
里から見る赤星山
伊予の瀬戸内海から見える霊山は、水神・竜神や農業神を祀る山岳信仰の対象となっていることが多いようです。これに対して南予地域の宇和海側は、漁場から目印(アテという)となるべき山々に、山伏たちが熊野系や石鎚系などの権現サマを祀っていることが多いと研究者は指摘します。以前に石鎚信仰についてはお話しましたので、石鎚以外の霊山を東から見ていくことにしましょう。
霊山巡礼に出かける前に、霊山とはどんなところなのかを確認しておきましょう。
山は、里人に稲作に必要な水をもたらす水源地として重視されました。山から流れる水は飲み水としても、用水としても里人にとって命の源でした。こうしたことから山にいる神を水を授けてくれる水分神として崇める信仰が生まれます。水分神の信仰は、竜神とされることも多く、蛇や竜がその使いとして崇められることもあります。
漁民たちも山の神を航海の安全を守ってくれるものとして信仰しました。これは山が航海の目標になったからです。このように里や船から姿を仰ぎ見える山は霊山として、古代から信仰の対象になりました。そして、霊山は聖なるエリアの「不入山」で里人が普段は入れない山であったようです。そこに入ることを許されたのは、行場で修行を行う「聖(ひじり)」だけでした。
中世に成ると真言密教と山岳信仰が結びつき、修験者たちが行場を求めて山に入るようになります。
彼らにとって霊山は、天上や地下にあるとされた「聖地への入口=関門」でした。天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の中間に位置する境界が「お山」というイメージです。そして、神や仏は山上の空中や、地下にいるとされました。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。異界への入口と考えられていたのは次のような所でした。
中世に成ると真言密教と山岳信仰が結びつき、修験者たちが行場を求めて山に入るようになります。
彼らにとって霊山は、天上や地下にあるとされた「聖地への入口=関門」でした。天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の中間に位置する境界が「お山」というイメージです。そして、神や仏は山上の空中や、地下にいるとされました。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。異界への入口と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し時には雲によっておおわれる峰、②山頂近くの高い木、岩③滝
これらは天界への道とされました。一方、地下の聖界への入口は
④奈落の底まで通じるかと思われる火口や断崖⑤深く遠くつづく鍾乳洞、風穴
このような場所は、聖域でも俗域でもない、どっちつかずの境界として、人々におそれられてきた所です。ところが修験者たちは、こんな場所を行場としました。なぜならここが聖域への関門であり、異界への入口だったからです。
聖界の入口には番人として、半ば人間界に属し、半ば動物の世界に属する境界的性格を持つ鬼、天狗などの怪物、妖怪などがいるとされました。狐・蛇・猿・狼・鳥などの人里の身近かな動物も、神霊の世界と人間の世界をむすぶ神使として崇めおそれられたのです。
境界領域である霊山は、こうしたどっちつかすの怪物が活躍しているおそろしい土地と考えら、人々が立ち入ることのない「不入山(いらず)」だったのです。そのような場所に分け入って、修行をおこなう修験者(山伏)は、人々から畏敬の念を持って見られたのです。 それでは東から伊予の霊山を見ていきましょう。
聖界の入口には番人として、半ば人間界に属し、半ば動物の世界に属する境界的性格を持つ鬼、天狗などの怪物、妖怪などがいるとされました。狐・蛇・猿・狼・鳥などの人里の身近かな動物も、神霊の世界と人間の世界をむすぶ神使として崇めおそれられたのです。
境界領域である霊山は、こうしたどっちつかすの怪物が活躍しているおそろしい土地と考えら、人々が立ち入ることのない「不入山(いらず)」だったのです。そのような場所に分け入って、修行をおこなう修験者(山伏)は、人々から畏敬の念を持って見られたのです。 それでは東から伊予の霊山を見ていきましょう。
東予地域の霊山
法皇山脈の一番東に位置する豊受山(1247m)は、オトイコサンと親しく呼ばれ、もとは豊岡山と呼んでいたようです。
この山は、その名の通り豊受姫(伊勢の外宮に祀る五穀の神)を祀っていて、宇摩地方の人々から穀物の神さまとして崇敬されてきました。もともとは、水神を祀り五穀豊穣を祈る山であったのが、伊勢信仰が近世に入ってきて「豊岡山 → 豊受姫」に山名が変えられたようです。祭儀を行う主が神社名や山名を変えるのは良くあることのようです。石鎚山や剣山という名前も近世になっての名前のようです。
豊受山の豊受神社
しかし、祭礼や祈願する内容は代わりません。民衆にとって、神社の名前などはどうでも良いことだったのでしょう。旧暦六月と九月の一三日の夏祭と秋祭の二回は、小さな丸団子(春は小麦団子、秋は米団子)を供えて、豊作を祈り、感謝します。

しかし、祭礼や祈願する内容は代わりません。民衆にとって、神社の名前などはどうでも良いことだったのでしょう。旧暦六月と九月の一三日の夏祭と秋祭の二回は、小さな丸団子(春は小麦団子、秋は米団子)を供えて、豊作を祈り、感謝します。

豊受山の風穴
この山の頂上の奥社の西側には、長さ65mもの風穴があります。ここからは夏でも冷たい風が吹き出しています。やまじ風はここから吹き出すと信じられ、そこに団子を投げ入れて風が吹き出ないように祈願しました。団子の数は、一年の日数と同じ365個が供えられました。これをホカイに納めて一荷とします。
この風穴も先述したように「洞窟・風穴は地下の聖界への入口」です。修験者たちの行場であったことがうかがえます。以前は九州、中国地方からも、このやまに参拝者があったと云います。この山が見える宇摩郡内では西は土居町中村から、東は伊予三島市東寒川、南は同市富郷の広範囲にわたって、多数の氏子があり、参拝者も多く、七荷半もの供物があがったようです。
祭礼に、里の信者を山に導いてくるのは先達です。
彼らは里にいた山伏たちです。遠く九州や中国地方からも参拝者があったというのも、そこから信者を誘引してくる先達の存在があったからこそなのです。石鎚講のような組織があったことがうかがえます。
赤石山から豊受山への稜線
祭礼に、里の信者を山に導いてくるのは先達です。
彼らは里にいた山伏たちです。遠く九州や中国地方からも参拝者があったというのも、そこから信者を誘引してくる先達の存在があったからこそなのです。石鎚講のような組織があったことがうかがえます。
伊予三島市史には、次のような「豊受さんと翠波様の伝説」が紹介されています。
豊受山に坐す豊受姫は、宇摩地方の人々から穀物の神さまとして崇敬されていた。東の翠波峰には、水波之女神がお住まいになり、水の神さまとして信仰されていた。豊受山には里の人たちが夏と秋に登り、盛大なお祭をして参拝者が後を絶たなかったが、翠波峰は旱のときに雨乞祭をするほかは参拝者がなかった。翠波峰の神さまは何かと寂しくなり、作物が良く出来ているのは私が水を授けているからなので、私の方が力があるのにと、豊受山の後ろの穴の風の神に話をした。それを伝え聞いた豊受の神は、寒川から西の方ではたくさんの谷川が流れていて、翠波の神に世話になることなどない、とご立腹になり、それを翠波の神さまに申し入れた。そのため、お二人の仲は悪くなり、いつしか冷たい風が吹き始めた。しかし、豊受山と翠波峰の中間の鷹取山に鷹取彦命という美男の神がおられ、お二方の対立を心配して仲裁されたので、女神たちは元のように仲良く暮らすようになった。
というハッピーエンドの話です。
しかし、これには別バージョンもあります。
それは豊受神と翠波神が戦い、豊受神は敗れ、焼き殺されたというのです。しかし、その時、豊受神は村中に雨を降らせたので、村人は亡くなった日を命日と定め、豊受山で雨乞いをしたと伝えられ、以来雨乞い踊りをすることになった、と「愛媛県の地名」に書かれているようです。こちらは、雨乞いの山として由来を伝えています。
しかし、これには別バージョンもあります。
それは豊受神と翠波神が戦い、豊受神は敗れ、焼き殺されたというのです。しかし、その時、豊受神は村中に雨を降らせたので、村人は亡くなった日を命日と定め、豊受山で雨乞いをしたと伝えられ、以来雨乞い踊りをすることになった、と「愛媛県の地名」に書かれているようです。こちらは、雨乞いの山として由来を伝えています。
豊受山の西の赤星山では、明星の神を祀る祭礼が旧六月一日に行われていました。


赤星山頂手前の石祠
山頂手前の石祠には、星の紋を付けた赤星大権現が祀られています。山岳信仰の修験者たちは、仏や菩薩が仮(=権)に姿を変えて日本の神として現れた姿を権現と呼び山の頂などに祀りました。権現が祀られてること自体が、山岳修行の行場であったことを示しています。石鎚蔵王権現
伝説では、次のようにその由来が伝えられています。
宇摩郡の大領越智玉澄が大山祇神を勧請しようとしました。
しかし、やまじ風が吹き、船が遭難しそうになります。
その時に、この山の頂に星が輝き、海にその明かりが映ります。すると荒れた海が鎮まった。以来この山を赤星山、海を火映灘(燧灘)と呼ぶようになった
法皇山系はやまじ風が吹き下ろし、沖行く船はこれに悩まされたようです。先ほど見た豊受山ににも風穴神社がありましたが、赤星大権現は風を鎮める神だったのでしょう。近世後半以後に金毘羅大権現が海の神様として「海難防止」の霊験を独占化するまでは、各地に航海安全を祈る山があったのです。
高縄半島の霊山には、熊野信仰の影響を受けた黒滝神社があります。
里の黒滝神社遙拝所
東三方ケ森(1233m)の峰つづき、東面する丹原町田滝の権現山にある黒滝神社は、戦争の弾丸除けとか徴兵除けの神として道前地方の人たちの密かな信仰を集めてきた山です。雨乞踊りとしての御簾踊りも伝わっています。この社に泊まると夜半に、笛、太鼓の音(カミカグラ)が聞こえてくると云います。
この黒滝サンと石鎚サンが石の投げ比べをした話は、広く知られています。
黒滝サンの投げた石は、石鎚山の頂上にまで届いたが、石鎚サンの投げた石は田滝まで(あるいは田野の綾延神社の馬場まで)しか達しなかった。
というのです。このような二つの山の争いが伝わる背景には、その山を霊山とする修験者たちの勢力争いが背景にあることが多いようです。黒滝神社の氏子である田滝の人は、石鎚山には登らないというしきたりが伝わっていたようです。近世以後の石鎚信仰と熊野信仰の対抗関係が反映した伝承と愛媛県史は記しています。
熊野信仰は紀伊水軍の活躍と共に、古くから瀬戸内海沿岸に広がっています。大三島の大山祇神社にも中世には、熊野行者の活動が見られる事は以前にお話ししました。芸予諸島を拠点に高縄半島にも多くの熊野行者が入り込んで定着していたようです。
高縄半島の重信町山之内の雨滝龍神社は、雨乞の神として知られています。
もともとは明神ケ森の山上に鎮座していましたが文明四年(1472)に現在地に下りてきたと云います。ここも近くの俵飛山福見寺とともに熊野修験道の行場でした。
玉川町の楢原(奈良原)山(1042m)も、修験道場でした。
この山は、丹原の西山興隆寺と北条の高縄山を結ぶラインの中間ほどに位置します。丹原の興隆寺から、田滝の黒瀧神社と東三方ヶ森と楢原山を経由し、高縄寺に至る山道は、修験者の修行の道だったようです。山頂の奈良原神社は、もともとは古権現と呼ぶあたりに奈良原権現として鎮座していたと云います。
この山には長慶天星の潜行伝説があります
南朝の長慶天皇(後村上天皇の第一皇子)が、北朝軍に追われたときに、牛(黄牛)や馬に乗りついで千疋峠を越えて楢原山に落ち延びてきたと云うのです。熊野は南朝方について戦い敗れます。平家の武者伝説がるところには、不思議と熊野神社が勧進されています。
『愛媛面影』によると、
「嶺上に蔵王権現を祀り、牛馬を護らす神也とて農民信仰して詣人多し」
とあり、その神像は
「人間が牛に後向きに乗った姿」「衣冠束帯を着けアベ牛の背に跨らせ給ふ」
という姿と伝えられます。この伝説から近世には「牛馬の守護神」としての農民たちの信仰を集めるようになったようです。


この長慶天皇に係わる伝説は、山麓に住む木地師が各地で広めた伝承のようです。松山市の石手川流域の伝説には、落人が追手の目を欺くため牛の背に後向きで乗り、牛を後さがりに歩かせて、水ヶ峠方面から、楢原山へ逃げたという話もあるようです。
この山は蒼社川の水源で、山頂の手前には水分神社があります。

これは奈良県の吉野水分神社を勧請してきたもので、水源の神として祀られたようです。この山は農業、牛馬、水源の神として高縄半島の農民の信仰をあつめ、雨乞い祈祷も山頂で行われてきました。

これは奈良県の吉野水分神社を勧請してきたもので、水源の神として祀られたようです。この山は農業、牛馬、水源の神として高縄半島の農民の信仰をあつめ、雨乞い祈祷も山頂で行われてきました。
別当をつとめた畑寺の光林寺の記録によると、楢原山は鎌倉時代から修験者の行場で、文保年間(1317~19)には、奈良原神社及びその傍らの蓮華寺(光林寺末寺・現在廃寺)には38人の行者が常住していたとされます。厳しい山岳修験道の霊山であったようです。同時に、高縄半島の森林資源を管理・所有する立場にあったことがうかがえます。中世の山岳寺院が広大な伽藍を整備できた経済力の背景は豊かな森林資源を持っていたからだと云われます。上方での戦乱で焼け落ちた寺院や街並みの復興に各地から切り出された木材が瀬戸内海を通じて運ばれていったのです。それを管理所有していたのが山岳寺院だったとしておきましょう。