瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:東祖谷山村誌

    剣山円福寺
見ノ越の剣山円福寺(神仏分離前の鳥居が残る)

現在の四国剣山の登山基地は、登山リフトがある見ノ越で、多くのお土産店や食堂などが建ち並んでいます。この地を開いたのは、円福寺の修験者たちだったことを前回は見ました。円福寺は別当寺として、剣神社を管轄下においていました。円福寺と剣神社は、神仏混淆下では円福寺の社僧によって、管理されていました。そして、見ノ越には、剣山円福寺と剣神社しかありませんでした。そのため、見ノ越周辺に広大な寺社域を持っていました。

剣・丸笹・見ノ越
剣山と丸笹山の鞍部の見ノ(蓑)越(祖谷山絵巻)

 見ノ越にやってくる前の円福寺は、どこにあったのでしょうか?
今回は、剣山開山以前の円福寺を見ていくことにします。テキストは、「東祖谷山村誌601P 剣山円福寺」です。円福寺には寺伝はありませんが、その所伝によれば、次のように伝えられているようです。
①剣山円福寺は、菅生(すげおい)の円福寺の不動堂として出発し
②龍光寺の剣山開山と同じ時期に、菅生の円福寺も見ノ越に進出した
③東の木屋平の拠点が龍光寺、西の見ノ越の拠点が円福寺として、剣山信仰の根拠となった
④現在の本尊は安徳帝像を剣山大権現として祀り、その右脇に弘法大師像、左脇には倶利迦羅明王像を安置
円福寺 祖谷山菅生
菅生の円福寺本堂


この言い伝えを参考にしながら、円福寺の歴史を見ていくことにします。
 
 残された仏像などから創建はかなり早く、遅くとも鎌倉時代までさかのぼるものと研究者は考えています。この寺は南北朝時代に土豪菅生氏の氏寺として創建され、室町時代には「忌部十八坊」の一として活躍したとされます。寺名に福の字のつくのが十八坊の特徴と云われます。円福寺の現在の管理者は井川町地福寺(これも十八坊の一)となっていますが、その頃には、すでに関係があったようです。しかし、中世の歴史は資料に裏付けられたものではありません。
 「忌部十八坊」説は、高越山を中心とする忌部修験や十八坊の存在を前提とし、「当為的願望」による記述が重ねられてきました。しかし、それが根本史料によって確認されたものではないという批判が出されていることは以前にお話ししました。ここでは安易に「忌部十八坊」と結びつけることは避けておきます。

『阿波志』は、菅生・円福寺について「小剣祠(剣神社)を管す」と記します。
ここからは円福寺が剣神社を所管し、その社僧であったことが分かります。これは剣神社と同じ見ノ越にある剣山円福寺の所伝に「当寺は菅生の円福寺の不動堂として発足した」と一致します。
ここでは、菅生・円福寺がもともとは剣神社と剣山円福寺を管理する立場にあったことを押さえておきます。

 菅生の円福寺の仏像を「東祖谷山村誌620P」を、参考にしながら見ていくことにします。

弘法大師像 円福寺(祖谷菅生)
弘法大師座像(祖谷山菅生の円福寺)

本堂の須弥壇には、弘法大師坐像が安置されています。左手に珠数をとり、右手に五鈷を握る普通の姿で、像高41㎝。寄木造りではあるが内刳(うちくり)はなく彩色がほどこされています。八の字につりあげた眉、ひきしまった顔、両肩から胸にかけての肉どりに若々しい姿です。 一般に弘法大師像は、時代が下るにしたがって老僧風に造られるとされています。この像、は若々しい感じなので、室町時代にさかのぼると研究者は考えています。 なお、座裏面に次のように墨書銘があります。
享保四年八月吉日 京都仏師造之 千安政六年末吉良日彩色

ここからは、享保四(1719)年に、京都の仏師によって座が造られ、安政六年(1859)に彩色されたことが分かります。この弘法大師座像からは、室町時代には祖谷に弘法大師信仰が伝えられ、この像が信仰対象になっていたことが分かります。
次に阿弥陀堂本尊の阿弥陀如来立像です。この「阿波志」に出てくる像とされるものです。

祖谷山菅生 円福寺 阿弥陀如来
阿弥陀如来(菅生西福寺の阿弥陀堂)
像高79㎝、寄木造り、内刳、上眼で、漆箔は前半身と後半身とで様子が変っています。前半身は後補、両袖部には、エナメルのようなものが塗られていますが、これも近年のものと研究者は指摘します。全体を見ると飽満な体躯や繁雑な衣文等からみて室町時代の作、光背は舟形光背で114㎝高、台座47㎝高、ともに江戸時代の後補と研究者は考えています。
 以上からこの寺の中世に遡る弘法大師坐像や阿弥陀如来からは、「弘法大師信仰 + 浄土阿弥陀信仰」が祖谷山に拡がっていたことがうかがえます。そして、これらを伝えたのは、念仏聖達や廻国の修験者たちであったはずです。その教線の元には、井川町の地福寺があったのではないかと私は考えています。

 この像の左右に、脇侍として、不動、昆沙門の両像が置かれています。像高は不動像が27、5㎝と小さいのに対して毘沙門天は71㎝と左右の像のバランスがとれていません。ともに一木造り・彩色ですが、別人の作で、ありあわせのものを代用したものと研究者は推測します。
 なお阿弥陀堂には、賓頭盧(びんずる)像、像高71㎝、一木造り・内刳がなく彫眼、彩色のユーモラスな作品があるようです。

菅生の円福寺の今の本尊は、江戸時代の作品である不動明王像(剣山大権現)です。
しかし、これは当初からの本尊ではないようです。それは『阿波志』に、次のように記されているからです。

 円福寺 祖山菅生名に在り 元禄中繹元梁重造す 阿弥陀像を安ず

ここからは、菅生・円福寺は元禄年間には、菅生にあって阿弥陀如来像(室町時代)が本尊であったことが分かります。この阿弥陀如来像は、今は境内の阿弥陀堂に安置されている像のようです。

菅生円福寺2
菅生西福寺の阿弥陀堂
阿弥陀堂は、宝形造の堅牢な造りです。このお堂には阿弥陀像の外に、賓頭盧(びんずる)像もありますが、なぜか阿弥陀堂自体は部落の管理となっています。
 以上の経緯を推察すると次のようになります。
①中世のことはよく分からないが菅生円福寺は、元禄時代に再建された。
②その時の本尊は、念仏信仰に基づく阿弥陀如来であった。
③その後、修験者たちの活動が活発化し、祖谷山側からの剣山開山の前線基地となり、本尊も不動明王に替えられた。
④その間に地元信者との軋轢があり、以前の本尊は新たに建立された阿弥陀堂に移されることになった。
 
元禄年間(1688~1704)に、『阿波志』は、元梁という僧によって菅生・円福寺が再建されたとあることは、先ほど見たとおりです。しかし、再建者・元梁の墓は、この寺にはありません。
 宥尊上人以降の歴代住職の名は、次のように伝えられます。
「①宥尊上人―②澄性上人―③恵照上人―④宥照上人―⑤稟善上人―⑥井川泰明―⑦法龍上人―⑧宣寛上人」
しかし、江戸期のもので境内にあるのは、次の2基だけのようです。
「享和元年(1801)九月三日寂 阿閣梨宥尊上人
「安政四年(1857)巳九月十八日 阿閣梨法印宥照上人」
それも19世紀になってからの墓です。近世前半の墓はないのです。
これをどう考えればいいのでしょうか? 
  以上を整理して私なりに推察すると次のようになります。
①中世に、西福寺は菅生氏の氏寺として建立された。
②その後、念仏聖によって、阿弥陀信仰が流布され、阿弥陀如来が安置され、同時に弘法大師信仰も持ち込まれた。
③戦国期の動乱で、荒廃した伽藍を元禄時代に元梁が再建し、阿弥陀如来を本尊とした。
④その後、修験者たちの活動が活発化し、本尊が不道明王とされた。
⑤さらに修験者たちは木屋平の龍光寺の剣山開山の成功をみて、見ノ越に、新たな西福寺を建立し、剣参拝登山の拠点とした。

剣山円福寺は、幕末頃には本寺筋の菅生の円福寺よりも繁盛する寺となります。
 明治の神仏分離令によって、神仏混交を体現者する修験道は、厳しい状況に追い込まれました。しかし、剣山の円福寺と龍光寺は、それを逆手にとって、先達の任命権などを得て、時前の組織化に乗りだします。こうして生まれた新たな先達たちが新客を勧誘し、先達として信者達を連れてくるようになったのです。つまり組織拡大が実現したのです。剣山円福寺傘下の先達は一万人を越え、香川、愛媛、岡山の信者も含んでいます。
 ところが明治以後の円福寺の阿波の先達は、三好、美馬両郡に集中して、麻植郡以東の人が始どいません。これは、藤ノ池の龍光寺と参拝客を分けあう紳士協定を結んだからのようです。つまり
①円福寺 三好・美馬郡の先達
②龍光寺 麻植郡以東の先達
そして、①の先達達が讃岐・伊予・岡山への布教活動を展開し、信者を獲得していったようです。①の先達(修験者)の拠点が池田の箸蔵寺になります。箸蔵寺が、近代になって隆盛を誇るのも、円福寺の剣山信仰と結びついて、発展したことが考えられるようです。

 そして明治維新をむかえると、見ノ越を中心とする登山ルートの開発もあって、出先の剣山円福寺の方が主になり、本家の菅生・円福寺は荒廃するようになります。こうして、明治から昭和にかけては専住の住職のいない時期も続くようになります。その期間は、井川町地福寺が兼務しています。こうしてみると、円福寺は井川町の地福寺の末寺的な存在であったことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「東祖谷山村誌601P 剣山円福寺」

以前に、剣山開山について次のようにまとめました
①剣山は近世前半以前には信仰対象の山ではなかったこと
②近世後半になって剣山を開山したのは、木屋平側の龍光寺の修験者であったこと
③これに続いて見ノ越側の円福寺が開かれ、2つの山岳寺院が先達修験者を組織し、多くの信者達の参拝登山が行われるようになったこと
剣山円福寺 « 剣山円福寺|わお!ひろば|「わお!マップ」ワクワク、イキイキ、情報ガイド

これについては、龍光寺は史料的にも押さえましたが、円福寺の場合は、それが出来ていませんでした。今回は祖谷側からの剣山開山を進めたとされる円福寺を見ていくことにします。テキストは「東祖谷山村誌583P 山岳信仰」です。
東祖谷山村誌(東祖谷山村誌編集委員会 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
東祖谷山村誌

『阿波志』は、江戸時
代の剣山について次のように記します。(要約)  
「大剣山 四季の中、春はわずかで消え、夏は長くない。それ故、人は敢て登らない。西は美馬郡菅生名をへだたること四里、南は那賀郡岩倉を、へだたること六里ほど、東は麻植郡茗荷(みょうが)名をへだたること二里、この間人家もなく、登山するものは星をいただいて登り、星をいただいて帰ってくる。茗荷名からの道に渓があり、これを垢離取(こりとり)川と言う。登山者はここで必ず水浴し、下界のけがれをはらう。その上を不動坂という。不動石像が渓中にあって、時には水没してみえない。(中略)
 頂上近くの平坦な所を神将と言う。春には赤や自の草花が咲き乱れる。これを過ぎれば、頂上となり、石があって宝蔵という。西南に二石あり太郎笈、次郎笈と言う。三百歩行くと削って造ったと思われる石があり不動石という。その下に渓谷がある。これらの谷は大小の剣が交わっているかのようである。
この中には、コリトリや不動坂など熊野や大峯の山岳聖地を模した名前が出てきます。また、剣山のことを、別名小篠(こざさ)とよびましたが、これは修験の行場に由来する命名です。さらに、龍光寺の藤の池本坊の祭日は、熊野の那智神社と同じ、7月14・15日です。ここからは、剣山を開山したのが修験者たちで、彼らは熊野や吉野の修験修行場のコピー版を、この地に開こうとしていたことがうかがえます。また「登山するものは星をいただいて登り、星をいただいて帰ってくる。」とありますので、この時点では富士の池や見ノ越に登山宿泊施設は、まだなかったようです。

昇尾頭山からの剣山眺望
剣山と次郎笈 (祖谷山絵巻)

剣山に当時の人々は、どんな姿で登っていたのでしょうか?
文化、文政の頃の永井精古の『阿波国見聞記』には次のような律詩が載せられています。
法螺贅裏艦山人
白布杉清不帯塵
霊秀所鐘斉仰止
侍天雙剣五雲新
剣山 三嶺方向から
剣山と次郎笈(拡大) 祖谷山絵巻

ここからは法螺貝ををふき、白装束に身を包んだ一行が、剣山への山道を登る様が映写されています。これは、山伏を先達とする参拝登山で、『勧進帳』の源義経、弁慶一行の行脚姿に似ていたかもしれません。
異本阿波史には、次のように記されています。

  この山の御神体と崇む。別に社等なし。ここに古えより剣を納む。この巌に立あり。風雨これをおかせどもいささかも錆びず。誠に神宝の霊剣なり。六月七月諸人参詣多し。菅生名より五里、この間に人家なし。夜に出て夜に帰ると言う。その余、木屋平山より参詣の道あり。諸人多くはこれより登る。
 
意訳変換しておくと

  この山(剣山)自体を御神体として崇む。これといった社殿はなどはない。ここに昔、剣を納めたという。また、ここには剣のように立つの巌がある。風雨に侵されても、いささかも錆びない。誠に神宝の霊剣である。六月七月には、多くの人たちが参詣する。その際に、菅生名から五里の間に人家はないので、夜に出て、夜に帰る強行軍だと言う。その他には、木屋平山側から参詣の道があり、多くの人は、こちら側の道を利用する。

大剣石 祖谷山絵図
大剣岩と大剣神社 
P1250752
剣山の大剣岩
ここには、山頂の法蔵岩のことは何も触れられません。出てくるのは大剣岩で、これが御神体だとします、そして社殿はない。宿泊施設もないと記します。見ノ越の円福寺は出てきません。つまり、これが書かれたのは、見ノ越に宿泊施設も兼ねた(剣山)円福寺が出来る以前のことのようです。
夫婦池からの剣山
夫婦池越の剣山 (祖谷山絵巻)
円福寺の寺伝には、次のように記されています。
安徳帝の御遺勅に「朕が帯びていた剣は清浄の高山に納め守護すべし」と宣いになったので、御剣を当山(石立山)に納め、剣山大権現と勧請まします」とあります。ここには、近世になって語られるようになった平家伝説に附会したかたちで、安徳天皇の剣を埋めた霊山=剣山」として記されています。

大正十一年刊の『麻植郡誌』は「安徳天皇と剣山」の項に、次のような伝承を載せています。
平国盛は安徳帝を奉じて、屋島を逃れ阿波に入り、元暦2(1185)年の大晦日に祖谷に入って阿佐にお泊まりになった。ある時、剣山に登って武運長久を祈り、剣を祀らんとされたが、その時丁度岩が口を開く様に割れたので、そこに御剣を納めた。すると、岩は又口を閉した。この時までこの山を石立山と呼んでいたのであるが、それからは剣山と呼ぶことになった。剣を納めた岩を宝蔵石と呼んでいる。剣山の絶頂は平家の馬場という広い草原になっていて、鈴竹という竹が群生している。椛に竹の葉を横断して、点線状の穴のあいているものがある。これを里人は馬の歯形笹と呼んで、龍の駒が鳴んだものだと珍重するのである。又、 一説には安徳天皇の馬であるとも言う。(一部訂正)」

剣山頂上 祖谷山絵巻
剣山頂の法蔵岩(祖谷山絵巻)
これに続けて馬の歯形笹と呼ぶものは、笹の葉が開かぬ内に虫が食った痕だと云います。そして『異本阿波志』の次の記事を引用します。

「(頂)上は樹木なく一円小笹原なり、晴天には必ず龍馬出てここに遊ぶ、この笹を食うという。毛色赤くして二歳駒程なり、今これを見る人多し。(要約)」
 
晴天の時には、剣の山頂には「龍馬」が現れて、山頂に生えている笹を食む。その馬は二歳の若駒で、これを見た人は多いと云うのです。
 このように「龍竜伝説」に附会する形で、次の時代には「馬の歯形笹」が書かれます。こうして、平家伝説と剣山と山岳崇拝が、ひとつのストーリーとして伝承・伝説化されていきます。

P1250794
剣山頂の法蔵岩
これに対して、元木直洲の『燈下録』(文化9(1812)年)は、「剣山=平家伝説」説を否定して、次のような説を現します。(意訳・要約)
剣山に祀られた剣は、阿波の国霊、大宜都比売神を殺した素蓋鳴命のものだ。木屋平口から剣山に登る途中には、竜光寺の坊と思われる庵があって、そこに住む老人が、更に奥院に参詣することが許されるかどうかを神様に伺って参拝者に示すというのである。
ここには、剣山に埋められた剣は安徳天皇のものではなくて、素蓋鳴命のものだとされています。ここで注目しておきたいのが、前述の『阿波志』にも「敢てこの庵から婦人は更に奥に進まない」と記されていることです。人々の信仰の対象となる山は、日頃から人々の立ち入りを許さない山でもありました。だから、登山には神による許可が必要でした。その入山許可を与えたのが龍光寺だと記します。剣山が円福寺、竜光寺の指導の下に山伏(修験者)にって開かれたことがここからもうかがえます。
 剣山が、先達・山伏たちが信者を連れてくる「集団登山」として、龍光寺と円福寺やが剣山信仰の拠点として栄えてきたことを押さえておきます。
丸笹・見ノ越
夫婦池方面から丸笹・見ノ越方面(祖谷山絵巻)
明治維新の神仏分離で、霊山剣山の地位が動揺した時期がありました。
維新政府の神仏分離令発布と、山伏禁止令が出されたからです。これによって、熊野、那智、大峰などの修験者聖地の威令が衰え、聖護院や醍醐寺の統制力が弱まっていきます。これに対して、円福寺や龍光寺の山伏たちは、逆境を逆手にとっていきます。それまでは、中央の修験本山の許可によった山伏修験者の大先達、先達等の位階の任命権を、自分たちが握ろうとしたのです。そして、円福寺と龍光寺は中央から独立し、拠り所を失った山伏達を再組織して、剣山信仰へと導いたのです。
 円福寺に残る明治15年文書には、次のように記されています。
何某 何房
(赤地金襴紫何  級輪袈裟着用
許可能事
年号月日
真言宗剣山 円福寺主 権少講義何某
右者許容書
これは袈裟着用の許可文(認可状)の形式で、この形式に基づいて、袈裟を発行していたことが分かります。
別に、次のようなものがある。
許可次第
第一   明治十五年六月二百五十枚用意  先達免状渡
第二   同年初テ三十枚用意  近士戒
第三 同右同枚 法名院号許可
第四 同百枚用意 大先達許客証
第五 同二十枚用意 袈裟許可仕也
右五ヶ御許可仕事
別義
何組長或副長申付仕能事
御宝剣御巻物等ハ勤功
之次第二依而被渡仕也
明治十五午年定
ここからは明治15年に、円福寺が上記のような規定をつくり、免状・院号・先達書・袈裟許可書など作成し、先達や信者に与えたことが分かります。つまり、これらの証明書や許可状の発行権を持っていたのです。
剣山円福寺・徳島県三好市東祖谷菅生 | Bodhisvaha
剣山円福寺

円福寺の護摩祈祷や剣神社の祭りには、どんな行事が行われていたのでしょうか?
東祖谷山村誌には、剣神社の最高位の先達であった元老大顧間の森本長一氏の次のような話が載せられています。

円福寺の境内には、一坪ばかり石を築いた小高い所があり、この上を護摩の建火場として、僧侶がこれに向って経文を唱える。周囲には先達を始め、多数の参詣人が白装束で立っている。護摩の焚木には、その者の住所、名前、千支、性別が記されてあり、桧でできているが、それにシキミの葉を添えて、僧侶が住所、名前等を唱えながら火中へ投ずるのである。護摩を焚く間、先達の免状としてある木札すなわち絵符をその先につけた杖は、一まとめにして背後の小祠に祀ってある。絵符は杖につけやすいように下駄状の歯が着いており、歯には中央に穴があいているので、それに杖を差しこんで紐で結びつけるのである。

剣山円福寺の護摩
円福寺の護摩法要
 戦前は護摩焚きの灰をかためて、不動尊を造ったり、古い先達の像をつくって御守としたことがあったそうだ。現在でも御神石の下から湧く御神水を水筒などに入れてもちかえる人も多い。御神水は何年おいてもくさらない水で、これを飲むと無病息災、病気の人も不思議と回復するという。これを神棚に祀ったりもする。
円福寺の祭日は旧六月十四、五日だが、剣神社は七月一日に「お山開祭」、七月十七日に「剣山大祭」を行う。大祭には神輿が出る。円福寺の信者には香川・岡山など他県の人も多いそうだが、剣神社の信者もそうで、戦前には香川から獅子舞もやってきたそうだ。
剣山年間行事

 剣神社の先達組織は、お山先達・小先達・中先達・大先達・特選大範長・名誉大範長・元老大顧問の七階級からなっている。先達は約千人程で、岡山、香川、愛媛、高知、徳島などの各県に拡がっている。講中には例えば、森本長一氏の場合、森本会という組織をつくっておられる。先達が信者を募集してバスなどで剣神社に参詣するのである。森本会には二人の女性の先達がいるそうだが、神社全体では十人内外の女性先達がいる。行場で女性が修行することを許されたのは昭和七年からである。
要点を整理しておくと
①円福寺の境内で護摩祈祷が行われ、周囲に先達や多数の参詣人が白装束で参加した。
②護摩の焚木(檜)に、参加者の住所、名前、千支、性別が記して、僧侶が住所、名前等を唱えながら火中へ投ずる
③護摩を焚く間、先達免状の木札(絵符をその先につけた杖)は、一まとめにして背後の小祠に祀ってある。(先達の叙任式を兼ねていた)
④戦前は護摩焚きの灰をかためて、不動尊を造ったり、古い先達の像をつくって御守とした
⑤現在でも御神石の下から湧く御神水を水筒などに入れてもちかえる人も多い。
⑥円福寺の祭日は旧六月十四、五日だが、剣神社は七月一日に「お山開祭」、七月十七日に「剣山大祭」を行う。大祭には神輿が出る。
⑦円福寺の信者には香川・岡山など他県の人も多く、戦前には香川から獅子舞もやってきた。
⑧剣神社の先達組織は、お山先達・小先達・中先達・大先達・特選大範長・名誉大範長・元老大顧問の七階級からなっている。
⑨先達は約千人程で、岡山、香川、愛媛、高知、徳島などの各県に拡がっている。
⑩先達が信者を募集してバスなどで剣神社に参詣する。
⑪十人内外の女性先達がいるが、行場で女性が修行することを許されたのは昭和七年からである。

剣山の行場

最後に剣山の主な行場を、次のように挙げています。
鎖の行場
鉄の鎖が滝にそって降されており、それを握って滝を下る修行をする。
不動の岩屋                          
洞穴の中に不動尊を祀ってあるが、その不動尊に水が落ちている。夏でも一般の人なら十分間と中に入っておれない冷たさだという。
鶴の舞
鶴が翼を広げ、胸を張った姿の様に岩が張りだしており、そこを廻るのである。
千筋の手水鉢
水が流れて岩が縦に割れ、たくさんの筋状になっている。それを降りるのである。
引臼舞
引臼状をした岩を廻るのである。
蟻の塔渡り
足場の岩が刻みこんであり、そこに左右の足を突込んで廻る。もし左右の足の位置を間違えれば出発点にもどってやりなおすしかないという。
以上をまとめておきます。
①江戸時代後半になって、木屋平の龍光寺の修験者たちによって剣山は開山され、富士の池を通じて、多くの参拝登山者が先達たちに率いられてやって来るようになった。
②祖谷側では菅生の円福寺が見ノ越を拠点に大剣神社を神体とする石鎚信仰を広めた。
③龍光寺と円福寺は、信者テリトリーを分割して、共存共栄関係にあった。
④明治の神仏分離や山伏禁止令の中でも、両寺は教勢を失わずに信者達を集め続けた。
⑤こうして見ノ越の円福寺は、本家の菅生・円福寺を凌駕するに至った

こうして、見ノ越の円福寺は明治の神仏分離以後も剣山の見ノ越側の拠点として繁栄を続けることになります。ところで、江戸時代後半になって見ノ越に現れた円福寺は、もともとはどこにあったお寺なのでしょうか。それを次回は見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

            
「祖谷紀行」を読んでいると「祖谷八家」という用語が良く出てきます。「祖谷八家」の中には、平家の落人伝説の子孫で、平家屋敷と呼ばれる家もあります。中世の「山岳武士」の流れを汲む名主という意味で、誇りを持って使われていたようです。今回は「祖谷八家」が、中世から近世への時代の転換点の中で、どのようにして生き残ったのか。その戦略や処世術を見ていくことにします。テキストは「東祖谷山村誌219Pの 蜂須賀氏の阿波国支配」です。

祖谷山は中世に、以下のように東西三十六名の名主(土豪)達によって支配されていました。
祖谷山三十六名

東祖谷山分として、菅生名・久保名・西山名・落合名・奥井名・栗枝渡名・下瀬名・大枝名・阿佐名・釣井名。今井名・小祖谷名
以上の十二名。
西祖谷分として、閑定名・重末名・名地名・有瀬名・峯名・鍛冶屋名・西名・中屋名・平名・榎名・徳善名・西岡名・後山名・.尾井内名・戸谷名・一宇名・田野内名・田窪名・大窪名・地平名・片山名・久及名・中尾名・友行名・
以上の二十四名、東西合わせて三十六名になります。
 この時代は「兵農未分離」で、武力を持つ者が支配者になっていきます。各名主は、力を背景にエリア内では経済的に抜きん出た地位にありました。
曽我総雄氏は、慶長17年の「三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳」を分析して、次の表を作成しています。(『西祖谷山村史』(大正11年版)
「三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳」
三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳の土地所有関係
この表からは次のような事が分かります。
①50反(五町)以上の土地所有者が名主。
②吾橋西の名内全耕地面積は77、8反
③名主の所有は反数54反
④名全体のの耕地面積の約7割を、名主が所有
⑤全戸数12戸の内で8戸は、3反以下の貧農
ここからは、名主が名(みょう)内の経済を牛耳っていたことが分かります。貧農達は独立しては生活できません。何らかの形で名主に頼らざる得ません。これを隷属農民と研究者は呼びます。ここからは、中世から近世にかけての祖谷山の支配構造は、つぎの両極に分かれていたことが分かります。
①各名主階層に隷属する農民
②農民の夫役労働力に依存して農地経営をおこなう名主
ここでは名主は、各名単位に経済単位を形成し、名内に君臨していたことを押さえておきます。
蜂須賀家政(徳島県・戦国武将像まとめ) | 武将銅像天国
             蜂須賀家政
 阿波一国の主人としてやってきた蜂須賀家政は、近世大名として「領内一円知行」を進めます。
領内一円知行とは、領主が自分の権力で、領内を自己一人のものとして領有し経営することです。これは中世以来の阿波の土豪衆の存在を否定することから始まります。このために細川・三好・長宗我部の三代に渡って容認されていた土豪からの領地没収が当面の課題となります。
 まず蜂須賀家政は、検地に着手します。これによって①耕地面積の確認と②耕作者としての農民の確保、の実現を目指します。そのために「土地巡見使」を派遣します。この役割は、検地施行を前提とする土地の所有状況と実態掌握を行うものでした。これ対して、平野部での検地作業は順調にすすみますが、山間部の土豪達は、抵抗の狼煙をあげます。天正13年(1885)6月から8月にかけて、仁宇山・大粟山・祖谷山などの土豪たちが立ち上がります。これらは内部分裂もあって、短期間で軍事力によって押さえつけられます。
 仁宇谷・大粟山の抵抗を一か月余で鎮圧した蜂須賀家政は、祖谷山にその矛先を向けます。
 この当時の様子を伝えるものとして「祖谷山旧記」は、次のように記します。
蓬庵様(蜂須賀家政)御入国遊ばせられ候硼、数度御召遊ばせらるといえども、御国命に応じ奉らす、御追罫の御人数を御指向け遊ばせられ候ところ、悪党難所に方便を構え、追て御人数多く落命仕り候。此時に至り、私先祖北六郎二郎、同安左衛門、美馬郡一宇山に罷り在り、兼て祖谷山案内の儀に候えば、悪徒誅討を乞い請け奉り、方便を以、過半は降参仕り候由、降参人の者召し連れ罷出、名職を申し与え、相違なく下し置させられ候。相一坦わざる族は、或は斬拾、或は溺め捕え、罷り出候、

  意訳変換しておくと
蜂須賀小六が阿波に入国して、(祖谷の土豪達に)何度か徳島城に挨拶に来るように命じたが、その命に応じない。そこで、追討の兵を差し向けると、悪党(土豪)たちは難所に砦を構え抵抗し、追手側に多くの死者が出た。そのため私の先祖である北六郎二郎、安左衛門が、美馬郡一宇山にやってきて、祖谷の悪徒誅討を願い出た。方便(調略)で、土豪衆の半分を降参させ、その者達を召し連れて、名職を与え、蜂須賀家の下に置いた。ただ従わない一族は、斬首や溺め捕えた。その次第は以下の通りである

 蜂須賀家政は、祖谷の名主たちの抵抗に対して、武力鎮圧を避けようとします。そして、祖谷の名主のことをよく知っている人物に処理を任せます。それが北(喜田)氏でした。
北氏の出自については、よく分かりません。
 ただ、天正十年に長宗我部氏と争って敗れ、本貫地だった阿波郡朽田城から一宇山に退却していたようです。北氏と祖谷山勢とは、もともとは対抗関係にありました。北氏としては、この際に新勢力の蜂須賀氏につくことで、失地回復を計ろうとする目論見があったようです。そのため蜂須賀氏にいち早く帰順したのでしょう。そして、美馬郡岩倉山・曽江山勢の武力反抗の鎮圧に参加しています。その功としてし天正14年には、一宇山で知行高百石余を得ています。これはかつての朽田城城主の地位には及ばないにしても、経済的には祖谷山の名主に優るものでした。
こうして、蜂須賀藩から祖谷山勢の鎮圧を任されます。このあたりのことが次の表現なのでしょう。
兼て祖谷山案内の儀に候えば、悪徒誅討を乞い請け奉り、方便を以、過半は降参仕り候由、

ここからは、北氏は武力一辺倒でなく、北氏の才覚で「名職の安堵」を条件に、祖谷土豪達の懐柔分断策を展開したことが分かります。「名職の安堵」とは、中世以来の名主の地位の容認です。
 ちなみに『祖谷山旧記』は、北(喜多)家の軍功と由緒を記録した「自家褒賞」的なもので、史料としては問題があります。しかし、当時の様子を記したものが他にないので、取扱に注意しながら手がかりとする以外に方法がないと研究者は考えています。

『祖谷山旧記』に書かれた喜田(北)氏の「調略」方法をもう一度見ておきます。
いち早く降服した者は、
菅生名、名主・榊原 織部介
久保名、名主・阿佐 兵庫
西山名、名主・橘主 殿之助
阿佐名、名主・阿佐 紀伊守
徳善名、名主・国藤 兵部
有瀬名、名主・橘  右京進
大窪名、名主・青山 右京
小祖谷 名主・石川 備後
ついで降服した者は、
後山名、名主・国藤左兵衛
片山名、名主・片山 与市
地平名、名主・今井 藤太
閑定名、名主・阿佐 六郎
戸の谷名、名主・川村 源五
名地名、名主・青山 新平
西岡名、名主・堀川 内記
西  名、名主・播摩平太兵衛
中屋名、名主・下川与惣治
友行名、名主・佐伯 彦七
以上18名の名主は、北(喜田)氏の調略を受入て、「御目見仰せ付けさせられ、持ち懸りの名職、下し置させられ(藩主へのお目見えを許された名職」を与えられ、蜂須賀家政に下った者達です。

一方斬首された者は、
下瀬名、名主・大江 出雲
久及名、名主・香川 権大
釣井名、名主・播摩 左近
今窪名、名主・中山藤左衛門
榎  名、名主・三木 兵衛
一宇名、名主・田宮 新平
平  名、名主・八木 河内
この七名は、北六郎二郎・同安左衛門父子の手によって斬首されました。その理由は、「重々御国命に相背き、相随わず、あまつさえ土州方と取持、狼藉」を働いたとされます。また、次の十一名の名主は、前記七名の名主が斬首されたのと前後して、讃州の鵜足に逃げますが、北六郎二郎、同安右衛父子の手によって補えられます。
落合名、名主・橘  大膳
大枝名、名主・武集 平馬
尾井内名、名主・大野 王膳
今井名  名主・黒田 監物
田野窪名、名主・横田 内膳
田野内名、名主・坂井 大学
鍛冶屋名、名主・轟  与惣
峯  名、 名主・影山 将監
奥野井名、名主・松下 平太
栗伎渡名、名主・松家 隼人
重末名、 名主・本多 修理
これを一覧表にしたものが東祖谷山村誌223Pに、以下のように載せられています。
近世祖谷山三十六名の措置一覧
近世祖谷山三十六名の処置一覧表
この中で北氏が斬殺処分にした七名については、次のように記します。
「重々国命に叛いた上に、右七人の者共と徒党を組んで、土州と連絡しながら敵対を重ねた。そこで徒党のメンバー七人の首謀者六郎二郎・安左衛門を斬り亡ぼした。また逃亡した六郎二郎・安左衛門父子を追補し、讃州の鵜足郡にて11人を捕らえた。安左衛門については、ここからすぐに渭津へ囚人として引連れて、早速に成敗が仰せ付けられた。六郎二郎については、上記18人の親族のどのような企みをしていたのかが分からないので、捕縛地の鵜足から祖谷山へ連れて帰り、十八人の一族を総て召し捕えて渭津へ連行し、取り調べを行った上で、罪刑の軽重によって、重い者は成敗が仰せ付けられ、軽い者には、以後は国命に随うとの起請文を書かせて放免とした。

以上を整理して起きます
①蜂須賀家政は、北六郎二郎、安左衛門に、祖谷の土豪抵抗勢力の鎮圧をを命じた。
②北六郎二郎、安左衛門は、方便(調略)で土豪衆を分断懐柔し、半分を降参させた。
③早期に抵抗を止めて従った者達は、名主(後の庄屋・政所)として取り立てた。
④一方、最後まで抵抗を続けた土豪たち18名は厳罰に処した。
⑤こうして中世には36名いた名主は、18名に半減した。
⑥18名の名主の統括者として、喜田(北)氏が祖谷に住むことになった。

祖谷山の名主たちの武力抗争が鎮圧されたのが天正18年(1590)でした。それから20年近く経た元和3年(1617)に、刀狩りが祖谷山でも行われることになります。
祖谷山日記には、刀狩りについて次のように記されています。

「元和三年、蓬庵様の御意として、祖谷中の名主持伝えの刀脇指詮議を遂げ指上げ中すべき旨、仰せ付けられ、東西名々それぞれ詮議仕り、取り揃え指上げ申し候。」

意訳変換しておくと
「元和3年に、藩主の蜂須賀家政様の名で命で、刀狩りを行うことを、祖谷中の名主に伝え、刀脇などを差し出すように申しつけた。東西祖谷山村の名主達は、命に従い刀を取り揃えて提出した。

祖谷山に派遣された刀狩代官は、渋谷安太夫で、政所は喜田安右衛門でした。この二人によって徴発された刀剣は27本と記録されています。その際に、徴発した刀類については、代物、代銀が支払われることになっていたようです。ところ3年経った元和6年(1620)になっても、その約束が守られません。
これに対して、祖谷の名主が不満を表明したのが、刀狩りと強訴一件です。
この事情について「祖谷山旧記」は、次のように記します。
「代銀元和六年迄に御否、御座無く候に付、指上人の内、名主拾八人発頭仕り、百姓六百七拾人召し連れ、安太夫に訴状指上げ、蓬庵様御仏詣の節、途中において、御直訴仕り候」

意訳変換しておくと
「元和6年になっても刀剣の代金が支払われていないことに対して、名主18人が発議し、百姓670人余りを引き連れて、安太夫に訴状を指し上げ、藩主のお寺参りの途中で直訴した

この強訴に対しての、蜂須賀蓬庵(家政)の処置を一覧化したものが下の表です。
祖谷山刀狩りと強訴参加一覧

この表からは次のような事が読み取れます
①天正の一揆では、早期帰順者18名は処分されなかった(○△)
②残りの18名の名主は処分を受けたが、罪が軽いとされた名主は家の存続を許されていた。
③その中で18名の名主が刀狩り強訴に加わり、その中の多くの者がが「成敗・磔罪」に処せられた。
④一揆での早期帰順者は、刀狩りの際に刀剣を供出しているが、強訴には参加していない。
結局、「一揆・早期帰順者と強訴不参加者グループ」が阿波藩からの粛正を免れたことになります。そして彼らが「祖谷八家」のメンバーになっていくようです。

結果的には、この強訴事件を逆手にとって、蜂須賀藩は祖谷への支配強化を図ります。それはある意味では藩にとっては「織り込み済みのこと」だったのかもしれません。これについて東祖谷山村誌は、次のように記します。
藩権力としては、どうしても祖谷山名主層の武力解体は、藩経営のうえからいって、さけることのできないことであった。(中略)
このことは、藩権力のまさに、藩制確立のために、天正の武力抗争への持久力を秘めた処置の姿であり、名主層にしてみれば権力失墜への最後の抵抗も、力の優位の前に敗北という結果となっている。元和四年という年は、阿波藩にとっては重大な時期であり、祖谷山の強訴の落着によっていよいよ藩制の確立が目に見えて強まるのである。
 
  どちらにしても、阿波藩に抵抗せずに温和しくしたがった名主達が生きながらえて、「祖谷八家」と称するようになることを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「東祖谷山村誌219Pの 蜂須賀氏の阿波国支配」

木地師5
木地師(ろくろ師)
    木地師(きじし)のことが、東祖谷山村誌に載せられていました。これを今回は読書ノート代わりにアップします。まずは、木地師についてのアウトラインを「ウキ」で押さえておきます。
①木地師とは轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆等の木工品(挽物)を加工、製造する職人で、ろくろ師とも呼ばれた。
②伝説では近江国蛭谷(現:滋賀県東近江市)に隠遁した惟喬親王が、手遊びに綱引ろくろを考案し、周辺の杣人に木工技術を伝授し、日本各地に伝わったと言う。
③惟喬親王の家来、太政大臣小椋秀実の子孫を称する人たちは「朱雀天皇の綸旨」の写しを持って、全国の山々に入り込み、7合目より上の木材を自由に伐採できる権利を主張した。
④綸旨や由緒書の多くは、江戸時代の近江筒井神社の宮司・大岩助左衛門重綱の偽作であるが、木地師が各地に定住する場合に有利に働いた
⑤木地師は良質な材木を求めて20〜30年単位で、山中を転々と移動しながら木地挽きをし、里の人や漆掻き、塗師と交易をして生計を立てていた。
⑥中には移動生活をやめ集落を作り、焼畑耕作と木地挽きで生計を立てる人々もいた。そうした集落は移動する木地師達の拠点ともなった。
木地師と近江の筒井神社
筒井八幡(帰雲庵)(東近江市蛭谷町)と木地師
江戸時代に入ると木地師達は、次のどちらかの神社の氏子に登録されていきます
A 惟喬親王の霊社を祀った神祗官の白川家擁する君ガ畑村(東近江市君ヶ畑町)の大皇太神(鏡寺)
B 神祗官の吉田家擁する蛭谷村の筒井八幡(帰雲庵)(東近江市蛭谷町)
両社は、それぞれ自分たちを木地師の氏神と称し、競って自社の氏子に登録していくようになります。これを「氏子狩」と呼んだようです。こうして総代代理と称する勧進僧が近江からやってきて、寄進を募るようになります。これが「氏子駆」で、その寄進の「勧進帳」が両社には数多く残されています。これを見ると幕末には、木地師は東北から宮崎までの範囲に7000戸ほどいたことが分かります。

祖谷山に木地師がいたことをしめす一番古い史料を見ておきましょう。
 阿波国田井庄中西郷之内轆轤師得銭、取前御方参上、者当知行不可有相違候状如件
康暦二(1343)年十二月十五日
阿波守 花押
国藤治部亮殿
意訳変換しておくと
阿波国田井庄中西郷の内の轆轤(ろくろ)師得銭(徳善)を、御方に与える。よって当知行について相違なきことを記す。如件
①康暦二(1343)年十二月十五日
②阿波守(細川頼之)花押
③国藤治部亮殿

①年号は康暦(こうりゃく)2年で、1380年にあたります。南北朝時代の末期です。
②花押の上には阿波守とあります。当時の阿波守は細川頼之になります。
③宛先の国藤治部亮は、徳善治部の子になるようです。

③の国藤治部亮の父・得善治部は、河内国出身で楠木正成の臣下と称します。南朝のため軍勢を募る目的で阿波にやってきて、西祖谷山に定住し、その開墾地を得銭と名付けます。のちに徳善と改め、徳善氏を名のります。吉野南朝方として活動しますが、康暦二年(1380)に細川頼之の阿波制圧に対して降伏して、安堵状を得たようです。この時に安堵された領地が「阿波国田井庄中西郷内の轆轤(ろくろ)師得銭(徳善)」ということになります。ここからは、南北朝時代に木地師達が祖谷山の徳善に定住していたことがうかがえます。これが最も古い木地屋に関する記録になるようです。ちなみに、この前年は「康暦の政変」で、室町幕府管領の細川頼之が失脚し、讃岐の宇多津に「帰国」した年になります。細川頼之は帰国後に、阿波への南朝残党軍の攻略を進めたとしておきます。
 東祖谷山村誌は、さらに次のような推測をします。
  徳善氏が南朝動乱期において、木地師たちを保護したのではないか。それは、木地師たちの持つ「職業的機動性」と「全国的なネットワーク」を活用し、熊野行者と同じように、南朝の機動部隊として飛耳張目して諜報伝令の役にあたったと研究者は推測します。木地師達は徳善氏の保護を受けて、周辺へと入植していきます。ここでは南北朝時代に、現在の徳善に「ろくろ師」の集落があったことを押さえておきます。
徳善を起点に木地師は、次のように活動エリアを拡げていきます。

祖谷村徳善
木地師の最初の入植地? 大歩危駅周辺の徳善・榎・西岡
①榎を中心として、吉野川対岸の山城町の六呂木・下名
②榎から北東の吾橋・徳善・西岡と分裂・発展しながら、東北に移動
西岡から東に伸びる尾根づたいに祖谷川に出て、今久保・中尾・閑定の山地に小屋を構え、さらに上流へと移動していきます。彼らの活動が、記録で確認できるのは18世紀になってからです。
木を求めて移動する木地師
木地師の転居
近江筒井八幡宮の「氏子駈帳原簿第十一号」には、氏子駈巡国人が、阿波の「いや谷・一宇山・みふち(深渕)」に、享保二十(1735)年9月に入山したことが記されています。これが「氏子駈」としては、一番古い史料になるようです。そこに記されている「氏子寄進リスト」を見ておきましょう。

元文2(1737年)の寄進リスト
美馬郡一宇山と三好郡祖谷谷の木地師の寄進リスト

元文2(1737年)の深淵山中木屋で、「氏子駈」に対しての寄進リスト
中木屋と木屋平のリスト
   ここからは、深淵・木屋平・美馬郡一宇山・三好郡祖谷山に、これだけの木地師達がいたことが分かります。
ひとりの木地師は「初尾+氏子+きしん(寄進)」の3点セットとなっています。「初尾」は、 神仏に供える金銭や米です。平安時代中期ごろから「初穂」を「はつを」と発音するようになり、中世以降は「初尾」と書くようになります。氏子は「氏子料」・きしんは「寄進料」・えぼしは「烏帽子料」でしょう。
 ここからは、18世紀前半になると伊勢講の御師のように、 近江筒井八幡宮の氏子駈巡国人が祖谷山周辺にもやってきて、木地屋たちから「氏子料集金」を行ったことが分かります。それから百年後の天保3年にも、氏子駈巡国人はやってきて次のような寄進リストを残しています。一番右に「同国美馬郡葛生(葛尾?)山木地師」と見えます。
天保3年9月(1832)筒井公文所氏子駈帳22号簿冊所収3(名頃)
1832年 名頃の木地師の寄進リスト
  
 祖谷山の木地師たちは、どんな生活を送っていたのでしょうか

木地屋の家 歴第60図 祖谷山絵巻
                        木地屋の家  祖谷山絵巻
画題 祖谷山当丸絶頂望菅生名諸山年表秘録に曰く、文政11年9月卯上刻公(蜂須賀斉昌)祖谷山御見分御出。同27日未中刻御帰城。
 |
19世紀前半に、藩主の祖谷山巡回に従った絵師の渡辺広輝(ひろてる)が残した「祖谷山絵巻(17面)」の中には、木地師の家と題された一枚があります。題目は「木地挽小屋全図」で、遠景の註に「土佐境」とあります。この絵図からは次のようなことが読み取れます。

A ①土佐境の祖谷山山中に3軒の木地師の小屋が並んで建っている。
B ②一番右の小屋からは煙が上がり、その前に②干し物が干されている。また周りにはろくろで削った④木屑が盛り上げられている。
C 小屋の周辺には、③のような切株が数多く見えて、材料のために周辺の森が切り倒されている。
D 右から二番目の小屋には、面に⑤木材が数多く立て掛けられていている。乾燥して材料とする木材だろうか?
E 水桶と樋が見えるので、⑥水場が確保できていることが分かる

木地師の家 祖谷山絵巻(拡大)
祖谷山の木地師の家(拡大)
水場などが確保できて、居住環境が良ければ、木々が倒された森は、焼き畑として利用されて、定住していく木地師たちもいたようです。
  この絵に描かれた木地師の家も、主屋・作業小屋・乾燥小屋など、作業用途に応じて建てられていた気配がします。そうだとすると、ここにいるのは一家族だけになります。

御出仏山・明谷山・中野山
御出仏山・明神山方面(祖谷山絵巻)
弘化四年(1847)2月、医師陳々斉の随筆・診療日録『俗話集』には、当時の木地小屋のことが次のように記します。
「はるかの谷間より同じくヲヲイと答えるにぞ嬉しくも、さては是なん木地屋の家居より答えるならんと思ひつつ、行けども行けども時ならぬ霧がくれにして、行先き一向さだかならねども折々人の声も聞へける程に、間ものふ心ざす方へ無恙(つつがなく)当(到か)着して、うろ/ヽ見廻し
見れば、二間半四方程の小屋二軒あり、いづれも桜や槙などの皮にて屋根を葺き、ぐるりの囲いも同じく、殊に滝の端に細長き木にて椰をあみたるうへゝ、彼木の皮をしき、其上へむしろ様の物を並べてある也。さて西方が亀吉とかいふ木地師也。東方は鶴太といふて、則ち此も疱瘡を病居るな
り。いかさま八畳敷程もあるらん、坐の真中に大なるいろりをあけてあり。すさましき措木をくべて、中々暖かなる事なり。肝心の二便場(便所)をととへば、此所は一向、作付植物などいたさぬゅへ、不浄は無用の事故、彼(かの)小屋外の棚端より居捨て給へときけば、おかしくも又恐ろしく、
いかさまと、こはごわ覗けば、誠に波風荒き海原に小船をつけし心地して、几そ二十四五間もあるべき滝下を望めば、中々、二便の気もなくならん」
意訳変換しておくと
「はるかの谷間からヲヲイと答えてくれることが嬉しく、これが木地屋の家からの返答だろうと思いつつ足を運ぶ。しかし。行けども行けども、霧が深く、行先は一向に見えてこない。折々、人の声が聞へてくるので、その声を頼りに、こちらだと思う方へ向かっていくと、なんとか到着した。うろうろと見廻して見れば、二間半四方程の小屋が二軒ある。どちらも桜や槙などの樹皮で屋根を葺いている。周りの囲いは、滝の端に細長き木で棚を編んで、木の皮をしき、その上へむしろのような物を並べてある。二軒の内の西方が亀吉という木地師で、東方は鶴太といい、疱瘡を患っている。中に入ると、八畳敷ほどの広さの坐の真中に、大きな囲炉裏が開けてあります。そこに多くのほだ木がくべられていて、暖かい。
 便場(便所)はどこかと問うと、ここでは一切、作物を作らないので、不浄は無用のことで、この小屋外の棚端からしたらよかろうとのこと。おかしくも恐ろしく、家のそばの滝をこわごわと覗き込んでみると、波風の荒い海原に小船を着けるような心地して、およそ25間も下の滝壺が見えてくる。これを見て、便気もなくなってしまった。」
木地師小屋6

ここからは次のようなことが分かります。
二間半四方の小屋が二軒あって、木地師と疱瘡患者が生活していた
②小屋は樹皮の皮で屋根が葺かれている。
③大きな囲炉裏があって、ほだ木が大量にくべられてる。
④家は滝のすぐ近くに建っていたこと。

モシホ坂・菅生・塔の丸から 
小島峠から菅生・久保方面(祖谷山絵巻)
大正11年(1922)折口信夫は木地屋のたたずまいを、次のように詠んでいます。(『折口信夫全集』第廿六巻 中公文庫版)
   高く来て、音なき霧のうごき見つ
木むらにひびく、われのしはぶき
篇深き山澤遠き見おろしに
頼静音して、家ちひさくあり
澤なかの木地屋の家にゆくわれの
ひそけき歩みは 誰知らめやも
有瀬 宵の岳 祖谷山絵巻
有瀬(祖谷山絵巻)

近世阿波の漆器工業は、美馬郡半田村の敷地屋を中心に展開していきます。
宮本常一編の作品一覧・新刊・発売日順 - 読書メーター

竹内久雄が史料提供し、また自らも執筆した『うるし風土記 阿波半田』を見ておきましょう。享保二十年(1725)11月、土佐韮生(香美郡物部村)久保山に、筒井八幡宮の巡国人が到着し、周辺の木地屋から上納金を集金します。その中に、次のような記録があります。

一、三分  初尾  半田村二而ぬし屋(塗物師) 善六」
『享保二十乙卯九月吉祥日 宇志こか里帳』(筒井八幡宮原簿十一号)

ここからは、善六がもともとは物部の木地師であったのが、半田に移って、「ぬし屋 (塗物師)」となっていたことが分かります。同時に享保の終り(1725年)には、半田地方に各地の木地師から白木地が送り込まれ、塗りにかけていたと研究者は考えています。
 それから約20年後の宝暦八年(1758)に、半田漆器業の開祖といわれる敷地屋利兵衛が、31歳で半田村油免に漆器の店を開きます。その後、七人の兄弟と力を合わせて、家業は軌道に乗せます。そのころには三好・美馬両郡には、25世帯の木地師が住んでいたと云います。それが開業から42年後には、家族を含め304人に増えています。急速な発展ぶりがうかがえます。初代利兵衛は、天明元年に54歳で亡くなると、その子の亀五郎が15歳で稼業を継ぎます。敷地屋の略系を示すと、次頁のようになる。 
敷地屋の略系
  半田の敷地屋略系
    祖谷の木地師たちは、各峠を越えて半田の敷地屋に白木地を納入するようになります。敷地屋による白木地の独占体制ができあがっていきます。半田の漆器工業は、藩の財源増収策の一環として保護され、販路を拡げていきます。2代目亀五郎が41歳の時には、苗字帯刀、大久保姓を許されます。文化8年(1811)には、塗物裁判所を開設し、翌年には亀五郎の長男善右衛門が、漆樹植付裁判役に就いています。
 嘉永3年(1850)、4四代熊太は、江戸への市場拡大を計ります。藍商の志摩利右衛門の力を借りて、藩の御用船による製品の輸送を始め、江戸の霊岸島に支店を置いて、藩の倉庫を使用して営業を行うようになります。
半田敷地屋の漆器全国販路
半田の敷地屋の全国販路(1851年)

こうして4代目の時代には、全国40ヶ所にまで販売網を拡げます。
これは急速な白木地の需要増大を招きます。祖谷山周辺の木地師に大量の注文が舞い込むようになります。半田漆器や木地師の繁栄のピークは、この時期だったようです。

半田 敷地屋

 半田漆器は幕末に一時衰退しますが、明治半ばになって敷地屋の努力で復活します。明治20年の仕入れ帳には、木地挽150戸・塗師40戸・磨師100戸・蒔絵師30戸・指物大工60戸を参加に従え、年間販売高13,8万円とあります。

半田敷地屋2

半田町史には、次のように記されています。

「木地を一字から木地屋の人々が持ってきて、半田の逢坂の一部落は、その塗師の集落であった。それらは、木地と塗料を敷地屋から受取り、家族が仕上加工した。塗るだけではなし、全部半田でするようになった。白木地で庸や箱を作る一種の家具大工と、塗るだけのものが分業し、あるいは両者を兼ねるものに分れ、三者合せて、大正十四年四月の調べでは、専業百戸、副業二〇戸位い」

東祖谷山村落合の木地屋、小椋竹松(1882~1965年)は、1950年4月(69歳)の時に、次のように語っています。

「私の一日の生産 
「からすばち」のときは三〇個、「菓子ぼん」は、二〇〇個、吸物搬で静付で一五〇個ぐらい。背負うときは、小さい「菓子ぼん」なら四〇〇個、もみすくいなら五〇個を背中に負い、落合峠を越え、加茂山峠を経て、半田町の木内に達し、問屋の大久保へ製品を差出した」
「これらの加工品は、すべて米麦と代えていたが、日露戦争の直後、菓子ぼん五寸三分のもので、間屋渡しが一枚五厘であった」

以前に、落合峠は「塩の道」で祖谷村消費する讃岐の塩が運ばれたことをお話しました。しかし、木地師から見ると、名頃や落合の木地師達が作った白木地が半田に向けて運ばれた道でもあったようです。「木地師の道」とも呼べそうです。

敷地屋五代の弁太郎と長男の利美は、相次いで亡くなります。
そこで分家の亀吉の子甚吉が、本家の後継となりますが、漆器工業の前途を見限って、大正15年に廃業します。こうして職人は四散し、半田漆器は衰退します。ここでは半田の漆器工業は、享保から大正末まで、祖谷の木地屋たちから、二百余年にわたって、白木地の提供を受けていたことを押さえておきます。

漆・柿渋と木工 宮本常一とあるいた昭和の日本23』田村善次郎監修他 - 田舎の本屋さん

半田漆器を、姫田道子氏がレポートしたものが「宮本常一と歩いた昭和の日本23」に載せられています。それを最後に紹介しておきます。
 ところが竹内さんの仕事場には、膳などはあっても椀は見ることができません。私はそれが気になりました。どうしてお椀がないのかしら。竹内さんのお話では、椀をつくっていたのは、専ら敷地屋という半田では唯一の漆器問屋だったらしい。そして半田周辺の山や、半田の町なかに住んでいた木地師たちがつくった椀木地は、すべてその敷地屋に納められていたといいます。独占でした。
 また明治20年代の記録では、逢坂には40軒の塗師屋がありましたが、そのうちのほとんどが、敷地屋の賃仕事をしていたといいます。たぶん半田のお椀の大多数は、そういう家々によってつくられたのでしょう。
東祖谷山地図2
    東祖谷山の落合峠と小島峠(東祖谷山村誌)

<木地の道>
 車で降り立ったところは、中屋といわれる山の中腹で陽が当たり、上を見上げると更に高い尾根がとりまいています。
 「あそこは蔭の名(みょう)、おそくまで雪が残るところ、馬越から蔭の嶺へと尾根伝いに東祖谷山の道に通じています。昔、木地師と問屋を往復する中持人が、この下のあの道を登り、そして尾根へと歩いてゆく」
 と竹内さんは説明して下さると、折りしも指をさした下の道を、長い杖を持って郵便配達人が、段々畑の柔らかな畦道を確実な足どりで登って来ました。平坦地から海抜700mの高さまで点在する半田町の農家をつなぐ道は、郵便配達人が通る道であり、かつては木地師の作る椀の荒挽を運ぶ人達の生活の道でもあったのです。
半田敷地屋の生産関係

半田敷地屋の生産関係図(東祖谷村誌)

 東祖谷山村の落合までは直線距離で25キロ、尾根道を登り降りすると40キロ。陽の高い春から秋にかけては、泊まらずに往復してしまう中持人もいたとか。さすがプロです。しかも肩に担う天秤棒にふり分け荷物で13貫(約50㎏)という重量があり、いくつも難所があったのに町から塩、米、麦、味噌、醤油、衣料、菓子類までも持ってゆき、そして半田の里にむけての帰り道は木地師が作った木地類を持ち帰ります。運賃の駄賃をもらう専門職でした。

 半田から南東の剣山の麓近くの村、一宇村葛籠までは、峠を越え尾根道をゆき渓谷ぞいの道を歩いて25キロ。
竹内さんはここで昔、木地師をしていた小椋忠左ヱ門さん夫妻をさがし当てました。51年の1月と51年の秋に二度訪れております。おそらく阿波の山でこの方ひとりが半田漆器と敷地屋とに、かかわりを持った最後の木地師ではないかと思われます。
東祖谷村の小倉姓一覧
東祖谷村の小椋姓一覧(木地師は小椋を名告った)

木地師の山
木地師の山(岳人)
以上をまとめておきます
①祖谷山の木地師は、吉野川沿いの徳善や榎・西岡に入植した
②南北朝末期の徳善氏の記録に「轆轤師得徳」と地名が出てくることが、それを裏づける。
③以後、切り尽くせば、さらに奥地に良質な木を求めて、祖谷側上流へと移動していく。
④実際の、木地師としての活動がうかがえる史料は「氏子駈帳」で、18世紀の前半に祖谷山村周辺での活動が見えてくる。
⑤19世紀には藩主お抱え絵師が残した「祖谷山絵巻」に、土佐国境附近での木地師小屋が描かれていて、活動の一端がうかがえる。
⑥祖谷山周辺の木地師は、半田の敷地屋に材料を下ろすようになり、安定的な生産活動が始まる。
⑦しかし、近代化の中で漆器の先行きに不安を感じた敷地屋は、今から約百年前の1926年に稼業を畳んだ。こうして、祖谷山村周辺の木地師たちも製品の卸先を失い、衰退していくことになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
東祖谷山村誌258P 祖谷における「ろくろ師」の発生
竹内久雄編集 『うるし風土記 阿波半田』
姫田道子 半田漆器レポート? 宮本常一と歩いた昭和の日本23

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