瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:東光寺

  前回は17世紀後半に成立した高松藩の寺院一覧表である「御領分中寺々由来書」の成立過程と真言宗の本末関係を見ました。今回は浄土真宗の本末関係を見ていくことにします。テキストは「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」です。

松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来2
 
「御領分中寺々由来書」に収められた高松藩の各宗派の寺数は、浄上8、天台2、真言115、禅宗7、法華12、 一向129、律宗・時宗・山伏各1の計376寺です。各宗本山の下に直末寺院があり、それに付属する末寺は直末寺院に続けて記されています。そして各寺院には簡単な由緒が書き添えられています。この表は、研究者がその中から由緒の部分を省いて、本末関係だけに絞って配置したものです。真宗については「西本願寺・東本願寺・興正寺・阿州東光寺・阿州安楽寺」が本山としてあげられいます。まず西本願寺の末寺を見ていきます。
 西本願寺本末関係
「御領分中寺々由来書」の西本願寺末寺リスト
東から西に末寺が並びます。そこに整理番号が振られています。西本願寺末の寺院が22あったことが分かります。例えば一番最後の(22)の西光寺には(宇足)と郡名が記されているので、宇多津の西光寺であることが分かります。この寺は信長との石山合戦に、戦略物資を差し入れた寺です。本願寺による海からの教宣活動で早くから開かれた寺であることは以前にお話ししました。しかし、他の宇足郡のお寺から離れて、西光寺だけが最後尾にポツンとあるのはどうしてなのでしょうか? よくわかりません。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
宇多津の西光寺(讃岐国名勝図会)

仲(那珂)郡の3つの寺を見ておきましょう。
(17)正覚寺(善通寺市与北町)は、買田池の北側の岡の上にあるお寺です。末寺に(18)正信とあります。これは、寺号を持たない坊主の名前のようです。このような坊主名と思われるものが(2)(3)(4)(6)(11)(15)(18)と7つあります。正式な寺号を名のるためには、本山から寺号と木仏などを下付される必要がありました。そのためには、数十両(現在価格で数百万円)を本寺や中本寺などに奉納しなければなりませんでした。経済基盤が弱い坊などは、山号を得るために涙ぐましい努力を続けることになります。
(19)の源正寺は、如意山の東麓にある寺です。
(20)の願誓寺は旧丸亀琴平街道の垂水町にあるお寺で(21)の光教寺(まんのう町真野)を末寺としていたようです。

 阿波安楽寺に残された文書の中に、豊臣秀吉の大仏殿供養法会へ出勤するようにとの本願寺廻状があり、その宛名に次のような7つの寺院名が挙げられます。
「阿波国安楽寺、讃岐国福善寺・福成寺・願誓寺・西光寺・正西坊、□坊」

これらの寺が、讃岐の真宗寺院の中心的存在だったことが推測できます。願誓寺も西本願寺の拠点寺院として、早くからこの地に開かれたことがうかがえます。
仲郡の西本願寺末の3つの寺を地図に落としてみます。

 西本願寺末寺(仲郡)
西本願寺末寺の正覚寺・源正寺・願正寺
これをみると3つの寺が与北周辺に集中していることが分かります。丸亀平野の真宗教線ラインの伸張は、東から常光寺(三木町)、南から阿波美馬の安楽寺によって進められたこと、このエリアの東側の垂水地区にある真宗寺院は、ほとんどが常光寺末だったことは以前にお話ししました。それが与北の如意山の北側の与北地区には、西本願寺に属するお寺が17世紀後半には3つ姿を見せていたことになります。その始まりは願誓寺だったようです。ちなみに、この3つ以外には、高松藩領の仲郡には西本願寺末の寺はなかったということです。
正覚寺
西本願寺末寺の正覚寺

続いて宇(鵜)足郡の西本願寺末の5つの寺を見ておきましょう。
(12)東光寺は丸亀南中学校の東南にあります。寺伝には開基について次のように記します。
「清水宗晴(長左衛門尉、後に宗洽と改む)の次男釈清厳か讃州柞原郷に住居し本光寺を開基す」

祚原の三本松(今の正面寺部落)に本光寺を建てたとあります。それが、元禄のころに寺の東に光り輝く霊光を見て現在地に移され、名を東光寺と改めたとされます。

土器川旧流路
郡家・川西周辺の土地利用図 旧流路の痕跡が残り土器川が暴れ川だったことが分かる
 以前にもお話ししたように近世以前の土器川や金倉川(旧四条川)は、扇状地である丸亀平野の上を山田の大蛇のように何本もの川筋になって、のたうつように流れていました。そこに霞堤防を築いて川をコントロールするようになったのは、近世はじめの生駒藩の時代になってからです。西嶋八兵衛によってすすめられたとされる土器川・金倉川の治水工事で、川筋を一本化します。その結果、それまでは氾濫原だった川筋に広大な開墾可能地が生まれます。開発した者の所有となるという生駒家の土地政策で、多くの人々が丸亀平野に開拓者として入り込んできます。その中には、以前にお話ししたように、多度津町葛原の木谷家のように村上水軍に従っていた有力武将も一族でやってきます。彼らは資金を持っていたので、周辺の土地を短期間で集積して、17世紀半ばには地主に成長し、村役人としての地位を固めていきます。このように西讃の庄屋たちには、生駒時代に他国からやってきて、地主に成り上がった家が多いように思います。その家が本願寺門徒であった場合には、真宗の道場を開き、菩提寺として本願寺末に入っていったというストーリーは描けます。
 東光寺は丸亀南中学校の南東にありますが、この付近一帯は木や茅などの茂った未開の地で、今も地名として残っている郡家の原、大林、川西の原などは濯木の続く原野だったのでしょう。その原野の一隅に東光寺が導きの糸となって、人々をこの地に招き集落ができていったとしておきましょう。
(13)万福寺は、大束川流域にある富隈小学校の西側の田園の中にあるお寺です。
(14)福成寺は、アイレックス丸亀の東にある岡の上にあり、目の前に水橋池が拡がります。
(15)「先正」という坊主名がつく道場については、何もわかりません。以後、寺号を獲得してまったくちがう寺院名になっていることも考えられます。

まんのう町称名寺
称名寺(まんのう町造田:後は大川山)
(16)称名寺は、土器川中流のまんのう町造田の水田の中にあります。
このエリアは、阿波の安楽寺が南から北の丸亀平野に伸びていく中継地にあたります。そこに、17世紀という早い時期に、本願寺末のお寺があったことになります。寺伝には開基は「享徳2(1453)年2月に、沙門東善が深く浄土真宗に帰依して、内田に一宇を建立したのに始まる。」と記します。
讃岐国名勝図絵には、次のように記されています。

「東善の遠祖は平城天皇十三代の末葉在原次郎善道という者にて、大和国より当国に来り住す。源平合戦平家敗軍の時、阿野郡阿野奥の川東村に逃げ込み、出家して善道と改む。その子善円、同村奥の明神別当となり、その子書視、鵜足郡勝浦村明神別当となり、その子円視、同郡中通村に住居す。その子円空、同所岡堂に居す。その子善圓、造田村に来り雲仙寺と号す。その子善空、同所西性寺に居れり。東善はその子にして、世々沙門なり」

ここには次のようなことが記されています。
①称名寺の開基・東善の祖先は、大和国の人間で源平合戦の落人として川東村に逃げ込み出家。
②その子孫は川東村や勝浦村の明神別当となり、祭礼をおこなってきた
③その子孫はさらに山を下って、中通村や造田村に拠点を構えてきた
源平合戦の落人というのは、俄に信じがたいところもありますが、廻国の修験者が各地を遍歴した後に、大川信仰の拠点である川東や勝浦の別当職を得て、定住していく過程がうかがえます。その足跡は土器川上流から中流へと残されています。そして、造田に建立されたのが称名寺ということになるようです。しかし、山伏がどうして、真宗門徒になったのでしょうか。そして、安楽寺の末寺とならなかったのかがよくわかりません。

称名寺 まんのう町
称名寺(まんのう町造田)

中寺伝承には、次のように伝えられています。
「称名寺は、もともとは大川の中寺廃寺の一坊で杵野の松地(末地)にあった。それが、造田に降りてきた」

この寺が、「讃岐国名勝図絵」にある霊仙寺(浄泉寺)かもしれません。造田村の正保四年の内検地帳に、「りょうせんじ」という小字名があり、その面積を合わせると四反二畝になります。ここは、現在の上造田字菰敷の健神社の辺りのようです。この付近に霊仙寺があったと研究者は推測します。どうもこちらの方が私にはぴったりときます。
以上をまとめておくと、次のような「仮説」になります。
古代からの山岳寺院である中寺の一子院として、霊仙寺があった。いつしか寂れた無住の寺に廻国の修験者が住み着き住職となった。その子孫が一向宗に転宗し、称名寺を開基した。

西村家文書の「称名寺由来」(長禄三卯年記録)には、次のように記されています。
享徳2(1453)年3月、帯包西勝寺の子孫のものが、一向宗に帰依し内田村に二間四方の庵室を建て、朝夕念仏をしていた。人々はそれを念仏坊、称名坊と呼んだ。

 これが称名寺の開基のようです。とすれば、称名寺は「帯包西勝(性)寺の子孫」によって、開かれたことになります。
  称名寺は、寛文5(1665)年に寺号公称を許可、元禄14(1701)年に、木仏許可になっています。また文化年間(1804)の京都の本願寺御影堂の大修復の際には、多額の復興費を上納しています。その時から西本願寺の直末寺の待遇を受けるようになったといいます。

  ここで西本願寺末寺になっているからといって、創建時からそうであったとは限らないことを押さえておきます。
  17世紀中頃の西本願寺と興正寺の指導者は、教義や布教方法をめぐって激しく対立します。承応二年(1653)12月末、興正寺の准秀上人は、西本願寺の良如上人との対立から、京都から天満の興正寺へと移り住みます。これを受け、西本願寺は各地に使僧を派遣して、興正寺門下の坊主衆に今後は准秀上人には従わないと書いた誓詞を提出させています。この誓詞の提出が、興正寺からの離脱同意書であり、西本願寺への加入申請書であると、後には幕府に説明しています。つまり、両者が和解にいたる何年間は、西本願寺が興正寺の末寺を西本願寺の末寺として扱っていました。それはこの期間に西本願寺が下した親鸞聖人の御影などの裏書からも確認することができます。江戸時代、西本願寺は末寺に親鸞聖人の御影などを下付する際には、下付したことの控えとするため「御影様之留」という記録に、下付する御影の裏書を書き写していました。西本願寺と興正寺が争っていた期間に、興正寺の末寺に下された御影の裏書には興正寺との本末関係を示す文言が書かれていません。
 両者の対立は、和解後も根強く残ります。対立抗争の際に、興正寺末から西本願寺末とされ、その後の和解後に興正寺末にもどらずに、そのまま西本願寺末に留まった寺院もあったようです。つまり、興正寺末から西本願寺末へ17世紀半ばに、移った寺院があるということです。高松藩の西本願寺末の22ケ寺の中にも、そんな寺があったことが考えられます。開基当初から西本願寺末であったとは云えないことになります。
最後に、東本願寺の末寺を見ておきましょう。

東本願寺末寺 高松藩内一覧
東本願寺の末寺
①17世紀後半の高松藩「御領分中寺々由来書」には、東本願寺末の寺が24ヶ寺挙げられている。
②高松の福善寺が7ヶ寺の末寺を持っている。
③東本願寺の末寺は高松周辺に多く、鵜足郡や仲郡などの丸亀平野にはない
ここからは現在、丸亀平野にある東本願寺のお寺は、これ以後に転派したことがうかがえます。
 気になるのは(27)西光寺(西本願寺末香西郡)が、(26)竜善寺と(28)同了雲との間にあることです。
西光寺については由緒書に「寛文六年二月、西本願寺帰伏仕」とあります。もとは東本願寺の孫末であったのを、西本願寺に改派したときに、西本願寺直末になったようです。そうだとすると、前回見た真言宗大覚寺末の八口(八栗)寺が仁和寺孫末の安養寺と直末屋島寺との間にあるのは、もとは仁和寺末であったのを、大覚寺末に改派したためと研究者は推測します。
また②の高松の福善寺は阿波安楽寺文書の中の「豊臣秀吉の大仏殿供養法会へ出勤依頼廻状」に名前があるので、16世紀末にはすでに有力寺院だったことことが分かります。7つの末寺を持っていることにも納得がいきます。

  以上をまとめておくと
①17世紀末に成立した高松藩の「御領分中寺々由来書」には、西本願寺末寺として22の寺院が記されている。
②22の寺院の内訳は「寺号14、坊名1、道場主名7」で、寺号を得られていない道場がまだあった。
③丸亀平野には真宗興正派の常光寺と安楽寺の末寺が多い。
④その中で、仲郡の3つの西本願寺の寺院は、与北の如意山北麓に集中している。
⑤鵜足郡の西本願寺の5寺は、分散している。その中には他国からの移住者によって開基されたという伝承をもつ寺がある。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。参考文献

常光寺末寺1
常光寺の末寺一覧(高松藩領の一部)
前回は真宗興正寺派の中本山である常光寺(三木町)が、教線ラインを丸亀平野まで伸ばし、上表のように多くの末寺を支配下に納めていたことを見てきました。その中で19世紀になると、丸亀藩の末寺のほとんどが常光寺から離脱し「離末寺」となっていました。これは、阿波の安楽寺末の寺院にもいえることです。18世紀後半から常光寺や安楽寺などの中本寺と云われる有力寺院から末寺が離脱していく傾向が強まるようです。その背景には何があったのかを、今回は見ていくことにします。残念ながら讃岐には本末離脱を探れる史料がありません。

安楽寺1
安楽寺(美馬市郡里) 地元では「赤門寺」と呼ばれ興正寺派の中本山だった

あるのは阿波郡里の安楽寺です。安楽寺は先代の住持が大谷大学の真宗史の教授で、最後には学長も務めています。そして、安楽寺に残っていた文書を「安楽寺文書」として出版しています。今回は、美馬市の千葉山安楽寺に残る「安楽寺文書」の中に出てくる本末論争を見ていくことします。テキストは「須藤茂樹 近世前期阿波の本末論争―美馬郡郡里村安楽寺の「東光寺一件」をめぐって」です。
安楽寺末寺
安楽寺と讃岐布教の拠点となった末寺
 安楽寺については、以前にお話ししたように、阿讃山脈を越えて教線を伸ばし、丸亀平野や三豊平野に道場を形成し、それを真宗寺院に発展させ、多くの末寺とした中本寺です。そして、京都・本願寺-京都・興正寺-阿波国・安楽寺-末寺というネットワークの中に、讃岐の真宗寺院は組み込まれていきます。
寛永三年(1626)に安楽寺が徳島藩に提出した「末寺帳」 があります。
そこには、安楽寺末寺は阿波に18、讃岐に49、伊予4、土佐に8合計78ケ寺を数え、真宗の中本寺として四国最大の勢力を誇っていたことが記されています。徳島藩から寺領75石を宛がわれ、最盛期には末寺84ケ寺を誇るようになります。他にも郡里村にある勤番寺と隠居寺合せて8ケ寺を支配します。

安楽寺末寺分布図 讃岐・阿波拡大版
 安楽寺の阿波・讃岐の末寺分布図
東讃地区の末寺
光明寺(飯田)金乗寺(檀紙)安楽寺末東光寺下の光明寺(石田〉善楽寺(富田)西光寺(馬宿)善覚寺(引田)蓮住寺(鴨部)真覚寺(志度)

中讃地区
興泉寺(榎井)大念寺(櫛無)浄楽寺(垂水〉西福寺(原田)専立寺(富隈)超正寺(長尾)慈泉寺(長尾)慈光寺(岡田)西覚寺(岡田)専光寺(種)善性寺(長炭)寺教寺(種)長善寺(勝浦)   妙廷寺(常清)長楽寺(陶)
三豊地区
宝光寺(財田)品福寺(財田)正善寺(財団)善教寺(財団)最勝寺(財団〉立専寺(流岡)西蓮寺(同)仏証寺(坂本)光明寺(坂本〉善正寺(柞田)宝泉寺(円井)徳賢寺(粟井)

ところが18世紀頃から讃岐の末寺が安楽寺から離脱していく末寺が出てきます。
その原因となったのが本末論争とよばれる本寺と末寺の争論です。別の言い方をすれば「上寺・下寺との関係」です。これについては、「公儀へ被仰立御口上書等之写」(『本願寺史』)に、次のように記されています。
「上寺中山共申候と申は、本山より所縁を以、末寺之内を一ケ寺・弐ケ寺、或は百ケ寺・千ケ寺にても末寺之内本山より預け置、本山より末寺共を預け居候寺を上寺共中山共申候」

ここには、上寺の役目は下寺から本山へ寺号・木仏・絵像・法物・官職・住持相続等を願い出るとき取次ぎをしたり、下寺に違法がある場合、軽罪は上寺が罰し、重罪は本山に上申して裁断を仰ぐ、と規定されています。
 このように下寺は、本山より上寺に預け置かれたものとされ、下寺から本山への上申は、すべて上寺の添状が必要でした。そのための上寺への礼金支出のほか、正月・盆・報恩講などの懇志の納入など、かなり厳しい上下関係があったようです。そのため、上寺の横暴に下寺が耐えかね、下寺の上寺からの離末が試みられることになります。
 しかし、「本末は之を乱さず」との幕府の宗法によって、上寺の非法があったとしても、下寺の悲願はなかなか実現することはありませんでした。当時の幕府幕令では、改宗は禁じられていましたが、宗派間の改派は認められていたので、下寺の離末・直参化の道はただ一つ、改派する以外にはありませんでした。つまり、興正寺派の場合ならば、西本願寺か東本願寺などの他の会派に転じるということです。しかし、これには、門徒の同意が必要になります。どちらにしても、本末論争は下寺にとって越えなければならない障害が多い問題だったようです。これだけの予備知識を持って、安楽寺と東光寺の本末論争を見ていくことにします。
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東光寺(徳島市寺町)

天寿山東光寺は、徳島城下の寺町にある浄上真宗興正寺に属した寺院です。

寛永11年(1625)、本寺の安楽寺からの離脱を図りますが、結果的には離脱はかなわなかったようです。東光寺が安楽寺から離脱しようとした背景は、何なのでしょうか?
東光寺は、城下町徳島の寺町にあり、藩士や有力商人・豪商を門徒に数多く持っていたようです。そのため経済的にも豊かで、その財力によって本願寺教団内部での地位の向上を図り、寺格を高め、阿波での発言力を高めていったようです。そして、本寺である安楽寺からの離脱を早くから計ろうとします。その動きを史料で見ておきましょう。
(史料1)東光寺跡職に付一札(『安楽寺文書』上巻7頁) 
「東光寺講中から入院願之状」
以上
態令申候、乃而東光寺諸(跡力)職に付而、をねヽと正真坊を申含、東光寺之住寺二相定申候、若正信坊別心候ハゝ、当島之御もんと中をねゝ得付可申候、為後日一筆如件、
慶長六(1601)年拾月廿八日
青山積(勝力)蔵(花押)
梯九蔵
土田彦経兵衛(花押)
梯藤左衛門(花押)
馬渡市左衛門(花押)
森介三(花押)
東へや
藤左衛門(花押)
きの国や
与大夫(花押)
まふりや
四郎右衛門(花押)
天工寺や
善左衛門(花押)
ぬじやの
平十郎(花押)
しをや
惣有衛門(花押)
半回
与八郎(花押)
益田
橘右衛門(花押)
       東光寺講中
安楽寺様
まいる
  「史料1」慶長六年(1601)に東光寺講中が次期住持職の選任件について、本山安楽寺への報告した文書です。事前の承認を安楽寺に求めたりするものではなく、結果報告となっています。ここには東光寺講中14人の署名があります。その構成は、武士と商人がそれぞれ6人、その他2人となっています。特に商人たちは、徳島城下町の有力者たちだと研究者は指摘します。ここからは東光寺の門徒は、武士や有力商人層で、経済的に豊かであったことがうかがえます。そのため彼らを檀家に持つ東光寺の経済基盤はしっかりとしたものとなり、その財政基盤を背景に本願寺内部での地位向上を図るようになります。
 例えば、東光寺は寛永12(1625)年には余間一家(本願寺における着席の席次に基づく格式の一つ)の位を得ています。
 西本願寺では、院家・内陣・余間・廿四輩・初中後・飛檐(国絹袈裟)・総坊主の階層があり、それに応じて法会などでの着座順位が定まっていました。上位3つにの「院家・内陣・余間」は三官と呼ばれて、戦国期の一家衆に由来する高い階級でした。
 寺号免許や法宝物の下付、官職昇進については、本山への礼金や冥加金の納入が必要でした。西本願寺の場合、「公本定法録 上」(「大谷本願寺通紀」)には、その「相場」が次のように記されています。
木仏御礼     五両二分
木仏寺号御礼 十一両
開山(親鸞)絵像下付 二四両二分
永代飛檐御礼 三三両一分
永代内陣(院家)御礼金五〇〇両
内陣より院家への昇進 五〇〇両
官職の昇進に必要な冥加金のほか、定期的に年頭・中元・報恩講の御礼金を上納しなければなりません。東光寺は、城下町に立地する裕福な寺院として、冥加金や上納金を納めて寺格を高めていったようです。東光寺が任命された頃には、余間一家は全国でわずかに31ケ寺で、四国では東光寺以外にはありませんでした。こうして、東光寺は阿波真宗教団における発言権を強めるにつれて、安楽寺の末寺であることが窮屈になり、不満を持つようになります。
 寛永三年(1626)の「四ケ国末寺帳」に、東光寺は安楽寺の末寺として記されています。東光寺はこのことを不服として、寛永11年(1634)に安楽寺からの離脱を試みるようになります。
この動きに対して、安楽寺の尊正が本願寺の下間式部卿に宛てた書状を見てみましょう。
「史料2」東光寺一件に付安楽寺尊正書状草案(安楽寺文書)
尚々東光寺望之儀、其元隙人不申候様二奉頼候、以上、
東光寺被罷上候間、 一書致啓上候、上々様御無事二御座被成候哉、
承度奉存候、去年ハ讃州へ御下向被成候処、御無事二御上着被成之段、誠有難奉存候、
東光寺望二付被上候、如御存知私末寺代々事候条代々下坊主之事候間、其御分別被成候て、其元二而隙入不申候様二御取合奉頼候、担々御浦山敷儀御推量可被成候、不及申上候へ共、右之通可然様二奉頼候、何も乗尊近口可罷上之条、其刻委可申上候間不能多筆候、恐性謹言、
     安楽寺
寛永拾弐(1635)年 卯月十六日
進上
下間式部卿様
人々御中
意訳変換しておくと
東光寺が望んでいる(安楽寺からの末寺離脱の)件について、そのことについては、耳にしなかったことにしてお聞きにならないようにお願い致します。東光寺の件については、以前に文書を差し上げたとおりです。
 上々様は無事に職務を果たしていると承っています。昨年は讃岐へお出でになり、無事に京にお帰りになられたとのことで、誠にありがたく存じます。
東光寺の申出については、ご存じの通り代々、東光寺は私ども安楽寺の末寺です。下坊主の分別をわきまえて、本寺よりの離脱申請などには取り合わないようお願いします。
ここには、安楽寺は、東光寺の離脱願いを相手にしないで欲しい、はっきりと却下して欲しいと依頼しています。
 「昨年は讃岐へお出でになり、無事に京にお帰りになられたとのことで、誠にありがたく存じます。」というのは、讃岐の安楽寺の末寺を下間式部卿が視察訪問したことへのお礼のようです。安楽寺が本願寺に内部においても、高い位置にあったことが分かります。

はじめ東光寺は安楽寺と話し合いの上で本末関係を解消し、興正寺直参になろうとしたようです。
その経過がうかがえるのが次の「東光寺一件に付口上書草案」(『安楽寺文書』上巻です
(前欠)
可給、於左様ニハ、鐘を釣り寄進可仕と申候て、与兵衛と申東光寺家ノをとなヲ指越申候処二、中々不及覚悟二義、左様之取次曲事二之由申二付、与兵衛手ヲ失罷帰申候、末寺に□無之候ハ如何、
様之調仕候哉、
一其段東光寺申様、右同心於無御座ハ、副状被成可被下と申候故添状仕、式部卿様へ宜□申候処二、此状上不申由、式部卿様より被仰下驚入申候、か加様迄之不届義仕候二付、今度両度まて人を遣尋申処二、私ハ五年三年居申者二而御座候ヘハ万事不存候間、但方へ尋可有と両度之返事二而御座候条、左様二面ハ埒明不申故、先以西教寺ヲ致吾上候間、有体二被仰付可被下候、以上、
寛永十三(1636)年
二月二日                安楽寺
式部卿様
まいる
一部を意訳変換しておくと
東光寺は釣鐘を寄進する旨を、与兵衛と東光寺家がやってきて申し出てきました。しかし、末寺のそのような申し入れは受けられないと断わりました。与兵衛は為す術もなく帰りました。末寺の分際を越えた振る舞いです。

ここからは、東光寺が安楽寺への鐘を寄進するので、それと引き換えに本末関係を解消して欲しい旨を申し入れていることが分かります。しかし、安楽寺の拒絶によって話し合いは落着しなかったようです。そこで東光寺は、方針を変えて安楽寺の末寺ではないと申し立て、本末争論が始めます。
それが寛永十九(1642)四月晦日の安楽寺から本願寺の下間式部卿への書状から分かります。
(史料4)東光寺一件成敗に付願書控(「安楽寺文書」上巻17頁)
申上ル御事
先度双方被召寄、御吟味被成候へ共、否之義於只今不被仰付迷惑仕候、
一 理非次第二仰付可被下候哉、
一 東光寺せいし二被仰付候哉、但私せいし二被仰付候哉、
一 私国本之奉行方へ御状御添可被下候哉
右之通被仰上相済申様奉頼候、此度相済不申候ハゝ、下坊主・門徒之義不及申、世門(間)へつらいだし不罷成候、急度仰付可被下候、
         安楽寺
寛永十九(1642)四月晦日
下間式部卿様
意訳変換しておくと
下間式部卿に申し上げます
先日は、当方と東光寺の双方が京に呼び寄せられ、本末論争について吟味を受けました。しかし、東光寺の申し出を「否」とする決定が下されず、当方としては迷惑しております。、
一 白黒をはっきりと下していただいきたい
一 東光寺の誓詞が正しいのか、私共の誓詞が正しいのかはっきりと仰せつけ下さい、
一 徳島藩の奉行方へ、決定文を添えて書状をお送り下さい
以上についてお計らいいただけるようにお願い致します。この度の件については、下坊主・門徒に限らず、世間が注視しています。急ぎ結論を出していただきますよう。
         安楽寺
寛永十九(1642)四月晦日
下間式部卿様
京都の本山で安楽寺と東光寺双方が呼び寄せられ吟味がなされたようです。しかし、はっきりとした結論が出されなかったようで、これに対して「迷惑」と記しています。そして、今後の本願寺への要望を3点箇条書きにしています。本願寺内部でも、東光寺の内部工作が功を奏して、取扱に憂慮していたことがうかがえます。

それから1ヶ月後に、東光寺から安楽寺に次のような「証文」が送られています。
「史料5」東光寺一件裁許に付取替証文写(『安楽寺文書』)
端裏無之
今度其方と我等出入有之処二、興門様致言上、双方被聞召届、如前々之安楽寺下坊主なミニ東光寺より万事馳走可仕旨被仰付候、御意之趣以来少も相違有之間敷候、為後日如此候、恐々謹百、
寛永拾九(1642)年             東光寺
五月十四日             了 寂判
安楽寺殿
意訳変換しておくと
この度の安楽寺と我東光寺の争論について、本願寺門主様から双方の言い分を聞き取った上で、東光寺は従来通り安楽寺の下坊主(末寺)であるとの決定書を受け取りました。これについていささかも相違ないことを伝えます。恐々謹百、

 寛永19年(1642)五月に、本寺の興正寺の調停で、本末争論は終結し、両寺は約定書を交換しています。東光寺からの証書には、「東光寺は従前通り安楽寺の末寺」とされています。これは、幕府の「本末の規式を乱してはならない」という方針に基づいた内容です。東光寺の財力を背景にしての本末離脱工作は、この時点では敗訴に終わったようです。
 安楽寺はこれを契機に、末寺に対して本山興正寺に申請書を出すときは、必ず本寺安楽寺の添状を付して提出するように通達し、これについての末寺の連判を求めています。いわば末寺に対する引き締め政策です。これは讃岐の安楽寺の末寺にも、求められることになります。
本末制から触頭制へ
 東光寺はその経済力と藩庁所在地に位置しているという地理的条件の良さによって、触頭(ふれがしら)の地位を得ます。触頭制について、ウキは次のように記します。
触頭とは、江戸幕府や藩の寺社奉行の下で各宗派ごとに任命された特定の寺院のこと。本山及びその他寺院との上申下達などの連絡を行い、地域内の寺院の統制を行った。
 寛永13年(1635年)に江戸幕府が寺社奉行を設置すると、各宗派は江戸もしくはその周辺に触頭寺院を設置した。浄土宗では増上寺、浄土真宗では浅草本願寺・築地本願寺、曹洞宗では関三刹が触頭寺院に相当し、幕藩体制における寺院・僧侶統制の一端を担った
 従来の本末制は安楽寺の場合のように、阿波・讃岐・伊予・土佐の四国の四カ国またがったネットワークで、いくつも藩を抱え込みます。藩毎に通達や政策が異なるので、本寺では対応できなくなります。これに対して触頭制は、藩体制に対応した寺院統制機構で、江戸時代中期以後になると、寺院統制は触頭制によって行われるようになります。触頭制が強化されるにつれて、本末制は存在意味をなくしていきます。危機を感じた安楽寺は、末寺の離反する前に、合意の上で金銭を支払えば、本末関係を解く道を選びます。

宝暦7年(1757)、安楽寺は髙松藩の安養寺と、安養寺配下の20ケ寺に離末証文「高松安養寺離末状」を出しています。
安養寺以下、その末寺が安楽寺支配から離れることを認めたのです。これに続いて、安永・明和・文化の各年に讃岐の21ケ寺の末寺を手放していますが、これも合意の上でおこなわれたようです。

常光寺離末寺
常光寺の離末寺院一覧

 前回に三木の常光寺末寺の一覧表を見ました。その中に「離末寺」として挙げられているかつての末寺がありました。ここには高松藩以外の満濃池御領(天領)の玄龍寺や丸亀藩の多度郡・三豊の末寺が並んでいます。これらが文化十(1813)年十月に、集団で常光寺末を離れていることが分かります。この動きは、安楽寺からの離末と連動しているようです。安楽寺の触頭制対応を見て、それに習ったことがうかがえます。具体的にどのような過程を経て、讃岐の安楽寺の末寺が安楽寺から離れて行ったのかは、また別の機会にします。

以上をまとめておくと
①中世以来結ばれてきた本末関係に対して、末寺の中には本寺に対する不満などから解消し、総本山直属を望む寺も現れた
②しかし、江戸時代によって制度化され本末制度のなかでは離脱はなかなか認められなかった。
③それが触頭制度が普及するにつれて、本末制度は有名無実化されるようになった。
④そこで安楽寺は、末寺との合意の上で金銭的支払いを条件に本末関係解消に動くようになった。
⑤その結果、常光寺も丸亀藩や天領にある寺との末寺解消を行った。
⑥安楽寺を離れた讃岐の末寺は、興正寺直属末寺となって行くものが多かった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  須藤茂樹 近世前期阿波の本末論争―美馬郡郡里村安楽寺の「東光寺一件」をめぐって―  四国大学紀要
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