瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:本門寺

  小松郷生福寺2
流刑先の小松庄・生福寺(まんのう町)法然の説法
        
浄土宗が四国に伝わるのは、承元元年(1207)に開祖源空(法然)が流罪先として讃岐に流されたときとされます。この時に、門下の幸西も阿波に流されていますが、彼の動向についてはまったく分からないようです。その後、幸西は嘉禄の法難(1327)によって、再び四国伊予に流されます。法然の讃岐流刑が、さぬきでの浄土宗布教のきっかけとする説もありますが、研究者はこれを「俗説」と一蹴します。例えば法然の「讃岐流刑」の滞在期間は、春にやってきて秋には流罪を許されて、讃岐を去っています。半年にも及ばない滞在期間です。「源空や幸西の流刑による来国は、浄土宗の流布という点では大した期待はもてない。」と研究者は考えているようです。

九品寺流長西教義の研究(石橋誡道 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

法然門下の九品寺流の祖・長西(
元暦元年(1184年) - 文永3年1月6日1266年2月12日は、伊予守藤原国明の子でした。

讃岐国で生まれ9歳のときに上洛し、19歳で出家して法然に師事します。京都九品寺を拠点にしたことから、九品寺流と呼ばれます。その教えは「念仏以外の諸行も阿弥陀仏の本願であり、諸行でも極楽往生は可能」というもので「諸行本願義」とも呼ばれるようです。長西は建長年間(1249~56)に、讃岐に西三谷寺を開いて教化につとめたとされます。しかし、それも短期間のことで、すぐに洛北の九品寺に移っています。その後、四国では浄土宗を伝道する者が現れません。「法然流刑を契機に浄土宗が讃岐に拡がった」という状況を、残された史料からは裏付けることはできないと研究者は指摘します。

4344102-55郷照寺

宇多津の時衆・郷照寺(讃岐国名勝図会)
 浄土宗の流れを汲む一遍の時衆は郷照寺などに、その痕跡を見ることができます。郷照寺は四国霊場では唯一の時宗寺院で、古くは真言宗だったようです。それが一遍上人に来訪などで、時宗に変わったと伝えらます。郷照寺(別名・道場寺)の詠歌は

「おどりは(跳)ね、念仏申、道場寺、ひやうし(拍子)をそろえ、かね(鉦)を打也」

で、一遍の踊り念仏そのものを詠っています。江戸時代初期には、郷照寺が時宗の影響下にあったことを示す史料ともなります。
 滝宮念仏踊りの由来の中にも、「法然が伝えた念仏踊り」と書かれたものもりますが、実際には時衆の念仏踊りの系譜を引くものだと香川叢書は指摘しています。時衆のもたらした影響力は、讃岐の中に色濃く残っているはずなのですが、それを史料で裏付けることは今のところ出来ないようです。しかし、風流踊りの念仏系踊りにおおきな影響を与えているのは、法然ではなくて時衆門徒たちのようです。彼らによって、讃岐でも踊り念仏は拡げられたと研究者は考えています。それが、後世に法然の方に「接ぎ木」され換えたようです。

253 勝瑞城 – KAGAWA GALLERY-歴史館
三好氏の居城 勝瑞

 戦国時代になって細川氏に代わって阿波の主導権を握ったのが三好氏です。三好氏の居城勝瑞でも、時衆が一時流行したことが「昔阿波物語」に次のように記されています。

昔阿波物語 | 日本古典籍データセット
昔阿波物語
勝瑞にちんせい宗と申て、門にかねをたゝき、歌念仏なと申寺を常知寺と申候、京の百万遍の御下り候て、談議を御とき候、その談議の様子ハ、浄土宗ハ南あミた仏ととなへ申候ヘハ、極楽へむかへとられ候か、禅宗真言宗ハなにとヽなへて仏になり候哉と御とき候て、地獄の絵をかけて見せ申候、……又極楽の体ハ、いかにもけつかうなる堂に、うちに仏には金仏にして見事也、念仏中ものハ、此ことくの仏になり、さむき事もあつき事もなく候と御とき候二付、勝瑞之町人ハ、皆浄宗になり申候、此時、禅宗真言宗ハたんなを被取めいわく……

意訳変換しておくと
勝瑞ではちんせい宗と呼ばれる宗派が、門で鉦をたたいて、歌念仏などを唱え、常知寺と称した。そして京の百万遍からやってきた僧侶が、説法を行った。その説法の様子は、浄土宗は南無阿弥陀仏と唱えて、極楽へ向かうが、禅宗真言宗は何を唱えて仏になるというのだろうかと説くことからはじまり、地獄の絵を掛けて見せた……又極楽の様子は、いかにも素晴らしい堂が描かれ、その内側には見事な金仏が描かれている。念仏するものは、このように総てが仏であり、寒さ暑さもない常春の楽園であると説く。これを聞いた勝瑞の町人は、皆浄土宗になったという。この時には、禅宗や真言宗は、大きな被害を受け迷惑な……

ここには、京の百万遍からやって来た僧侶によって、時衆が勝瑞を中心に信徒を増やし、一時は禅宗や真言宗を駆逐するほどの勢いであったことが記されています。ところがやがて「少心有町人不審仕候」とその教義に疑問を持つ町人も出てきて人々の信仰心が揺らぎます。その時に、きちんと説明・指導できる僧がいなかったようで、

「皆前々の如く禅宗真言宗になりかへり候二付、浄地寺と申寺一ヶ寺ハかりにて御座候なり」

時衆信徒の多くは、再び禅宗や真言宗にもどって、時衆のお寺は浄地寺ひとつになってしまったと記します。ここからは浄土宗は、四国において、その伝道布教等に人材を得ず、また領主・武士等の有力なパトロンを獲得することができず、大きな発展が見られなかったと研究者は考えているようです。
1 本門寺 御会式
本門寺 西遷御家人の秋山泰忠が建立
日蓮宗はどうだったのでしょうか。
東国からやって来た西遷御家人の秋山泰忠が、讃岐国三野郡高瀬郷に本門寺を開いたことは以前にお話ししました。泰忠は、讃岐にやって来る以前から日蓮門徒でした。高瀬郷での経営が安定すると、正応2年(1289)日興の弟子日華を招いて、領内郷田村に本門寺を造営します。これが西日本での日蓮宗寺院の初見になるようです。この寺は秋山一族をパトロンに、「皆法華」を目指して周辺に信徒を拡大していきます。今でも三野町は、法華宗信徒の比重が高いうようです。

もうひとつの法華宗の教宣ルートは、瀬戸内航路を利用した北四国各港への布教活動です。
本興寺(兵庫県尼崎市) クチコミ・アクセス・営業時間|尼崎【フォートラベル】
尼崎の本興寺
 尼崎の本興寺を拠点に日隆は、大阪湾や瀬戸内海の港湾都市への伝導を開始します。法華宗は、都市商工業者や武家領主がなどの裕福な信者が強い連帯意識を持った門徒集団を作り上げていました。もともとは関東を中心に布教されていましたが,室町時代には京都へも進出します。
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宇多津の本妙寺に立つ日隆像
日蓮死後、ちょうど百年後に生まれたのが日隆で、日蓮の生まれ変わりとも称されます。彼は法華教の大改革を行い、宗派拡大のエネルギーを生み出し、その布教先を、東瀬戸内海や南海路へと求めます。そして、次のような港湾都市に寺院が建立していきます。大阪湾岸の拠点港としては
材木の集積地であった尼崎
奈良の外港としての堺
勘合貿易の出発地である兵庫津
また讃岐の細川氏守護所のあったる宇多津などにも自ら出向いて布教活動を行っています。その結果、創建されるのが宇多津の本妙寺になります。

宇多津本妙寺
日隆によって開かれた日蓮宗の本妙寺(宇多津)
細川氏・三好氏政権を「環大阪湾政権」と呼ぶ研究者もいます。
その最重要戦略が大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして影響下に置くかでした。これらの港湾都市は、瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っていて、人とモノとカネが行き来する最重要拠点になります。それを支配下に入れていく際に、三好長慶が結んだ相手が法華宗の日華だったことになります。長慶は、法華信者でもあり、堺や尼崎に進出してきた日隆の寺院の保護者となります。そして、有力な門徒商人と結びつき、法華宗の寺内町の建設を援助し特権を与えます。彼らはその保護を背景に「都市共同体内」で基盤を確立していきます。長慶は法華宗の寺院や門徒を通じて、堺や兵庫などの港湾都市への影響力を強め、流通機能を握ろうとしたようです。
三好長慶】織田信長に先立つ日本最初の天下人 – 日本史あれこれ

天下人・三好長慶の勢力範囲=「環大阪湾政権」

 三好氏が一族の祭祀や宗教的示威行為の場を、本拠地である阿波勝瑞から堺に移したのは、国際港湾都市堺への影響力を強めるためとも考えられます。ただ、それだけではないでしょう。堺は、信長や謙信などの諸大名がやって来る「国際商業都市」で、そこに拠点をおいて自らの宗教的モニュメント寺院を建立することは、三好氏の勢威を広く示すことにもなったと研究者は考えているようです。
こうして「三好一家繁昌ノ折ヲ得テ、彼檀那寺法華宗アマリニ移り」と記すように、三好氏の保護を得て、法華宗は教勢を大いに伸ばします。

天正初年、天文法華の乱によって京都を追われた日蓮宗徒は、三好氏の政治拠点である堺を根拠地として、阿波に進出しはじめます。
番外編04 三好氏家系図 - 戦え!官兵衛くん。
そのころの阿波・讃岐は、三好長治の勢力下にありました。長治(ながはる)は伯父・三好長慶が「天下人」として畿内での支配力を強めなかで、本国阿波を預かる重要な役割を担っていました。しかし幼少のため、重臣の篠原長房が補佐します。また、長治は熱心な日蓮宗信者であり、日蓮宗勢力を積極的に支援します。こうした中で天正3年(1575) 堺の妙国寺等から多数の日蓮宗徒が阿波にやってきて、阿波国内すべてを日蓮宗に改宗させようとする「宗教改革」を開始します。これは当然に真言宗徒と対立を引き起こし、阿波法華騒動をひきおこします。
その経緯を「昔阿波物語」は、次のように記します。
 天正三年に、阿波一国の生少迄壱人も不残日蓮宗に御なし候て、法花経をいたヽかせ候時、上郡の瀧寺と申ハ、三好殿氏寺にて候、真言宗にて候、其坊主にも、法花経いたゝかせて、日蓮宗に御なし候、郡里の願勝寺も真言宗にて候を、日蓮宗になり候へと被仰候を、寺をあけて高野へ上り被申候、是をさりとてハ、出家に似相たる事と申て、諸人ほめ申候、此時堺より妙国寺・経上寺・酒しを寺三ヶ寺くたられ候、同宿余(数)多下り、北方南方手分して、侍衆百姓壱人も不残御経いたゝかせ被成候二付而、阿波禅宗・真言宗、旦那をとられ、迷惑に及ひ候二付而、阿波一国の真言宗山伏二千人、持明院へ集り、御そせう申上候様ハ、仏法の事に付て、国中を日蓮宗に被成候儀二候ハヽ、宗論を被仰付候様にと被申上

意訳変換しておくと
 天正三(1575)年に、阿波一国の老弱男女に至るまで残らず日蓮宗に改宗させ、法華経を頂く信徒に改宗させることになった。この時に上郡の瀧寺は、三好殿の氏寺で真言寺院であったが、その寺の坊主にも、法華経を読経する日蓮宗への改宗を迫った。郡里の願勝寺も真言宗であったが、日蓮宗を強制されて、寺をあげて高野山へ避難した。この行道について、人々は賞賛した。
 日蓮宗改宗のために堺から妙国寺・経上寺・酒しを寺の三ヶ寺の日蓮宗の僧侶達が数多く阿波にやってきて、北方南方に手分して、侍衆や百姓などひとりも残さずに法華経を授け、改宗を迫った。阿波禅宗・真言宗は、旦那をとられたために、阿波一国の真言宗山伏二千人が持明院へ集り示威行動を起こした。その上で「仏法の事について、阿波国中を日蓮宗に改宗させることの是非ついて、宗論を開いて公開議論をおこなうべきた」と御奏上書を提出した。

こうして開かれた宗論の結果、真言宗側の勝利となり、日蓮宗側は堺に引き退いたようです。
  先ほど見たように細川氏や三好氏は「環大阪湾政権」とも呼ばれ、海運のからみから堺の商人と繋がりが深く、町屋の宗派と言われた法華宗を大事にします。当時の法華宗は京で比叡山や一向宗とのトラブルで法難続きでした。そこで「畿内で失った教勢を、阿波で取り返そう」という動きがでてきます。これにたいして、阿波・讃岐の支配者である若い長治は、法華宗へ宗教統一することで、人々の宗教的な情熱をかき立て阿波の一体性を高めようとしたのかもしれません。しかし、これは現実を知らない机上の空論で、「家臣や民衆の心理から外れた蛮行」と後世の書は批判的に記します。
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千葉乗隆氏は「地域社会と真宗406P」で、法華騒動の結果引き起こされた後世への影響を次のように記しています。

「法華騒動による真言宗徒の勢力回復の結果、阿波国内の日蓮教線はまったく壊滅し、真宗教団の展開もブレーキをかけられた。阿波を橋頭堡として展開しつつあった真宗の教線もその方向を讃岐および土佐の両国に転ぜざるを得なかった。そしてまた、すでに展開を終わっていた禅宗教団も転寺・廃寺が続出したことは前述の通りである。

しかし、法華騒動の評価については近年新たな考え方が示されるようになりました。
例えば、 『昔阿波物語』を書いた鬼嶋道智は、十河存保に仕えて、後に蜂須賀氏に登用された人物です。彼は、徳島藩家老からの要請でこの書を書いています。つまり、この書は三好氏一族の十河氏であった家臣が、その後、登用された蜂須賀氏に近い立場で書いた軍記ものということになります。そのため三好氏を否定的に評価することが多いようです。
 例えば三好長治については、その無軌道ぶりや「失政」に重点が置かれます。それが三好氏の滅びる原因となったという論法です。今の支配者(蜂須賀氏)の正統性を印象づけるために、その前の支配者(三好氏)を否定的に描くというスタイルになります。具体的には、長治の失政が三好氏滅亡を招いたという記述です。勝利した側が、敗者を批判・攻撃し、歴史上から葬り去ろうとする際に用いられてきた歴史叙述の手法です。
 そういう点を含んだ上でもう一度、『昔阿波物語』の「法華騒動」を見てみると、
①真言宗山伏3千人が気勢をあげ、争論の場を設けるように主張したことを
②根来寺から円正が招かれて宗論となったこと
③篠原自遁の仲裁で、真言宗の勝ちだが、「日蓮宗をやめると有事なく諸宗皆迷惑に及ひ候」と結果は曖昧なこと。
 ここには、激しい武力抗争があったとは書かれていません。武力衝突なしの争論で、その結果として敗れたとされる日蓮宗も併存することになったと解釈できます。つまり「真言宗側の有利に解決された」とは読めません。以上から「騒動」ほどのものではなかったと考える研究者も出てきています。阿波における禅宗や日蓮宗の衰退を、法華騒動にもとめる説は再考が求められているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
天野忠幸編「阿波三好氏~天正の法華騒動と軍記の視線

1 秋山氏の本貫地
秋山氏の本貫 甲斐国巨摩郡青島(南アルプス市)

秋山氏は甲斐国巨摩郡を本貫地とする甲斐源氏の出身で、阿願入道光季が孫二郎泰忠とともに弘安(1278~88)年中に来讃したことは以前にお話ししました。鎌倉幕府は、元寇後に西国防衛のために東国の御家人を西国へシフトする政策をとります。秋山氏も「西遷御家人」の一人として、讃岐にやって来た東国の武士団であったようです。秋山氏が、後世に名前を残した要因は次の点にあると私は考えています。
①日蓮宗の本門寺を下高瀬に西日本で最初に建立したこと。
②本門寺を中心に「皆法華」体制を作り上げたこと
③秋山家文書を残したこと
1秋山氏の系図
秋山家系図(江戸時代のもの 下段右端に光季(阿願入道)

秋山氏は三野郡高瀬郷を本拠としますが、高瀬に定着する前には、丸亀市の田村町辺りを拠点にして、他にも讃岐国内に数か所の所領を持っていたようです。讃岐移住初代の光季(阿願入道)に、ついては、江戸時代に作られた系図には、次のように記されています。
1秋山氏の系図2jpg
秋山家系図拡大(秋山家文書)
系図の阿願入道の部分を意訳変換しておくと
讃岐秋山家の元祖は阿願入道である
号は秋山孫兵衛(光季)。甲州青島の住人。正和4年に讃岐に来住。嫡子が病弱だったために孫の孫の泰忠を養子として所領を相続させた。
 阿願入道は、甲斐国時代から熱心な法華宗徒で、孫の泰忠もその影響を受けて幼い頃から法華宗に帰依します。阿願入道は、那珂郡杵原を拠点にして、日仙を招いて田村番人堂(杵原本門寺)を建立します。これが西日本初の法華宗の伝播となるようです。しかし、杵原本門寺が焼亡したため、正中二年(1325)に高瀬郷に移し、法華堂として再建されます。これが現在の本門寺のスタートになります。
秋山氏系図の泰忠の註には、次のように記されています。
   泰忠
「号は秋山孫次郎。正中2(1325)年 法華寺(本門寺)をヲ建立セリ」
ここからは、下高瀬の日蓮宗本門寺を、秋山氏の氏寺として創建したのは泰忠だったことが分かります。同時に、祖父・阿願入道の跡を継いだ孫の泰忠が実質的な讃岐秋山氏の祖になるようです。彼は歴戦の勇士で長寿だったことが残された史料から分かります。
三野・那珂・多度郡天保国絵図
天保国絵図 金倉郷から高瀬郷へ

 秋山泰忠は、どうして金倉郷から高瀬郷へ拠点を移したのでしょうか?
圓城寺の僧浄成は、高瀬郷と那珂郡の金倉郷を比べて次のように記しています。
「……於高勢(高瀬)郷者、依為最少所、不申之、於下金倉郷者、附広博之地……」

ここには高瀬を「最少」、丸亀平野の下金倉郷を「広博之地」として、金倉郷の優位性を記しています。中世の「古三野津湾」は、現在の本門寺裏が海で、それに沿って長大な内浜が続いていたことは以前にもお話ししました。そのため開発が進まずに、古代から放置されたままになっていた地域です。それなのにどうして、秋山氏は金倉郷から下高瀬に移したのでしょうか。
三野町大見地名1
太い実線が中世の海岸線
秋山氏の所領はどの範囲だったのでしょうか?
秋山氏が残した一番古い文書は、次の泰忠の父である源誓が泰忠に地頭職を譲る際に作成した「相続遺言状」で、ひらがなで次のように記されています。

1秋山氏 さぬきのくにたかせのかうの事
秋山源誓の置文(秋山家文書)
   本文              漢字変換文
さぬきのくにたかせのかうの事、    讃岐の国高瀬郷のこと 
いよたいたうより志もはんふんおは、 (伊予大道より下半分をば)
まこ次郎泰忠ゆつるへし、たたし 孫次郎泰忠譲るべし ただし)
よきあしきはゆつりのときあるへく候 (良き悪しきは譲りのときあるべ候)
もしこ日にくひかゑして、志よの   (もし後日に悔返して自余の)
きやうたいのなかにゆつりてあらは、 (兄弟の中に譲り手あらば)  
はんふんのところおかみへ申して、  (半分のところお上へ申して)
ちきやうすへしよんてのちのために (知行すべし 依て後のために)
いま志めのしやう、かくのことし        (戒めの条)、此の如し) 
                    (秋山)源誓(花押)
  元徳三(1331)年十二月五日        
左が書き起こし文 右に漢字変換文
父源誓がその子・孫次郎泰忠に地頭職を譲るために残されたものです。「讃岐の国高瀬郷のこと伊予大道より下半分を孫次郎泰忠に譲る」とあります。ここからは、高瀬郷の伊予大道から北側(=現在の下高瀬)が源誓から孫次郎泰忠に、譲られたことが分かります。
 ここで気づくのは先ほど見た系図と、この文書には矛盾があります。江戸時代に作られた系図は祖父・阿願入道から孫の泰忠に直接相続されていました。「父・源誓」は出てきませんでした。しかし、遺産相続文書には、「父・源誓」から譲られたことが記されています。
ここからは、後世の秋山家が「父・源誓」の存在を「抹殺」していたことがうかがえます。話を元に返します。

讃岐国絵図天保 三野郡
天保国絵図の三野郡高瀬郷周辺 赤い実線が伊予街道

 伊予大道とは、現国道11号沿いに鳥坂峠から高瀬を横切る街道で、古代末期から南海道に代わって主要街道になっていました。現在の旧伊予街道が考えられています。その北側の高瀬郷(下高瀬)を、泰忠が相続したことになります。現在、国道を境として上高瀬・下高瀬の地名があります。下高瀬は現在の三豊市三野町に属し、本門寺も下高瀬にあります。この文書に出てくる「下半分」は、三野町域、本門寺周辺地域で「下高瀬」と研究者は考えています。そうだとすると、この相続状で高瀬郷が上高瀬と下高瀬に分割されたことになります。歴史的に意味のある文書です。
 この相続文書が1331年、系図には法華堂建立が1325年とありました。父の生前から下高瀬を、次男である泰忠が相続することが決まっていて、それを改めて文書としたのがこの文書なのかもしれません。文書後半には、兄弟間での対立があったことがうかがえます。
 長男が金倉郷を相続したことも考えられます。
 
三野湾中世復元図
    三野湾中世復元図 黒実線が当時の海岸線 赤が中世地名
 
  秋山氏は三野津湾での塩浜開発も進めます。
当時の塩は貴重な商品で、塩生産は秋山氏の重要な経済基盤でした。開発は三野町大見地区から西南部へと拡大していきます。
秋山家文書中の沙弥源通等連署契状に次のように記されています。

「讃岐国高瀬の郷並びに新浜の地頭職の事、右当志よハ(右当所は)、志んふ(親父)泰忠 去文和二年三月五日、新はま(新浜)東村ハ源通、西村ハ日源、中村ハ顕泰、一ひつ同日の御譲をめんめんたいして(一筆同日の御譲りを面々対して)、知きやうさういなきもの也(知行相違無きものなり)」

意訳変換しておくと
「讃岐国高瀬郷と新浜の地頭職の事について、当所は親父泰忠が文和二年三月五日に、新浜、東村は源通に、西村は日源、中村は顕泰に地頭職を譲る。

 泰忠が三人の息子(源通・日源・顕泰)に、それぞれ「新はま東村・西村・中村」の地頭職を譲ったことの確認文書です。ここに出てくる
新はま東村(新浜東村)は、①東浜、
西村は現在の②西浜、
中村は現在の③中樋
あたりを指します。下の地図のように現在の本門寺の西側に、塩田が並んでいたようです。

中世三野湾 下高瀬復元地図

他の文書にも次のような地名が譲渡の対象地として記載されています。
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」
「しおはま(塩浜)」
「しをや(塩屋)」
ここから秋山氏は、三野湾に塩田を持っていたことが分かります。

兵庫北関入船納帳(1445年)には、多度津船が「タクマ(塩)」を活発に輸送していたことが記されています。
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾周辺船籍と積荷

上の表で2月9日に兵庫北関に入港した多度津船の積荷は米10斗と「タクマ330石」です。「タクマ」とは、タクマ周辺で生産された塩のことです。三野湾や詫間で作られた塩は、多度津港を母港とする荷主(船頭)の紀三郎によって定期的に畿内に運ばれていたことが分かります。船頭の喜三郎は、以前にお話しした白方の海賊衆山地氏の配下の「海の民」だったかもしれません。
 また問丸の道祐は、瀬戸内海の25の港で問丸業務を行っている大物の海商です。その交易ネットワークの中に多度津や詫間・三野は組み込まれていたことになります。
 讃岐東方守護代の香川氏と、三野の秋山氏は塩の生産と販売という関係で結ばれ、同じ利害関係を持っていたことになります。これが秋山氏の香川氏への被官化につながるのかもしれません。香川氏が多度津港の瀬戸内海交易で富を蓄積したように、塩は秋山氏の軍事活動を支える基盤となっていた可能性があります。その利益は、秋山氏にとっては大きな意味を持っていたと思われます。
  甲州から讃岐にやって来た秋山氏が金倉郷から高瀬郷に拠点を移したのは、塩生産の利益を確実に手に入れるためだった。そのために塩田のあった高瀬郷に移ってきたと私は考えています。

  古代中世の三野湾は大きく湾入していて、次のようなことが分かっています。
①日蓮宗本門寺の裏側までは海であったこと
②古代の宗吉瓦窯跡付近に瓦の積み出し港があったこと
海運を通じて、旧三野湾が瀬戸内海と結びつき、人とモノの交流が活発に行われていたことを物語ります。そして中世には、港を中心にお寺や寺院が姿を現します。その三野湾や粟島・高見島などの寺社を末寺として、管轄していたのが多度津の道隆寺でした。下の表は、道隆寺の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など参加した記録を一覧にしたものです。

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中世道隆寺の末寺への関与
 神仏混合のまっただ中の時代ですから神社も支配下に組み込まれています。これを見ると庄内半島方面までの海浜部、さらに塩飽の島嶼部まで末寺があって、広い信仰エリアを展開していたことが分かります。たとえば三野郡関係を抜き出すと
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明14四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
享禄3年(1530) 高見島善福寺の堂供養導師
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことになります。『多度津公御領分寺社縁起』には、道隆寺明王院について次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院(道隆寺)より執行仕来候」

 中世以来の本末関係が近世になっても続き、堂供養や神社遷宮が道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力は多度津周辺に留まらず、詫間・三野庄内半島から粟島・高見島の島嶼部まで及んでいたようです。
 供養導師として道隆寺僧を招いた寺社は、道隆寺の法会にも参加しています。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には、次のように記されています。

「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

 ここからは道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。
 堀江港を管理していた道隆寺は海運を通じて、紀伊の根来寺との人や物の交流・交易を展開します。
そこには備讃瀬戸対岸の児島五流の修験者たちもかかわってきます。
「熊野信仰 + 修験道信仰 + 高野聖の念仏阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰」という道隆寺ネットワークの中に、三野湾周辺の寺社も含まれていたことになります。

三豊市 正本観音堂の十一面観音像
正本観音堂の十一面観音像(三豊市三野町)

旧三野湾周辺のお寺やお堂には、次のような中世の仏像がいくつも残っています。
①弥谷寺の深沙大将像(蛇王権現?)
②西福寺の銅造誕生釈迦仏立像と木造釈迦如来坐像
③宝城院の毘沙門天立像
④汐木観音堂の観音菩薩立像
⑤吉津・正本観音堂の十一面観音立像
  伝来はよく分からない仏が多いのですが、旧三野湾をめぐる海上交易とこの地域の経済力がこれらの仏像をもたらし、今に伝えているようです。そのような三野湾の中に、秋山氏は新たな拠点を置いたことになります。
秋山氏が金倉郷から高瀬郷に拠点を移した背景について、まとめておきます。
①西遷御家人として讃岐にやって来た秋山氏は、当初は金倉郷を拠点にした。
②秋山氏は、日蓮宗の熱心な信者で、日仙を招いて氏寺を建立した
③この寺が田村番人堂(杵原本門寺)で、西日本で最初の日蓮宗寺院となる。
④しかし、讃岐秋山家の実質的な創始者は、拠点を金倉郷から三野郡の高瀬郷に移し、氏寺も新たに、法華堂を建立した。
⑤その背景には、三野湾の塩田からの利益があった。秋山氏は塩田の拡張整備に務め、自らの重要な経済基盤にした。
⑥塩田からの利益は南北朝動乱時の遠征費などとして使われ、その活躍で足利尊氏などから恩賞を得て、領地支配をより強固なものとすることができた。
⑦兵庫北関入船納帳(1445年)には、詫間(三野)産の塩が香川氏の配下にあった多度津船で畿内に運ばれていることが記されている。
⑧塩の生産と流通を通じて、讃岐東方守護代の香川氏と秋山氏は利害関係で結ばれるようになっていた。
⑨旧三野湾は、製塩用の薪を瀬戸の島から運んでくる船や、塩の輸送船などが出入りしていた。
⑩海運を通じて、旧三野湾が瀬戸内海と結びつき、人とモノの交流が活発に行われていたことが弥谷寺など旧三野湾周辺のお寺やお堂に、中世の仏像がいくつも残っていることにつながる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

               日根野荘1 

和泉国日根荘(大阪府泉佐野市)は、研究者に取り上げられることの多いフィールドです。ここは公家九条家の所領でした。16世紀初頭、前関白九条政基が後柏原天皇の怒りをこうむり、4年あまりここで蟄居生活をおくります。
日根野荘2
日根野荘 大入地区の絵図(上の写真部分) 

彼が日野荘で体験したことは、初めて見聞きすることばかりで、興味をひかれることが多かったようです。ここに滞在中に村で起きたもめごと、農村の年中行事、紀伊の根来寺と和泉守護細川氏の二つの勢力のはざまで安泰を求めて苦悩する村の指導者たちの姿などを、政基は筆まめに書き残しています。これが『政基公旅引付(まさもとこうたびひきつけ』です。

日野荘3

『政基公旅引付」は『新修泉佐野市史 史料編』に注釈とともに現代語訳も載っているので私にも読むことが出来ます。日野荘の雨乞いや神社について、焦点を絞って見ていくことにしましょう。テキストは   日本の中世12   村の戦争と平和  141P 鎮守の森で」です。

日根野荘 風流踊り
洛中洛画図    風流踊り
日野荘の孟蘭盆行事を見てみましょう。
政基が入山田に下った最初の年、文亀元年の7月11日の宵、槌丸村の百姓たちが政基の滞在している大木村の長福寺にやってきて、堂の前で風流(ふりゅう)念仏を披露します。風流念仏とは、きらびやかな衣装を着け、歌い踊りながら念仏を唱えるものです。派手な飾り付けをした笠をかぶったり笠鉾をともなうこともありました。要するに盆踊りの原型です。
 13日の夜には船淵村の百姓がやってきて風流念仏を披露し、さらにいろいろな芸能も演じて見せます。どうせ田舎者のやぼったいものだろう、とたかをくくっていた政基は、思いがけず水準の高い腕前に、次のようにうなっています。

「しぐさといいせりふといい、都の名人にも恥じないものだ」

まんのう町諏訪神社の念仏踊り
まんのう町諏訪神社の念仏踊り(江戸時代後半)

翌14日には大木村、15日には菖蒲村がやってきて、風流念仏を披露します。注目されるのは、その翌日のことです。月が山の頂にのぼるころ、日野荘内の四ヵ村衆が荘鎮守の滝宮に集まり、そこで全員で風流念仏を踊っています。つまり惣踊りになるのでしょう。さらにそのあと、船淵の村人によって能の式三番と「鵜羽」が演じられてお開きとなります。ここからは次のようなことが分かります。
①戦国初期の日野荘では、盆行事として、四つの集落がそれぞれに風流念仏を演じるような「組織」を持っていたこと
②四つの集落は一堂に会して、披露するような共同性もあったあわせもっていたこと
③そのレベルが非常に高かったこと
女も修行するぞ!日本最古の霊場、大阪・犬鳴山で修験道体験 | 大阪府 | トラベルjp 旅行ガイド
犬鳴山七宝滝寺と七宝の瀧
天変地異の生じたときも、四つの村は揃って鎮守で祈祷を行っています。
 政基が日野荘に下った文亀元年は日照りでした。政基の日記には、梅雨のただ中であるはずの旧暦五月でさえ、雨が降ったのは七日だけで、六月のはじめには「百姓たちは甘雨を願っている」と日照りが続いたことを記します。それは七月に入っても変わりません。そこで、7月20日、滝宮で犬鳴山七宝滝寺の山伏たちか雨乞祈祷をはじます。
犬鳴山七宝瀧寺 | かもいちの行ってきました!
七宝滝寺の行場
七宝滝寺は役行者が修行したとされる修験の行場で、山伏の活動の拠点です。
三日のうちに必ず雨を降らせてみせよう、それでだめなら七宝の滝で、それで,だめなら不動明王のお堂で祈祷しよう、なおだめなら滝壺に鹿の骨か頭を投げ入れ、神を怒らせることによって雨を降らせてみせよう。山伏たちはそんな啖呵ををきったと記します。
犬鳴山 七宝瀧寺/イヌナキサンシチホウリュウジ(大木/寺) by LINE PLACE
      七宝滝寺の祈祷場 後には不動明王

 村の雨乞いの主導権を握っていたのは、山伏だったようです。
山伏の祈祷に四ヵ村の村人たちも参加します。祈祷を始めて三日目の7月23日の昼下がり、にわかに滝宮の上に黒雲が湧き、雷鳴がとどろいました。滝宮の霊験あらたかに雨が降るかと思われましたが、雲は消え、さらに五日間、晴れつづけます。それでも村人が祈蒔をつづけていたところ、28日の夕方近くになって、今度は犬鳴山の上空に黒雲が湧き、入山田中に待望の大雨が降ります。雨は入山田にだけ降り、隣の日根野村や熊取村には一滴も降らなかったと記します。翌日からは数日間雨が続き、なんとか滝宮の神も面目を保つことができました。
平成芭蕉の旅語録〜泉佐野日本遺産シンポジウム 中世荘園「日根荘遺跡」 | 【黒田尚嗣】平成芭蕉の旅物語
火走神社

 雨を降らせてくれた神様へのお礼をすることになります。
8月13日、四ヵ村の村人たちは滝宮(火走神社)に感謝の風流踊りを捧げることになります。船淵と菖蒲は絹の旗、大木と土丸の集落は紺の旗を押し立てて滝宮に参り、いろいろな芸能や相撲を奉納しています。村人たちが扮装して物真似芸や猿楽などを演じたようです。猿楽は政基の滞在している長福寺の庭先でも再演されました。その達者ぶりに政基は、「都の能者に恥じず」と、その達者ぶりに驚いています。ここからは雨乞祈願や祭礼も、荘園鎮守を核として4つの村が共同で行っていたことが分かります。
日野荘 火走神社
火走神社(和泉名所図絵)

 荘園鎮守(荘園に建立された神社)とは、どんな役割を担っていたのでしょうか。 
 荘園鎮守は、荘園が成立したときに荘園領主がみずからの支配を正当化するために勧請したものです。そのため勧進された仏神は、荘園領主を目に見える形で体現する仏神であることが多かったようです。例えば
①摂関家や藤原氏の氏寺興福寺を荘園領主とする荘園であれば、藤原氏神の春日権現、
②比叡山領であれば山王権現(日吉社)
③賀茂社領であれば賀茂社
が鎮守として勧進されるという具合です。
これらの神は外からやって来た外来神になります。いわばよそ者の神様です。この外来神だけを勧請したのでは、荘民たちは、そっぽを向いたでしょうし、反発したかも知れません。これは大東亜帝国の建設を叫ぶ戦前の日本が、占領下のアジア諸国に神道を強制し、神社をソウルや台北に勧進し、それまでの在地信仰を圧迫したのと同じような発想で、巧みな支配とは云えません。
 荘園に勧進された神々は、荘園領守の氏神とともに、その土地在来の神(地主神)があわせて祀られることが多かったようです。例えば比叡山の修行道場である近江国葛川(大津市)では、比叡山が勧請した地主神社の境内に、葛川の地元神である思古淵明神を祀っています。ここからは、地元民が信仰していた神々を荘園領主の支配イデオロギーの中にたくみに組み込んでいったことがうかがえます。

大木火走神社秋祭りの担いダンジリ行事 | 構成文化財の魅力 | 日本遺産 日根荘

日野荘の鎮守滝宮は、大木にある現在の火走(ひばしり)神社です。
滝宮という名前からも、七宝の滝のかたわらにある七宝滝寺と神仏混淆して一体的な関係にあったようです。七宝滝寺は、九条家の氏寺で、九条家の繁栄を祈願する寺です。七宝の滝は日根野をうるおす樫井川の上流にあり日根荘の水源にあたります。九条家は水源に、みずからの保護する寺院を建立すことによって、日根荘の開発者であり支配者としての正当性を目に見える形で示そうとしたようです。「水を制する者が、天下を制する」の言葉が、ここでも生きてきます。そして、その宗教的なシンボルモニュメントとして七宝滝寺であり、火走(ひばしり)神社を建立したということになります。
 水源にあることが人々の篤い信仰の裏付けとなっていきます。このように荘園鎮守と荘園の水源は、セットになっていることが多いようです。

日根神社
 
水源に建つのが火走神社であるとすれば、樫井川から引かれた用水の分岐点に立つのが鎮守大井関明神(日根神社:泉佐野市日根野)です。
日野荘 日野神社 井川
 井川(ゆかわ) 日根神社から慈眼院本坊前の境内を流れる。

 井川と呼ばれ、土丸の取水口から日野神社の境内に引き込まれ、そこからあちこちに分水されていきます。この用水が日根荘の中世開発に重要な役割を果たしたと考えられています。そして、水の取り入れ口であり、分水点に鎮守が建立されているのが日根神社になるようです。
由緒 | 日根神社公式
『和泉国五社第五日根大明神社図』江戸時代後期

このような用水路網と宗教施設の立地関係は、讃岐三野平野の高瀬川の用水路網にも見られます。

東国からやってきた西遷御家人の秋山氏は、高瀬川沿いの用水路整備を進める上で、その分岐点毎にに本門寺の分院を建立していきます。そして、その水回りのエリアの農民を檀家に組織しています。こうして「皆法華衆」という法華神と集団を作り上げて行きます。農業油水の供給を受けるためには、法華宗になることが手っ取り早い環境が作られていたとも云えます。
 また丸亀平野の満濃池用水路の主要な分岐点にも、庵やお堂などの宗教施設がかつてはあったことが分かります。そこでは、「お座」や「講」などの庶民信仰の場となっていたようです。水利権と信仰が織り交ぜられて日常化されていたのです。
田植え 田楽踊り
中世の田植え踊り
鎮守における祭礼は、農事暦と深い関係にあることは民俗学が明らかにしてきたことです。
農事暦で中世農村の年中行事を見てみると、 
①一年の農作業の開始と小正月(正月)
②田植えの開始と水口祭(四月)
③畠作物の収穫と孟蘭盆(七月)
④米の収穫と秋祭り(八月末もしくは九月はじめ)
⑤一年の農作業の終了とホタキ(十一月)
などは密接に関わっていることがうかがえます。
 入山田の滝宮で孟蘭盆に風流念仏が行われていたことは見ました。収穫の済んだ稲藁を積み上げて燃やし、来年の豊穣を祈るホタキも滝宮に七宝滝寺の僧を集めて行われていました。また日根野村の大井関明神では四月の水口祭が行われていました。山城国伏見荘(都市伏見区)でも、荘鎮守の御香官(現御香宮神社)で小正月の風流笠や九月初旬の秋祭りが行われていました。荘園鎮守で繰り返される年中行事は、 一年の農事暦と深くかかわっていました。このような立地状況や年中行事からも荘園鎮守は農業神としての性格を併せ持っていたことが分かります。それが住人の信仰に深く関わる源になります。
もともとは荘園鎮守は荘園領主の支配装置として設けられたものです。
それが時代が移り荘園領主がいなくなっても、荘園鎮守が存続し、祭礼がその後の引き継いで現在に至るものがあります。その背景には、鎮守社の二面性のひとつである農業神としての性格があったと研究者は考えているようです。
    荘園に勧進されて建立された「荘園鎮守」を見るときの参考にさせていただきます。感謝
    
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
    日本の中世12   村の戦争と平和  141P 鎮守の森で
関連記事

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本門寺 西門

 本門寺は、中世に高瀬郷に西遷御家人としてやってきた秋山氏が氏寺として創建した西国で最も古い法華宗寺院です。地元では、高瀬大坊と呼ばれ親しまれています。秋の日蓮上人命日(旧暦十月十三日)に開かれる大坊市は、くいもん市とも呼ばれ、食物を商う露店が多く集まり、近隣各地から多くの参詣者を迎え賑わってきました。
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本門寺案内図
 境内には、元禄十(1697)年建立の開山堂を始め、本堂・古本堂・庫裡・客殿・鐘楼・宝蔵・山門・西門などの堂字が点在し、いくつもの末坊を擁する大寺院です。

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開山堂と客殿
 本門寺は、甲斐国から乳飲み子時代にやってきた秋山泰忠(日高)が、建立したと寺院です。彼は、日華の弟弟子を招き、最初は那珂郡杵原郷田村(現丸亀市田村町)に法華堂を建立します。そして、丸亀を拠点として法華宗の流布に努めます。が、兵火で焼け落ちてしまいます。そこで、武元(1334)年 高瀬郷に一堂(後の中之坊)を建立し、日仙を招き法華堂の上棟を目指し、翌年に完成させます。これが現在の本門寺です。このように本門寺は、秋山氏の氏寺として創建されます。
創建者の秋山泰忠は、弘安年間(1278~88)に、西遷御家人の祖父の光季(阿願)と来讃します。
その時の年齢は10歳未満だったと考えられています。
 泰忠の祖父阿願は、甲斐において法華信仰に深く、帰依していました。泰忠はその影響を受け、幼少より法華信仰に馴染んでいたようです。故郷を離れ、遠く讃岐までやってきた泰忠にとっては、年少の頃から南北朝の動乱の戦いを繰り返す中で心を癒すために、法華経に信仰心を傾けていったようです。彼は、晩年に置文(遺言状)を12回も書いていますが、そこには子孫に法華宗への信仰を強く厳命しています。残された置文からは、年を経るに連れて法華宗への信心が深まっていったことがうかがえます。
 泰忠により本門寺は創建され、彼の庇護のもとに領民に法華宗が広められていき、後の高瀬郷皆法華信仰圏が成立するということになります。甲斐からやってきた一人の男の信仰心と強い意志が現在の下高瀬の法華信仰を形作ったのです。本門寺に残された文書から秋山泰忠と本門寺の関係を見ていくことにします。参考文献は「三野町文化史3 三野町の中世文書」  です。

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本門寺開祖秋山孫次郎 泰忠の墓(本門寺の墓所)

 本門寺に残された中世文書
 本門寺には桐箱の中の黒漆塗りの本箱に中世文書12が収納されています。その中で分類番号1・2号を読んでみましょう。その前に注意点として
①全文がひらがなで書いているため大変読みづらいので、( )内は漢字変換しています。
②文書の上の方が虫食いで欠けているので読めない部分(空白?)があります。
③当時は濁音表記がありません。想像力で補っていきます。
内容は、沙弥日高(泰忠)の置文で本門寺中に対して出された遺戒です。子孫や郷内の人々に本門寺以外の崇敬を禁ずることを戒めています。本門寺の一番古い文書である沙弥日高(秋山泰忠)置文を見てみましょう。
のためにさためをき(定め置き)候てうてう(条々)の事
?月十五日は、こハゝにて(故母にて)わたらせ給候人の御めい日(御命日)
???給候、別に月こと(月毎)にそのひ(日)をかき申し???と
???ともその日か(書)き申候事のみ候あいた御???
???のために御はたき(畑)しんたてまつり候 はたけ(畑)あはせて三たん(三段)なり
このところは、あくわん(阿願)よりにんかう(日高)ゆつり(譲り)給ハるなり
しかるを、うは(乳母)にてわたらせ給候人と、はは(母)にてわたらせ給二人の御けふやう(供養)のために、そう(添)ゑ御やしき(屋敷)のためにきしん(寄進)候ところなり、しかるをまこ(孫)七わか(我)ゆつり(譲)うち(内)といらん(違乱)を申事あらは、なかくふけふ(不孝)の人なり ほんかう(本郷)?い 
 しんはま(新浜)とい(土井分)ふんと にんかう(日高)かあと(跡)においてはふん(分)もち(知行)きやうする事あるへからす、もしまこ(孫)七いらん(違乱)を申候はゝ、かの人のふん(分)をは、きやうたい(兄弟)のなか(中)にかみ(上)へ申てちきやう(知行)すへきなり、
 又はそう(僧)お そむ(背)き申候はんすることもまことも(孫共)又は、そうしう(僧衆)のなかにもはしまし候ハんする人とく いんきよ(隠居)し候ハ、ふけふ(不孝)の人としてにんかう(日高)かあとにおいてハ ちきやう(知行)すへからす
御そう(僧)(御僧は百貫坊日仙)より御のちハたいの御そう(僧)一ふんものこさす御あとハ御ちきやう(知行)あるへきあいた、こ(後)日のためにいまし(戒)めのお(置)きしやう(状)くたんのことし
ちやハくねん(貞和9年)十月三日

                      しゃミ(沙弥)にんかう(日高)(花押)
文頭に
「さためをき(定め置き)候てうてう(条々)の事」

とあるので置文だということが分かります。置文とは、将来にわたって守るべき事柄を示したものです。ある意味、遺言のような性格もあります。
 文末署名は
「しゃミ(沙弥)にんかう(日高)」

と記されています。これを「につこう」と読むようです。日高は、前回にお話しした秋山泰忠のことで、彼の法名です。法華宗では法名に「日」の文字を用いることが多いようです。秋山家文書の置文は「秋山孫次郎泰忠」の署名で残されています。一方、宗教関係で本門寺に残された文書には 「しゃミ(沙弥)にんかう(日高)」が用いられて云います。俗と聖を使い分けているようです。それだけの分別ができる人だったようです。
 年紀には、ひらがなで「ちやハくねん」と記されています。当時は濁音がありませんので、これを「じょうわ」と読むようです。
 日高(秋山泰忠)は、60歳を越えたと思われる文和2年(1353)から翌年にかけて置文を多く発給しています。死期を察したのかもしれませんが、実はその後も40年近く生き続けます。そして、息子よりも長生きすることになり、置文を何度も書き直すことになります。結局12通も残しています。
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本門寺開祖秋山孫次郎 泰忠の墓(本門寺の墓所)

 もう一度置き文に戻りましょう。
文中に「あくわん」と見えますが、これは秋山文書にも登場した「阿願」で、秋山泰忠の祖父・光季のことです。祖父の時代に乳飲み子の泰忠は、「阿願」に連れられて高瀬郷にやってきたことは前回にお話しした通りです。
「しんはまのといふん」とありますが、これは「新浜土井分」です。
新浜には塩浜(塩田)が開発されており、塩の生産が行われていました。秋山家文書にも、新浜の年貢貢進の記事があり、この年貢は塩年貢のことと推定できます。塩田からの収入が秋山氏の経済的な強みであったことは、前回にお話ししました。
 後半では、本門寺と秋山家とは必ず寺檀関係を保つべきことを特に戒めています。これは本門寺が根本檀越であるとの立場を強く打ち出しています。秋山家の身内に残した置文とは、性格が少し違うようです。
「御そう(僧)」は本門寺を開基した百貫坊日仙です。「たいに(第二)の御そう」は日寿で、どちらも本門寺の歴代住職になります。
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              正面には延文4年 日高大居士(泰忠)
本門寺文書 文書番号2の日高置文 その2を見てみましょう
申しまいらせをきゆつりしやう(置き識り状)にも、いましめの□やうにしのおち(字の落ち)候ところ候は、みな入し(字)をして候、これをうたか事あるへからす候、
ともにもゆつり(譲り)おき候しやううことに志(字)のおちて候ところには、みなみな入しをして候
 かうかしそんの中に大にの御そう(第二の御僧=日寿)のほかに し(師)をとり申候人もし候はゝ、日かう(日高)かあとにをき候ては、 一ふんちきやう(知行)する事ゆめゆめあるましく候、もしも候はゝ、そうりやうみつた(惣領水田)かはからいとして、かみ(上=幕府)へ申て御たう(塔)へきしん(寄進)申へく候

 十三日のかう(講)、又十五日かう(講)の人  ひやくしやう(百姓)も、御めい(命)をそむ(背)き候は、みなみな大はうほうとして、りやうない(領内)のかま(構)いあるましく候 
 ちうふん(註文)やふ(破)れ候ても候はゝ、もと(元)ことくきしん(寄進)申候ところおは、そうりやう(惣領)まこ(孫)四郎まんそく(満足)には(果)すしまいらせ候へいくらも中をきたき事とも、なをもをんて申し候へく候
おうあん五年二月二日    
しやミ日かう(花押)
内容は
 最初に、以前に書いた置文に、字の欠けたところがあったので、その部分を追記した。それをもって偽文書とうたがうことなかれと云っています。この時代にも譲り状に関して、偽物が出回っていたことをうかがえます。自分の書いた譲り状に対しての疑義は認めないという強い意志表明です。

次に、泰忠の子孫は「大弐(二代目)の僧日寿」を本門寺の住持として崇めるよう強く戒めています。
もし、日寿以外を師とする者が出てきたら、泰忠の遺領を知行することは認めない。そしてそのような者は惣領の孫四郎泰久(水田)から幕府へ申し出て、他に堂塔を寄進して新たに寺をおこすようにせよ、と本門寺に対して背くことはならないと戒めます。法華宗の本義としての不受布施の立場を表明したものと研究者は考えているようです。

1 本門寺 御会式

 十三日の講とは、日蓮の命日に行う報恩講のことであり、

秋山一族だけでなく、領内の百姓にまでも絶対に行うよう厳命しています。本門寺を中核とした、秋山一族の結合を図っていこうとするねらいがうかがえます。これについては、
秋山家の惣領家にも次のように置文をのこしています。
秋山家文書 文和二年の源泰忠置文、一ッ書き五条目十月の十三日の御事
十月の十三日の御事をハ、やすたたかあとをちきやうせんするなん志、ねう志、まこ、ひこにいたるまて、ちうをいたすへし、へちに御たうおもたて申、このうちてらをそむきも申ましき事、たといないないハきやうたいとい、又ハいとこ、おちのなか、又ハいとことものなかにも、うらむる事ありといふとも、十三日にハよりあいて、御ほとけ上人の御ため、そう志うおもくやう申、志らひやう志、さるかく、とのハらをも、ふんふんに志たかんて、ねんころにもてなし申ヘきなり、ない〆ハいかなるふ志んありとも、十三日、十五日まで、ひところにあるへきなり
漢字変換すると
(十月の十三日の御事をば)  (泰忠が跡を知行せんする男子)、(女子、孫)  (ひごに至るまで忠を致すべし)  (別に御堂をも建て中し)  (この氏寺を背きも申すまじき事)    (たとえ内々は) (兄弟と言)   (又はいとこ)(叔父の中) (又はいとこ共の中にも)  (恨むる事)(ありというとも)(十三日には寄り合いて) (御ほとけ上人=日蓮の御ため)(僧衆をも供養申し) (白拍子)(猿楽)(殿原をも)(分々に)(従って) (懇ろにもてなし申すべきなリ)  (内々はいかなる不信ありとも)(十三日、十五日まで)(一心にあるべきなり)

ここからは次のような事を指示していることが分かります。
①子孫代々、本門寺への信仰心を失わないこと。別流派の寺院建立は厳禁
②一族同士の恨み言や対立があっても、10月13日には恩讐を越えて寄り合い供養せよ
③13日の祭事には、白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招き、役割を決めて懇ろにもてなせ。
④一族間に不和・不信感があっても、祭事中はそれを表に出すことなく一心に働け。
 十月十三日の日蓮上人の命日法要は、法華信仰を培っていくための重要なイヴェントと考えていたことがうかがえます。この行事を通じて秋山一族と領民の団結を図ろうとしていたのでしょう。
その祭事については
「白拍子・猿楽・殿原をも分々に従って懇ろにもてなし申すべきなリ」

とあり、地方を巡回している白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招いて、いろいろな演芸が催されるイヴェントであったことが分かります。殿原とは廻国の武芸者のようです。それを今後も続けよと具体的に指示しています。祭事における芸能の必要性や重要性を認識していたのでしょう。

1 本門寺 大坊市2

 ちなみにここには芸能集団を「懇ろにもてなし申す」と、宿泊させてもてなすように指示しています。ところが百年後の高松の田村神社文書には「興行が終了したら即座に退去させる」と、芸能集団に対する差別意識が生まれているのがうかがえます。さらには、十三日から十五日の間は「皆心にあるべし」との戒めます。これらの戒めは、本門寺の発展と共に郷内に広まり「皆法華」の宗教圏を形成することとになるようです。
 他に残された置文を見てみると、次のような戒めも記されています
① 泰忠が信仰するのと同様に勤行をしなさい
②「蚊虻浅謀」といって法華宗以外の宗義を信仰することは、蚊や虻のごとき浅はかさである。
 この「十月の十三日の御事」が現在の本門寺門前において市が立つ「大坊市」の起源となっているのです。ひとりの男の思いが引き継がれてきた祭事のようです。
1 本門寺 大坊市


 秋山泰忠は、日仙への帰依することを通じて、戦いで血糊のついた己の姿を清め、武士の安心を得ようとしたのかもしれません。同時に、この法華信仰を媒介として秋山一族、家人や下高瀬郷内の百姓住人すべてを支配することを望んだようにも思えます。

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日仙上人の隠居寺である上の坊の墓
晩年の応安五(1372)年の沙弥日高置文(本門寺)には、本門寺への信仰を次のように求められるようになります。
①開山日仙と共に二代日寿(大弐房、本門寺歴代では、日華の跡の三代目)にも忠孝を尽くし、
②氏寺本門寺の「師」以外に宗教上の「師」を認めず、
③子ども・若党から下々まで不信心者は「大法度」である
と記します。さらに十三日・十五日の講会に参加しない郷民らには「碩びいのか樋い」が許されないとされるようになり、法華信仰の実を見せなければ、実質的には高瀬郷内には生活できなかったようです。その信仰拠点が、大坊本門寺であり、数多く建立された寺内坊や支坊でした。

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日仙上人の墓(上の坊)

次の表からは、幕末の下高瀬住民の法華宗比率は90%を越えていることが分かります。
1 本門寺 皆法華

室町時代以降は、秋山氏が支配する高瀬郷内のすべての住人が皆法華の状況であったようです。
 以上のように、秋山泰忠は法華宗への熱烈な信仰心を持ち、個性的な独特の置文を残しています。そして、讃岐の新しい所領に「郷内皆法華」の法華王国の実現をめざして、強力な宗教政策を展開していきます。
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本門寺本堂
次に、本門寺や子院が果たした役割を、別の視点から見てみましょう。秋山氏は、水利管理についても、寺の力を利用していたことがうかがえます。例えば、高瀬郷領内の要所に本門寺末坊を配置していまが、その配置場所を見てみると
①音田川からの取水源である木寺井近くに上之坊があり、
②高瀬川と音無川の合流地点の荒井及び中ノ井近くに宝光坊、
③その下流の屈曲点の新名井及び額井近くに西山坊、
④そして、高瀬川の旧河口付近に中之坊
  これは井手の分岐点の近くに子院が配置されています。つまり、お寺という宗教組織を通じて、用水管理を行っていたのです。
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本門寺の子院 奥の院

これらの「井手五箇所」は、中世以来の井手(取水堰)です。
そこに配置された子院の住僧には、あらかじめ寺領免田への用水使用の優先権を持たせていたことが秋山文書からは読み取れます。これらの井手からの用水確保は「一日二枚宛」と決め、子院が管理していたのです。この権利を通して、各坊は信者である住人を監督・勧農させていたのです。この体制の下では、本門寺門徒でない非法華信者は、水利権においても差別的な待遇を与えられたことが考えられます。このような経済的な強制も「皆法華」体制を形作る力となったのでしょう。
1 本門寺 子院

  以上をまとめておきます
①鎌倉幕府は西国の防衛力強化のために甲斐から讃岐高瀬郷の地頭として秋山氏を西遷させた。
②少年としてやって来た秋山泰忠は、熱烈な法華信徒になり新天地に法華王国を築こうとした。
③そのために百貫坊日仙を本山から向かえ、氏寺として本門寺を創建した
④本門寺は、秋山泰忠の篤い保護の下に地域の宗教・文化・教育・水利管理センターとしても機能し、寺勢を拡大していった
⑤秋山泰忠は、具体的な信仰実践を子孫に書き残し、戒めとするように伝えている。
⑥秋山泰忠亡き後も、本門寺は教勢を拡大し「皆法華」体制を形作っていく。

          
 讃岐に鎌倉幕府が送り込んだ新補地頭(しんぽじとう)について以前にお話ししました。彼らは、幕府の西国支配強化の尖兵として送り込んできた東国の御家人たちでした。御家人は武装集団で、守護が現在の県警本部長とすれば、地頭は「市町村の警察署長 + 税務署長」といったところでしょうか。その一覧表が次の表です。
 
1 秋山氏 讃岐の地頭一覧
東国から讃岐にやってきた地頭たち
 二度にわたる蒙古襲来を経験した鎌倉幕府は、三度目の来襲に供えるために、東国の御家人を西国に転封させるという軍事力のスウイング戦略を行います。この時に、讃岐に地頭としてやってきた東国武士団が秋山氏です。
今回は、秋山氏について見ていこうと思います。
テキストは高瀬文化史1 中世の高瀬を読む 秋山家文書①です。
寛永五年(1628)に秋山一忠が作成した系図を見てみましょう。

1秋山氏の系図
秋山氏系図
秋山氏の祖は、新羅三郎義光に始まる「本国甲斐国青嶋之者」と記されています。
清和源氏流の「甲斐源氏」は、平安時代後期に源義光の息義清か常陸国から甲斐国八代郡市川荘(山梨県西八代郡市川三郷町)へ入り、甲府盆地一帯に勢力を拡大します。秋山姓は、義清の孫光朝が甲斐国巨摩郡秋山(同県南アルプス市秋山)を拝領し、ここに拠点を構えたことから生まれたと研究者は考えているようです。
   源頼朝が平家打倒を掲げて挙兵した時に、惣領武田信義が率いる「甲斐源氏」一族は、その大半が勝者の源氏方について参戦します。秋山氏も源氏方に付きます。ところが光朝の妻が平重盛の娘であったことから、頼朝に冷遇され、秋山氏は一時的に没落したようです。
 しかし、光朝は承久三年(1221)武田信光に従い、鎌倉幕府方として後鳥羽上皇方と弓矢を交えます。いわゆる承久の乱です。この戦功によって、秋山氏は武家としての名誉を回復します。その後、光朝の嫡男光季(阿願入道)は、子息泰長(源誓)・孫泰忠(日高)と共に讃岐へやってきます。 蒙古襲来に備え、幕府の命で安芸国へ西遷した武田氏と同じような処遇と研究者は考えているようです。

  秋山氏のルーツとなる甲斐国巨摩(こま)郡秋山を地図で見ておきましょう。
1 秋山氏の本貫地

現在の南アルプス市に「秋山」の字名が残っていて一族の「秋山光朝館跡」も史跡とされています。地元では、ここが秋山氏発祥の地とされているようです。
「秋山家記」(秋山家文書)には「青島」を故地としていますが、それがどこなのかは分かりません。旧甲西町秋山の東南にあたる釜無川と笛吹川の合流地点付近に江戸時代に青島新田という地名が残っています。この新田の開拓者としてスタートしたのかもしれないと研究者は考えているようです。どちらにしても、この地で治水・灌漑工事などを行いながら所領の拡大を行っていたのしょう。それが幕府の「西国防衛力の向上」という政策の中で、讃岐高瀬郷に所領を得て一族の嫡男がやってきたようです。
□中世の高瀬を読む ―秋山家文書(1)~(3) 3冊 高瀬町教育委員会 の落札情報詳細| ヤフオク落札価格情報 オークフリー・スマートフォン版

 このような経緯が分かるのは、「秋山家文書」という中世の置文(遺言・相続状)など多数の文書が秋山家に繋がる家に残されてきたからです。これだけの文書が残されているのは非常にめずらしいことのようです。例えば、後世のものになりますがこのような系図も残されています。
1秋山氏の系図2jpg
秋山氏系図 「讃岐秋山之祖也 阿願入道」とある

先ほどの系図の下段の一番右側に「讃岐秋山之祖也 阿願入道」とあります。拡大して見てみましょう。
系図的には讃岐秋山氏は、この阿願入道=光朝からはじまります。
入道と称するのは、彼が日蓮宗の熱心な信徒で入信していたためです。その註を見ると、次のように記されています。

号は 秋山又兵衛で、甲州青島の住人である。政和4年に讃岐に来住した。嫡子は病身のため嫡孫泰忠を養子として所領を相続させた。

これには、疑義がありますので後ほど述べます
元寇の頃、甲斐国から来た武士|ビジネス香川
本門寺(三豊市)

実質的な秋山氏の祖 
秋山孫次郎・泰忠は歴戦の勇士で長寿だった
祖父・阿願入道の跡を継いだ孫の泰忠については

「号は秋山孫次郎。正中2年法華寺(本門寺)をヲ建立セリ」

とあります。現在の下高瀬の日蓮宗本門寺を、秋山氏の氏寺として創建したのは泰忠だったことが分かります。孫次郎泰忠は11通もの置文(遺言状)を残しています。その最終年紀は、永和2(1376)年です。仮に弘安最末年の11(1288)年に讃岐へやって来たとしても、通算88年も讃岐で過ごした事になります。
いったい泰忠は何歳で讃岐にやってきたのでしょうか。
乳呑み児で、故郷の甲斐の「青島」を離れ高瀬郷にやってきて、およそ90歳以上生きていたようです。当時としては、祖父の阿願と同じように異常なまでの長寿ということになります。
実質的な讃岐秋山氏の祖になる泰忠について見ておきましょう
 泰忠は、鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱の時期を生き抜いた武将のようです。長い従軍生活の中で、波瀾万丈の人生を送ったようです。彼の実戦での記録は、その片鱗が秋山家文書の中の4通からうかがい知ることができるだけです。秋山氏は、南北朝の争乱期には、北朝方として活動しています。泰忠は病弱の父に代わって、秋山氏惣領として一族と高瀬郷域の武士団を率い、畿内はじめ西国各地を転戦する日々を送ったのでしょう。
秋山文書から泰忠に関する文書を年代順に見ていきましょう。

1秋山氏 さぬきのくにたかせのかうの事
秋山源誓の置文(秋山家文書)

①鎌倉時代末期の元徳三(1331)年十二月五日の年号が入った秋山源誓の置文です。
   本文             漢字変換文
さぬきのくにたかせのかうの事、   讃岐の国高瀬郷のこと 
いよたいたうより志もはんふんおは、(伊予大道より下半分をば)
まこ次郎泰忠ゆつるへし、たたし (孫次郎泰忠譲るべし ただし)
よきあしきはゆつりのときあるへく候(良き悪しきは譲りのときあるべ候)
もしこ日にくひかゑして、志よの  (もし後日に悔返して自余の)
きやうたいのなかにゆつりてあらは、(兄弟の中に譲り手あらば)  
はんふんのところおかみへ申して、 (半分のところお上へ申して)
ちきやうすへしよんてのちのために(知行すべし 依て後のために)
いま志めのしやう、かくのことし        (誠めの条)(此の如し) 
                  秋山)源誓(花押)
  元徳三年十二月五日                 

置文とは、現在及び将来にわたって守るべき事柄を認めたもので、現在の遺言状的な性格を持つようです。財産相続なども書かれています。 この置文は、源誓がその子・孫次郎泰忠に地頭職を譲るために残されたものです。
讃岐の国高瀬郷のこと伊予大道より下半分を孫次郎泰忠に譲る

とあります。ここからは、高瀬郷の伊予大道から北側(=現在の下高瀬)が源誓から孫次郎に、譲られたことが分かります。しかし、これは現在のような土地所有でなく「下高瀬の地頭職」の権利です。
 伊予大道とは、現国道11号沿いに鳥坂峠から高瀬を横切る街道で、古代末期から南海道に代わって主要街道になっていたようです。その北側の高瀬郷(下高瀬)を孫次郎泰忠が相続したことになります。これは高瀬郷が上高瀬と下高瀬に分割されたことを意味します。大見地区は、この時点では下高瀬に属していました。
 同時にこの史料からは源誓が、孫次郎泰忠の父も分かります。秋山氏の家系が
「祖父 阿願 → 父 源誓 → 子 孫次郎泰忠」

とつながっていたようです。
ところが後の秋山氏系図は先ほど見たように「父 源誓」を「病弱者」として無視し、祖父阿願から直接孫の孫次郎泰忠に相続されたとします。そして「父 源誓」の名前は系図からも抹殺されています。
1秋山氏の系図3
秋山家系図

この背景には何があるのでしょうか。今思い浮かぶのは次の2点です。
①「父 源誓」は日蓮信徒でなかったために秋山家の系譜から排除された
②泰忠の相続が孫に相続させるという異例のものであったために「祖父から孫」への「相続先例」を「創出」した
  これくらいしか今の私には、出てきません。系図上での「父 源誓」抹殺の背景はよく分かりません。 最後に

「もし後日に、この地頭職を悔い返す事態が起こったときには、兄弟に適任者がいたならば、申し出て知行するように」

と指示しています。ここからは孫次郎泰忠には何人かの兄弟がいたことが分かります。彼は次男であったようです。次男にもかかわらず秋山家の統領に就いています。
P1130054
孫次郎泰忠の墓(本門寺)
 秋山氏の所領開発は、どのように行われたか
圓城寺の僧浄成は、高瀬郷と那珂郡の金倉郷を比べて次のように記しています。
「……於高勢(高瀬)郷者、依為最少所、不申之、於下金倉郷者、附広博之地……」

ここからは、最初に拠点とした丸亀平野の下金倉郷と比べて、高瀬郷が未開発の土地で、しかも狭かったことがうかがえます。中世の「古三野津湾」は、現在の本門寺裏が海で、それに沿って長大な内浜が続いていたことは以前にもお話ししました。そのため古代から放置されたままになっていた地域です。それならどうして、丸亀から下高瀬に拠点を移したのでしょうか。それが次の疑問となっていきます。それは「塩田開発」にあったと研究者は考えています。

三野町大見地名1
太実線が中世の海岸線

 秋山文書の中に「すなんしみやう(収納使名)・くもん(公文)・「たんところみやう(田所名)」といった地名が出てきますが、これは今も三野町内に残る砂押・九免明・田所です。この地域を中心に高瀬郷の大見地区の段斜面を開発したことがうかがえます。
 泰忠が相続したのは「高瀬郷の伊予大道より下半分」の「下高瀬」の土地です。そこには現在の大見も含まれていましたし、三野津湾沿いの「新浜」などの塩浜も地頭職分として含まれています。これが泰忠の領地的なスタートラインだったようです。この最少の土地を、甲斐からやって来きて以後、一族はじめ名主・百姓ら手で懸命に開発したのでしょう。そこには開発に携わった名主たちの名前が地名として残っています。
P1130055
孫次郎泰忠の墓 墓碑には延文4年日高大居士と刻まれてい


 秋山氏は三野津湾での塩浜開発も進めます。
当時塩は貴重な商品で、塩生産は秋山氏の重要な経済基盤でした。開発は三野町大見地区から西南部へと拡大していきます。
秋山家文書中の沙弥源通等連署契状に次のように記されています。

「讃岐国高瀬の郷並びに新浜の地頭職の事、右当志よハ(右当所は)、志んふ(親父)泰忠 去文和二年三月五日、新はま(新浜)東村ハ源通、西村ハ日源、中村ハ顕泰、一ひつ同日の御譲をめんめんたいして(一筆同日の御譲りを面々対して)、知きやうさういなきもの也(知行相違無きものなり)」

 泰忠が三人の息子(源通・日源・顕泰)に、それぞれ「新はま東村・西村・中村」の地頭職を譲ったことの確認文書です。ここに出てくる新はま東村(新浜東村)は、現在の東浜、西村は現在の西浜、中村は現在の中樋あたりを指しすものと研究者は考えているようです。
他の文書にも
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」
「しおはま(塩浜)」
「しをや(塩屋)」
等が譲渡の対象として記載されています。ここから秋山氏は、この辺りで塩田を持っていたことが分かります。作られた塩は、仁尾や宇多津の平山の海運業者によって畿内に運ばれ販売されていたようです。このような経済力が泰忠の軍事活動を支える基盤となっていたのでしょう。その利益は、秋山氏にとっては大きな意味を持っていたと思われます。
P1130052
本門寺本堂
      足利尊氏下知案
②建武三年(1336)足利尊氏より勲功の賞として高瀬郷領家職があたえられた文書です。
1秋山氏 足利尊氏no高瀬郷領家職
   足利尊氏下知案(秋山家文書)
書き起こすと以下のようになります。
讃岐の国高瀬の郷領家職の事、
勲功の賞として宛行う所なり、
先例を守り、沙汰致すべし、
将軍家の仰せに依って、下知件の如し
   建武三年二月十五日
        (細川顕氏) 兵部少輔在御半
        (細川和氏 )阿波守   
   秋山孫次郎殿(泰忠) 
 二行目一番下は「依」で終わっています。そして三行目の「将軍家」と続きます。ここには一字空白があります。これをは「閥字(けつじ)」と云い尊称する場合に、一字から三字の空白、あるいは改行する「平出」によって尊敬の意を表する方法のようです。閥字より平出の方がより尊敬の意を表すといいますが、ここでは両方の方法が採られています。
 「領家」とは、土地の収益に対する権利の意味で、この文書全体の解釈は、合戦の功労賞として土地の収益に対する権利を与えるので、これまでの作法や先例をまもり、権利を執行しなさい」という意味になります。それを将軍足利尊氏に代わって、兵部少輔と阿波守が伝えるという形式です。
「下知状」とは末尾に「下知」と記されていることからきています。
 差出人の二人は、この時期に将軍足利尊氏から四国方面の代官として任されていたために、下知状の差出人となったようです。この後、両名は讃岐国守護・阿波国守護に任命されています。宛所の秋山孫次郎は、泰忠です。
 この文書の背景としては、前年の建武2(1335)年に足利尊氏は畿内から瀬戸内を経て、九州方面に逃走しました。この文書は、尊氏が再び上京するまでの間に、瀬戸内海沿いの武士団の棟梁たちにを味方に付けるために檄を飛ばした文書のようです。つまり、参戦して軍功を挙げれば「高瀬の郷領家職」を宛がうので軍を率いてやってこいということになるのでしょうか。もちろん、泰忠は、尊氏方について参戦したようです。
P1130061
本門寺境内の泉

その翌年の建武4(1337)に細川顕氏から秋山孫次郎泰忠に出された細川顕氏書下です。
原本は虫食いで上半分しか残っていませんが、江戸時代に書写された下の文書が残されています。

1秋山氏 細川顕氏から秋山孫次郎泰忠書下

細川顕氏書下(秋山家文書)
讃岐の国財田(の凶徒蜂起の由)、其聞え(之有るの)間、
(月城太郎次郎周頼、助房)宇足津に差し下す所(なり)、
(早く当国に下向せしめ、諸)事の談(合)に加わり、
(在国の一族相催し、且つ)地頭御家人
(相共に誅数に廻らるべきの□)状、此の如く候
建武四(1337)年三月廿六日
          (細川顕氏)
          (兵部少輔)
秋山孫(二郎殿)                   
(  )部分が江戸時代の書写から補った部分です
意訳しておくと
讃岐国財田で南朝方の凶徒が蜂起したと報告が入っている。
阿波の月城太郎次郎周頼、助房らに鎮圧を命じるように宇足津に指示している所である。
早く帰讃して、討伐軍に合流し、作戦計画に加わり、在国の一族を率いて地頭御家人が協力し鎮圧するように命じる。
建武四(1337)年三月廿六日
当時の足利尊氏の動きを年表で確認しておきましょう
1335年8月足利尊氏が征東将軍として鎌倉へ向かい、そのまま建武政権から離反する。
1336年1月尊氏が京都へ入り、後醍醐天皇は比叡山へ逃れる。
2月 足利尊氏が豊島河原などで敗北し、九州へ敗走。
  3月 足利方は筑前国多々良浜の戦いで菊池武敏らに勝利する。
   4月 足利方は仁木義長などを九州へ残して再び上京する。
   5月足利方が湊川の戦いにて新田・楠木軍を破る。後醍醐天皇は比叡山へ逃れる。
   8月光明天皇が即位して北朝が開かれる。
12月後醍醐天皇が京都を脱出し、吉野(奈良県)で南朝を開く。
この文書で使われている「建武四年」とは、北朝方の使用した年号で、南朝方はこの前年に「延元」という年号に改元しています。後醍醐天皇の檄により熊野行者たちが支援する南朝方に、阿波や財田の山岳武士団が呼応し、活動が活発化していた時期です。
「月城」は、現在は「つきしろ」ですが、阿波国の月成(つきなり)氏のことのようです。「宇足津」は讃岐国守護が居た場所で、守護所は円通寺付近にあったとされます。差出人の「兵部少輔」は、讃岐守護の細川顕氏です。
「財田凶徒」とは、徳島県の西野氏所蔵文書にも「財田凶徒」の記事が見えることから、南朝方の大規模な勢力であったようです。この時期の讃岐国では、南朝方の勢力が山岳地帯に拠点を持って活動していたことがうかがえます。
 秋山泰忠は、この書状を受け取った時点では讃岐国以外に転戦中だったことがうかがえます。足下の財田方面で南朝が蜂起したので、急いで帰国するように命じられていると解釈できます。それでは「財田の凶徒」の本拠はどこだったのでしょうか。また、その勢力は? このあたりもよく分かっていないようです。
  ここからは室町幕府の成立時に泰忠は足利尊氏軍に従い、国外に遠征していたこと。南朝勢力の蜂起に対して讃岐守護細川氏の命で動いていることは分かります。  

P1130059
本門寺境内

③観応二年(1351)には、細川頼春から泰忠へ高瀬郷領家職が兵糧料所として預け置かれた書状です。
1秋山氏 細川頼春から泰忠へ高瀬郷領家職g
細川頼春書状(秋山家文書)
讃岐の国高瀬の郷領家職の事、御沙汰落居の間、
兵糧所として、預け置く所なり、先例任せ、
沙汰致すべきの状、件の如し
観応二年八月十三日  (細川頼春)在御判
                   散位
秋山孫次郎(泰忠)殿
この文書は案文のようですが、直状形式で発給者が直接に秋山孫次郎(泰忠)に対して所領を預けています。文書が出された観応(1351)年は、讃岐武士団が細川頼春・頼有方(主に西讃地方)と同顕氏方に分立している時期で、中央では観応の擾乱が起こっていた頃にあたります。同じ年の9月5日付細川頼春預ケ状(紀伊国安宅文書)と同じ筆跡・スタイル・同じ署名なので、「散位」とは細川頼春で、観応の擾乱の働きに対する恩賞と研究者は考えているようです。
 秋山氏が総領・泰忠の下に、讃岐守護細川氏に従って武功を上げていった結果としての恩賞のようです。足利尊氏から細川頼春・頼有と、「勝ち馬」に乗り続けることによって、秋山氏は三野郡での権益を着実の拡大していたようです。
 ここまで泰忠は、現役であったようです。
この時にすでに60歳を超えていたと考えられます。高瀬郷領家職を得て、郷内の軍勢催促権も獲得しました。父から相続した地頭職と併せて、東本山郷(現高松市水田)内の水田名も泰忠の時の加増地と考えられます。
このように歴戦の強武者として活躍した泰忠も、ようやく引退の時を迎えます。
しかし、必ずしも平穏の毎日ではなかったことが、残された11通の置文・譲状から見えてきます。その最初のものは、文和二(1353)年の置文と譲状です。以後足掛け23年以上の間、合戦による傷に痛みながら時に病床にあっで老骨に鞭打ちつつ置文を書き続けています。老後の泰忠が、子や孫たちに何を言い遺したかは、また別の機会に見ることにします。
P1130058
泰忠墓碑の裏面 平成になって改修されたことが分かる

 以上をまとめておきます
①西遷御家人として元寇後に讃岐にやってきた秋山氏は最初は那珂郡金倉郷に拠点をおいた。
②3代目秋山泰忠の時に高瀬郷に拠点を移し、氏寺として日蓮宗本門寺を建立した。
③秋山氏は下高瀬を中核として、塩田開発になど周辺地域に勢力を伸ばした。
④塩生産が秋山氏の財政基盤と成り、南北朝の軍事行動や、本門寺創建などの資金となった。
⑤そして、室町期には細川氏の被官として、国人へと成長を遂げてきた。
⑥しかし、分割相続に伴い一族間の抗争が繰り返されるようになり、所領の細分化が進み、その勢力は衰退していく。
⑦それに引き替え、香川氏は西讃守護代として守護細川氏に代わって勢力を伸ばし、細川氏の御料所を押領するなど戦国大名化への道を歩み始める
⑧戦国期になると、秋山氏は細川氏の被官から香川氏の家臣へと転化する。

最後まで おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
高瀬文化史1 中世の高瀬を読む 秋山家文書①

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4 塩飽大工
  
前回は「塩飽大工」という本に導かれながら島の大工の活動を見てきました。そこからは明治当初の塩飽では700軒を越える家が大工を生業としていたこと、それは3軒に1軒の比率になることなど、大規模な大工集団がこの島々にはいたことを見えてきました。塩飽は人名の島、廻船の島でもありますが、大工の島でもあったことが改めて分かりました。
3  塩飽 戸籍$pg

もう一度、明治5年の壬申戸籍に基づいて作られた上表を見ていきます。
ここには各浦毎の職業別戸数が数字化されています。例えば、本島の笠島(上から3番目)は、(カ)列を見ると人名が95名がいたことが分かります。ここが中世以来の塩飽の中心であったことが改めてうかがえます。(イ)列が大工数です。(エ)が笠島の全戸数ですので、大工比率は(オ)38%になります。
大工比率の高い集落ベスト3を挙げると、
①大浦 65%、 72軒
②生ノ浜61%  43軒
③尻浜 58%  28軒
で3軒に2軒は大工という浦もあったようです。
「漁村だから漁師が住んでいた」
という先入観は捨てないと「海民」の末裔たちの姿は見えてこないようです。ちなみに小坂浦は漁業230軒で、大工数は4軒です。そして、人名数は0です。ここが家船漁民の定着した集落であることがうかがえます。
 人名の次男たちが実入りのいい宮大工に憧れて、腕の良い近所の棟梁に弟子入りして腕を磨き、備讃瀬戸周辺の他国へ出稼ぎに行っていたことを前回はお話ししました。
どんな所に出稼ぎに行っていたのでしょうか?
備讃瀬戸沿岸地域の棟札調査からは、塩飽大工の活動地域が見えてきます。
4 塩飽大工出稼ぎ先

表の見方の説明のために、本島の泊浦(上から4番目)を見てみましょう。泊浦は本島の南側に開けた集落で、中世以来讃岐とのつながりの強い集落です。ここには50人の大工が明治5年にはいました。
彼らの先輩たちが残した寺社建築物が、どこに残っているかがわかります。
「倉敷・玉野」、「浅口倉敷」と讃岐の三野郡(現三豊市)の3つのエリアが群を抜いて多いようです。この3つが泊の大工集団のお得意さんであったことが分かります。
他の大工集団の動きを、「塩飽大工」では次のように指摘しています
・本島笠島  
総社市新本地区と井原市に多い。井原は大津寄家が大規模で参画人数が多くなっている。
・本島大浦  倉敷市に集中し、備中国分寺五重塔(総社市)に関与
・本島生ノ浜 倉敷市と総社市が多い。橘家の活動が大きい。
・本島尻浜  岡山県を広く活動。矢掛の洞松寺、大通寺が目立つ。
・本島福田  矢掛町、笠岡市が多い。明治には丸亀もあり
・広島    讃岐が多い。東坂元村(丸亀市)へ移住した都筑家の影響か?
・高見島   倉敷市に限定し、中でも連島地区が多い。
 この表から塩飽大工の出稼ぎ先について見えてくることは
①圧倒的に倉敷市が多く、次に総社市で、このふたつで5割を超える
②備前池田領、讃岐松平領など「大藩」が少ない。
③浦によって、出稼ぎ先が固定している。
④17世紀までは讃岐への出稼ぎが多く、18世紀になると備中が全体の7割近くを占める
  これらの背景を研究者は、次のように分析します。
①②については、岡山・高松の大きな藩はお抱えの宮大工集団がいるので、塩飽大工に出番はなかった。
③については、例えば本島泊浦から三野郡に29の寺社の建造物を建てているが、それは、泊浦の山下家が高瀬、三野、仁尾へ移住し、移住後も島からの出稼ぎが続いたため。
 各浦の宮大工集団には、お得意先ができてテリトリーが形成されていたようです。それでは、讃岐を活動の舞台とした泊浦の山下家の動き追っていくことにします。
4塩飽大工 山下家

山下家は上から4番目になります。その寺社建築は
①17世紀初めに極楽寺(牛島)から始まり
②以後は、讃岐の仁尾で、八幡神社(仁尾)→賀茂神社(仁尾)を手がけるようになります
塩飽大工で最も多い建築物を残す大工集団で、活動期間が長く人数も多かったため次のような分家が出ています
もう少し詳しく山下家本家の活動について見ておきましょう

4 塩飽大工 極楽寺
牛島極楽寺 「無間(むげん)の鐘」
丸尾家と同じくこの島を拠点としていた長喜屋宗心が1677年に寄進したという梵鐘
①1620元和6年 極楽寺(与島)建立から聖神社まで80年間で16の建造物造営、 極楽寺は、牛島を拠点に活躍した塩飽廻船の丸尾家の菩提寺です。檀那は丸尾家で、財力に任せた寺社建築を、棟梁として出がけたのでしょう。この時の経験や技術力が後に活かされます。
②与島での仕事と同時進行で仁尾でも活動しています。
 高見島や粟島での神社の仕事を請け負った後で、仁尾から依頼が来るようになります。1631寛永8年から60年間の間に、仁尾の賀茂神社・履脱(くつぬぎ)八幡神社に6つ建造物を造営・再建しています。与島での仕事と並行する形で仁尾でも神社建築を行っています。後には羽大神社と恵比寿神社も再建します。
③1671延宝2年 地元泊浦の木烏神社再建
④1687貞享4年 冨熊八幡神社(丸亀市) 本殿、1707宝永4年 同拝殿建立。
⑤1710宝永7年 高瀬(三豊市)の森神社を建立。
⑥1822文政5年 沙弥島(坂出市)の理源大師堂建立
 泊山下本家は泊浦に住みながら三野の仕事場に、長年船で出向いていたのでしょう。もちろん毎日「通勤」出来るわけはありません。三豊に家を構え出張所のような存在ができ、それが、高瀬、三野、仁尾へ移住し、分家(支店)となっていったようです。
高瀬山下家の活動について
山下家本家から分かれた泊山下分家は、九兵衛実次に始まり、理左衛門実義、小左衛門実重と続きます。この家系の理左衛が寛文年間(1670年頃)に高瀬へ移住し、高瀬山下家が始まったようです。
泊山下分家の実績を詳しく見ておきます
 棟札による高瀬山下家の建造物
 氏名      居住 建造年     建造物      所在  
山下理左衛門実義 新町 1671 寛文11 弥谷寺千手観音堂 三野町
山下理左衛門真教    1676 延宝4 八幡宮      高瀬町
山下七左衛門   新町 1681 延宝9 弥谷寺御影堂   三野町
山下七左衛門   新町 1683 天和3 弥谷寺鐘楼堂   三野町
山下利左衛門豊重    1696 元禄9 賀茂神社長常   仁尾町
山下理左衛門豊重 新町 1699 元禄12 賀茂神社社殿   仁尾町
山下利左衛門豊重 下高瀬新町1702 元禄15 履脱八幡神社拝殿 仁尾町
山下理左衛門豊重 新名村居住1705 宝永2 常徳寺円通殿修理 仁尾町
山下甚兵衛理左衛 新名村居住1705 宝永2 常徳寺円通殿修理 仁尾町
山下理左衛    新名村居住1705 宝永2 常徳寺円通殿修理 仁尾町
山下理左衛門豊重 新名村  1710 宝永7 森神社      高瀬町
山下理左衛門豊重 新名村  1716 享保元 善通寺鐘楼堂   善通寺市
山下甚兵衛賞次  新名村  1718 享保3 宗像神社     大野原町
山下甚兵衛賓次  新名村  1718 享保3 中姫八幡神社   観音寺市
山下利左衛門豊重 新名村  1722 享保7 賀茂神社長床   仁尾町
山下理左衛門豊重 新名村  1723 享保8 賀茂神社幣殿拝殿 仁尾町
山下甚兵衛賞次  新名村  1724 享保9 千尋神社    .観音寺市
山下利左衛門   新名村  1724 享保9 千尋神社     観音寺市
山下理左衛門豊之 新名村  1734 享保19 賀茂神社釣殿   仁尾町

ここから琴平移住?
山下太郎右衛門  苗田村  1760 宝暦10 善通寺五重塔(,建始)琴平町
山下理右衛門豊春      1823 文政6 石井八幡宮拝殿  琴平町
山下理右衛門豊春      1824 1文政7 石井八幡宮    琴平町
                琴平綾へ改名
越後豊章    高藪町  1837 天保8 金刀比羅宮旭社  琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1841 天保12 金刀比羅宮表書院 琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1849 嘉永2 金刀比羅宮寵所  琴平町
綾九良右工門豊章 高藪町  1852 嘉永5 金刀比羅宮米蔵  琴平町
綾九郎右衛門豊章 高藪町  1852 嘉永5 金刀比羅宮通夜堂 琴平町
綾九良右工門豊章 高藪町  1852 嘉永5 金刀比羅宮法中部屋琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1854 嘉永7 金刀比羅宮廻廊  琴平町
綾九郎兵衛門豊矩 高藪町  1857 安政4 金刀比羅宮宝蔵  琴平町
綾九郎右衛門豊矩 高藪町  1859 安政6 金刀比羅宮奥殿  琴平町
綾九良右衛門豊矩 高藪町  1859 安政6 金刀比羅宮高燈寵 琴平町
綾坦三      高藪町  1875 明治8 金刀比羅宮神饌所 琴平町
綾坦三      高藪町  1877 明治10 金刀比羅宮本宮  琴平町
  (作成:高倉哲雄)
①高瀬山下家の三野郡最初の作品は、弥谷寺千手観音堂(三豊市三野町・1671寛文11年)のようです。
この棟札の高瀬山下家の棟梁の居住地は「新町」とあるので、すでに下高瀬新町に移住していたようです。それから25年後に利(理)左衛門豊重が棟梁として仁尾の賀茂神社(三豊市仁尾町1696元禄9年)を建てています。仁尾へは元禄までは山下本家が直接に出向いていましたが、この時から以降は、高瀬分家が仁尾を担当するようになります。これは、40年間も続く大規模で長期の仕事だったようです。
仁尾の仕事の後に、高瀬山下家の棟札が見つかっていないようです。
分家と考えられる新名村を居住とする棟梁の名前はありますが、高瀬新町の山下家の棟梁の棟札は三豊では見つかりません。高瀬山下家「空白の90年」が続きます。この時期の高瀬山下家は困窮していたようです。その打開のために、金毘羅さんの麓の苗田(のうだ)へ移住したのが太郎右衛門です。
 彼は、善通寺に売り込みを行って受け入れられ、善通寺五重塔(三代目)の材木買付に関わったことが、再興雑記(1760宝暦10年)に出てきます。ただし、五重塔の棟札には彼の名がありませんので、棟梁格ではなかったのでしょう。
 これをきっかけに高瀬山下家は再興の機会をつかんだようです。
石井八幡宮(琴平町苗田)の棟梁として理右衛門豊春が棟札に記されています。しかし、これには彼の居住地は記されていませんので、苗田に住んだ太郎右衛門の系なのか、高瀬の系なのかが分かりません。
 1831天保2年に、金毘羅大権現の旭社(旧、金光院松尾寺金堂)の初重上棟の脇棟梁に綾九郎右衛門豊章の名前が見えます。
4 塩飽大工 旭社

これは山下理右衛門豊章が金光院の山下家との混同を避けるために「綾氏」に改名した名前だとされます。二重の上棟時には棟梁となり、以後は金毘羅大権現のお抱え大工として華々しい活躍をするようになります。彼の居住地は金毘羅さんの高藪町になっています。
 豊章という名前からは、豊春の子ではないかと研究者は推測していますが、確証できる資料はないようです。その子の豊矩がは、高燈寵を建て、明治になると名を坦三と改めて、金刀比羅宮本宮の棟梁を務めています。

4 塩飽大工 旭社2
  以上から幕末に金毘羅さんで活躍した大工のルーツは、
塩飽本島泊の山下家 → 高瀬山下家 → 琴平へ移住し改名した綾氏
塩飽大工の系譜につながるようです。

  次に【三野山下家】 を見てみます。
三野山下家の過去帳が下表です。
4 塩飽大工 三野山下家

①最も古い棟梁は弥平治(1697元禄10年11月13日)になるようです。屋号が大貴屋となっていて、本来の屋号塩飽屋ではないのですが元禄以前に汐木(三豊市三野町)へ移住していたようです。
②棟札に初めて名が出るのは、吉祥寺天満宮(1724享保9年)の山下治良左衛門です。その後、吉祥寺と本門寺のお抱え大工のような存在として、両寺院の建築物を手がけています。そして、江戸末期には領主が立ち寄るほどの格式の家になっていたようです。
最後に仁尾山下家を見ておきます 
4 塩飽大工 仁尾山下家

仁尾と塩飽の関係は、1631寛永8年の賀茂神社鐘楼堂に始まり、それ以後賀茂神社天神拝殿(1694元禄7年)までは泊山下家が出向いています。そして、1696元禄9年賀茂神社長常からは、高瀬山下家に代わっています。仁尾居住の山下家とはっきりしているのは賀茂神社門再建(1800寛政12年)の藤十郎からです。
 仁尾山下家には安左衛門妻佐賀の位牌(1804文化元年没)が残ります。この位牌から安左衛門または子の藤十郎がこれより一世代前に、塩飽本島から仁尾へ移住したと推測できます。ただ、仁尾山下家は高瀬から分家移住という可能性もあるようです。
 仁尾と塩飽大工の関係は350年以上も続き、確かなものだけでも履脱八幡神社、賀茂神社、金光寺、吉祥院、常徳寺、羽大神社、恵比寿神社があります。仁尾の寺社建築の多くは、塩飽大工の手によって建てられたようです。
最後に三野山下氏が残した本門寺の建物を見ておきましょう

4 塩飽大工 本門寺
  本門寺は高瀬大坊と呼ばれる日連正宗派のお寺です。この寺は東国からやって来た秋山氏が建立した寺で、西国で最初に建立された法華宗寺院の一つとされます。広く静かな境内には山門、開山堂、位牌堂、客殿、御宝蔵(ごほうぞう)、庫裡など、立派な堂宇が建ち並んでいます。この寺には、次のような棟札が残り、三野山下家との関係を伝えます。
1726享保11年 前卓  工匠    山下治良左衛門藤原義次
1727享保12年 宝蔵  大工頭領  山下治良左衛門吉次 

1781天明元年 本堂  棟梁    汐木住人山下浅治郎
          旅棟梁同所 山下吉兵衛 山下守防
          後見 丸亀住人 三好与右衛門宣隆
           丸亀住人  藤井善蔵近重
          大工世話人 比地村 九左衛門
1811文化8年 大法宝蔵 大工棟梁 山下治良左衛門暁清 
1819文政2年 庫裡 棟梁禰下治郎左衛門暁次
           後見 森田勘蔵喜又      
1822文政5年庫裡 棟梁 山下治郎左衛門暁次
           後見 藤井善蔵近重      
しかし、この中で現存するのは本堂だけのようです。

4 塩飽大工 本門寺2
「桁行5間 梁間5間 入母屋造 向拝1興 本瓦葺 総欅造」
日蓮聖人の御影が座すので御影堂とも呼ばれ、本門寺一門の本堂として御会式を始め重要な儀式が行われる所です。建て始めから棟上げまで58年もかかっています。
「塩飽大工」には次のように紹介されています
側面は角柱、正面は円:札、組物は出組。中備墓股は波や草花文様が凝っており風格がある。長押と頭貫の間を埋める連子と、両併面の荘重甕が上品である。軒二軒角繁(のきふたのきかくしげ)。妻飾りは二重虹梁大瓶東で、結綿は鬼面が虹梁を噛む。虹梁間の慕股は、二羽の島が羽を円形に広げて向かい合う二つの円と一羽が大きく羽を円形に広げた一つの円で珍しい。隅垂木を担ぐ力士像は良い表情をしている。向拝は角柱、組物は連三斗、正面墓股の龍や木鼻の獅子は躍動感がある。内部にも木鼻の獅子や墓股など外部と同系の彫刻が施されている。

 隅垂木を担ぐ力士像は近重作と銘があります。後見人の藤井善蔵近重が彫っているようです。
 以上をまとめると
①塩飽大工は浦毎に大工集団として棟梁に率いられて活動した
②讃岐三野郡には、本島泊の山下家の大工集団がやってきて島嶼部の粟島などの神社を手がけた
③その後、仁尾や託間の寺社建築を手がけ、出稼ぎ先に定住する分家も現れた
④高瀬山下家は、琴平への移住し綾氏と改名し、金毘羅大権現の旭社(小松尾寺金堂)の棟梁として活躍
⑤三野山下家は、日蓮宗本門寺のお抱え大工として活躍
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 高倉哲雄・三宅邦夫 塩飽大工 塩飽大工顕彰会

     
1三豊の古墳地図

まず古代三野郡を取り巻く旧地形を見ておきましょう。
①北部で袋状に大きく湾入する三野津湾と、そこに注ぐ高瀬川旧河口部の不安定な土地(低地)
②南部で宮川・竿川が財田川に合流する地点周辺に広がる低地
①・②ともに条里型の施工は、中世になって行われたと考えられ、平野部に古代の集落は見つかっていません。現在のように平野が広がり、水田が続く光景ではなく、三野平野は古代は入江の中だったようです。これに、古代以前の集落遺跡の立地を重ねると、せまい耕地と、それを取り巻く微髙地にポツンポツンとはなれて集落が散在していたようです。
三野 宗吉遺跡1

宗吉窯から見る三野津湾
三野津湾の新田化は近世になってから
 三野津湾には、高瀬川と音田川が注いでいますが、流れが急で大量の土砂を流域に運びました。高瀬川は三野津湾に注ぐ手前で、葛ノ山(標高97m)と火上山から南西に延びる支丘(標高100m前後)が、行く手をふさぐように張り出しています。しかも、ここが音田川との合流点です。
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合流点に建つ横山神社
そのためこのあたりから上流は、土砂が堆積し湿地になっていたようです。この付近の字名「新名」は、中世以降の開発であることをうかがわせます。ここには条里型地割が引かれていますが、その施行は中世にまで下がると研究者は考えているようです。
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「新名」付近に溜まった土砂は河口部まで続き、三角州と自然堤防を形作ります。この自然堤防上に、鎌倉時代末期に建立されるのが日蓮宗の本門寺です。つまり、本門寺の裏は海で舟でやってこれたのです。三野津中学校は海の中でした。
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本門寺付近を流れる高瀬川
 土砂の流入を加速化したのが伐採による「山野の荒廃」だったようです。そのため三野津湾は土砂で埋まり、近世にはそこが干拓され新田化されることになります。そして現在の姿となります。

DSC00076
 以上のような環境は、古代の稲作定住には不適です。
西からやってきた弥生人達は三豊平野・丸亀平野では、それぞれ財田川や弘田川の河口に定住し、次第にその流域沿いにムラを形作っていき、それがムラ連合からクニへと発展していきました。しかし、三野エリアでは平野が未形成で、ムラが発展しにくい環境であったようです。これが三野地区の停滞要因となります。そのため古墳を作る「体力」がなかったのです。これでは、前方後円墳もできません。ある意味、ヤマト政権にとって経済的・戦略的意味がない地域で「空白地帯」として放置されたのかもしれません。

三野平野1
復元地形に古墳を書き入れたものが上図です。
 三野郡域には前期末の矢ノ岡古墳と、葺石と埴輪列を伴う中期後半の円墳・大塚古墳以外に、3~5世紀の前期・中期古墳がありません。古墳の築造が活発になるのは、6世紀中葉のタヌキ山古墳を始まりとして、6世紀後葉~7世紀前葉に限られます。また前方後円墳もないのです。これも生産力の未発展としておきましょう。
古墳時代後期になって現れた三野エリアの古墳を見ておきましょう。
11のグループに分けられますが、この中で石室の規模から「準大型」にランク付けできるのは石舟1・2号墳(麻地区Ⅶ群)・延命古墳(XI群)の3つだけです。石舟古墳は玄室天丼石を前後に持ち送る穹寫的な構成から丸亀平野南部地域との関係性を、また延命古墳は片袖式で畿内的な要素を指摘できると研究者は指摘します。また古墳が集中する地域は、IV~Ⅵ群がまとまる高瀬郷域周辺であり、高瀬川旧河口域が中心地域と考えられます。しかし、この地域では大型とされる延命古墳や石舟古墳群(麻地区)は、中心部から離れた外縁にあります。なぜ中心部から遠く離れた所に、大型古墳が作られたのでしょうか。課題としておきましょう。

南海道と三野郡の設置 地図の太い点線が南海道です
南海道が大日峠を越えて「六の坪」と妙音寺を結ぶラインで一直線に通された
②南海道に直角に交わる形で、財田川沿いに苅田郡との郡郷が引かれた。
③郡境と南海道を基準ラインとして条里制引かれたが、その範囲は限定的であった。
 「和名類聚抄」には、三野郡は
勝間・大野・本山・高野・熊岡・高瀬・託間
の7郷が記されています。この他に、阿麻(平城宮木簡)・余戸(長岡京木簡)の2郷が8世紀の木簡には記されているようです。しかし、余戸郷の所在地については手がかりがありません。阿麻(海)郷は、託間郷と同じが、その一部である可能性が高いと研究者は考えているようです。
古墳時代以後の三野郡内の「生産拠点」を地図に書き入れたのが下図です。
三野平野2
まず古代の三野郡の復元図から読み取れることを重複もありますが確認しておきましょう。
①三野津湾が袋のような形で大きく入り込み、現在の本門寺から北は海だった。
②三野津湾の一番奥に宗岡瓦窯は位置し、舟で藤原京に向けて製品は積み出された。
③三野津湾に流れ込む高瀬川下流域は低地で、農耕定住には不向きであった
④そのため集落は、三野津湾奥の丘陵地帯に集中している。
⑤集落の背後の山には窯跡群が数多く残されている。

三野 宗吉遺跡1
ここからは、生産地拠点が三野津湾沿岸と河川流域の丘陵部に展開していることが分かります。その生産拠点を押さえておきます。
須恵器生産地の三野・高瀬窯跡群は、三野津湾の南・東側と高瀬川上流域丘陵部(託間・高瀬・勝間郷)
宗吉瓦窯跡は、三野津湾南岸部の丘陵地帯(託間郷)に立地。
 郷を越えた託間郷の荘内半島からの燃料薪調達が可能になって以後は大量生産が実現
③高瀬郷内の東大寺の柚山は、三野津湾北側の毘沙古山塊周辺
④阿麻郷での塩生産は、山名「汐木(しおぎ)山」より、三野津湾から荘内半島沿岸部にかけての塩田を想定
⑤865年(貞観7)に停廃された託間牧は、妙見山の北東麓の本村中遺跡を想定。轡(くつわ)や鏡板などの馬具が出土
 こうした沿岸部と周辺の開発に対し、南海道以東(以南)の阿讃山脈までつながる広大な山間部では、生産・原材料供給地としての役割をこの時点においては果たしていなかったようです。
 7世紀前半までは「低開発地域」であった三野郡に、突然に讃岐で最初の仏教寺院が建立されるのはどうしてなのでしょうか。また、それをやり遂げた氏族とは何者なのでしょうか?
参考文献 
佐藤 竜馬 讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論
 

                        

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