は農業、同治郎左衛門は廻船加子働、同喜兵衛は加子
ここからは加子役株(人名株)を持っている人たちの職業(渡世)は色々であったことが分かります。つまり船方(水主)650人という実質的な夫役負担者から、水主役とは関係のない職業の者が、水主株所持者(船方・人名持者)になっていたようです。

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 人江幸一氏保管文書によると幕末、人名持(人名株、船方・水主・人名)という表現がよくみられるようになります。例えば次のような人たちです。
人名持百姓何某・人名持船方何某・人名持大工何某・人名持庄屋何某・人名持年番何某・人名持弥右衛門・人名持三郎後家たつ・入名持長左衛門後家とよ・人名持彦吉後家さゆ・人名持兼二右衛門後家さよ
ここからは「大工や後家」の人たちまで人名株を持っていたことがうかがえます。水主役とは、戦時召集には水夫として活躍するはずでしたが、そこに「後家」も名を連ねているのです。

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さらに、人江幸一氏保管文書の安政三年「辰麦年貢取立帳」(泊浦)に「人名株弐口五人二而割持」とあります。安政五年「午責年貢取立帳」(泊浦)には「小人名持分」として、人名一株未満の所持者を「小人名」と呼び、十二人の小人名の名前が記載されています。ここからは幕末には、人名一人役(一株)が複数人によって分割所持されていたことが分かります。
以上の例から、研究者は次のように指摘します。
①水主役に従事できない人々の水主役(株)の所持が進行していた
②水主一人役(株)が、複数人によって所持されるという水主役株の分化が進行していた
これは、近世初頭の人名設置からすると、水主役(船方役・人名役)の形骸化が進行していたと云えます。
この背景には、人名株を一人前でなくても所持したいという願望があったのでしょう。このように朱印状の船方六百五十人の仲間になりたいという願望が、塩飽島の人々には強くあったようです。塩飽島において船方(人名)株を持つことが、一つのステータスと考えられていたのです。
 慶応四年一月人名(株)のない小坂浦の者達が人名二人前を要求して小坂騒動が起こったことは、その象徴としてとらえることができよう。そのような意識は明治以後も強く、「人名社会」という言葉が使用され、「人名」と刻したさまざまな石柱や記念碑を造らせたともいえよう。
咸臨丸で太平洋を渡った塩飽の水夫|ビジネス香川

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参考文献
  「加藤優


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