瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:村上降勝

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勝賀城が国の史跡に登録されました。そのための準備作業として調査報告書が刊行されています。第三巻は総括報告書(考察篇)で、以下のような内容です。

勝賀城調査報告書 目次

ここには香西氏をとりまく情勢だけでなく、讃岐全体を視野に入れた記述がされています。例えば、天霧合戦や元吉合戦などについても、従来の南海通記などの軍記ものに頼らない歴史叙述です。これは20世紀後半から歴史家たちが目指してきた方向です。それが、ある意味で実現しています。讃岐中世史叙述の新たな展開ともいえる出版物だと私は思っています。この調査報告書を読書メモとしてアップしていきます。今回は、香西氏の瀬戸内海へ乗り出していく過程を見ていくことにします。テキストは「勝賀城跡Ⅲ 総括報告書(考察篇)18P 髙松市教育委員会2022年」です。 

ヤマト政権以来の中央政権は、瀬戸内海交通路を押さえることが重要な政治戦略の一つになります
そのためいろいろな対応をとってきました。例えば、ヤマト政権は吉備や讃岐の有力勢力と結びつくことで、瀬戸内海の権益を確保し、それが古代の国家形成につながっていきます。また、平清盛以後も瀬戸内海交易路の確保のために、次のように伊予に拠点を確保しようとしています。

瀬戸内海航路の掌握2

瀬戸内海の有力者を巧みに利用して、瀬戸内海を確保するという政治的戦略を実現していきます。中央政府が備讃瀬戸確保のために利用されたのが香西氏だという見方も出来ます。そういう視点から香西氏の備讃瀬戸進出を見ていくことにします。

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勝賀城周辺4
 勝賀山の北麓に瀬戸内海に面して海浜集落がいくつかありました。これが香西浦です。その中に本津川の下流域の河口を利用する湊が形成されます。兵庫北関入船納帳の讃岐の湊中に「香西」や「幸西」と表記された船が出てきます。この香西浦を支配したのが佐料城を居城としていた香西氏です。香川氏や安富氏のように香西氏も香西浦を拠点として、瀬戸内海に進出することで経済的基盤を固めていきます。
香西氏が海に出ていくきっかけを要約しておくと次のようになります。

香西氏の瀬戸内海進出のきっかけ

①平安時代末期になって国家の支配体制が弛緩し、瀬戸内海で海賊が横行
②海賊追補の下知が出されるも成果は挙がらず
③そこで中央政府は、有力豪族を追補使に任命して、鎮圧をはかりる
④これを契機に平氏は西国へ勢力を伸ばし、瀬戸内海の在地武士と結びつき、政権基盤強化
⑤日宋貿易と瀬戸内海交易で、平清盛は巨大な富を築き、平家全盛へ
⑥平氏を滅ぼした源氏は鎌倉に幕府を開くが、西国に基盤を持たないため、瀬戸内海地域では海賊がまたも横行
⑦鎌倉幕府は西国沿岸の地頭に海賊を召し捕るように命じた。
⑧寛元 4(1246)年 3 月、讃岐国御家人の藤左衛門尉は海賊を搦め捕り六波羅探題へ送った(『吾妻鏡』寛元 4 年 3 月 18 日条)。
⑧の吾妻鏡の記述を『南海通記』(1719年)は、次のようにフォローします。

藤ノ左衛門家資は香西浦宮下に勢揃いし、手島比々より押し出し捕虜百余人を六波羅探題へ送った。その功績により讃岐諸島の警護役に任じられ、直島と塩飽に息子を置いて統治した。これが、直島の高原氏、塩飽の宮本氏の祖と伝える(『南海通記』巻廿一)。

ここでは吾妻鏡に、海賊退治に活躍した藤左衛門尉が、香西家資とされています。そして、香西浦の宮下から船を出して海賊盗伐に出陣したこと、その功績によって「讃岐諸島の警護役」に任命されたとあります。『南海通記』は享保 4(1719)年に香西成資が古老からの聞き書きを基に著した書です。祖先の香西氏の功績を過大評価するなど、史料的に問題があることはこれまでにもお話しした通りです。

讃岐綾氏から羽床氏へ

 吾妻鏡に出てくる「藤左衛門尉」は、古代綾氏の流れを汲むという讃岐藤原氏の一門のようです。それが香西家資だと云うのです。「古代の讃岐綾氏 → 讃岐藤原氏 → 羽床氏 → 香西氏」という流れを南海通記は強調します。ここでは香西氏が香西浦を拠点にして、備讃瀬戸にでていくのが鎌倉時代の海賊盗伐が契機になったという説を押さえておきます。
それから約200年後のことです。
応永 27(1420) 年に、李氏朝鮮の官人宗希璟が回礼使として日本を訪れます。
その紀行文『老松堂日本行録』に、瀬戸内海の海賊が出てきます。海賊衆は海賊行為を行わない代わりに海上警固と称して、酒肴料・中立料などの名目で警固料をとっていました。宗希璟が京都からの帰途、備前沖を過ぎる時に護送の一員であった謄資職が乗船してきて酒を飲んでいます。これは酒肴料を支払ったことを示すものです。「謄資職=香西資載」のことで、当時の香西浦付近を航行する船の警固衆だったというのです。そうだとすると、香西氏は塩飽・小豆島を含む備讃瀬戸一帯の通航権を握っていたこと、その基地が香西浦にあったことになります。以上を整理しておきます。
①鎌倉期から香西氏は目の前の備讃瀬戸一帯へと勢力を伸ばした
②その拠点となるのが香西浦だった
③香西浦は軍港と商港を兼ね合せた湊で、船が多数係留されていた
④船と水運に関わる人々によって形成された集落が早い段階から香西浦に出現していた。
 ここからは香西氏が、備讃瀬戸一帯に勢力を伸ばし、交易や海上輸送を行う一方で、警固役と称して警固料を徴収するなどして莫大な利益をあげていたことがうかがえます。その拠点となる香西浦にも、多数の軍船や輸送船が停泊していたということになります。
 
   南海通記の「香西氏が塩飽を支配下に置いていた」という説に対する疑問
しかし、史料的には香西氏が塩飽や小豆島を支配下に置いていたと云うことを裏付けることはできません。史料が語るのは次のようなことです。
①管領細川氏は、従来は宇多津と塩飽の管理権を、西讃守護代の香川氏に与えていた。
②文安2年(1445)に、宇多津・塩飽の港湾管理権を、香川氏から安富氏に移管させた。
③文明5年(1473)12月8日、細川氏奉行人家廉から安富新兵衛尉元家へ、兵庫関へ寄港しない塩飽船を厳しく取り締まるようにとの通達が送られている。
④ここからは塩飽に代官「安富左衛門尉」が派遣され、安富氏の管理下に置かれていたことが分かる。
香西氏が浦代官を派遣し管理権を握っていたのは仁尾なのです。塩飽は安富氏の管理下にあったことは以前にお話ししました。
 以上からは南海通記の記すように、香西氏が塩飽を支配していたということをそのままは信じることはできません。時期を限定しても15世紀後半以後は、塩飽は香西氏の管理下にはなかったことになります。そして、南海通記は香西氏が仁尾の管理権を持っていたことについては何も触れていません。 

塩飽の支配権推移

   その後の塩飽をめぐる管理権を見ておきましょう。
 香西氏によって管領細川政元が暗殺されます。これによって細川氏内部での抗争が展開し、「永世の錯乱」という大混乱に陥ります。その中で台頭してくるのが周防の大内氏です。永生5(1508)年、大内義興は足利義植を将軍につけ、細川高国が管領となります。大内義興は上洛に際し、瀬戸内海の制海権を握ろうとします。そのために、海賊(海の武士団)村上氏を味方に組み込むと同時に、塩飽へも働きかけます。こうして塩飽は、大内氏に従うようになります。自分たちの利益を擁護してくれない細川氏を見限ったのかもしれません。
   永正五(1507)年前後とされる細川高国の宛行状には、次のように記されています。
  今度の忠節に対して、讃岐国料所である塩飽島代官職を与えるものとする。粉骨精勤すること。石田四郎兵衛尉可申す候、謹言
         (細川)高国(花押)
卯月十三日
村上宮内太夫(村上降勝)殿
村上宮内太夫は、能島の村上降勝で海賊大将武吉の祖父にあたります。大内義興の上洛に際して協力した能島村上氏に、恩賞として塩飽代官職が与えられていることが分かります。政権交代にともない塩飽代官職は安富氏から能島村上氏へと移ったのです。これはある意味、瀬戸内海の制海権を巡る細川氏と大内氏の抗争に決着をつける終正符とも云えます。細川政元の死により、大内氏の勢力伸張は伸び、備讃瀬戸エリアまでを配下に入れたということでしょう。
 ここでは16世紀初頭には、細川氏に代わって大内氏が備讃瀬戸に海上勢力を伸張させ、塩飽は村上水軍の管理下に置かれたことを抑えておきます。ここでも香西氏による塩飽支配は認められません。
 村上降勝の孫の武吉の時代になると、能島村上氏は塩飽の船方衆を支配下に入れて船舶や畿内に至る航路を押さえます。香西氏は、このような中で大伴氏と結び、村上水軍に従う形で瀬戸内海や東アジア交易で富を獲得していたとしておきます。

惣村形成背景

 室町期になると、産業経済の発展に伴い、各地の特産物などの多くの物資が瀬戸内海を利用して輸送されるようになります。香西湊へも周辺地域から物資が集積され、畿内へ輸送されるとともに、各地へと出向きその地の特産物などを輸送する輸送船が活動するようになります。

中世の瀬戸内海交易の持つ重要性が史料として見えるようになったのが『兵庫北関入舩納帳』の発見でした。

3兵庫北関入船納帳3.j5pg
 
『兵庫北関入舩納帳』は、東大寺が摂津国に設置した兵庫北関の通行税徴収台帳です。ここには文安 2(1445) 年 の約 1 年余りの入関船の記録が記されています。この史料の研究が進むにつれて、瀬戸内海の人とモノと富の動きが見えてくるようになりました。例えば讃岐については、西讃守護代を務めた香川氏が多度津を拠点にして、交易活動を行い、大きな富を得ていたこと。それが戦国大名への脱皮の原動力となっていたこと。また東讃守護代の安富氏も宇多津や小豆島などの備讃瀬戸東部の交易を通じて富を得ていたことは以前にお話ししました。つまり、讃岐の有力武士団は、瀬戸内海への進出拠点(湊・浦)を持ち、瀬戸内海や東アジアとの交易活動を通じて富を得ていたことになります。それが武士団成長の原動力でもあったのです。それでは、香西浦はどうだったのでしょうか?
兵庫北関入船納帳 讃岐船の港分布図
                兵庫北関入船納帳の讃岐の湊分布図

兵庫北関1
兵庫北関に入港して関税を納めた讃岐船の船籍と、その数が示されています。ここからは次のような事が読み取れます。
①讃岐からは17の湊の船が入港していたこと。船籍地の数は、播磨国に次いで第 2 位。
②入関回数は合計237 回で、摂津・備前・播磨に次ぎ第 4 位
③香西(幸西)湊の入港数は1年間で6隻、一番多い宇多津船は47隻
それでは、讃岐の船は何を積んでいたのでしょうか?

兵庫北関入船納帳 積荷一覧表
横欄が讃岐の各湊一覧、縦が積載品目(全30品目)と積載量です。一番多いのは宇多津です。
讃岐船の積載品は 30 品目ですが、積荷の8割が塩です。讃岐船は、「塩船」だったことになります。
左から7番目が香西です。塩がどのように表記されているのかを見ておきましょう。
兵庫北関入船納帳 船籍地毎の塩通関
讃岐船の積荷で一番多いのは・・塩
讃岐の欄の下から2番目に香西湊があります。4回の入港の際の積荷が「詫間2・方本1・小島1(児島)」と見えます。これはすべて塩で、生産地名で呼ばれています。これを「地名指示商品」と呼ぶようです。他の船の積荷の「地名指示商品」を見ると、詫間・方本が当時の塩の主要生産地だったことが分かります。讃岐各地の船が、詫間や方本に出向いて塩を積んで畿内に輸送しています。面白いのは香西船は備讃瀬戸対岸の小島(備前児島)で生産された塩も運んでいることです。香西氏をつうじての関係があったことがうかがえます。船乗りたちにとって、海は隔てるものではなく、船で結びつけるものだったのです。
兵庫北関入船納帳には、入港した船の積載量も記されています。
兵庫北関入船納帳 讃岐船の規模構成表
兵庫北関入船納帳 船籍地別の入港船規模一覧
ここからは次のような情報が読み取れます。
①300石以上の大型船は、30隻で全体数の1/8。
②大型船は塩飽・嶋(小豆島)・方本などに多く、塩専用船であった。
③100石以下の小型船は、137隻で、過半数を占める。
④香西には、50石未満1隻、100石未満4隻、300石以上1隻の6隻が入港している。

香西船だけを取り出して、入港日と積荷を見てみましょう。
兵庫北関入船納帳
 5月15日の便は、タクマ350石とあります。これは詫間産の塩350石を運んだということです。研究者が注目するのが、米に混じって「赤米」とあることです。『入舩納帳』全体で赤米輸送は 10 船で、そのうちの77 船が讃岐船です。これは赤米が讃岐の特産物であったことを示すと研究者は考えています。赤米はは西讃地方に多かったようですが、高松周辺では香西船だけが輸送しています。このことから香西周辺で赤米が栽培されていたことがうかがえます。赤米は貧弱な土地でも栽培できます。また、米の輸送量からみると、香西では稲作が盛んに行われていたとは考えにくく、香西周辺は決して豊かな穀倉地帯ではなかったことがうかがえます。

DSC03842兵庫入船の港
    「兵庫北関入船納帳」記載の船の動き 香西湊がひとつの拠点となって機能している

赤米など本津川流域で生産されたものが、河川水運を利用して河口の香西浦に集められ、湊から積み出されたとしておきます。このように『入舩納帳』からは、15世紀半ばの香西浦が讃岐の湊の一つとして機能していたことが分かります。

問丸から問屋へ2

 次に讃岐の各湊の問丸を見ておきましょう。
兵庫北関入船納帳 船籍地別の問丸
下から6番目が香西湊で、問丸は「道観」とあります。「道観」の名前は志度にも見えます。更に一族と考える道祐・道念などの名があります。彼らはあるときには競合しながらも、ネットワークを結んで、情報を共有しながら交易活動を展開していたことが考えられます。瀬戸内海交易ネットワークの一端に香西湊もあったことを押さえておきます。

 それでは香西浦の湊は、どこにあったのでしょうか?
  幕末の讃岐国名勝図会の香西浦を見てみましょう。

香西浦 2

①勝賀山の裾野に寺社が東西に建ち並んでいます。
②中央の小高い岡の上に藤尾八幡が鎮座し、中宮寺などが囲んでいます。ここが藤目城跡です。
③手前に愛染川が流れ、髙松街道にかかる橋の北側から広くなります。
④ここには多くの船や、川をさかのぼって行く川船が描かれています。
⑤ここが香西浦で、加茂明神が鎮座しています。

2香西合戦図2b
香西浦周辺

明治期の「笠居村之内字香西地引図面」を見ておきましょう。
香西氏 藤尾城と湊

①「舩入川」とあるのが愛染(あいぜん)川。船が入ってきていたことが分かる。
②舩入川の岸に沿って家屋が並んでいる。
③湊から町中への通路は迷路化していて、袋小路・かぎ形の様相を呈している。
④江戸時代には、漁業基地として多数の漁民が集住していた。
⑤「香西の町はむきむき」と称されるように、多数の民家が勝手な方向を向いて立ち並んで繁栄していた。
⑥平時は漁業に従事していたが、参勤交代の際には臨時御用として水主役が課せられた。

以上から、「愛染川=舟入川」で河口部に舟入があり、漁民たちなどが密集した集落を形成していたようです。現在の香西港も愛染川の河口部にあって、いまもそこには多くの漁船の船溜まりがあります。以上の史料から、愛染川の河口に湊があって、香西氏はこの湊を水運・水軍の拠点として、備讃瀬戸へ勢力を伸ばしたとしておきます。
 また藤尾城は、天正3(1575) 年に築城されたといわれています。湊は城のすぐ北に位置するので、藤尾城の築城は湊と連携する地を選んだことがうかがえます。

最後に当時の香西浦の地形復元を見ておきましょう。

北山氏は、地形図や現地踏査を行って中世の香西浦を次のように復元しています(北山 2009年)。

香西氏 藤尾城と湊2

本津川の河口に東西に伸びる砂堆があり、その内側に港湾機能をもつ入江があった姿で復元されています。しかし、これについては次のような異議が出されています。
①精密地図で見ると、北山氏が砂堆とする場所は微高地にはなっていない
②髙松平野の扇状地形成過程からみても本津川が運んだ堆積物によって香西浦は陸地化していて、砂堆があったとは考えにくい
③北山氏が入江とした部分からは、中世の遺構が出土している
そして、次のような復元図を示しています。
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香西浦の海岸線復元図(黒太実線)
 これだと愛染川に河口にあって、すぐ海に出られたことになります。本津川流域で生産されたものが、河川水運を利用して河口の香西浦に集められ、湊から積み出すには最適な場所だったようです。

以上を整理して起きます。
①佐料城を拠点としていた香西氏は、香西浦を勢力下に置いて備讃瀬戸への進出を計った。
②それは海賊盗伐や瀬戸内海航路の安全確保など中央政府の意向に沿うものでもであった。
③香西氏は、塩飽や小豆島を権益下を置くことによって備讃瀬戸警護の役割を担った。
④兵庫北関入船納帳には、香西浦が瀬戸内海交易ネットワークのひとつの拠点として機能していたことを示す。
⑤瀬戸内海交易や情報は、香西氏に経済的利益をもたらし、これが京都で活躍する財政基盤となった。
⑥香西湊は愛染川河口にあり、後にはその近くにあらたな拠点である藤尾城を築城した。
⑦これは瀬戸内海交易への積極的な進出を示すものと考えられる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「勝賀城跡Ⅲ 総括報告書(考察篇)18P 髙松市教育委員会2022年」
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    讃岐の守護と守護代 中世の讃岐の守護や守護代は、京都で生活していた : 瀬戸の島から
安富氏は讃岐守護代に就任して以来、ずっと京都暮らしで、讃岐については又守護代を置いていました。そのため讃岐のことよりも在京優先で、安富氏の在地支配に関する記事は、次の2つだけのようです。
①14世紀末の安富盛家による寒川郡造田荘領家職の代官職を請負
②15世紀前半の三木郡牟礼荘の領家職・公文職に関わる代官職を請負
香川氏などに比べると、所領拡大に努めた形跡が見られません。長禄四年(1460)9月、守護代安富智安は守護細川勝元の施行状をうけて、志度荘の国役催促を停止するよう又守護代安富左京亮に命じています。ここからは、安富氏が讃岐守護の代行権を握っていたことは確かなようです。一方、塩飽については、香西氏が管理下に置いていたと「南海通記」は記します。安富氏は塩飽・宇多津の管理権を握っていたのでしょうか。今回は安富氏の塩飽・宇多津の管理権について見ておきましょう。テキストは「市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界」です。 
塩飽諸島絵図
塩飽諸島
塩飽は古代より海のハイウエーである瀬戸内海の中で、ジャンクションとサービスエリアの両方の役割を果たしてきました。瀬戸内海を航行する船の中継地として、多くの商人が立ち寄った所です。そのため塩飽には、重要な港がありました。これらの港は鎌倉時代には、香西氏の支配下にあったと「南海通記」は伝えます。それが南北朝期には細川氏の支配下になり、北朝方勢力の海上拠点になります。やがて室町期になると支配は、いろいろと変遷していきます。
讃岐守護であり管領でもあった細川氏の備讃瀬戸に関する戦略を最初に確認しておきます。
応仁の乱 - Wikiwand
細川氏の分国(ブルー)  
当時の細川氏の経済基盤は、阿波・紀伊・淡路・讃岐・備中・土佐などの瀬戸内海東部の国々でした。そのため備讃瀬戸と大坂湾の制海権確保が重要課題のひとつになります。これは、かつての平家政権と同じです。瀬戸内海を通じてもたらされる富の上に、京の繁栄はありました。そこに山名氏や大内氏などの勢力が西から伸びてきます。これに対する防御態勢を築くことが課題となってきます。そのために宇多津・塩飽・備中児島を結ぶ戦略ラインが敷かれることになります。
このラインの拠点として戦略的な意味を持つのが宇多津と塩飽になります。宇多津はそれまでは、香川氏の管理下にありましたが、香川氏は在京していません。迅速な動きに対応できません。そこで、在京し身近に仕える安富氏に、宇多津と塩飽の管理権を任せることになります。文安二年(1445)の「兵庫北関入船納帳」には、宇多津の港湾管理権が香川氏から安富氏に移動していることを以前にお話ししました。こうして東讃守護代の安富氏の管理下に宇多津・塩飽は置かれます。これを証明するのが次の文書です。
 応仁の乱後の文明5年(1473)12月8日、細川氏奉行人家廉から安富新兵衛尉元家への次の文書です。

摂津国兵庫津南都両関役事、如先規可致其沙汰候由、今月八日御本書如此、早可被相触塩飽島中之状如件、
文明五十二月十日                           元家(花押)
安富左衛門尉殿
意訳変換しておくと
摂津国兵庫津南都の両関所の通過について、先規に従えとの沙汰が、今月八日に本書の通り、守護細川氏より通達された。早々に塩飽島中に通達して守らせるように
文明五年十二月十日                           元家(花押)
安富左衛門尉殿
細川氏から兵庫関へ寄港しない塩飽船を厳しく取り締まるように守護代の安富氏に通達が送られてきます。これに対して12月10日付で守護代元家が安富左衛門尉宛に出した遵行状です。
 ここからは、塩飽に代官「安富左衛門尉」が派遣され、塩飽は安富氏の管理下に置かれていることが分かります。
安富元家は、守護代として在京しています。そのため12月8日付けの細川氏奉行人の家廉左衛門尉からの命令を、2日後には京都から塩飽代官の安富左衛門尉に宛てて出しています。仁尾が香西氏の浦代官に管理されていたように、塩飽は安富氏によって管理されていたことが分かります。
この 命令系統を整理しておきましょう
①塩飽衆が兵庫北関へ入港せず、関税を納めずに通行を繰り返すことに関して管領細川氏に善処依。これを受けて12月8日 守護細川氏の奉行人家廉から安富新兵衛尉元家(京都在京)へ通達
②それを受けて12月10日安富新兵衛尉元家(京都在京)から塩飽代官の安富左衛門尉へ
③塩飽代官の安富左衛門尉から塩飽島中へ通達指導へ

文安二年(1445)に宇多津・塩飽の管理は、安富氏に任されたことを見ました。それから約30年経っても、塩飽も安富氏の管理下に置かれていたようです。南海通記の記すように、香西氏が塩飽を支配していたということについては、疑いの目で見なければならなくなります。時期を限定しても15世紀後半には、塩飽は香西氏の管理下にはなかったことになります。
それでは、安富氏は塩飽を「支配」できていたのでしょうか?
細川氏は塩飽船に対して「兵庫北関に入港して、税を納めよ」と、代官安富氏を通じて何回も通達しています。しかし、それを塩飽衆は守りません。守られないからまた通達が出されるという繰り返しです。
 塩飽船は、山城人山崎離宮八幡宮の胡麻(山崎胡麻)を早くから輸送していました。そのために、胡麻については関銭免除の特権を持っていたようです。しかし、これは胡麻という輸送積載品にだけ与えられた特権です。自分で勝手に拡大解釈して、塩飽船には全てに特権が与えられたと主張していた気配があります。それが認められないのに、塩飽船は兵庫関に入港せず、関税も納めないような行動をしています。
 翌年の文明6年には、塩飽船の兵庫関勘過についての幕府奉書が興福寺にも伝えられ、同じような達しが兵庫・堺港にも出されています。その4年後の文明10年(1478)の『多聞院日記』には「近年関料有名無実」とあります。塩飽船は山崎胡麻輸送の特権を盾にして、関税を納めずに兵庫北関の素通りを繰り返していたことが分かります。
 ついに興福寺は、塩飽船の過書停止を図ろうとして実力行使に出ます。
興福寺唐院の藤春房は、安富氏の足軽を使って塩飽の薪船10艘を奪います。これに対し、塩飽の雑掌道光源左衛門は過書であるとして、塩飽の人々を率いて細川氏へ訴えでます。興福寺は藤春房を上洛させて訴えます。結果は、細川氏は興福寺を勝訴とし、塩飽船は過書停止となります。この旨の奉書が塩飽代官の安富新兵衛尉へ届けられ、塩飽船の統制が計られていきます。
 細川政元の死後になると、周防の大内氏が勢力を伸ばします。
永生5(1508)年、大内義興は足利義植を将軍につけ、細川高国が管領となります。義興は上洛に際し、瀬戸内海の制海権掌握を図り、三島村上氏を味方に組み込むと同時に、塩飽へも働きかけます。こうして塩飽は、大内氏に従うようになります。自分たちの利益を擁護してくれない細川氏を見限ったのかもしれません。この間の安富氏を通じた細川氏の塩飽支配についてもう少し詳しく見ておきましょう。
香西氏の仁尾浦に対する支配と、安富氏の塩飽支配を比較してみましょう。
①細川氏は仁尾浦に対して、海上警備や用船提供などの役務を義務づける代償に、上賀茂神社から課せられていた役務を停止した。
②そして仁尾浦を「細川ー香西」船団の一部に組織化しようとした
③仁尾町場の「検地」を行い、課税強制を行おうとした。
④これに対して仁尾浦の「神人」たちは逃散などの抵抗で対抗し、仁尾浦の自立を守ろうとした。
以上の仁尾浦への対応と比較すると、塩飽には直接的に安富氏との権利闘争がうかがえるような史料はありません。安富氏が塩飽を「支配」していたかも疑問になるほど、安富氏の影が薄いのです。「南海通記」には、塩飽に関して安富氏の記述がないのも納得できます。先ほど見た「関所無視の無税通行」の件でも、代官の度重なる通達を塩飽は無視しています。無視できる立場に、塩飽衆はいたということになります。安富氏が塩飽を「支配」していたとは云えないような気もします。
永正五(1507)年前後とされる細川高国の宛行状には、次のように記されています。
  就今度忠節、讃岐国料所塩飽島代官職事宛行之上者、弥粉骨可為簡要候、猶石田四郎兵衛尉可申す候、謹言、
高国(花押)
卯月十三日
意訳変換しておくと
  今度の忠節に対して、讃岐国料所である塩飽島代官職を与えるものとする。粉骨精勤すること。石田四郎兵衛尉可申す候、謹言
         高国(花押)
卯月十三日
村上宮内太夫(村上降勝)殿
村上宮内太夫は、能島の村上降勝で、海賊大将武吉の祖父にあたります。大内義興の上洛に際して協力した能島村上氏に、恩賞として塩飽代官職が与えられていることが分かります。高国政権下では御料所となり、政権交代にともない塩飽代官職は安富氏から村上氏へと移ったようです。これはある意味、瀬戸内海の制海権を巡る細川氏と大内氏の抗争に決着をつける終正符とも云えます。細川政元の死により、大内氏の勢力伸張は伸び、備讃瀬戸エリアまでを配下に入れたということでしょう。
 ここからは、16世紀に入ると、細川氏に代わって大内氏が備讃瀬戸に海上勢力を伸張させこと、その拠点となる塩飽は、大内氏に渡り、村上氏にその代官職が与えられたことが分かります。
 そして村上降勝の孫の武吉の時代になると、能島村上氏は塩飽の船方衆を支配下に入れて船舶や畿内に至る航路を押さえ、塩飽を通過する船舶から「津公事」(港で徴収する税)を徴収するなど、その支配を強化させていきます。東讃岐守護代の安富氏による塩飽「管理」体制は15世紀半ばから16世紀初頭までの約60年間だったが、影が薄いとしておきます。つまり、細川氏の備讃瀬戸防衛構想のために、宇多津と塩飽の管理権を与えられた安富氏は、充分にその任を果たすことが出来なかったようです。塩飽は、能島村上氏の支配下に移ったことになります。

次に、安富氏の宇多津支配を見ておきましょう。
  享禄2(1526)年正月に、宇多津法花堂(本妙寺)にだされた書下です。
当寺々中諸課役令免除上者、柳不可有相連状如件、
享禄二正月二十六日                      元保(花押)
宇多津法花堂
意訳変換しておくと
宇多津法華堂を中心とする本妙寺に対して諸課役令の免除を認める。柳不可有相連状如件、
享禄二正月二十六日                      元保(花押)
宇多津法花堂
花押がある元保は、安富の讃岐守護代です。この書状からは、16世紀前半の享禄年間までは、宇多津は安富氏の支配下にあったことが分かります。塩飽の代官職は失っても、宇多津の管理権は握っていたようです。
天文10年(1541)の篠原盛家書状には、次のように記されています。
当津本妙寺之儀、惣別諸保役其外寺中仁宿等之儀、先々安富古筑後守折昏、拙者共津可存候間、指置可申也、恐々謹言、
天文十年七月七日                   篠原雅楽助 盛家(花押)
字多津法花堂鳳鳳山本妙寺
多宝坊
意訳変換しておくと
本港(宇多津)本妙寺について、惣別諸保役やその他の寺中宿などの賦役について、従来の安富氏が保証してきた権利について、拙者も引き続き遵守することを保証する。   恐々謹言
天文十(1541)年七月七日                   篠原雅楽助 盛家(花押)
字多津法花堂鳳鳳山本妙寺
多宝坊
夫役免除などを許された本妙寺は、日隆によって開かれた日蓮宗の寺院です。尼崎や兵庫・京都本能寺を拠点とする日隆の信者たちの中には、問丸と呼ばれる船主や、瀬戸内海の各港で貨物の輸送・販売などをおこなう者や、船の船頭なども数多くいたことは以前にお話ししました。彼ら信者達は、日隆に何かの折に付けて、商売を通じて耳にした諸国の情況を話します。そして、新天地への布教を支援したようです。
 例えば岡山・牛窓の本蓮寺の建立に大きな役割を果たした石原遷幸は「土豪型船持層」で、船を持ち運輸と交易に関係した人物です。石原氏の一族が自分の持舟に乗り、尼崎の商売相手の所にやってきます。瀬戸内海交易に関わる者達にとって、「最新情報や文化」を手に入れると云うことは最重要課題でした。尼崎にやって来た石原氏の一族が、人を介して日隆に紹介され、法華信徒になっていくという筋書きが考えられます。このように日隆が布教活動を行い、新たに寺を建立した敦賀・堺・尼崎・兵庫・牛窓・宇多津などは、その地域の海上交易の拠点港です。そこで活躍する問丸(海運・商業資本)と日隆との間には何らかのつながりのあったことが見えてきます。
 宇多津の本妙寺の信徒も兵庫や尼崎の問丸と結んで、活発な交易活動を行い富を蓄積していたことがうかがえます。その経済基盤を背景に本妙寺は発展し、伽藍を整えていったのでしょう。ある意味、本妙寺は畿内を結ぶパイプの宇多津側の拠点として機能していた気配があります。
 だからこそ、安富氏は経済的な支援の代償に本妙寺に「夫役免除」の特権を与えているのです。安富氏に代わった阿波三好家の重臣篠原氏も引き続いての遵守する保証を与えています。ここからは、1541年の段階で、篠原氏が字多津を支配したこと、本妙寺が宇多津の海上交易管理センターの役割を果たしていたことが分かります。つまり安富氏の宇多津支配は、この時には終わっているのです。
 またこの文書からは、安富氏も篠原氏も直接に宇多津を支配していたのではないことがうかがえます。
これは三好長慶の尼崎・兵庫・堺との関係とよく似ています。長慶は日隆の日蓮宗寺院を通じての港「支配」を目指していたようです。篠原長房も本妙寺や西光寺を通じて、宇多津港の管理を考えていたようです。
 戦国期になると守護細川氏や守護代の安富氏の勢力が弱体化し、阿波三好氏が讃岐に勢力を伸ばしてきます。そうした中で、安富氏の宇多津支配は終わったことを押さえておきます。
 浄土真宗が「渡り」と呼ばれる水運集団を取り込み、瀬戸内海の港にも真宗道場が姿を現すようになることは以前にお話ししました。
宇多津にも大束川河口に、西光寺が建立されます。西光寺は石山本願寺戦争の際には、丸亀平野の真言宗の兵站基地として戦略物資の集積・積み出し港として機能しています。ここにも「海の民」を信者として組織した宗教集団の姿が見えてきます。その積み出しを、篠原長房が妨害した気配はないようです。宇多津には自由な港湾活動が保証されていたことがうかがえます。
 以前に、細川氏から仁尾の浦代官を任じられた香西氏が町場への課税を行おうとして仁尾住民から逃散という抵抗運動を受けて住民が激減して、失敗に終わったことを紹介しました。当時の堺のように、仁尾でも「神人」を中心とする自治的な港湾運営が行われていたことがうかがえます。だとすると、塩飽衆の「自治力」はさらに強かったことが推測できます。そのような中で、代官となった安富氏にすれば、塩飽「支配」などは手に余るものであったのかもしれません。その後にやって来た能島村上衆の方が手強かった可能性があります。

以上をまとめておくと
①管領細川氏は、備讃瀬戸の制海権確保のために備中児島・塩飽・宇多津に戦略的な拠点を置いた。
②宇多津・塩飽の管理権を任されたのが東讃守護代の安富氏であった。
③しかし、安富氏は在京することが多く在地支配が充分に行えず、宇多津や塩飽の「支配」も充分に行えなかった
④その間に、塩飽衆や宇多津の海運従事者たちは畿内の問丸と結び活発な海上運輸活動を行った。
⑤その模様が兵庫北関入船納帳の宇多津船や塩飽船の活動からうかがえる。
⑥細川氏の備讃瀬戸戦略は失敗し、大友氏の進出を許すことになり、塩飽代官には能島村上氏が就くことになる。
⑦守護細川氏の弱体化に伴い、下克上で力を伸ばした阿波三好が東讃に進出し、さらにその家臣の篠原長房の管理下に宇多津は置かれるようになる。
⑧しかし、支配者は変わっても宇多津・塩飽・仁尾などの港は、「自治権」が強く、これらの武将の直接的な支配下にはいることはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界 
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