満濃池と池御料三村(白色)と金毘羅寺領(黄土色)
1640年に生駒騒動で生駒藩が転封すると、その後の讃岐は髙松藩(草色)と丸亀藩(茶色)の東西に分割されます。その時に満濃池の管理費の捻出のために設置されたのが池御領という天領(白色)でした。こうして金毘羅寺領に接した①榎井②五条③苗田の三村は、幕府の直轄地となり倉敷代官所などの支配下に置かれることになります。金毘羅寺領と池御領の位置関係は上の絵図の通りです。

金毘羅寺領と天領三村の石高
倉敷代官役所管下の天領・窪屋郡倉敷村の庄屋を勤めた小野家には、「讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」という大きな一枚の絵図があります。これを初めて紹介したのは、琴平町の三水会の横関智也氏です。①提出先が倉敷代官「万年七郎右衛門 様 御役所」 となっている。②この代官の任期は、一回目が明和7年~安永4年(1770年~1775年) 、二回目の任期が天明4年~天明7年没(1784年~1787年没)なので、制作されたのは18世紀後半④提出者が苗田村・東庄屋新左衛門と同村西庄屋五郎衛門⑤いままでの紹介されたことのない新史料の絵地図であること
以上から、この絵図が18世紀後半に池御料で制作されて、倉敷代官所に提出されたものであることが分かります。今回は、この絵地図の中の五条村について見ていくことにします。
五条村の部分からは、次のような事が読み取れます。
②石淵の対岸には神事場は描かれていない。神事場が整備されるのは神仏分離の明治維新後。
③街道は茶色で描かれていて、阿波町から阿波街道が五条村の中央を東西に貫通している。
④阿波街道沿いに札場と所蔵(郷倉)がセットであり、ここが行政的中心であったこと。
⑤札場から阿波街道はくねくねと曲がっているが、これは出水①の用水路沿いに作られたため。
⑥出水①が中世以来の五条の水源で、その水の供給範囲が中世の荘園領であった。
⑦出水④の水が湧き出す霊域に祀られたのが「大井神社」で、その背後は四条村になる。
高札場とはどんなものだったのかを見ておきましょう。

高札場とはどんなものだったのかを見ておきましょう。
高札場のことを。AIに訊ねると次のように答えます。
高札場とは幕府や領主が、法度(法律)や禁制(禁止事項)を記した木の板(高札)を掲げた施設のこと。設置場所は、村の中心部や、橋のたもと、十字路など、人の往来が多い所。構造は、権威を示すために一段高く作られ、雨風から札を守るための屋根や、保護のための柵が設けらた。
次に郷倉を見ておきます。

幕府は、1788(天明8)年2月に「郷倉設置令」を出して、飢饉に備えて村ごとに非常救米の備蓄を命じています。
これを受けて高松藩・丸亀藩や天領でも一斉に、郷倉(所蔵:ところくら)が設置されます。そして、年貢米の一時的集積地となります。池御料の年貢米は、ここから那珂郡と鵜足郡の人夫と馬の夫役で、宇多津まで運ばれ、そこから倉敷へ送られました。
郷倉は明治になって、戸長役場や小学校・交番に転用されます。ちなみに各村の郷倉は、年貢の一時保管庫以外にも、犯罪者や問題を起こした人間を入れておく留置場の役割も果たしていたことは以前にお話ししました。ここでは、札所と郷倉はセットで、村の中心に作られたことを押さえておきます。五条村では、現在の琴平高校の南側の旧阿波街道沿いに建てられていたようです。この辺りに、本村や本条という地名も残っています。
私が注目したいのは、出水①④のある大井神社と五条村の関係です。
角川の地名大辞典には、次のように記します。
五条は金倉川の上流域に位置する。地名の由来は、条里制那珂郡五条にあたることにちなむ。南部の買田峠の三坂山一体には古墳群があり、仲多度農業普及事務所(琴平マルナカ東)の構内からは弥生式土器が出土している。
グーグル地図で現在の琴平町五条を押さえておきます。
①五条の真ん中を、東西に金倉川が貫通する。
②大井八幡が氏神で、この周辺の出水から導水されたJR土讃線の北側の範囲に集落が形成された。
③R32号が金倉川を渡る橋の東側下に、いまも豊かな出水があり、古代の重要な水源地となっていた。
④その水源を霊地として「大井神社」が建立された。これは榎井の春日神社よりも古い。
⑤五条集落の形成は、榎井よりも早い。五条が本村で、榎井は新村(分村)

五条附近の金倉川痕跡
上記の土地利用図からは次のような情報が読み取れます。
A 金倉川は三坂山の所で流路を大きく変えていたこと
B かつての河道は大井神社から春日神社方面や、買田峠のすぐ下を流れていたことあったこと。
C 五条方面では、JR土讃線に沿うように流れていたこともあった。
こうしてみるとBの大井神社や春日神社にいくつも出水があり、それが聖域化し、そこに神社が建立されたことや、」C沿いに伏流水が流れて、それに沿って阿波街道も開けたようです。
A 金倉川は三坂山の所で流路を大きく変えていたこと
B かつての河道は大井神社から春日神社方面や、買田峠のすぐ下を流れていたことあったこと。
C 五条方面では、JR土讃線に沿うように流れていたこともあった。
こうしてみるとBの大井神社や春日神社にいくつも出水があり、それが聖域化し、そこに神社が建立されたことや、」C沿いに伏流水が流れて、それに沿って阿波街道も開けたようです。

三坂山の群集墳と準郡衙的な買田岡下遺跡と四条の弘安寺
⑥買田の三坂山には、古墳時代後期の群集墳があったとされ、岸上には、横穴石室の古墳もある。
⑧買田のJOYの南側からは、8世紀の官衛的遺跡も発掘されている。
⑨五条の東側の四条には、白鳳時代の瓦が出土している弘安寺が建立されている。
以上からは五条・買田附近では、弥生時代に大井神社付近の出水を水源にして稲作が始まり、古墳時代には群集墳の渡来人による開発が進み、律令時代には官衛的な建物や古代寺院が姿を現すようになったと云えそうです。古代から順調に力を伸ばし続けた勢力の拠点地であったことがうかがえます。これをまとめると次のようになります。
つまり、那珂郡の最南端の条里制や、四条の弘安寺・買田の郡衙的建物は、五条近辺に勢力を持っていた古代豪族によって作られたと私は考えています。それは佐伯氏ではありません。ここは多度郡ではなく那珂郡です。佐伯氏の勢力の及ぶ範囲ではありません。また、和気氏(因支首氏)でもありません。ましてや神櫛王(綾氏)でもありません。それについては、以前にお話ししたのでここでは触れません。
丸亀平野の条里制 琴平町の五条は那珂郡条里制の最南端に位置する
次に中世の五条周辺を見ておきましょう。

16世紀初頭の永世の錯乱後、阿波勢力の讃岐侵攻を受けて讃岐は各国に先駆けて戦国時代に突入します。そのような中で丸亀平野をめぐっては、阿波三好氏に属した長尾城主と、反三好の天霧城香川氏の勢力争いが展開されます。そのような中で小松庄の国衆は、長尾氏の参加に編入されていったことは以前にお話ししました。その拠点とされるの五条の古城です。
五条は小松郷に属した
延慶二年(1309)の九条家の「九条忠教注給条々」には、次のような記載があります。
小松荘 御馬飼赳晶公器談此の如く仰せらると雖も、其足に及ばずと称し、行宣御預を辞し了ぬ、其以後各別の沙汰と為て、馬飼に於ては小豆嶋に宛てる所也
意訳変換しておくと
小松荘には、峯殿と呼ばれた九条道家の建立した寺のために、馬の飼育が充てられていた。行宣という者がその負担が困難だと辞退してきたので、馬飼の役を同じ九条家領の小豆島に替えた。
ここからは次のようなことが分かります。
①14世紀初頭の小松荘には、九条家から馬が預けられ飼育されていたこと②飼育を行っていた行宣も預所であったこと③九条家には小豆島にも馬の飼育を行う牧場があったこと
①②からは小松荘には九条家の馬を飼育する牧場があったことが分かります。つまり、九条家の荘園になっていたことが裏付けられます。
九条道教は貞和4年(1348)に亡くなり、経教があとを継ぎます。
南北朝動乱後の応永3年(1396)4月の「九条経教遺誠」を見ると、道教の時40か所あった所領が16か所に激減しています。そして、讃岐国小松荘の名は、そのなかから消えています。一方、応永十二年(1405)に、室町幕府三代将軍足利義満は、備中守護職の細川頼重に次のような所領安堵の御教書を与えています。
南北朝動乱後の応永3年(1396)4月の「九条経教遺誠」を見ると、道教の時40か所あった所領が16か所に激減しています。そして、讃岐国小松荘の名は、そのなかから消えています。一方、応永十二年(1405)に、室町幕府三代将軍足利義満は、備中守護職の細川頼重に次のような所領安堵の御教書を与えています。
御判 (足州義満)備中国武蔵入道(細川頼之)常久知行分閥所等 讃岐国子松荘、同金武名(中首領跡)、同国高篠郷壱分地頭職、同公文職、伊予国新居郡ならびに西条荘嶋山郷の事、細河九郎頼重領掌、相違有るべからずの状件の如し、応永十二年十月廿九日
意訳変換しておくと
備中国の武蔵入道(細川頼之)が知行していた領地と、併せて讃岐国の小松荘、金武名、高篠郷一分地頭職、同じく高篠郷の公文職、伊予国新居郡ならびに西条荘嶋山郷について、細河(細川)九郎頼重が相続したことを認める。
ここからは、九条家領であった小松荘が備中守護細川氏の所領になっていることが分かります。小松荘については、九条家領からその名が消えて、細川氏家領として記されています。九条家が持っていた荘園領主権が細川氏の手に移ったことが分かります。その時期は、頼之が讃岐守護となった貞治元年(1326)以後のことと研究者は考えているようです。
以後、小松荘は、義満以下代々の将軍の安堵を受けて、備中守護細川家に伝領されていきます。讃岐守護は細川氏の惣領家です。分家である備中細川氏の所領の保護は怠りなかったでしょう。
しかし、応仁の乱が起きると、それも安泰ではなくなったようです。
讃岐の細川家の所領も、このころには細川氏の手を離れたようです。以後の備中細川家の安堵状には、小松荘の名は見えなくなります。小松荘は誰の手に置かれたのでしょうか。
讃岐の細川家の所領も、このころには細川氏の手を離れたようです。以後の備中細川家の安堵状には、小松荘の名は見えなくなります。小松荘は誰の手に置かれたのでしょうか。

琴平高校北側の本庄城は能勢氏の居館((山本祐三 琴平町の山城より)
一枚の絵地図を見ながら、私の考えている五条の歴史を振り返ってみました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。参考文献
横関智也氏提供 「讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」
参考文献
関連記事









