瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:東寺末寺

前回は曼荼羅寺が、11世紀後半に廻国の山林修験者たちの勧進活動によって復興・中興されたことを見てきました。その中で勧進聖達が「大師聖霊の御助成人」という自覚と指命をもって勧進活動に取り組んでいる姿が見えてきました。これは別の言い方をすると、「弘法大師信仰をもった勧進僧達による寺院復興」ということになります。それは現在の四国霊場に「弘法大師信仰」が接ぎ木される先例として捉えることができます。そんな思惑で、弘法大師の伝記『行状集記』に載せられている四国の3つの寺、讃岐の善通寺・曼荼羅寺と阿波の太龍寺、土佐室戸の金剛頂寺の11世紀の状況を見ていくことにします。テキストは「野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号(H15年)」です。
この3つの寺に共通することとして、次の2点が指摘できます。
①弘法大師の建立という縁起をもっていること
②東寺の末寺であったこと
まず土佐室戸の金剛頂寺です。
室戸は、空海の口の中に光が飛び込んで来たことで有名な行場です。三教指帰にも空海は記しているので初期修行地としては文句のつけようがない場所です。この室戸岬の西側の行当岬に、空海によって建立されたのが金剛頂寺であることは以前にお話ししました。

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      金剛定(頂)寺に現れた魔物を退治する空海

その金剛定寺も11世紀になると、地方豪族の圧迫を受けるようになります。1070(延久二)年に、土佐国奈半庄の庄司が寺領を押領します。それを東寺に訴え出た解案には、次のように記されています。
右、謹案旧記、件寺者、弘法大師祈下明星初行之地、 智弘和尚真言法界練行之砌天人遊之処、 明星来影之嶺也、因茲戴大師手造立薬師仏像安二置件嶺(中略)
是以始自国至迂庶民、為仰当寺仏法之霊験、各所施入山川田畠也、乃任各施本意、備以件地利、備仏聖燈油充堂舎修理 中略……、漸経数百歳也、而世及末代 ……、修理山川田畠等被押妨領  、茲往僧等、以去永承六年十二月十三日相副本公験注子細旨、訴申本寺随本寺奏聞 公家去天喜元年二月十三日停二止他妨
意訳変換しておくと
 謹しんで旧記を見ると、当寺は修行中の弘法大師が明星のもとで初めて悟りを開いた地とされている。智弘和尚も真言法界の修行の祭には天人が遊んだともされる明星来影の聖地であるとされる。それにちなんで、弘法大師の手造りの薬師如来像を安置された。(中略)
当寺は土佐ばかりでなく、広く全国の人々からも、仏法霊験の地として知れ渡っている。各所から山川田畠が寄進され、人々の願いを受けて、伽藍を整備し、聖たちは燈油を備え、堂舎の修理を行ってきた。 中略
それが数百年の長きに渡って守られ、末代まで続けられ……、(ところが)修理のための寺領田畠が押領された。そこで住僧たちは相談して、永承六(1051)年十二月十三日に、子細を東寺へ伝え、公験を差し出した。詳しくはここに述べた通りである。本寺の願いを聞き届けられるよう願い上げる。 公家去天喜元年二月十三日停止他妨
ここからは次のようなことが分かります。
①最初の縁起伝説は、東寺長者の書いた『行状集記』とほぼ同じ内容であること。(これが旧記のこと?)
②智弘和尚の伝説からは、金剛頂寺が修行場(別院)のような寺院であったこと
③そのため廻国の修行者がやってきて、室戸岬との行道修行の拠点施設となっていたこと
④金剛頂寺の寺領は、さまざまな人々から寄進された小規模な田畠の集まりであったこと。
⑥金剛頂寺が、庄司からの圧迫を防ぐために、東寺に寺地の公験を差出したのは、1051(永承六)年のこと

公験とは?

全体としては、「空海の初期修行地」という特性をバックに、東寺に向かって「何とかしてくれ」という感じが伝わっています。
①からは、これを書いた金剛頂寺の僧侶は、東寺長者の書いた『行状集記』を呼んでいることが裏付けられます。①②からは、室戸という有名な修行地をもつ金剛頂寺には、全国から山林修行者がやってきていたこと。しかし、寺領は狭くて経済基盤が弱かったことが④からはうかがえます。『行状集記』の金剛頂寺の伝説には、有力な信者がいないために、沖を往来する船舶にたいして「乞食行」が公認されていたという話が載せられていて、経済基盤の弱さを裏付けます。⑥の公験を差し出すと云うことは「末寺化=荘園化」を意味します。
ところが金剛頂寺では、これ以後は寺領が着実に増えていきます。その背景には、当時四国でもさかんになってきた弘法大師信仰が追い風となったと研究者は考えています。それが寺領・寺勢の発展をもたらしたというのです。それは後で見ることにして・・・。
4大龍寺16
太龍寺
次に、阿波国太龍寺を見ておきましょう。
1103(康和五)年8月16日の太龍寺の所領注進には、次のように記されています。
抑当山起、弘法大師之初行霊山也、……、於東寺別院既以数百歳、敢無他妨哉、 兼又勤仕本寺役耳、

意訳変換しておくと
そもそも当寺は、弘法大師の初修行地の霊山で・・東寺の別院として数百年の年月を経ている

大瀧寺も『行状集記』の「弘法大師之初行霊山也」以下の記述を、縁起に「引用」しています。この寺ももともとは、行場にやってきた山林修験者たちが宿泊する「草庵」から出発して、寺に発展してきたようです。
大瀧寺は、阿波国那賀郡加茂村の山の中にあります。
寺の周辺を寺域として、広い山域を占有していたことようで、注進文書では寺域内の荒野開発の承認を求めています。そして開発地を含む寺領の免租(本寺役のみの勤任)を、本寺の東寺にたいして要請しています。ここでも、それまでの庵や坊から寺に脱皮していくときに、東寺に頼っています。

 前回見た讃岐の曼荼羅寺と、今見てきた阿波国大瀧寺、土佐国金剛定寺の3つの寺は、「空海の初期修行地」とされ、そこに庵や坊が誕生していきます。そのためもともとの寺の規模は小さく、寺領も寺の周りを開墾した田畑と、わずかな寄進だけでした。それが寺領拡大していくのは、11世紀後半になってからで、その際に東寺の末寺となることを選んでいます。末寺になるというのは、経済的な視点で見ると本寺の荘園になるとも云えます。そして、本寺の東寺に対して、なにがしらの本務を担うことになります。
           
東寺宝蔵焼亡日記
          東寺宝蔵焼亡日記(右から6行目に「讃岐国善通寺公験」)

東寺百合文書の中に『東寺宝蔵焼亡日記』があります。

この中の北宝蔵納置焼失物等という項に「諸国末寺公験丼荘々公験等」があります。これは長保2(1000)年の火災で焼けた東寺宝蔵の寺宝目録です。これによると11月25日夜、東寺の北郷から火の手が上がり南北両宝蔵が類焼します。南宝蔵に納められていた灌頂会の道具類は取り出されて焼失を免れましたが、北宝蔵の仏具類のほか文書類が焼失しました。焼失した文書の中に讃岐国善通寺などの「諸国末寺公験并庄庄公験等」があったようです。
ここからは次のようなことが分かります。
①平安時代の東寺は、重要な道具類や文書・記録類は宝蔵に保管されていたこと
②讃岐国善通寺が東寺に公験を提出していたこと。
③阿波国大瀧寺、土佐国金剛定寺の公験はないこと。
つまり、善通寺はこの時点で東寺の末寺になっていたことが、太龍寺と金剛頂寺は末寺ではなかったことになります。両寺は縁起などには古くから東寺の末寺・別院であることを自称していました。しかし、本山東寺には、その記録がないということです。これは公験を預けるような本末関係にまでには、なってなかったことになります。金剛頂寺や大瀧寺が、東寺への本末関係を自ら積極的にのぞむようになるのは、11世紀後半になってからのようです。その背景として、弘法大師信仰の地方への拡大・浸透があったと研究者は考えています。
「寺領や寺勢の拡大のためには、人々の間に拡がってきた弘法大師信仰を利用するのが得策だ。そのためには、真言宗の総本山の東寺の末寺となった方が何かとやりやすい」と考えるようになってからだとしておきます。その際に、本末関係の縁結び役を果たしたのが弘法大師関連の伝説だったというのです。そのような視点で曼荼羅寺の場合を見ていくことにします。
曼荼羅寺の縁起について、1164(長寛二)年の善通・曼荼羅両寺所司の解には、次のように記されています。(意訳)
善通寺は、弘法大師の先祖の建立で、約五百年を経ており、弘法大師自作の薬師仏、自筆の金光明妙文、五筆額を安置する。曼茶羅寺は、大師入唐ののちに建立され、大師自作の七体の諸尊像を納める。


これによると、善通寺は佐伯氏の氏寺であり、曼茶羅寺は、空海建立とします。ふたつの寺が「善通・曼茶羅両寺」として並称され、一体視されるのは、応徳年間(1084年ごろ)以後のようです。それまでは、別々の寺でした。
 善通寺は、十世紀末には東寺の末寺となっていたことは、さきほど見たように公験が東寺に納められていることで裏付けられます。しかし、この時点では曼茶羅寺の名はまだ出てきません。善通寺は佐伯氏の氏寺だったので、そこから寄進された田畑があって、まとまった寺領があったのかもしれません。そのために寺領維持のために、早い時期に東寺の末寺となったことが考えられます。
 
 曼茶羅寺はもともとは、吉原郷を拠点とする豪族の氏寺だったと私は考えています。その根拠を以下の図で簡単に述べておきます。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
善通寺王国の旧練兵場遺跡
旧練兵場遺跡 銅剣出土状況

上の青銅器の出土の集中から旧練兵場遺跡がその中心で、ここに善通寺王国があったと研究者は考えています。しかし、その周辺を見ると善通寺とは別の勢力が我拝師山の麓の吉原エリアにはいたことがうかがえます。
青龍古墳1
青龍古墳(吉原エリアの豪族の古墳)

さらに、古墳時代になっても吉原エリアの豪族は、青龍古墳を築いて、一時的には善通寺エリアの勢力を圧倒する勢いを見せます。古墳時代後期になって、善通寺勢力は横穴式古墳の前方後円墳・王墓山や菊塚を築きますが、吉原エリアでも巨石墳の大塚池古墳を築造する力を保持しています。この勢力が律令国家になっても郡司に準ずる地方豪族として勢力を保持し続けた可能性はあります。そうすれば自分の氏寺を吉原に築いたことは充分に考えられると思います。その豪族が氏寺として建立したのが「曼荼羅寺」の最初の形ではなかったのかという説です。「原曼荼羅寺=吉原氏の氏寺説」としておきます。

青龍古墳 編年表
丸亀平野の古墳変遷
 弥生・古墳時代を通じて、吉原エリアは、善通寺勢力とは別の勢力がいたこと、その勢力が氏寺として建立したのが曼荼羅寺の原型という説になります。律令体制の解体と共に、吉原を基盤とする豪族が没落すると、その氏寺も退転します。地方の豪族の氏寺の歩む道です。しかし、曼荼羅寺が違っていたのは、背後に我拝師山を盟主とする霊山(修行地)を、持っていたことです。これは弘法大師信仰の高まりととともに、空海幼年期の行場とされ、山林修行者にとっては聖地とされていきます。ある意味では、先ほど見た土佐国金剛定(頂)寺、阿波国大瀧(龍)寺と同じように廻国の聖達から見られたのかも知れません。
 曼荼羅寺は、前回見たように11世紀後半には退転していました。それを復興させたのは廻国の山林修行者だったことはお話ししました。そういう意味では11世紀半ばというのは、曼荼羅寺にとっては、地方豪族の氏寺から山林修行者の拠点への転換期だったと云えるのかもしれません。以上をまとめておくと
        
曼荼羅寺の古代変遷

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号(H15年)」
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善通寺東院

藤原道長全盛期の11世紀の半ばまでは、準官寺や東寺の末寺として、順調に発展してきた善通寺です。ところが11世紀後期になると、いろいろな困難が降りかかり、前途に陰りが見えてくるようになったようです。その困難の一つは、本寺である東寺の支配強化(圧迫)にあったようです。
東寺の財政政策の転換は、末寺の善通寺を圧迫しました
 東寺の財政は、丹波国大山荘や摂津国の荘園からの年貢収入もありましたが、その多くは国家から与えられた封戸に頼っていました。東寺の封戸は遠江国一五〇戸、伊豆国五〇戸など約一千戸ほどが与えられていましたが、11世紀の後半になると、律令体制の緩みで封戸収入が全く入らないようになります。そのため東寺は堂塔の荒廃や仏事の減退がひどくなってきたようです。そこで東寺は、財政の中心を封戸から荘園や末寺の納入物に移すことで、体勢を立て直す方針に転換します。こうして、荘園や末寺への支配強化の手始めとして、本寺から別当と呼ばれる全権委任者が派遣されるようになります。

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善通寺東院金堂
東寺からやって来た別当がどんなことを行ったか見てみましょう。

「見納二十二石九斗二升七合、已に別当御運上、別当御方々用途料十六石八斗五升」

この別当というのが、東寺から善通寺管理のために派遣された僧のことです。彼は延与という名で別当職として1071(延久三)年11月に善通寺に下ってきました。着任するやいなや善通寺に納入されていた田地子四七石五斗七升七合のうち、二二石九斗二升七合を京都に送ってしまいます。さらに「別当御方々用途料十六石八斗五升」とあるので、一六石八斗五升を、別当及び別当に付き従っていた人々の用途料として消費しす。そのため善通寺が費用として使用できる地子米は、残った七石八斗だけになってしまいます。別当延与は、畠迪子(年貢)においても、納入された六石三斗のうち三石を京都に運上しています。
 現在風に言うと、支店の売り上げ利益を本社からやってきた支店長が吸い上げて、本社に送金して、支店には資金が残らないようなイメージでしょうか。支店では活動資金すら不足する状況になります。善通寺の仏事や修理ができなくなります。善通寺では、延久二年(1070)に大風で五重塔一基と三間一面の常行堂が倒れていました。塔の再建は無理だが常行堂は何とか建て直そうと、古材木を集めて修造に取りかかる手はずになっていたようです。ところが、延与の地子(年貢)収奪のために、それも不可能になりました。

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善通寺東院の五百羅漢

 このような別当の「非道」に対して善通寺の僧侶達も黙っていたわけではありません。
延久四年の二月に上京して、東寺長者を兼ね、延与の非道を止めさせてくれるよう訴えました。その訴状には次のように書かれています。

「件の延誉(与)非道を宗と為し、全く燈油仏聖(仏供)ならびに修理料等を留め置かず、茲に因って寺中方々仏事、堂舎の修理等ほとんど欠怠す可く(なおざりになり)、その中大師御関日料(御忌日料)なお以て押し止む(支出しない)、況んや余の仏事をや(他の仏事はなおさらである)」
 意訳変換しておくと
この件について延誉(与)の行った非道は、燈油仏聖(仏供)や修理料等などのための資金を留め置かないことである。そのために善通寺の仏事、堂舎の修理などがなおざりになった上に、大師御関日料(御忌日料)なども支出しようとしない。他の仏事はなおさらである」

しかし、別当の本寺優先策が改まることはなかったようです。別当の行っていることは、「末寺(支店)から富を吸い上げて本寺(本社)を守る」という東寺の財政政策に基づいていたのですから。本展の指示通りに支店長は動いていたのです。

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善通寺は、この後もたびたび本寺や国司に対して訴えをくり返しています。しかし、改善はされません。それどころか、12年ほどたった応徳元年(1084)十一月、京都の讃岐国司(遙任)から讃岐の留守所(国衛)に次のような文書が届きます。

「本の如く別当の所勘(管理)に随って雑事を勤行すべし」とあり、国府は善通寺に「本別当を以て寺務・雑事を執行せしむべし。」

との命令を伝えてきました。こうして、財政部門や寺務を完全に東寺から派遣される別当に掌握されたのです。これ以後、善通寺は東寺の末寺(荘園)として支配されることになります。善通寺の寺領からの収入が、京都の東寺に流れるようになります。

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次に別当による経営のための組織改編が行われます。
11世紀末以後の文書には「善通曼荼羅寺所司」とあるので、善通寺と曼荼羅寺が一つとして経営されていたことが分かります。所司の構成員は、天治元年(1214)の「善通曼荼羅寺所司等解」によると権別当二人、上座・寺主・都維那の「職名」が見えます。これらの権別当以下は善通寺、曼荼羅寺の僧が任命されていますが、この上に立つ本別当の地位には本寺である東寺の僧がすわり、両寺を支配したようです。

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11世紀末期のもう一つの大きな問題は、地方政治の変化です。
11世紀になると貴族、大寺社の所領である荘園の増加に対して、中央政府は国司に対して国衛領の減少をくい止め、国の財政を維持するように指示します。特に藤原氏を外戚としないで即位した後三条天皇は、記録所という役所を設けて積極的に荘園整理に着手し、国司の荘園圧迫が強化されるようになります。

 このような荘園圧迫策が善通寺の寺領にも、次のように具体的に及んでくるようになります。
①11世紀初、国司が国役公事と称して、雑役を善通寺の僧侶への課税追加
②11世紀後半、それまで無税であった荒廃した水田を畠地にした「春田」への課税追加
③12世紀初、在家役として、住家や屋敷地、畠地などを単位として、田畠以外の桑・苧麻・漆等の畠作物や手工業品、労役などを取り立て開始。
④曼荼羅寺の域内に住む百姓に対して牛皮・鹿皮・会料米などの雑役や春田分の労役負担。
両寺所司らは、このような国衛の課税増徴が続けば法華八講や彼岸会などの仏事ができなくなってしまうと訴えています。11世紀後半から12世紀にかけて善通寺は難しい状況に追い込まれ、苦難の梶取を迫られていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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