戦後の空海研究史については、以前にお話ししました。その中で明らかになったのは、空海が一族の期待を裏切るような形で、大学をやめ山林修行の道を選んでいたことです。これは私にとって「衝撃」でした。「空海=生まれながらにして仏道を目指す者」という先入観が崩れ落ちていくような気がしたのを思い出します。
佐伯一門の期待の星として、平城京の大学に入りながら、そこを飛び出すようにして山林修行の道を選んだのです。これは当時の私には「体制からのドロップアウト」のようにも感じられました。ある意味、エリート学生が立身出世の道を捨てて、己の信じる道を歩むという自立宣言であったのかも知れません。それまでの「弘法大師伝説」では、空海はどのような過程で仏門へ入ったとされていたのでしょうか。
弘法大師行状絵詞に描かれた「空海出家」のプロセスを見て行くことにします。
〔第四段〕
大師、天性明敏にして、上智の雅量(がりょう)を備ヘ給ふ。顔回(=孔子の弟子)が十を知りし古の跡、士衡(しこう=陸機。中国晋代の人)が多を憂へし昔の例も、斯くやとぞ覚えける。こゝに、外戚の叔父、阿刀大足大夫(伊予親王の学士)、双親に相語りて日く、
「仏弟子と為さむよりは如かじ、大学に入りて経史を学び、身を立て、名を挙げしめむには」と。此の教へに任せて則ち、白男氏に就きて俗典を学び、讃仰(さんごう)を励まし給ふ。遂に、即ち延暦7年(788)御歳十五にして、家郷を辞して京洛(けいらく)に入る。十八の御歳、大学に交わり、学舎に遊び給ふ。直講・味酒浄成(うまざけきよなり)に従ひて「孟子」「左伝」『尚書』を読み、岡田博士に逢ひて、重ねて「左氏春秋」を学べり。大凡(おおよそ)、蛍雪の勤め怠りなく、縄錐(じょうすい)の謀心を尽く給いしかば、学業早く成りて、文質相備はる。千歳の日月、心の中に明らかに、 一朝(↓期)の錦繍、筆の端に鮮やか
意訳変換しておきます
大師は天性明敏で、向学心や理解力が優れていた。中国の才人とされる孔子の弟子顔回や、陸機の能力もこのようなものであったのかと思うほどであった。そこで、母の兄(叔父)・阿刀大足は、空海の両親に次のように勧めた。
「仏弟子とされるのはいかがかと思う。それよりも大学に入りて経史を学び、身を立て名を挙げることを考えてはどうか」と。この助言に従って、阿刀大足氏に就いて俗典を学び、研鑽を積んだ。そして延暦7年(788)15歳の時に、讃岐を出て平城京に入った。十八歳の時には、大学に入り、学舎に遊ぶようになった。直講・味酒浄成(うまざけきよなり)から「孟子」「左伝」『尚書』の購読を受け、岡田博士からは、「左氏春秋」を学んだ。蛍雪の功を積み、学業を修めることができ、みごとな文章を書くことも出来るようになった。
ここには、空海の進路について両親と阿刀大足の間には意見の相違があったことが記されます
①父母は 「仏弟子」②阿刀大足大 「経書を学び、立身出世の官吏」
一貫して佐伯家の両親は仏門に入ることを望んでいたという立場です。 それでは絵巻を見ていきましょう。
「仏門よりかは、大学で経書を学び、立身出世の道を歩んだ方がいい。早く平城京に上洛するように」
と書かれています。
佐伯直の系譜については、以前にも紹介しましたが、残された戸籍を見ると一族の長は「田公」ではありません。田公には兄弟が何人かいて、田公は嫡子ではなく佐伯家の本家を継ぐものではなかったようです。佐伯家の傍流・分家になります。また、田公には位階がなく無冠です。無冠の者は、郡長にはなれません。しかし、空海の弟たちは地方人としてはかなり高い位階を得ています。
父田公の時代に飛躍的な経済的向上があったことがうかがえます。
それは田公の「瀬戸内海海上交易活動」によってもたらされたと考える研究者もいます。このことについても以前に触れましたのでここでは省略します。
平城京に向けて善通寺を出発する馬上の真魚(空海幼名)
絵図だけ見ると、どこかの武士の若君の騎馬姿のようにも見えます。叔父阿刀大足からの勧めに従って平城京に向かう真魚の一団のようです。これが中世の人たちがイメージした貴公子の姿なのでしょう。いななき立ち上がる馬と、それを操る若君(真魚)。従う郎党も武士の姿です。
空海の時代の貴族達の乗り物は牛車です。貴族が馬に跨がることはありません。ここにも中世の空気が刻印されています。また、田公は弘田川河口の多度津白方湊を拠点にして交易活動をいとなんでいた気配があります。そうだとすれば、空海の上洛は舟が使われた可能性の方が高いと私は考えています。
平城京での阿刀大足と真魚の初めての出会いシーン
阿刀大足は、伊予親王の家庭教師も務めていて当時は、碩学として名が知られていました。館には、門下の若者達が詰めかけて経書を読み、議論を行ってる姿が右側に描かれます。左奥の部屋では、讃岐から上洛した真魚と阿刀大足が向き合います。机上には冊子や巻物が並べられ、四書五経など経書を学ぶことの重要性が説かれたのかもしれません。この時点での真魚の人生目標は阿刀大足により示された「立身出世」にあったと語られます。
阿刀大足の本貫は、もともとは摂津の大和川流域にあり、河川交易に従事していたと研究者は考えているようです。そのために空海の父田公と交易を通じて関係があり、その関係で阿刀大足の妹が田公と結婚します。しかし、当時は「妻取婚」ではなく、夫が妻の下へ通っていくスタイルでした。そのため空海も阿刀氏の拠点がある大和川流域で生まれ育てられたのではないかという説も近年には出されています。
〔第五段〕出家学法 空海が仏教に惹かれるようになったのは?
御入洛の後、石渕(=淵)の僧正勤操(ごんぞう)を師とし仕へて、大虚空蔵、並びに能満虚空蔵等の法を受け、心府に染めて念持し給ひけり。この法は、昔、大安寺の道慈律師、大唐に渡りて諸宗を学びし時、善無畏(ぜんむい)三蔵に逢ひ奉りて、その幽旨を伝へ、本朝に帰り来りて後、同寺の善儀(↓議)大徳授く。議公、又、懃(↓勤)操和尚に授く。和尚此の法の勝利を得給ひて、英傑の誉れ世に溢れしかば、大師、かの面授を蒙りて、深く服膺(ふくよう)し給へり。しかあれば、儒林に遊びて、広く経史を学び給ひしかども、常は仏教を好みて、専ら避世の御心ざし(↓志)深かりき。秘かに思ひ給はく 「我が習ふ所の上古の俗典は、眼前にして一期の後の利弼(りひつ)なし。この風を止めて如かじ、真の福田を仰がむには」と。則ち、近士(=近事)にならせ給ひて、御名を無空とぞ付き給ひける。延暦十六年〈797〉朧月の初日(=十二月一H)、『三教指帰』を撰して、俗教の益なき事を述べ給ふ。其の詞に云ぐ、「朝市の栄華は念々にこれを厭ひ、巌藪の煙霞は日夕にこれを願ふ。軽肥流水を見ては、則ち電幻の嘆き忽ちに起こり、支離懸鶉を見ては、則ち因果の憐れび殊に深し目に触れて我を勧む。誰か能く風を繋がむ。ここに一多の親戚あり。我を縛るに五常の索(なわ)を以てし、我を断はるに忠孝に背くといふを以てす。余、思はく、物の心一にああず、飛沈性異なり。この故に、聖者の人を駆る教網に三種あり。所謂、釈(迦)。李(=老子)・孔子)なり。浅深隔てありと雖も、並びに皆聖説なり。若し一つの網に入りなば、何ぞ忠孝に背かむ」と書かせ給へりcこの書、一部三巻、信宿の間に製草せられたり。元は『聾書指帰』と題し給ひけるを、後に『三教指帰』と改めらる。その書、世に伝はりて、今に絡素(しそ)の翫(もてあそび)び物たり。
意訳変換しておくと
空海に虚空蔵法を伝えた勤操(ごんぞう)
空海に虚空蔵法を伝えた勤操(ごんぞう)
空海は入洛後に儒教の経書を学んでいただけではなかった。石淵の勤操を師として、大虚空蔵法を授かり、念持続けるようになった。この法は、大安寺の道慈律師が唐に渡って諸宗を学んだ時に、善無畏(ぜんむい)三蔵から伝えられたもので、帰国後に、同寺の善儀に受け継がれた。それを懃(勤)操和尚は修得していた。英傑の誉れが高い勤操(ごんぞう)から個人的な教えを受けて、大師は深く師事するようになり、仏教に関しての知識は深まった。そうすると、儒学を学んでも、心は仏教にあり、避世の志が深かまってきた。当時のことを大師は『三教指帰』の中で、このように述べている「私が学ぶ儒学の経典は、立身出世という眼前のことだけに終始し、生涯をかけて学ぶには値しないものである。こんな心の風が次第に強くなるのを止めることができなくなった。真の私の歩むべき道とは?」そして、近士(=近事)になり、無空と名乗るようになる。延暦十六年〈797〉朧月の初日に『三教指帰』を現して、儒教や道教では、世は救えないことを宣言した。その序言に次のように記した「朝廷の官位や市場の富などの栄耀栄華を求める生き方は嫌でたまらなくなり、朝な夕な霞たなびく山の暮らしを望むようになりました。軽やかな服装で肥えた馬や豪華な車に乗り都の大路を行き交う人々を見ては、そのような富貴も一瞬で消え去ってしまう稲妻のように儚い幻に過ぎないことを嘆き、みすぼらしい 衣に不自由な身体をつつんだ人々を見ては、前世の報いを逃れられぬ因果の哀しさが止むことはありません。このような光景を見て、誰が風をつなぎとめることが出来ましょうか!わたくしには多くの親族がいます。叔父や、大学の先生方は、儒教の忠孝で私を縛り、出家の道が忠孝に背くものとして、わたくしの願いを聞き入れてくれません。そこで私は次のように考えました。
「生き物の心は一つではない。鳥は空を飛び魚は水に潜るように、その性はみな異なっている。それゆえに、聖人は、人を導くのに、仏教、道教、儒教 の三種類の教えを用意されたのだ。 それぞれの教えに浅深の違いはあるにしても、みな聖人の教えなのだ。そのうちの一つに入るのであれば、どうして忠孝 に乖くことになるだろうか」
勤操(ごんぞう)の住房 建物の下は懸崖で下は幽谷
ここで空海は虚空蔵法を学んだとします。
これが善無畏(ぜんむい)三蔵から直伝秘密とされる虚空蔵法じゃ。しかと耳にとめ、忘れるでないぞ。
ここからは弘法大師行状絵詞では、虚空蔵法を空海に伝えたのは、勤操(ごんぞう)としていたことが分かります。
ここからは弘法大師行状絵詞では、虚空蔵法を空海に伝えたのは、勤操(ごんぞう)としていたことが分かります。
和泉国槙尾寺での空海剃髪
廊下から見ているのは都から駆けつけた空海の近習たちという設定。 剃髪の儀式は戒師の立ち会いの下で、剃刀を使う僧が指名され人々が見守る中で、厳かに行われる儀式でした。ここでは左側の礼盤に座るのが勤操で、その前に赤い前机が置かれ、その上で香炉が焚かれています。巻 二〔第一段〕
大師、遂に學門を逃れ出で、山林を渉覧して、修練歳月を送り給ひしに、石渕(=淵)の勤操、その苦行を憐れみ、大師を招引し給ひて、延暦十二年〈793〉、御年二十と申せし時、和泉国槙尾といふ寺にして、髪を剃りて、沙弥の十戒、七十二の威儀を授け奉る。御諄、教海と号し給ふ。後には、改めて如空と称せらる。
同十四年四月九日、東大寺戒壇院にして、唐僧泰信律師を嘱(↓屈)して伝戒の和尚として、勝伝・豊安等の十師を卒して潟磨教授とし、比丘の具足戒を受け給ふ。この時、御名を空(海)と改めらる。しか在りしよりこの方、戒珠を胸の間に輝かし、徳瓶を掌の内に携ふ。油鉢守りて傾かず、浮嚢惜しみて漏らす事なし。大師御草の牒書、相伝はりて、今に至る迄、登壇受成の模範と仰げり。
意訳変換すると
大師は遂に學門を逃れ出て、山林を行道する修練歳月を送りはじめます。師である勤操は、その苦行を憐れみ、大師を呼び戻して和泉国槙尾寺で、髪を剃りて、沙弥の十戒、七十二の威儀を授けます。これが延暦十二年〈793〉、20歳の時のことです。そして教海と名乗り、その後改めて如空と呼ばれるようになります。その2年後の延暦十四年(795)四月九日、東大寺戒壇院で、唐僧泰信律師を伝戒の和尚として、勝伝・豊安等の十師を教授とし、比丘の具足戒を受けました。この時に、名を空(海)と改めます。
東大寺の戒壇院の朱塗りの回廊が見え隠れします。
剃髪から2年後に、今度は東大寺で正式に具足戒を受けたと記されます。これを経て僧侶としての正式な資格を得たことになります。戒壇院の門を入ると、大松明が明々と燃え盛っています。儀式の先頭に立つのが唐僧泰信律師で遠山袈裟を纏っています。その後に合掌して従うのが如空(空海)のようです。
切石を積み上げて整然と作られた戒壇の正面に舎利塔が置かれています。その前に経机と畳壇が置かれます。ここに座るのが空海のようです。
以上をまとめておくと、次のようになるのでしょうか。
①空海は叔父阿刀大足の勧めもあって平城京に上がり、大学で儒教の経書をまなぶ学生となった②一方、石淵の勤操から虚空蔵法を学ぶにつれて儒教よりも仏教への志がつよくなった。③こうして、一族や周囲の反対を押し切って空海は山林修行の道に入った④これに対して、勤操は空海を呼び戻し槙尾寺で剃髪させた⑤その後、空海は東大寺で正式に得度した
これが、戦前の弘法大師の得度をめぐる常識であったようです。
しかし、戦後の歴史学が明らかにしたことは、空海の得度は遣唐使に選ばれる直前であって、それ以前は沙門であったことです。
しかし、戦後の歴史学が明らかにしたことは、空海の得度は遣唐使に選ばれる直前であって、それ以前は沙門であったことです。
延暦24年の太政官符には、空海の出家が延暦22(802)年4月7日であっったことが明記されています。これは唐に渡る2年前の事になります。それまでは、空海は沙門(私度僧)であったのです。
沙門とは、正式に国家によって認められた僧ではなく、自分で勝手に僧として称している「自称僧侶」です。空海は沙門として、各地での修行を行っていたのです。つまり、「絵詞」などに描かれている④⑤の東大寺での儀式は、フィクションであったことになります。大学をドロップアウトして、山林修行を始めた空海は沙門で、それが唐に渡直前まで続いたことは押さえておきます。
沙門とは、正式に国家によって認められた僧ではなく、自分で勝手に僧として称している「自称僧侶」です。空海は沙門として、各地での修行を行っていたのです。つまり、「絵詞」などに描かれている④⑤の東大寺での儀式は、フィクションであったことになります。大学をドロップアウトして、山林修行を始めた空海は沙門で、それが唐に渡直前まで続いたことは押さえておきます。
高野山としては、沙門(私度僧=非公認)という身分のままで各地を修行したというのでは都合が悪かったのでしょう。そこで東大寺で正式に得度したと云うことになったようです。
以上最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
小松茂美 弘法大師行状絵詞 中央公論社1990年刊
関連記事
関連記事