瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:来島村上氏

厳島合戦その8 | テンカス・気まぐれ1人旅
     厳島合戦
 戦国期は、海賊衆の活動の最もめざましい時代を向かえます。しのぎをけずりあう周辺の戦国領主たちにとって、厳島合戦のように村上氏海賊衆の水軍力が勝敗の決め手になることもありました。その軍事力や制海権、輸送力は垂涎の的になります。多くの戦国領主が、村上水軍を味方につけようと画策するようになります。村上氏関係文書の中に残されている山名・河野・大内・毛利・小早川・大友・織田・羽柴などの各氏の発給文書の存在が、そのことを雄弁に物語ります。そして、村上氏がその期待に応えて、各地の合戦に多くの戦功を挙げます。

村上水軍と海賊

室町時代の海賊衆は警固活動だけでなく、海上輸送業も行っていたようです。
ただ近世になると、軍記物では戦いばかりに目が向けられ、平和時の日常的な輸送活動については描かれることがなかったために、抜け落ちてしまっているようです。
 海賊衆の中で最も多くの文書を残しているのは、村上氏です。村上各家に残されている文書をみてみると、その大部分は戦時における一族の活躍を伝えるもので、それ以外のものあまりありません。これは村上各家の文書の伝来のしかたに、一種の偏りがあるからだと研究者は指摘します。村上各家に保存されてきた文書は、膨大な文書の中から各家にとって、残しておく価値ありと判断されたものが保存されてきました。それは、戦時に各大名から戦功を賞して与えられた感状や安堵状です。輸送業務部門の日常的な記録は、意味のないものだったのかもしれません。今に残る村上氏関係文書は、戦時における一族の軍事行動を知るのには、つごうのいい史料です。しかし、そこから平時の姿を知ろうとすると、何も見えてこないということになります。

牡蠣と室津の遊女 | 魔女の薬草便

法然上人絵図に登場する中世の舟(室津) 


 日常的に営まれていた村上氏の海上輸送活動姿を知ろうとすれば、それ以外の史料を探さなければならないようです。そのような種類の文書として、研究者が目を付けるのが厳島神社や高野山に残る文書です
「高野山上蔵院文書」を見てみましょう。
上蔵院は、高野山上の寺院のひとつで、伊予からの参拝者の宿坊でした。そのため伊予の豪族たちが高野山参詣の際に利用し、その関係文書が数多く残されていています。その数は約130通にのぼり、時代は天文から天正にかけての戦国時代50年間に渡るようです。
 領主達と上蔵院には、次のような関係がありました。
①上蔵院からは高野聖が仏具や日用品を携えて伊予に出向き、領主の間を巡回しお札などを配り、冥加金を集金する
②伊予からは領主たちが彼ら高野聖を先達にして高野山に参詣をとげ、その際には、上蔵院を宿坊して利用する
  中世以来の高野の聖たちによって「高野山=死霊の赴く聖地」「納骨の霊場」信仰が広められてきました。私たちが高野山奥の院に見る戦国大名たちの墓石が林立する光景は、高野聖の布教活動の成果とも云えるようです。

 上蔵寺の史料に、領主として名前があるのは、河野氏をはじめとし、周敷郡の黒川氏、桑村郡の櫛部氏・壬生川氏、野間郡の来島村上氏、風早郡の得居氏、和気郡の大内氏、温泉郡の松末氏、久米郡の角田(志津川)氏、伊予郡の垣生氏、浮穴郡の上居・平岡・相原・戒能などです。彼らは、戦国領主の河野氏の家臣団を構成する国人級領主たちです。地域的には河野氏の膝下である中予を中心にして、 一部東予地域までひろがっています。「上蔵院文書」によって、戦国後期に伊予国と高野山との間に、日常的な交流のあったことが分かります。

領主達は高野山参りに、どんなルートを使っていたのでしょうか?
中世の熊野詣には、熊野海賊の船が定期的に大三島の大山祇神社までやって来ていたとされます。伊予から熊野へは舟が用いられていたようです。そうだとすると、高野山詣でにも海上交通が使われていたことが予想できます。
 そのような視点で先ほど紹介した領主たちを見てみると、自前の舟で瀬戸内海を航行していく水運力を持っているのは来島村上氏と、忽那氏くらいです。大部分の豪族たちは、高野山に舟で出かける水運力はないようです。彼らは、どのような舟に乗って高野山を目指したのでしょうか。

DSC03651
一遍上人絵図 (兵庫沖の中世廻船)

その疑問を解く鍵は、来島村上氏にあるようです。

来島氏が戦国期に強力な水軍力を持っていたことはよく知られています。「上蔵院文書」の関連文書の中に、一番登場してくるのも27/130通で来島氏です。上蔵院との交流で中心的役割を果していたのが来島氏だったことがうかがえます。

村上水軍 城郭分布図

内陸の領主たちは、来島村上氏の舟で高野山詣でを行っていことが予想できます。それを裏付けるのが「上蔵院文書」の次の史料です。
尚々彼舟ハさかい(堺)まて直々罷上候間、同道めされ候て可然存候 一筆令申候、乃此時分御帰山候哉、然者(  ?  )船愛元罷下候迄中途より借くれ、御祝言之御座船に被仕立候、彼船弐十日比過候ハヽ可罷上候間、御乗船候て可然之由候、たしかなる舟之事候間、申小輔□被申付上乗にまて堅固候之条、於御上者彼船二御乗候様二内々御支度干要候、某より内茂可申由候間、以書状申候、くハしく御返事二可蒙仰候、恐々謹言
六月十五日                                通康(花押)
高音寺御同宿中
                     来嶋右衛間大夫
高音寺                                       通康
御同宿中                                    
  意訳変換しておくと
この舟は堺に直接向かいますので、乗船をお勧めします。
次のことを連絡いたします。この度の高野山への帰山の船便については、事情によって能島村上氏から借用した船を使用します。御祝言の御座船に仕立てるため20日後には準備が整い出港予定です。身元の確かな舟で、上乗も付いて堅固で安全です。この舟に乗船できるように手配をしますので、準備をしてください。詳しくは御返事をお待ちしています。恐々謹言
文書の背景は次の通りです。
①文書の発給者・来島通康は、来島村上氏の中心人物で河野氏の重臣
②来島通康の死没年は永禄十年(1567)なので、文書発給年は永禄初年頃
③宛先の高音寺は和気郡内の真言宗寺院(現在松山市高木町)。

文書の内容は、伊予国にやって来ていた高野山上蔵院の僧侶に、帰路の便船の案内を伝える私信です。ここには、興味深い点がいくつか含まれています。
和船とは - コトバンク
遣明船に使われた船

第一は、来島村上氏は所有する船を、旅客船として運用していること。
この場合は、たまたま事情によって能島村上氏から借用した船を使用しています。戦時には軍船となる舟が平時には、御座船として使われ、さらにそこに旅客も乗せようとしています。水軍的側面ばかりが強調されていた来島氏の平時の姿を知る上で興味深い史料です。
第二に、その船が泉州堺に「直々罷上」る直行便であったこと
ここからは伊予からの高野山参拝コースは、船で堺に至り、そこから陸路をとったということが分かります。その前提として、来島氏は伊予から堺までの瀬戸内海航路の通行権を確保していたということになります。さらに推測すると、戦国期の伊予近海と畿内との間は海上交通で結ばれていて、海賊衆来島村上氏は、そこに持舟を就航させていたことがうかがえます。以前に、塩飽本島の塩飽海賊が定期的に畿内との旅客船を運用し、周辺から旅客が集まってきていたことを見ましたが、それと同じような動きです。
来島村上氏をはじめとする海賊衆は、どのような目的で伊予・堺航路に舟を就航させていたのでしょうか
高野山へ参詣する武将や、伊予国にやってくる高野聖を運ぶのが目的ではないはずです。高野山参拝は、たまたまつごうのいい便船を利用しているのにすぎません。通康書状の便船は「御祝言之御座船」という文言があるので、河野氏の上京のために用意された船かもしれません。これは特別な舟で、大部分の船にはもっと別の目的があったはずです。研究者はある種の商業活動を海賊衆がおこなっていたと考えているようです。
 しかし、そのことを「上蔵院文書」で証明することはできません。「上蔵院文書」が語っているのは、来島や能島の村上氏をはじめとする海賊衆の船が頻繁に瀬戸内海を航行し、堺と伊予との間を行き来していたという事実です。

DSC03568厳島神社の舫い船
一遍上人絵伝に出てくる宮島湊の舫い船

村上武吉の花押がある「厳島野坂文書」の文書を見てみましょう。
預御状本望存候、乃去年至御島並廿日市、吾等家頼之者共所用候而罷渡候処二、無意趣二御島之衆被打果候事、無御心元存候、其節以使札申入候之処二、無御分別之通承候、然上者重而不及申達候、彼孫三郎親類共佗言申儀も可有之候、為我等不及下知候、御分別可目出候、猶御使者江申入候条省略候、恐々謹言
十月八日                                  武吉(花押)
棚守左近将監殿参 御返報
意訳変換しておくと
 去年、わが能島村上一族の者が「所用」のため宮島・廿日市に赴いていたところ、島衆によって討ち果たされるよいう事件が起きている。これに対して、使者を派遣して対処を申し入れたが、その後に何の連絡もない。これはあまりにも無分別な対応であるので、重ねて申し入れをおこなう次第である。殺された孫三郎の親類からの抗議もあり、私も捨て置くわけにはいかない。適切な対応をとり、使者に伝えていただきたい。

 村上武吉が厳島神社社家棚守氏に対して、能島の「家頼」と厳島衆のトラブルについての対応を申し入れた書状です。
ここで研究者が注目するのは、能島の「家頼」が「所用」があって「御島並廿日市市」に赴いていることです。その「所用」の内容は分かりませんが、「伊予衆」が参詣に名をかりて日常的に厳島へ「着津」し、商業活動を行っていた研究者は推測します。廿日市は厳島近海の地域経済の拠点で、その名の通り定期市が立ち、活発な経済活動が行われていた所です。「所用」とは、何らかの交易に関係するものであったとすると、能島氏は広島湾岸の宮島周辺にも進出して、「商売」を行っていた可能性があります。

村上水軍 テリトリー図3

以上、高野山と宮島厳島神社に残された文書からは、次のようなことが分かります。
第1に、来島村上氏や能島村上氏などの海賊衆も瀬戸内海海運に従事していたこと。
第2に、来島氏の堺―伊予航路の水運も商業活動をともなうものであった可能性が高いこと。
第3に、村上氏の活動エリアは、堺を中心とした畿内経済圏、四国松山の堀江を中心とした伊予エリア、宮島・十日市等を拠点とした安芸エリアなど、瀬戸内海の広い範囲に及んでいたこと

以上からは、海賊衆がただ単に警固活動をだけを生業としていたのではなく、海上交通や交易の担い手として平時には活動していたことが見えてきます。それを最後に振り返っておきます。
 文安二年(1445)の『兵庫北関入船納帳』には、東寺領弓削島荘に籍をおく船舶が、特産物である塩を積荷として活発な水運活動を展開していることが分かります。その担い手は、太郎衛門に代表されるような有力船頭たちです。彼らは、200石積の当時としては大型船で毎月のように畿内との間を往復しています。

そして、15世紀になると能島・来島・因島の各村上氏が史料上に姿を見せるようになります
弓削島荘では、小早川氏の「乱暴狼藉」に対応するために、東寺は海賊衆の村上右衛門尉やその子治部進が請負代官と契約を結んでいます。『入船納帳』に記録された弓削籍船の活発な活動と、これは同時代のことです。つまり、弓削島荘の経営を任され、それを舟で輸送していたのも村上氏ということになります。制海権を握る海賊衆の許可なしには、安全な航海はできなのですから。彼らは、荘園の請負代官として収取した年貢物(塩)を自らの舟で畿内に運びこみ、畿内市場で換貨してその代貨の一部を荘園領主に銭納していたと研究者は考えいます。
  戦国期になると、伊予の戦国領主河野氏配下の領主たちは高野山参詣を活発に行うようになります。
その参拝は、河野氏の重臣となっていた来島村上氏の舟で行われていました。来島氏は伊予から堺までの畿内ルートを確保し、定期的に便船を運航していたことが推測できます。
 能島村上氏も厳島の対岸十日市に、「所用」と称して家臣を遣わし商業活動を行っていました。宮島と堺は、来島村上氏によって舟で結ばれていたことがうかがえます。畿内へ向けての活発な水運活動の背景にも、商業活動があったようです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
山内譲 中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運 瀬戸内海地域史研究 第1号 1987年

特集】毛利元就の「三矢の訓」と三原の礎を築いた知将・小早川隆景 | 三原観光navi | 広島県三原市 観光情報サイト 海・山・空 夢ひらくまち       

前回は、鎌倉時代初めに西遷御家人として東国から安芸沼田荘にやってきた小早川氏が、芸予諸島に進出していくプロセスを見ました。小早川氏の海への進出は、14世紀の南北朝の争乱が契機となっていました。そのきっかけは伊予出兵でした。興国3年(1342)10月、北朝方細川氏は伊予南朝方の世田山城(東予市)を攻略します。小早川氏も細川氏の指示で参戦しています。途中、南朝方拠点の生口島を落とし、南隣りの弓削島を占領します。翌年の因島制圧にも加わっています。合戦後の翌年から、小早川氏は弓削島の利権を狙い、居座り・乱入を繰り返すようになります。つまり14世紀半ばに、生口島・因島・弓削島への進出が始まっていたことになります。では、村上氏はどうなのでしょうか。今回は村上氏がいつ史料に登場してくるのかを見ておくことにします。  テキストは「山内譲 中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運 瀬戸内海地域史研究 第1号 1987年」です。
近世の瀬戸内海No1 海賊禁止令に村上水軍が迫られた選択とは? : 瀬戸の島から

 史料に最も早く姿を見せるのは能島村上氏のようです。
貞和五年(1349)、東寺供僧の強い要請をうけて、幕府は、近藤国崇・金子善喜という二名の武士を「公方御使」として尾道経由で弓削島に派遣します。その時の散用状が「東寺百合文書」の中に残されています。
 その中に「野(能)島酒肴料、三貫文」とあります。この費用は、酒肴料とありますが、次のような情勢下で支払われています。

「両使雖打渡両島於両雑掌、敵方猶不退散、而就支申、為用心相語人勢警固

小早川氏が弓削島荘から撤退しない中で能島海賊衆が「警固」のために雇われていることがうかがえます。これは野(能)島氏の警固活動に対する報酬であったと研究者は考えています。ここからは14世紀前半には、芸予諸島で警固活動を行う能島村上氏の姿を見ることが出来ます。周辺の制海権を握っていたこともうかがえます。

村上水軍 能島城2

 小早川氏の悪党ぶりに手を焼いた荘園領主の東寺は「夷を以て、夷を制す」の教えに従い、村上水軍の一族と見られる村上右衛門尉や村上治部進を所務職に任じて年貢請負契約を結んでいます。これが康正三年(1456)のことです。その当時になると弓削島荘は「小早河少(小)泉方、山路方、能島両村、以上四人してもち候」と記します。ここからは、次の4つの勢力が弓削島荘に入り込んでいたことが分かります。
「小早河少泉方=小早川氏の庶家である小泉氏
 山路方   =讃岐白方の海賊山路(地)方、
 能島    =能島村上氏
 両村
そして、寛正三年(1462)には、弓削島押領人として「海賊能島方」が、小泉氏、山路氏とともに指弾されています。弓削島荘をめぐる攻防戦に中に能島の海賊衆がいたことは間違いないようです。

村上水軍 能島城

戦国時代の能島村上氏の居城 能島城

能島氏の活動痕跡は、芸予諸島海域以外のところでも確認できます。
応永十二年(1406)9月21日、伊予守護河野通之の忽那氏にあてた充行状に「久津那島西浦上分地領職 輔徒錫タ事」とあります。これは、防予諸島の忽那島にも能島氏の足跡が及んでいたことを示します。ここからは能島村上氏は、南北朝初期から芸予諸島海域に姿を見せ始め、警固活動によって次第に勢力を伸ばしたこと、そして室町時代になると、防予諸島周辺でも地頭職を得ていることが分かります。
 その一方では、安芸国小泉氏や讃岐国山路氏などとともに弓削島荘を押領する海賊衆としても活動しています。当時の海賊衆の活動エリアの広さがうかがえます。
防予諸島(周防大島)エコツアー - 瀬戸内海エコツーリズム

次に因島村上氏について見ておきましょう。
因島村上氏の初見史料については、2つの説があるようです。
①「因島村上文書」中に見える元弘三年(1333)5月8日の護良親王令旨(感状)の充て先となっている「備後国因島本主治部法橋幸賀」という人物を因島村上氏の祖として初見史料とする説
②応永三十四年(1427)12月11日の将軍足利義持から御内書(感状)を与えられている村上備中守吉資が初見とする説

①には不確かさがあります。②は、その翌年の正長元年(1428)には、備後守護山名時熙から多島(田島)地頭職が認められていること、文安六年(1449)には、 六月に伊予封確・河野教通から越智郡佐礼城における戦功を賞せられ、8月には因島中之庄村金蓮寺薬師堂造立の棟札に名があること、などから裏付けがとれます。ここから因島村上氏は、15世紀の前半から因島中之庄を拠点にして活動を始め、海上機動力を発揮して備後国や伊予国に進出していったとしておきましょう。
村上水軍 因島村上氏の菩提寺 金蓮寺
因島村上氏の菩提寺 金蓮寺

三島村上氏の中で、史料上の初見が最もおそいのは来島村上氏です。
宝徳三年(1451)の河野教通の安芸国小早川盛景充書状に

「昨日当城来島二御出陣、目出候、殊奔走、公私太慶候」

とあるのが初見史料になるようです。当時の伊予国では守護家河野氏が3つに分かれて、惣領家の教通と庶家の通春とが争っていました。この書状は、教通が幕府の命によって出陣してきた小早川盛景に対して軍功を謝したものです。つまり、河野教通が越智郡来島城にとどまっていたことを示すものであって、決して来島村上氏の活動を伝えるものではありません。しかし、来島城を拠点にして水軍活動を展開する来島村上氏の存在はうかがえます。
来島城/愛媛県今治市 | なぽのブログ
来島城 
 来島村上氏がはっきりと史料上に姿をみせるのは、大永四年(1524)になります。
この年、来島にほど近い越智郡大浜(今治市大浜)で八幡神社の造営が行われましたが、その時の棟札に願主の一人として「在来島城村上五郎四郎母」の名前があります。
以上を整理すると
①能島村上氏が、貞和五年(1349)「東寺百合文書」の中に「野島酒肴料、三貫文」
②因島村上氏が 応永三十四年(1427)12月11日の将軍足利義持から御内書(感状)の村上備中守吉資
③来島村上氏が宝徳三年(1451)の河野教通の安芸国小早川盛景充書状に「昨日当城来島二御出陣、目出候、殊奔走、公私太慶候」
とあるのがそれぞれの初見史料になるようです。

村上水軍 城郭分布図

ここからは、15世紀中頃には、三島村上氏と呼ばれる能島・因島・来島の三氏の活動が始まっていたことが分かります。これは前回見た小早川氏の芸予諸島進出が南北朝の争乱期に始まることと比べると、少し遅れていることを押さえておきます。

 塩飽衆は、中世から近世への激怒期の中を本拠地を失わず、港も船も維持したまま時代の変動を乗り切りました。「人名」して特権を持つだけでなく、「幕府専属の船方役」として交易活動を有利に展開する立場を得ました。それが、多くの富を塩飽にもたらしたのです。ある意味、海賊衆の中では「世渡り上手」だったのかもしれません。
 それでは村上水軍の領主たちは、どんな選択を選んだのでしょうか
3村上水軍
まずは能島の村上武吉の動きを見てみましょう。
 村上水軍の運命を大きく左右したのは、秀吉が出した海賊禁止令です。前回も触れましたがこの禁止令は天正十六(1588)年に、刀狩令と一緒に出されています。全国統一をすすめてきた秀吉にとって「海の平和」の実現で、全国的な交易活動の自由を保証するものでした。ある意味、信長が進めた「楽市楽座」構想の仕上げとも云えます。そして「海の刀狩り」とも云われるようです。
 しかし、海賊衆にとっては、「営業活動の自由」の禁止です。水軍力を駆使した警固活動や、関役・上乗りなどの経済的特権も海賊行為として取り締まりの対象となりました。

3村上武吉水軍3
 
村上武吉は、これに従いません。秀吉の命に背いて密かに関銭を取り続けます。秀吉は激昂し、武吉の首を要求しますが、この時も小早川隆景の必死の取り成しで、どうにか首はつなぎとめることができたようです。
3 村上水軍 海賊禁止令
一 かねがね海賊を停止しているにもかかわらず、瀬戸内海の斎島(いつきしま 現広島県豊田郡豊浜町)で起きたのは曲事である。
一 海で生きてきた者を、その土地土地の地頭や代官が調べ上げて管理し、海賊をしない旨の誓書を出させ、連判状を国主である大名が取り集めて秀吉に提出せよ。
一 今後海賊が生じた場合は、地域の領主の責任として、土地などを取り上げる
 天下を取った秀吉は、能島村上を名乗る海賊衆に対して徹底した弾圧解体作戦でのぞみます。能島の水軍城は焼き払われます。
3村上水軍nosima 2
武吉の拠点 能島
海賊達は「失業」しますが、多くの大名たちは秀吉の威光を恐れて、警固衆として雇い入れていた能島海賊衆を見捨てます。そんな中で陰に陽に武吉を庇ったのは小早川隆景だったようです。そのために隆景までもが秀吉に睨まれて、彼の政治的立場も一時危うくなりかけたことがあったようです。しかし、隆景は最後まで義理を通して武吉を守ります。そのためか村上水軍の記録には、
隆景評として「まことに智略に富み人情厚き武将だった」
と記されています。小早川隆景が筑前に転封されると、武吉も筑前に移ります。 
3村上武吉水軍43

 能島村上は拠点と総領を奪われ「海賊組織」は完全に解体させらたことになります。多くの「海賊関係者」が「離職」するだけでなく、住んでいた土地も住居も奪われます。こうして村上衆の離散が始まるのです。それは、後に見ることにして武吉のその後をもう少し追いかけます。
 筑前に移った武吉ですが、秀吉が朝鮮攻めで名護屋城に行くために筑前に立ち寄る際には「目障りになる」と、わざわざ長門の寒村に移住させられています。そこまで秀吉に嫌われていたようです。秀吉の死で、ようやく気兼ねすることがなくなります。
武吉の晩年は周防大島
 晩年は、毛利氏の転建先である長州の周防大島の和田に千石余の領地をあたえられます。ここが武吉の最後の住み家となったようです。海賊大将の武吉は、関ヶ原の戦いの4年後の1604年8月、海が見える館で永眠します。彼が故郷能島に帰れることはありませんでした。
3村上武吉墓2
菩提寺と墓は次男景親が和田に建立しています。武吉の墓と並んで妻の墓があります。これは武吉にとっては三人目の妻の墓で、大島出身の女であったようです。
 以後の能島村上氏は、毛利家に使える御船手組頭役して生きていくことになります。つまり、毛利の家臣となったのです。天下泰平になると、この家の当主達は伝来する水軍戦術を兵法書にしたためます。これが今に伝わることになるようです。
3村上水軍3
 一方、いち早く秀吉側についたのが来島村上氏です。
時代は、石山合戦の「木津川(きづかわ)口海戦」までもどります。この時に村上武吉の率いる毛利水軍にコテンパンにやられた信長は、秀吉に命じて、村上水軍の分断工作を行わせます。秀吉が目がつけたのは、来島村上でした。巧みな工作が成功し、天正十年(1582年)三月、来島の村上通総は、本能寺の変の直前に信長方に寝返ります。これに対して能島、因島、毛利の連合軍は、来島村上氏の居城や各地の所領を一挙に攻撃します。村上通総は風雨に紛れ、京都の秀吉の陣を目指し脱出する羽目になります。
 天正十二年(1584年)、信長死後の跡目争いに勝ち残った秀吉は、その傘下に入ってきた毛利氏に対し、来島と改姓した通総を伊予国に帰国させることを命じています。通総は、秀吉に気に入られて「来島(正しくは来嶋)」の名を与えられ、歓喜した通総は翌年の秀吉の四国征伐では小早川隆景の指揮下で先鋒をつとめ活躍します。伊予の名族・河野氏を滅ぼし、新たな領主となった通総は、鹿島(現北条市)を居城に風早郡、旧領野間郡とあわせ一万四千石の所領を与えられることになったのです。これは来島村上「水軍=海賊」が、秀吉によって大名に取り立てられたということになるのでしょう。
 元「村上海賊」の来島通総は、秀吉の九州征伐や小田原征伐にも水軍を率いて従軍し、各地で戦功をたてています。朝鮮出兵にも水軍として出陣し、李氏朝鮮の李舜臣(イ・スンシ)率いる水軍との間で何度も戦っています。しかし、朝鮮火砲の威力と砲艦「亀甲船」の登場による火力の差で、日本水軍は連敗を続けます。来島村上一族の多くが、異国の海で命を失っています。
 来島氏は、関ヶ原合戦で一時西軍につきました。
3村上kurusima水軍3

そのため翌年に、豊後国森藩(大分県玖珠郡玖珠町)一万四千石へと転封となります。取りつぶしにならなかっただけでも幸いだったかもしれませんが、瀬戸内の「海賊」の旗を掲げ続けた最後の村上氏は、周りに海をもたない山間の地に移ることになったのです。そして名前も来島氏から「久留嶋(くるしま)」氏と改称することを余儀なくされます。こうして来島通総の子孫は、海と「海賊」の名を捨てることで、山の中で近世大名へと脱皮していきます。

3 村上来島陣屋kurushima-jinya_01_2146
来島氏の陣屋跡

●最後に因島の村上氏を見ておきましょう
海賊大将の能島村上武吉は、秀吉の横槍を受けて、瀬戸内海から追放されてしまいましたが、因島村上氏は小早川隆景に属して「海の武士」として因島・向島を領有していました。そのため、その後も勢力を維持することができました。
 しかし、慶長五年(1600)の「関ヶ原の戦い」で、毛利輝元は豊臣方の総大将を務めました。その結果、毛利氏は長門と周防の二国以外の領地はすべて没収処分されます。多くの家臣団が、毛利氏に従って長門に移住していきました。因島村上氏も芸予諸島から立ち去ることを余儀なくされます。その後、子孫は能島村上氏系船手衆の支配下に入り、代々世襲して明治維新に至ったようです。

以上を、総括すると
「海賊禁止令」後の村上水軍の末裔は、次のような路を歩んだことになります。
①来島村上    秀吉に従って大名となる
②能島・因島村上  毛利の家臣となる
しかし、これは豊臣権力と妥協して生きのびた武将クラスの藩士です。村上水軍の実戦部隊だった下級水夫たちの末路は、どうなったのでしょうか。次回は、それを探って行くことにします。

参考文献 橋詰 「中世の瀬戸内 海の時代」

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