瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:村上武吉

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村上武吉の墓
前回は讃岐から松山まで原付ツーリングで行って、三津浜港から周防フェリーで伊保田港に渡り、村上武吉とその次男の墓参りをお伝えしました。その中で、武吉の晩年は失意に満ちたものであったことをお話ししました。
 関ヶ原の戦い後に、毛利氏は大幅減封されて存続することになります。毛利氏に仕えていた村上武吉も、それまでの石高から比べると1/20に大幅に減らされ、与えられて領地が周防大島東部の和田や伊保田でした。ここに、武吉に従って竹原からやってきた家臣団は、35家でした。このほかに屋代に11人いたので合計46人になります。石高千石に、家臣46家は多すぎます。このような中で武吉は家臣等に対して、次のような触書が出しています。

「兄弟多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何へ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀」

 兄弟の多い者は一人だけ召し抱える。その他はそれぞれの縁者を頼って、何処へなりとも引越しすることを認めるというのです。こうして、長男以外の多くの若者たちが仕官先等を求めて、周防大島を去って行きます。
 その中に武吉の手足として働いた家老職的な島吉利( よしとし)の長男や次男たちもいました。
島吉利の経歴については、以前にお話しした通りです。吉利は、武吉に従って周防大島に移り、慶長七年(1602)7月8日に森村で亡くなっています。彼の顕彰碑が、伊保田港を見下ろす墓地にあると聞いていました。伊保田港附近で「島吉利の顕彰碑は、どこですか」と聞いても分かりませんでした。そこで「まるこの墓」は、どこですかと訪ねると、「郵便局の近くにある集団墓地」と教えてもらえました。それを手がかりにして探します。
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伊保田の油田郵便局周辺
こんな時に原付バイクは小回りが効くので便利です。行き過ぎれば、すぐにUターンできますし、停車もできます。老人のフィルドワークには最適です。
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まるこの墓(伊保田)
墓地が見えて来たので近づくと説明版がありました。
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一通り読んで登っていきます。
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墓域の中の最上級のエリアの中に、海を向いて立っていました。

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島吉利顕彰碑(正面)
正面には「越前守島君碑」と隷字で彫られています。これが島吉利の顕彰碑のようです。高さ三尺一寸、横巾一尺三寸の石の角柱で、あまり大きいものではありません。P1200650
島吉利顕彰碑(右面)
造立年は、文化4(1804)年とあります。死後すぐに立てられたものではないようです。建立者は「周防 島信弘 豊後 島永胤」の名前があります。この石造物は墓として建てられたのではなく、死後約200年後に子孫の豊後杵築の住人、島永胤が先祖の事績が消滅してしまうのを恐れて、周防大島の同族島信弘に呼びかけ、文化4年に造立したものになるようです。顕彰碑の文章を採録し、意訳しておきます。
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  島吉利顕彰碑(左側)

君諱吉利、称越前守、村上氏清和之源也、共先左馬 灌頭義日興子朝日共死王事、純忠大節柄柄、千史乗朝日娶得能通村女有身是為義武、育於舅氏、延元帝思父祖之勲、賜栄干豫、居忽那島、子義弘移居能島及務司、属河野氏、以永軍顕、卒子信清甫二歳、家臣為乱、北畠師清村上之源也、来自信濃治之、因承其家襲氏、村上信清遜居沖島、玄孫吉放生君、君剛勇練武事、初為島氏、従其宗武吉撃族名於水戦、助毛利侯、軍

意訳変換しておくと
君の諱は古利、称は越前守で、村上氏清和の子孫である。先祖の先左馬灌頭義日(13)とその子・朝日(14)は共に王事のために命を投げ出しす忠信ぶりであった。朝日は能通村の女を娶り義武(15)をもうけたが、これは母親の舅宅で育てられた。延元帝は義日・朝日の父祖の功績を讃え、忽那島を義信(16)に与えた。
 その子義弘(17)は能島に移り、河野氏に従うようになった。以後は、多くの軍功を挙げた。義弘亡き後、その子信清(18)は2歳だったため、家臣をまとめることは出来ずに、乱を招いた。信清は、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだ。玄孫の吉放(22)は剛勇で武事にもすぐれ、初めて島氏を名乗った。そして、吉利(23)の時に、村上武吉に従うようになり、毛利水軍として活躍するようになった。
村上島氏系図1
 村上島氏系図(碑文の人名番号は、系図番号に符合)
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           島吉利顕彰碑(裏側)
厳島之役有功、児島之役獲阿将香西、小早川侯賞賜剣及金、喩武吉與児島城、即徒干備、石山納根之役及朝鮮之役亦有勢焉、後移周防大島、慶長七年壬寅七月八日病卒干森邑、娶東氏、生四男、曰吉知、曰吉氏、並事来島侯、曰吉方嗣、曰吉繁、出為族、吉中後並事村上氏、 一女適村上義季、君九世之孫信弘為長藩大夫村上之室老、名為南豊杵築藩臣、倶念其祖跡、恐或湮滅莫聞焉、乃相興合議、刻石表之、鳴呼君之功烈

意訳変換しておくと
吉利は厳島の戦いで武功を挙げ、備中児島の戦いでは阿波(讃岐)の香西を撃ち破り、小早川侯から剣や金を賜り、村上武吉からは児島城を与えられた。また石山本願寺戦争や朝鮮の役にも従軍し活躍した。その後、周防大島に移り、慶長七年七月八日に病で亡くなり森村に葬られた。
 吉利は東氏の娘を娶り、長男吉知、次男吉氏、三男吉方 四男吉繁の4人の男子をもうけた。彼らは、それぞれ一族を為し、村上氏を名乗った。吉利の九世後の孫にあたる信弘は、長州藩周防大島の大夫で村上の室老で、南豊杵築藩の島永胤と、ともにその祖跡が消えて亡くなるのを怖れて、協議した結果、石碑として残すことにした。祖君吉利の功は
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 右側
足自顕干一時也、而況上有殉忠之二祖下有追孝之両孫、功烈忠孝燥映上下、宜乎其能得不朽於後世実、長之於永胤為婦兄、是以應其需、誌家譜之略、又係之銘、銘曰、王朝遺臣南海名族、先歴家難、猶克保禄、世博武毅、舟師精熟、晨立奇功、州人依服、
文化四年卯春二月 肥後前文学脇長之撰
周防   島信弘 建
豊後   島永胤
  意訳変換しておくと
偉大である。いわんや殉忠の二祖に続く両孫たちも功烈忠孝に遜色はない。その名を不朽のものとして後世に伝えるために島永胤が婦兄に諮り、一族の家に残された家譜を調べ、各家の関係を明らかにした。

  200年間音信不通になっていた島家の子孫が再会した結果、この顕彰碑が建てられたということになります。

大島を出た島吉利の長男吉知と次男吉氏の兄弟の行方については、以前に述べました。それを簡略にまとめておきます。
①村上氏の同族である久留島(来島)康親(長親)が治める豊後森藩に180石で仕官。
②豊臣家滅亡後の大坂城再築の天下普請には、藩の普請奉行として大坂で活動。
③島原の乱が起きると兵を率いて出陣し、その功で家老に任ぜられ400石を支給
④しかし、それもつかの間で、「故有って書曲村に蟄居」、その後追放。
⑤時の当主は、妻の実家片山氏を頼って豊後国東郡安岐郷に移り住み、日田代官三田次郎右衛門の手代を勤め
⑥それが認められ杵築松平氏から速見郡八坂手永の大庄屋役に任命
こうして、杵築藩の八坂本庄村に居宅を構えることになります。八坂は杵築城から八坂川を遡った所にある穀倉地帯です。勝豊は、その地名をとって八坂清右衛門と名乗り、のち豊島適と号するようになります。八坂手永は石高八千石、村数48ケ村で、杵築藩では大庄屋は地方知行制で、騎士の格式を許されたようです。(「自油翁略譜」)。周防大島を出た島吉利の子ども達の子孫は、森藩仕官を経て、杵築藩の大庄屋となったことになります。
 大庄屋となった勝豊は男子に恵まれず、国東郡夷村の里正隈井吉本の三男勝任を養子に迎え、娘伝と結婚させます。
勝任は、享保元年(1716)、父の職禄を継いで大庄屋となって以後は、勧農に努め、ため池を修復し、灌漑整備に努めます。このため八坂手永では、早魃の害がなかったと云います。その人となりは温雅剛直、廉潔をもって知られ、そのために他人の嫉みを受けることもあったと記されています。(「東皐先生略伝」)。その後、島氏は代々に渡って、大庄屋を世襲して幕末に至っています。
 顕彰碑の発起人となった島永胤は、八坂の大庄屋として若いときから詩文を好み、寛政末年から父陶斎や祖父東皐の詩文集を編集しています。そのような中で先祖のことに考えが及ぶようになり、元祖の吉利顕彰のために建碑を思い立ちます。
 その間に村上島氏に関わる基礎資料を収集して『島家遺事』を編纂し、慰霊碑建立に備えています。そうした上で文化三年に、周防大島の島信弘を訪ねて、文書記録を調査すると共に、建碑への協力を説いたようです。
   
この顕彰碑を建てた豊後の島永胤の墓にも、お参りに行こうと思います。
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徳山港に入港する周防フェリー
今度は、周防大島から徳山港までいって、竹田津行きの周防灘フェリーに乗ります。
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徳山湾を出て真っ直ぐ南に進むと、姫島と海に突き出た国東半島の山々が見えて来ました。

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2時間ほどの船旅でした。周防灘の広がりと姫島の航路上における重要性が印象にのこりました。

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六郷満山の山脈を越えて、杵築までの原付ツーリングです。
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やってきたのは大分県杵築市です。杵築城の直ぐ下を流れる八坂川を遡っていくと、干拓で開かれた穀倉地帯が広がります。
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千光寺
この穀倉地帯の治水灌漑整備に、島氏は大庄屋として尽くしたようです。稲刈りの進む水田の向こうに見えてくるのが千光寺です。

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千光寺山門
 八坂村大庄屋の島家は明治になり上州桐生に移ったと伝えられます。その末孫の消息は分かりません。勝豊から永胤に至る、島氏代々の墓は全て八坂千光寺の境内に残っていますが、今は無縁墓になっているようです。
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これだけの情報で、山門をくぐります。
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禅宗の寺院らしい趣のある庭が広がります。本堂にお参りして、背後の竹藪の中の墓域に入っていきます。

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墓石が建ち並ぶという感じではなく、各家毎に墓域が固まって散財しているという感じの配置です。そして、奥くまで続いています。これは見つけられるかなと不安になります。しかし、大庄屋であったなら最もいい位置にあるはずという予測で、本堂の真裏の墓を当たっていきます。
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すると出会えたのがこの墓です。
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           「嶋勝任妻」の墓
勝任は島家に養子に迎られ、娘伝と結婚しています。すると、これが伝の墓になります。
勝任は享保元年(1716)に、父の継いで大庄屋となって以後は、ため池を修復し、灌漑整備に努めます。このため八坂手永では、早魃の害がなかったと云います。その人となりは温雅剛直、廉潔をもって知られ、そのために他人の嫉みを受けることもあったと記されています。(「東皐先生略伝」)。

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島氏の墓
「島」という名前が見えます。右面を見てみます。
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島永胤の墓
年号が「文政十(1827)年三月」とあります。周防大島に顕彰碑を建立したのが文化四(1804)年のことでした。それから約20年後に亡くなった島家の当主の墓です。これが島永胤の眠る墓のようです。 襲ってくるヤブ蚊と戦いながら周防大島の顕彰碑にお参りしてきたことを墓前で報告をしました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年
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  村上武吉2
「村上武吉公永眠の地」碑
阿波と伊予のソラの集落を原付ツーリングしているうちに、自信をつけたおじさんは四国の外を、原付で徘徊することにしました。行き先は周防大島です。ここには、海賊大将の村上武吉が眠っています。また、その子孫の墓域もあるようです。さらに、武吉に仕えた有力家臣の島氏の墓もあります。この墓参りに行こうと思い立ちました。その記録を残しておきます。

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松山の三津浜港からの出港
  讃岐から周防大島に原付で行くために、松山の三津浜を目指します。ここから山口県の柳井に向けてフェリーが出ています。その中の何便かが周防大島東端の伊保田港に寄港します。事前に讃岐から原付で、あっちこっちを寄り道しながら7時間かけて、松山のホテルに入ります。
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忽那諸島を行く周防フェリー
 翌朝に三津浜9:40発の伊保田港寄港のフェリー「しらきさん」に乗船します。船は三津浜港を出ると忽那諸島(くつなしょとう)の南側の航路を西に進んでいきます。  70分の公開で伊保田港に到着です。
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上陸して見つけた「周防大島村上水軍史跡」と書かれた説明版を見ると、次のことが分かります。
①の元正寺に村上武吉の墓
②の岩正寺に村上一族の墓
③の伊保田に村上武吉の家老職だった島吉利の顕彰碑
武吉に敬意を示して、この順番で訪ねることにします。まず、めざすは内入にある①元正寺です。
村上武吉公永眠の地へ | 日々の出来事

内入の旧道を走っていると「村上武吉公記念碑」という看板を見つけました。これに導かれて入っていきます。
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        元正寺(周防大島の内入)
内入の海と集落を見下ろす岡の上に元正寺はありました。ここに導いて下さったことに感謝して参拝。
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村上武吉の墓
本堂のすぐ横に、白壁に囲まれた墓があります。お参りを済ませて、説明版をのぞき込みます。
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ここからは次のようなことが分かります。
①塔身156㎝の安山岩製の宝篋印塔であること
②銘文が正面の左右輪郭にあり、慶長9(1604)年の年号が彫られていること
③武吉の墓石の後(塀の外側)に「室(三番目の妻)」の墓があること
④室の墓も、塔身113㎝の安山岩製の宝篋印塔であること
⑤ふたつの宝篋印塔は、年号が記されたものでは大島ではもっとも古い墓であること
墓参りしながら思ったのは、墓が五輪塔ではなく宝篋印塔であること、凝灰岩製でなく安山岩製であることです。
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慶長九年の年号が読み取れる(左側銘文)
以前にお話しした同時代に造られた弥谷寺の生駒家や山崎家の墓石は、凝灰岩製(天霧石)の五輪塔でした。宝篋印塔は多くの如来が集まっているという考えなどから、お墓として先祖供養を行うだけでなく、子孫を災害から守り、繁栄へと導くという考え方もあるようです。そんな願いが込められたのかもしれません。

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村上武吉の宝篋印塔(安山岩)
 以前に見た写真には、お墓の周りの土壁がむき出しになっていました。それが白壁になっています。近年修復されたようです。
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白壁には、こんなプレートが埋め込まれていました。大島に村上氏の子孫の方がいらっしゃるようです。
村上武吉石像・村上水軍博物館|村上武吉 写真画像ライブラリー
村上武吉像(村上水軍博物館)

晩年の村上武吉の置かれた状況を見ておきましょう。
村上武吉は芸予諸島の能島を本城とした能島村上氏の当主で、海賊大将として有名でした。しかし、天下人となった秀吉に睨まれ、海賊禁止令以後は不遇の時を過ごします。小早川隆景の家臣となって筑前に移って、秀吉没後は竹原にもどってきます。隆景没後は毛利家臣となり、関ヶ原合戦のときには嫡男元吉が伊予へ攻め入ったが討死。こうして村上家は、元吉の子元武が継ぎ、武吉が後見を務めます。
 関ケ原での西軍の敗北は、能島村上水軍の解体を決定的なものにしました。
毛利氏は責任を問われて、中国8ケ国120万石から防長2か国36石へと1/4に減封されます。このため毛利氏の家中では大幅減封や、「召し放ち」などの大リストラが行われました。親子合わせて2万石と云われた村上武吉の知行も、周防大島東部の1500石への大幅減となります。しかもこの内の500石は広島への年貢返還のために鎌留(年貢徴収禁止)とされます。こうして実際には千石以下に減らされてしまいます。
 村上氏の領地となったのが周防大島東部の和田村や伊保田村です。そこへ武吉は、残った家臣団を引き連れてやってきます。地元の人達は「海賊がやってくる」と怖れたと云います。その後、村上氏の求める負担の大きさに耐えきれなくなった住民等は次々と逃亡し、ついには村の人口は半減してしまったとも云います。 
 村上武吉と子の景親らが大島を抜け出し、海に戻ることを恐れた毛利輝元は、村上領を「鎌留」にし、代官を送って海上封鎖を行っています。あくまで武吉たちを周防大島に閉じ込めようとしたのです。このような中で武吉は家臣等に対して、次のような触書を出しています。
「兄弟多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何へ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀」

  兄弟の多い者は一人だけ召し抱える。その他はそれぞれの縁者を頼って、何処へなりとも引越しすることを認めるというのです。こうして、多くの者が武吉のもとを去って行きます。かつて瀬戸内海に一大勢力を誇った能島村上水軍は、見る影もなく崩壊してしまいました。これが、村上水軍の大離散劇の始まりでした。
 こうした中で武吉は、和田に最後の住み家を構えます。
そして関ヶ原の戦いの4年後の1604年8月、海が見える館で永眠します。彼が故郷能島に帰ることはありませんでした。武吉の墓は、次男景親が建立しています。

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武吉の妻の墓

武吉の墓の後には、妻の墓があります。これは武吉にとっては三人目の妻になります。 武吉の最初の妻は、村上一族・来島通康(来島右衛門大夫通康)の娘・ムメで、早くに亡くなったようで、能島・高龍寺に墓があります。後妻は、同じ来島通康の次女・ハナとされ、長男・村上元吉と、次男・村上景親の母のようです。3番目の妻が、武吉を看取って、その2年後に亡くなったことになります。彼女については、朝鮮攻めの武功で与えられた朝鮮の娘という説もあります。しかし、これは次男の朝鮮の両班出身の側室と混同しているように思えます。ここでは周防大島の女としておきます。

村上景親
 関ヶ原の戦い後に、減封された毛利藩が武吉に与えた領地は、周防大島東部の和田や油宇・伊保田でした。
ここに、竹原から武吉の家臣団がやってきました。領地があたえられた陪臣の数は35人でした。このほかに屋代に11人いたので合計46人になります。その陪臣を見ると、苗字のない者を除いては伊予越智郡からの家臣が多いようです。岩本・石崎・小日・島・浅海・俊成・小島などの姓を持つ者です。新たな支配者が伊予からやって来たこと、地理的にも中国地より四国に近いこと、などもあって、出稼ぎ・通婚・通学・通商なども伊予松山とのかかわりあいの方が強かったようです。近代になっても伊予絣などを、和田や伊保田の農家ではたくさん織っていて、それが松山に送られて伊予絣の商標で売り出されていたと云います。
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村上武吉の墓から見える内入集落と海

武吉の墓の前に広がる海を見ながらボケーと考えます。どうして武吉は、家臣団から離れてここに居を構えたのだろうか? 一族の墓がここにないのは、どうしてなのだろうか? どちらにしても晩年の不遇さが感じられる所です。勝者と敗者のコントラストも浮かび上がります。
村上景親石像・村上水軍博物館|村上武吉 写真画像ライブラリー
 村上景親(武吉の次男)

      次に目指すのが 武吉の次男の村上景親一族の墓域です。
景親については「小説村上海賊の娘」のお兄ちゃんと云った方が今では通りがよくなったようです。その墓があるのが和田集落です。
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和田の正岩寺

和田の正岩寺にやってきました。この寺も集落背後の岡の上にありました。本堂にお参りします。しかし、村上家の墓所は、この境内にはありません。
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村上景親の墓域入口
境内の南に池に沿って南へ続く道路を進み、丘の反対側へ回り込もうとするところにお地蔵様がいらっしゃいます。ここから階段を上ると墓所がありました。

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村上景親一族の墓所
 まず、戸惑ったのがいくつもの墓が散在していることです。どれが村上景親のものか最初は分かりませんでした。

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一番新しいのは、1979年に造立されたこの墓です。その後に、一番大きい宝篋印塔が2つ並びます。
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これを見ると「法経塔」とあるので、墓ではないようです。このような場合は、一番奥に初代の墓があることが多いようです。そのセオリーに基づいて、一番上の墓を見てみます。

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この真ん中が村上景親の墓のようです。
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村上景親の墓
父の武吉の墓も宝篋印塔でしたが、それよりも少し小さい感じがします。その後の墓は五輪塔になっています。ここで、私が見ておきたいと思っていたのがもうひとつの墓が、景親の朝鮮出身の妻の墓です。
村上景親は文禄の役に兄・元吉と共に吉川広家に従って朝鮮に渡っています。
そして、茂渓の戦いで、景親は攻め寄せる孫仁甲の軍を負傷しながらも撃退し、数百人を討ち取り、勇名を馳せます。景親の活躍を知った細川忠興や池田輝政は、家臣に誘いますが、景親は元就以来の毛利氏の忠誠を理由に辞退しています。

村上景親の妻の墓
景親の朝鮮出身の妻の墓
  景親は文禄・慶長の役で捕虜にした朝鮮貴族(両班)の娘を側室とします。それがこの墓とされるようです。確かに、くるりと巻いた髪のような頭部が載っていて、余り見かけない墓です。捕虜として異国の地で果てた女性に合掌。

 ここにお参りして分かったのは、ここは村上景親を祖とする分家一族の墓域であることです。武吉の本家の家筋は、他にありました。その墓域も他にあるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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    5 瀬戸内海
   
前回は室津・小豆島・引田を結ぶ海上ルートの掌握が、織豊政権の讃岐侵攻に大きな意味を持っていたこと、信長・秀吉軍の讃岐侵攻の際に後方支援の戦略基地として小豆島が重要な意味を持っていたことを見てきました。さらに織田軍が、このルートを越えて西進していくと重要になるのが、備前の下津井と備讃瀬戸の塩飽と宇多津を結ぶルートです。このルートの中核は塩飽です。その背後には村上水軍がいます。今回は、織豊政権が村上水軍にどのようように対応し、瀬戸内海西部の制海権を掌握していったのかを見ていくことにします。

織田政権は、石山戦争を契機として新たな水軍編成を進めていきます。
その担当を信長から任されるのが秀吉です。秀吉は「中国攻め」を担当していました。それは毛利氏との対決だけでなく、四国平定など瀬戸内海制海権の掌握とも関係します。そのため瀬戸内海の水軍編成と表裏一体の関係にありました。その手順を見ておきましょう。
 まず、大坂湾は木津川海戦以後は九鬼水軍が制海権を握っています。そこで秀吉は、瀬戸内海東部の警固衆を集めて織田水軍を編成します。それが以下のようなメンバーです。
播磨明石の石井与次兵衛、
高砂の梶原弥介
堺の小西行長
彼らが初期の織田水軍の中核となります。しかし、こうして編成された織田(秀吉)水軍は、村上水軍のような海軍力もつ強力な水軍ではありません。警固衆(海軍力)よりも、むしろ水運業(海運)に長けた集団であったことを押さえておきます。

信長政権において、瀬戸内海方面の攻略を担当したのは秀吉でした。
これは、よく「中国攻め」と呼ばれます。しかし、秀吉に課せられた任務は、中国地方だけでなく「四国平定」も、その中に含まれていました。秀吉は、一方では毛利氏と中国筋と戦いながら四国の長宗我部元親と戦いを同時並行で行って行くことが求められるようになります。その両面作戦実施のためには、後方支援や兵站面からも瀬戸内海の制海権は必要不可欠な条件となってきます。そのために大阪湾 → 明石海峡 → 播磨灘と、支配エリアを西へと拡大していきます。備讃瀬戸ラインから海上勢力を西へと伸ばしていくためには、塩飽は是非とも掌中に収めなければならない島となります。
 6塩飽地図

塩飽に関して、再度簡単に振り返って起きます。
 もともと塩飽は、東讃守護代の安富氏の支配下にあったようです。永正年間以前に塩飽は守護の料所で、安富氏が代官として支配していました。しかし、やがて支配権が安富氏から大内氏へ移っていきます。その後、永正5年(1508)頃、細川高国から村上宮内大夫宛(能島村村上氏)に対して讃岐国料所塩飽代官職が与えらています。これ以降、塩飽は能島村上氏の支配下に置かれていたことは以前にお話ししました。天文20年(1551)大内氏が家臣の陶晴賢に減ぼされると、塩飽は完全に村上氏の支配下に入れられ、村上氏の塩飽支配はより一層強化されます。つまり、小田勢力が塩飽方面に及んできたときに、塩飽は能島の村上武吉の支配下にあったようです。

1 塩飽本島
塩飽島(本島)周辺 上が南

 石山戦争が激化すると、信長は塩飽を配下に置くために天正5年に塩飽に朱印状を発給し、塩飽船の従来の権限を認めています。
特権を保障された塩飽は、信長方についたとされます。しかし、その後の動きを見ると、必ずしも信長方とは言いきれない面があると研究者は指摘します。どうも、能島村上氏の影響力が、その後も塩飽に及んでいたようです。淡路・小豆島を支配下においた信長にとって、塩飽の支配は毛利氏に打撃を与えるためにも重要な戦略課題になってきます。そのためには塩飽の背後にいる能島村上・来島村上・因島村上の三島村上氏への対応が求められるようになります。

3塩飽 朱印状3人分

天正九年(1581)4月、ルイスフロイスのイエズス会への報告書には、次のように記されています。
「(塩飽には)能島殿代官毛利の警固吏がいて、我等の荷物を悉く陸に揚げ、綱を解きこれを開かんとして騒いだ」

ここからは、塩飽には能島殿の代官と毛利の警吏がいたことが分かります。そうだとすると、塩飽はこの時点では、能島村上氏の支配下にあったことになります。これを打開するために信長は、秀吉に村上氏の懐柔政策を進めさせます。
1581年11月26日、能島の村上武吉は信長に鷹を献上したことが文書に残っています。
時期を考えると、石山戦争終結後に東進する信長勢力と、毛利氏との瀬戸内海をめぐる制海権抗争が激化している頃にあたります。村上武吉からすると、それまでの制海権を信長によって徐々に狭められていきます。対信長戦略として、硬軟両策が考えられたと研究者は考えています。その一つの手立てが自己保身を図るために信長方にすり寄る姿勢を見せたのが「鷹のプレゼント」ではないかと云うのです。信長方にしても、瀬戸内海西域の制海権を握らなければ、毛利氏に対して有利に立つことはできません。そのためには、武吉の懐柔・取り込みを計ろうとするのは、秀吉の考えそうな策です。両者の考えが一致したから「鷹の信長への献上」という形になったと研究者は推測します。
 秀吉は三島村上氏の切り崩しを図るとともに、蜂須賀正勝と黒田孝高に命じて乃美氏を味方にするための働きかけも行っています。しかし、この交渉は不成立に終わったようです。ここからは秀吉は、毛利氏の水軍の切り崩しのための懐柔工作が、いろいろなチャンネルを通じて行われていたことがうかがえます。

 3村上水軍
 秀吉の切り崩し工作は、10年4月に来島村上氏が毛利方を離れて秀吉方に味方するという成果として現れます。
さらに、来島村上氏を通じて、村上武吉にも秀吉から働きかけがあり、能島村上氏は秀吉方に傾き掛けます。この時に、小早川隆景は能島・来島村上氏が毛利から離反していることを因島村上氏に次のように知らせています。
就其表之儀、御使者被差越候、以条数被仰越候、惟承知候、両嶋相違之段無申事候、於此上茂以御才覚被相調候事簡要候、於趣者至乃兵所申遣候条、可得御意候、就夫至御家中従彼方、切々可有御同意之曲中置候上、不及是非候、雖然吉充亮康御党悟無二之儀条、於輝元吾等向後忘却有間敷候間、御家中衆へも能々被仰聞無異儀段肝要候、於御愁訴者随分可相調候、委細御使者へ中入候、恐々謹言、
卯月七日                          左衛門佐(小早川)隆景(花押)
意訳変換しておくと
最近の情勢について使者を派遣して知らせておく。両嶋(来島・能島)の離反については、無事に対応を終えて収集がついたので簡単に知らせておく。離反の動きを見せた来島・能島に対しては、小早川隆景と乃美宗勝が引き留め工作を行い、秀吉方につくことの非を訴えて、輝元公への御儀を忘れずに、使えることが大切である旨を家中衆へも伝えた。委細は御使者へ伝えてある。恐々謹言、

村上海賊ミュージアム | 施設について | 今治市 文化振興課
村上武吉
小早川隆景と乃美宗勝の引き留め工作で、村上武吉は毛利方になんとかとどまります。

武吉の動向にあわてた毛利氏は、村上源八郎に検地約定の書状を出しています。しかし、秀吉も村上通昌との私怨を捨てて信長方に味方するよう次のような説得工作をしています。
今度其島之儀申談候所、両島内々御意候哉、相違之段不及是非候、然者私之被申分者不入儀候間、貴所御分別を以、此節御忠儀肝要候、於様体者国分寺へ申渡候、恐々謹言、
卯月十九日                          羽筑秀吉(花押)
村上大和守殿
御宿

能島・来島村上氏への対応の状況は、村上系図証文に詳しく記されています。この中には来島村上氏は、秀吉に人質を出し味方につくことを承諾しています。また秀吉は武吉に、寝返り条件として次のような領地を示しています
「四国は勿論、伊予十四郡を宛行い、さらに塩飽七島の印を授け、上国警国の権益を与える」

 これらは秀吉お得意の「情報戦」の中で出されたものなので、信憑性には問題が残ります。「村上武吉が寝返った」という偽情報(偽文書)を流すことで、敵方の動揺を作り出そうとするのは情報戦ではよく行われることです。しかし、史料的には能島・村上武吉が秀吉に味方する旨が詳細に記されています。どうも一時的にせよ、村上武吉が秀吉と結ぼうとしたのは事実のようです。
 秀吉が村上武吉に味方するよう説得してからわずか5日後の4月24日の秀吉から備前上原氏に宛てた書状には次のように記されています。
「海上事塩飽・能島・来島人質を出し、城を相渡令一篇候」

また次の5月19日の近江溝江氏宛の書状にも同様の内容が記されています。                                            
一、海上之儀能島来島塩飽迄一篇二申付、何も嶋之城を請取人数入置候、然者此方警固船之儀、関戸迄も掛太目恣二相動候、何之道二も両国之儀、急度可任取分候条、於時宣者可御心易候、猶追々可中参候、恐々謹言、
天正十年五月十九日 秀吉(朱印)
溝江大炊亮殿
御返報
塩飽・能島・来島が秀吉の支配下に収まり、城が秀吉によって接収されたことが書かれています。ところが5月19日の段階では、能島村上氏は再び毛利氏に服属しています。この二通の書状は秀吉の巧妙な偽報告のようです。能島村上氏の去就は、周辺の海賊衆にとっては注目の的であったはずです。この書状をあえて公表することで、秀吉の支配が芸予諸島まで及んだことをひろげる意図も見えます。警固船が「関戸迄も掛太目恣二相動候」とあるように、安芸と周防の国境の関戸まで範囲を示していてしています。秀吉は、情報戦を最大限に利用しようとしたことがうかがえます。
 毛利から来島村上氏が離反して秀吉方についたという情報の上に、能島の村上武吉も寝返ったという偽情報は毛利方に大きな動揺を与えたはずです。どちらにしても、このような情勢下では、能島村上氏による塩飽支配も大きな動揺をもたらすことになります。こんな情勢下では、能島村上氏の塩飽への影響力は低下せざる得ません。
 このよう情報戦と同時並行で行われていたのが、二月以来の秀吉の備中攻めです。
3月24日に小早川隆景は、村上武吉に対して次のように塩飽を味方にするように切り崩し工作を指示しています。  
態御飛脚畏人候、如仰今度御乗船、以御馳走海陸働申付太慶候、従是茂以使者申入候喜、乃上警固之儀、一昨晩以来比々下津井相働候、雖然船数等不甲斐/\候之条、不可有珍儀候欺、塩飽島之趣等、従馬場方可被得御意候、陸地羽柴打下之由風聞候条、諸勢相揃可張合覚悟候、於手前者可御心安候、委曲有右二中含候之間、弥被遂御分別、御入魂可為本望候、猶期来音候、恐々謹言、
天正十年三月廿四日      左衛門佐(小早川)隆景(花押)
(村上)武吉
御返報
意訳変換しておくと
飛脚での連絡であるが、今度の出陣について、海陸における成果について多大な成果を挙げたことを喜んでいる。警固の件について、一昨晩から比々(日比)と下津井は相い働いているが、船数が不足し充分な成果を出せていない。ついては塩飽島について、馬場方に従い羽柴秀吉に下ったという風聞が流れている。諸勢の戦意高揚のためにも、塩飽に分別を説いて参陣を促して欲しい。

この後の4月4日には、毛利輝元から伊賀家久に対して同じような指示が出されています。秀吉の備中攻めに塩飽を味方に組み込むことの重要性を充分に認識していたことを示すものです。逆に見ると、この時点では、塩飽が毛利方に着いていなかったこと、秀吉方に付いていたことが分かります。
 武吉が毛利方で戦いに参陣したにもかかわらす、塩飽衆は村上武吉の命に背いて行動を共にしていません。
それを見て小早川隆景は、村上武吉に「塩飽に云うことを聞かせろ」と命じたのでしょう。逆の視点で見ると、この時には塩飽は武吉の支配下から離脱していたことがうかがえます。これ以後の塩飽と能島村上氏の関わりが分かるのは、天正12年(1584)12月10日付の武吉宛の隆景書状です。そこには「塩飽伝可被及聞召候条、不能申候」とあります。ここからは、塩飽が村上武吉の支配下から完全に離脱していることが分かります。
 こうした中で6月に、信長が本能寺で明智光秀に討たれます。
秀吉は急遽、毛利氏との間に和議を結び、中国方面から兵を引きます。秀吉が姿を消した後の備讃瀬戸では、能島村上氏と来島村上氏と戦いが繰り広げられ、年末になりやっと終止符が打たれます。伊予方面での来島村上氏との抗争が激化する中で、能島の村上武吉には塩飽に関わっている余裕はなくなります。こうした村上氏の分裂抗争を横目で見ながら秀吉は海上勢力を西へ西へと伸ばしていきます。そして、能島村上氏の影響力の消えた塩飽を自己の支配下に置きます。来島村上氏の懐柔策がの成果が、村上水軍を分裂に追い込み、相互抗争を引き起こし、結果として村上水軍の塩飽介入の機会を奪ったのです。秀吉は、やはりしたたかです。
5 小西行長1
小西行長

そして、瀬戸内海東部エリアの「若き提督」として登場するのが小西行長です。
行長登場までの動きを振り返って起きます。秀吉が瀬戸内海東部の進出過程を再度押さえておきます。
①明石・岩屋・淡路・鳴門エリアは、石井与兵次衛と梶原弥介に
②播磨室津・小豆島・讃岐引田エリアは小西行長
③下津丼・塩飽・宇多津エリアは、小西行長が塩飽衆を用いて支配
①②③の総括を担当したのが仙石秀久でした。この中で、最終的には小西行長が抜け出して瀬戸内海東部全体の制海権を秀吉から任されるようになります。
どうして二十代の若い行長に、秀吉は任せたのでしょうか?
 それは小西行長がキリシタンだったからではないかと研究者は考えています。彼は堺の有力者を父に持ち、幼くしてキリスト教に入信しています。秀吉は、行長を播磨灘エリアの海の司令官、行長の父を堺の代官に任命しています。前線司令官の子を、堺から父が後方支援するという形になります。秀吉の期待に応え行長は、小豆島と塩飽を領地として持ちます。彼は高山右近を尊敬し、小豆島に「地上の王国」建設を進めます。この結果、行長はイエズス会宣教師から「海の青年提督」と称され、宣教師と深い移パイプを持つようになります。瀬戸内海を行き来した宣教師は、たびたび塩飽と小豆島に立ち寄っています。行長が、宣教師との交友が深かったことは以前にお話ししました。

5 高山右近
小豆島の高山右近
 ここには宣教師の布教活動ともうひとつの裏の活動があったと私は考えています。
それは南蛮商人からの火薬の原料の入手です。宣教師の口利きで、行長は火薬原料を手に入れていたのではないでしょうか。そのため、秀吉は行長を重要視していたという推測です。小豆島の内海湾には火薬の原料を積んだ船が入港し、その加工も小豆島で行い、出来上がった火薬が小豆島周辺に配備された諸軍に提供されていたという仮説を出しておきましょう。

室津・小豆島・引田・塩飽のエリアの制海権を秀吉から付与されたのは、小西行長でした。
天正13年頃に塩飽を訪れたフランシスコ・パショは、塩飽が行長の支配下にあったことを記しています。小豆島と塩飽は一体として行長に領有させ、四国平定の後方基地としての役割を果たします。秀吉のもとで、東瀬戸内海は行長に管理権が委ねられ、宣教師の報告書に行長が「海の司令官」と記されていることは、この時期のことになります。
これに対して、塩飽には海軍力(水軍)としての活発な活動は見られません。
塩飽は室町期以来、東瀬戸内海流通路を確保した輸送船団として活発な商船活動をしていました。塩飽の経済基盤は商船活動にあったと研究者は考えています。その点が芸予諸島の村上氏とは、大きく異っているところです。能島村上氏が塩飽を支配した目的は次の二点と研究者は考えています。
①塩飽衆の操船・航行技術の必要性
②水夫・兵船の徴発
備讃瀬戸から播磨灘にかけての流通路を持つ塩飽衆を支配下におくことは、村上氏の制海権エリアの拡大を意味します。村上氏は、海上警固料の徴収が経済基盤でした。しかし、この時期が来ると、それだけでは活動ができないようになっています。その解決のための塩飽支配だったと研究者は考えています。
 信長が早い段階で塩飽船の活動に対して朱印状を発給したのは、信長の瀬戸内海経済活動圏の掌握を図ったとされます。秀吉によって、後に塩飽が御用船方として支配下に組み込まれていくのも、水軍力よりも、海上輸送力に着目してのことと研究者は考えています。
 秀吉の瀬戸内海における制海権を手中に収めていく過程を見ると、信長亡き後もスムーズに進めています。
これは、秀吉が信長生前から瀬戸内海に関する権限を握っていたからでしょう。今まで見てきたように、東から明石・小豆島・塩飽・芸予諸島の地元勢力との関係を結んできたのは、すべて秀吉でした。そういう目で見れば、石井与次丘衛・梶原弥介・小西行長は、織円政権下の水軍であるというよりも、豊臣政権下初期の水軍ともいえます。彼らが後に秀吉水軍の中核をなし、村上氏を含む巨大水軍に成長していきます。その基盤となったのが大阪湾や明石の海賊衆だったといえるのかもしれません。
    以上をまとめておきます
①石山戦争の一環として、瀬戸内海の制海権を握る必要を痛感した信長は、その任務を秀吉に命じる
②秀吉は、中国攻めと淡路・四国平定を同時進行で進め、その兵員輸送や後方支援のために、瀬戸内海東部に制海権を掌握していく。
③その際に明石海峡や室津・小豆島・塩飽などの地元の海賊衆を傘下にいれ、水軍編成を行う。
④芸予諸島の村上水軍に対しては、懐柔策を用いて来島村上氏を離反させ、内部抗争を引き起こさせた。
⑤その間に、秀吉は備中へ侵入し、塩飽も傘下に置いた。
⑥本能寺の変後、信長亡き後も秀吉はそれまで進めてきた瀬戸内海制圧を進め、小西行長を「海の提督」として重用し、四国・九州平定の海上からの後方支援を行わさせる。
⑦これは、秀吉の構想の中では、朝鮮出兵へ向けての「事前演習」でもあった。
⑧同時に四国に配備された各大名達は、このような秀吉の構想を実現するための「駒」の役割を求められた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。なるものであった。
参考文献

天正10年(1583)6月、本能寺で天下統一の事業半ばで信長は倒れます。代わって羽柴秀吉は、後継者の地位を固めると、翌年には、本願寺のあった石山の地に大坂城を築き、天下統一の拠点とします。そして1585年には、秀吉は土佐の長宗我部元親を討つための四国遠征軍を準備します。信長亡き後の混乱を予想していた長宗我部元親にとって、秀吉が意外なほどの早さで天下統一事業を立て直し、実行してくることに驚きと脅威をもって見ていたかもしれません。 
 このころ小豆島や塩飽は、秀吉の「若き海軍提督」と宣教師が名付けた小西行長によって統治され、瀬戸内海の海軍(輸送船)の軍事要衝的な性格を帯びていたことは以前にお話ししました。当然、塩飽にも行長の家臣が、船の準備をするために滞在していました。
小西行長と塩飽・小豆島の関係を年表で押さえておきます。
天正 8年(1580)頃 父・隆佐とともに秀吉に重用
天正 9年(1581) 播磨室津(兵庫県)を所領
天正10年(1582) 小豆島の領主となる
天正11年(1583) 舟奉行に任命され塩飽も領有
天正12年(1584) 紀州雑賀攻めに水軍を率いて参戦,
天正13年(1585) 四国制圧の後方支援
天正14年(1586) 九州討伐で赤間関(山口県)までの兵糧を輸送した後,平戸(長崎県)に向かい,松浦氏の警固船出動を監督。
天正15年(1587) バテレン禁止令後に高山右近を保護。
  年表から分かる通り、行長は室津を得た後に小豆島・塩飽諸島も委せれていたようです。正式文書に、小西行長の名はありません。しかし『肥後国誌』やイエズス会の文献には、小豆島・塩飽の1万石が与えられていたと記します。天正十五年(1587)、秀吉に追放された切支丹大名の高山右近が行長の手で小豆島に匿われたことがイエズス会資料にあるので、塩飽・小豆島が行長の所領であったが分かります。天正10年に、秀吉に仕えるようになってすぐに室津を得て「領主」の地位に就いたようです。そして、小豆島と塩飽と備讃瀬戸の島々を得ていきます。行長が20代前半のことです。このように東瀬戸内海エリアを秀吉の「若き海軍提督」の小西行長が高速船で行き交い、海賊たちを取り締まり「海の平和」が秀吉の手で実現していきます。
 ところが芸予諸島周辺では、小早川隆景配下の能島村上氏は海賊行為を続けていたようです。天正13~14頃の秀吉が小早川隆景に宛た朱印状には、次のように記されています。
能島事、此中海賊仕之由被聞召候、言語道断曲事、無是非次第候間、成敗之儀、自此方雖可被仰付候、其方持分候間、急度可被中付候、但申分有之者、村上掃部早々大坂へ罷上可申候、為其方成敗不成候者、被遣御人数可被仰付候也、
九月八日                     (秀吉朱印)
小早川左衛門佐とのヘ
意訳変換しておくと
能島(村上武吉)の事については、今でも海賊行為(関銭取り立て)を行っていると伝え聞くが、これは言語道断の事である。これが事実かどうかは分からないが、もし事実であれば、秀吉自らが成敗をくわえるべきものである。しかし、小早川隆景の家臣なので措置は、そちらに任せる。再度、関銭取り立てなどの行為禁止を申しつける。ただし、申し開きがあるなら村上掃部(武吉)を大坂へ参上させよ。そちらで成敗しないのであれば、(秀吉)が直接に軍を派遣して処置する。
九月八日                     (秀吉朱印)
小早川左衛門佐(小早川隆景)とのヘ
 ここからは「海賊禁止」を守らずに、芸予諸島海域で関銭取り立てを続ける村上武吉への秀吉の怒りが伝わってきます。これに対して、小早川隆景を秀吉に全面的に屈することなく、配下の村上武吉を守り通そうとします。小早川隆景と武吉をめぐる話は以前にお話したので省略します。

「海の平和」実現のために天正16年(1588)7月に出されたのが「海賊禁止令」です。
これは、刀狩令と同時に出されていますが、この刀狩令に比べるとあまり知られていないようです。海賊禁止令は、次のような三条です。
3 村上水軍 海賊禁止令
秀吉の海賊禁止令(1588年)
意訳変換しておくと
一 かねがね海賊を停止しているにもかかわらず、瀬戸内海の斎島(いつきしま 現広島県豊田郡豊浜町の能島村上氏の管轄エリア)で起きたのは曲事(不法)である。
一 船を使って海で生きてきた者を、調べ上げて管理し、海賊をしない旨の誓書を出させ、連判状を国主である大名が取り集めて秀吉に提出せよ。
一 今後海賊行為が明らかになった場合は、藩主の監督責任として、領地没収もありうる
第一条からは、再三の警告に対しても関銭取り立てを続けている村上武吉に対して出されたものという背景がうかがえます。
第二条は、経済的には海の「楽市楽座」のとも云える政策で、自由航行実現という「秀吉による海の平和」の到来宣言とも云えます。まさに天下統一の仕上げの一手です。
  しかし、これは村上武吉などの海賊衆から見れば「営業活動の自由」を奪われるものでした。「平和」の到来によって、水軍力を駆使した警固活動を行うことはできなくなります。「海の関所」の運営も海賊行為として取り締まりの対象となったのです。村上武吉は、これに我慢が出来ず最後まで、秀吉に与することはありませんでした。
 これに対して塩飽衆は、どうだったのでしょうか。
その後の歩みを見てみると、塩飽衆は「海賊禁止令」を受けいれ秀吉の船団としての役割を務め、その代償に特権的な地位を得るという生き方を選んだようです。それは家康になっても変わりません。それが人名や幕府の専属的海運業者などの「権利・特権」という「成果」につながったという言い方もできます。 
 どちらにしても、中世から近世への移行期には、瀬戸内海で活躍した海賊衆の多くは、本拠地を失い、水夫から切り離されました。近世的船手衆に変身していった者もいますが、海をから離され「陸上がり」した者も多かったようです。そのような中で本拠地を失わず、港も船も維持したまま時代の変動を乗り切ったのが塩飽衆だったことは以前にお話ししました。今回は、秀吉政権下での塩飽の動きをもう少し追いかけて見ましょう。
秀吉の九州遠征と塩飽
 海賊禁止令が出される2年前の1586年に、秀吉は塩飽島年寄中に朱印状を発給し、島津攻めのため、塩飽へ軍用船を出すことを命じています。当時の背景を見ておくと、秀吉は九州で抗争を続けていた薩摩の島津義久と豊後の大友宗麟に対して和睦勧告をします。それに対して、島津氏が無視したため、島津氏討伐のために九州へ出陣準備を進めます。豊後へ侵入した島津勢に対する大友勢の救援として、まず毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が主力として豊前へと向かいます。一方、四国征伐後に秀吉は、次の九州出陣に備えて四国への大名配置を行っていました。事前の計画通り、讃岐の仙石秀久が十河存保や長宗我部元親等の四国勢を従えて豊後へと出陣します。
 この時の九州遠征には、塩飽に対して輸送船徴発が行われています。それが秀吉朱印状に残されています。
豊臣秀吉朱印状(折紙)
 今度千石権兵衛尉俄豊後江被遣候、然者当島船之事、雖加用捨候五十人充乗候船十艘分可相越候、則扶持方被下候間、壱艘二水主五人充可能出候也、
八月廿三日                   (朱印)
塩飽年寄中
3塩飽 秀吉朱印状

意訳変換しておくと
 今度の仙石秀久の豊後出陣に際して、塩飽の輸送船を次の通り準備すること。50人乗の船十艘と1艘について水夫5人、合計50人を提供せよ。
八月廿三日                        (朱印)
塩飽年寄中
 これを見ると50人乗の船10艘と水夫50人を塩飽は負担することを命じられています。ここからは塩飽船は、秀吉直参の輸送船団にに組み込まれたことがうかがえます。
薩摩攻めの時には、次のように記されています。
御兵糧米並御馬竹木其外御用御道具、大坂より仙台(川内)江塩飽船二而積廻し候様二と、年寄中江被仰付、早速島中江船加子之下知有之

意訳変換しておくと
兵糧米や兵馬・竹木などの外の軍事物資について、大坂から薩摩川内へ塩飽船で輸送するようにとの、塩飽年寄中に申しつけられたので、早速に島中へ船水夫のことを伝達した

ここからは兵糧・武器の輸送を 塩飽船が行ったことが分かります。ここでも軍船は出していません。研究者は、この文書の宛先が「塩飽年寄中」となっていることに注目します。薩摩攻めの史料にも「年寄中江被仰付」と「年寄中」という言葉が見えます。ここからは年寄と称す何人かの年寄で、島を統治していたことがうかがえます。これが江戸時代の塩飽の四人の年寄につながっていくようです。ここでは、秀吉の九州攻略以降、塩飽は豊臣政権下に組み込まれていたと研究者は考えています。
  九州制圧が終わると朝鮮出兵への野望を膨らませながら秀吉は、小田原の北条氏攻めを行います。
秀吉にとっては「小田原攻め」は、戦略物資の輸送に関しては次に控える「朝鮮出兵」の事前演習的な所もあったようです。ここでも塩飽船が活動しています。兵糧米を大坂から小田原へと輸送していることが、次のように記されています。
「(塩飽)島中之船加子数艘罷出候処、御手船ハ勢州鳥羽浦二乗留メ、彼地二逗留致延引候、塩飽島ハ不残小田原へ乗届、御陣之御用立相勤中候」

意訳変換しておくと
塩飽島中の船や加子が数艘動員された。秀吉の御手船(直属輸送船)は鳥羽浦に留まりで逗留したが、塩飽船は全て小田原まで乗り入れ、兵粮や戦略物資を運び入れ、任務を果たした。

ここからは、秀古の手船は鳥羽浦までしか行かなかったのに対して、塩飽船は太平洋の荒波を越えて小田原まで航行したと、操船能力の巧みさを自画自賛しています。秀吉は四国・九州遠征を通じて水軍編成を計っていきます。小田原攻めの時には、秀吉の直属の九鬼嘉隆の率いる水軍をはじめ、毛利水軍・長宗我部水軍・加藤嘉明水軍も動員され、相模湾には、水軍が蟻のはい出る隙間もないほど結集したと云われます。この時にも塩飽船は、軍船ではなく兵糧輸送船として徴用され活躍していることを押さえておきます。

北条氏を減ぼして全国統一を果たした秀吉の次の野望は、朝鮮半島でした。古代ローマ帝国と同じく領土拡大を行う事で、秀吉政権は成長してきました。領土拡大がストップすることは、倍々ゲームで成長してきた企業が成長0になることにも似ています。政権の存続基盤が失われることを意味します。それを秀吉は朝鮮出兵、中国への侵入という大風呂敷を広げることで帳尻を合わせようとしたのかもしれません。すでに九州遠征の時から「唐入り」の野心を膨らませていたのです。誇大妄想的な野望かも知れませんが、そのために取られた準備は用意周到なものでした。各地の城の修理や増築を行い備えた上で、朝鮮出兵の拠点として肥前名護屋城の普請を行います。また朝鮮への渡海のための船の建造を進め、全国の大名にも船舶の建造命令を出しています。
これにともない塩飽でも船の建造が行われたことが、次の秀次朱印状から分かります。
③豊臣秀次朱印状(折紙)
大船作事為可被仰付、其国舟大工船頭就御用、為御改奉行画人被指遣候間、成共意蔵入井誰々雖為知行所、有職人之事、有次第申付可上候者也、
十月十二日                   (朱印)
塩飽
所々物主
代官中
意訳変換しておくと
大船の造船を命じることについて、舟大工や船頭の雇用が必要なることが考えられるので、奉行を派遣して職人の募集を行う事、また危急の際なので、給料や人物にこだわることなく使える職人は、すべて雇用すること、

この文書には、年次がありませんが文禄九年(1592)と研究者は考えているようです。船大工の雇用に当たっては「蔵入並並に誰々雖為知行所」とあるように、少々人件費高くとも人間的に問題があっても使える職人は全て雇へという命令です。
 また、この文書で研究者が注目するのは宛先が「塩飽 所々物主 代官中」となっていることです。ここからは、この時期の塩飽には代官がいて、秀吉の直轄統治が行われていたことが分かります。この文書を受けた塩飽代官は、どうしたでしょうか。塩飽には中世以来の海上輸送の物流基地で船大工もいたでしょうがその数も限られていたでしょう。塩飽以外の地からも多くの船大工を呼び入れたはずです。そこで、各地からやってきた船大工句の間で、造船技術の交流・改良が行われたことは以前にお話ししました。同じ事は、小豆島でも同時並行で行われていたようです。

船を建造するだけでなく、塩飽船は朝鮮出兵にも動員されていることが、次の文書から分かります。

「文禄九年高麗御陣之時、七ケ年之間、御手船御用之節、豊臣秀次様御朱印を以、御用被為仰付、塩飽船不残、水主五百七拾余人、高麗並肥前日名護屋両所二相詰、御帰陣迄御奉仕候、其節之御朱印二通」

意訳変換しておくと
文禄九年の朝鮮出兵の時は、7年間に渡って、御手船御用を言いつかっていた。そして、豊臣秀次様から御朱印をいただき、御用を仰せつかり、塩飽船は残らず、水主570余人とともに、高麗と肥前の名護屋城の両方に詰めて、出兵が終わり帰陣するまで御奉仕した。その時の御朱印が二通ある。

塩飽勤番所に残された2通の朱印状は、文禄二年(1593)に豊臣秀次から出されたもので、次のような内容です。
豊臣秀次朱印状
名護屋へ医師三十五人並に下々共外奉行之者被遣候、八端帆継舟式艘申付、無由断可送届者也、
文禄二年二月二十八日                (朱印)
志はく(塩飽)船奉行中
これは名護屋へ医師35人と奉行衆を八端帆継舟二艘で送り届けよという命令書で、宛先は塩飽船奉行です。もう1通は竹俣和泉の名護屋派遣について、兵と軍資を継舟で送るように指示しています。
⑤豊臣秀次朱印状
竹俣和泉事、至名護屋被指下候、然者、上下弐拾人並荷物「儀」(後筆)十荷之分、継舟二て可送届者也、
文禄弐年三月四日                 (朱印)
塩飽船奉行中
この継舟というのは八端帆船のことと研究者は考えています。これ以前の元亀二年(1571)来島・因島衆との海戦に、塩飽の八端帆船三艘が活動しています。ここから塩飽船は、八端帆船が主役であったと研究者は考えているようです。ここでも、動員されているのは軍船ではありません。
では八端帆船とは、どのくらいの大きさの船だったのでしょうか?
当時は帆一反につき櫓四挺の割合になるようです。すると8端×櫓4=32挺櫓で、長さ約20尺程の船になります。そこに乗り組む水夫は、漕ぎ手が32人+αで、武者も同じくらい乗船するので70名程度になるようです。
村上水軍 小早船
毛利水軍書の「小早」(村上海賊ミュージアム)

毛利水軍書の「小早」と称される船にあたるようです。③で「大船作事可被仰付」とありましたが、塩飽が大船を多数保有していたなら、それほど建造する必要もなかったでしょう。それまでの塩飽には、大船がなく八端帆船が多数を占めていたため「大船作事」命令となったと研究者は推測します。
3  塩飽 関船

ここからも、塩飽は八端帆継舟による海上輸送にあたっていたことがうかがえます。塩飽船は、大坂と名護屋を結ぶ継舟として文禄の役に徴発されます。④⑤の文書の宛名は「塩飽舟奉行」となっています。船奉行の支配下のもとに、瀬戸内海を通じて大坂・九州名護屋の間の物資・軍兵輸送を塩飽船が担ったと研究者は考えています。

 確かに塩飽は、文禄の役に多くの船と水夫を出しています。
そのために江戸時代には、朝鮮出兵で活躍の証が秀吉・秀次朱印状で、それが徳川の「塩飽船方衆(人名)」につながったとされてきました。これは、本当なのでしょうか? 
 西国大名の朝鮮出兵に関する研究が進むにつれて、塩飽だけが特別に負担が多かった訳ではないことが分かってきました。九州大名と舟手の水軍大名は、本役(百石につき5人の動員)、四国・中国大名は四人役(百石につき四人)と、石高に応じて軍役(人夫と水夫)が課せられていたようです。人夫や水夫の負担が多い大名の中には、軍役の2/3に達する藩もあります。これから考えると、塩飽に対しても検地に基づく石高で、軍役負担が課されたようです。天正18年(1590)に塩飽で行われた検地では、650人の舟方が軍役負担者として義務つけられます。これをもとにした軍役が、朝鮮出兵の時にも課せられているようです。それは決して特別重い軍役ではないと研究者は考えています。
 今までの通説では、次のように云われてきました。
塩飽は文禄の役の際には、他と比較にならぬほど多くの船と水夫を出した。それは、塩飽が豊臣の御用船方であり、船舶が堅牢で水夫が勇敢かつ航海技術が優れていたからである

しかし、これは塩飽を美化したものに他ならないと研究者は指摘します。九州などでは塩飽以上に多くの一般民衆が人夫や水夫として徴発されている事実からすれば、塩飽のみが重い負担であったとは云えないようです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 橋詰茂 織豊政権の塩飽支配 瀬戸内海地域社会と織田権力所収  思文閣史学叢書2007年
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信長朱印状
  信長の朱印状(塩飽勤番所)
   
 天正五年(1577)三月二十六日付で織田信長が「天下布武」の朱印を押して宮内卿法印に宛てた文書が、塩飽本島の勤番所に保管されています。これが信長の朱印状とされています。 
 堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
     宮内部法印  (松井友閃)
 信長朱印状は、もともとは折紙であったのを上下半分に切り、上半分を表装しています。縦14、9㎝・横41、3㎝で、朱印は縦5,5㎝、横4,7㎝の馬蹄形です。 印判がすわっていますが、これが信長の有名な「天下布武」の朱印です。讃岐にかかわりのある信長の朱印状はこれだけだそうです。宛先の宮内卿法印とは、信長が直轄領としていた和泉国堺の代官松井友閑のことです。

瀬戸内海に於ける塩飽海賊史(真木信夫) / 蝸牛 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この文書の解釈について、真木信夫氏『瀬戸内海に於ける塩飽海賊史』は、次のように記します。

「先々の如く」とあるのは従来より塩飽船に与えられていた「触れ掛り」と称する海上の特権を指したもので、堺港への上り下りの塩飽船は航海中にても碇泊中にても船綱七十五尋の海面を占有することのできる権利である。信長は従来よりのこの特権を再確認し、万一この占有海面を侵犯する者は処罰するようにと、堺の代官である宮内卿松井友閑に令したものである。

 これが従来の定説で、「触れ掛り特権」とは「塩飽船から七五尋の範囲は、塩飽船以外はいっさい航行できない。港に入ってもその周囲の船はよけろ」という特権です。これを侵したものに対しては塩飽衆が「成敗」できることを信長が再確認したのだ、といわれていました。館内の説明書きもそう書かれています。

塩飽 信長朱印状説明
信長朱印状(塩飽院番所の説明書き)

 これに対して橋詰茂氏は「讃岐塩飽における朱印状の検討」の中で、次のような疑問を提出します。

第1に、「触れ掛り」の特権を示すと云うが、その基になる「触れ掛り」特権を示す史料がないこと。従来よりの言い伝えをもとに、「触れ掛り」特権としたにすぎない。ここからは「如先々」が、必ずしも「触れ掛り」を示す文言とはいえない。

第2に、塩飽船の「触れ掛り」特権を許容したものならば、松井友閑宛ではなく、塩飽中宛にするはずである。通説は「可成敗」を、塩飽船が成敗権を持っているように考えているが、本来このような権限は塩飽船のみに与えられるものではない。これは堺代官の持つ権限である。

第3に、天正5年という時代背景を考えず、ただ特定の文言だけをとりあげての解釈である。

第3の指摘にを受けて、文書が発給された天正5年(1577)3月前後の讃岐の年表を見ておきましょう。
1575 天正3 (乙亥)
① 5・13 宇多津西光寺.織田信長と戦う石山本願寺へ.青銅700貫・米50石・大麦小麦10石2斗を援助する(西光寺文書)
1576 天正4 (丙子)
②8・29 宇多津西光寺向専,石山本願寺顕如より援助の催促をうける(西光寺文書)
 この頃 香川之景と香西佳清,織田信長に臣従し,之景は名を信景に改める(南海通記)
 2・8 足利義昭,毛利を頼り,備後鞆津に着く(小早川家文書)
③7・13 毛利軍が木津川の戦いで信長側の水軍を破り,石山本願寺に兵粮を搬入する(毛利家文書)
1577 天正5 (丁丑)
④3・26 織田信長,堺に至る塩飽船の航行を保証する(塩飽勤番所文書 信長朱印状?)
⑤7・- 毛利・小早川氏配下の児玉・乃美・井上・湯浅氏ら渡海し,讃岐元吉城に攻め寄せ,三好方の讃岐惣国衆と戦う(本吉合戦)
 11・- 毛利方,讃岐の羽床・長尾より人質を取り,三好方・讃岐惣国衆と和す(厳島野坂文書)
1578 天正6 
 この年 長宗我部元親,藤目城・財田城を攻め落とす(南海通記)
 この年 宣教師フロイス,京都から豊後に帰る途中,塩飽島に寄り布教する(耶蘇会士日本通信)
 11・16 織田信長の水軍,毛利水軍を破る(萩藩閥閲録所収文書)
1582 天正10 4・- 塩飽・能島・来島,秀吉に人質を出し,城を明け渡す(上原苑氏旧蔵文書)
 5・7 羽柴秀吉,備中高松城の清水宗治を包囲する(浅野家文書)
 6・2 明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる〔本能寺の変〕
1574(天正2)年4月、石山本願寺と信長との石山戦争が再発します。翌年には年表①にあるように宇多津の真宗寺院の西光寺は本願寺の求めに応じて「青銅七百貫、俵米五十石、大麦小麦拾石一斗」の軍事物資や兵糧を本願寺に送っています。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
     西光寺(江戸時代の宇多津絵図 大束川の船着場あたり)

宇多津には、真宗の「渡り」(一揆水軍)がいました。
石山籠城の時には、安芸門徒の「渡り」が、瀬戸内海を通じて本願寺へ兵糧搬入を行っています。この安芸門徒は、瀬戸内海を通じて讃岐門徒と連携関係にあったようです。その中心が宇多津の西光寺になると研究者は考えています。西光寺は丸亀平野の真宗寺院のからの石山本願寺への援助物資の集約センターでもあり、積み出し港でもあったことになります。そのため西光寺はその後、②のように蓮如からの支援督促も受けています。

 そのような中で起こるのが③の木津川の戦いになります。
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ベストセラーになった「海賊の娘」を読むと、大坂湾の海上突破は、安芸門徒と紀伊門徒との連携策で行われていたことがうまく描かれています。淡路岩屋をめぐっての信長と毛利の攻防は、安芸一揆水軍の本願寺への搬入ルート確保のための戦いでもありました。そして、もう少し視野を広げて見ると、安芸・紀伊門徒による瀬戸内海の制海権確保は、本願寺に物資や秤量を運び込むための補給ルート確保の戦いでもあったのです。

マイナー・史跡巡り: 荒木村重② ~石山本願寺~

本願寺派は、海からの補給ルートがあったために長きにわたって戦えたのです。信長は、それを知っていたために、遮断するための方策を講じます。それは瀬戸内海における水軍確保です。そのために行われたのが塩飽衆の懐柔策です。
 そういう目で讃岐と周辺の備讃瀬戸を見てみましょう。
1576(天正4)には、信長は多度津の香川氏や・勝賀城の香西氏といった国人領主を懐柔し、支配下に組み込んでいます。塩飽に影響力のある香西を配下に置くことによって、塩飽懐柔を進めたのでしょう。塩飽を配下に置くことで、毛利の本願寺・紀伊門徒とのパイプを遮断するという戦略が信長の頭の中には生まれていたはずです。それが功を奏して、塩飽を村上武吉から離脱させた後に出されたのが④の文書ということになります。

 塩飽衆が信長方についたこの年に、宇多津沖で安芸門徒の兵糧船が撃沈されています。これは塩飽水軍など信長方に付いた讃岐の海賊衆(水軍)によって行われたと研究者は考えているようです。この事件は、本願寺援助ルートへの脅威で、毛利側にとっては放置することはできません。塩飽を信長に押さえられた毛利は、その打開策として対岸の讃岐を押さえて備讃瀬戸航路の通行の確保を図ろうとします。それが⑤の讃岐出兵で、善通寺の元吉城(櫛梨城)をめぐっての三好氏との攻防になります。

1 櫛梨城1
元吉城(櫛梨山城)
これに毛利は勝利しますが、毛利の関心は瀬戸内海の制海権なので、備讃瀬戸沿岸の通行権が確保できるとすぐに讃岐から兵を引いています。以上を整理しておくと
①塩飽衆は、1577(天正5)年に村上武吉側から織田信長側に寝返った。
②従来の通説は、その代償として「信長朱印状」が塩飽に発給されたとされてきた。
③以後、塩飽は毛利・村上方とは対立する立場にたったことになる。
 このような状況の中で塩飽衆は、毛利水軍・安芸門徒の本願寺支援ルートを、妨害することを信長から求められます。裏返すと塩飽衆は、村上水軍からは攻撃対象になったことを意味します。このような中で、「触れ掛り」特権が与えられたとしても実際の効力はありません。また、村上水軍が制海権を持つ中で、塩飽船が特権を主張して自由航行できる状態ではなかったと研究者は指摘します。

そんな状況を加味しながら、橋詰氏は次のようにこの文書を解釈します。
塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入りに関しては問題なく対処せよ、もし(塩飽船が)勝手な行動(村上方や本願寺に味方する)をしたならば成敗せよ」と松井友閑に達したものである

 この解釈によれば「違乱之族」とは、寝返ったばかりで本願寺や村上水軍に味方するかもしれない塩飽衆のことになります。成敗の対象となるのは、そのような違乱を行った塩飽船なのです。そうすると、この文書は塩飽船の自由特権を認めたものではなく、塩飽船が非本願寺勢力(信長方についたこと)であることを確認した上で、塩飽船の監視強化を命じたものになります。
 塩飽船は石山戦争下で、信長の支配下に組み込まれたのです。
信長の戦略は、塩飽船を用いて村上水軍による本願寺支援ルートの封鎖をはかること、代わって塩飽船に流通路を担わせて瀬戸内海流通路の再編成をはかろうとすることでした。その責任者である堺代官・松井友閑に、この朱印状は宛てられています。塩飽に下された朱印状ではないという結論になります。塩飽は信長に服従したのであり、それを違えた場合には成敗すると、読むべしと云うのです。ここからは、堺代官である松井友閑を通じて、塩飽船を統括したことがうかがえます。
信長の朱印状のある松井友閑宛文書が、なぜ塩飽勤番所にあるのでしょうか?
この文書の初見は享保12年(1727)9月の宮本助之丞後室宛吉田有衛門等の覚書(宮本家文書「朱印状五通請取之党」)に登場するようです。ここからは、これ以前にすでに塩飽に伝わっていたことが分かりますが、どんな経路で伝わったかは分かりません。
 そして元禄13年4月の小野朝之丞宛宮本助之丞等の「朱印之覚」(岡崎家文書、瀬戸内海歴史民俗資料館現蔵)には、信長朱印状のことは何も触れられていません。ここからは信長朱印状が伝わったのはこれ以降で、享保12年までの間のことであったと研究者は考えているようです。そうだとすると、この時点まで塩飽衆はこの文書の存在を知らなかった可能性も出てきます。元禄まで塩飽になかった文書が、「触れ掛り特権」を保証する文書と云えるのかという問題も出てきます。

以上をまとめておきます
①  信長の朱印状と云われる文書は、塩飽に宛てられたものではなく、当時の堺代官宛てのものである
②この文書が塩飽に伝来したのは、元禄から享保の間のことで、もともと塩飽にあったものではない。
③この文書に対して後の塩飽人名衆は、信長が航行特権を塩飽に認めたもので、これに反する者は処罰する権限も与えたものと言い伝えてきた。
④それを批判することなく、そのまま戦後の研究書の中にも引き継がれ定説となってきた。
⑤しかし、「触れ掛り」特権をしめす文書はないし、これ自体が当時の法体系からしても超法規的で認めがいたものであるなどの疑問が出されるようになった。
⑥また、この文書を歴史的な背景というまな板の上に載せて、再検討する必要が求められた。
瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    橋詰茂氏「讃岐塩飽における朱印状の検討」   
 瀬戸内海地域社会と織豊政権 思文閣史学叢書 2007年 
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厳島合戦その8 | テンカス・気まぐれ1人旅
     厳島合戦
 戦国期は、海賊衆の活動の最もめざましい時代を向かえます。しのぎをけずりあう周辺の戦国領主たちにとって、厳島合戦のように村上氏海賊衆の水軍力が勝敗の決め手になることもありました。その軍事力や制海権、輸送力は垂涎の的になります。多くの戦国領主が、村上水軍を味方につけようと画策するようになります。村上氏関係文書の中に残されている山名・河野・大内・毛利・小早川・大友・織田・羽柴などの各氏の発給文書の存在が、そのことを雄弁に物語ります。そして、村上氏がその期待に応えて、各地の合戦に多くの戦功を挙げます。

村上水軍と海賊

室町時代の海賊衆は警固活動だけでなく、海上輸送業も行っていたようです。
ただ近世になると、軍記物では戦いばかりに目が向けられ、平和時の日常的な輸送活動については描かれることがなかったために、抜け落ちてしまっているようです。
 海賊衆の中で最も多くの文書を残しているのは、村上氏です。村上各家に残されている文書をみてみると、その大部分は戦時における一族の活躍を伝えるもので、それ以外のものあまりありません。これは村上各家の文書の伝来のしかたに、一種の偏りがあるからだと研究者は指摘します。村上各家に保存されてきた文書は、膨大な文書の中から各家にとって、残しておく価値ありと判断されたものが保存されてきました。それは、戦時に各大名から戦功を賞して与えられた感状や安堵状です。輸送業務部門の日常的な記録は、意味のないものだったのかもしれません。今に残る村上氏関係文書は、戦時における一族の軍事行動を知るのには、つごうのいい史料です。しかし、そこから平時の姿を知ろうとすると、何も見えてこないということになります。

牡蠣と室津の遊女 | 魔女の薬草便

法然上人絵図に登場する中世の舟(室津) 


 日常的に営まれていた村上氏の海上輸送活動姿を知ろうとすれば、それ以外の史料を探さなければならないようです。そのような種類の文書として、研究者が目を付けるのが厳島神社や高野山に残る文書です
「高野山上蔵院文書」を見てみましょう。
上蔵院は、高野山上の寺院のひとつで、伊予からの参拝者の宿坊でした。そのため伊予の豪族たちが高野山参詣の際に利用し、その関係文書が数多く残されていています。その数は約130通にのぼり、時代は天文から天正にかけての戦国時代50年間に渡るようです。
 領主達と上蔵院には、次のような関係がありました。
①上蔵院からは高野聖が仏具や日用品を携えて伊予に出向き、領主の間を巡回しお札などを配り、冥加金を集金する
②伊予からは領主たちが彼ら高野聖を先達にして高野山に参詣をとげ、その際には、上蔵院を宿坊して利用する
  中世以来の高野の聖たちによって「高野山=死霊の赴く聖地」「納骨の霊場」信仰が広められてきました。私たちが高野山奥の院に見る戦国大名たちの墓石が林立する光景は、高野聖の布教活動の成果とも云えるようです。

 上蔵寺の史料に、領主として名前があるのは、河野氏をはじめとし、周敷郡の黒川氏、桑村郡の櫛部氏・壬生川氏、野間郡の来島村上氏、風早郡の得居氏、和気郡の大内氏、温泉郡の松末氏、久米郡の角田(志津川)氏、伊予郡の垣生氏、浮穴郡の上居・平岡・相原・戒能などです。彼らは、戦国領主の河野氏の家臣団を構成する国人級領主たちです。地域的には河野氏の膝下である中予を中心にして、 一部東予地域までひろがっています。「上蔵院文書」によって、戦国後期に伊予国と高野山との間に、日常的な交流のあったことが分かります。

領主達は高野山参りに、どんなルートを使っていたのでしょうか?
中世の熊野詣には、熊野海賊の船が定期的に大三島の大山祇神社までやって来ていたとされます。伊予から熊野へは舟が用いられていたようです。そうだとすると、高野山詣でにも海上交通が使われていたことが予想できます。
 そのような視点で先ほど紹介した領主たちを見てみると、自前の舟で瀬戸内海を航行していく水運力を持っているのは来島村上氏と、忽那氏くらいです。大部分の豪族たちは、高野山に舟で出かける水運力はないようです。彼らは、どのような舟に乗って高野山を目指したのでしょうか。

DSC03651
一遍上人絵図 (兵庫沖の中世廻船)

その疑問を解く鍵は、来島村上氏にあるようです。

来島氏が戦国期に強力な水軍力を持っていたことはよく知られています。「上蔵院文書」の関連文書の中に、一番登場してくるのも27/130通で来島氏です。上蔵院との交流で中心的役割を果していたのが来島氏だったことがうかがえます。

村上水軍 城郭分布図

内陸の領主たちは、来島村上氏の舟で高野山詣でを行っていことが予想できます。それを裏付けるのが「上蔵院文書」の次の史料です。
尚々彼舟ハさかい(堺)まて直々罷上候間、同道めされ候て可然存候 一筆令申候、乃此時分御帰山候哉、然者(  ?  )船愛元罷下候迄中途より借くれ、御祝言之御座船に被仕立候、彼船弐十日比過候ハヽ可罷上候間、御乗船候て可然之由候、たしかなる舟之事候間、申小輔□被申付上乗にまて堅固候之条、於御上者彼船二御乗候様二内々御支度干要候、某より内茂可申由候間、以書状申候、くハしく御返事二可蒙仰候、恐々謹言
六月十五日                                通康(花押)
高音寺御同宿中
                     来嶋右衛間大夫
高音寺                                       通康
御同宿中                                    
  意訳変換しておくと
この舟は堺に直接向かいますので、乗船をお勧めします。
次のことを連絡いたします。この度の高野山への帰山の船便については、事情によって能島村上氏から借用した船を使用します。御祝言の御座船に仕立てるため20日後には準備が整い出港予定です。身元の確かな舟で、上乗も付いて堅固で安全です。この舟に乗船できるように手配をしますので、準備をしてください。詳しくは御返事をお待ちしています。恐々謹言
文書の背景は次の通りです。
①文書の発給者・来島通康は、来島村上氏の中心人物で河野氏の重臣
②来島通康の死没年は永禄十年(1567)なので、文書発給年は永禄初年頃
③宛先の高音寺は和気郡内の真言宗寺院(現在松山市高木町)。

文書の内容は、伊予国にやって来ていた高野山上蔵院の僧侶に、帰路の便船の案内を伝える私信です。ここには、興味深い点がいくつか含まれています。
和船とは - コトバンク
遣明船に使われた船

第一は、来島村上氏は所有する船を、旅客船として運用していること。
この場合は、たまたま事情によって能島村上氏から借用した船を使用しています。戦時には軍船となる舟が平時には、御座船として使われ、さらにそこに旅客も乗せようとしています。水軍的側面ばかりが強調されていた来島氏の平時の姿を知る上で興味深い史料です。
第二に、その船が泉州堺に「直々罷上」る直行便であったこと
ここからは伊予からの高野山参拝コースは、船で堺に至り、そこから陸路をとったということが分かります。その前提として、来島氏は伊予から堺までの瀬戸内海航路の通行権を確保していたということになります。さらに推測すると、戦国期の伊予近海と畿内との間は海上交通で結ばれていて、海賊衆来島村上氏は、そこに持舟を就航させていたことがうかがえます。以前に、塩飽本島の塩飽海賊が定期的に畿内との旅客船を運用し、周辺から旅客が集まってきていたことを見ましたが、それと同じような動きです。
来島村上氏をはじめとする海賊衆は、どのような目的で伊予・堺航路に舟を就航させていたのでしょうか
高野山へ参詣する武将や、伊予国にやってくる高野聖を運ぶのが目的ではないはずです。高野山参拝は、たまたまつごうのいい便船を利用しているのにすぎません。通康書状の便船は「御祝言之御座船」という文言があるので、河野氏の上京のために用意された船かもしれません。これは特別な舟で、大部分の船にはもっと別の目的があったはずです。研究者はある種の商業活動を海賊衆がおこなっていたと考えているようです。
 しかし、そのことを「上蔵院文書」で証明することはできません。「上蔵院文書」が語っているのは、来島や能島の村上氏をはじめとする海賊衆の船が頻繁に瀬戸内海を航行し、堺と伊予との間を行き来していたという事実です。

DSC03568厳島神社の舫い船
一遍上人絵伝に出てくる宮島湊の舫い船

村上武吉の花押がある「厳島野坂文書」の文書を見てみましょう。
預御状本望存候、乃去年至御島並廿日市、吾等家頼之者共所用候而罷渡候処二、無意趣二御島之衆被打果候事、無御心元存候、其節以使札申入候之処二、無御分別之通承候、然上者重而不及申達候、彼孫三郎親類共佗言申儀も可有之候、為我等不及下知候、御分別可目出候、猶御使者江申入候条省略候、恐々謹言
十月八日                                  武吉(花押)
棚守左近将監殿参 御返報
意訳変換しておくと
 去年、わが能島村上一族の者が「所用」のため宮島・廿日市に赴いていたところ、島衆によって討ち果たされるよいう事件が起きている。これに対して、使者を派遣して対処を申し入れたが、その後に何の連絡もない。これはあまりにも無分別な対応であるので、重ねて申し入れをおこなう次第である。殺された孫三郎の親類からの抗議もあり、私も捨て置くわけにはいかない。適切な対応をとり、使者に伝えていただきたい。

 村上武吉が厳島神社社家棚守氏に対して、能島の「家頼」と厳島衆のトラブルについての対応を申し入れた書状です。
ここで研究者が注目するのは、能島の「家頼」が「所用」があって「御島並廿日市市」に赴いていることです。その「所用」の内容は分かりませんが、「伊予衆」が参詣に名をかりて日常的に厳島へ「着津」し、商業活動を行っていた研究者は推測します。廿日市は厳島近海の地域経済の拠点で、その名の通り定期市が立ち、活発な経済活動が行われていた所です。「所用」とは、何らかの交易に関係するものであったとすると、能島氏は広島湾岸の宮島周辺にも進出して、「商売」を行っていた可能性があります。

村上水軍 テリトリー図3

以上、高野山と宮島厳島神社に残された文書からは、次のようなことが分かります。
第1に、来島村上氏や能島村上氏などの海賊衆も瀬戸内海海運に従事していたこと。
第2に、来島氏の堺―伊予航路の水運も商業活動をともなうものであった可能性が高いこと。
第3に、村上氏の活動エリアは、堺を中心とした畿内経済圏、四国松山の堀江を中心とした伊予エリア、宮島・十日市等を拠点とした安芸エリアなど、瀬戸内海の広い範囲に及んでいたこと

以上からは、海賊衆がただ単に警固活動をだけを生業としていたのではなく、海上交通や交易の担い手として平時には活動していたことが見えてきます。それを最後に振り返っておきます。
 文安二年(1445)の『兵庫北関入船納帳』には、東寺領弓削島荘に籍をおく船舶が、特産物である塩を積荷として活発な水運活動を展開していることが分かります。その担い手は、太郎衛門に代表されるような有力船頭たちです。彼らは、200石積の当時としては大型船で毎月のように畿内との間を往復しています。

そして、15世紀になると能島・来島・因島の各村上氏が史料上に姿を見せるようになります
弓削島荘では、小早川氏の「乱暴狼藉」に対応するために、東寺は海賊衆の村上右衛門尉やその子治部進が請負代官と契約を結んでいます。『入船納帳』に記録された弓削籍船の活発な活動と、これは同時代のことです。つまり、弓削島荘の経営を任され、それを舟で輸送していたのも村上氏ということになります。制海権を握る海賊衆の許可なしには、安全な航海はできなのですから。彼らは、荘園の請負代官として収取した年貢物(塩)を自らの舟で畿内に運びこみ、畿内市場で換貨してその代貨の一部を荘園領主に銭納していたと研究者は考えいます。
  戦国期になると、伊予の戦国領主河野氏配下の領主たちは高野山参詣を活発に行うようになります。
その参拝は、河野氏の重臣となっていた来島村上氏の舟で行われていました。来島氏は伊予から堺までの畿内ルートを確保し、定期的に便船を運航していたことが推測できます。
 能島村上氏も厳島の対岸十日市に、「所用」と称して家臣を遣わし商業活動を行っていました。宮島と堺は、来島村上氏によって舟で結ばれていたことがうかがえます。畿内へ向けての活発な水運活動の背景にも、商業活動があったようです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
山内譲 中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運 瀬戸内海地域史研究 第1号 1987年

村上水軍

村上水軍は村上武吉の時に最大勢力を持つようになります。
しかし、秀吉に睨まれ瀬戸内海から追放され、さらに関ヶ原の戦いで毛利方が敗れることで村上水軍の「大離散」が始まります。その後の「海の武士(海賊衆)」のたどった道に興味があります。今回は、武吉の「家老的な存在」として仕えた島氏を追ってみたいと思います 

 能島村上氏の実態を知る一つの道は、家臣団について知ることです。しかし、村上家臣団は近世初頭に事実上解体してしまいました。そのため史料に乏しく家臣団研究は余り進んでこなかったようです。そんな中で、村上島氏は、根本史料『島家遺事』を残しています。これにもとづいて島氏を見ていくことにしましょう。テキストは  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年」です。
村上武吉

関ケ原での西軍の敗北は、能島村上水軍の解体を決定的なものにしました。
村上水軍の解体過程
能島村上水軍の解体過程

村上氏の主家毛利氏は責任を問われて、中国8ケ国120万石から防長2か国36石へと1/4に減封されます。このため毛利氏の家中では大幅減封や、「召し放ち」などの大リストラが行われました。親子合わせて2万石と云われた村上武吉の知行も、周防大島1500石への大幅減となります。しかもこの内5百石は広島への年貢返還のために鎌留(年貢徴収禁止)とされます。こうして実際にはかつての知行の1/20、千石以下に減らされてしまいます。村上氏の領地となった大島の和田村や伊保田村では、負担の大きさに耐えきれなくなった住民等が次々と逃亡し、ついには村の人口は半減してしまったと云います。経済的に立ち行かなくなった村上氏の親類被官等は、逃亡したり、他家へ仕官するなど殆ど離散してしまったようです。かつて瀬戸内海に一大勢力を誇った能島村上水軍は、見る影もなく崩壊してしまいました。これが、村上水軍の大離散劇の始まりでした。 
 村上武吉と子の景親まで大島を抜け出し、海に戻ることを恐れた毛利輝元は、村上領を「鎌留」にし、代官を送って海上封鎖を行っています。あくまで武吉たちを周防大島に閉じ込めようとしたのです。このような中で村上家からは家臣等に対して、次のような触書が出されています
「兄弟多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何へ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀」
 
 兄弟の多い者は一人だけ召し抱える。その他はそれぞれの縁者を頼って、何処へなりとも引越しすることを認めるというのです。

村上水軍の頭、武吉はどうして村上家のお墓が集まっている屋代に葬られなかったのだろう? | 周防大島での移住生活
周防大島の村上武吉の墓 

村上氏の老臣・島氏も選択が迫られることになります。
島家では一族談合の上で、若い三男助右衛門が村上家を継いで大島に残ることにします。そして、長男又兵衛(吉知)と二男善兵衛(吉氏)が大島を退去することになります。こうして二人は、主君村上武吉に暇乞いもせず、和佐から直接島を立ち去っています。このため父の越前守吉利は非常に立腹し、一生二人を義絶したと伝えられます。

村上水軍 今治水軍博物館2

島氏の全盛時代を創り出したのは越前守
吉利(23)です。
最初に吉利について振り返っておきます。吉利は村上中務少輔吉放(22)と来島氏の一族村上丹後守吉房女との間に生まれます。母方の祖父吉房の室は祖父吉久の妹ですから、父母は従兄弟同士になります。ここでは、島吉利が能島村上氏の一族であることを押さえておきます。はじめ吉利は河野氏の家臣であると同時に、村上武吉にも仕えています。海の上の主従関係は西欧の封建制に似ているようです。朱子学の説く「二君に仕えず」とは、ちがう道のようです。村上武吉に主君を一本化するにあたって、吉利は姓を村上から島に改めたと伝えられます。主君との混同を避けたのでしょう。

村上水軍 今治水軍博物館4

 以後、武吉の重臣として、主な戦いに従軍するようになります。
天文24年(1555年)の厳島の戦いでも軍功があったようです。永禄10年(1567年)には毛利・小早川氏の意を受けて、能島村上氏は阿波国の香西氏の拠点であった備前国・児島本太城を攻めます。この時に、吉利も敵将・香西又五郎を討つなどして、これを攻略し在番として詰めます。ところが翌年に、畿内の三好氏の後援を受けた讃岐・香西氏の軍が海を越えて反撃してくると苦境に立たされます。その打開策として、豊後国の大友氏家臣の田原親賢と懇意であった吉利が大友氏へ和睦仲介要請の使者として出向きます。そして、香西氏との和睦を成立させます。

村上水軍5

 阿波衆の攻撃を撃退した吉利に村上武吉や小早川隆景から感状を与えられています。(島文書五、八号)。そして、2年後の同十三年には、武吉から元太城付近に田一町五反分を支給され、本太城主に任命されます。しかしその後、能島村上氏は大友氏との関係を深め反毛利の姿勢を示すようになり、そのため毛利家臣・小早川隆景によって侵攻を受け本太城は落城します。

村上水軍 テリトリー図
村上武吉時代の瀬戸内海沿岸の情勢
 以上から、吉利が武吉の家老として毛利氏・小早川氏と書簡のやりとりするとともに、豊後大友氏との間も往来して外交活動を行っていたことがうかがえます。(島文書十九・二十号)。海の武士(海賊衆)の広域的な活動と、吉利の外交的な手腕がうかがえます。

大友氏への接近策の背景は?
 元亀・天正中頃になると、大友氏の宿老田原親賢の一字を得て名も一時賢久と変えています。また、天正年間初期には、大友義統に八朔の祝儀を贈っていて、この時期には武吉の意を受けて大伴氏への接近を図っていたようです。
 この時期は村上武吉が永禄十二年の大友内通事件を責められて、小早川隆景や来島通総から包囲攻撃を受けていた頃でした。能島の村上武吉は天正四年(1576)には毛利方に復帰しますが、依然として大友氏との関係を維持します。その仲介を担ったのが島氏です。例えば年未詳十一月、大友義鎮は島中務少輔(吉利)に宛てた書状からは、吉利が武吉の使者として豊後に赴き、長期間在国していたことが分かります。この他にも、また島吉利は大友家臣・田原親賢との間で多くの文書をやりとりを残しています。

村上水軍 島家の小海城
村上島氏の居城とされる大三島の小海城址

 海の武士(海賊大将)として生きていくという武吉の生き様は、海を自由に支配する「村上海洋帝国」の建設を目指したものだと私は考えています。その芸予諸島に進出する勢力を叩くために、自らをニュートラルな立場においておくことが外交戦略であったようです。そのためには、一人の主君に一生忠義を尽くすなどという朱子学的な関係は考えもしなかったでしょう。そのような武吉の立場を理解しながら、彼を使ったのが小早川隆景です。武吉は小早川にあるときには牙をむきながらも、隆景にうまく飼い慣らされていったのかもしれません。

村上水軍 水軍の舟
 小早川方に復帰した村上水軍は、天正四年(1576)の石山本願寺兵糧入れを命じられますが、これにも島吉利は従軍しています。さらには、朝鮮出兵には村上元吉に従って文禄の役に出陣しています。まさに武吉を支えた家老にふさわしい働きぶりです。その後は、武吉に従って周防大島に移り、慶長七年(1602)七月八日に森村で亡くなっています。法名天祐院順信尚賢居土(島系図)。

村上水軍島越前守(吉利)の顕彰碑
島吉利の顕彰碑 

島越前守吉利の顕彰碑は、周防大島の伊保田港を見下ろす小さな墓地にあります。
 墓地の中に土地の人々から「まるこの墓」と呼ばれる石碑が遠く伊予を望んで立っています。これが能島村上氏の重臣であった島越前守吉利の顕彰碑です。高さ三尺一寸、横巾一尺三寸の石の角柱の前面には「越前守島君碑」と隷字で彫られています。残る三面には各面に8行ずつ島氏の由緒と越前守の事績とが466字で刻まれています。これは死後すぐに立てられたものではないようです。
 石碑は豊後杵築の住人、島永胤が先祖の事績が消滅してしまうのを恐れて、周防大島の同族島信弘に呼びかけ、幾人かの人々の協力を得て、文化十(1813)年に建立したものです。死後約2百年後のことです。
村上島氏系図1

系図を見ながら島越前守碑銘文の前文を見ておきましょう。
本文中の人名番号は、系図番号に符合します。
(正面) 越前守島君碑

左側
君諱吉利、称越前守、村上氏清和之源也、共先左馬 灌頭義日興子朝日共死王事、純忠大節柄柄、千史乗朝日娶得能通村女有身是為義武、育於舅氏、延元帝思父祖之勲、賜栄干豫、居忽那島、子義弘移居能島及務司、属河野氏、以永軍顕、卒子信清甫二歳、家臣為乱、北畠師清村上之源也、来自信濃治之、因承其家襲氏、村上信清遜居沖島、玄孫吉放生君、君剛勇練武事、初為島氏、従其宗武吉撃族名於水戦、助毛利侯、軍
意訳変換しておくと
君の諱は古利、称は越前守で、村上氏清和の子孫である。先祖の先左馬灌頭義日(13)とその子・朝日(14)は共に王事のために命を投げ出しす忠信ぶりであった。朝日は能通村の女を娶り義武(15)をもうけたが、これは母親の舅宅で育てられた。延元帝は義日・朝日の父祖の功績を讃え、忽那島を義信(16)に与えた。
 その子義弘(17)は能島に移り、河野氏に従うようになった。以後は、多くの軍功を挙げた。義弘亡き後、その子信清(18)は2歳だったため、家臣をまとめることは出来ずに、乱を招いた。信清は、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだ。玄孫の吉放(22)は剛勇で武事にもすぐれ、初めて島氏を名乗った。そして、吉利(23)の時に、村上武吉に従うようになり、毛利水軍として活躍するようになった。
   (裏側)
厳島之役有功、児島之役獲阿将香西、小早川侯賞賜剣及金、喩武吉與児島城、即徒干備、石山納根之役及朝鮮之役亦有勢焉、後移周防大島、慶長七年壬寅七月八日病卒干森邑、娶東氏、生四男、曰吉知、曰吉氏、並事来島侯、曰吉方嗣、曰吉繁、出為族、吉中後並事村上氏、 一女適村上義季、君九世之孫信弘為長藩大夫村上之室老、名為南豊杵築藩臣、倶念其祖跡、恐或湮滅莫聞焉、乃相興合議、刻石表之、鳴呼君之功烈
意訳変換しておくと
吉利は厳島の戦いで武功を挙げ、備中児島の戦いでは阿波(讃岐)の香西を撃ち破り、小早川侯から剣や金を賜り、村上武吉からは児島城を与えられた。また石山本願寺戦争や朝鮮の役にも従軍し活躍した。その後、周防大島に移り、慶長七年七月八日に病で亡くなり森村に葬られた。
 吉利は東氏の娘を娶り、長男吉知、次男吉氏、三男吉方 四男吉繁の4人の男子をもうけた。彼らは、それぞれ一族を為し、村上氏を名乗った。吉利の九世後の孫にあたる信弘は、長州藩周防大島の大夫で村上の室老で、南豊杵築藩の島永胤と、ともにその祖跡が消えて亡くなるのを怖れて、協議した結果、石碑として残すことにした。祖君吉利の功は
  (右側)
足自顕干一時也、而況上有殉忠之二祖下有追孝之両孫、功烈忠孝燥映上下、宜乎其能得不朽於後世実、長之於永胤為婦兄、是以應其需、誌家譜之略、又係之銘、銘曰、王朝遺臣南海名族、先歴家難、猶克保禄、世博武毅、舟師精熟、晨立奇功、州人依服、
文化四年卯春二月 肥後前文学脇長之撰
周防   島信弘 建
豊後   島永胤
  意訳変換しておくと
(右側)
偉大である。況や殉忠の二祖に続く両孫たちも功烈忠孝に遜色はない。その名を不朽のものとして後世に伝えるために永胤が婦兄に諮り、誌家に残された家譜を調べ、各家の関係を明らかにした。
内容は後で検討するとして、先にこの越前守吉利の顕彰碑建立の経緯を押さえておきます。

村上水軍 島家
吉利の顕彰碑が建つ周防大島の伊保田

 吉利が亡くなってから約2百年後の文化三年(1806)の春、豊後の島永胤は周防大島の島信弘を訪ねます。そして、越前守吉利が自分たちの共通の先祖であると名乗りをあげ、共に一族の事績を調べ、家譜を確認し、顕彰碑を建てることの同意をとりつけます。その後、豊後に帰国後に義兄脇儀一郎長之(蘭室)に銘文を依頼します。その案文は翌年2月には、永胤の手元に届けられたようです。そこで本文を、豊後杵築藩の三浦主齢黄鶴に依頼して書いてもらいます。正面の題字には大坂の儒者篠崎長兵衛応道の隷字を得ることができました。

村上水軍 早舟

 しかし、豊後と周防との連絡がなかなか進まずに二、三年が過ぎ去ります。永胤が芸讃への船旅のついでに、先の案文と清書助力金とを大島の信弘のもとに届けることができたのは、ようやく文化七年の夏になってのことでした。永胤は、石碑は永く後世に伝えるものなので、大坂でしっかりとした石材を選んで造ることを望みます。
 これに対して信弘は大島白ケ浜に石工いて、どんな細工もできる。また石材も望むものが当地で調達できるというので、全てを任せます。しかし、工事は大巾に遅れ、越前碑が建ったのは文化十(1813)年のことになりました。発起から完成まで7年近くの年月が経っていました。こうして伊予の芸予諸島に向かって建てられたのがこの顕彰碑になるようです。

村上水軍 軍旗

 同時に、豊後の島永胤は一族の家に残された文書を写し取り、文書を保管します。これが森家文書として伝わる島氏の史料になります。同時に、それらの史料にもとづいて「島家遺事」を著します。島永胤は顕彰碑を建てただけではなく、島一族の文書も収拾保管し、報告書も出したことになります。これは能島村上氏の家臣団の史料としては貴重な資料です。

  さきほどの碑文内容を「島家遺事」でフォローしながら見ていきます
島系図は島越前守吉利(23)を、清和源氏の村上義弘(17)の末裔と記します。義弘(17)についてはいろいろな所伝があるようでうが、詳しいことは分からない人物です。しかし、義弘が南北朝動乱期に南朝方にあり、建武期から正平年間にかけて活躍した瀬戸内の海賊大将の一人であったことは認められるようです。特に貞治四年(1365)から応安二年(1369)までの4年間のことについては、義弘の姉婿今岡陽向軒(四郎通任)の手記によってうかがうことができます。

村上水軍の武具

 義弘の死後、その名跡をめぐって今岡通任と村上師清が争います。天授三年(1377)因島の釣島・箱崎浦の戦いで、村上師清が通任を破り、村上水軍の後継者に成ったとします。島系図には、義弘(17)には信清(18)という男子が記されています。しかし、信清は幼かったため、義弘亡き後の混乱を収めることができず、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだと記します。島氏がのち「島」を名字としたのはこのためだともいわれます。師清は信清を猶子として、よく養育します。信清は長じて左近将監と称して河野氏に仕え、水軍の大将となったと云います。
その後、吉信―吉兼―吉久―吉放と続き、吉利に続きます。
信清については、「三島伝記」に名前が出てくる程度で疑問も多く、実在性も疑われると研究者は考えているようです。しかし、吉信については文明二年(1470)9月17日付、村上官熊(吉信)宛河野教通の知行宛行状(島文書一号)に名前が出てくるので、その実在を確かめることができます。
 系図には、信清には東豊後守吉勝という子があり、その子右近太夫吉重の女が吉利の室となったと云いますが、これは時代的にも疑問があると研究者は考えているようです。
 近世初頭成立の「能島家家頼分限帳」には、親類被官の筆頭に東右近助の名が見え、百石を得ています。また「村上天皇井能嶋根元家筋」には、東氏は能島村上氏の一族で、能島東の丸に住んだため東氏と名乗ったとあります。これはおそらく島氏の系譜に、能島村上氏の系譜を「混入」させたものと研究者は考えているようです。どちらにしても、村上家の系図は村上義弘に「接がれて」いるようです。このあたりの系譜は信じることが出来ません。

村上水軍 島越前守系図3

 吉利の4人の子ども達の行く末を見ていくことにします。
それはある意味、村上水軍解体後の大離散の行く末を追うことにつながります。まずは、周防大島の島氏から見ていきます。
先ほど見たように、周防大島の本家を継いだのは吉利の三男の吉方、通称・六三郎です。母は兄達と同じく村上東右近太夫吉重の娘です。のち周防島氏の家督を相続し、村上家から150石を支給され屋代村で老臣役を勤めます。そして、側室に村上氏の老臣大浜内記の女を迎え、嗣子吉賢が生まれます。しかし周防島氏の直系男子は、五代信利の代で絶え、その跡は三代信賢の孫、医師浅井養宅の子信方・正往が継ぎます。
 顕彰碑の周防大島での責任者である信弘は、正往の長男で、安永七年(1778)に、島家の家督を相続し、文化十年(1813)70歳で亡くなります。つまり越前碑の建設計画は、信弘最晩年の事業であったことになります。

村上水軍 今治水軍博物館

大島を出た吉利の長男吉知と次男吉氏の兄弟のその後を見てみましょう。 
二人は、一千石で肥後の加藤清正に招かれ九州肥後に向かった史料には記されています。その途中で同族の久留島康親(長親)が治める豊後玖珠に立ち寄ります。久留島康親(長親)は来島水軍の後裔で、秀吉時代に来島(今治市)に1万4千石の大名になっていましたが、関ヶ原の戦いで西軍に属して戦いますが、長親の妻の伯父にあたる福島正則の取りなしで家名存続の沙汰を得ます。そして、翌年に、豊後森に旧領と同じ石高で森藩を立藩した所でした。

森陣屋 - お城散歩
豊後森藩陣屋
 そこへやってきたのが島兄弟だったのです。康親は人材登用のために二人に玖珠に留まるよう説得します。結局、康親が吉知に俸禄五百石を提示し、兄弟は加藤家仕官を取りやめて久留島家に仕えることになったようです。史料では玖珠郡大浦・柚木・平立・羽田・野平などで180石を支給され、のちの加増を約束されたとします。しかし、加増は康親の死去で空手形となってしまいます。

村上水軍 来島城
来島(久留島)氏のかつての居城 来島城

 久留島家での吉知の事績はよく分かりません。
ただ元和年間の江戸城築城の際、奉行として江戸へ赴いていたことが文書から確認できます。天下普請へ奉行として派遣されているのですから、藩内ではやり手だったのでしょう。元和八年(1622)に隠居して、寛永五年(1628)に亡くなっています。弟善兵衛吉氏も150石を与えられ、別に一家を立てますが、男子に恵まれず、兄の子官兵衛吉智を養子として家を継がせています。
  吉知の子吉任は大坂の役では、豊臣方からの誘いを密かに受けますが断り、久留島家に留まります
当時久留島家では長親(康親)が没し、世嗣通春は8歳の幼年でした。吉任は大坂出陣を願いますが、許されずに通春の守を命じられます。通春は吉任を深く信頼するようになり、「汝を国老とし大禄を与えん」と戯れたと島家の文書には記されています。(島文書二十六号)。 豊臣家滅亡後の大坂城再築の天下普請には、奉行として大坂に赴き働いています。寛永十四年、島原の乱が起きると、兵を率いて出陣し、同16年、家老に任ぜられ400石を支給されます。主君通春は幼年の時の吉任を覚えていたのかも知れません。
 しかし、それもつかの間で、「故有って書曲村に蟄居」を命じられます。
『島家遺事』は臣下の論ずる所にあらずと、その理由については何も記していません。藩主通春が成長し、親政を始めると伊予以来の譜代の重臣である大林・浅川・二神氏なども次々と職を解かれ、暇をだされているので、その一環だったのかもしれません。
 彼らが再び玖珠に戻り、復権するのは次の通清の時代になってからです。吉任の子吉豊は父とは別途に新しく百石を賜っており、父失脚の歳にも連座せず在勤し、のちには50石の加増を受けています。
その子勝豊は寛文五年(1665)12歳で通清の近習を務め、父知行の内20石を与えられています。
天和二年(1682)久留島靭負(高久)御附となり、さらに靭負が佐伯毛利氏に養子に迎えられると、附侍として二神源人・檜垣文五郎とともに佐伯に赴きます。ところが三人は貞享元年(1684)、突然佐伯から立ち帰り、御暇を願い出ます。どうも靭負や佐伯家中衆との間に、問題を起こして止むなく帰国したようです。三人は直接藩主への弁明を願いますが、藩主の怒りを受けて、召し放ちとなります。

村上水軍 豊後久留島藩 森藩

 勝豊は諸所を流浪の後に、妻の実家片山氏を頼って豊後国東郡安岐郷に移り住みます。
そこで元禄四年(1691)から3年間、日田代官三田次郎右衛門の手代を勤め、それが認められ杵築松平氏から召し出され、速見郡八坂手永の大庄屋役を仰せつかります。こうして藩侯への御目見もすみ、八坂本庄村に居宅を構えます。この措置には、舅片山氏の奔走があったようです。
島吉利の子孫

  八坂は杵築城から八坂川を遡った所にある穀倉地帯でもありました。
勝豊は、その地名をとって八坂清右衛門と名乗り、のち豊島適と号するようになります。八坂手永は石高八千石、村数48ケ村で、杵築藩では大庄屋は地方知行制で、騎士の格式を許されたようです。(「自油翁略譜」)。
 勝豊は男子に恵まれず、国東郡夷村の里正隈井吉本の三男勝任を養子に迎え、娘伝と結婚させます。
少年の頃の勝任は、逸遊を好み三味線を弾く遊び人的な所もあったようですが、 その是非を悟って三味線を火中に投じ、その後は日夜学業に励んだとされます。書に長じ、槍を使い、詩文を好む文化人としての面も持っていました。そのため藩侯松平重休も領内巡察の折には、しばしば勝任を招いて、詩文を交わしたと伝えられます。
 享保元年(1716)、父の職禄を継いで大庄屋となって以後は、勧農に努め、ため池を修復し、灌漑整備に努めます。このため八坂手永では、早魃の害がなかったと云います。その人となりは温雅剛直、廉潔をもって知られ、そのために他人の嫉みを受けることもあったと記されています。(「東皐先生略伝」)。
その後、島氏は代々に渡って、大庄屋を世襲して幕末に至っています。
顕彰碑の発起人となった島永胤は、八坂の大庄屋として若いときから詩文を好み、寛政末年から父陶斎や祖父東皐の詩文集を編集しています。そのような中で先祖のことに考えが及ぶようになり、元祖吉利顕彰のために建碑を思い立ったと研究者は考えているようです。その間に村上島氏に関わる基礎資料を収集して『島家遺事』を編纂し、建碑に備えたのでしょう。そして、文化三年、周防大島の島信弘を訪ねて、文書記録を調査すると共に、建碑への協力を説いたという物語が描けそうです。
八坂村大庄屋の島家は明治になり上州桐生に移ったと伝えられます。その末孫の消息は分かりません。勝豊から永胤に至る、島氏代々の墓は全て八坂千光寺の境内に残っていますが、今は無縁墓になっています。
村上水軍 島家菩提寺千光寺
大分県の八坂千光寺 島家の菩提寺
村上武吉の家老的な存在であった島氏の動きを追ってみました。
名家だけに、その知名度を活かして大名の家臣に再就職することができたようですが、武士として生き抜くことはできず、帰農し大庄屋として生きる道を辿っている点には、豊後も周防の島氏も共通点がありました。以前にお話ししました多度津にやって来て、葛原村を開いた木谷家のことを思い出したりもしました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年
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  2015年5月号 村上水軍と塩飽水軍 ひととき(ウェッジ社)

塩飽水軍といったことばをよく聞きますが、その実態はどうだったのでしょうか?
村上水軍と海賊

芸予の「村上水軍」と同じような海賊衆が塩飽にもいたのでしょうか?芸予諸島を中心に活動した村上衆は、村上武吉の活躍で小説などにも取り上げられ有名です。これと同じように、備讃瀬戸で活動した集団を「塩飽水軍」と称してきました。しかし、研究が進むにつれて分かってきたことは、塩飽衆は村上水軍ほど活発な活動を行っていないということです。
『南海通記』に塩飽と海賊衆について、次のように記されています。
讃州諸島ヲ命ジ給フ、家資即諸島二兵士ヲ遣シテ守シメ、直島塩飽島二我ガ子男ヲ居置テ諸島
ヲ保守シ、海表ノ非常ヲ警衛ス、足宮本氏高原氏ノ祖也
意訳変換しておくと
(香西)家資は讃州諸島の支配を命じられ、備讃諸島に兵士を進駐させて警備させた。直島と塩飽島には息子を置いて守らせ、海上交通の警固を行った。これが、宮本氏や高原氏の祖先である」

ここには、香西家資の息子が塩飽の宮本氏や高原氏の祖と伝えています。確かに、香西氏は備讃瀬戸を中心に海賊衆を統括し、それぞれの島に拠点を構えています。その拠点が塩飽(本島)でした。

1 塩飽本島
方位は北が下

なぜ塩飽が海賊衆の拠点となったのでしょうか?
     
塩飽は備讃瀬戸の中央にあり、古代から畿内と九州を結ぶ海のハイウエーのジャンクションで、同時にサービスエリアのような役割を果たしてきました。それだけでなく「塩の島・荘園」として、年貢塩を輸送するために船と乗組員(海民)がいました。中世の海民は、輸送船団員であり、同時に海賊衆でした。その海民の統率リーダーが、宮本氏や高原氏であたったということになります。
 南北朝期の瀬戸内海の海賊衆の動きを見ておきましょう。
この時期には海賊衆も南北に分かれて対立します。南朝方についたのは海賊衆も多くいました。これは南朝方の熊野水軍と熊野行者のオルグ活動があったからだと考えられます。熊野行者は児島の「新熊野=五流修験」を拠点に、瀬戸内海エリア全体への布教活動を展開したことは以前にお話ししました。そして芸予諸島では、大山祇神社の鎮座する大三島に拠点を築き、そこから伊予の忽那衆や越知氏への浸透を図ります。そのため芸予の海賊衆は南朝方として登場する勢力が多いようです。
  また、備前国児島郡の佐々木信胤も五流修験と連携する熊野海賊衆と行動を共にして、小豆島を占領し、備讃瀬戸を中心とする東瀬戸内海の制海権掌握をねらいます。

南朝勢力に包囲された塩飽
南朝の熊野水軍陣に包囲された塩飽
 このような情勢の中で、塩飽は北朝勢力の拠点でした。
そのため貞和四/正平三(1348)年4月、南朝方の忽那衆の攻撃を受けることになります。戦いの情況はよく分かりません。この時の攻撃対象は塩飽海賊衆の高原氏で、その拠点は本島北東端の笠島にあったと研究者は考えているようです。街並み保全地区に指定された笠島集落の東にある尾根上に山城跡が残されています。
笠島城 - お城散歩
笠島集落の東の尾根にある笠島城址

この城は、本島の水軍(海賊)の拠点山城とされます。
麓の笠島の港町と湾への直接的な支配・管理の意図がはっきりと見える城郭配置がされています。また、この城に籠もる勢力は、陸上交通で他地域とつながる後背地がありません。海上交通だけに頼った集落と山城の立地です。ある意味、村上水軍の能島との共通性を感じることもできます。『南海通記』を信じるとすれば、これが香西氏の子孫になる高階氏の居城で、高松の香西氏と何らかの従属関係にあったと云うことになります。室町期になると、海賊衆は警固衆として守護のもとへ抱え込まれていきます。 
塩飽本島の笠島と山城の関係
塩飽本島の笠島と城郭の関係

室町時代後半になると、守護大名は海上での武装集団として水軍を組織するようになります。

その先駆けが毛利氏と村上氏の関係に見られます。毛利元就は天文二十二(1553)の厳島合戦で陶晴賢を打ち破りますが、この時に毛利側に与して勝利をもたらしたのが、因島・能島・来島の三島村上衆の組織する水軍でした。これは毛利元就の家臣団に属したものではなく、一時的な「援軍」艦隊と考えた方がよさそうです。これを後世の軍記者は「村上水軍」と記すようになります。その実態は、3つの村上氏の「連合艦隊」で、もともとは「寄せ集めの海賊衆」でした。それが永禄年間(1558~70)後半になると、毛利氏の水軍としてまとまりをもって動くようになり、西瀬戸内海一帯で大きな影響力を誇示するようになります。その時のカリスマ的な指導者が能島の村上武吉です。

村上武吉

それでは塩飽水軍の場合はどうなのでしょうか?      
  南北朝期の海賊衆が、どのように水軍に組織化されたかを示す史料はありません。ただ、後に武吉の子孫たちが萩や岩国の毛利藩の家臣となり、船奉行を務めるようになります。彼らは己の家の存在意義のために、「海戦兵法書」や「村上氏の系図類」を残します。この史料が「村上水軍」を天下に知らしめる役割を果たしてきました。

「村上水軍」という用語は、いつ誰がつくりだしたのか
「村上水軍」という用語は、近世に作りされた。

 塩飽衆には、これに類するモノがありません。それは、大名の家臣となるものが居なかったこともあります。彼らは「人名」になりました。塩飽勤番所に大事に保管されているのは、信長・秀吉・家康の朱印状です。ここには、大名の家臣化として生きる道を選んだ村上氏と、幕府の「人名」として、特権的な船乗り集団となった塩飽衆の生き方(渡世)の仕方にも原因があるような気がします。

村上衆と塩飽衆の相違点
村上衆と塩飽衆の相違点
16世紀初頭の備讃瀬戸をめぐる状況をみておきましょう。
永正五(1508)年頃の細川高国の文書には、次のように記されています。
今度忠節に就て、讃岐国料所塩飽島代官職のこと、宛て行うの上は、いささかも粉骨簡要たるべく候、なお石田四郎兵衛尉中すべき候 謹言
卯月十三日          高国(花押)
村上宮内太夫殿
意訳変換しておくと
この度の(永正の錯乱)における忠節に対して、讃岐国料所の塩飽島代官職に任ずる。粉骨砕身して励むように、なお石田四郎兵衛尉申すべき候 謹言
卯月十三日          高国(花押)
村上宮内太夫殿

村上宮内太夫は能島の村上隆勝のことです。これは永正の錯乱に関わる書状のようです。細川高国が周防の大内義興と連携して、細川澄元と争います。その際の義興上洛の時に、警固衆として協力した恩賞として、塩飽代官職を能島の村上隆勝に与えたものです。塩飽は高国政権下では細川家の守護料所でしたが、政権交代で塩飽代官職は安富氏から村上氏へと移ったことが分かります。この代官職がどのようなものであったかは分かりませんが、村上氏へ代官職が移ったのは、瀬戸内海制海権をめぐる細川氏と大内氏の抗争が、大内氏の勝利に終わったことを示します。同時に、それまで備讃瀬戸に権益を持っていた讃岐安富氏の瀬戸内海からの撤退を意味すると坂出市史は指摘します。

個別「藤井崇『大内義興 西国の「覇者」の誕生』」の写真、画像 - 書籍 - k-holy's fotolife

 永生10(1513)年には、周防の大内義興は足利義植を将軍につけ、管領代として権力を得ます。彼は上洛に際して瀬戸内海の制海権掌握のために、村上氏を警固衆に抱え込みます。さらに義興は、能島の村上槍之助を塩飽へ派遣して、味方するよう呼びかけています。これに応じて、香西氏は大内氏に属し、香西氏に従っていた塩飽衆も大内氏のもとへ組み込まれていきます。義興の上洛に協力した村上氏は、恩賞として塩飽代官職を今度は、大内氏から保証されています。これ以降、塩飽は能島村上氏の支配下に入ります。
「周防大内義興 ー 能島 村上槍之助 ー 讃岐 香西氏 ー 塩飽衆」

という支配体制ができたことになります。

大内氏の瀬戸内海覇権

 細川政元の死去によって、大内氏の勢力は大きく伸張します。
細川氏の支配地域が次々と大内氏に奪われていきます。16世紀になると細川氏に代わって大内氏が瀬戸内海での海上勢力を伸張させていき、備讃瀬戸の塩飽も抱え込んだのです。大内氏は能島村上氏を使って、瀬戸内海を掌握しようとします。その際に、村上氏にとっても塩飽は、東瀬戸内海進出の足がかりとなる重要な島です。ここに代官職を得た能島村上氏がこれを足がかりにして塩飽を支配するようになります。

大内義興はの経済基盤は、日明貿易にありました。そのために明国との貿易を活発に進めようとします。
その際に、明からの貿易船の警固を村上衆だけでなく、塩飽衆へも求めてきます。また永正17(1520)年大内氏が朝鮮出兵の際には、塩飽から宮本体渡守・同助左衛門・吉田彦左衛門・渡辺氏が兵船3艘で参陣したと『南海通記』は記します。これが本当なら塩飽衆は、瀬戸内海を越え、対馬海峡を渡るだけの船と操船技術をもっていたことになります。 大内氏の塩飽衆抱え込みは、日明貿易の貿易船警固だけでなく、朝鮮への渡海役も視野に入れていたようです。

大内氏の塩飽抱え込みのねらいは

天文十八(1549)年、三好好長慶が管領細川晴元と対立した時のことです。
香西元成は晴元に味方して摂津中島に出陣します。この時に塩飽の吉田・宮本氏は、元成の命で兵船を率いて出陣しています。このように、畿内への讃岐兵の輸送には、船が用いられています。西讃岐守護代の香川氏も山路(地)氏という海賊衆を傘下に持ち、山路氏の船で、畿内に渡っていたことは以前にお話ししました。塩飽衆も香西衆の輸送を担当していたようです。

元亀二(1571)年2月、備前児島での毛利氏との戦いにも、塩飽衆は輸送船団を提供しています。
また、毛利氏と敵対した能島村上氏が、拠点の能島城を包囲された時には、阿波の岡田権左衛門とともに兵糧を運び込んでいます。

村上隆勝が塩飽代官職を得て以降、武吉の代になっても村上氏による塩飽支配が続いていたことは次の文書から分かります。
本田治部少輔方罷り上られるにおいては、便舟の儀、異乱有るべからず候、そのため折紙を以て申し候、恐々謹言
永禄十三年六月十五日                                武吉(花押)
塩飽島廻船
意訳変換しておくと
(大友宗麟の命を受けて)本田治部少輔様が上京する際の船に対して違乱を働くな、折紙をつけて申しつける。
永禄十三(1570)年六月十五日                 武吉(花押)
塩飽島廻船

本田治部少輔は、豊後国海部郡臼杵荘を本貫地とする大友宗麟の家臣です。彼は大友家の使者として各地を往来していました。花押のある武吉は能島の村上武吉です。船の準備と警固を命じられているのは塩飽衆です。
ここからは次のようなことが分かります。
①塩飽衆が、能島村上武吉の管理下にあったこと
②塩飽衆が平常は、備讃瀬戸を航行する船に「違乱」を働いていたこと
③それを知っている村上武吉が、本田治部少輔の船には「違乱」をせず、無事に通過させよと指示していること
この指示に対して、宗麟は村上衆に「塩飽表に至る現形あり、おのおの心底顕されるの段感悦候」と書状を送っています。また、堺津への使節派遣にあたり、堺津への無事通行の保障と塩飽津公事の免除を求めています。その際のお礼として甲冑・太刀を贈って礼儀を尽くしています。
 瀬戸内海を航行する船にとって、備讃瀬戸は脅威の海域であり、芸予と塩飽を支配している村上氏に対しての礼儀を尽くすのが慣例になっていたようです。
西国大名たちには、瀬戸内海を航行する時に西瀬戸内海と東瀬戸内海の接点になる塩飽諸島は重要な島でした。そこを支配している村上氏の承認なくして、安全な航行はできなかったようです。
 村上掃部頭に宛てられた毛利元就・隆元連署状には次のように記されています。

一筆啓せしめ候、櫛橋備後守罷り越し候、塩飽まで上乗りに雇い候、案内申し候」
意訳変換しておくと
一筆啓せしめ候、櫛橋備後守の瀬戸内海通行について、塩飽まで「上乗り(水先案内人)」を雇って、案内して欲しい

ここには、塩飽までの航海について、水先案内人をつけて航路の安全通行確保と警固依頼をしています。命じているのではなく依頼しているのです。ここにも能島村上衆が毛利の直接の家臣ではなく、独立した海賊衆として存在していたことがうかがえます。塩飽をめぐって大名たちは、自分たちに有利な形で取り込みを図ろうとします。それだけ塩飽の存在が重要であったことの裏返しになります。

  永禄から元亀年間(1558~73)にかけて、瀬戸内海をめぐる情勢が大きく変化します。
安芸の毛利氏は、永禄九(1566)年に、山陰の尼子氏を滅ばし、その勢力は九州北部から備中まで及ぶようになります。毛利氏に対抗するように備前・播磨に浦上・宇喜多氏が勢力を伸ばします。このような中、元亀二(1571)年になると、毛利氏は浦上・宇喜多を討つために備前侵入を開始します。すでに備前・備中の国境近くの備前国児島の元太城は毛利方の支配下に落ちていました。
元太城は海中に突き出た天神鼻の半島部に位置し、三方が海に面した要害の地です。
この年五月、阿波三好氏の家臣で讃岐を支配していた篠原長房は、阿波・讃岐の兵を率いて備前児島の日比・渋川・下津丼の三ヵ所ヘ上陸します。下津丼に上陸した香西元載は、日比城主・四宮行清と合流し島吉利が守る元太城を攻撃します。東の堀切まで攻め寄せた時、急に激しい雨と濃霧に包まれた中で、城兵の逆襲にあい、香西元載は打ちとられ、四宮氏も敗走したと『南海通記』は記します。そして阿讃勢は児島から撤退します。
 これに対して、足利義昭は小早川隆景に対して6月12日付けの文書で、毛利に亡命中の「香川某」を支援して讃岐に攻め込むことを要請しています。
児島での合戦に塩飽は、どのように関わっていたのでしょうか。
塩飽衆は早くから香西氏の支配下にあったことは述べてきました。そのため児島攻めには直島の高原氏とともに、阿讃勢を児島へと輸送しています。しかし、この時期の塩飽は村上氏の支配下にありました。そのため毛利氏は村上氏を通じて、塩飽を味方につけるために動きます。ところが能島の村上武吉は、裏では周防の大内氏や阿波の三好氏とつながっていたようです。複雑怪奇です。

 それに気づいていた毛利氏は、能島村上氏の支配下にある塩飽の動向には十分注意しています。塩飽衆の中には、三好氏配下の香西氏に従う者もいたからです。そのために毛利氏がとったのが塩飽衆の抱え込み工作です。小早川隆景は、乃美宗勝にこの任務を命じます。宗勝は、後の石山本願寺戦争の際の木津川の戦いで大活躍する人物で、小説「海賊の娘」にも印象的に描かれています。また、その翌年に讃岐の元吉城(琴平町櫛梨城)の攻防戦に、毛利方の大将として多度津に上陸し、三好軍を撃破しています。

 塩飽衆の抱き込み工作の際に、小早川隆景から宗勝に宛てられた書状には次のように記されています。
「塩飽において約束の一人、未だ罷り下るの由候、兎角表裏なすべし段は、申すに及ばず候」

ここには寝返りを約束した塩飽衆が、まだ味方していないことが記されています。さらに六月十三日付の宗勝の書状には「篠右宇見津逗留」とあります。「篠」とは、篠原長房のことで「宇見津」は宇多津のことで、篠原長房は児島から宇多津へ撤退しており、長房が再度備前へ渡海することはないと判断する報告をしています。

以上、だらだらと村上水軍と「塩飽水軍」を対比しながら見てきました。両者には決定的な違いがあると坂出市史は、次のように記します。
①塩飽衆は軍事力を持つ集団ではなく、輸送船団である
②塩飽衆は村上水軍のような強大な軍事力は持つていない。
③むしろ操船技術・航海術に長けた集団で、水主として輸送力の存在が大きかった
④船舶は持っているが、軍船というより輸送船が中心で、海戦を行うだけの人員はいなかった。
⑤戦時に船と水主が動員されるのであり、戦闘集団いわゆる水軍としての組織は十分ではなかった。
塩飽海賊は水軍ではなく輸送船団だった
塩飽水軍と呼べない理由
 整理しておくと、塩飽衆は時の権力者に海上輸送力を利用され、その存在が注目され、誇示されるようになります。それが江戸時代の人名制という特権の上に誇張され、「塩飽水軍」という幻が作り出されたとしておきましょう。
このように塩飽は、信長や秀吉がその勢力を瀬戸内海に伸ばしてくる以前から、瀬戸内海制海権の覇権上最重要ポイントでした。そのため毛利と対抗するようになった信長は、塩飽の抱き込み工作を計ります。また、四国・九州平定から朝鮮出兵を考える秀吉も、塩飽を直轄地として支配し、「若き海の司令官」と宣教師から呼ばれた小西行長の管理下に置くことになります。その際に、東からやって来た信長・秀吉・家康は、塩飽(本島)だけを単独で考えるのではなく、小豆島と一体のものとして認識し、支配体制を作り上げていったと坂出市史はしてきます。

       最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 塩飽衆は、中世から近世への激怒期の中を本拠地を失わず、港も船も維持したまま時代の変動を乗り切りました。「人名」して特権を持つだけでなく、「幕府専属の船方役」として交易活動を有利に展開する立場を得ました。それが、多くの富を塩飽にもたらしたのです。ある意味、海賊衆の中では「世渡り上手」だったのかもしれません。
 それでは村上水軍の領主たちは、どんな選択を選んだのでしょうか
3村上水軍
まずは能島の村上武吉の動きを見てみましょう。
 村上水軍の運命を大きく左右したのは、秀吉が出した海賊禁止令です。前回も触れましたがこの禁止令は天正十六(1588)年に、刀狩令と一緒に出されています。全国統一をすすめてきた秀吉にとって「海の平和」の実現で、全国的な交易活動の自由を保証するものでした。ある意味、信長が進めた「楽市楽座」構想の仕上げとも云えます。そして「海の刀狩り」とも云われるようです。
 しかし、海賊衆にとっては、「営業活動の自由」の禁止です。水軍力を駆使した警固活動や、関役・上乗りなどの経済的特権も海賊行為として取り締まりの対象となりました。

3村上武吉水軍3
 
村上武吉は、これに従いません。秀吉の命に背いて密かに関銭を取り続けます。秀吉は激昂し、武吉の首を要求しますが、この時も小早川隆景の必死の取り成しで、どうにか首はつなぎとめることができたようです。
3 村上水軍 海賊禁止令
一 かねがね海賊を停止しているにもかかわらず、瀬戸内海の斎島(いつきしま 現広島県豊田郡豊浜町)で起きたのは曲事である。
一 海で生きてきた者を、その土地土地の地頭や代官が調べ上げて管理し、海賊をしない旨の誓書を出させ、連判状を国主である大名が取り集めて秀吉に提出せよ。
一 今後海賊が生じた場合は、地域の領主の責任として、土地などを取り上げる
 天下を取った秀吉は、能島村上を名乗る海賊衆に対して徹底した弾圧解体作戦でのぞみます。能島の水軍城は焼き払われます。
3村上水軍nosima 2
武吉の拠点 能島
海賊達は「失業」しますが、多くの大名たちは秀吉の威光を恐れて、警固衆として雇い入れていた能島海賊衆を見捨てます。そんな中で陰に陽に武吉を庇ったのは小早川隆景だったようです。そのために隆景までもが秀吉に睨まれて、彼の政治的立場も一時危うくなりかけたことがあったようです。しかし、隆景は最後まで義理を通して武吉を守ります。そのためか村上水軍の記録には、
隆景評として「まことに智略に富み人情厚き武将だった」
と記されています。小早川隆景が筑前に転封されると、武吉も筑前に移ります。 
3村上武吉水軍43

 能島村上は拠点と総領を奪われ「海賊組織」は完全に解体させらたことになります。多くの「海賊関係者」が「離職」するだけでなく、住んでいた土地も住居も奪われます。こうして村上衆の離散が始まるのです。それは、後に見ることにして武吉のその後をもう少し追いかけます。
 筑前に移った武吉ですが、秀吉が朝鮮攻めで名護屋城に行くために筑前に立ち寄る際には「目障りになる」と、わざわざ長門の寒村に移住させられています。そこまで秀吉に嫌われていたようです。秀吉の死で、ようやく気兼ねすることがなくなります。
武吉の晩年は周防大島
 晩年は、毛利氏の転建先である長州の周防大島の和田に千石余の領地をあたえられます。ここが武吉の最後の住み家となったようです。海賊大将の武吉は、関ヶ原の戦いの4年後の1604年8月、海が見える館で永眠します。彼が故郷能島に帰れることはありませんでした。
3村上武吉墓2
菩提寺と墓は次男景親が和田に建立しています。武吉の墓と並んで妻の墓があります。これは武吉にとっては三人目の妻の墓で、大島出身の女であったようです。
 以後の能島村上氏は、毛利家に使える御船手組頭役して生きていくことになります。つまり、毛利の家臣となったのです。天下泰平になると、この家の当主達は伝来する水軍戦術を兵法書にしたためます。これが今に伝わることになるようです。
3村上水軍3
 一方、いち早く秀吉側についたのが来島村上氏です。
時代は、石山合戦の「木津川(きづかわ)口海戦」までもどります。この時に村上武吉の率いる毛利水軍にコテンパンにやられた信長は、秀吉に命じて、村上水軍の分断工作を行わせます。秀吉が目がつけたのは、来島村上でした。巧みな工作が成功し、天正十年(1582年)三月、来島の村上通総は、本能寺の変の直前に信長方に寝返ります。これに対して能島、因島、毛利の連合軍は、来島村上氏の居城や各地の所領を一挙に攻撃します。村上通総は風雨に紛れ、京都の秀吉の陣を目指し脱出する羽目になります。
 天正十二年(1584年)、信長死後の跡目争いに勝ち残った秀吉は、その傘下に入ってきた毛利氏に対し、来島と改姓した通総を伊予国に帰国させることを命じています。通総は、秀吉に気に入られて「来島(正しくは来嶋)」の名を与えられ、歓喜した通総は翌年の秀吉の四国征伐では小早川隆景の指揮下で先鋒をつとめ活躍します。伊予の名族・河野氏を滅ぼし、新たな領主となった通総は、鹿島(現北条市)を居城に風早郡、旧領野間郡とあわせ一万四千石の所領を与えられることになったのです。これは来島村上「水軍=海賊」が、秀吉によって大名に取り立てられたということになるのでしょう。
 元「村上海賊」の来島通総は、秀吉の九州征伐や小田原征伐にも水軍を率いて従軍し、各地で戦功をたてています。朝鮮出兵にも水軍として出陣し、李氏朝鮮の李舜臣(イ・スンシ)率いる水軍との間で何度も戦っています。しかし、朝鮮火砲の威力と砲艦「亀甲船」の登場による火力の差で、日本水軍は連敗を続けます。来島村上一族の多くが、異国の海で命を失っています。
 来島氏は、関ヶ原合戦で一時西軍につきました。
3村上kurusima水軍3

そのため翌年に、豊後国森藩(大分県玖珠郡玖珠町)一万四千石へと転封となります。取りつぶしにならなかっただけでも幸いだったかもしれませんが、瀬戸内の「海賊」の旗を掲げ続けた最後の村上氏は、周りに海をもたない山間の地に移ることになったのです。そして名前も来島氏から「久留嶋(くるしま)」氏と改称することを余儀なくされます。こうして来島通総の子孫は、海と「海賊」の名を捨てることで、山の中で近世大名へと脱皮していきます。

3 村上来島陣屋kurushima-jinya_01_2146
来島氏の陣屋跡

●最後に因島の村上氏を見ておきましょう
海賊大将の能島村上武吉は、秀吉の横槍を受けて、瀬戸内海から追放されてしまいましたが、因島村上氏は小早川隆景に属して「海の武士」として因島・向島を領有していました。そのため、その後も勢力を維持することができました。
 しかし、慶長五年(1600)の「関ヶ原の戦い」で、毛利輝元は豊臣方の総大将を務めました。その結果、毛利氏は長門と周防の二国以外の領地はすべて没収処分されます。多くの家臣団が、毛利氏に従って長門に移住していきました。因島村上氏も芸予諸島から立ち去ることを余儀なくされます。その後、子孫は能島村上氏系船手衆の支配下に入り、代々世襲して明治維新に至ったようです。

以上を、総括すると
「海賊禁止令」後の村上水軍の末裔は、次のような路を歩んだことになります。
①来島村上    秀吉に従って大名となる
②能島・因島村上  毛利の家臣となる
しかし、これは豊臣権力と妥協して生きのびた武将クラスの藩士です。村上水軍の実戦部隊だった下級水夫たちの末路は、どうなったのでしょうか。次回は、それを探って行くことにします。

参考文献 橋詰 「中世の瀬戸内 海の時代」

 
塩飽勤番所

 塩飽本島の春の島遍路に参加し突然の雨にあいました。雨宿りのために緊急避難したのが塩飽勤番所でした。誰もいない中、寒さに震えながら最終便のフェリーを待っていました。少し落ち着いてきたので、管内を見せてもらって驚いたのは「信長・秀吉・家康」の三人の朱印状がここにはあるのです。
3塩飽 朱印状3人分

びっくりしました。もちろんホンモノは塩飽勤番所に御朱印蔵と呼ばれる蔵を作り、石の櫃の中に入れて保存されています。なぜ、ここに3人の朱印状があるのだろう。彼らにとって、塩飽の重要性とはなんだったろうかという疑問が私の中でわいてきたのを思い出します。そんなわけで長年放置されてきた疑問に向き合うことにします。

 まずは塩飽本島の地理的・戦略的な位置について確認しておきましょう。

3 塩飽 tizu
備前・備中と讃岐との真ん中にあるのが塩飽です。瀬戸内海を行き来する船を監視するには、塩飽を押さえれば北側を航行しようが南側を航行しようが監視しやすい島です。室町時代は、細川家が備中と讃岐の守護を世襲化し、この本島を中心に瀬戸内海西部を押さえていました。その力が弱まってくると、新たな勢力による争奪戦が始まります。そして、西から芸予諸島の勢力が及ぶようになります。
  〔屋代島村上文書〕細川高国宛行状
 今度忠節に就て、讃岐国料所塩飽代官職のこと、宛て行うの上は、いささかも粉骨簡要たるべく候、なお石田四郎兵衛尉申すべく候、謹言
  卯月十三日       高国(花押)
 村上宮内大夫殿
  花押の主は細川高国で、室町幕府の管領です。「讃岐国料所代官職のこと」とありますが、幕府の直轄地とし村上宮内大夫を塩飽代官に命じたことを示す文書です。代官に任じられた村上宮内大夫は能島村上氏の頭領のようです。当時は因島・来島・能島村上を三島村上と呼び、そのうち最も勢力をもっていたのが能島村上です。この史料からは16世紀の初頭には、塩飽諸島は能島村上氏の支配下にあったことが分かります。
3塩飽地図
  次の史料は塩飽が村上武吉の支配下にあった事を示すものです。
〔野間文書〕村上武吉書状
 本田治部少輔方罷り上らるにおいては、便舟の儀、異乱有るべからず候、そのため折帯をもって申し候、恐々謹言
    永禄十三年
     六月十五日        武吉(花押)
      塩飽島廻舟
時代が下って戦国時代のものです。花押は能島村上の当主・武吉のものです。豊後の戦国大名大友氏の家来である本田治部少輔が都へ上るので、「便舟の儀、異乱有るべからず」と船の便を図ってやるように、村上武吉が塩飽に命じています。ここからも塩飽は、引き続いて村上水軍の支配下にあったことが分かります。信長の勢力が瀬戸内海に及ぶ以前は、塩飽は村上水軍の傘下にあり、命令を受ける立場であったことを確認しておきましょう。
その上で信長の朱印状を見てみましょう。
信長朱印状
堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
  (松井友閃)
   宮内部法印

 印判がすわっていますが、これが信長の有名な「天下布武」の朱印です。実物は初めて見ました。讃岐にかかわりのある信長の朱印状はこれだけだそうです。この朱印状についての従来の説は、
 船から七五尋の範囲は塩飽船以外はいっさい航行できない。港に入ってもその周囲の船はよけろという特権をもっていた。その
「触れ掛り特権」を信長が再確認したのだ、
といわれていました。館内の説明書きもそう書かれています。「触れ掛か特権」とは
「堺港への上り下りの塩飽船は航行中にても碇泊中にても船網七五尋の海面を占有することのできる権利」
で、これを侵したものに対しては「成敗」することを塩飽側に認めたものされてきました。しかし、「触れ掛り」特権を示す史料はありません。言い伝えをもとに「触れ掛り」特権を塩飽衆が主張してきたにすぎないようです。
 そのために再検討が必要だと研究者は考えているようです。
まず、朱印状の出された背景や時期を考えなければならないというのです。時期は、石山本願寺との宗教戦争の真っ最中です。本願寺は生き残りのために、各地へ檄を飛ばして兵糧や軍資金を納入しろと命じます。それに応えて、讃岐からも宇多津の西光寺は、青銅七〇〇貫・米五〇石・大麦小麦一〇石二斗を搬入しています。それに対しての本願寺から礼状が残っています。
 また広島の「安芸一向宗門徒」は、毛利氏と結んで村上水軍の船で大坂へと攻め上り、木津川で信長軍を打ち破ります。それに対して、信長は鉄でできた船を建造して村上水軍に大打撃を与えます。これを石山戦争と呼んでいます。
 瀬戸内海は村上水軍が制海権を握っています。信長は毛利の村上水軍に対抗する海軍力を、東瀬戸内海で作らなければならなかったのです。そこで塩飽に目をつけます。東瀬戸内海の流通圏を握った者が、この戦いに勝てる。そして、天下布武の近道になる。塩飽を抱え込めば、それが可能になると信長は判断したのでしょう。そのような状況下で、この朱印状は出されています。このような背景を押さえて上でもう一度この朱印状を見てみると、以下のような不審点がでてくるようです。
①宛先が塩飽中宛でない。塩飽に対して出された文書でない
②「成敗すべき」とは塩飽船が成敗権を持っていることになるが、当時の法制からみて考えられない。
 以上からこの朱印状の内容は
 塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入に関しては問題なく対処せよ、もし勝手な行動(本願寺に味方する)をしたならば成敗することを、堺奉行の松井友閑に達したもの
  つまり塩飽船の自由特権を認めたものではなく、非本願寺勢力であることを確認した内容とします。 塩飽船は信長の支配下に組み込まれたのです。信長の戦略は、塩飽船を用いて村上水軍による瀬戸内海の流通路の封鎖をはかり、代わって塩飽船に流通路を担わせて瀬戸内海流通路の再編成をはかろうとしていたのです。その責任者である松井友閑に、この朱印状は宛てられています。
 塩飽は信長に服従したのであり、それを違えた場合には成敗すると、読むべしと云うのです。その確認のために、出されたもので塩飽に特権を認めたものではないとします。どちらにせよここで確認しておきたいのは、塩飽は村上側から信長側に移ったということです。以後、信長方の有力船団として働くことになります。
 
 現在塩飽動番所には、次の5点の朱印状が保管されています。
   発行年月      発行者    宛先
 ①天正 五年三月二十六日 織田信長 官内部法印・松井有閑
 ②天正十四年八月二十二日 豊臣秀吉 塩飽年寄中
 ③文禄 元年十月二十三日 豊臣秀次 塩飽所々胎生、代官中
 ④慶長慶長二十八日    徳川家康   塩飽路巾
 ⑤寛永七年八月十六日   徳川     塩飽路中
    
 ②の秀吉の朱印状は天正十四年のものです。
               (仙)
    今度 千(仙)石権兵衛尉俄豊後へ遣わされ侯、然者当島船の事、用捨を加え侯といえども、五十宛乗り候船十嫂分担越すべく候、則ち扶持方下され候間、壱嫂二水主五人宛まかり出ずべく侯也、
      八月廿二日      (秀吉朱印)
    
             塩飽年寄中
3塩飽 秀吉朱印状

「九州討伐」のために千石権兵衛尉(仙石秀久)の軍を豊後へ輸送するために、50人乗る船を10艘、一艘に水主5人を塩飽から出すように命じたものです。仙石秀久は、讃岐領主に任じられたばかりで、塩飽もその領内にありました。彼は九州攻めの四国総大将として出陣し、戸次川の戦いで大敗し失脚していきます。その九州攻めに際しての輸送船の手配命令書です。秀吉の支配下に置かれ、戦いのために船と水主を出すように軍役が課せられているのが分かります。
    薩摩攻めの時には
 御兵狼米ならびに御馬・竹本・その外御用道具、大坂より仙台(川内)へ塩飽船にて積廻し侯様にと、四年寄中へ御付けられ、早遠島中へ船加子の下知これ有り」
と、兵器等の後方支援物資の輸送を塩飽船が担当しています。注意しておきたいのは、村上衆と違っているのは、「水軍ではなく海運」に従事していることです。実際の戦闘には参加していません。
 このように、九州攻め以降は秀吉の支配下に組み込まれ、関東の小田原の後北条氏攻めにも太平洋を越えて兵糧米の輸送を成功させています。
3 塩飽 軍船建造
朝鮮出兵の軍船の建造を命じられた塩飽
 天正十九年(1591)秀吉は朝鮮侵略の準備として、全国の大名に船舶の建造を命じています。その一貫として、塩飽で船の建造が始まります。大船建造のためには、舟大工・船頭の技術者が必要となります。そこで、奉行を派遣して職人の徴集を行っています。塩飽に置かれた代官が技術者の募集活動を行った文書が残っています。
  秀吉の甥の秀次の出した朱印状も残されています

3塩飽 秀次朱印状
 ⑥文禄二年(1593)の朱印状です。引退した秀吉に代わって秀家の名前で出されています。朝鮮出兵で多くの兵士が傷ついたのでしょう。その医療部隊として医師35名が佐賀の名護屋城に派遣されることになったようです。そのための船を準備するように命じられています。船の大きさまで指示されています。宛先は「しわく船奉行」となっていますので、この時期には塩飽に、代官が置かれ直接支配が行われいたことが分かります。
3 塩飽AA高部ね
このように塩飽船は、大坂と名護屋を結ぶ連絡船として徴発されたようです。塩飽船奉行の管理下で、瀬戸内海を通じての大坂・名護屋の間の物資・軍兵輸送を塩飽船が担当していたことが分かります。この総括責任者が小西行長になるようです。塩飽は、この時期瀬戸内海航路の管理センターの役割を果たしてのです。他の港とは比較にならない程多くの船と水夫を出しています。まさに中央政権の直接支配下に軍港・後方支援センターとして組み込まれ、多くの人とモノが行き交ったようです。
次が家康の朱印状です

3塩飽 家康朱印状

    関ヶ原の戦いに勝利した直後に出されています。豊臣方は敗れますが、その勢力は西日本には残っています。家康の当時の戦略課題のひとつは「瀬戸内海防衛体制の強化」でした。毛利・島津などの豊臣恩顧の大名たちが刃向かった時に備えるために、沿岸の防衛体制を築く必要がありました。瀬戸内海沿岸の徳川方の大名たちが、海に浮かぶような「水城」を築くのは家康の意向ではなかったかと私は考えています。讃岐を安堵された生駒氏が高松城の築城に本気で取りかかるのも、関ヶ原の戦い以後のことのようです。
 そのような中で、塩飽の戦略的な価値に家康も気づきます。「塩飽を味方につけたい」ということで、塩飽に朱印状が出されます。そして、検地を行って2150石を船方650人に宛行うのです。
 これは秀吉の朱印状を引き継ぐようですが、「六五〇人」は舟方の総数を示すものではないようです。塩飽に対する軍役負担として650人を命じたものと研究者は考えているようです。つまり塩飽においては、いついかなる場合でも650人の舟方が軍役に出ることを義務づけられていたということです。650人は、特定個人をさすのではなく、軍役負担数を示すと研究者は考えているようです。その扶持米として2150石が与えられたのです。秀吉の時の朝鮮出兵などへの動員は、これに基づいた「軍役負担」だったとようです。この650人が江戸時代には「人名」と称されるようになっていきます。そして人名制という新たな制度で、塩飽は統治されていくようになるのです。
以上のように三つの朱印状が塩飽に残っているのは「信長・秀吉・家康」が塩飽の戦略的な価値を理解して、味方に引き込もうと力をそそいだ結果だったようです。確かに、人名という権利は保障されました。しかし、塩飽船の自由な航行は終わります。
 「海賊禁止令」をどう受け止めたのか?
少し時間を戻します。秀吉は天正十六(1588)年に、刀狩令と一緒に「海賊禁止令」をだしています。これは信長以来の「楽市楽座」政策の延長上で「海の平和」を実現するためのものでした。まさに天下統一の仕上げの一手です。これを村上武吉や塩飽衆は、どのように感じたのでしょうか。
海賊衆にとっては、「営業活動の自由」の禁止を意味するものでした。「平和」の到来によって、水軍力を駆使した警固活動を行うことはできなくなります。「海の関所」の運営も海賊行為として取り締まりの対象となったのです。村上武吉は、これに我慢が出来ず最後まで、秀吉に与することはありませんでした。
 これに対して塩飽衆はどうだったのでしょうか。彼らのその後の歩みを見てみると、「海賊禁止令」を受けいれ秀吉の船団としての役割を務め、その代償に特権的な地位を得るという生き方を選んだようです。それは家康になっても変わりません。それが人名や幕府の専属的海運業者などの「権利・特権」という「成果」につながったという言い方もできます。 
 どちらにしても、中世から近世への移行期には、瀬戸内海で活躍した海賊衆の多くは、本拠地を失い、水夫から切り離されました。近世的船手衆に変身していった者もいますが、海をから離され「陸上がり」した者も多かったようです。そのようななかで、本拠地を失わず、港も船も維持したまま時代の変動を乗り切ったのが塩飽衆だったようです。
 参考文献 橋詰 「中世の瀬戸内 海の時代」

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