瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:木熊野神社

中世讃岐でどんな人達が熊野詣でを行っていたのか、また、彼らを先達として熊野に誘引していた熊野行者とはどんなひとたちであったのかに興味があります。いままでにも熊野行者については何回かとりあげてきましたが、今回は讃岐の熊野信仰について、檀那売買券から見ていくことにします。テキストは、「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」です。
増吽僧正(武田和昭 著 ; 総本山善通寺 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 熊野参拝のシステムは次の三者から成り立っていました。
①参詣者を熊野へと導き、道中を案内する先達(熊野行者)
②熊野での山内の案内、宿泊施設の提供、祈祷など世話役としての御師
③檀那として御師の経済的支援をする武士
①の先達については、熊野で修行した修験者が四国に渡り行場を開きます。それが阿波の四国88ヶ所霊場には色濃く残っているところがあります。四国各地の霊山を行場化していったのもにも熊野行者でないかとも云われています。彼らは修験者としての修行を行うだけでなく、村に下りて熊野詣でを進める勧誘も行うようになります。その際の最初のターゲットは、武士団の棟梁など武士層であったようです。地方にいる先達を末端として、全国的なネットワークが作られます。その頂点に立つのが御師になります。祈祷師でもある御師は先達を傘下に収め、先達から引継いだ信者を宿泊させるだけでなく、三山の社殿を案内します。
 ③の熊野参詣を行う信者を旦那とよびます。旦那は代々同じ御師に世話になるきまりがあったので、熊野の御師には宿代や寄進料などの多くの収入が安定的に入るようになり、莫大な富と権力を得るようになります。その結果、御師の権利が売買や質入れの対象として盛んに取引されるようになります。そのため熊野の御師の家には、檀那売券がたくさん残っているようです。
那智大社文書の中にある檀那売券の讃岐関係のものを見ておきましょう。
永代売渡申旦那之事
合人貫文  地下一族共一円ニて候へく候、
右件之旦那者、勝達坊雖為重代相伝、依有要用、永代売渡申所実上也、但 旦那之所在者 讃岐国中郡加賀井坊門弟引旦那、一円二実報院へ永代売渡申所明鏡也、若、於彼旦那、自何方違乱煩出来候者、本主道遺可申候、乃永代売券之状如件
うり主 勝達房道秀(花押)
文亀元年峙卯月二十五日
買主 実報院
  意訳変換しておくと
檀那売券の永代売渡について
合計八貫文で、地下一族一円の権利を譲る
ニて候へく候、
この件について旦那とは、勝達坊の雖為が相伝してきたものであるが、費用入り用ために、(檀那権を)売渡すことになった。その檀那所在地は 讃岐国中(那珂)郡の加賀井坊門弟が持っていた旦那たちで、これを那智本山の実報院へ永代売渡すものとする、もし、これらの旦那について、なんらかの違乱が出てきた時には、この永代売券の通りであることを保証する。如件
         うり主 勝達房道秀(花押)
文亀元年峙卯月二十五日
買主 実報院
これは讃岐国中(那珂)郡加賀井坊門弟檀那を勝達坊道秀が、実報院へ8貫文で永代売り渡すというものです。先達権を買い取った実報院は、配下の熊野行者を指名して自らの所に誘引させます。これは一番手っ取り早い「業績アップ」法です。そのため同様の文書が熊野の御師の手元には残ることになります。
讃岐の熊野信者を受けいれた実方院について、見ておきましょう。
 室町時代初期には、数十人の御師がいたとされ、本宮では来光坊、新官では鳥居在庁、那智では尊勝院や実報院が有力でした。御師は地方の一国、または一族を単位として持ち分としていました。そのなかで、讃岐は那智の実報院の持ち分だったとされます。大社から階段を10分ほど下ったところに実方院跡があります。その説明版には、次のように記されています。
実方院跡 和歌山県指定史跡 中世行幸啓(ぎょうこうけい)御泊所跡
熊野御幸は百十余度も行われ、ここはその参拝された上皇や法皇の御宿所となった。実方院の跡で熊野信仰を知る上での貴重な史跡であります。 熊野那智大社
実方院跡 - 平家物語・義経伝説の史跡を巡る
実方院跡(現在は那智大社の宿泊所)

実方院は熊野別当湛増の子孫と称する米良氏が代々世襲し、高坊法眼(ほうげん)とよばれました。熊野では熊野別当がリーダーですが、別当と上皇の橋渡し役を務めたのが熊野三山検校でした。その家柄になります。それまでも那智山の経営維持は皇族・貴族の寄進に頼っていました。皇室が最大のパトロンだったのです。ところが承久の乱後、鎌倉幕府の意向を忖度してか、上皇・公卿の参詣はほとんど行われなくなります。また幕府は上皇側についたとして熊野への補助を打ち切っります。こうして財源を失った熊野三山は、壊滅的な打撃を受けます。皇室や貴族に頼れなくなった熊野では、生き残る道を探さなくてはならなくなります。そのために活発化したのが、熊野行者による全国への勧誘・誘引で、そのターゲットは地方の武士集団や有力者たちでした。こうして、四国の行場に修行と勧誘を目的に、熊野行者達が頻繁に遣ってくるようになります。中には、地域の信者の信頼を得てお堂を建て定住するものも現れます。

熊野那智大社文書 1~5 - 歴史、日本史、郷土史、民族・民俗学、和本の専門古書店|慶文堂書店

那智大社文書のなかには讃岐関係のものが数多くあります。それを年代順にまとめたのが表1です。
熊野大社文書1
熊野那智大社文書の讃岐関係の檀那売買券
那智大社文書2
『熊野那智大社文書』の讃岐関係文書名     (野中寛文氏作成)
この一覧表からは次のようなことが分かります。
①最初の檀那売券発行は弘安3年(1280)で、鎌倉時代の終わりの13世紀末以前から、讃岐でも熊野詣でが行われていたこと。
②発行時期の多くは15・16世紀で、室町時代に集中している。讃岐で武士団に熊野詣でが流行するようになるのは、この時期のようです。
③15世紀には、継続して発行が行われていること。応仁の乱などの戦乱で衰退化したという説もありますが、この表を見る限りは、戦乱の影響は見えません。
④地域的には高松以東の東讃地域が多く、西讃には少ないこと。特に三豊エリアのものはひとつもありません。ここからは熊野行者の活動が東に濃く、西に進むにつれて薄くなっていく傾向が見えます。
⑤文明17(1485)の売券の檀那名には「安富一族・野原角之坊引一円」とあります。安富一族とは雨滝城を拠点に、東讃の守護代を務めていた武士集団です。有力な武士団を東讃では旦那に持っていたことが分かります。東讃には、水主神社や若皇子(若一王子大権現社)などがあり、熊野信仰の流布の拠点となっていました。東讃から次第に西に拡がったということがうかがえます。
⑥文明8年(1476)の売権には、先達名に「陰陽師若杉」とあります。陰陽師も熊野へ旦那を引き連れ参詣しています。熊野行者だけでなく、諸国廻国の修験者たちも熊野詣での先達を勤めていたことが分かります。
⑦文明5年(1473)には「白峯寺先達旦那引」とあります。白峰寺には中世には30近くの子院や別院があったとされます。その中には熊野先達を務めるものもいたようです。
⑧明応3(1493)年以後に、5通の「勝達房道秀檀那売権」が毎年のように出されています。さきほど見た文書です。
  最初の霞(エリア)は、「中郡スエ王子王主下一族共・加戒房・勝造房門弟引」とあります。「スエ」は「陶」だとすると、これは中郡でなくて鵜足郡になります。陶にある「加戒房・勝造房」が持っていた檀那権を譲り渡したようです。この勝達房は、陶以外にもいくつも霞を持っていたようで、「東房池田」や「中郡加賀」「中郡飯田」の霞を手放しています。そして、永生2(1505)には、「円座の西蓮寺・一宮の持宝房」を抵当に入れて借金したようです。            
 以上からは、勝達房道秀は現在の琴電琴平線沿いの陶から円座・一宮にかけての広い霞を持つ熊野修験者だったことがうかがえます。彼は「熊野行者 + 山岳修行者 + 廻国修験者 + 弘法大師信仰 + 勧進僧 + 写経僧侶」などのいくつかの顔を持っていたことは以前にお話ししました。この時代に姿を見せる真言宗の寺院の多くは、彼らによって建立されたと研究者は考えているようです。

つぎに讃岐の熊野系神社について、見ておきましょう。
熊野系の神社は「熊野神社」と呼ばれる以外にも「十二所権現、三所権現、若一王子権現、王子権現」などとも呼ばれます。その祭神の多くは伊井再命、速玉男命、事解男命の三神です。それらを考慮しながら香川県内の熊野系神社(『香川県神社誌』より)を一覧表化したのが
次の表です。

 香川の熊野神社1
 香川の熊野神社NO1 東かがわ市から高松
(三木・高松市内) 

讃岐の熊野神社3
高松市周辺
讃岐の熊野神社4
丸亀平野周辺

ここからは次のようなことが分かります。
①讃岐の熊野神社系は、43神社
②先達売権と同じように、東讃に多く西讃に少ない。特に三豊地区は3社のみ
③東讃で集中しているのは、髙松平野。。
④西讃では善通寺市内に4社ある。
善通寺は、空海生誕の地とされると同時に、その後の我拝師山は空海修行の地とされ、修験者や聖たちの憧れの聖地であったことは以前にお話ししました。歌人の西行も、この地に憧れ白峰寺で崇徳上皇の霊を慰めた後は、五岳山の中腹に庵を構えて3年近く修行したと伝えられます。中世には、数多くの修験者が集まる場所であったようです。そんな中に熊野行者も加わり、修行を行いながら熊野への誘引活動を展開し、それがうまくいくと地区ごとに熊野神社を勧進したのではと私は考えています。そういう意味では、善通寺市内の熊野神社は熊野行者の活動モニュメントでもあり、善通寺が全国の行場の聖地として認知されていたことの証拠のようにも思えてきます。

木熊野神社(善通寺市仲村)
木熊野神社(善通寺市仲村)
佐伯氏の氏寺として建立された善通寺は、佐伯氏が中央貴族になって京都に出て行くとパトロンを失ってしまいます。そして、11世紀には倒壊したと研究者達は考えています。11世紀以後の瓦が出てこないからです。それは屋根の葺き替えが行われなくなったことを意味します。それを復興したのは佐伯氏ではなく、全国からやってきていた修験者たちでした。彼らは、時には勧進僧にもなりました。西行が歌人として有名ですが、彼が高野聖で、高野山を初めとする大寺院の勧進活動に有能な集金力を見せていたことは、今はあまり語られません。熊野行者たち修験者の勧進で、中世初期の善通寺は復興したと私は考えています。

ちなみに『讃岐国名勝図絵』を見ていると、王子権現・熊野神社として記されるものが、数多くあります。幕末にはもっと熊野神社系の寺院もあったはずです。しかし、神仏分離、小神社統合制作で、廃社・合祀されたものがあり、現在確認できのが上表ということになるようです。

讃岐に熊野神社が勧請されたのは、いつ頃なのか?
その前にまず、四国の様子を簡単に見ておきましょう。
 土佐では、吉野川上流や物部川の流域と海岸線に熊野系神社が多く見られます。その中で早い時期のものとして高岡郡越知町の横倉山への勧請で、保安三年(1122)とされます。次が長岡郡本山町の早明浦ダムの直下にある若王子神社で、久安五年(1149)には、熊野から勧請され長徳寺の鎮守となっています。その後、鎌倉時代以降も勧請が続き、中世末期には、およそ69社もの熊野関係の神社があったようです。
伊予では、古い熊野系神社は、四国中央市新宮町の熊野神社です。
ここの神輿鏡銘には、貞応1年(1223)、大般若経の奥書きに、嘉禄2年(1226)の墨書銘があります。鎌倉時代初期には勧請されていたことが分かります。この神社から銅山川を遡り、三角寺方面から四国中央市に教線ラインを伸ばしていったことが考えられます。新宮の熊野神社は、吉野川上流の土佐エリアへも教線ラインを伸ばします。四国の中央に位置するこの神社は、熊野詣での際にも、立ち寄られた聖地であったようです。

阿波の場合は南部の那賀郡と古野川沿いに熊野系神社が数多くみられます。
那賀河口付近は、海路を通して紀州熊野との関連があったところで、熊野詣での四国側の海路の出発地点だったとも考えられています。一方、吉野川流域は川自体が輸送路としての役目を果たし、人やモノが流れるラインです。その中で板野郡上板町引野は、日置庄として天授5年(1379)に後亀山天皇が紀州熊野新宮に寄進します。新宮領となった日置荘には、当然熊野神社が勧進されます。
 それでは讃岐はどうなのでしょうか?
最初に見た先達権売買書類には、弘安3年(1280)、永仁6年(1298)など、鎌倉時代後期にはのものがありました。この時期には、讃岐の武士達の間には熊野詣でを行う人達がいて、それを先達する熊野行者もいたことになります。
 先ほど挙げた讃岐の熊野系神社43社のうち確実な資料は、ほとんどありません。あやふやな社伝に頼らざるをえないようです。社伝で創立年代を見ていくことにします。
①高松市大田の熊野神社   元久~承元(1204~12 98年)ころ
②善通寺筆岡の木熊野神社 元暦年間(1184)
③三木町小簑の熊野神社 文治年間(1185~1190)阿波の大龍寺から勧請
これらすべてを信じるわけにはいきませんが、一応の参考としておきます。鎌倉時代には武士階級、とりわけ地頭クラスの武士が、それまでの貴族階級に代わり熊野参詣が盛んになります。そして彼等が信者になると、熊野神社が地方へ勧請されるようになります。讃岐の熊野系神社のなかにも、このようにして創建された神社があるのかもしれません。

讃岐への勧請については、次の2つのパターンがあったようです。
①紀州熊野から直接に勧請される場合
②紀州熊野から阿波などに勧請され、その後に讃岐に勧請されるケース
②の例が小豆島の湯船山です。17世紀末に書かれた『湯船山縁起』には、暦応年間(1338~42)ころに、佐々木信胤によって備前児島から勧請されたことが記されています。信胤は南朝方の武士として熊野水軍と深い係わりがあり、児島から小豆島に渡ってきます。紀伊水軍による備讃瀬戸制海権確保が目的であったようです。児島には、熊野行者のサテライトである児島五流があります。そこからの勧進ということなのでしょう。
 小豆島の寺院は、1つ真宗寺院があるだけで、その他は総て真言宗です。そして、鎮守社として熊野神社を祀る所が多いように見えます。例えば島88ヶ寺の清見寺、玉泉院、浄上寺、滝水寺、西光寺、瑞雲寺などでは熊野神社が鎮守社として勧進されています。これは熊野→児島五流→小豆島という教線ラインの伸張から来ていると私は考えています。
また三豊郡山本町の十二社神社は戦国時代に阿波・白地の城主、大西覚養によって、阿波池田から勧請されたとされます。このように熊野神社の勧請には、中世武士団が関わっていることが多いと研究者は考えています。こうして見ると熊野神社の地方への勧請は、熊野先達による場合と、その信者(檀那)による場合があることになります。
  以上をまとめておきます。
①承久の乱後、幕府・天皇家の保護を失った熊野三山は壊滅的な打撃を受けた。
②その打開策として、天皇家や貴族に代わる信者を作り出すことが生き残り条件となった
③その対象となったのが地方の地頭クラスの武士集団であった。
④そのために熊野行者が各国に出向き修行を行いつつ、彼らの信頼を得て熊野に誘引するようになった。
⑤こうして「檀那 → 先達(修験者) → 御師」という3つの要素が結ばれシステム化された。
⑥このシステムの最大の利益者は御師で、多額の資金が安定的にもたらされるようになり財力をつけた
⑦財力をつけた御師の中には、先達のもつ檀那権を買い取り、自分の顧客とするものも表れた。
⑧その結果、檀那売買券が売り買いされる不動産として扱われるようになった。
⑨残された檀那売買券からは、讃岐の信者達を担当していた実報院には讃岐の檀那売買券が43通残されている。
⑩ここからは室町時代には、讃岐にも熊野行者が定住し、武士層を熊野に引率していたことが分かる。
⑪熊野詣でを終えた武士の中には、自領に熊野神社を勧進するものも出てきた。
⑫併せて、熊野先達達も定住し、寺を開いたり、熊野神社を勧進する者もいた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」
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灸まんうどん(琴平)
私が愛用するうどん屋さんのひとつに琴平の灸まんうどんがあります。半世紀近く味の替わらないうどん屋さんで、ここではもっぱら「ゆだめ」を注文します。昔から変わらない店内の奥の壁に大きな額が掛けられています。
算額 金刀比羅宮(久万うどん)
灸まんうどんの算額   
文政10年(1827)10月 金比羅宮奉納の復元版

 何が書かれているのかは、素人にはさっぱり分かりません。算学の額であることは、額の下の説明版を読めば分かるのですが、それがどんな意味を持つのかまでは、考えたことがありませんでした。

算額 本山寺 万延元年(1860)仲秋
   豊中町本山寺の算額(復刻版)万延元年(1860)仲秋 

 江戸時代後期の満濃池の改修工事や水門のトンネル工事などを見てみると、それを行っているのは庄屋たちです。彼らが土木技術を身について難事業を起こっています。そして、そのためには測量から計算・数式関係に通じていることが求められるようになっていました。志のある庄屋の若きリーダーたちは、算学を学んでいるのです。
彼らがのこした「記念モニュメント」が「算額」だと云えそうです。

算額 名部戸天満宮 天保15年(1844)9月 託間町立民族資料館蔵
 賀茂神社(仁尾町)天保15年(1844)9月  62×150cm

 ということで、算額には何が書かれているのか、何を目的に作られたのか、誰が残したかについて見ていくことにします。テキストは「直井武久  丸亀藩の算学士と算額  香川県文化財協会会報  平成7年度」です。

算額 文政10年(1827)10月金比羅宮
金比羅宮    文政10年(1827)10月奉納(復刻版) 

灸まんうどんに掲げられている算額は、もともとは金刀比羅宮に奉納されたもののリメイク版のようです。算額は、神社に絵馬を掲げるように、数学の難問とその解法を図を添えて掲げてあります。江戸中期以降になって、和算を学ぶ者が増えるにつれて、自分の能力や研究成果の発表などのひとつの方法として、絵馬としての算学が登場してくるようです。絵馬の一種が算額と押さえておきます。

算額 岩清尾神社文化3年(1806)正月
      高松市岩清尾八幡宮の算額 文化3年(1806)3月奉納
香川県に残された算額の制作目的を、研究者は次のように分類しています。
① 問題と解答を広く周知する。
②難問を解き得た自己及び自己の流派、師匠らの能力の誇示
③ 難問の解き得たのは神仏の加護によるものとの感謝の念の表現
④ 神仏の加護によって、今後さらに学力の向上と難問解決の成功を祈念
⑤ 門弟の修学奨励のため
⑥ 問題の解法について、他流派より優位であることの顕示
算額は全国に400枚以上残されているようですが、香川県内にあるのものは、復元も含めて次の通りです。
     奉掲年月       奉掲場所      奉掲者
1、天保十五年(1844)9月 詫間町名部戸    佐保山本立外五人
2、天保十五年(1844)九月 仁尾 加茂神社    佐保山本立外五人
3、安政五年(1858)9月 善通寺木熊野神社  乾景一外十一人
4、万延元年(1860)仲秋   豊中町本山寺    詫間流本田民部信行
5、万延元年(1860)仲秋 豊中町本山寺    詫間流仮名丸上紹介義延
6、明治11年(1878)3月 善通寺皇美屋神社  保信外九人
7、明治33年(1900)2月 丸亀今津天満宮    芥規(芥田正規)
8、文化3年(1806)3月 高松市岩清尾八幡宮 山本利助一武
9、文政10年(1827)10月 金比羅宮      松山寿平輸美

そのなかで 3の木熊野神社の一番大きな算額を見ておきましょう。
善通寺市の中村町にある木熊野神社は、熊野信仰を伝える熊野行者たちの拠点であった神社で、熊野からもたらされたというナギの木が社叢となっていて、県の天然記念物に指定されています。この神社には、善通寺市指定の有形文化財の算額が拝殿に掲げられています。この算額は、横4,2m縦1mの桧材で作られた飛び抜けて大型の算額です。何が書かれているのかを見ておきましょう。
算額 木熊野神社 善通寺市
木熊野神社算額 善通寺中村町 4,2m×1m

まず最初に、関孝和算聖を称え、我々の研究も関先生のお蔭であり、その御礼としてこの額を捧げると感謝の言葉が記されます。続いて、12問の問題が図とともに出題されてます。
算額 木熊野神社2 善通寺市
木熊野神社算額の各問題 上に図が示され下に問題と解法が書かれている

第2問を見てみましょう。
算額 木熊野神社3 問題2 善通寺市

問題を出題している12名は、丸亀藩の和算塾の門人たちです。
その師匠であった岩谷光煕の家は、丸亀城の南の十番丁にあり、代々京極家に仕え、数理方面を得意とした家柄だったようです。江戸時代末期には、寺社方公事方物書として微禄を食んでいました。江戸留学で、和算を学んだ光煕の下には、和算を学びに来る若い門人がふえていったようです。この算額には、第一問を師匠である岩谷光煕が出題し、以下を門人たちが撰者となっています
出題者たちを挙げると次のようになります。
第二問 米谷基至 
丸亀藩士で180俵持 原惣左衛門の四男で、原隼人と称して、早くから光熙の塾に通う。天保11年に印可の免許を得て算学士と称します。まもなく米谷三男治(十四俵三人)の養子となり、名が米谷基至となります。
第二問 松原正遊
第四間 三崎信潤 善通寺下吉田村・石神神社の東の住人。地主
第五問 金関正包
第六間 高嶋義侃
第七間 高木建義
第八問 松本宣知  善通寺中村西下所の住人。地主
第九間 嶋田武員  岩谷光熙の妻知余の弟で光熙の高弟
第十問 乾 景一  善通寺中村の地主
第十一問 小山一慶  善通寺中村の人で木熊野神社の西に居住
第十二問 巌渓光胆 
この算額の願主は、第十問の撰者でもある乾景一です。
彼は、木熊野神社が鎮座する善通寺中村の住人で大地主でもあり、俳句・画・書にも造詣が深い文化人だったようです。和算塾の塾主である岩谷光熙が必要とする図絵は、乾景一が描いています。号は画声。この巨大な算額奉納のために、経費の負担や、神社総代・神主などとの折衝など、もろもろの世話に当ったのが乾景一なのでしょう。彼も、若い頃から丸亀城下町の岩谷光煕の和算塾に通っていたようです。

算額 丸亀市天満神社2
天満天神社の算額 
次に丸亀市の塩屋別院の前にある天満天神社拝殿の算額を見ておきましょう。上の写真を書き起こしたものが下図です。
 算額 丸亀市天満神社1

最初に「算法雑題五問」とあり、「東洋天元演段式算筆解」と「西洋代数幾何筆算解」の両方の解法が書かれています。これに続いて五問があります。上段に図、中段に和算による間・答・解があり、下段に現代数学による解があります。末尾に「 明治33(1900)年10月吉辰日 芥規謹解」とあります。19世紀の最後の年に奉納された算額と云うことになります。この頃には、和算は西洋数学にとって替わられていたはずです。それが、どうしてこの時期になって算額が奉納されたのでしょうか。
この算額には奉納の由来が次のように記されているようです。(本田益夫氏の写しと訳)
この問題を解いた芥規なる者は、嘉永元年(1848)2月塩屋村(現丸亀市)生れの芥田正規である。幼より算数の学に長じ、独学で教員となり郷校に務めた。のち亀池・柳泉・六郷尋常小学校に転じ、約40余年の教職の後、大正3年(1914)8月1日、67歳で病没。
正規は毎朝柱時計を携え登校し、生徒に時を厳守させ、下校の際は携帯して帰った。当時柱時計は村内に2個しか無かったという。また当時の学校日誌によれば、正規は記事の後に歌を記していることが多い。その一例
明治32年2月10日(金) 晴
(当直記事の後)陰暦元旦ニ
あふき見れは 今とし越ゆる 山の端に 朝日かけさす 御代のあけぼの
没後 正規を慕う村民は多く、昭和十年の夏、城坤小学校校庭の一隅に「芥田先生頌徳碑」が建立された。
  ここには和算を極めた几帳面で、生徒に慕われた教師像が見えてきます。彼を慕う教え子は多く、その中の一人の「納主 瑞煙堂」が世話人となって、芥田正規の生家の近くの天満宮に奉納したようです。
この算額は、和算の技量を誇ると云うよりも、和算を身につけていた恩師を慕う気持ちが込められているようにも思います。

  以上をまとめておくと
①幕末の丸亀藩には、丸亀藩の岩谷光煕が開いていた和算塾には多くの門人たちが学んでいた。
②彼らは和算能力を、会計処理や測量、土木などの各方面で活かしていたが身分的には、地主や下級武士が多かった。
③和算グループのリーダーたちは、世間へのアピールや能力向上を祈願して、算額を神社に奉納した。
④算額が奉納された神社周辺には、和算グループの有力メンバーの存在が見られる。
彼らのような実務的な技術者の存在が、土木測量技術の進歩を生み、幕末の満濃池の改築や樋のトンネル化など、いままではできなかった難工事を可能にしたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
「直井武久  丸亀藩の算学士と算額  香川県文化財協会会報  平成7年度」
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