東三好町の旧東山村には、讃岐山脈から北に張り出した尾根に多くのソラの集落が散在します。このソラの住人たちの生活圏は、車道が整備されるまでは讃岐に属していたようです。吉野川筋の昼間へ下りていくよりは、讃岐との往来の方が多かったと云います。その理由は
①小川谷に沿って昼間へ出る道が整備されていなかったこと②金毘羅(琴平)が商業的・文化的にも進んでいだこと
①内野から法市・笠栂を経て樫の休場(二本杉)から塩入へ②葛龍から水谷・樫の休場(二本杉)を経て塩入へ③貞安・光清から男山峰を越えて、尾野瀬山を経て春日へ。④差山(指出・登尾山)を越えて石仏越で箸蔵街道と合流して財田へ。⑤滝久保からは峰伝いに塩入や財田へ
品物も豊富で、金毘羅さんの阿波街道の入口には「阿波町」が形成され、阿波出身の商人達がいろいろな店を出していました。贔屓の店が、ここにあったのです。また。山仕事に必要な道具を扱う鍛冶屋、鋸屋など職人の町でもありました。ここには阿波の人たちによって鳥居が奉納され、大勢の阿波の人達が金毘羅参詣を兼ねて訪れました。東山では明治の中頃まで、年末になると金毘羅の阿波町へ正月の買い物にいき、めざしや塩鮭、昆布、下駄などを天秤棒にぶらさげて、日の明るい内に帰ってきたと伝えられます。
阿讃越の峠道は、ソラの集落の尾根を登って峰を越えていく山道でした。
尾根道は、最短距離を行く道で、迷うことも少なく、雪に埋まることも少なかったようです。今でも讃岐山脈の県境尾根の道は広く、しっかりしていて快適な縦走路です。この道を、当時の人たちは、荷物を背負ったり、前後に振り分け玉屑に加けたり、天秤棒にぶら下げて運んだりしたようです。
尾根道は、最短距離を行く道で、迷うことも少なく、雪に埋まることも少なかったようです。今でも讃岐山脈の県境尾根の道は広く、しっかりしていて快適な縦走路です。この道を、当時の人たちは、荷物を背負ったり、前後に振り分け玉屑に加けたり、天秤棒にぶら下げて運んだりしたようです。
天に近いほど、山の頂上に近いほど、金毘羅にも近いことになります。
つまり、奥地ほど讃岐に近いく便利だったのす。その結果、奥へ奥へと開墾・開発は進められます。それは当時のソラの集落の重要所品作物が煙草であったことも関係します。煙草は気象の関係から、高いところで栽培された物ほど高く売れたようです。これは髙地の畑作開墾熱を高め、そこへの開墾移住熱をも高めました。そのため、葛龍の奥にもなお人家があり、男山の奥にも「二本栗」・「にのご」と集落が開かれていったようです。
葛尾の集落が街道沿いの集落として、明治までは繁昌していた様子が、残された屋敷跡や立派な石垣からうかがえます。これは、讃岐への交通の要に位置していたからでしょう。
男山から昼間への道 打越越えの開通は?
昼間の奥の男山は、讃岐に経済的には近かったこと。その要因として、徳島側への道が整備されていなかったことを挙げました。徳島側の拠点となる昼間から東山中心部への往来は、谷と険しい峰に阻まれており、谷に沿って、何回も何回も谷を渡り、河原を歩かなければならなかったようです。 この川沿いの悪路を避けて、尾根沿いに新たな新道が開かれたのは、いつのことなのでしょうか。
それは案外遅く、幕末になってからのようです。
教法寺の過去帳には、弘化三年(1846)10月24日から11月2日にかけて昼間村地神から東山村貞安小見橋間の道普譜が行われた際の次のような動員文書があります。
昼間村地神より東山村貞安小見橋まで道お造りなされ候、東山村より人夫千人百人程出掛ヤ御郡代より御配り候て道作り候。普請中裁判人、与頭庄屋助役佐々水漉七郎・西昼間庄屋高木政之進・五人与甚左衛門・福田利喜右衛門・嘉十郎・東山中野右衛門・恭左衛門他に三、四人裁判の由にて、霜月の二日に道造直し、御郡代三間勝蔵殿十月二十七日に御見分担戊申事。
意訳すると
昼間村の地神から東山村貞安小見橋まで、道を作るときに、東山村より人夫1100人程が郡代の命で動員され道作りに参加した普請の裁判人は、与頭庄屋助役佐々水漉七郎・西昼間庄屋高木政之進・五人与甚左衛門・福田利喜右衛門・嘉十郎・東山中野右衛門・恭左衛門の他に三、四人裁判したようで、霜月の2日に道を点検し、郡代三間勝蔵殿が10月27日に御見した。
文中の「裁判」は、人夫を指揮監督することだそうです。この文書からは、郡代による大規模な工事が行われたことが分かります。この工事が新設か改修かは、文書からは分かりませんが、「状況証拠」から新設に近いものであったと研究者は考えているようです。昼間の地神さんを起点として打越を越え、内野までの尾根沿いの安全な道が、幕末になってやっと確保されたのです。
こうして樫の休場越は、それまでの阿波の三加茂・芝生・足代方面からのルートに加えて、
昼間 → 打越峠 → 男山 → 葛籠 → 樫の休場
という新ルートが加えられ、ますます利用者が増えます。讃岐側では
「塩入 → 春日(七箇村) → 岸上 → 五条」
を経て金毘羅阿波町に至るので。七箇村経由金毘羅参拝阿波街道とも呼ばれるようになります。
明治になると「移動の自由」「経済活動の自由」が保証され、人とモノの動きは活発化します。
讃岐の塩や鮮魚・海産物などと、阿波の薪炭・煙草・黍などとの取引が盛んに行われるようになります。特に煙草・藍などの阿波の特産物が盛んに讃岐に入るようになり、また借耕牛の行き来も盛んになります。
こうして、樫の休場では、二軒の茶屋が営業をはじめるようになります。讃岐側の塩入は、塩や物産の中継基地といて賑わいを見せるようになり、うどん屋や旅人宿ができ宿場化していきます。明治年代の地形図からは、街道沿いに街並みが形成されているのが分かります。
東山峠越の新道建設へ
讃岐の塩や鮮魚・海産物などと、阿波の薪炭・煙草・黍などとの取引が盛んに行われるようになります。特に煙草・藍などの阿波の特産物が盛んに讃岐に入るようになり、また借耕牛の行き来も盛んになります。
樫の休場から望む満濃池 手前が塩入集落
こうして、樫の休場では、二軒の茶屋が営業をはじめるようになります。讃岐側の塩入は、塩や物産の中継基地といて賑わいを見せるようになり、うどん屋や旅人宿ができ宿場化していきます。明治年代の地形図からは、街道沿いに街並みが形成されているのが分かります。
東山峠越の新道建設へ
このような背景を受けて、以前にお話ししたように明治28年(1895)ごろから塩入と阿波の男山を結ぶ新たな里道工事が始まるのです。この工事の際に、里道(車道)としては、男山まで道路改修が進んでいました。そこで、峠はその上部に作られることになります。これが現在の東山峠の切通です。阿讃の物資は大八車で、東山峠で行き交うようになります。その結果、樫の休場越は次第に寂れていきます。
東山峠の切通 ここで阿波の里道と讃岐からの里道は結ばれたソラの集落への「猫車道」の開設は
大正初期に書かれた『東山の歴史』に、ソラの集落への道路開設の様子がどのように進められたかを見ていきましょう。。
葛籠線
葛籠は男山から樫の休場への途中にある集落です。
それまでの道は、男山谷に沿って入っていくので大変険悪だったようです。また、谷を9回も渡らなければならないので、洪水の時には男山峰からの迂回路を取るか、危険を冒して「引綱」を頼りに渡るしかなかったと云われます。
明治33年(1900)に、幅六尺(約180㎝)の新道建設が始まり、東山の各部落から夫役の無償供与を受けて完成しています。猫車を押して通れるようになったのでこれを「猫車道」と呼んだようです。
男山線
男山新道は、男山西浦から始まって二本栗でで塩入線に接続します。大正元年(1912)に起工し大正四年に完成しています。これも各部落からの夫役寄付で工事が行われました。当時は、半額が国・県負担で、残りの半額は「地元負担」でした。そのため自分たちの道は、自分たちで作るという気概がリーダー達にないと、造れるものではありませんでした。
戦後の高度経済成長が始まると「軽四トラック」が里の村には走り始めます。
そのため、ソラの集落も軽四トラックが通れるように道を広げることが悲願となります。この時代になると国や県も山間部の道路整備にも補助金を出すようになっていました。こうして各部落の道路が改良・整備され、農家の庭先に軽トラックの姿が見られるようになります。
そのため、ソラの集落も軽四トラックが通れるように道を広げることが悲願となります。この時代になると国や県も山間部の道路整備にも補助金を出すようになっていました。こうして各部落の道路が改良・整備され、農家の庭先に軽トラックの姿が見られるようになります。
そうなると買い出しは、トラックで昼間のスーパーに行った方が便利になります。しかし、今でも東山の人たちは讃岐との関係を持ち続けて生活している人が多いようです。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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参考文献
三好町史 民俗編309P 讃岐への道
東山の歴史(大正5年編)
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