瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:村上水軍

天正10年(1583)6月、本能寺で天下統一の事業半ばで信長は倒れます。代わって羽柴秀吉は、後継者の地位を固めると、翌年には、本願寺のあった石山の地に大坂城を築き、天下統一の拠点とします。そして1585年には、秀吉は土佐の長宗我部元親を討つための四国遠征軍を準備します。信長亡き後の混乱を予想していた長宗我部元親にとって、秀吉が意外なほどの早さで天下統一事業を立て直し、実行してくることに驚きと脅威をもって見ていたかもしれません。 
 このころ小豆島や塩飽は、秀吉の「若き海軍提督」と宣教師が名付けた小西行長によって統治され、瀬戸内海の海軍(輸送船)の軍事要衝的な性格を帯びていたことは以前にお話ししました。当然、塩飽にも行長の家臣が、船の準備をするために滞在していました。
小西行長と塩飽・小豆島の関係を年表で押さえておきます。
天正 8年(1580)頃 父・隆佐とともに秀吉に重用
天正 9年(1581) 播磨室津(兵庫県)を所領
天正10年(1582) 小豆島の領主となる
天正11年(1583) 舟奉行に任命され塩飽も領有
天正12年(1584) 紀州雑賀攻めに水軍を率いて参戦,
天正13年(1585) 四国制圧の後方支援
天正14年(1586) 九州討伐で赤間関(山口県)までの兵糧を輸送した後,平戸(長崎県)に向かい,松浦氏の警固船出動を監督。
天正15年(1587) バテレン禁止令後に高山右近を保護。
  年表から分かる通り、行長は室津を得た後に小豆島・塩飽諸島も委せれていたようです。正式文書に、小西行長の名はありません。しかし『肥後国誌』やイエズス会の文献には、小豆島・塩飽の1万石が与えられていたと記します。天正十五年(1587)、秀吉に追放された切支丹大名の高山右近が行長の手で小豆島に匿われたことがイエズス会資料にあるので、塩飽・小豆島が行長の所領であったが分かります。天正10年に、秀吉に仕えるようになってすぐに室津を得て「領主」の地位に就いたようです。そして、小豆島と塩飽と備讃瀬戸の島々を得ていきます。行長が20代前半のことです。このように東瀬戸内海エリアを秀吉の「若き海軍提督」の小西行長が高速船で行き交い、海賊たちを取り締まり「海の平和」が秀吉の手で実現していきます。
 ところが芸予諸島周辺では、小早川隆景配下の能島村上氏は海賊行為を続けていたようです。天正13~14頃の秀吉が小早川隆景に宛た朱印状には、次のように記されています。
能島事、此中海賊仕之由被聞召候、言語道断曲事、無是非次第候間、成敗之儀、自此方雖可被仰付候、其方持分候間、急度可被中付候、但申分有之者、村上掃部早々大坂へ罷上可申候、為其方成敗不成候者、被遣御人数可被仰付候也、
九月八日                     (秀吉朱印)
小早川左衛門佐とのヘ
意訳変換しておくと
能島(村上武吉)の事については、今でも海賊行為(関銭取り立て)を行っていると伝え聞くが、これは言語道断の事である。これが事実かどうかは分からないが、もし事実であれば、秀吉自らが成敗をくわえるべきものである。しかし、小早川隆景の家臣なので措置は、そちらに任せる。再度、関銭取り立てなどの行為禁止を申しつける。ただし、申し開きがあるなら村上掃部(武吉)を大坂へ参上させよ。そちらで成敗しないのであれば、(秀吉)が直接に軍を派遣して処置する。
九月八日                     (秀吉朱印)
小早川左衛門佐(小早川隆景)とのヘ
 ここからは「海賊禁止」を守らずに、芸予諸島海域で関銭取り立てを続ける村上武吉への秀吉の怒りが伝わってきます。これに対して、小早川隆景を秀吉に全面的に屈することなく、配下の村上武吉を守り通そうとします。小早川隆景と武吉をめぐる話は以前にお話したので省略します。

「海の平和」実現のために天正16年(1588)7月に出されたのが「海賊禁止令」です。
これは、刀狩令と同時に出されていますが、この刀狩令に比べるとあまり知られていないようです。海賊禁止令は、次のような三条です。
3 村上水軍 海賊禁止令
秀吉の海賊禁止令(1588年)
意訳変換しておくと
一 かねがね海賊を停止しているにもかかわらず、瀬戸内海の斎島(いつきしま 現広島県豊田郡豊浜町の能島村上氏の管轄エリア)で起きたのは曲事(不法)である。
一 船を使って海で生きてきた者を、調べ上げて管理し、海賊をしない旨の誓書を出させ、連判状を国主である大名が取り集めて秀吉に提出せよ。
一 今後海賊行為が明らかになった場合は、藩主の監督責任として、領地没収もありうる
第一条からは、再三の警告に対しても関銭取り立てを続けている村上武吉に対して出されたものという背景がうかがえます。
第二条は、経済的には海の「楽市楽座」のとも云える政策で、自由航行実現という「秀吉による海の平和」の到来宣言とも云えます。まさに天下統一の仕上げの一手です。
  しかし、これは村上武吉などの海賊衆から見れば「営業活動の自由」を奪われるものでした。「平和」の到来によって、水軍力を駆使した警固活動を行うことはできなくなります。「海の関所」の運営も海賊行為として取り締まりの対象となったのです。村上武吉は、これに我慢が出来ず最後まで、秀吉に与することはありませんでした。
 これに対して塩飽衆は、どうだったのでしょうか。
その後の歩みを見てみると、塩飽衆は「海賊禁止令」を受けいれ秀吉の船団としての役割を務め、その代償に特権的な地位を得るという生き方を選んだようです。それは家康になっても変わりません。それが人名や幕府の専属的海運業者などの「権利・特権」という「成果」につながったという言い方もできます。 
 どちらにしても、中世から近世への移行期には、瀬戸内海で活躍した海賊衆の多くは、本拠地を失い、水夫から切り離されました。近世的船手衆に変身していった者もいますが、海をから離され「陸上がり」した者も多かったようです。そのような中で本拠地を失わず、港も船も維持したまま時代の変動を乗り切ったのが塩飽衆だったことは以前にお話ししました。今回は、秀吉政権下での塩飽の動きをもう少し追いかけて見ましょう。
秀吉の九州遠征と塩飽
 海賊禁止令が出される2年前の1586年に、秀吉は塩飽島年寄中に朱印状を発給し、島津攻めのため、塩飽へ軍用船を出すことを命じています。当時の背景を見ておくと、秀吉は九州で抗争を続けていた薩摩の島津義久と豊後の大友宗麟に対して和睦勧告をします。それに対して、島津氏が無視したため、島津氏討伐のために九州へ出陣準備を進めます。豊後へ侵入した島津勢に対する大友勢の救援として、まず毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が主力として豊前へと向かいます。一方、四国征伐後に秀吉は、次の九州出陣に備えて四国への大名配置を行っていました。事前の計画通り、讃岐の仙石秀久が十河存保や長宗我部元親等の四国勢を従えて豊後へと出陣します。
 この時の九州遠征には、塩飽に対して輸送船徴発が行われています。それが秀吉朱印状に残されています。
豊臣秀吉朱印状(折紙)
 今度千石権兵衛尉俄豊後江被遣候、然者当島船之事、雖加用捨候五十人充乗候船十艘分可相越候、則扶持方被下候間、壱艘二水主五人充可能出候也、
八月廿三日                   (朱印)
塩飽年寄中
3塩飽 秀吉朱印状

意訳変換しておくと
 今度の仙石秀久の豊後出陣に際して、塩飽の輸送船を次の通り準備すること。50人乗の船十艘と1艘について水夫5人、合計50人を提供せよ。
八月廿三日                        (朱印)
塩飽年寄中
 これを見ると50人乗の船10艘と水夫50人を塩飽は負担することを命じられています。ここからは塩飽船は、秀吉直参の輸送船団にに組み込まれたことがうかがえます。
薩摩攻めの時には、次のように記されています。
御兵糧米並御馬竹木其外御用御道具、大坂より仙台(川内)江塩飽船二而積廻し候様二と、年寄中江被仰付、早速島中江船加子之下知有之

意訳変換しておくと
兵糧米や兵馬・竹木などの外の軍事物資について、大坂から薩摩川内へ塩飽船で輸送するようにとの、塩飽年寄中に申しつけられたので、早速に島中へ船水夫のことを伝達した

ここからは兵糧・武器の輸送を 塩飽船が行ったことが分かります。ここでも軍船は出していません。研究者は、この文書の宛先が「塩飽年寄中」となっていることに注目します。薩摩攻めの史料にも「年寄中江被仰付」と「年寄中」という言葉が見えます。ここからは年寄と称す何人かの年寄で、島を統治していたことがうかがえます。これが江戸時代の塩飽の四人の年寄につながっていくようです。ここでは、秀吉の九州攻略以降、塩飽は豊臣政権下に組み込まれていたと研究者は考えています。
  九州制圧が終わると朝鮮出兵への野望を膨らませながら秀吉は、小田原の北条氏攻めを行います。
秀吉にとっては「小田原攻め」は、戦略物資の輸送に関しては次に控える「朝鮮出兵」の事前演習的な所もあったようです。ここでも塩飽船が活動しています。兵糧米を大坂から小田原へと輸送していることが、次のように記されています。
「(塩飽)島中之船加子数艘罷出候処、御手船ハ勢州鳥羽浦二乗留メ、彼地二逗留致延引候、塩飽島ハ不残小田原へ乗届、御陣之御用立相勤中候」

意訳変換しておくと
塩飽島中の船や加子が数艘動員された。秀吉の御手船(直属輸送船)は鳥羽浦に留まりで逗留したが、塩飽船は全て小田原まで乗り入れ、兵粮や戦略物資を運び入れ、任務を果たした。

ここからは、秀古の手船は鳥羽浦までしか行かなかったのに対して、塩飽船は太平洋の荒波を越えて小田原まで航行したと、操船能力の巧みさを自画自賛しています。秀吉は四国・九州遠征を通じて水軍編成を計っていきます。小田原攻めの時には、秀吉の直属の九鬼嘉隆の率いる水軍をはじめ、毛利水軍・長宗我部水軍・加藤嘉明水軍も動員され、相模湾には、水軍が蟻のはい出る隙間もないほど結集したと云われます。この時にも塩飽船は、軍船ではなく兵糧輸送船として徴用され活躍していることを押さえておきます。

北条氏を減ぼして全国統一を果たした秀吉の次の野望は、朝鮮半島でした。古代ローマ帝国と同じく領土拡大を行う事で、秀吉政権は成長してきました。領土拡大がストップすることは、倍々ゲームで成長してきた企業が成長0になることにも似ています。政権の存続基盤が失われることを意味します。それを秀吉は朝鮮出兵、中国への侵入という大風呂敷を広げることで帳尻を合わせようとしたのかもしれません。すでに九州遠征の時から「唐入り」の野心を膨らませていたのです。誇大妄想的な野望かも知れませんが、そのために取られた準備は用意周到なものでした。各地の城の修理や増築を行い備えた上で、朝鮮出兵の拠点として肥前名護屋城の普請を行います。また朝鮮への渡海のための船の建造を進め、全国の大名にも船舶の建造命令を出しています。
これにともない塩飽でも船の建造が行われたことが、次の秀次朱印状から分かります。
③豊臣秀次朱印状(折紙)
大船作事為可被仰付、其国舟大工船頭就御用、為御改奉行画人被指遣候間、成共意蔵入井誰々雖為知行所、有職人之事、有次第申付可上候者也、
十月十二日                   (朱印)
塩飽
所々物主
代官中
意訳変換しておくと
大船の造船を命じることについて、舟大工や船頭の雇用が必要なることが考えられるので、奉行を派遣して職人の募集を行う事、また危急の際なので、給料や人物にこだわることなく使える職人は、すべて雇用すること、

この文書には、年次がありませんが文禄九年(1592)と研究者は考えているようです。船大工の雇用に当たっては「蔵入並並に誰々雖為知行所」とあるように、少々人件費高くとも人間的に問題があっても使える職人は全て雇へという命令です。
 また、この文書で研究者が注目するのは宛先が「塩飽 所々物主 代官中」となっていることです。ここからは、この時期の塩飽には代官がいて、秀吉の直轄統治が行われていたことが分かります。この文書を受けた塩飽代官は、どうしたでしょうか。塩飽には中世以来の海上輸送の物流基地で船大工もいたでしょうがその数も限られていたでしょう。塩飽以外の地からも多くの船大工を呼び入れたはずです。そこで、各地からやってきた船大工句の間で、造船技術の交流・改良が行われたことは以前にお話ししました。同じ事は、小豆島でも同時並行で行われていたようです。

船を建造するだけでなく、塩飽船は朝鮮出兵にも動員されていることが、次の文書から分かります。

「文禄九年高麗御陣之時、七ケ年之間、御手船御用之節、豊臣秀次様御朱印を以、御用被為仰付、塩飽船不残、水主五百七拾余人、高麗並肥前日名護屋両所二相詰、御帰陣迄御奉仕候、其節之御朱印二通」

意訳変換しておくと
文禄九年の朝鮮出兵の時は、7年間に渡って、御手船御用を言いつかっていた。そして、豊臣秀次様から御朱印をいただき、御用を仰せつかり、塩飽船は残らず、水主570余人とともに、高麗と肥前の名護屋城の両方に詰めて、出兵が終わり帰陣するまで御奉仕した。その時の御朱印が二通ある。

塩飽勤番所に残された2通の朱印状は、文禄二年(1593)に豊臣秀次から出されたもので、次のような内容です。
豊臣秀次朱印状
名護屋へ医師三十五人並に下々共外奉行之者被遣候、八端帆継舟式艘申付、無由断可送届者也、
文禄二年二月二十八日                (朱印)
志はく(塩飽)船奉行中
これは名護屋へ医師35人と奉行衆を八端帆継舟二艘で送り届けよという命令書で、宛先は塩飽船奉行です。もう1通は竹俣和泉の名護屋派遣について、兵と軍資を継舟で送るように指示しています。
⑤豊臣秀次朱印状
竹俣和泉事、至名護屋被指下候、然者、上下弐拾人並荷物「儀」(後筆)十荷之分、継舟二て可送届者也、
文禄弐年三月四日                 (朱印)
塩飽船奉行中
この継舟というのは八端帆船のことと研究者は考えています。これ以前の元亀二年(1571)来島・因島衆との海戦に、塩飽の八端帆船三艘が活動しています。ここから塩飽船は、八端帆船が主役であったと研究者は考えているようです。ここでも、動員されているのは軍船ではありません。
では八端帆船とは、どのくらいの大きさの船だったのでしょうか?
当時は帆一反につき櫓四挺の割合になるようです。すると8端×櫓4=32挺櫓で、長さ約20尺程の船になります。そこに乗り組む水夫は、漕ぎ手が32人+αで、武者も同じくらい乗船するので70名程度になるようです。
村上水軍 小早船
毛利水軍書の「小早」(村上海賊ミュージアム)

毛利水軍書の「小早」と称される船にあたるようです。③で「大船作事可被仰付」とありましたが、塩飽が大船を多数保有していたなら、それほど建造する必要もなかったでしょう。それまでの塩飽には、大船がなく八端帆船が多数を占めていたため「大船作事」命令となったと研究者は推測します。
3  塩飽 関船

ここからも、塩飽は八端帆継舟による海上輸送にあたっていたことがうかがえます。塩飽船は、大坂と名護屋を結ぶ継舟として文禄の役に徴発されます。④⑤の文書の宛名は「塩飽舟奉行」となっています。船奉行の支配下のもとに、瀬戸内海を通じて大坂・九州名護屋の間の物資・軍兵輸送を塩飽船が担ったと研究者は考えています。

 確かに塩飽は、文禄の役に多くの船と水夫を出しています。
そのために江戸時代には、朝鮮出兵で活躍の証が秀吉・秀次朱印状で、それが徳川の「塩飽船方衆(人名)」につながったとされてきました。これは、本当なのでしょうか? 
 西国大名の朝鮮出兵に関する研究が進むにつれて、塩飽だけが特別に負担が多かった訳ではないことが分かってきました。九州大名と舟手の水軍大名は、本役(百石につき5人の動員)、四国・中国大名は四人役(百石につき四人)と、石高に応じて軍役(人夫と水夫)が課せられていたようです。人夫や水夫の負担が多い大名の中には、軍役の2/3に達する藩もあります。これから考えると、塩飽に対しても検地に基づく石高で、軍役負担が課されたようです。天正18年(1590)に塩飽で行われた検地では、650人の舟方が軍役負担者として義務つけられます。これをもとにした軍役が、朝鮮出兵の時にも課せられているようです。それは決して特別重い軍役ではないと研究者は考えています。
 今までの通説では、次のように云われてきました。
塩飽は文禄の役の際には、他と比較にならぬほど多くの船と水夫を出した。それは、塩飽が豊臣の御用船方であり、船舶が堅牢で水夫が勇敢かつ航海技術が優れていたからである

しかし、これは塩飽を美化したものに他ならないと研究者は指摘します。九州などでは塩飽以上に多くの一般民衆が人夫や水夫として徴発されている事実からすれば、塩飽のみが重い負担であったとは云えないようです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 橋詰茂 織豊政権の塩飽支配 瀬戸内海地域社会と織田権力所収  思文閣史学叢書2007年
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 戦国期は、海賊衆の活動の最もめざましい時代を向かえます。しのぎをけずりあう周辺の戦国領主たちにとって、厳島合戦のように村上氏海賊衆の水軍力が勝敗の決め手になることもありました。その軍事力や制海権、輸送力は垂涎の的になります。多くの戦国領主が、村上水軍を味方につけようと画策するようになります。村上氏関係文書の中に残されている山名・河野・大内・毛利・小早川・大友・織田・羽柴などの各氏の発給文書の存在が、そのことを雄弁に物語ります。そして、村上氏がその期待に応えて、各地の合戦に多くの戦功を挙げます。

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室町時代の海賊衆は警固活動だけでなく、海上輸送業も行っていたようです。
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 海賊衆の中で最も多くの文書を残しているのは、村上氏です。村上各家に残されている文書をみてみると、その大部分は戦時における一族の活躍を伝えるもので、それ以外のものあまりありません。これは村上各家の文書の伝来のしかたに、一種の偏りがあるからだと研究者は指摘します。村上各家に保存されてきた文書は、膨大な文書の中から各家にとって、残しておく価値ありと判断されたものが保存されてきました。それは、戦時に各大名から戦功を賞して与えられた感状や安堵状です。輸送業務部門の日常的な記録は、意味のないものだったのかもしれません。今に残る村上氏関係文書は、戦時における一族の軍事行動を知るのには、つごうのいい史料です。しかし、そこから平時の姿を知ろうとすると、何も見えてこないということになります。

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 日常的に営まれていた村上氏の海上輸送活動姿を知ろうとすれば、それ以外の史料を探さなければならないようです。そのような種類の文書として、研究者が目を付けるのが厳島神社や高野山に残る文書です
「高野山上蔵院文書」を見てみましょう。
上蔵院は、高野山上の寺院のひとつで、伊予からの参拝者の宿坊でした。そのため伊予の豪族たちが高野山参詣の際に利用し、その関係文書が数多く残されていています。その数は約130通にのぼり、時代は天文から天正にかけての戦国時代50年間に渡るようです。
 領主達と上蔵院には、次のような関係がありました。
①上蔵院からは高野聖が仏具や日用品を携えて伊予に出向き、領主の間を巡回しお札などを配り、冥加金を集金する
②伊予からは領主たちが彼ら高野聖を先達にして高野山に参詣をとげ、その際には、上蔵院を宿坊して利用する
  中世以来の高野の聖たちによって「高野山=死霊の赴く聖地」「納骨の霊場」信仰が広められてきました。私たちが高野山奥の院に見る戦国大名たちの墓石が林立する光景は、高野聖の布教活動の成果とも云えるようです。

 上蔵寺の史料に、領主として名前があるのは、河野氏をはじめとし、周敷郡の黒川氏、桑村郡の櫛部氏・壬生川氏、野間郡の来島村上氏、風早郡の得居氏、和気郡の大内氏、温泉郡の松末氏、久米郡の角田(志津川)氏、伊予郡の垣生氏、浮穴郡の上居・平岡・相原・戒能などです。彼らは、戦国領主の河野氏の家臣団を構成する国人級領主たちです。地域的には河野氏の膝下である中予を中心にして、 一部東予地域までひろがっています。「上蔵院文書」によって、戦国後期に伊予国と高野山との間に、日常的な交流のあったことが分かります。

領主達は高野山参りに、どんなルートを使っていたのでしょうか?
中世の熊野詣には、熊野海賊の船が定期的に大三島の大山祇神社までやって来ていたとされます。伊予から熊野へは舟が用いられていたようです。そうだとすると、高野山詣でにも海上交通が使われていたことが予想できます。
 そのような視点で先ほど紹介した領主たちを見てみると、自前の舟で瀬戸内海を航行していく水運力を持っているのは来島村上氏と、忽那氏くらいです。大部分の豪族たちは、高野山に舟で出かける水運力はないようです。彼らは、どのような舟に乗って高野山を目指したのでしょうか。

DSC03651
一遍上人絵図 (兵庫沖の中世廻船)

その疑問を解く鍵は、来島村上氏にあるようです。

来島氏が戦国期に強力な水軍力を持っていたことはよく知られています。「上蔵院文書」の関連文書の中に、一番登場してくるのも27/130通で来島氏です。上蔵院との交流で中心的役割を果していたのが来島氏だったことがうかがえます。

村上水軍 城郭分布図

内陸の領主たちは、来島村上氏の舟で高野山詣でを行っていことが予想できます。それを裏付けるのが「上蔵院文書」の次の史料です。
尚々彼舟ハさかい(堺)まて直々罷上候間、同道めされ候て可然存候 一筆令申候、乃此時分御帰山候哉、然者(  ?  )船愛元罷下候迄中途より借くれ、御祝言之御座船に被仕立候、彼船弐十日比過候ハヽ可罷上候間、御乗船候て可然之由候、たしかなる舟之事候間、申小輔□被申付上乗にまて堅固候之条、於御上者彼船二御乗候様二内々御支度干要候、某より内茂可申由候間、以書状申候、くハしく御返事二可蒙仰候、恐々謹言
六月十五日                                通康(花押)
高音寺御同宿中
                     来嶋右衛間大夫
高音寺                                       通康
御同宿中                                    
  意訳変換しておくと
この舟は堺に直接向かいますので、乗船をお勧めします。
次のことを連絡いたします。この度の高野山への帰山の船便については、事情によって能島村上氏から借用した船を使用します。御祝言の御座船に仕立てるため20日後には準備が整い出港予定です。身元の確かな舟で、上乗も付いて堅固で安全です。この舟に乗船できるように手配をしますので、準備をしてください。詳しくは御返事をお待ちしています。恐々謹言
文書の背景は次の通りです。
①文書の発給者・来島通康は、来島村上氏の中心人物で河野氏の重臣
②来島通康の死没年は永禄十年(1567)なので、文書発給年は永禄初年頃
③宛先の高音寺は和気郡内の真言宗寺院(現在松山市高木町)。

文書の内容は、伊予国にやって来ていた高野山上蔵院の僧侶に、帰路の便船の案内を伝える私信です。ここには、興味深い点がいくつか含まれています。
和船とは - コトバンク
遣明船に使われた船

第一は、来島村上氏は所有する船を、旅客船として運用していること。
この場合は、たまたま事情によって能島村上氏から借用した船を使用しています。戦時には軍船となる舟が平時には、御座船として使われ、さらにそこに旅客も乗せようとしています。水軍的側面ばかりが強調されていた来島氏の平時の姿を知る上で興味深い史料です。
第二に、その船が泉州堺に「直々罷上」る直行便であったこと
ここからは伊予からの高野山参拝コースは、船で堺に至り、そこから陸路をとったということが分かります。その前提として、来島氏は伊予から堺までの瀬戸内海航路の通行権を確保していたということになります。さらに推測すると、戦国期の伊予近海と畿内との間は海上交通で結ばれていて、海賊衆来島村上氏は、そこに持舟を就航させていたことがうかがえます。以前に、塩飽本島の塩飽海賊が定期的に畿内との旅客船を運用し、周辺から旅客が集まってきていたことを見ましたが、それと同じような動きです。
来島村上氏をはじめとする海賊衆は、どのような目的で伊予・堺航路に舟を就航させていたのでしょうか
高野山へ参詣する武将や、伊予国にやってくる高野聖を運ぶのが目的ではないはずです。高野山参拝は、たまたまつごうのいい便船を利用しているのにすぎません。通康書状の便船は「御祝言之御座船」という文言があるので、河野氏の上京のために用意された船かもしれません。これは特別な舟で、大部分の船にはもっと別の目的があったはずです。研究者はある種の商業活動を海賊衆がおこなっていたと考えているようです。
 しかし、そのことを「上蔵院文書」で証明することはできません。「上蔵院文書」が語っているのは、来島や能島の村上氏をはじめとする海賊衆の船が頻繁に瀬戸内海を航行し、堺と伊予との間を行き来していたという事実です。

DSC03568厳島神社の舫い船
一遍上人絵伝に出てくる宮島湊の舫い船

村上武吉の花押がある「厳島野坂文書」の文書を見てみましょう。
預御状本望存候、乃去年至御島並廿日市、吾等家頼之者共所用候而罷渡候処二、無意趣二御島之衆被打果候事、無御心元存候、其節以使札申入候之処二、無御分別之通承候、然上者重而不及申達候、彼孫三郎親類共佗言申儀も可有之候、為我等不及下知候、御分別可目出候、猶御使者江申入候条省略候、恐々謹言
十月八日                                  武吉(花押)
棚守左近将監殿参 御返報
意訳変換しておくと
 去年、わが能島村上一族の者が「所用」のため宮島・廿日市に赴いていたところ、島衆によって討ち果たされるよいう事件が起きている。これに対して、使者を派遣して対処を申し入れたが、その後に何の連絡もない。これはあまりにも無分別な対応であるので、重ねて申し入れをおこなう次第である。殺された孫三郎の親類からの抗議もあり、私も捨て置くわけにはいかない。適切な対応をとり、使者に伝えていただきたい。

 村上武吉が厳島神社社家棚守氏に対して、能島の「家頼」と厳島衆のトラブルについての対応を申し入れた書状です。
ここで研究者が注目するのは、能島の「家頼」が「所用」があって「御島並廿日市市」に赴いていることです。その「所用」の内容は分かりませんが、「伊予衆」が参詣に名をかりて日常的に厳島へ「着津」し、商業活動を行っていた研究者は推測します。廿日市は厳島近海の地域経済の拠点で、その名の通り定期市が立ち、活発な経済活動が行われていた所です。「所用」とは、何らかの交易に関係するものであったとすると、能島氏は広島湾岸の宮島周辺にも進出して、「商売」を行っていた可能性があります。

村上水軍 テリトリー図3

以上、高野山と宮島厳島神社に残された文書からは、次のようなことが分かります。
第1に、来島村上氏や能島村上氏などの海賊衆も瀬戸内海海運に従事していたこと。
第2に、来島氏の堺―伊予航路の水運も商業活動をともなうものであった可能性が高いこと。
第3に、村上氏の活動エリアは、堺を中心とした畿内経済圏、四国松山の堀江を中心とした伊予エリア、宮島・十日市等を拠点とした安芸エリアなど、瀬戸内海の広い範囲に及んでいたこと

以上からは、海賊衆がただ単に警固活動をだけを生業としていたのではなく、海上交通や交易の担い手として平時には活動していたことが見えてきます。それを最後に振り返っておきます。
 文安二年(1445)の『兵庫北関入船納帳』には、東寺領弓削島荘に籍をおく船舶が、特産物である塩を積荷として活発な水運活動を展開していることが分かります。その担い手は、太郎衛門に代表されるような有力船頭たちです。彼らは、200石積の当時としては大型船で毎月のように畿内との間を往復しています。

そして、15世紀になると能島・来島・因島の各村上氏が史料上に姿を見せるようになります
弓削島荘では、小早川氏の「乱暴狼藉」に対応するために、東寺は海賊衆の村上右衛門尉やその子治部進が請負代官と契約を結んでいます。『入船納帳』に記録された弓削籍船の活発な活動と、これは同時代のことです。つまり、弓削島荘の経営を任され、それを舟で輸送していたのも村上氏ということになります。制海権を握る海賊衆の許可なしには、安全な航海はできなのですから。彼らは、荘園の請負代官として収取した年貢物(塩)を自らの舟で畿内に運びこみ、畿内市場で換貨してその代貨の一部を荘園領主に銭納していたと研究者は考えいます。
  戦国期になると、伊予の戦国領主河野氏配下の領主たちは高野山参詣を活発に行うようになります。
その参拝は、河野氏の重臣となっていた来島村上氏の舟で行われていました。来島氏は伊予から堺までの畿内ルートを確保し、定期的に便船を運航していたことが推測できます。
 能島村上氏も厳島の対岸十日市に、「所用」と称して家臣を遣わし商業活動を行っていました。宮島と堺は、来島村上氏によって舟で結ばれていたことがうかがえます。畿内へ向けての活発な水運活動の背景にも、商業活動があったようです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
山内譲 中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運 瀬戸内海地域史研究 第1号 1987年

特集】毛利元就の「三矢の訓」と三原の礎を築いた知将・小早川隆景 | 三原観光navi | 広島県三原市 観光情報サイト 海・山・空 夢ひらくまち       

前回は、鎌倉時代初めに西遷御家人として東国から安芸沼田荘にやってきた小早川氏が、芸予諸島に進出していくプロセスを見ました。小早川氏の海への進出は、14世紀の南北朝の争乱が契機となっていました。そのきっかけは伊予出兵でした。興国3年(1342)10月、北朝方細川氏は伊予南朝方の世田山城(東予市)を攻略します。小早川氏も細川氏の指示で参戦しています。途中、南朝方拠点の生口島を落とし、南隣りの弓削島を占領します。翌年の因島制圧にも加わっています。合戦後の翌年から、小早川氏は弓削島の利権を狙い、居座り・乱入を繰り返すようになります。つまり14世紀半ばに、生口島・因島・弓削島への進出が始まっていたことになります。では、村上氏はどうなのでしょうか。今回は村上氏がいつ史料に登場してくるのかを見ておくことにします。  テキストは「山内譲 中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運 瀬戸内海地域史研究 第1号 1987年」です。
近世の瀬戸内海No1 海賊禁止令に村上水軍が迫られた選択とは? : 瀬戸の島から

 史料に最も早く姿を見せるのは能島村上氏のようです。
貞和五年(1349)、東寺供僧の強い要請をうけて、幕府は、近藤国崇・金子善喜という二名の武士を「公方御使」として尾道経由で弓削島に派遣します。その時の散用状が「東寺百合文書」の中に残されています。
 その中に「野(能)島酒肴料、三貫文」とあります。この費用は、酒肴料とありますが、次のような情勢下で支払われています。

「両使雖打渡両島於両雑掌、敵方猶不退散、而就支申、為用心相語人勢警固

小早川氏が弓削島荘から撤退しない中で能島海賊衆が「警固」のために雇われていることがうかがえます。これは野(能)島氏の警固活動に対する報酬であったと研究者は考えています。ここからは14世紀前半には、芸予諸島で警固活動を行う能島村上氏の姿を見ることが出来ます。周辺の制海権を握っていたこともうかがえます。

村上水軍 能島城2

 小早川氏の悪党ぶりに手を焼いた荘園領主の東寺は「夷を以て、夷を制す」の教えに従い、村上水軍の一族と見られる村上右衛門尉や村上治部進を所務職に任じて年貢請負契約を結んでいます。これが康正三年(1456)のことです。その当時になると弓削島荘は「小早河少(小)泉方、山路方、能島両村、以上四人してもち候」と記します。ここからは、次の4つの勢力が弓削島荘に入り込んでいたことが分かります。
「小早河少泉方=小早川氏の庶家である小泉氏
 山路方   =讃岐白方の海賊山路(地)方、
 能島    =能島村上氏
 両村
そして、寛正三年(1462)には、弓削島押領人として「海賊能島方」が、小泉氏、山路氏とともに指弾されています。弓削島荘をめぐる攻防戦に中に能島の海賊衆がいたことは間違いないようです。

村上水軍 能島城

戦国時代の能島村上氏の居城 能島城

能島氏の活動痕跡は、芸予諸島海域以外のところでも確認できます。
応永十二年(1406)9月21日、伊予守護河野通之の忽那氏にあてた充行状に「久津那島西浦上分地領職 輔徒錫タ事」とあります。これは、防予諸島の忽那島にも能島氏の足跡が及んでいたことを示します。ここからは能島村上氏は、南北朝初期から芸予諸島海域に姿を見せ始め、警固活動によって次第に勢力を伸ばしたこと、そして室町時代になると、防予諸島周辺でも地頭職を得ていることが分かります。
 その一方では、安芸国小泉氏や讃岐国山路氏などとともに弓削島荘を押領する海賊衆としても活動しています。当時の海賊衆の活動エリアの広さがうかがえます。
防予諸島(周防大島)エコツアー - 瀬戸内海エコツーリズム

次に因島村上氏について見ておきましょう。
因島村上氏の初見史料については、2つの説があるようです。
①「因島村上文書」中に見える元弘三年(1333)5月8日の護良親王令旨(感状)の充て先となっている「備後国因島本主治部法橋幸賀」という人物を因島村上氏の祖として初見史料とする説
②応永三十四年(1427)12月11日の将軍足利義持から御内書(感状)を与えられている村上備中守吉資が初見とする説

①には不確かさがあります。②は、その翌年の正長元年(1428)には、備後守護山名時熙から多島(田島)地頭職が認められていること、文安六年(1449)には、 六月に伊予封確・河野教通から越智郡佐礼城における戦功を賞せられ、8月には因島中之庄村金蓮寺薬師堂造立の棟札に名があること、などから裏付けがとれます。ここから因島村上氏は、15世紀の前半から因島中之庄を拠点にして活動を始め、海上機動力を発揮して備後国や伊予国に進出していったとしておきましょう。
村上水軍 因島村上氏の菩提寺 金蓮寺
因島村上氏の菩提寺 金蓮寺

三島村上氏の中で、史料上の初見が最もおそいのは来島村上氏です。
宝徳三年(1451)の河野教通の安芸国小早川盛景充書状に

「昨日当城来島二御出陣、目出候、殊奔走、公私太慶候」

とあるのが初見史料になるようです。当時の伊予国では守護家河野氏が3つに分かれて、惣領家の教通と庶家の通春とが争っていました。この書状は、教通が幕府の命によって出陣してきた小早川盛景に対して軍功を謝したものです。つまり、河野教通が越智郡来島城にとどまっていたことを示すものであって、決して来島村上氏の活動を伝えるものではありません。しかし、来島城を拠点にして水軍活動を展開する来島村上氏の存在はうかがえます。
来島城/愛媛県今治市 | なぽのブログ
来島城 
 来島村上氏がはっきりと史料上に姿をみせるのは、大永四年(1524)になります。
この年、来島にほど近い越智郡大浜(今治市大浜)で八幡神社の造営が行われましたが、その時の棟札に願主の一人として「在来島城村上五郎四郎母」の名前があります。
以上を整理すると
①能島村上氏が、貞和五年(1349)「東寺百合文書」の中に「野島酒肴料、三貫文」
②因島村上氏が 応永三十四年(1427)12月11日の将軍足利義持から御内書(感状)の村上備中守吉資
③来島村上氏が宝徳三年(1451)の河野教通の安芸国小早川盛景充書状に「昨日当城来島二御出陣、目出候、殊奔走、公私太慶候」
とあるのがそれぞれの初見史料になるようです。

村上水軍 城郭分布図

ここからは、15世紀中頃には、三島村上氏と呼ばれる能島・因島・来島の三氏の活動が始まっていたことが分かります。これは前回見た小早川氏の芸予諸島進出が南北朝の争乱期に始まることと比べると、少し遅れていることを押さえておきます。

村上水軍

村上水軍は村上武吉の時に最大勢力を持つようになります。
しかし、秀吉に睨まれ瀬戸内海から追放され、さらに関ヶ原の戦いで毛利方が敗れることで村上水軍の「大離散」が始まります。その後の「海の武士(海賊衆)」のたどった道に興味があります。今回は、武吉の「家老的な存在」として仕えた島氏を追ってみたいと思います 

 能島村上氏の実態を知る一つの道は、家臣団について知ることです。しかし、村上家臣団は近世初頭に事実上解体してしまいました。そのため史料に乏しく家臣団研究は余り進んでこなかったようです。そんな中で、村上島氏は、根本史料『島家遺事』を残しています。これにもとづいて島氏を見ていくことにしましょう。テキストは  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年」です。
村上武吉

関ケ原での西軍の敗北は、能島村上水軍の解体を決定的なものにしました。
村上水軍の解体過程
能島村上水軍の解体過程

村上氏の主家毛利氏は責任を問われて、中国8ケ国120万石から防長2か国36石へと1/4に減封されます。このため毛利氏の家中では大幅減封や、「召し放ち」などの大リストラが行われました。親子合わせて2万石と云われた村上武吉の知行も、周防大島1500石への大幅減となります。しかもこの内5百石は広島への年貢返還のために鎌留(年貢徴収禁止)とされます。こうして実際にはかつての知行の1/20、千石以下に減らされてしまいます。村上氏の領地となった大島の和田村や伊保田村では、負担の大きさに耐えきれなくなった住民等が次々と逃亡し、ついには村の人口は半減してしまったと云います。経済的に立ち行かなくなった村上氏の親類被官等は、逃亡したり、他家へ仕官するなど殆ど離散してしまったようです。かつて瀬戸内海に一大勢力を誇った能島村上水軍は、見る影もなく崩壊してしまいました。これが、村上水軍の大離散劇の始まりでした。 
 村上武吉と子の景親まで大島を抜け出し、海に戻ることを恐れた毛利輝元は、村上領を「鎌留」にし、代官を送って海上封鎖を行っています。あくまで武吉たちを周防大島に閉じ込めようとしたのです。このような中で村上家からは家臣等に対して、次のような触書が出されています
「兄弟多キ者壱人被召仕、其外夫々縁引何へ成共望次第先引越候者ハ心次第之儀」
 
 兄弟の多い者は一人だけ召し抱える。その他はそれぞれの縁者を頼って、何処へなりとも引越しすることを認めるというのです。

村上水軍の頭、武吉はどうして村上家のお墓が集まっている屋代に葬られなかったのだろう? | 周防大島での移住生活
周防大島の村上武吉の墓 

村上氏の老臣・島氏も選択が迫られることになります。
島家では一族談合の上で、若い三男助右衛門が村上家を継いで大島に残ることにします。そして、長男又兵衛(吉知)と二男善兵衛(吉氏)が大島を退去することになります。こうして二人は、主君村上武吉に暇乞いもせず、和佐から直接島を立ち去っています。このため父の越前守吉利は非常に立腹し、一生二人を義絶したと伝えられます。

村上水軍 今治水軍博物館2

島氏の全盛時代を創り出したのは越前守
吉利(23)です。
最初に吉利について振り返っておきます。吉利は村上中務少輔吉放(22)と来島氏の一族村上丹後守吉房女との間に生まれます。母方の祖父吉房の室は祖父吉久の妹ですから、父母は従兄弟同士になります。ここでは、島吉利が能島村上氏の一族であることを押さえておきます。はじめ吉利は河野氏の家臣であると同時に、村上武吉にも仕えています。海の上の主従関係は西欧の封建制に似ているようです。朱子学の説く「二君に仕えず」とは、ちがう道のようです。村上武吉に主君を一本化するにあたって、吉利は姓を村上から島に改めたと伝えられます。主君との混同を避けたのでしょう。

村上水軍 今治水軍博物館4

 以後、武吉の重臣として、主な戦いに従軍するようになります。
天文24年(1555年)の厳島の戦いでも軍功があったようです。永禄10年(1567年)には毛利・小早川氏の意を受けて、能島村上氏は阿波国の香西氏の拠点であった備前国・児島本太城を攻めます。この時に、吉利も敵将・香西又五郎を討つなどして、これを攻略し在番として詰めます。ところが翌年に、畿内の三好氏の後援を受けた讃岐・香西氏の軍が海を越えて反撃してくると苦境に立たされます。その打開策として、豊後国の大友氏家臣の田原親賢と懇意であった吉利が大友氏へ和睦仲介要請の使者として出向きます。そして、香西氏との和睦を成立させます。

村上水軍5

 阿波衆の攻撃を撃退した吉利に村上武吉や小早川隆景から感状を与えられています。(島文書五、八号)。そして、2年後の同十三年には、武吉から元太城付近に田一町五反分を支給され、本太城主に任命されます。しかしその後、能島村上氏は大友氏との関係を深め反毛利の姿勢を示すようになり、そのため毛利家臣・小早川隆景によって侵攻を受け本太城は落城します。

村上水軍 テリトリー図
村上武吉時代の瀬戸内海沿岸の情勢
 以上から、吉利が武吉の家老として毛利氏・小早川氏と書簡のやりとりするとともに、豊後大友氏との間も往来して外交活動を行っていたことがうかがえます。(島文書十九・二十号)。海の武士(海賊衆)の広域的な活動と、吉利の外交的な手腕がうかがえます。

大友氏への接近策の背景は?
 元亀・天正中頃になると、大友氏の宿老田原親賢の一字を得て名も一時賢久と変えています。また、天正年間初期には、大友義統に八朔の祝儀を贈っていて、この時期には武吉の意を受けて大伴氏への接近を図っていたようです。
 この時期は村上武吉が永禄十二年の大友内通事件を責められて、小早川隆景や来島通総から包囲攻撃を受けていた頃でした。能島の村上武吉は天正四年(1576)には毛利方に復帰しますが、依然として大友氏との関係を維持します。その仲介を担ったのが島氏です。例えば年未詳十一月、大友義鎮は島中務少輔(吉利)に宛てた書状からは、吉利が武吉の使者として豊後に赴き、長期間在国していたことが分かります。この他にも、また島吉利は大友家臣・田原親賢との間で多くの文書をやりとりを残しています。

村上水軍 島家の小海城
村上島氏の居城とされる大三島の小海城址

 海の武士(海賊大将)として生きていくという武吉の生き様は、海を自由に支配する「村上海洋帝国」の建設を目指したものだと私は考えています。その芸予諸島に進出する勢力を叩くために、自らをニュートラルな立場においておくことが外交戦略であったようです。そのためには、一人の主君に一生忠義を尽くすなどという朱子学的な関係は考えもしなかったでしょう。そのような武吉の立場を理解しながら、彼を使ったのが小早川隆景です。武吉は小早川にあるときには牙をむきながらも、隆景にうまく飼い慣らされていったのかもしれません。

村上水軍 水軍の舟
 小早川方に復帰した村上水軍は、天正四年(1576)の石山本願寺兵糧入れを命じられますが、これにも島吉利は従軍しています。さらには、朝鮮出兵には村上元吉に従って文禄の役に出陣しています。まさに武吉を支えた家老にふさわしい働きぶりです。その後は、武吉に従って周防大島に移り、慶長七年(1602)七月八日に森村で亡くなっています。法名天祐院順信尚賢居土(島系図)。

村上水軍島越前守(吉利)の顕彰碑
島吉利の顕彰碑 

島越前守吉利の顕彰碑は、周防大島の伊保田港を見下ろす小さな墓地にあります。
 墓地の中に土地の人々から「まるこの墓」と呼ばれる石碑が遠く伊予を望んで立っています。これが能島村上氏の重臣であった島越前守吉利の顕彰碑です。高さ三尺一寸、横巾一尺三寸の石の角柱の前面には「越前守島君碑」と隷字で彫られています。残る三面には各面に8行ずつ島氏の由緒と越前守の事績とが466字で刻まれています。これは死後すぐに立てられたものではないようです。
 石碑は豊後杵築の住人、島永胤が先祖の事績が消滅してしまうのを恐れて、周防大島の同族島信弘に呼びかけ、幾人かの人々の協力を得て、文化十(1813)年に建立したものです。死後約2百年後のことです。
村上島氏系図1

系図を見ながら島越前守碑銘文の前文を見ておきましょう。
本文中の人名番号は、系図番号に符合します。
(正面) 越前守島君碑

左側
君諱吉利、称越前守、村上氏清和之源也、共先左馬 灌頭義日興子朝日共死王事、純忠大節柄柄、千史乗朝日娶得能通村女有身是為義武、育於舅氏、延元帝思父祖之勲、賜栄干豫、居忽那島、子義弘移居能島及務司、属河野氏、以永軍顕、卒子信清甫二歳、家臣為乱、北畠師清村上之源也、来自信濃治之、因承其家襲氏、村上信清遜居沖島、玄孫吉放生君、君剛勇練武事、初為島氏、従其宗武吉撃族名於水戦、助毛利侯、軍
意訳変換しておくと
君の諱は古利、称は越前守で、村上氏清和の子孫である。先祖の先左馬灌頭義日(13)とその子・朝日(14)は共に王事のために命を投げ出しす忠信ぶりであった。朝日は能通村の女を娶り義武(15)をもうけたが、これは母親の舅宅で育てられた。延元帝は義日・朝日の父祖の功績を讃え、忽那島を義信(16)に与えた。
 その子義弘(17)は能島に移り、河野氏に従うようになった。以後は、多くの軍功を挙げた。義弘亡き後、その子信清(18)は2歳だったため、家臣をまとめることは出来ずに、乱を招いた。信清は、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだ。玄孫の吉放(22)は剛勇で武事にもすぐれ、初めて島氏を名乗った。そして、吉利(23)の時に、村上武吉に従うようになり、毛利水軍として活躍するようになった。
   (裏側)
厳島之役有功、児島之役獲阿将香西、小早川侯賞賜剣及金、喩武吉與児島城、即徒干備、石山納根之役及朝鮮之役亦有勢焉、後移周防大島、慶長七年壬寅七月八日病卒干森邑、娶東氏、生四男、曰吉知、曰吉氏、並事来島侯、曰吉方嗣、曰吉繁、出為族、吉中後並事村上氏、 一女適村上義季、君九世之孫信弘為長藩大夫村上之室老、名為南豊杵築藩臣、倶念其祖跡、恐或湮滅莫聞焉、乃相興合議、刻石表之、鳴呼君之功烈
意訳変換しておくと
吉利は厳島の戦いで武功を挙げ、備中児島の戦いでは阿波(讃岐)の香西を撃ち破り、小早川侯から剣や金を賜り、村上武吉からは児島城を与えられた。また石山本願寺戦争や朝鮮の役にも従軍し活躍した。その後、周防大島に移り、慶長七年七月八日に病で亡くなり森村に葬られた。
 吉利は東氏の娘を娶り、長男吉知、次男吉氏、三男吉方 四男吉繁の4人の男子をもうけた。彼らは、それぞれ一族を為し、村上氏を名乗った。吉利の九世後の孫にあたる信弘は、長州藩周防大島の大夫で村上の室老で、南豊杵築藩の島永胤と、ともにその祖跡が消えて亡くなるのを怖れて、協議した結果、石碑として残すことにした。祖君吉利の功は
  (右側)
足自顕干一時也、而況上有殉忠之二祖下有追孝之両孫、功烈忠孝燥映上下、宜乎其能得不朽於後世実、長之於永胤為婦兄、是以應其需、誌家譜之略、又係之銘、銘曰、王朝遺臣南海名族、先歴家難、猶克保禄、世博武毅、舟師精熟、晨立奇功、州人依服、
文化四年卯春二月 肥後前文学脇長之撰
周防   島信弘 建
豊後   島永胤
  意訳変換しておくと
(右側)
偉大である。況や殉忠の二祖に続く両孫たちも功烈忠孝に遜色はない。その名を不朽のものとして後世に伝えるために永胤が婦兄に諮り、誌家に残された家譜を調べ、各家の関係を明らかにした。
内容は後で検討するとして、先にこの越前守吉利の顕彰碑建立の経緯を押さえておきます。

村上水軍 島家
吉利の顕彰碑が建つ周防大島の伊保田

 吉利が亡くなってから約2百年後の文化三年(1806)の春、豊後の島永胤は周防大島の島信弘を訪ねます。そして、越前守吉利が自分たちの共通の先祖であると名乗りをあげ、共に一族の事績を調べ、家譜を確認し、顕彰碑を建てることの同意をとりつけます。その後、豊後に帰国後に義兄脇儀一郎長之(蘭室)に銘文を依頼します。その案文は翌年2月には、永胤の手元に届けられたようです。そこで本文を、豊後杵築藩の三浦主齢黄鶴に依頼して書いてもらいます。正面の題字には大坂の儒者篠崎長兵衛応道の隷字を得ることができました。

村上水軍 早舟

 しかし、豊後と周防との連絡がなかなか進まずに二、三年が過ぎ去ります。永胤が芸讃への船旅のついでに、先の案文と清書助力金とを大島の信弘のもとに届けることができたのは、ようやく文化七年の夏になってのことでした。永胤は、石碑は永く後世に伝えるものなので、大坂でしっかりとした石材を選んで造ることを望みます。
 これに対して信弘は大島白ケ浜に石工いて、どんな細工もできる。また石材も望むものが当地で調達できるというので、全てを任せます。しかし、工事は大巾に遅れ、越前碑が建ったのは文化十(1813)年のことになりました。発起から完成まで7年近くの年月が経っていました。こうして伊予の芸予諸島に向かって建てられたのがこの顕彰碑になるようです。

村上水軍 軍旗

 同時に、豊後の島永胤は一族の家に残された文書を写し取り、文書を保管します。これが森家文書として伝わる島氏の史料になります。同時に、それらの史料にもとづいて「島家遺事」を著します。島永胤は顕彰碑を建てただけではなく、島一族の文書も収拾保管し、報告書も出したことになります。これは能島村上氏の家臣団の史料としては貴重な資料です。

  さきほどの碑文内容を「島家遺事」でフォローしながら見ていきます
島系図は島越前守吉利(23)を、清和源氏の村上義弘(17)の末裔と記します。義弘(17)についてはいろいろな所伝があるようでうが、詳しいことは分からない人物です。しかし、義弘が南北朝動乱期に南朝方にあり、建武期から正平年間にかけて活躍した瀬戸内の海賊大将の一人であったことは認められるようです。特に貞治四年(1365)から応安二年(1369)までの4年間のことについては、義弘の姉婿今岡陽向軒(四郎通任)の手記によってうかがうことができます。

村上水軍の武具

 義弘の死後、その名跡をめぐって今岡通任と村上師清が争います。天授三年(1377)因島の釣島・箱崎浦の戦いで、村上師清が通任を破り、村上水軍の後継者に成ったとします。島系図には、義弘(17)には信清(18)という男子が記されています。しかし、信清は幼かったため、義弘亡き後の混乱を収めることができず、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだと記します。島氏がのち「島」を名字としたのはこのためだともいわれます。師清は信清を猶子として、よく養育します。信清は長じて左近将監と称して河野氏に仕え、水軍の大将となったと云います。
その後、吉信―吉兼―吉久―吉放と続き、吉利に続きます。
信清については、「三島伝記」に名前が出てくる程度で疑問も多く、実在性も疑われると研究者は考えているようです。しかし、吉信については文明二年(1470)9月17日付、村上官熊(吉信)宛河野教通の知行宛行状(島文書一号)に名前が出てくるので、その実在を確かめることができます。
 系図には、信清には東豊後守吉勝という子があり、その子右近太夫吉重の女が吉利の室となったと云いますが、これは時代的にも疑問があると研究者は考えているようです。
 近世初頭成立の「能島家家頼分限帳」には、親類被官の筆頭に東右近助の名が見え、百石を得ています。また「村上天皇井能嶋根元家筋」には、東氏は能島村上氏の一族で、能島東の丸に住んだため東氏と名乗ったとあります。これはおそらく島氏の系譜に、能島村上氏の系譜を「混入」させたものと研究者は考えているようです。どちらにしても、村上家の系図は村上義弘に「接がれて」いるようです。このあたりの系譜は信じることが出来ません。

村上水軍 島越前守系図3

 吉利の4人の子ども達の行く末を見ていくことにします。
それはある意味、村上水軍解体後の大離散の行く末を追うことにつながります。まずは、周防大島の島氏から見ていきます。
先ほど見たように、周防大島の本家を継いだのは吉利の三男の吉方、通称・六三郎です。母は兄達と同じく村上東右近太夫吉重の娘です。のち周防島氏の家督を相続し、村上家から150石を支給され屋代村で老臣役を勤めます。そして、側室に村上氏の老臣大浜内記の女を迎え、嗣子吉賢が生まれます。しかし周防島氏の直系男子は、五代信利の代で絶え、その跡は三代信賢の孫、医師浅井養宅の子信方・正往が継ぎます。
 顕彰碑の周防大島での責任者である信弘は、正往の長男で、安永七年(1778)に、島家の家督を相続し、文化十年(1813)70歳で亡くなります。つまり越前碑の建設計画は、信弘最晩年の事業であったことになります。

村上水軍 今治水軍博物館

大島を出た吉利の長男吉知と次男吉氏の兄弟のその後を見てみましょう。 
二人は、一千石で肥後の加藤清正に招かれ九州肥後に向かった史料には記されています。その途中で同族の久留島康親(長親)が治める豊後玖珠に立ち寄ります。久留島康親(長親)は来島水軍の後裔で、秀吉時代に来島(今治市)に1万4千石の大名になっていましたが、関ヶ原の戦いで西軍に属して戦いますが、長親の妻の伯父にあたる福島正則の取りなしで家名存続の沙汰を得ます。そして、翌年に、豊後森に旧領と同じ石高で森藩を立藩した所でした。

森陣屋 - お城散歩
豊後森藩陣屋
 そこへやってきたのが島兄弟だったのです。康親は人材登用のために二人に玖珠に留まるよう説得します。結局、康親が吉知に俸禄五百石を提示し、兄弟は加藤家仕官を取りやめて久留島家に仕えることになったようです。史料では玖珠郡大浦・柚木・平立・羽田・野平などで180石を支給され、のちの加増を約束されたとします。しかし、加増は康親の死去で空手形となってしまいます。

村上水軍 来島城
来島(久留島)氏のかつての居城 来島城

 久留島家での吉知の事績はよく分かりません。
ただ元和年間の江戸城築城の際、奉行として江戸へ赴いていたことが文書から確認できます。天下普請へ奉行として派遣されているのですから、藩内ではやり手だったのでしょう。元和八年(1622)に隠居して、寛永五年(1628)に亡くなっています。弟善兵衛吉氏も150石を与えられ、別に一家を立てますが、男子に恵まれず、兄の子官兵衛吉智を養子として家を継がせています。
  吉知の子吉任は大坂の役では、豊臣方からの誘いを密かに受けますが断り、久留島家に留まります
当時久留島家では長親(康親)が没し、世嗣通春は8歳の幼年でした。吉任は大坂出陣を願いますが、許されずに通春の守を命じられます。通春は吉任を深く信頼するようになり、「汝を国老とし大禄を与えん」と戯れたと島家の文書には記されています。(島文書二十六号)。 豊臣家滅亡後の大坂城再築の天下普請には、奉行として大坂に赴き働いています。寛永十四年、島原の乱が起きると、兵を率いて出陣し、同16年、家老に任ぜられ400石を支給されます。主君通春は幼年の時の吉任を覚えていたのかも知れません。
 しかし、それもつかの間で、「故有って書曲村に蟄居」を命じられます。
『島家遺事』は臣下の論ずる所にあらずと、その理由については何も記していません。藩主通春が成長し、親政を始めると伊予以来の譜代の重臣である大林・浅川・二神氏なども次々と職を解かれ、暇をだされているので、その一環だったのかもしれません。
 彼らが再び玖珠に戻り、復権するのは次の通清の時代になってからです。吉任の子吉豊は父とは別途に新しく百石を賜っており、父失脚の歳にも連座せず在勤し、のちには50石の加増を受けています。
その子勝豊は寛文五年(1665)12歳で通清の近習を務め、父知行の内20石を与えられています。
天和二年(1682)久留島靭負(高久)御附となり、さらに靭負が佐伯毛利氏に養子に迎えられると、附侍として二神源人・檜垣文五郎とともに佐伯に赴きます。ところが三人は貞享元年(1684)、突然佐伯から立ち帰り、御暇を願い出ます。どうも靭負や佐伯家中衆との間に、問題を起こして止むなく帰国したようです。三人は直接藩主への弁明を願いますが、藩主の怒りを受けて、召し放ちとなります。

村上水軍 豊後久留島藩 森藩

 勝豊は諸所を流浪の後に、妻の実家片山氏を頼って豊後国東郡安岐郷に移り住みます。
そこで元禄四年(1691)から3年間、日田代官三田次郎右衛門の手代を勤め、それが認められ杵築松平氏から召し出され、速見郡八坂手永の大庄屋役を仰せつかります。こうして藩侯への御目見もすみ、八坂本庄村に居宅を構えます。この措置には、舅片山氏の奔走があったようです。
島吉利の子孫

  八坂は杵築城から八坂川を遡った所にある穀倉地帯でもありました。
勝豊は、その地名をとって八坂清右衛門と名乗り、のち豊島適と号するようになります。八坂手永は石高八千石、村数48ケ村で、杵築藩では大庄屋は地方知行制で、騎士の格式を許されたようです。(「自油翁略譜」)。
 勝豊は男子に恵まれず、国東郡夷村の里正隈井吉本の三男勝任を養子に迎え、娘伝と結婚させます。
少年の頃の勝任は、逸遊を好み三味線を弾く遊び人的な所もあったようですが、 その是非を悟って三味線を火中に投じ、その後は日夜学業に励んだとされます。書に長じ、槍を使い、詩文を好む文化人としての面も持っていました。そのため藩侯松平重休も領内巡察の折には、しばしば勝任を招いて、詩文を交わしたと伝えられます。
 享保元年(1716)、父の職禄を継いで大庄屋となって以後は、勧農に努め、ため池を修復し、灌漑整備に努めます。このため八坂手永では、早魃の害がなかったと云います。その人となりは温雅剛直、廉潔をもって知られ、そのために他人の嫉みを受けることもあったと記されています。(「東皐先生略伝」)。
その後、島氏は代々に渡って、大庄屋を世襲して幕末に至っています。
顕彰碑の発起人となった島永胤は、八坂の大庄屋として若いときから詩文を好み、寛政末年から父陶斎や祖父東皐の詩文集を編集しています。そのような中で先祖のことに考えが及ぶようになり、元祖吉利顕彰のために建碑を思い立ったと研究者は考えているようです。その間に村上島氏に関わる基礎資料を収集して『島家遺事』を編纂し、建碑に備えたのでしょう。そして、文化三年、周防大島の島信弘を訪ねて、文書記録を調査すると共に、建碑への協力を説いたという物語が描けそうです。
八坂村大庄屋の島家は明治になり上州桐生に移ったと伝えられます。その末孫の消息は分かりません。勝豊から永胤に至る、島氏代々の墓は全て八坂千光寺の境内に残っていますが、今は無縁墓になっています。
村上水軍 島家菩提寺千光寺
大分県の八坂千光寺 島家の菩提寺
村上武吉の家老的な存在であった島氏の動きを追ってみました。
名家だけに、その知名度を活かして大名の家臣に再就職することができたようですが、武士として生き抜くことはできず、帰農し大庄屋として生きる道を辿っている点には、豊後も周防の島氏も共通点がありました。以前にお話ししました多度津にやって来て、葛原村を開いた木谷家のことを思い出したりもしました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  福川一徳  『島家遺事』―村上水軍島氏について     瀬戸内海地域史研究第2号 1989年
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  2015年5月号 村上水軍と塩飽水軍 ひととき(ウェッジ社)

塩飽水軍といったことばをよく聞きますが、その実態はどうだったのでしょうか?
村上水軍と海賊

芸予の「村上水軍」と同じような海賊衆が塩飽にもいたのでしょうか?芸予諸島を中心に活動した村上衆は、村上武吉の活躍で小説などにも取り上げられ有名です。これと同じように、備讃瀬戸で活動した集団を「塩飽水軍」と称してきました。しかし、研究が進むにつれて分かってきたことは、塩飽衆は村上水軍ほど活発な活動を行っていないということです。
『南海通記』に塩飽と海賊衆について、次のように記されています。
讃州諸島ヲ命ジ給フ、家資即諸島二兵士ヲ遣シテ守シメ、直島塩飽島二我ガ子男ヲ居置テ諸島
ヲ保守シ、海表ノ非常ヲ警衛ス、足宮本氏高原氏ノ祖也
意訳変換しておくと
(香西)家資は讃州諸島の支配を命じられ、備讃諸島に兵士を進駐させて警備させた。直島と塩飽島には息子を置いて守らせ、海上交通の警固を行った。これが、宮本氏や高原氏の祖先である」

ここには、香西家資の息子が塩飽の宮本氏や高原氏の祖と伝えています。確かに、香西氏は備讃瀬戸を中心に海賊衆を統括し、それぞれの島に拠点を構えています。その拠点が塩飽(本島)でした。

1 塩飽本島
方位は北が下

なぜ塩飽が海賊衆の拠点となったのでしょうか?
     
塩飽は備讃瀬戸の中央にあり、古代から畿内と九州を結ぶ海のハイウエーのジャンクションで、同時にサービスエリアのような役割を果たしてきました。それだけでなく「塩の島・荘園」として、年貢塩を輸送するために船と乗組員(海民)がいました。中世の海民は、輸送船団員であり、同時に海賊衆でした。その海民の統率リーダーが、宮本氏や高原氏であたったということになります。
 南北朝期の瀬戸内海の海賊衆の動きを見ておきましょう。
この時期には海賊衆も南北に分かれて対立します。南朝方についたのは海賊衆も多くいました。これは南朝方の熊野水軍と熊野行者のオルグ活動があったからだと考えられます。熊野行者は児島の「新熊野=五流修験」を拠点に、瀬戸内海エリア全体への布教活動を展開したことは以前にお話ししました。そして芸予諸島では、大山祇神社の鎮座する大三島に拠点を築き、そこから伊予の忽那衆や越知氏への浸透を図ります。そのため芸予の海賊衆は南朝方として登場する勢力が多いようです。
  また、備前国児島郡の佐々木信胤も五流修験と連携する熊野海賊衆と行動を共にして、小豆島を占領し、備讃瀬戸を中心とする東瀬戸内海の制海権掌握をねらいます。

南朝勢力に包囲された塩飽
南朝の熊野水軍陣に包囲された塩飽
 このような情勢の中で、塩飽は北朝勢力の拠点でした。
そのため貞和四/正平三(1348)年4月、南朝方の忽那衆の攻撃を受けることになります。戦いの情況はよく分かりません。この時の攻撃対象は塩飽海賊衆の高原氏で、その拠点は本島北東端の笠島にあったと研究者は考えているようです。街並み保全地区に指定された笠島集落の東にある尾根上に山城跡が残されています。
笠島城 - お城散歩
笠島集落の東の尾根にある笠島城址

この城は、本島の水軍(海賊)の拠点山城とされます。
麓の笠島の港町と湾への直接的な支配・管理の意図がはっきりと見える城郭配置がされています。また、この城に籠もる勢力は、陸上交通で他地域とつながる後背地がありません。海上交通だけに頼った集落と山城の立地です。ある意味、村上水軍の能島との共通性を感じることもできます。『南海通記』を信じるとすれば、これが香西氏の子孫になる高階氏の居城で、高松の香西氏と何らかの従属関係にあったと云うことになります。室町期になると、海賊衆は警固衆として守護のもとへ抱え込まれていきます。 
塩飽本島の笠島と山城の関係
塩飽本島の笠島と城郭の関係

室町時代後半になると、守護大名は海上での武装集団として水軍を組織するようになります。

その先駆けが毛利氏と村上氏の関係に見られます。毛利元就は天文二十二(1553)の厳島合戦で陶晴賢を打ち破りますが、この時に毛利側に与して勝利をもたらしたのが、因島・能島・来島の三島村上衆の組織する水軍でした。これは毛利元就の家臣団に属したものではなく、一時的な「援軍」艦隊と考えた方がよさそうです。これを後世の軍記者は「村上水軍」と記すようになります。その実態は、3つの村上氏の「連合艦隊」で、もともとは「寄せ集めの海賊衆」でした。それが永禄年間(1558~70)後半になると、毛利氏の水軍としてまとまりをもって動くようになり、西瀬戸内海一帯で大きな影響力を誇示するようになります。その時のカリスマ的な指導者が能島の村上武吉です。

村上武吉

それでは塩飽水軍の場合はどうなのでしょうか?      
  南北朝期の海賊衆が、どのように水軍に組織化されたかを示す史料はありません。ただ、後に武吉の子孫たちが萩や岩国の毛利藩の家臣となり、船奉行を務めるようになります。彼らは己の家の存在意義のために、「海戦兵法書」や「村上氏の系図類」を残します。この史料が「村上水軍」を天下に知らしめる役割を果たしてきました。

「村上水軍」という用語は、いつ誰がつくりだしたのか
「村上水軍」という用語は、近世に作りされた。

 塩飽衆には、これに類するモノがありません。それは、大名の家臣となるものが居なかったこともあります。彼らは「人名」になりました。塩飽勤番所に大事に保管されているのは、信長・秀吉・家康の朱印状です。ここには、大名の家臣化として生きる道を選んだ村上氏と、幕府の「人名」として、特権的な船乗り集団となった塩飽衆の生き方(渡世)の仕方にも原因があるような気がします。

村上衆と塩飽衆の相違点
村上衆と塩飽衆の相違点
16世紀初頭の備讃瀬戸をめぐる状況をみておきましょう。
永正五(1508)年頃の細川高国の文書には、次のように記されています。
今度忠節に就て、讃岐国料所塩飽島代官職のこと、宛て行うの上は、いささかも粉骨簡要たるべく候、なお石田四郎兵衛尉中すべき候 謹言
卯月十三日          高国(花押)
村上宮内太夫殿
意訳変換しておくと
この度の(永正の錯乱)における忠節に対して、讃岐国料所の塩飽島代官職に任ずる。粉骨砕身して励むように、なお石田四郎兵衛尉申すべき候 謹言
卯月十三日          高国(花押)
村上宮内太夫殿

村上宮内太夫は能島の村上隆勝のことです。これは永正の錯乱に関わる書状のようです。細川高国が周防の大内義興と連携して、細川澄元と争います。その際の義興上洛の時に、警固衆として協力した恩賞として、塩飽代官職を能島の村上隆勝に与えたものです。塩飽は高国政権下では細川家の守護料所でしたが、政権交代で塩飽代官職は安富氏から村上氏へと移ったことが分かります。この代官職がどのようなものであったかは分かりませんが、村上氏へ代官職が移ったのは、瀬戸内海制海権をめぐる細川氏と大内氏の抗争が、大内氏の勝利に終わったことを示します。同時に、それまで備讃瀬戸に権益を持っていた讃岐安富氏の瀬戸内海からの撤退を意味すると坂出市史は指摘します。

個別「藤井崇『大内義興 西国の「覇者」の誕生』」の写真、画像 - 書籍 - k-holy's fotolife

 永生10(1513)年には、周防の大内義興は足利義植を将軍につけ、管領代として権力を得ます。彼は上洛に際して瀬戸内海の制海権掌握のために、村上氏を警固衆に抱え込みます。さらに義興は、能島の村上槍之助を塩飽へ派遣して、味方するよう呼びかけています。これに応じて、香西氏は大内氏に属し、香西氏に従っていた塩飽衆も大内氏のもとへ組み込まれていきます。義興の上洛に協力した村上氏は、恩賞として塩飽代官職を今度は、大内氏から保証されています。これ以降、塩飽は能島村上氏の支配下に入ります。
「周防大内義興 ー 能島 村上槍之助 ー 讃岐 香西氏 ー 塩飽衆」

という支配体制ができたことになります。

大内氏の瀬戸内海覇権

 細川政元の死去によって、大内氏の勢力は大きく伸張します。
細川氏の支配地域が次々と大内氏に奪われていきます。16世紀になると細川氏に代わって大内氏が瀬戸内海での海上勢力を伸張させていき、備讃瀬戸の塩飽も抱え込んだのです。大内氏は能島村上氏を使って、瀬戸内海を掌握しようとします。その際に、村上氏にとっても塩飽は、東瀬戸内海進出の足がかりとなる重要な島です。ここに代官職を得た能島村上氏がこれを足がかりにして塩飽を支配するようになります。

大内義興はの経済基盤は、日明貿易にありました。そのために明国との貿易を活発に進めようとします。
その際に、明からの貿易船の警固を村上衆だけでなく、塩飽衆へも求めてきます。また永正17(1520)年大内氏が朝鮮出兵の際には、塩飽から宮本体渡守・同助左衛門・吉田彦左衛門・渡辺氏が兵船3艘で参陣したと『南海通記』は記します。これが本当なら塩飽衆は、瀬戸内海を越え、対馬海峡を渡るだけの船と操船技術をもっていたことになります。 大内氏の塩飽衆抱え込みは、日明貿易の貿易船警固だけでなく、朝鮮への渡海役も視野に入れていたようです。

大内氏の塩飽抱え込みのねらいは

天文十八(1549)年、三好好長慶が管領細川晴元と対立した時のことです。
香西元成は晴元に味方して摂津中島に出陣します。この時に塩飽の吉田・宮本氏は、元成の命で兵船を率いて出陣しています。このように、畿内への讃岐兵の輸送には、船が用いられています。西讃岐守護代の香川氏も山路(地)氏という海賊衆を傘下に持ち、山路氏の船で、畿内に渡っていたことは以前にお話ししました。塩飽衆も香西衆の輸送を担当していたようです。

元亀二(1571)年2月、備前児島での毛利氏との戦いにも、塩飽衆は輸送船団を提供しています。
また、毛利氏と敵対した能島村上氏が、拠点の能島城を包囲された時には、阿波の岡田権左衛門とともに兵糧を運び込んでいます。

村上隆勝が塩飽代官職を得て以降、武吉の代になっても村上氏による塩飽支配が続いていたことは次の文書から分かります。
本田治部少輔方罷り上られるにおいては、便舟の儀、異乱有るべからず候、そのため折紙を以て申し候、恐々謹言
永禄十三年六月十五日                                武吉(花押)
塩飽島廻船
意訳変換しておくと
(大友宗麟の命を受けて)本田治部少輔様が上京する際の船に対して違乱を働くな、折紙をつけて申しつける。
永禄十三(1570)年六月十五日                 武吉(花押)
塩飽島廻船

本田治部少輔は、豊後国海部郡臼杵荘を本貫地とする大友宗麟の家臣です。彼は大友家の使者として各地を往来していました。花押のある武吉は能島の村上武吉です。船の準備と警固を命じられているのは塩飽衆です。
ここからは次のようなことが分かります。
①塩飽衆が、能島村上武吉の管理下にあったこと
②塩飽衆が平常は、備讃瀬戸を航行する船に「違乱」を働いていたこと
③それを知っている村上武吉が、本田治部少輔の船には「違乱」をせず、無事に通過させよと指示していること
この指示に対して、宗麟は村上衆に「塩飽表に至る現形あり、おのおの心底顕されるの段感悦候」と書状を送っています。また、堺津への使節派遣にあたり、堺津への無事通行の保障と塩飽津公事の免除を求めています。その際のお礼として甲冑・太刀を贈って礼儀を尽くしています。
 瀬戸内海を航行する船にとって、備讃瀬戸は脅威の海域であり、芸予と塩飽を支配している村上氏に対しての礼儀を尽くすのが慣例になっていたようです。
西国大名たちには、瀬戸内海を航行する時に西瀬戸内海と東瀬戸内海の接点になる塩飽諸島は重要な島でした。そこを支配している村上氏の承認なくして、安全な航行はできなかったようです。
 村上掃部頭に宛てられた毛利元就・隆元連署状には次のように記されています。

一筆啓せしめ候、櫛橋備後守罷り越し候、塩飽まで上乗りに雇い候、案内申し候」
意訳変換しておくと
一筆啓せしめ候、櫛橋備後守の瀬戸内海通行について、塩飽まで「上乗り(水先案内人)」を雇って、案内して欲しい

ここには、塩飽までの航海について、水先案内人をつけて航路の安全通行確保と警固依頼をしています。命じているのではなく依頼しているのです。ここにも能島村上衆が毛利の直接の家臣ではなく、独立した海賊衆として存在していたことがうかがえます。塩飽をめぐって大名たちは、自分たちに有利な形で取り込みを図ろうとします。それだけ塩飽の存在が重要であったことの裏返しになります。

  永禄から元亀年間(1558~73)にかけて、瀬戸内海をめぐる情勢が大きく変化します。
安芸の毛利氏は、永禄九(1566)年に、山陰の尼子氏を滅ばし、その勢力は九州北部から備中まで及ぶようになります。毛利氏に対抗するように備前・播磨に浦上・宇喜多氏が勢力を伸ばします。このような中、元亀二(1571)年になると、毛利氏は浦上・宇喜多を討つために備前侵入を開始します。すでに備前・備中の国境近くの備前国児島の元太城は毛利方の支配下に落ちていました。
元太城は海中に突き出た天神鼻の半島部に位置し、三方が海に面した要害の地です。
この年五月、阿波三好氏の家臣で讃岐を支配していた篠原長房は、阿波・讃岐の兵を率いて備前児島の日比・渋川・下津丼の三ヵ所ヘ上陸します。下津丼に上陸した香西元載は、日比城主・四宮行清と合流し島吉利が守る元太城を攻撃します。東の堀切まで攻め寄せた時、急に激しい雨と濃霧に包まれた中で、城兵の逆襲にあい、香西元載は打ちとられ、四宮氏も敗走したと『南海通記』は記します。そして阿讃勢は児島から撤退します。
 これに対して、足利義昭は小早川隆景に対して6月12日付けの文書で、毛利に亡命中の「香川某」を支援して讃岐に攻め込むことを要請しています。
児島での合戦に塩飽は、どのように関わっていたのでしょうか。
塩飽衆は早くから香西氏の支配下にあったことは述べてきました。そのため児島攻めには直島の高原氏とともに、阿讃勢を児島へと輸送しています。しかし、この時期の塩飽は村上氏の支配下にありました。そのため毛利氏は村上氏を通じて、塩飽を味方につけるために動きます。ところが能島の村上武吉は、裏では周防の大内氏や阿波の三好氏とつながっていたようです。複雑怪奇です。

 それに気づいていた毛利氏は、能島村上氏の支配下にある塩飽の動向には十分注意しています。塩飽衆の中には、三好氏配下の香西氏に従う者もいたからです。そのために毛利氏がとったのが塩飽衆の抱え込み工作です。小早川隆景は、乃美宗勝にこの任務を命じます。宗勝は、後の石山本願寺戦争の際の木津川の戦いで大活躍する人物で、小説「海賊の娘」にも印象的に描かれています。また、その翌年に讃岐の元吉城(琴平町櫛梨城)の攻防戦に、毛利方の大将として多度津に上陸し、三好軍を撃破しています。

 塩飽衆の抱き込み工作の際に、小早川隆景から宗勝に宛てられた書状には次のように記されています。
「塩飽において約束の一人、未だ罷り下るの由候、兎角表裏なすべし段は、申すに及ばず候」

ここには寝返りを約束した塩飽衆が、まだ味方していないことが記されています。さらに六月十三日付の宗勝の書状には「篠右宇見津逗留」とあります。「篠」とは、篠原長房のことで「宇見津」は宇多津のことで、篠原長房は児島から宇多津へ撤退しており、長房が再度備前へ渡海することはないと判断する報告をしています。

以上、だらだらと村上水軍と「塩飽水軍」を対比しながら見てきました。両者には決定的な違いがあると坂出市史は、次のように記します。
①塩飽衆は軍事力を持つ集団ではなく、輸送船団である
②塩飽衆は村上水軍のような強大な軍事力は持つていない。
③むしろ操船技術・航海術に長けた集団で、水主として輸送力の存在が大きかった
④船舶は持っているが、軍船というより輸送船が中心で、海戦を行うだけの人員はいなかった。
⑤戦時に船と水主が動員されるのであり、戦闘集団いわゆる水軍としての組織は十分ではなかった。
塩飽海賊は水軍ではなく輸送船団だった
塩飽水軍と呼べない理由
 整理しておくと、塩飽衆は時の権力者に海上輸送力を利用され、その存在が注目され、誇示されるようになります。それが江戸時代の人名制という特権の上に誇張され、「塩飽水軍」という幻が作り出されたとしておきましょう。
このように塩飽は、信長や秀吉がその勢力を瀬戸内海に伸ばしてくる以前から、瀬戸内海制海権の覇権上最重要ポイントでした。そのため毛利と対抗するようになった信長は、塩飽の抱き込み工作を計ります。また、四国・九州平定から朝鮮出兵を考える秀吉も、塩飽を直轄地として支配し、「若き海の司令官」と宣教師から呼ばれた小西行長の管理下に置くことになります。その際に、東からやって来た信長・秀吉・家康は、塩飽(本島)だけを単独で考えるのではなく、小豆島と一体のものとして認識し、支配体制を作り上げていったと坂出市史はしてきます。

       最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  「海民」は、どんな活動をしていたのか?
室町時代になると、瀬戸内海を生活の場として生きる「海民」の姿が史料の中に見えるようになります。彼らは、漁業・塩業・水運業・商業から略奪にいたるまで、いろいろな生業で活動します。しかし、荘園公領制の下の鎌倉時代には、彼らの姿はありません。荘園公領制の下では農民との兼業状態だったので、見えにくかったのかもしれません。それが南北朝の内乱を経て荘園公領制が緩んでくると、海民たちは荘園領主からの自立し、専門化し活発な活動を始めるようになります。瀬戸内海の「海民の専業化」過程を見てみることにしましょう。
まずは、海運業者です。海運業者といえば「兵庫北関入船納帳」
3兵庫北関入船納帳

 「兵庫北関入船納帳」には、文安二(1445)年の一年間に東大寺領兵庫北関(神戸市)に入船した船舶一般ごとに、船籍地、関銭額、積荷、船頭、問丸などが記されています。この史料の発見によって、船頭がどこを本拠にしたのか、何を積んでどのような海運活動を行っていたのかなどが分かるようになりました。 例えば讃岐船籍の舟を一覧表にすると次のようになります。
兵庫北関1
ここからは中世讃岐で、どんな港活動していたのか、また、その活動状況が推察できます。ここに地名がある場所には、瀬戸内海交易を行っていた商船があり、船乗りや商人達がいた港があったと考えることができます。
  芸予諸島の伊予国弓削島(愛媛県弓削町)を拠点に活動した船頭を見てみましょう。
3弓削荘1
弓削島は「塩の荘園」として、多くの塩を生産して荘園領主東寺のもとへ送りつづけていました。鎌倉時代になると、弓削島荘からの年貢輸送は、梶取(かんどり)とよばれる荘園の名主級農民のなかから選ばれた、操船に長けた人たちが「兼業」として行っていたようです。
 彼らは、中下層農民のなかから選ばれた数人の水夫とともに100~150石積の船に乗りこみ、芸予諸島から大坂をめざします。輸送ルートは、備讃瀬戸・播磨灘・大坂湾をへて淀川をさかのぼり、淀(京都市伏見区)で陸揚げするのが一般的だったようで、所要日数は約1ヵ月です。
siragi

  それが室町時代には、どのように変化したのでしょうか。 
貨客船の船頭太郎衛門の航海
 弓削島船籍の船は、「兵庫北関入船納帳」には、一年間に26回の入関が記録されています。
2兵庫北関入船納帳2
同帳記載の船籍地は約100が記されていますが、そのうちで二〇位以内に入る数値です。ここからも弓削島は、室町中期のおいては、ランクが上位の港であったことが分かります。
 「兵庫北関入船納帳」には船頭の名前もあります。そこで弓削籍船の船頭を見ると九名います。そのなかでもっとも活発に航海しているのは太郎衛門です。「兵庫北関入船納帳」から彼の兵庫湊への入港記録を拾い出してみると、次のようになります。

3弓削荘2
 積荷の「備後」というのは、塩のことです。塩は特産地の地名で呼ばれることが多く、讃岐の塩も方本(潟元)とか島(小豆島)と記されています。備後・安芸・伊予三国にまたがる芸予諸島も、古くから製塩の盛んな地域で、その周辺で生産された塩は「備後」という地名表示でよばれていたようです。
  太郎衛門の航海活動から見えてくることを挙げていきます。
定期的に兵庫北関に入関しています。
1~2ヶ月毎にはやってきています。弓削から淀までの航海日数が約1ヶ月でしたので、ほぼフル回転で舟はピストン輸送状態だったことが分かります。これを鎌倉時代と比べると、かつては梶取(船頭)が百姓仕事の合間をぬって年一回の年貢輸送に従事していました。しかし、室町時代の太郎衛門の舟は、定期的に弓削と京・大坂の間を行き来するようになっています。
北西風が吹き航海が困難とされていた冬の3ヶ月は動いていませんが、それ以外は約2ヶ月サイクルで舟を動かしています。専門の水運業者が定期航路を経営しているようなイメージです。
②太郎衛門の積荷はすべて備後=塩で統一されています
 専門の水運業者とはいっても、現在の宅急便のように何でも運んでいるのではないようです。弓削島周辺の塩を専門に運ぶ専用船のようです。塩の生産地という背景がなければ、太郎衛門のような専業船乗りは登場してこなかったかもしれません。専業船と生産地は切り離せない関係にあるようです。
③積載量が150~170石と一定しています。
 これは、太郎衛門の船の積載能力を示しているのでしょう。彼の舟が200石船であったことがうかがえます。この時代の200石舟というのは、どんなランクなのでしょうか。讃岐の舟と比べてみるましょう。
兵庫北関2
ここからは200石船は、当時としては大型船に分類できることが分かります。太郎衛門は大型の塩専用船の船長で経済力もあったようです。
   客船の船長と運航 
「兵庫北関入船納帳」とは別に、畿内方面からの下り船に対して税を課した記録も東大寺には残っています。「兵庫北関雑船納帳」で、ここには「人船」と記された舟が出てきます。これは客船のようです。船籍地は、堺(大阪府堺市)、牛窓(岡山県牛窓町)、引田(香川県引田町)、岩屋(兵庫県淡路町)なが記されています。ここからは室町時代になると客船が瀬戸内海を行き交っていたことがうかがえます。
   戦国時代天文十九(1550)年に瀬戸内海を旅した僧侶の記録を見てみましょう。京都東福寺の僧梅霖守龍の「梅霖守龍周防下向記」で、ザビエルが鹿児島にやって来た翌年の九月二日に、京都を発ち、十四日に堺津から舟に乗っています。乗船したのは「塩飽の源三」の十一端帆の船です。その舟には
「三〇〇人余の乗客が乗りこみ、船中は寸土なき」
状態であったと記します。短い記述ですが、このころの瀬戸内の船旅についての貴重な情報です。ここから得られる情報は
一つは、船頭源三の本拠、塩飽(香川県)についてです。
塩飽は備讃瀬戸海域の重要な港ですが、同時に水運の拠点でもありました。上の「兵庫北関入船納帳」には、塩・大麦・米・豆などを積みこんだ塩飽船が37回も入関しています。上の表を見ると200石積み以上の大型船が17隻、400石以上の超大型船も3隻いたようです。この大型船の存在は、塩飽の名を瀬戸の船乗り達に知らしめたのではないでしょうか。
 2つめは、源三の船は300人を乗せることができる十一端帆の船だったことです。 十一端帆の船とは、どの程度の大きさなのでしょうか。積石数と趨帆の関係表(『図説和船史話』至誠堂1983年)によると
①九端帆が100石積、
②十三端帆が200石積
程度のようです。源三船は積載量に換算すると100~200石積の船だったようです。
   室町から戦国にかけては、日本造船史上の大きな画期と研究者は考えているようです。
商品流通の飛躍的な進展や遣明船の派遣数の増加などにで船舶が急激に大型化します。そして構造船化された千石積前後の船が登場するのもこの時期のようです。その点では、源三船は従来型の中規模船ということになるのでしょう。それに300人を詰め込み「船中は寸土なき」状態で航海したのでから、今から見ると定員オーバーで乗せ過ぎのように思えたりもします。しかし、それだけの「需要」があったということになります。塩飽の船頭源三のような客船は、このころには各地にみられるようになっていたようです。
   守龍が帰路に利用した船の船頭は「室の五郎大夫」でした。
3室津

「室」は室津(兵庫県室津)のことで、古代からの瀬戸内を航行する船舶の停泊地として有名です。南北朝期の『庭訓往来』には、「大津坂本馬借」「鳥羽白河車借」などとともに「室兵庫船頭」が並んでいます。室津が当時の人びとに兵庫とならぶ船頭の所在地として知られていたことが分かります。このとき守龍は、宮島から堺までの船賃として自身の分三〇〇文、従者の分二〇〇文を室の五郎大夫に支払っています。
1文=75円レートで計算すると 300文×75円=22500円
現在の金銭感覚で修正すると、この3倍~5倍の運賃だったようです。当時の船賃は、現在からすると何倍も高かったのです。自分と従者では船賃が違うのは、この時代から一等・二等のようにランクがあったことがうかがえます。瀬戸内海には、塩飽の源三や室の五郎大夫のように、水運の基地として発展してきた港を拠点にして「客船」を運航する船頭たちが現れていたのです。

3兵庫北関入船納帳4
  客船のお得意さんは、どんな人たちが、何のために利用していたのでしょうか。
もっともよく利用していたのは京都や堺の商人たちであったようです。彼らは南九州の日向・薩摩にやってくる中国船から下ろされた「唐荷」を堺まで運んで莫大な利益を得ていました。その際に、利用したのが室や塩飽の客船だったのです。
 梅霖守龍が「室の五郎大夫」で京に戻った翌年の天文二十年九月、陶晴賢が主君大内義隆を攻め滅ぼします。西瀬戸内海の実権を握った晴賢は翌年に、厳島で海賊衆村上氏が京・堺の商人から駄別料を徴収するのを停止させます。その見返りとして京・堺の商人たちに安堵料一万疋(100貫文)を負担することを要求します。
 この交渉にあたった厳島大願寺の僧円海です。彼は陶晴賢の家臣に対して海賊衆の駄別料徴収を禁止したため逆に海賊船が多くなり、室・塩飽の船にたびたび「不慮の儀」が起きて、京・堺の商人が迷惑していると訴えています。ここからも京・堺の商人が室・塩飽の船を利用していることが分かります。このように、室・塩飽の船頭たちは、
大内氏(陶晴賢)ー 海賊衆村上氏 ー 京・堺の商人
の三者の複雑な三角関係を巧みにくぐりながら瀬戸内海で活動していたようです。
  室・塩飽の船頭の活動は、戦国末期から織豊期にかけてさらに広範囲で活発化します。
信長は石山本願寺との石山合戦を通じて、瀬戸内海の輸送路の重要性を認識し、村上水軍への対抗勢力として塩飽を影響下に置き、保護していきます。秀吉の時代になってもそれは変わらず「四国征伐」の際に豊臣方の軍隊や食料などの後方物資の輸送に活躍します。それは「九州征伐」でもおなじです。
 天正14(1586)年 讃岐領主仙石秀久は、豊後の戸次川の戦いで薩摩の島津氏に大敗します。この時に土佐の長宗我部などの四国連合部隊を輸送したのは、塩飽の舟だとされています。これは「朝鮮征伐」まで続きます。このように、信長・秀吉にとって毛利下の村上水軍に対抗するために塩飽の海上輸送能力が評価され、それが江戸時代の「人名」制度へとつながります。
3村上水軍2

  海民から海賊 、そして海の武士へ飛躍した村上氏
  室町期に活発に活動をはじめたのが海民の「海賊」行為です。
海賊行為は最初は、瀬戸内各地の浦々や島々ではじめられたようです。弓削島荘などもその一つです。南北朝の動乱の中、安芸国の国人小早川氏が芸予諸島に進出しはじめ、荘園領主東寺と対立するようになります。このような在地勢力の「押領」に対して、東寺は、さまざまな手段で対抗します。貞和五(1349)年には、室町幕府に訴えて、二名の使節を島に入部させています。そして下地を東寺の役人に打ち渡すことに成功していますが、それに要した費用を計算した算用状の中に、「野島(能島)酒肴料、三貫文」とあります。これを野(能)島氏の警固活動に対する報酬と研究者は考えているようです。
  このように海賊能島村上氏の先祖は、荘園を警固する海上勢力として姿をあらわします。
 しかし、それだけではありません。この警護活動から約百年後の康正二(1456)年には、安芸国の小早川氏の庶家小泉氏、讃岐国の海賊山路氏とともに、村上氏は弓削荘を「押領」している「悪党」と東寺に訴えられているのです。ここからは能島村上氏には、次の二つの顔があったことがうかがえます。
①荘園領主の依頼で警固活動をおこなう護衛役(海の武士)
②荘園侵略に精を出す海賊
 同じ弓削島荘には、海賊来島村上氏の先祖らしき人物たちの姿も見えます。
①応永二十七(1420)年に、伊予守護家の河野通元から弓削島荘の所務職(年貢納入を請け負った職)を命じられた村上右衛門尉、
②康正二(1456)年に東寺から所務職を請け負った右衛門尉の子の村上治部進
この二人は、「押領」を訴えられた能島村上氏とは対照的に、荘園の年貢納入を請け負うことによって、より積極的に荘園経営にかかわろうとしています。
  荘園の「押領」や年貢請負とは別に、水運に積極的にかかわろうとする海賊もいました。
弓削島の隣の備後国因島(広島県因島市)に拠点をおく因島村上氏です。15世紀前半に、高野山領備後国太田荘(広島県世羅町・甲山町付近)の年貢を尾道から高野山にむけて積み出した記録(高野山金剛峯寺文書)があります。因島村上市の一族が大豆や米を積んで、尾道から堺にむけて何回も航海しています。
 
 また前回に紹介した朝鮮国使として瀬戸内海を旅した宋希環の記録に、帰路に蒲刈(広島県上・下蒲刈島)に停泊した時のことが詳しく書かれていました。
 そこには同行した博多商人・宋金の話として次のようなことを聞いたといいます。瀬戸内海には東西に海賊の勢力分布があり
「東より来る船は東賊一人を載せ来たれば則ち西賊害せず、西より来る船は西賊一人を載せ来たれば則ち東賊害せず」
という海賊の不文律があるというのです。ここには、瀬戸内海を東西に二分した海賊のナワバリの存在、そのナワバリを前提とした海賊の上乗りシステムが示されています。
 同行していた博多の豪商宋金は、銭七貫文を払って東賊一人を雇っていましたが。その東賊が蒲刈島までやってくると西賊の海賊のもとに出向いて話をつけたので、宋希環は蒲刈の海賊とさまざまな交流を持つことになったのは前回紹介しました。
   この蒲刈の海賊は、下蒲刈島の丸屋城を本拠とする多賀谷氏とされます。
多賀谷氏は、もとは武蔵国を本貫とする鎌倉御家人でした。一族が鎌倉時代に伊予国北条郷(愛媛県東予市)に西遷し、さらに南北朝期に瀬戸内海へ進出して海賊化したようです。東国武士が西国で舟に乗り海に進出し、海賊化したのです
 宋希璋の記述からは、航行する船舶から通行料を徴収していたことが分かります。このように海賊の活動する浦々は、兵庫北関のような公的に認められた関とは異なる「私的な海の関所」があったようです。瀬戸内海では、海賊のことを「関」と呼ぶこともあったようです。
 以上のように、瀬戸内海では「海民」が、荘園の警固や「押領」、年貢の請け負い、さらには水運活動、黙綴(通行料)の徴収などさまざまな活動を展開していたことが見えてきます。
   強力な水軍力を有する村上水軍の登場 
戦国時代になると、浦々、島々の海賊が離合集散を繰り返しながら、さらに広範囲な海域を支配し、強力な水軍力をもつ勢力が台頭してきます。それが芸予諸島から生まれてきた、能島、来島、因島などの三村上氏です。

3村上水軍
 戦国期の能島村上氏は、単に本拠をおく芸予諸島ばかりでなく、周防国上関、備中国笠岡(岡山県笠岡市)、備前国本太(岡山県倉敷市)、讃岐国塩飽(香川県)などにも何らかのかたちで影響力を持っていたことがうかがえます。この範囲は、中部瀬戸内海をほぼ包みこんでしまいます。瀬戸内海が西日本の経済の生命線なら、それを握ったのが村上水軍と云うことになります。彼らは平時には、上乗りとよばれる警固活動をおこない、戦時には、水軍として軍事行動を展開することになります。つまり、彼らは「海の武士」でもあったのです。
やっと村上水軍の登場までたどりつくことが出来たようです。
今日はこのあたりで、
おつきあいいただき、ありがとうございました。

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