瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:本妙寺

    讃岐の守護と守護代 中世の讃岐の守護や守護代は、京都で生活していた : 瀬戸の島から
安富氏は讃岐守護代に就任して以来、ずっと京都暮らしで、讃岐については又守護代を置いていました。そのため讃岐のことよりも在京優先で、安富氏の在地支配に関する記事は、次の2つだけのようです。
①14世紀末の安富盛家による寒川郡造田荘領家職の代官職を請負
②15世紀前半の三木郡牟礼荘の領家職・公文職に関わる代官職を請負
香川氏などに比べると、所領拡大に努めた形跡が見られません。長禄四年(1460)9月、守護代安富智安は守護細川勝元の施行状をうけて、志度荘の国役催促を停止するよう又守護代安富左京亮に命じています。ここからは、安富氏が讃岐守護の代行権を握っていたことは確かなようです。一方、塩飽については、香西氏が管理下に置いていたと「南海通記」は記します。安富氏は塩飽・宇多津の管理権を握っていたのでしょうか。今回は安富氏の塩飽・宇多津の管理権について見ておきましょう。テキストは「市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界」です。 
塩飽諸島絵図
塩飽諸島
塩飽は古代より海のハイウエーである瀬戸内海の中で、ジャンクションとサービスエリアの両方の役割を果たしてきました。瀬戸内海を航行する船の中継地として、多くの商人が立ち寄った所です。そのため塩飽には、重要な港がありました。これらの港は鎌倉時代には、香西氏の支配下にあったと「南海通記」は伝えます。それが南北朝期には細川氏の支配下になり、北朝方勢力の海上拠点になります。やがて室町期になると支配は、いろいろと変遷していきます。
讃岐守護であり管領でもあった細川氏の備讃瀬戸に関する戦略を最初に確認しておきます。
応仁の乱 - Wikiwand
細川氏の分国(ブルー)  
当時の細川氏の経済基盤は、阿波・紀伊・淡路・讃岐・備中・土佐などの瀬戸内海東部の国々でした。そのため備讃瀬戸と大坂湾の制海権確保が重要課題のひとつになります。これは、かつての平家政権と同じです。瀬戸内海を通じてもたらされる富の上に、京の繁栄はありました。そこに山名氏や大内氏などの勢力が西から伸びてきます。これに対する防御態勢を築くことが課題となってきます。そのために宇多津・塩飽・備中児島を結ぶ戦略ラインが敷かれることになります。
このラインの拠点として戦略的な意味を持つのが宇多津と塩飽になります。宇多津はそれまでは、香川氏の管理下にありましたが、香川氏は在京していません。迅速な動きに対応できません。そこで、在京し身近に仕える安富氏に、宇多津と塩飽の管理権を任せることになります。文安二年(1445)の「兵庫北関入船納帳」には、宇多津の港湾管理権が香川氏から安富氏に移動していることを以前にお話ししました。こうして東讃守護代の安富氏の管理下に宇多津・塩飽は置かれます。これを証明するのが次の文書です。
 応仁の乱後の文明5年(1473)12月8日、細川氏奉行人家廉から安富新兵衛尉元家への次の文書です。

摂津国兵庫津南都両関役事、如先規可致其沙汰候由、今月八日御本書如此、早可被相触塩飽島中之状如件、
文明五十二月十日                           元家(花押)
安富左衛門尉殿
意訳変換しておくと
摂津国兵庫津南都の両関所の通過について、先規に従えとの沙汰が、今月八日に本書の通り、守護細川氏より通達された。早々に塩飽島中に通達して守らせるように
文明五年十二月十日                           元家(花押)
安富左衛門尉殿
細川氏から兵庫関へ寄港しない塩飽船を厳しく取り締まるように守護代の安富氏に通達が送られてきます。これに対して12月10日付で守護代元家が安富左衛門尉宛に出した遵行状です。
 ここからは、塩飽に代官「安富左衛門尉」が派遣され、塩飽は安富氏の管理下に置かれていることが分かります。
安富元家は、守護代として在京しています。そのため12月8日付けの細川氏奉行人の家廉左衛門尉からの命令を、2日後には京都から塩飽代官の安富左衛門尉に宛てて出しています。仁尾が香西氏の浦代官に管理されていたように、塩飽は安富氏によって管理されていたことが分かります。
この 命令系統を整理しておきましょう
①塩飽衆が兵庫北関へ入港せず、関税を納めずに通行を繰り返すことに関して管領細川氏に善処依。これを受けて12月8日 守護細川氏の奉行人家廉から安富新兵衛尉元家(京都在京)へ通達
②それを受けて12月10日安富新兵衛尉元家(京都在京)から塩飽代官の安富左衛門尉へ
③塩飽代官の安富左衛門尉から塩飽島中へ通達指導へ

文安二年(1445)に宇多津・塩飽の管理は、安富氏に任されたことを見ました。それから約30年経っても、塩飽も安富氏の管理下に置かれていたようです。南海通記の記すように、香西氏が塩飽を支配していたということについては、疑いの目で見なければならなくなります。時期を限定しても15世紀後半には、塩飽は香西氏の管理下にはなかったことになります。
それでは、安富氏は塩飽を「支配」できていたのでしょうか?
細川氏は塩飽船に対して「兵庫北関に入港して、税を納めよ」と、代官安富氏を通じて何回も通達しています。しかし、それを塩飽衆は守りません。守られないからまた通達が出されるという繰り返しです。
 塩飽船は、山城人山崎離宮八幡宮の胡麻(山崎胡麻)を早くから輸送していました。そのために、胡麻については関銭免除の特権を持っていたようです。しかし、これは胡麻という輸送積載品にだけ与えられた特権です。自分で勝手に拡大解釈して、塩飽船には全てに特権が与えられたと主張していた気配があります。それが認められないのに、塩飽船は兵庫関に入港せず、関税も納めないような行動をしています。
 翌年の文明6年には、塩飽船の兵庫関勘過についての幕府奉書が興福寺にも伝えられ、同じような達しが兵庫・堺港にも出されています。その4年後の文明10年(1478)の『多聞院日記』には「近年関料有名無実」とあります。塩飽船は山崎胡麻輸送の特権を盾にして、関税を納めずに兵庫北関の素通りを繰り返していたことが分かります。
 ついに興福寺は、塩飽船の過書停止を図ろうとして実力行使に出ます。
興福寺唐院の藤春房は、安富氏の足軽を使って塩飽の薪船10艘を奪います。これに対し、塩飽の雑掌道光源左衛門は過書であるとして、塩飽の人々を率いて細川氏へ訴えでます。興福寺は藤春房を上洛させて訴えます。結果は、細川氏は興福寺を勝訴とし、塩飽船は過書停止となります。この旨の奉書が塩飽代官の安富新兵衛尉へ届けられ、塩飽船の統制が計られていきます。
 細川政元の死後になると、周防の大内氏が勢力を伸ばします。
永生5(1508)年、大内義興は足利義植を将軍につけ、細川高国が管領となります。義興は上洛に際し、瀬戸内海の制海権掌握を図り、三島村上氏を味方に組み込むと同時に、塩飽へも働きかけます。こうして塩飽は、大内氏に従うようになります。自分たちの利益を擁護してくれない細川氏を見限ったのかもしれません。この間の安富氏を通じた細川氏の塩飽支配についてもう少し詳しく見ておきましょう。
香西氏の仁尾浦に対する支配と、安富氏の塩飽支配を比較してみましょう。
①細川氏は仁尾浦に対して、海上警備や用船提供などの役務を義務づける代償に、上賀茂神社から課せられていた役務を停止した。
②そして仁尾浦を「細川ー香西」船団の一部に組織化しようとした
③仁尾町場の「検地」を行い、課税強制を行おうとした。
④これに対して仁尾浦の「神人」たちは逃散などの抵抗で対抗し、仁尾浦の自立を守ろうとした。
以上の仁尾浦への対応と比較すると、塩飽には直接的に安富氏との権利闘争がうかがえるような史料はありません。安富氏が塩飽を「支配」していたかも疑問になるほど、安富氏の影が薄いのです。「南海通記」には、塩飽に関して安富氏の記述がないのも納得できます。先ほど見た「関所無視の無税通行」の件でも、代官の度重なる通達を塩飽は無視しています。無視できる立場に、塩飽衆はいたということになります。安富氏が塩飽を「支配」していたとは云えないような気もします。
永正五(1507)年前後とされる細川高国の宛行状には、次のように記されています。
  就今度忠節、讃岐国料所塩飽島代官職事宛行之上者、弥粉骨可為簡要候、猶石田四郎兵衛尉可申す候、謹言、
高国(花押)
卯月十三日
意訳変換しておくと
  今度の忠節に対して、讃岐国料所である塩飽島代官職を与えるものとする。粉骨精勤すること。石田四郎兵衛尉可申す候、謹言
         高国(花押)
卯月十三日
村上宮内太夫(村上降勝)殿
村上宮内太夫は、能島の村上降勝で、海賊大将武吉の祖父にあたります。大内義興の上洛に際して協力した能島村上氏に、恩賞として塩飽代官職が与えられていることが分かります。高国政権下では御料所となり、政権交代にともない塩飽代官職は安富氏から村上氏へと移ったようです。これはある意味、瀬戸内海の制海権を巡る細川氏と大内氏の抗争に決着をつける終正符とも云えます。細川政元の死により、大内氏の勢力伸張は伸び、備讃瀬戸エリアまでを配下に入れたということでしょう。
 ここからは、16世紀に入ると、細川氏に代わって大内氏が備讃瀬戸に海上勢力を伸張させこと、その拠点となる塩飽は、大内氏に渡り、村上氏にその代官職が与えられたことが分かります。
 そして村上降勝の孫の武吉の時代になると、能島村上氏は塩飽の船方衆を支配下に入れて船舶や畿内に至る航路を押さえ、塩飽を通過する船舶から「津公事」(港で徴収する税)を徴収するなど、その支配を強化させていきます。東讃岐守護代の安富氏による塩飽「管理」体制は15世紀半ばから16世紀初頭までの約60年間だったが、影が薄いとしておきます。つまり、細川氏の備讃瀬戸防衛構想のために、宇多津と塩飽の管理権を与えられた安富氏は、充分にその任を果たすことが出来なかったようです。塩飽は、能島村上氏の支配下に移ったことになります。

次に、安富氏の宇多津支配を見ておきましょう。
  享禄2(1526)年正月に、宇多津法花堂(本妙寺)にだされた書下です。
当寺々中諸課役令免除上者、柳不可有相連状如件、
享禄二正月二十六日                      元保(花押)
宇多津法花堂
意訳変換しておくと
宇多津法華堂を中心とする本妙寺に対して諸課役令の免除を認める。柳不可有相連状如件、
享禄二正月二十六日                      元保(花押)
宇多津法花堂
花押がある元保は、安富の讃岐守護代です。この書状からは、16世紀前半の享禄年間までは、宇多津は安富氏の支配下にあったことが分かります。塩飽の代官職は失っても、宇多津の管理権は握っていたようです。
天文10年(1541)の篠原盛家書状には、次のように記されています。
当津本妙寺之儀、惣別諸保役其外寺中仁宿等之儀、先々安富古筑後守折昏、拙者共津可存候間、指置可申也、恐々謹言、
天文十年七月七日                   篠原雅楽助 盛家(花押)
字多津法花堂鳳鳳山本妙寺
多宝坊
意訳変換しておくと
本港(宇多津)本妙寺について、惣別諸保役やその他の寺中宿などの賦役について、従来の安富氏が保証してきた権利について、拙者も引き続き遵守することを保証する。   恐々謹言
天文十(1541)年七月七日                   篠原雅楽助 盛家(花押)
字多津法花堂鳳鳳山本妙寺
多宝坊
夫役免除などを許された本妙寺は、日隆によって開かれた日蓮宗の寺院です。尼崎や兵庫・京都本能寺を拠点とする日隆の信者たちの中には、問丸と呼ばれる船主や、瀬戸内海の各港で貨物の輸送・販売などをおこなう者や、船の船頭なども数多くいたことは以前にお話ししました。彼ら信者達は、日隆に何かの折に付けて、商売を通じて耳にした諸国の情況を話します。そして、新天地への布教を支援したようです。
 例えば岡山・牛窓の本蓮寺の建立に大きな役割を果たした石原遷幸は「土豪型船持層」で、船を持ち運輸と交易に関係した人物です。石原氏の一族が自分の持舟に乗り、尼崎の商売相手の所にやってきます。瀬戸内海交易に関わる者達にとって、「最新情報や文化」を手に入れると云うことは最重要課題でした。尼崎にやって来た石原氏の一族が、人を介して日隆に紹介され、法華信徒になっていくという筋書きが考えられます。このように日隆が布教活動を行い、新たに寺を建立した敦賀・堺・尼崎・兵庫・牛窓・宇多津などは、その地域の海上交易の拠点港です。そこで活躍する問丸(海運・商業資本)と日隆との間には何らかのつながりのあったことが見えてきます。
 宇多津の本妙寺の信徒も兵庫や尼崎の問丸と結んで、活発な交易活動を行い富を蓄積していたことがうかがえます。その経済基盤を背景に本妙寺は発展し、伽藍を整えていったのでしょう。ある意味、本妙寺は畿内を結ぶパイプの宇多津側の拠点として機能していた気配があります。
 だからこそ、安富氏は経済的な支援の代償に本妙寺に「夫役免除」の特権を与えているのです。安富氏に代わった阿波三好家の重臣篠原氏も引き続いての遵守する保証を与えています。ここからは、1541年の段階で、篠原氏が字多津を支配したこと、本妙寺が宇多津の海上交易管理センターの役割を果たしていたことが分かります。つまり安富氏の宇多津支配は、この時には終わっているのです。
 またこの文書からは、安富氏も篠原氏も直接に宇多津を支配していたのではないことがうかがえます。
これは三好長慶の尼崎・兵庫・堺との関係とよく似ています。長慶は日隆の日蓮宗寺院を通じての港「支配」を目指していたようです。篠原長房も本妙寺や西光寺を通じて、宇多津港の管理を考えていたようです。
 戦国期になると守護細川氏や守護代の安富氏の勢力が弱体化し、阿波三好氏が讃岐に勢力を伸ばしてきます。そうした中で、安富氏の宇多津支配は終わったことを押さえておきます。
 浄土真宗が「渡り」と呼ばれる水運集団を取り込み、瀬戸内海の港にも真宗道場が姿を現すようになることは以前にお話ししました。
宇多津にも大束川河口に、西光寺が建立されます。西光寺は石山本願寺戦争の際には、丸亀平野の真言宗の兵站基地として戦略物資の集積・積み出し港として機能しています。ここにも「海の民」を信者として組織した宗教集団の姿が見えてきます。その積み出しを、篠原長房が妨害した気配はないようです。宇多津には自由な港湾活動が保証されていたことがうかがえます。
 以前に、細川氏から仁尾の浦代官を任じられた香西氏が町場への課税を行おうとして仁尾住民から逃散という抵抗運動を受けて住民が激減して、失敗に終わったことを紹介しました。当時の堺のように、仁尾でも「神人」を中心とする自治的な港湾運営が行われていたことがうかがえます。だとすると、塩飽衆の「自治力」はさらに強かったことが推測できます。そのような中で、代官となった安富氏にすれば、塩飽「支配」などは手に余るものであったのかもしれません。その後にやって来た能島村上衆の方が手強かった可能性があります。

以上をまとめておくと
①管領細川氏は、備讃瀬戸の制海権確保のために備中児島・塩飽・宇多津に戦略的な拠点を置いた。
②宇多津・塩飽の管理権を任されたのが東讃守護代の安富氏であった。
③しかし、安富氏は在京することが多く在地支配が充分に行えず、宇多津や塩飽の「支配」も充分に行えなかった
④その間に、塩飽衆や宇多津の海運従事者たちは畿内の問丸と結び活発な海上運輸活動を行った。
⑤その模様が兵庫北関入船納帳の宇多津船や塩飽船の活動からうかがえる。
⑥細川氏の備讃瀬戸戦略は失敗し、大友氏の進出を許すことになり、塩飽代官には能島村上氏が就くことになる。
⑦守護細川氏の弱体化に伴い、下克上で力を伸ばした阿波三好が東讃に進出し、さらにその家臣の篠原長房の管理下に宇多津は置かれるようになる。
⑧しかし、支配者は変わっても宇多津・塩飽・仁尾などの港は、「自治権」が強く、これらの武将の直接的な支配下にはいることはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界 
関連記事


6宇多津1
香川県立ミュージアムの特別展『海に開かれた都市~高松-港湾都市九〇〇年のあゆみ~』で提示された一五世紀~一六世紀前半の宇多津の景観復元図を見ていくことにしましょう
この復元のためには、次のような作業が行われているようです。
①幕末の『讃岐国名勝図会』・『安政三年奉納宇夫階神社に七』・『網浦眺望 青山真景図絵馬』から町割など近世後期の景観を復元する
②そこから延享二年(1745)頃に作られた古浜塩田、浜町・天野新開を消す
③塩田工事と同時に行われた大束川河口部の付替工事を、それ以前の景観にもどす
④伊勢町遺跡発掘調査から近世前期にできた形成を消す
⑤大足川を近世以前の位置にもどす
これらの作業を経てできあがった14世紀の復元図を見てみましょう。
6宇多津2
①青ノ山北麓と聖通寺山北端部を突端部とし、大きく湾入するように海域が入り込む
②その中央付近に大束川が流れ込む。
③河口入江には東と西に突端した砂堆がある(砂堆2・3)
④大束川河口部をふさぐように砂堆が細長く延び(砂堆I)、先端付近では背後に潟がある
⑤砂堆Iの海側には遠浅地形が広がっていた
⑥居住可能なエリアは、青ノ山山裾とそこから海際までの緩斜面地と砂堆、
⑦平山では聖通寺山と平山の山裾の狭陰な平坦地
                
宇多津地形復元図
中世宇多津の復元図
宇多津の中心軸(道路)の  両端には宇夫階神社と聖通寺が鎮座します
①宇多津の中心軸は、西光寺がある砂堆Iの真ん中を東西方向伸びる道路である。
②河口部は、深く入り込んだ入江に沿って聖通寺山の麓の平山まで続く。
③内陸部へ伸びる南北道路は、砂堆1の付根で東西道路と交差し東西・南北の基軸線となる。
④東西道と南北道の交差点付近に港があり、海上交通と陸上交通の結節点となり最重要エリアになる
④東西軸は丸亀街道、南北道路は金毘羅街道へと継承されていく主要路である。
宇多津の東西に位置する聖通寺と宇夫階神社を見ておきましょう
聖通寺の建立時期の古さは何を物語るのか?
 大束川の河口は深く入り込んだ入江となっていて、宇多津と聖通寺山とは湾で隔てられています。その山裾に修験道の醍醐寺開祖・理源大師と関係が深いとされる聖通寺(真言宗)があります。寺伝では貞観10年(868)の創建、文永年間の再興を経て、貞治年間に細川頼之の帰依を受けて復興したとあります。創建時期が、宇多津の諸寺院よりもはるかに古いこを研究者は指摘します。
  聖通寺には、長享二年(1488)に常陸国六反田(茨城県水戸市)六地蔵寺の僧侶が聖通寺で書写したという記録が残っています。
ここからはこの寺が、各地の僧侶が集まる様々な書籍や情報を所蔵した「学問所」であったことがうかがえます。理源大師も若い頃に、この寺で学んだと伝えられます。道隆寺や金蔵寺なども学問所であったと云われ、諸国からの修験者たちがやってきたお寺です。この寺も奥の院は、聖通寺山の山中にあり、大きな磐座(いわくら)が聖地となっていたようです。同時に、この地域には沙弥島・本島・聖通寺山・城山と理源大師に関係の深い「聖地」が残っていて、修験者が活発な活動を行っていた形成がうかがえます。
宇夫階神社も勧請時期は古く、聖通寺の同じ時期に従五位に叙せられています
この神社は、産土神として古くから宇多津の総鎮守的な存在です。復元地図で見ると、大束川を挟んだ宇多津の領域の両端に宇夫階神社と聖通寺が鎮座していることになります。ここからも宇多津における両者の重要性がうかがえます。九世紀後半の宇多津において、この両者が登場してくる「事件」があったのかもしれません。
6宇多津2135
 宇多津の中世集落は、どのあたりにあったのでしょうか
①東西・南北道路が交差する場所(集落I・現西光寺周辺)
②郷照寺の門前周辺で砂堆1と砂堆3が形成する湾入部の一番奥の付近(集落2)、
③砂堆Iの背後の潟周辺で、長興寺(安国寺)の門前周辺(集落3)、
④宇夫階神社の門前で、砂堆3の付根(集落4)
の4つに分かれて集落があったようです。伊勢町遺跡の調査報告書には、各集落が港湾施設(船着場)を伴っていた可能性が高く、『兵庫北関入船納帳』にある「中丁」「西」「奥浜」という三つの集落の存在との対応関係」があることを記しています。

宇多津
宇多津(讃岐国名勝図会)
そして、さらに次のように推論しています
①「中丁」は集落I、
②「西」は集落2ないし4、
③「奥浜」は集落3ないし2
に当たると研究者は考えているようです。
 内陸・海上交通の結節点になる集落1が、宇多津の中心集落のようです。『兵庫北関入船納帳』に出てくる船頭の「弾正」は、ここを本拠地に活動したのかもしれません。さらに、集落1の発掘調査からは、次のような集団がいたことが分かっているようです。
①鍛冶屋等の職人がいたこと
②大規模で多様な漁労活動を行っていた集団がこと
③いち早く「灯明皿」を使うなど「都市的なスタイル」を取り入れた「先進的生活」を送っていた人たちが生活していたこと
このように4つの港湾施設をもる集落が複合体として、宇多津という港町を形成していたと研究者は考えているようです。

6宇多津2213
中世の船着き場の変遷 
中世宇多津の港(船着場)は、どんなものだったのでしょうか?
伊勢町遺跡からは、14世紀初めの石を積み上げた護岸と、16世紀の礫敷きが出てきました。石積み護岸は絵画資料では『遊行上人縁起絵』など、15世紀の室町期になって描かれるようになります。この遺跡も15世紀頃のものなのでしょう。研究者が注目するのは、海際の集落が港湾施設を持ち、それが石材を用いて整備されている点です
6宇多津2
  宇多津への寺社勢力の進出の背景は・
 青野山の山裾や、南北道路の高台、砂堆Iの背後の潟(河口部)に各宗派の寺院が立ち並んでいます。このような景観は『義満公厳島詣記』や文献資料からも見えますし、今でも同じ光景を見ることが出来ます。
宇多津に多くの宗派の寺院がそろっているのはどうしてなのでしょうか。
 まず挙げられるのは、港町宇多津の経済力の高さでしょう。各寺院の瀬戸内海の港町への布教方法を見ると、そこに住む人びとを対象とした布教活動とともに、流通拠点となる港町に拠点をおいて円滑に瀬戸内海交易を行おうとする各宗派のねらいがあったことが分かります。僧侶は、中世の荘園を管理したように、港町の寺院を「交易センター」として管理していたのです。
6宇多津の寺院1
各宗派の進出状況を時期別にまとめると、次のような表になります
①鎌倉期には真言宗寺院、
②南北朝~室町前期には守護細川氏と関連が深い禅寺、
③室町後期にも細川氏の帰依を受けた法華宗寺院、
④戦国期には浄土真宗寺院
が年代順に建立されていて、各宗派の寺院が段階的に進出したことが分かります。一度に姿を現したのではないのです。このことは13世紀後半~16世紀代を通して、宇多津が成長し続けたことを物語ると同時に、各時代の歴史的なモニュメントとも言えます。
本妙寺(法華宗)の建立については以前も取り上げました。
宇多津本妙寺
本妙寺
この寺はの開祖日隆は、細川氏の保護を受けて瀬戸内海沿岸地域で布教活動を展開し、備前牛窓の本蓮寺や備中高松の本條寺、備後尾道の妙宣寺を建立します。いずれも内海屈指の港町で、流通に携わる海運業者の経済力を基盤に布教活動を展開したことがうかがえます。細川氏が本妙寺を保護していたことは、守護代安富氏が寺中諸課役を免除したことからも分かります。(『本妙寺文書』)。
戦国期には青ノ山南東麓にあった寺院が、西光寺と名前を変えて町内に移転してきます。
 西光寺は、それまでの寺院が青ノ山の山裾に建立されていたのに対し、河口の港のそばに寺域を設けます。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
宇多津の西光寺 港のそばに立地
その背景には、浄土真宗寺院の海上流通路掌握といった動きがうかがえます。西光寺は石山合戦に際して本願寺顕如の依頼に応えて、物資を援助をするなど、経済力も高いものがあったようです。
これらの14世紀後半期の法華宗寺院、15世紀後半期における浄土真宗寺院の動きは瀬戸内海各地の港町と同時進行の動きで、当時の瀬戸内海港町で共通する動向だったようです。
宇夫階神社の担った役割は?
宇多津では、このように多くの宗派が林立したために、住民がひとつの寺院の下に集まり宗教活動を行い結集の機会を作り出すことはありませんでした。集落や諸宗派・各寺院の檀家といったレベルのちがう単位がモザイク状に並立した状況だったのです。こうしたある面でばらばらな集団単位を結びつける役割を担ったのが宇夫階神社だったようです。

utadu_02 宇夫階社・神宮寺・秋庭社・神石社:
産土階神社(宇多津)

この神社は、祭礼をとおして複数の集落や単位を統合させる宇多津の重要な核として機能します。そのことは、宇多津の中心軸である東西道路の西端正面に鎮座する立地が示しています。総鎮守的な単一の神社であるを宇夫階神社は宇多津の大きな求心力として機能していたようです。
領主勢力は、直接的に宇多津を支配していたのか?
 宇多津には守護所が置かれたと云われますが、これについては研究者は慎重な態度のようです。『兵庫北関入船納帳』にみる国料船や本妙寺・長興寺・普済院・聖通寺等守護細川氏との関わりが深い寺院の建立・再興などに、守護勢力の影はうかがえます。しかし、宇多津町内に城郭があった形成はありません。封建勢力が港町宇多津への直接的支配権を持っていたとは云えないようです。
 守護所跡と考えられる円通寺・多聞寺、南隆寺の城郭的施設も領主勢力の居城としては、根拠が弱いのです。集落内にも領主の平地居館は、見当たりません。つまり、守護を中心とした領主勢力の宇多津への直接的な関与はあまり感じられないのです。それよりも寺社勢力や「弾正」や「法徳」などの有力海運業者を通じて間接的に関与していたと研究者は考えているようです。

宇多津地形復元図

隣接する港町 平山の役割は?
 湾内を隔てて、聖通寺山の麓にある平山も港町だったようです。『兵庫北関入船納帳』に、その名前が出てきます。宇多津と平山は、「連携」関係にあったようです。自立した港ですが、機能面では連動した相互補完的関係にあったと研究者は考えているようです。
平山の集落は砂堆2の背後に広がる現平山集落と重なる付近(集落5)、
聖通寺山北西麓の現北浦集落と重なる付近(集落6)
が想定できるようです。
 『兵庫北関入船納帳』の記載からも平山に本拠地を置く船主の姿がいたようで、小さいながらも港町が形成されていたことが分かります。また、宇多津よりも沖合いに近い立地や、広域的な沖乗り航路とを繋ぐ結節点としての役割を果たしていたようです。


川津と宇多津の関係は?
 一方、宇多津は後背地となる大束川流域の丸亀平野に抱かれていました。それは、高松平野と野原の関係と同じです。大束川の河口の東側には「角山」があります。近くに津ノ郷という地名があることなどから考えると、もともとは「港を望む山」で「津ノ山」という意味だったと推察できます。角山の麓には、下川津という地名があります。これは大束川の川港があったところです。下川津から大足川を遡ったところにある鋳物師屋や鋳物師原の地名は、この川の水運を利用して鋳物の製作や販売に携わった手工業者がいたことをうかがわせます。さらに「蓮尺」の地名は、連雀商人にちなむものとみることもできます。

連雀商人

連雀商人
連雀商人の活動と衰退
連雀商人の衰退要因

このように宇多岸は、海に向かって開けた港であるばかりでなく、大足川を通じて背後の鵜足郡と密接に結び付いた港であったと研究者は考えています。
 坂出市川津町は、中世の九条家荘河津荘でした。そうすると尾道のや倉敷のように、宇多津も荘園の倉敷地の役割を果たす港町の機能も持っていたのかもしれません。そして広いエリアからの集荷活動を行い、備讃海峡ルートと瀬戸内海南岸ルートが交錯する塩飽を背景に活かした中継交易を行っていたと研究者は考えているようです。

4344102-42宇多津海側
宇多津の海側(讃岐国名勝図会)

     江戸時代になっての宇多津は?
 天正期には豊臣配下の仙石氏が平山に聖通寺山城を築きます。しかし、それも一時的でその後にやって来た生駒親正は、讃岐支配の新たな拠点として高松と丸亀に城を築城し、城下町を開きます。その際に、宇多津や平山からは多くの寺院、町が高松と丸亀に移転させました。港町宇多津は重要な機能を失うことになります。その背景には商人の街である港町宇多津が、新たな領主にとっては解体すべき対象であったのでしょう。同時に、宇多津から「引抜」いていかないと、新たな城下町として高松や丸亀の建設は難しかったとも考えられます。
 大足川の埋積作用は河口部や砂堆前面を着実に埋没させて行きました。讃岐を代表する港町宇多津は、政治的経済的な中心性だけでなく、港湾機能も奪われていくことになり、やがて地方的な港町になっていきました。
江戸期になると高松藩米蔵が設置され、新たな展開をむかえます。
髙松藩米蔵一覧

高松藩米蔵は、東讃の志度・鶴羽・引田・三本松に置かれますが、宇多津は他の米蔵を圧倒する量を誇りました。ここでは鵜足郡や那珂郡の年貢米を管理し、集荷地・中継地としての機能します。これにともない現在の地割が整備されていきます。

宇多津 讃岐国名勝図会2
大束川沿いに置かれた米蔵(讃岐国名勝図会)
 しかし、大束川の堆積作用は、港に深刻な状況をもたらします。それを克服するため18世紀前半には、他の港町に先駆けて湛甫形式の港湾施設を完成させ、港湾機能の維持に努めます。しかし、やがては金比羅詣での船が寄港するようになった多度津や丸亀にその役割も譲ることになります。
  参考文献
Amazon.co.jp: 中世讃岐と瀬戸内世界 (港町の原像 上) : 市村 高男: 本
   中世讃岐と瀬戸内世界 所収    中世宇多津・平山の景観 松本和彦

   
15世紀の半ばに讃岐・宇多津に日隆によって本妙寺が開山される過程を前回は追って見ました。
DSC08543
宇多津の本妙寺山門前の日隆
今回は、15世紀の大阪湾沿岸の港をめぐる情勢を見ていきたいと思います。その際の視点が日隆と三好長慶です。
 尼崎の本興寺を拠点に日隆は、大阪湾や瀬戸内海の港湾都市への伝導を開始します。彼によって開山されたものだけでも兵庫港(神戸)の久遠寺、備中の本隆寺、宇多津の本妙寺が挙げられます。
DSC08550
        日隆が開山した宇多津の本妙寺
  日隆が築いた本門法華宗のネットワークを見ておきましょう。
 法華宗は、都市商工業者や武家領主がなどの裕福な信者が強い連帯意識を持った門徒集団を作り上げていました。もともとは関東を中心に布教されていましたが,室町時代には京都へも進出します。
 日蓮死後、ちょうど百年後に生まれた日隆は日蓮の生まれ変わりとも称されます。彼は法華教の大改革を行い、宗派拡大のエネルギーを生み出します。その布教先を、東瀬戸内海や南海路へと求めます。
utadu_01宇足津全圖
讃岐の宇多津湊と本妙寺

日隆の布教により寺院が建立された場所と、その後の発展の様子を見ていきましょう。
大阪湾岸では,材木の集積地であった尼崎,奈良の外港としての堺,勘合貿易の出発地である兵庫津などが挙げられます。また四国の細川氏の守護所である宇多津などにも自ら出向いて布教活動を行い本妙寺を開きます。日隆の布教によって法華宗信者となった港町の都市商工業者の特色は,武家領主と結びついている点だとされます。

宇多津 本妙寺
 宇多津の本妙寺
 京都にあった法華宗各門流の本山の本国寺,妙顕寺,本能寺などの周辺には信者が集住していました。例えば、本国寺の場合には遅くとも天文元年(1532)までには要害化が進み,「数千人の宗徒」が住む「寺内」が形成されていたようです。そしてこれを、織田信長は「洛中城郭」として利用しています。
 さらには,日隆は京都の本能寺と尼崎の本興寺を「両本山」とします。15世紀後半につくられた本能寺の「当門流尽未来際法度」では,全国の末寺の住持職に対して本山への参詣を義務づけています。
本能寺が鉄砲伝来に果たした役割は?
京都本能寺
 
 本能寺は、明智光秀のクーデターで信長の最期となった寺として有名です。この時に焼き払われます。その後も、度々火災に見舞われたため、本能寺の「能」の旁がカタカナのヒの字を二つ重ねるのを避けて、火が去るようにと「去」の字に似せた異体字を使用しています。それでも同寺には、幾たびかの火災の難を逃れた多くの貴重な史料が残されています。その『本能寺史料』中世編に次のような細川晴元書状があります。
  「 本能寺         晴元」
種子嶋(鉄砲)鍼放馳走候而、此方へ到来、誠令悦喜候、
彼嶋へも以書状申候、可御届候、猶古津修理進可申候、恐々謹言
  四月十八日        晴元(花押)
   本能寺
 これは細川晴元の本能寺宛ての鉄砲献上に対する礼状です。
 年号は入っていませんが、晴元は天文一八年(1549)、摂津国江口の戦いで部下の三好長慶に敗れ、京都から近江へ逃げるのが6月のことですから、それ以前の発給とされます。鉄砲が種子島に伝来するのは、『鉄畑記』によれば、天文13年8月のことで、翌年に銃筒をネジで塞ぐ技術を習得し、量産化が開始されるのは早くもその翌14年のこととされます。そして、その種子島から足利将軍家に鉄砲が献上されたのが天文15年です。この文書の年代は、足利将軍家と相前後して細川氏にも鉄砲が送られた、あるいはこの鉄砲自体が将軍への献上品だった可能性もあると研究者は見ているようです。どちらにしてもこの文書の年代は天文15年4月のことでしょう。

鉄砲

 ここで確認しておきたいのは、種子島銃(鉄砲)をはるばる種子島から京都へ、そして晴元の下へ持参し、さらに晴元からの礼状を種子島まで届けたのは誰かということです。かつては「鉄砲献上」は、堺の商人によって行われたとされてきました。しかし、この文書から分かることは当時の種子島領主であった種子島時尭より本能寺を経由して晴元の下へ送られていることです。
184286

 当時の種子島は、領主の種子島氏をはじめ島民らも法華宗に帰依し「皆法華」が実現していました。種子島では15世紀半ばに日隆に学んだ日典によって法華宗義が広まります。本能寺と両本山である尼崎の本興寺から本門法華宗派の僧が伝教のために種子島や屋久島にやって来たのです。それは、同時代のイエズス会の宣教師にも似た姿です。この時代に法華僧侶達は海上ネットワークを通じて種子島と本山である本能寺を活発に行き来していたのです。その人とモノの流れの中に、鉄砲も含まれたようです。
teppou_network-thumb
 本能寺の変で焼け落ちた伽藍再建に、日隆門流はすぐに動き始めます。
その際の勧進記録である「本能寺本堂勧進帳」が残っています。そこからは末寺がある種子島,堺,備前,河内の三井,越前,備後,駿河の沼津といった地域で勧進が行われていることが分かります。ここでも瀬戸内海や南海路の種子島の末寺から,本山である京都の本能寺,尼崎の本興寺に向かって,カネと人とモノが流れ込んでいたのです。そのようなネットワークの拠点のひとつが宇多津の本妙寺であったのです。15世紀半ばに開山された本妙寺が急速に時勢を伸ばしていくのは、このような流れの中にあったことも要因のひとつでしょう。

本能寺

 こうした本門法華宗の末寺から本山に向けた人やモノの流れに目を向けるようになったのが細川氏や三好氏です。
室町幕府の管領であった細川高国は,永正一七年(1520),近江六角氏との戦争に際して兵庫津の大船を徴発し、大永六年(1526)には尼崎城を築城しています。ここには都市支配や軍事動員を目指す動きが見えます。また,細川晴元は阿波の国人である三好元長の支持を受けて,港湾都市である堺を事実上の政権所在地とし、いわゆる「堺幕府」を樹立します。
 この背景には,先ほど鉄砲伝来の際に述べたように日隆門流の京都や堺の本山への人や物の流れの利用価値を認め、法華宗を通じての流通システムを握ろうとする考えがあったと思われます。
 
一方、四国を本拠とする三好長慶は,畿内支配をめざします。
三好長慶
細川氏・三好氏を東瀬戸内海から大阪湾地域を支配した権力として「環大阪湾政権」と考える研究者もいます。その際の最重要戦略のひとつが大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして影響下に置くかでした。これらの港湾都市は,首都京都を背景に瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っており、人とモノとカネが行き来する最重要拠点でもあったわけです。
 その際に三好長慶が採った政策が法華宗との連携だったようです。
彼は法華教信者でもあり、堺や尼崎に進出してきた日隆の寺院の保護者となります。そして、有力な門徒商人と結びつき,法華宗寺内町の建設を援助し特権を与えます。彼らはその保護を背景に「都市共同体内」で基盤を確立していきます。長慶は法華宗の寺院や門徒を通じて、港湾都市への影響力を強め、流通機能を握ろうとしたようです。

三好氏は大坂湾の港湾都市への影響力をどのようにして高めたのでしょうか?
法華宗 顕本寺
   堺の顕本寺 宇多津の本妙寺と前後して日隆により開山
まず、堺を見てみましょう。
日隆は、宇多津に本妙寺を開いたのに前後して、宝徳3年(1451年)に堺にもやって来て有力な商人を信者とします。そして木屋と餝屋と称する豪商の自宅を法華堂としてたのが顕本寺の始まりとされます。当初の開口神社に近い甲斐町山ノロにあったこの寺は「南西国末寺頭」と呼ばれ、西国布教の拠点として機能するようになります。ここでも法華教門徒の商人達や海運業者のネットワークを利用しながら西国布教が進められていきます。その成果のひとつが先述した屋久島の「皆法華」化となって現れます。
  三好長慶の父・元長は一向一揆に敗れ,この顕本寺で自害します。
DC0sHVDUMAEOtyq
長慶の父元長は、顕本寺で自害した

天文元年(1532)のことです。後を継いだ三好長慶は「臥薪嘗胆」の末に、父を死に追いやった主君を京都から追放していきます。その過程で、長慶の本門法華宗の寺院に対する戦略が見えてきます。
20_02Web版『堺大観』写真集―顕本寺境内 三好海雲(元長)の
       長慶の父元長の墓も顕本寺にあります
例えば、次の史料は長慶が顕本寺に下した文書です
当寺(顕本寺)の儀, 開運(三好元長)位牌所として寄宿の事,長慶・之虎これを免許せられば,冬康においても別して信心の条,聊かも相違あるべからざるものなり,よって状くだんのごとし,
天文廿四二月二日 冬康(花押)
堺南庄顕本寺
 父元長の自害の場となった由緒によって顕本寺を位牌所として,軍勢の寄宿免許という特権を与えています。さらに弘治二年(1556)には,元長の二十五回忌法要が行われますが、三好氏の本拠地である阿波でなく,この寺で行われます。
法華宗 顕本寺.1jpg

こうして顕本寺は、三好氏の檀那寺として地位を固めるとともに、三好=本門法華宗の連携強化が進められていきます。
 先ほど顕本寺は,宝徳二年(1450)に木屋某と餝屋某が自宅を寄進することによって建立されたと述べました。当時の堺は尼崎と同様に、重要商品の一つが材木で、阿波から畿内への主要な商品でした。材木を取り扱う「木屋」という姓は、阿波との経済的な結びつきをうかがわせます。阿波を本拠とする三好氏も,こうした経済的なつながりを背景に顕本寺との関係を強めた行ったようです。
 『天文日記』によると,天文七年(1538),「堺南北十人のきゃくしゅ(客衆)」「渡唐の儀相催す衆」の一人として木屋宗観があげられます。木屋は会合衆の構成員で、顕本寺は会合衆の結集核である開口神社の西南隣に位置して,会合衆に対しても影響力をもっていたようです。こうして阿波から畿内への材木流通を通じて、顕本寺を仲立ちとして法華宗と阿波の三好氏を結びつけ,また顕本寺を通じて三好氏は堺の会合衆とも関係をとり結んでいったのではないかと研究者は考えているようです。
三好氏が一族の祭祀や宗教的示威行為の場を,本拠地である阿波勝瑞から堺に移したのは、国際港湾都市堺への影響力を強めるためであったかもしれません。しかし、それだけではなく、信長や謙信などの諸大名がやって来る堺での三好氏の勢威を広く示すデモンストレーションという面もあったでしょう。
chrlords

  布教活動と交易活動を考えるための手がかりとして、当時のポルトガルやスペインの東アジア貿易におけるイエズス会の果たした役割を考えて見ましょう。
 知らない土地への布教という宗教的な情熱を抱き、パリ大学などで当時の最先端の技術と知識を身につけた若き宣教師達。彼らは国営の船でアジア各地の布教拠点に運ばれ、布教活動を行うと同時に報告書を作成します。その中には、その土地の情勢や交易品・交易ルートなども含まれます。これは商業活動にとっては最重要の情報でした。これらを宣教師は本国にもたらしました。「宣教師がやって来た後に、商人がやって来る」と言われた所以です。つまり、宗教的な伝道者と交易活動者は連携していたのです。そして、本門法華宗の僧侶と商人・海運業者にも同じことが指摘できます。
 同時に、戦国大名がキリシタン大名になっていく理由の一つにポルトガル船を領地内の港に呼び入れて交易活動を行い経済的な利益を上げるという意図があったとされます。同じように日隆が瀬戸内海に開いた法華宗寺院はカトリックの教会と同じく布教拠点であると同時に、交易従事者のネットワーク拠点でもあり情報と安全をもたらしてくれる施設としても機能したはずです。

20100428_1837435

 このような拠点があってこそ、瀬戸内海を舞台とする海上交易は可能となったでしょう。そして種子島、そして南シナ海を越えて琉球へと、そのエリアを拡大させて行けたのです。
 このような本門法華宗の海上交易ネットワークの形成は、宇多津にはどんな影響を与えるのでしょうか。
本妙寺というネット拠点が日隆によって新設されたことで宇多津の港湾機能は大きく発展したはずです。まずは、寄港する船の数や交易相手の港などの増加につながったはずです。例えば、それまでなかった種子島との交易船が立ち寄ることが増えたかもしれません。それは、古代に、カトリックの司教座が置かれた都市が発展して行ったのと同じように、周辺の湾岸都市とは違った人とモノの流通をもたらすことにつながったのではないでしょうか。
15世紀半ばに、本妙寺が宇多津に開山されたことは、経済的には本門法華宗の海上交易ネットワークに参加する権利を与えられただとも言えます。その同盟都市の一員として宇多津は、さらなる進化を遂げていくことになるのです。

参考文献 日隆の法華宗と三好長慶   法華宗を媒介に      天 野 忠 幸 都市文化研究 4号 2004年

         DSC08539
本妙寺
坂出から丸亀を結ぶ宇多津の旧街道を宇夫階神社を目指して歩いていると、いろいろな宗派のお寺さんが並びます。お遍路さんで賑わう郷照寺を通り越して、歩いて行くと広い参道が山に向かって伸びています。その向こうには城郭のような石垣が見えます。
DSC08543
日隆像(宇多津の本妙寺) 

気まぐれに入っていくと二つの大きな銅像が山門入口で迎えてくれました。一方は日蓮、そしてもう一方は日隆と刻まれています。日蓮は、私にも法華教の開祖と分かります。しかし、日隆ってだあーれ?という印象でした。日隆という未知の人物とともに、本妙寺という寺に興味を覚えました。法華教だから鎌倉時代の東遷御家人として、東国からやって来た秋山氏に関係があるのかなくらいに思ったのを覚えています。
DSC08545
本妙寺の日蓮と日隆像
 その後、何度か史料も中でこの本妙寺に出会う中で、日隆の果たした役割や当時の法華教団の動きなどがおぼろげながら私にも見えてくるようになりました。ということで、日隆という人物と本妙寺について、参考文献をもとにまとめておくことにします。

本妙寺には、日隆自筆の文書が幾つか伝わっています
まず宝徳二年(1450)2月に定めた讃州宇多津弘教院法度の條書には次のように記されます。
  定 讃州宇足津弘教院法度條々事
   一 無退転可有弘通事
   一 守本寺之大旨、可為壇那成敗事
   一 寺家造栄之事、惣壇那而可取成事
   一 公事等出来之時者、惣壇那而可為勤仕事
   一 時之住持於旦那而不可相計事
    右、守此旨、師壇共卜不可有聞如、
    但、寺家之事者、惣旦那中一味同心経談合、可然様可被相計者也、の為後代所定如件
  宝徳二年二月下旬
  摂州尼崎本興寺住持 日隆(花押)
ここには日隆が宇多津弘教院に下した法度状です。
退転なく弘通することと、
本寺たる本興寺に従うこと、
寺家のことは、惣檀那と相談しておこなうこと、
などが定められています。
最後の日隆の肩書きに注目して下さい。尼崎の本興寺の住職となっています。つまり、この法度(信仰誓約書)は、弘教院と呼ばれていた法華堂に集う法華信者たちに、尼崎・本興寺の日隆が下したものです。年号のある宝徳2年(1450)の時点で、宇多津法花堂(弘教院)が尼崎本興寺との間に本末関係を結び、日隆のもとに帰属したことがわかります。

DSC08547
本妙寺山門
また、第三条に「寺家造栄之事」とあります。ここからは、この頃に弘経院では本堂などの建築工事が予定されていたことがうかがえます。そしてその2年後に、次のような日隆から寺号授与状が下されています。
 右所授与如件
 授与之 寺号事  宝徳年七月下旬
  本門法華宗      日隆(花押)
  可称 本妙寺  讃岐国宇多津
寺号を「本妙寺と称すべし」と寺号が授与されています。この文書は、先の法度状と同筆で、日隆自筆とされています。2年前には宇多津の弘教院という法華堂に集まる法華信徒(檀那)集団という段階から正式の寺号を持つ本妙寺へとグレードアップしています。

宇多津 本妙寺
 本妙寺

さて、日隆とは何者なのでしょうか?最初に年表を掲げておきます
至徳 2(1385)年 越中国浅井島村に桃井右馬頭尚儀公の子として生。
応永 5(1398)年 14歳で京都妙本寺で得度
応永25(1418)年 妙本寺退出後、河内三井村に難を避ける
応永27(1420)年 尼崎に本興寺建立の端緒を得、
応永30(1423)年 摂津守護細川満元の支援により尼崎に本興寺を興す。
応永32(1426)年 越中国に向い、色ケ浜における祈祷により禅宗金泉庵義乗を改宗させ、さらに敦賀では真言宗大正寺円海を帰伏させて本勝寺を得た。
永享 元(1429)年には京に本応寺を再建
永享11(1429)年には、河内に布教して加納の法華寺を得る
永享 5(1433)年 京都本能寺を創建した。
文安 2(1445)年 宇多津船籍の兵庫北関通関数が47隻 宇多津は讃岐随一の港町
宝徳 元(1449)年 西国布教を志し、牛窓本蓮寺を改宗させ、
          備中高松では川上道蓮を教化して本隆寺を建立し、
            讃岐宇多津に本妙寺建立の基を開き、
            帰っては兵庫の久遠寺を末寺とした。
宝徳二年(1450)年2月 日隆が讃州宇多津弘教院へ法度の定書下す
宝徳 2(1451)  堺に顕本寺を建立。
寛政 5(1464)年 尼崎にて八十歳にて没 
DSC08550
本妙寺

日隆は法華宗の開祖日蓮の時代から百年以上後の人物のようです。彼は、当時の法華宗を「習損い」と批判し、法華宗再興運動を進めます。上の年表をからは各地に布教し、多くの寺院の建立や復興を行っています。その数は、近畿一円から北陸、岡山・讃岐方面にかけて計14カ寺を数えます。その拠点になったのが京都本能寺と尼崎本興寺です。ここを拠点として、敦賀、河内、堺、兵庫、牛窓、宇多津などの交通の要衝の地に寺院を配置し、弟子、信者などを得たことが分かります。晩年は、尼崎の本興寺に入り膨大な著作の執筆活動と弟子の養成に尽力し、81歳の生涯を閉じます。
 本門法華教では、日隆を「蓮師後身 本因下種再興正導 門祖日隆聖人」と呼ぶそうです。
「蓮師後身」とは「日蓮聖人の生まれ変わり」という意味です。日蓮が亡くなったのが弘安5年10月13日で、その約101年後の至徳2年10月14日に日隆が誕生したことによるようです。宇多津の本妙寺の山門の前に、日蓮と日隆の大きな像が立ち並んでいる訳がなんとなく分かってきました。

DSC08558
本妙寺から聖通寺山方面
ここまで見てきて私が疑問に思ったこと
①なぜ尼崎を拠点としたのか?
②なぜ瀬戸内海の港町である牛窓・備中高松・宇多津・兵庫に布教活動を行ったのか
③日隆の教えを受入れて信徒集団を構成した人たちは、どんなひとたちだったのか
④瀬戸内海布教のための教団組織は

疑問を解くために、日隆の伝記書から瀬戸内海への布教についてみてみましょう。
 本能寺・本興寺開祖日隆大聖人略縁趣(日憲)
大上人(日隆)は本興寺居たまへて 是より弘法を西国ひろめんとほっしたまへて まづ兵庫の津(神戸)に行せたもふて町宿をもとめたもふ 処宿の宅主あしらい鄭重也 翌日わかれをつげて曰く 予深くなんじが厚志をかんずるゆへに此物を預る但 風呂鋪也 他日我かえりきたるまでつつしんで防護せよと 
 
西国弘法(布教)は、拠点である尼崎の本興寺から出発します。まずは西国から海のハイウエーである瀬戸内海東へ登る船が立ち寄らなければならなかったのが兵庫(神戸)港でした。ここには東大寺の「海の関所」が置かれ、大坂に向かう船はここで関銭を納めるシステムが当時はありました。そんなこともあって兵庫港は平清盛以来、瀬戸内海における最大の交易都市でした。
 この宿の主人との間の風呂敷袋を預けるエピソードが挿入されます。これが久遠寺建立へとつながります。

 是より西国趣二せたもふて まづ備中の国新庄村にいたりたもふ 村中の酋長 川上道蓮・江本蓮光といふ 七月にせったい供養をおこのふ 大上人此供養のかりや入らせたもふて右の酋長のものと清談の時をうつしたもふ 酋長大上人をとものふて我家に帰り本門の深秘をとききかせたもふ所 信伏随喜して蓮光道蓮力をあはせ仮に堂をいとなみ 村中の老若をあつめ聞法結縁をせしめさせたまへ一村こぞって受戒して則一院を創々する 是本隆寺と号(略)

 兵庫(神戸)港から向かったのは牛窓かとおもいきや備中の新庄村です。今は総社ICの近くで海岸線から遠く離れているように思えます。しかし、この付近は古代の吉備王国の核心部で「吉備の穴海」と呼ばれる入り江がすぐ近くまで入り込んでいました。その海が新田開発されるのは江戸時代になってからです。中世は児島湾から足守川を逆上れば、本隆寺の背後の庚申山のすぐ東の川港に着くことができました。そういう意味では、ここも水運を利用すると便利な場所だったようです。そこでは、村長の蓮光道蓮力をはじめ村人の心をつかみ「一村こぞって受戒」し、本隆寺が開かれます。

 是より讃州卯辰の浜つかせたもふて 大きに宗風を振はせたもふて 周く撃毒破則一院を創たもふて本妙寺と号

宇多津での布教活動に触れているのはこれだけです。讃岐の法華集団と云えば、東遷御家人の秋山氏が建立した三豊の本門寺が「皆法華」の隆盛を誇っていましたが、そこには立ち寄った気配はありません。備讃瀬戸を超えて宇多津の地にやってきます。ここでも布教活動の成果として「一院を創った」とあります。これが最初に見た宇足津弘教院なのでしょう。

享徳二酉年大上人 尼崎へ帰らせたもふ また御かえりがけ兵庫旅宿したもふて亭主御たいめん遊はされし所 亭主大きによろこび先達御預居しもの取出し大上人へ差出 大上人笑はせたもふて亭主まことに正直の人也 今よりして正直やと致べくよし仰ければ 難有請受申てけて、ここにおいて大きに宗義をとなへ一寺建立ある すなわち久遠寺坊舎十二宇

   そして、吉備・讃岐への布教活動を終えて尼崎に帰っていくのですが、その際に立ち寄るのが兵庫港です。そこで風呂敷を預けた宿の亭主を信者にし、久遠寺を建立させます。
DSC08546
本妙寺(宇多津)
日隆が布教対象としのは、どんなひとたちだったのでしょうか
日隆が瀬戸内海への布教活動を行った同時代の史料として「兵庫北関入船納帳」があります。これは、文安二年(1455)3月3日から12月29日までに摂津国兵庫津の北関を通過した船舶の船籍地・積載品目・数量・関料・納付月日・船頭・船主(問丸)の各項目を列記した記録簿(通行記録)です。この船の船主(問丸)の中に日隆聖人と関係がある人物名があるのが分かってきました。例えば問丸として記されている「衛門太郎」は、日隆が宝徳三年(1451)12月3日に曼荼羅本尊を与えた「信男衛門太郎 法名道妙」と同一人物のようです。
また船頭と記されている「衛門二郎」も、聖人自筆の「寺領屋敷地所当収納日記」中に永享二年(1430)11月28日付で京の千代寿に土地を売却した「奈良屋衛門二郎」と一致します。。
 「兵庫北関入船納帳」には記されていませんが、「衛門五郎」にも注目点があります。
「衛門五郎」についてみると嘉吉三年(1441)七月下旬に、聖人より曼荼羅本尊を授与された「信男妙浄衛門五郎」(本能寺蔵)です。彼は「収納日記」の中で、日隆に本興寺敷地として五貫文で屋敷地を売却した者として記されています。このことから、衛門五郎は初めは日隆に対してビジネス相手として対応していた関係が、時を経るに従って信者の立場に変ったのではないかと研究者は指摘します。
 もしそうであるなら、日隆の信者獲得や瀬戸内海沿岸布教について、具体的な姿が浮んできます。こんなSTORYが作れないでしょうか。
日隆の信者たちの中に、町衆と呼ばれる富裕な商人たちがいました。その金持ちとは、問丸と呼ばれる船主や、瀬戸内海の各港で貨物の輸送・販売などをおこなう者や、船の船頭などです。彼ら信者達は、日隆に何かの折に付けて、商売を通じて耳にした諸国の情況を話します。そして、新天地への布教を願い、支援したかもしれません。

 岡山牛窓の本蓮寺については、堂塔が整備できたのは石原氏の貢献が大きかったと伝わります。
石原氏の一族の石原遷幸は土豪型船持層で、船を持ち運輸と交易に関係したようです。石原氏の一族が自分の持ち舟に乗り、時折、尼崎の商売相手の所にやってきます。瀬戸内海交易に関わる者達にとって、「最新情報や文化」を手に入れると云うことは最重要課題でした。尼崎にやって来た石原氏の一族が、人を介して日隆に紹介され、法華信徒になっていくというSTORYは考えられることです
 このように日隆が布教活動を行い新たに寺を建立した敦賀・堺・尼崎・兵庫・牛窓・宇多津などは、その地域の海上交易の拠点港です。そこで活躍する問丸(海運・商業資本)と日隆の何らかのつながりのあったことることが見えてきます。
utadu_01宇足津全圖
宇多津湊 「讃岐国名勝図会」巻之10、江戸後期、松岡信正画

それでは、当時の商業交易圈と信仰伝播の方法の関係を探っていきたいのですが、
その前に問丸とは何かを「学習」しておきます。
古代の荘園の年貢輸送は、荘園領主に従属していた「梶取(かじとり)」によっておこなわれていました。彼らは自前の船を持たない雇われ船長でした。しかし、室町時代になると「梶取」は自分の船を所有する運輸業者へ成長していきます。その中でも、階層分化が生れて、何隻もの船を持つ船持と、操船技術者として有力な船持に属する者に分かれていきます。
 また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水手として使っていました。それが水手も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。そして、物資を銭貨に換える際には、問丸の手が必要となるのです。
荘園制の下の問丸の役割は、水上交通の労力奉仕・年貢米の輸送・陸揚作業の監督・倉庫管理などです。ところが、問丸も従属していた荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者あるいは輸送業者となっていったのです。
 こうして室町時代になると、問丸は年貢の輸送・管理・運送人夫の宿所の提供までの役をはたす一方で、倉庫業者として輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格?」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで加わる者も現れます。
 このような問丸が兵庫港や尼ヶ崎にも現れていたのです。先に述べたように、日隆の信徒の中にはこのような裕福な問丸達がいたようです。そして、彼らは牛窓と同じように讃岐の宇多津で海上交易に活躍する人々と人的なネットワークを張り巡らし、情報交換を行っていたのでしょう。
その中に服装や宗教などの文化情報も含まれています。あらたな流派の宗教活動についても強い好奇心と関心を彼らは持っていたはずです。問丸達によって張られたネットワークに乗っかる形で、日隆の瀬戸内海布教活動は行われたというのが私のいまの仮説です。
DSC08548
本妙寺
最後に、日隆がこのような布教活動を行ったのはなぜでしょうか?
日隆が尊敬する大覚大僧正の跡をたどたのではないかというのが一つの考えです。ルート場には、妙顕寺末からの転派寺院が多くあることから想像されることのようです。
もう一つは、先師の大覚大僧正が布教と共に妙顕寺維持のための銭貨を集めて本寺に送った例があります。これを知っていた日隆は65歳という高齢ながら、本興寺や本能寺護持や勧学院運営のための財源確保というような目的もあったのではないかと考える研究者もいるようです。そうだとすれば布教活動だけでなく「募金活動」も含まれていたということになります。そして、それならお金を持っている人が多く住んでいる瀬戸内海の各港町を訪れたというのもよりリアルに納得できます。

  参考文献 小西轍隆 日隆聖人の瀬戸内海沿岸布教についての一試論
関連記事

絵図から探る200年前の瀬戸内海の港 宇多津

イメージ 10

「宇多津街道図」で、宇多津町の法華宗寺院本妙寺に伝わる絵図です。宇多津西部の町並みが海側から鳥瞰するように描かれてています。とは言っても、二百年前の作品で見たとおり退色が進み、何が書いてあるか分からない状態です。もとは衝立であったのが、その後に巻いた状態で保管されていたのでしょう。
 画面向かって右下に、「東埜原民馨」の署名があり江戸時代後期の讃岐の絵師、大原東野が描いたものであることがわかります。近世後期の宇多津を描いた貴重な絵画作品として、宇多津町指定有形文化財に指定されています。 
 200年前の宇多津の街並み散歩に出かけましょう
イメージ 1

 先ほどの絵図を香川県歴史博物館が調査のために描き起こした写真です。手前に、宇多津の北に広がる海が描かれます。画面向かって右中央には、鳥居から続く階段とやや高くなった岩山の上に神社が見えます。これが宇夫階神社です。鳥居を抜けて階段を登ると隨神門があり、その奥に本社の屋根が見えます。
 イメージ 2

本社の横には、宇多津の海を見渡す位置に高松藩の遠見番所が描かれ、また隨神門の左横には神宮寺と思われる建物が見えます。階段下の鳥居の脇には一対の常夜燈が描かれています。これは現在も宇夫階神社の境内にある文政10年(1827)9月の建立銘文をもつ常夜燈でしょう。この絵が描かれたときには建立されたばかりでした。
 宇夫階神社の大きな鳥居のすぐ左横には、秋葉社の鳥居と階段らしきものが描かれています。その前から西町を通って東にのびる丸亀街道には、荷を担いて行き交う人々の姿が見えます。宇夫階神社の北側には、すぐそばまで海が迫っていることが分かります。神社の崖下を丸亀街道が通っています。
イメージ 3

 宇夫階神社の鳥居に帰ります。
そこから東に向かうと街道の中ほどから、本妙寺へと続く参道が上に伸びています。その角には元禄年間(1799)に建立された石碑が描かれています。現在、この石碑は参道の西側に場所を移しています。本妙寺は、他の建造物に比べると本堂の屋根の形などが比較的詳しく描写されています。 
 本妙寺の東には、郷照寺の塀や建物と、画面左端から続く参道が描かれます。
本妙寺と郷照寺の参道口の中ほどに、鳥居のような建造物と小さな祠のようなものが見えますが、これは現在も浄泉寺前にある祠と石造物を表したものでしょう。
イメージ 5
その西隣りに描かれた四角形の台が描写されています。
しかし、現在はこれに相当する建造物は見当たらないようです。上の絵図は江戸時代後期にまとめられた「讃岐国名勝図会 後編(稿本)」に収められた挿絵「郷照寺 浄泉寺」です。ここには、郷照寺の下の街道沿いにこの四角形の台が描かれ「御旅所」と記されています。その位置から考えて、宇夫階神社の御旅所でしょう。しかし、現在では宇夫階神社の御旅所は田町神事場と聖通寺神事場で、それ以外で町の中に御旅所があったという話は伝わっていません。
再び宇夫階神社前に戻って画面を見てみましょう。
イメージ 4

鳥居の前から画面右下に向かって横町の街道がのび、浜町の街道と交わります。その交差点ある方形の堂宇は、「讃岐国名勝図会 後編(稿本)」の挿絵「宗夫階社 神宮寺 秋葉社 神石社」によると釈迦堂です。そして道向こうにある長い屋根の建造物は十王堂です。
イメージ 6

その海側には方形をした池の中央に祠のある亀石神社が見え、掘割とつながる導入溝も描かれています。現在ではこの周辺は埋め立てられ、中央公園や小学校が建っていますが、当時は亀石神社から海側にのびる地が砂州となっています。この時期は石垣などで整備されていない様子がうかがわれます。
イメージ 7

 東西にのびる浜町の街道には町屋が並び、往来する人々の姿が見えます。また、西町と浜町に挟まれた幸町付近は、家屋などのない低地であったことが知られていますが、この絵でも植物の茂みのような表現が見られるだけで、自然状態の利用されていない土地であったようです。
最後に、浜町から北の海側に広がる区画を見てみましょう。
 海に突き出た堤防に沿って十八世紀中ごろから開発が始まった古浜塩田が見えます。堤防の根元には、海水を煮詰めるための釜屋らしき建物が見え、その横には、木々に囲まれた蛭子神社と鳥居が見えます。塩田の周囲は石を積んで護岸されており、掘割の入口には目印となる燈篭が見えます。周辺には、掘割の中も含めて数艘の船が行き来する様が描かれており、港町として賑わっていた宇多津の様子が描かれています。さて、この絵を描いたのは誰なのでしょうか?
イメージ 8
作者は、大阪から琴平に移り住んだ大原東野です。 
明和八年(1772)奈良に生まれ、後に大阪に住み画家となります。文政2年(1819)6月に、息子の萬年とともに讃岐を訪れ、金毘羅の参詣道を修造するために「象頭山行程修造之記」を著します。これは、丸亀から金毘羅に至る街道の現状を嘆いた東野が、施主の求めに応じて扇面から屏風まで様々な絵画を制作し、その代金を街道修繕の工賃にあてるというもので、木版刷りで広く配ったようです。その後、大阪に帰らずに苗田村(現琴平町)の丸亀街道沿いに家を構え、石津亮澄著「金毘羅山名勝図会」の挿絵を手がけた以外にも、数多くの花鳥、人物図などを描きました。
 画家としての東野は人物図を得意としましたが、「金毘羅山名勝図会」などの景観図を描く技術と経験も充分に備えていました。さらに、讃岐の琴平に移り住み、宇多津のことを充分に知り、その地形の特徴を把握したうえでこの作品に取り組んだと考えられます。11年(1840)に没しました。各種の藤を育てていたという寓居は「藤の棚」と呼ばれ、今も地名にその名が残っています。   

制作目的と制作年代は?

 描かれている範囲が町全体ではなく、宇多津西部の景観に限定されている理由は何でしょう。
 
イメージ 9

この絵には見るものの目線を画面の主題へと自然に導く構図の工夫があるようです。私たちの目線は、まず手前に広がる海から、掘割を通って宇多津の町に向かいます。そして横町、西町と街道をたどって進み、中ほどで掘割と平行するようにのびる参道を登って本妙寺に至ります。意識しなくても、大きな水路や道をたどれば、画面中央に描かれた本妙寺に自然に辿り着くという工夫です。しかし、本妙寺は特に強調して描かれることもなく、あくまでも周囲の景観にとけこむように表されています。ここからこの絵の主題は、本妙寺ではあっても、宇多津の町に一体化した佇まいをみせる寺の姿を描くことにあったのではないでしょうか。海から宇多津を訪れた人や、街道を行く人々には、青ノ山を背に、町並みから一段高く位置する本妙寺が、この絵のように見えたのでしょう。 
 景観年代については、宇夫階神社の鳥居横に描かれる常夜燈を現存のものとみれば、文政10年(1827)建立以降と考えられます。また作者の大原東野は天保11年(1840)に没していますので、それまでの制作されたことになります。いずれにしても、街道が整えられ、船も人も行きかう二百年前の宇多津を描いた貴重な絵画作品といえます。
 以上のように、日常的風景の中に本妙寺を中心として成立する宇多津の景観を描く工夫が織り込まれている点を考えると本妙寺の依頼によって描かれた可能性が高くなります。そして当初は、衝立のような複数の人と鑑賞を共有できる画面に、風景として本妙寺の姿を表現してみせたのがこの絵ではないでしょうか。
「香川県宇多æ´\ 本妙寺」の画像検索結果

 参考史料 松岡明子 近世の宇多津を描いた景観図

このページのトップヘ