瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:松原秀明

金毘羅庶民信仰資料集 全3巻+年表 全4冊揃(日本観光文化研究所 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

1979(昭和54)年に、金毘羅さんに伝わる民間信仰史料が「重要有形民俗文化財」に指定されました。指定を記念して金刀比羅宮から調査報告書三巻と「年表編」が刊行されました。この年表を手にしたときに驚いたのは、近世以前の項目がないのです。何かのミスかと思いましたが「後記」を見て納得しました。
  この年表を作成した金刀比羅宮の松原秀明学芸員は、後記に次のように記します。

 金毘羅の資料では,天正以前のものは見当らなかった。筆者が,この仕事に当っていた間に香川県史編さん室でも,広く県内外の資料を調査されたが,やはり中世に遡る金毘羅の資料は見付からなかった様子である。ここでも記述を,確実な資料が見られる近世から始めることとした。

「金毘羅庶民信仰資料集」の「年表篇」を作るように言われてお引受けしたのは「第一巻」が出版された昭和57頃であった。それ以後,暇ごとに手近な資料から「年表」の材料になると思われる事柄をカードに書取って,それがかなりの分量になり,時間的にもこれ以上遅らせなくなったところで,年月順に並べて書き写したのがこの年表である。 
それでは松原秀明氏による年表の18世紀半ばまでの部分をアップしておきます。

1581 天正9 10.土佐国住人某(長曽我部元親か)、矢一手を額仕立として奉納。
1583 天正11 三十番神社葺替。
1584 天正12 10.9長曽我部元親、松尾寺(のちの金毘羅)仁王堂を建立。
1585 天正13 8.10仙石秀久、松尾寺に制札を下す。
10.19仙石秀久、金毘羅へ当物成十石を寄進。仙石秀久、源信国作太刀一振を献納。
1586 天正14 2.13仙石秀久、金毘羅へ三十石寄進。
8.24仙石秀久、榎井村六条の内を以て、三十石寄進。
1587 天正15 1.24生駒親正、松尾村にて高二十石を献ず。
1588 天正16 7.18生駒一正、榎井村にて二十五石寄進。
1589 天正17 2.21生駒一正、小松村にて五石寄進。
1594 文禄3   8.10宥盛、松尾寺再興のため勧進帖を撰す。
1596 慶長1   3.5別当大僧都宥厳、観音堂に鰐口奉納。 7.上旬宥盛「破禅抄」書写。         
1597 慶長2   4.14宥盛「色葉経」書写。 5.下旬宥盛「南台門僧正空海記」書写。
1598 慶長3   8.1榎井村久右ヱ門より田地寄進。 
9.8大井八幡宮遷宮、導師善通寺誕生院尊翁、金光院宥厳・宥盛奉仕。
1600 慶長5   12.13生駒一正、院内にて三十一石寄進。
下川家初代帥坊、紀州下川村より移る。宥厳没、宥盛入院。
1601 慶長6   3.5生駒一正、諸国より金毘羅へ移住する者の税をゆるめる。
28生駒一正、金毘羅へ四十二石五斗寄進。
4.11生駒一正、三十番神社を改築。摩利支天堂・毘沙門天堂創祀。
1603 慶長8   「金毘羅山神事頭人名簿」書き始められる。
1604 慶長9   1.宥盛、禁戒文を撰す。護摩堂創祀、本尊不動明王造像(雪津入道作)。
1605 慶長10 1.土佐出身の片岡民部、宥盛の弟子となり、多聞天の像をもらって多聞院を名乗る。
宥盛、先師宥厳菩提のため、自ら如意輪観音を彫む。
1606 慶長11   3.宥盛高野山浄菩提院を兼任。 
  10.宥盛、自らの木像を彫み台座に「入天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛」と彫込む。
1607 慶長12   4.2生駒一正、生駒将監名にて、那珂郡高篠村にて三十石寄進。
生駒一正、浅井周防名にて、七ヶ村真野にて十石寄進。 
5.先の松尾寺住職宥雅、宥盛を生駒家へ訴える
6.宥盛、宥雅の訴えに答えて目安を撰す。 
9.6生駒一正、寺高諸役免許のことなど安堵する。 
9.21生駒一正、浅井喜八郎名にて、買田村にて十石寄進。
10.20生駒一正、浅井周防名にて、七ヶ村真野にて五石寄進。
1609 慶長14   9.6生駒一正、先規により、城山称名寺山を献じ、寺領諸役免除を安堵。
1610 慶長15   8.7生駒一正、浅井右京名にて、金毘羅へ出入する米の道切手を遣わす。
1611 慶長16   薩摩国島津義弘より紺紙金泥金剛不空三摩耶経二軸を献納。
1613 慶長18   1.6宥盛没。宥睨入院、実家山下家が、この頃豊田郡河内村から金毘羅へ移住。
14生駒正俊、城山称名寺山を従来の如く献じ、寺領諸役を免除する。
16生駒家より作事用木を寄進する。また寺領並びに称名寺分高八十石の諸役を免除
1614 慶長19   8.生駒家家老香川与三兵ヱより五条村にて初穂米寄進。
多聞院宥哩、土佐へ退去。金剛坊創祀。
   ※慶長年間 観音堂改築。
1615 元和1   長修理頭、金光明最勝王経十巻を献ず。
1616 元和2  木村家、寒川郡鶴羽村から移住。荒川家、鵜足郡栗熊村から移住。
1617 元和3   2.21生駒正俊寄付の鐘できる。
1618 元和4   3.10生駒正俊、先規により院内廻り七十三石五斗、苗田村五十石、木徳村二十三石五斗ばかりにて、百四十七石寄進。
閏3.10生駒正俊、金地着色三十六歌仙扁額三十六面寄進。
1620 元和6   9.生駒正俊、鐘楼堂建立寄進。
10.6生駒正俊、会式につき、八日より十一日まで米出入の儀に異議なき旨を申達す。
1621 元和7  5.18宥睨、法印となる。
11.28生駒高俊、五条村にて百石寄進。都合神領二百四十七石となる。
また、寺高諸役免除のことなど保証する。
1622 元和8   8.15生駒家よりの寄進、三百三十石となる。
1623 元和9   金毘羅本社でき、古堂は行者堂に引直す。
東元和年間、宥盛の弟子寛快、普門院を再興。
1624 寛永1   観音堂改築、宥睨、装飾のため擬宝珠を作らせる。
金倉川に鞘橋が架かる(元和七年とも)。
1626 寛永3   宥睨、多聞院宥哩に帰山の書状を遣わす。
1627 寛永4   9.10生駒円智院より頭屋米十石寄進。
1628 寛永5   菅納家、備前金川村より移住。竹川家、三野郡財田中ノ村より移住。
1629 寛永6   6.宥睨の付弟宥儀、高野山にて「金剛界念誦次第」(遍智院本)書写。
1631 寛永8   多聞院片岡家、土佐国より再度移住。A宥睨の付弟宥儀没。
1633 寛永10   12.荒川家より一ノ鳥居建立寄進。
小国小兵ヱ移住。付添って、備前岡山生れの塩屋惣四郎も移住。
1634 寛永11   1.岩手宗也、独吟和漢連句を奉納。
1635 寛永12   6.宥典、高野山にて「智袋」を求む。
1637 寛永14   11.2宥睨、京都嵯峨大覚寺宮御令旨により上人位となる。
1638 寛永15   11.里村玄陳、自筆「詠歌体」一冊奉納。A大覚寺宮尊性法親王参詣。
1639 寛永16   生駒高俊、頭屋米四十石寄進。
1640 寛永17   生駒高俊、讃岐国大絵図一舗を奉納。生駒家改易。
受城使として尼崎城主青山大蔵小輔参詣。
1642 寛永19   1.10別当宥睨、里村玄陳等を招き連歌を興行。
5.松平頼重、高松に入城 天領池領(五条村・榎井村・苗田村)設置。
1643 寛永20   丸井小助(虎屋惣右ヱ門:虎丸旅館)、豊田郡丸井村より移る。
   高松藩船奉行渡辺大和、玄海灘にて霊験を蒙る。
   ※寛永年中、荒川九郎兵ヱ、初めて町年寄役申付けらる。中村家、京都より移住。
1644 正保1   大井八幡宮改築。                                  
1645 正保2   1.6宥睨参府、将軍家光に御目見。
5.幕府寺社奉行宛、社領三百三十石に御朱印頂きたき旨願い出る。 
11.3宥睨没、五十一歳。 12.宥典入院。
] 寺中役人等より先代同様疎意なき旨の連判状をとる。
高松城主松平頼重、三十番神社を改築。大行司堂改築。
1646 正保3   1.21宥典、大覚寺宮御令旨により上人位となる。 2.宥典、将軍に謁す。 
11.25普門院・菅孫左ヱ門・木村猪右ヱ門等、三十番神社社人松太夫・権太夫の儀につき神文を差出す。
12.伊福院追放。宥典、再度参府。
1647 正保4 10.松平頼重より、寺社奉行安藤右京進・松平出雲守に金毘羅へ朱印状下されたき旨願出
 ※正保年間 尾崎家初代八兵ヱ召出される。
1648 慶安1   1.6宥典、将軍家光に謁す。 
2.24将軍家光、金毘羅権現社領、那珂郡五条村内百三十四石八斗余、榎井村内四十八石一斗余、苗田村内五十石、本徳村内二十三石五斗、社中七十三石五斗、都合三百三十石を先規に任せ寄付し、山林竹木諸役等免除の旨の朱印状を授く。
3.17初めて朱印状を頂戴す。 8.26松平頼重、参詣一宿。
松平頼重、三十六歌仙扁額奉納。従来の参詣道を変更して大略今日の如く改める。
1648 慶安2   1.松平頼重から用材の寄進を得て大門上棟。 
6.21三十番神社社人松太夫・権太夫のことで出入あり、この日、山下・菅納・木村などの諸家の取扱にて落着。
1650 慶安3  12.松平頼重、登山参龍して和歌を詠ず。
松平頼重、阿弥陀仏千体を寄進、これを阿弥陀堂に合祀し、以後この堂を千体仏堂という。
松平頼重神馬並びに飼葉料として毎年米三十石寄進。
1651 慶安4   8.松平頼重寄進の木馬舎上棟。仁王門を廃して中門とする。大門改築竣工。
新たに仁王像を作り、これを大門に安置。のち大門を仁王門と呼ぶ。
松平頼重、神馬舎に木馬を寄進、飼葉料は従来のままとする。
  ※慶安年間 京都仏師田中家二十五代弘教宗範、御内陣の獅子高麗彫刻。
1653 承応2   10.12京都智積院の学僧澄禅、四国順拝の途次参詣し、真光院に宿る。
12.17社領に宿かしのこと、博突停止のことなど触達す。
1654 承応3   10.里村玄陳等、石燈箭一対奉納、榎井長兵ヱ長好取持。
松平頼重より、二品良尚法親王筆「象頭山」「松尾寺」の額奉納、「象頭山」を仁王門に掲げる。
1655 明暦1   1.松平頼重、明本一切経奉納。 10.丸亀福島橋西畔に金毘羅屋敷普請成就。
12.20高松の金毘羅屋敷の地所を買取る。
従来の雪津入道作護摩堂本尊を廃し、伝智誼大師作不動尊像にかえる。
1656 明暦2   5.10松平頼重、自筆の「讃州路象頭山縁起」を奉納。
  池領の者、丸亀領佐文村へ入込み、入割になったのを調停に入る。
1657 明暦3   3.町方へ吉利支丹宗門のこと、旅人宿のことを申渡し請書を取る。
1659 万治2   4.10御本社下遷宮。 6.13京都大徳寺の天祐紹呆参詣。 8.28御本社上遷宮。
9.13善通寺内十善坊・常林坊、境内に潜入のところを見咎められ詫状を書く。
観音堂を御本社脇より下向坂方面に移転改築。
金剛坊を御本社前脇より観音堂脇に奉遷し、間もなく観音堂後堂に移転。
小松庄内の寄進にて、鐘楼のもとに鳥居建立。御祈祷参箭所移築。
1660 万治3   10.10松平頼重、一切経蔵を建立寄進。
本地堂創祀。中門に京都仏師田中家二十五代弘教宗範彫刻の持国・多聞の二天を安置、以後中門を二天門と称す。
丸亀城主京極高和、江戸三田の藩邸に金毘羅権現勧請。大阪の金毘羅屋敷造営。
 ※万治年間 日比常真「象頭山十二景図」を描く。
この頃、塗師五兵ヱ(のち役人河野家)備前岡山より移る。
1661 寛文1   3.15松平頼重、千体仏堂を改築。
1662 寛文2   3.高松大本寺日誓、経蔵一覧の碑文を撰す。
1665 寛文5   4.吉利支丹宗門の儀に付、念書を取る。 
7.11将軍家綱、社領の朱印状を授く。 9.28松平頼重参詣、願文を奉る。
1666 寛文6   7.1社領内へ博突停止などの触を出す。宥典隠居。宥栄入院。
1667 寛文7   1.15宥栄、将軍家綱に謁す。 
2.宥栄、大覚寺宮御令旨により上人位となる。 
9.28宥栄、神野大明神本尊鎮座法楽理趣三昧導師を勤める。
1668 寛文8   1.10松平頼重、石燈箭両基献納。
10.10僧一死、慶安元年四月房州平群天神山で拾得した不動尊を奉納。
多度郡生野村出生の大工棟梁平八(西屋、川添姓)、当所高藪町に移住。
1669 寛文9   1.10松平頼重、石燈龍両基献納。 11.15古田古畑たばこ作りのことで触達す。
1673 延宝元  11.10松平頼重、金毘羅大権現神供領、千体仏堂領並びに神馬領高五十石、
また金光院内王祠供料十石を寄進。
安房勝山城主酒井忠朝より古語二幅が献ぜらる。 
  2.19松平頼重隠居、嗣子頼常が継ぐ。
  5.3松平頼重、石燈販献納。12.松平頼重、多宝塔を建立寄進。
1674 延宝2  18.10池領の者たち、社領内で理不尽に池を掘る、高松藩より竹井西庵、郡代・大庄屋召連れ検使に来て調査の結果、社領に間違いないことを確認、松平頼重の命として、以後このようなことのなきよう申付らる。
1675  延宝3  11.吉野屋長治郎外八名、土佐光信筆「源氏物語図」額奉納。
閏4.瓦師久兵ヱ、備前岡山より移住。6.16社領と池領と地替え済み。
11.19右の件、公辺より裏書下さる。。25宥典没、五十九歳。
1676   延宝4  伊予国宇摩郡川之江より伊予屋市兵ヱ移住。
  多度郡中村出生の張物師大津屋権六郎移住。
1677   延宝5  9.10有馬玄蕃頭頼利室清涼院(松平頼重娘)、六歌仙扁額奉納。
護摩堂改築、旧護摩堂を移転改築して釈迦堂創祀。
1678  延宝6   5.14宥栄、先師宥典菩提のため阿弥陀堂廊下造築、奉行松寿院典醒。
のちの江戸湯島霊雲寺開山の浄厳参詣。
1679  延宝7  孔雀明王像を造る。また護摩堂の諸仏四大明王・十二天・八大童子像を造る。
丸亀藩主京極高豊、江戸三田の金毘羅祠を、虎の門の新邸へ遷座。
1680 延宝8  宥栄、将軍綱吉に謁す。
 ※延宝年間 狩野安信・時信筆「象頭山十二景図」なる。
1682 天和2   9.25俳人岡西惟中参詣、木村寸木邸に宿る。翌日、金光院に遊ぶ。
1683 天和3   宗門指出帳宛名、木村権平・荒川伊兵ヱ(三代)。
 ※天和年間 三井道安金毘羅小坂に住居。
1684 貞亨1   9.26宥栄、満濃池池宮大明神の本尊鎮座法楽導師を勤める、願主矢原政勝。
1685 貞享2   6.11将軍綱吉、社領の朱印状を授く、
俳人大淀三千風、金光院にて「不二の詞」を撰すo
         12.18古酒八分、新酒六分、豆腐十二文と値を決める。座頭への施物は軽く、日用賃一日一人七分と触達す。
この頃、谷川も町並みになる。
1686 貞享3   7.26大雨洪水、鞘橋流失。 10.3高松の城にて、将軍綱吉の朱印状を頂く。
1687 貞享4   9.9大風にて神林の松損木多し。材木にて鞘橋普請、川筋の石垣も出来る。
 ※貞享年間の頃 役人牧野家・高木家・東條家・医師安藤家、召し出さる。
1688 元禄1   3.28社領内、鉄砲所持の分書出す。金毘羅十日講銀にて頭屋米百石買上げる。
宥弁真念の「四国辺路道指南」刊す。
1689 元禄2   4.博突・遊女停止のこと申渡し、請書を取る。
9.11松寿院典醒を以て社領内鉄砲を高松矢倉へ納める。 9.社領内総鉄砲数七十挺。
11.高松より、境内にて殺生禁止、また山林竹本伐るべからざる旨の制札を二枚下さる。
小書院普請。寂本撰の「四国遍礼霊場記」刊。
1690 元禄3   「日本行脚文集」刊、大淀三千風撰。
1691 元禄4   7.11宥栄隠居、宥山入院。 11.宥山参府。 12.宥山、江戸にて霊雲寺浄厳と往来あり。
1692 元禄5   1.15宥山、将軍綱吉に謁す。
1693 元禄6   1.15宥栄没、六十四歳。
1694 元禄7   3.石槌山前神寺金毘羅堂に燈龍建立。 6.上旬御本社葦替。
7.9日向国細島の六兵ヱ・伜三之丞、佐田の沖にて霊験を蒙り難船を免れる。宥山その事を書誌す。
10.宿貨し・遊女・博突停止のことなど触達す。
予州宇摩郡天満村寺尾氏春、苗田村にて石燈龍奉納。
唐国雷音博「讃州象頭山十二境詩」撰す。
1695 元禄8   4.松平頼重没。 8.15六角越前守広治、願文を捧ぐ。
9.宥山の求により、高野山義剛、「覚禅抄」に朱点を付ける(元禄十一年まで)。
九月吉日、本地堂棟札、奉行坂上庄兵ヱ、大工吉田久右ヱ門。
町方升屋三平と三野郡上高野村百姓助九郎との田地に関わる訴訟、升屋三平非分となる。
1696 元禄9  2.5宥山、権律師になる。 3.予州宇摩郡中之庄坂上羨鳥、銅燈龍献納。
坂上羨鳥撰「簾」刊。
1697 元禄10   1.10浄厳、「金毘羅神勘文」を撰す。熊谷立閑「讃州象頭山十二境詩」撰す。
家内並に家来を召連れた浪人小河弥三郎、江戸へ出向き、以後社領住居の浪人はなく、浪人帳も廃す。
         町方にて喧嘩をし、相手を突殺した鍛冶伝右ヱ門、高松へ頼み斬罪申付らる。
1698 元禄11   大井八幡宮神門再興。宗門指出帳宛名、木村権平・荒川伊兵ヱ。「あしろ笠評リ、僧露泉編。
1699 元禄12   1.14松平頼豊参詣し、剣一振・黄金十両など奉納。4.10宥山、権少僧都となる。
観音堂開帳。観音の御影新刻さる。この頃、雲外車竺外「象頭山十二景詩」を撰す。
1700 元禄13   「金毘羅会計」、木村寸木編。
1701 元禄14   3.高野山通玄の法華経講鐘あり、町方へ聴聞衆への応待心得を触達す。 
5.松平頼豊、神供領・千体仏堂領並に神馬領高五十石安堵。
1702 元禄15   6.10本社屋根葺替。 7.20宥山、権大僧都となる。
8.29高松藩儒菊池武雅参詣一宿、宥山と詩の応酬あり。
9.池領代官遠藤新兵ヱ、榎井村着。多聞院尚範・山下弥右ヱ門盛安外挨拶に出向く。
寒川郡志度村金兵ヱ、御前四段坂に銅包本鳥居建立寄付。宥山、金兵ヱに感謝の詩を贈る。
1703 元禄16   3.3子供芝居寺へ上る。座本権左ヱ門・太夫本嵐勘四郎、お目見。 
3.池領榎井村の遊女を残らず追払った旨、札之前町組頭より届出あり。
4.11下屋敷にて宗門改。
  ※元禄年中 余島屋茂右ヱ門(のち吉右ヱ門)当地へ移住。
元禄末年 岩佐清信に「象頭山祭礼図屏風」を描かせる。
1704 宝永1  真光院引直し造作。
6.8姫路城主本多忠国より鶴奉納、豊島松翁立合にて、神前にて放す。
10.5大芝居・竹田代り浄瑠璃芝居の桟敷のこと申付る。
1705 宝永2   春。松平頼重二男靭負、東海道赤坂駅にて怪猫の難を免る。
5.2宥山、京都仁和寺宮御令旨により法印となる。
5.坂上羨鳥、手水鉢献納。 11.8宥山、多聞院に赴く。
1706 宝永3 3.9新町にて、阿州白地の長右ヱ門、白狸を見せ物にする。
3.20宥山、菅納三郎兵ヱ方へ出向く。
12.山奉行はじめてでき、河野助左ヱ門に申付ける。
町人布屋源四郎、金倉寺領三十石のうち十七石七斗買取る。
長崎浦上の無凡山神宮寺に金毘羅権現勧請。
1707 宝永4   2.19広谷庵上棟。 3
.26酒奉行呼あげ、上酒一匁八分・中酒一匁五分・下酒一匁二分を、高松なみに上酒一匁六分・中酒一匁三分・下酒一匁に値下申付る。
4.10役人小川又兵ヱ方にて不動講あり。
1708 宝永5   7.宥山後嗣宥曼、江戸湯島霊雲寺において「真言事」書写。
8.宥山、仁和寺院家自性院兼帯。
9.10高松城主松平頼豊より太刀一振献納。
9.24宥山の実父山下道移寄進の広谷庵地蔵菩薩供養。
10.7寺にて芝居。西山の片岡家、召出される。
1709 宝永6   1.23将軍家宣、庖癒につき、高松より平癒祈祷の依頼あり。
3.26酒運上御免。 4.17宥山出府に付、高松にて五十挺立船拝借のこと整う。 5.10宥山、権僧正となる。 6.1宥山、拝天顔。。14宥山の後嗣宥曼没。
7.1宥山、将軍家宣に謁す。
8.豊後の俳人来拙、木村寸本を訪う。
9.1当役所内、当番の者袴着用申渡す。
10.1芝居の者お目見。別宗祖縁外「和象頭山十二景詩」を撰す。
1710 宝永7   6.1太鼓堂上棟、宥山、普門院にて見物。参詣人多し。
7.11巡見使、宮崎七郎右ヱ門外社領通過。
10.15菅納源左ヱ門・近藤九郎左ヱ門・片岡松蔵三人に日帳を記すよう申付る。
        11.18町方木村平十郎外寒気見舞に登山。
城州伏見鍛冶職忠右ヱ門を当処へ呼下しお目見。
  ※宝永年間 銅華表建立。宝永初年、金川屋小次郎、備中成羽より移住。
宝永末年、三野郡財田中ノ村より渡辺家召出され移住。
1711 正徳1   1.12丸亀妙法寺看坊参詣、札守を受ける。
3.土州山御用木元締大橋屋源助外、太鼓堂造立料として小判百十両寄進。 4.29木村新右ヱ門、上方より帰り挨拶に登山。
6.6木村平十郎外、御留主見廻に登山。 10.3多聞院へ不動尊を下さる。 11.16高松より為替米代金の請求あり、町方へその段申渡す。
25予州松山の浄熊と中す座頭、中之庄坂上半兵ヱより大野原村平田源次へ頼み、源次より山下弥右ヱ門へ頼み、宥山、中之間にて三味線を弾かせる。
1712 正徳2   3.1多度津藩主京極壱岐守高澄より石燈龍寄進。。
2智貞(宥山実母)死去に付、近国の座頭集り取り遣りあり。
4.3多聞院尚範死去、四代目慶範家督。
12金川屋小次郎に菓子の御用申付る。 6.5引田屋(荒川)安太夫に閉門申付 
7.10智貞様追善のため町方べ接待。23豆腐値段申付る。念仏踊、御成門の外にて躍る。
8.14大井宮造営に付、白銀五十枚寄進。17大井宮へ材木二本寄進。
9.28大井宮普請に付、行器五荷、酒二斗遣わす。10.1神輿出来る。
12.7小川又兵ヱ・矢部惣右ヱ門へ社領境目調べるよう申付る。
1713 正徳3   2.3高松城より能の案内あり。5宥山、高松へ出向く。
25池領と社領との境を決めようと那珂郡高篠村庄屋千葉弥三郎より申出あり。 
4.22堺目見分のため高松役人・池領代官所役人到着。 
5.2大坂泉屋(住友)吉右ヱ門より、小守を遣わした御礼物が届く。
13引田屋安太夫の件で、多聞院高松へ出向く。28宥山、将軍家継に謁す。
6.29池領御巡見役人登山。7.2那珂郡大庄屋より雨乞願出る。
10智貞様追善のため、坂下にて接待、広谷坊主に世話申付る。
9.17五三昧庵主死去、それに付、後役真言道心の隨な者をおくよう申付る。
広谷坊主・五三昧庵主とも普門院弟子の振合。
23伊予屋半左ヱ門、片原町の家屋敷売払う。 10.8神馬屋に盗人入る。
12、7日より十二日まで夥しい人出、前代未聞。
12.18五条村五郎左ヱ門登山、大井宮遷宮成し下されたく願出る。
1714 正徳4   1.11堺目見分に付、高松領庄屋たちと当山役人が出会う。
15菅納三郎兵ヱ婿米屋文三郎、御目見、宥山より下され物あり。
20鍛冶忠右ヱ門、大工同様扶持下さる。
2.23高松買津屋作左ヱ門、初めてお目見え差上げ物あり。
3.4内町引田屋安太夫家屋敷、同族大黒屋助次郎に売渡す。
3.18宥山実父山下盛貞没、七十八歳。
4.22松平頼豊より、盛貞死去の悔状まいる。
5.7境目のこと埓明き、塚を築く。 6.20庚申待無用に申付る。
28前屋敷にて宗門判。
7.10満濃村庄屋登山、那珂郡中より五穀成就の祈祷願入る。
8.10高松金毘羅屋敷普請、宥山お忍びにて見分に出向く。
8.26池領代官高谷太兵ヱ、榎井村へ到着、それより登山参詣。
9.10寒川郡長尾村の西善寺初めて参り、宥山に挨拶、以後お出入りを願う。
13予州宇摩郡中之庄坂上羨鳥より唐金塔寄進。
25池領と社領の境目絵図でき、見分。
         11.1伊勢御師来田監物大夫直参に付、旅宿へ音物を遣わす。
22馬屋より出火、長屋奉行吉田庄右ヱ門に閉門申付る。
12.26草履取平二郎に庭木作りを命ずる。延宝三年度の「社領境目絵図」を改訂。
1715 正徳5   1.21京都政所様より絵馬奉納。 3.25金山寺町火事、類焼家数釜処二十六軒。
4.28木村寸木没、六十九歳。
6.21菅納市右ヱ門柳陰第七男宥英、江戸深川永代寺に入院。
塩飽牛島丸尾家の船頭たち、釣燈龍一対奉納。
7.23七ケ村念仏踊、当山にて例年三庭のところ、今年は五庭踊る。
8.21池領代官高谷太兵ヱ、榎井村到着。24予州代官平岡彦兵ヱ、参詣止宿。
坂上羨鳥、鋳塔献納。 9.20四条村・五条村より大井宮遷宮のこと願出る。 10.27大井遷宮の場所見分。 11.2宥山、大井宮遷宮に出向く。
高野山より職人町人御金蔵にて金請取のことにつき公儀触の廻状来り、差戻す。
1716 享保1   1.10多度津藩主京極高澄、大般若経六百巻を寄付、表題箱書は大通寺南谷。
12高野山より金銀通用のことで廻状あり、差戻す。
2.町の座頭豊都、官位につき白銀五枚遣わす。広谷の禅門、墓守御免。
3.池領巡見衆到着。 9.京極壱岐守より大般若寄進。太田備中守
今回は、このあたりまでとしておきます。
以上から松原秀明氏は次のように指摘します。
①創世記の金毘羅信仰において、大きな役割を果たしているのは金光院の修験者たちであること
②霊山象頭山にあった宗教勢力の権力闘争を勝ち抜いたのが金光院で、宥盛の力が大きい。
③「庶民信仰の金毘羅さん」と言われるが、その初期においては、長宗我部元親・生駒親正・松平頼重などの保護寄進で、経済基盤や伽藍整備が行われた。
④特に生駒藩による330石の寺領寄進と、髙松藩の松平頼重による朱印地化や伽藍整備が行われたことが大きい。
⑤これが西国大名からの代参や寄進を呼び、それが庶民参拝につながっていくという過程が見える。
⑥つまり「最初に庶民信仰ありき:でなく、藩主の保護 → 各大名の代参の活発化 → 庶民信仰という道筋であること
次に「海の神様・金毘羅さん」についてです。
18世紀初頭までの年表には、海や船に関することはほとんど出てきませんとよく言われます。このことについて松原秀明氏は、次のように記します。
これまでの多くの発言は,金毘羅が海の神であることは既定の事実として,その上に立っての所説であるように思われる。しかし筆者には,金毘羅が何時,どうして海の神になったのかよく分らないのである。
   金毘羅大権現は海の神であるという信仰は、多分,金毘羅当局者が全く知らない間に,知らない所から生れたもののように思われる。当局者が関知しないことだから,金毘羅当局の記録には「海の神」に関わる記事は大変に少ない。金毘羅大権現は,はじめから海の神であったわけではない。勝手に海の神様にまつりあがられたのだ
金毘羅大権現の年表 松原秀明


松原秀明は年表後記に次のように記します。

「資料集」三巻三冊は,奉納者の心がこもり,物としても立派な献納品を取扱うことで,自然と内容にも重みが伝わってきているが,この「年表篇」はそれに相応しいもとは言えそうにない。大事なことで見落したものも多く,資料の読み違いからくる誤も多いことと思われる。
しかし「年表篇」の仕事をさせて貰ったことで「勉強になって有難かった」という気持も強い。
 ここで,「やや明瞭になった」と思われる事を箇条書にしてみる。それが「資料集」とともに,このF年表篇」を読まれる方々の参考として少しでも役立てば幸いである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 松原秀明 金毘羅庶民信仰資料集 年表篇 
関連記事


佐文誌には、1939(昭和14)年の大干魃の時に青年団が雨乞いのために、金刀比羅宮に参拝して神火を貰い受けてきたことが、白川義則氏の日記として次のように載せられていました。(意訳)。
(1939年)7月31日
③青年団員として金刀比羅宮で御神火を戴き、リレーで佐文の龍王山に運び、神前に供え雨乞祈願を行った。④佐文部落も今日は、龍王様に総参りして、みんなが熱心に雨を願って額づいていた。その誠心を神は、いつかなえてくれるのだろうか。雨がほしい。(意訳)

ここからは金毘羅さんが雨乞祈願先として選択されていることが分かります。そして金毘羅は近世から雨乞の聖地としても農民達の信仰を集めたいたという説もあります。これは本当なのでしょうか?

今回は金刀比羅宮の雨乞祈願について見ていくことにします。
テキストは「前野雅彦  こんびらさんの雨乞い ことひら59(平成16年)」です。
明治維新の神仏分離で、金毘羅さんは大権現という仏式スタイルから金刀比羅宮(神道)へと大きく姿を変えます。同時にそれまでなかった信仰スタイルを打ちだすようになります。それが「海の守り神」というスローガンです。ここで注意しておきたいのは「海の神様」という信仰は、金毘羅大権現時代にはあまり見られなかったことです。これは幕末から近代になって、大きく取り上げられるようになったものであることは以前にお話ししました。特に明治になって琴綾宥常によって設立された「大日本帝国水難救済会」の発展とともに拡がっていきます。ある意味では、明治の金刀比羅宮になってから獲得した信仰エリアともいえます。これと同じようなものが雨乞信仰なのではないかと私は考えています。
金光院の「金光院日帳」で、雨乞いに関する記事を見ていましょう
金光院日記は、金昆羅大権現の金光院の代々の別当が記した一年一冊の公用日記です。宝永5年(1715)から幕末まで続く膨大な記録ですが、公用的な要素が強くて、読んでいてもあまり面白いものではありません。それを研究者は雨乞記事を抜き題して、次のように一覧表化します。
金毘羅大権現への雨乞一覧 江戸時代
江戸時代の金毘羅大権現の雨乞記録(金光院日帳)

一番最初に、正徳3年(1713)7月2日に「那珂郡大庄屋ョリ雨乞願出」とあります。これが最も早い記録のようです。ここからは次のようなことが分かります。
①約百年間で、雨乞事例は15例と少ない。
②近隣の那珂郡や多度郡に限られている他には、高松藩や丸亀藩からも雨乞祈願があるだけであった
③祈願者は、庄屋や奉行・代官・山伏などで、そこには農民の姿は見られない。
これを見ると江戸時代の金毘羅大権現は、雨乞祈願のメッカとしては農民に認知されていなかったことがうかがえます。

以前にお話したように、讃岐各藩では雨乞祈願のための「専属寺院」が次のように指定されていました。
高松藩   白峰寺
丸亀藩   善通寺
多度津藩  弥谷寺
これらの真言宗の寺で、空海によって伝えられた善女(如)龍王を祀り、旱魃時には藩の命で雨乞祈祷を行っていたのです。正式な寺社では、公的な雨乞いが行われ、民間では山伏主導のさまざまな雨乞いが行われる「棲み分け現象」がとられていたことは以前にお話ししました。
 そし、明治時代の雨乞い記事は「名東県高松支庁より祈雨の祈祷を命じられる」と1例あるだけで、明治6年8月10日から17日まで雨乞祈祷が行われているだけです。明治・大正は、このような状況が続きます。
 それが大きく変化するのが1934(昭和9)年です。

 金刀比羅宮雨乞一覧1934年の旱魃
1934年の金刀比羅宮への雨乞祈願 
象頭山麓の村々を中心に、愛媛・高知・岡山など遠方から、雨乞いの祈祷に人々がやって来ています。この背景には、この年に西日本全体が大干魃に襲われたことがあるようです。時の香川県知事が「雨乞祈願」として、善通寺11師団長に大砲を大麻山に向けて発射することを依頼しています。また県知事は、各市町村に雨乞いを行うように通達しています。これを受けてさまざまな雨乞い行事が、旧村ごとに行われます。
この表からは次のような事が読み取れます。
①1934(昭和9)年7月2日から8月18日の間に67の団体からの雨乞祈願参拝があった。
②「祈願者 部落名他」という項目にあるように、祈願者が市町村ではなく「部落(近世の村)」であったこと
③旱魃深刻化する7月初旬から、大川郡・木田郡・香川郡など、香川県東部の村や町から始まった
④地元の仲多度郡からは「7月9日郡家村大林 11日十郷村買田 12日十郷村宮田」が7月中見える。
⑤8月になると、仲多度・三豊・綾歌郡などにも拡がっていくが、すべての村々が雨乞祈願におとづれているわけではない。
⑥佐文集落の名前はないので、この年の旱魃には金刀比羅宮への雨乞祈祷は行っていなかったようです。佐文が初めて金毘羅さんへ神火をもらいに行くのは、1939年からだったことが分かります。
「神火返上日」という欄があります。これはもらって帰った神火の返上日が記されています。神火は、験があってもなくても必ず返上しなければならなかったようです。

金毘羅さんからいただいた神火は、どのようにあつかわれていたのでしょうか? 武田明氏は、次のように記します。
讃岐の大川郡や綾歌郡の村々では雨が降らないとこんぴらのお山に火をもらいに行く。
  昔の村落の生活には若衆組の組織があったから何日も雨が降らぬ日がつづくと、村の衆がよりより相談の上、若衆に火をもらいに行ってもらう。割竹を数本巻いて、長さが一米ばかりのたいまつを作る。竹の中には火縄を入れて尖端にはボロ布などをつける。若衆はそれを持って行き、こんぴらさまの本宮で神前に供えた燈明の火をもらい、我村まで走って帰る。途中で火が消えてはならぬのでリレー式にうけついで、やっとわが村へ帰ると、其の火を村の氏神の燈明にうつして、村の衆一同で祈願をこめる。そうすると雨が浦然と降ってくるのだという。

 「神火」を持ち帰える時の注意は、次の通りでした。
①途中で休むと、そこに雨が降り自分たちの所に降らないとされたので、休まずにリレー式に走るように急いで持ち帰ること
②雨が降るのを信じて、カッパなど雨の対策をした装束でいくこと
③持ち帰った火で、大火(センダタキ)をたき、みのかさ姿で拝むこと
1939年の大干魃の時には佐文でも、持ち帰った神火を龍王山上に運び上げ、住民総出でわら束を持って登り、大火を焚いて総参りをして神前に額ずいて降雨祈願したことを以前にお話ししました。

以上から私が疑問に思うことを挙げてみます
①明治・大正期に金毘羅さんに雨乞いに訪れる集落はなかったのに、どうして昭和9年になって急増したのか。
 これを解く鍵が1934(昭和9)年の次の写真です。

DSC00556
 盧溝橋事件(支那事変)2周年記念祈願参拝(金刀比羅宮)
この写真は1934(昭和14)年7月7日に始まった盧溝橋事件(支那事変)2周年記念祈願参拝の模様です。場所は、金刀比羅宮本宮前です。説明文には次のように記されています。
 皇威宣揚と武運長久の祈願祭を行った。遠近各地より参拝者が多く、終日社頭を埋め尽くした。写真は、県下青年団が団旗のもと参拝した時のようす。提供 瀬戸内海歴史民俗資料館)

ここに集まっているのは、武運長久を祈願する各町村の男女青年団員であることが分かります。この時期の日本は、満州事変を起こして終わりの見えない「日中15年戦争」に突き進んでいました。戦争の長期化への対応策のひとつとして政府が推進したのが戦意高揚のための神社への集団参拝です。
DSC01528
金刀比羅宮に奉納された武運長久を祈願する幟

靖国神社や護国神社と共に地方の主要な神社が対象として指定されます。香川県では明治以来、神社庁の拠点があったのは金刀比羅宮でした。そこで、県下からの集団参拝先として選ばれたのが金刀比羅宮になります。その時にこの運動の先頭に立ったのが各集落の青年団でした。この時期の青年団員にとっては、集団参拝と云えば金毘羅さんだったのです。
戦時中の金刀比羅宮日参動員
家族・一族の金刀比羅宮への集団参拝

その結果、県知事が「雨乞祈願」を通達したときに、東讃の青年団の若者達は、金毘羅さんへ集団参拝して「神火」をもらって帰ります。それが青年団ネットワークを通じて、周辺へも広がり青年団による「神火」受領が大幅に増えたと私は考えています。
DSC01531戦時下の金刀比羅宮集団参拝
                     戦時中の金刀比羅宮への集団参拝       
もうひとつの疑問は、それまでの佐文は、財田上の渓道(たにみち)龍王社から「神火」を迎えていました。それがどうして1939年の大干魃からは、金毘羅さんから迎えることに変更されたのか?
これも今説明してきた時流の中で、解けるように思います。
①満州事変後の国威発揚のための集団参拝の強制
②その先頭になって集団参拝を繰り返した青年団
③昭和の2つの大旱魃の際の「雨乞祈願」先として、金毘羅さんの選択
④それまでの雨乞信仰先であった財田上の渓谷龍王社から、金毘羅さんのへ転換

以上をまとめておくと、
①近世から大正時代までは、農民が金毘羅大権現を雨乞信仰先としていた史料はない。
②金毘羅さんが農民達の雨乞信仰の対象となるのは、国家神道のもとでの戦意高揚策が叫ばれるようになった戦前期のことである。
③それを定着させたのは、集団参拝を繰り返していた青年団が金毘羅さんの神火を迎えるようになってからのことである。

こうして見ると庶民信仰としての雨乞祈願が、時の国家神道に転換されたことになります。佐文ではそれまでの渓道龍王は次第に忘れ去られていきます。そして、戦後は金毘羅山からの「神火」のもらい請けだけが語り継がれることになります。

長い間、金刀比羅宮の学芸員を務めた松原秀明氏は「金毘羅信仰が庶民信仰」として捉えられることに疑問を持っていました。
そして金毘羅大権現の成長・発展の契機は、次の点に求められると指摘します。
①長宗我部元親の讃岐支配の宗教センターとしての整備
②金光院院主の山下家出身のオナツが時の生駒家の殿様の寵愛を受けたことによる特別な保護
③髙松藩初代藩主松平頼重による保護
④その後の各大名の代参や石造物などの寄進
⑤明治維新でいち早く金毘羅大権現(仏式)から金刀比羅宮(神道)への転身に対する新政府の保護
ここからは時の支配者や政権の保護を受けて、それを庶民達が追認していくという道筋が見えて来ます。庶民信仰の前に権力者の庇護があり、それを利用しながら信仰拡大に結びつけた行った姿が見えてきます。戦前の金毘羅さんへの雨乞祈願にも、そのようなパターンがあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       前野雅彦  こんびらさんの雨乞い ことひら59(平成16年)

  前回は17世紀後半に成立した高松藩の寺院一覧表である「御領分中寺々由来書」の成立過程と真言宗の本末関係を見ました。今回は浄土真宗の本末関係を見ていくことにします。テキストは「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」です。

松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来2
 
「御領分中寺々由来書」に収められた高松藩の各宗派の寺数は、浄上8、天台2、真言115、禅宗7、法華12、 一向129、律宗・時宗・山伏各1の計376寺です。各宗本山の下に直末寺院があり、それに付属する末寺は直末寺院に続けて記されています。そして各寺院には簡単な由緒が書き添えられています。この表は、研究者がその中から由緒の部分を省いて、本末関係だけに絞って配置したものです。真宗については「西本願寺・東本願寺・興正寺・阿州東光寺・阿州安楽寺」が本山としてあげられいます。まず西本願寺の末寺を見ていきます。
 西本願寺本末関係
「御領分中寺々由来書」の西本願寺末寺リスト
東から西に末寺が並びます。そこに整理番号が振られています。西本願寺末の寺院が22あったことが分かります。例えば一番最後の(22)の西光寺には(宇足)と郡名が記されているので、宇多津の西光寺であることが分かります。この寺は信長との石山合戦に、戦略物資を差し入れた寺です。本願寺による海からの教宣活動で早くから開かれた寺であることは以前にお話ししました。しかし、他の宇足郡のお寺から離れて、西光寺だけが最後尾にポツンとあるのはどうしてなのでしょうか? よくわかりません。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
宇多津の西光寺(讃岐国名勝図会)

仲(那珂)郡の3つの寺を見ておきましょう。
(17)正覚寺(善通寺市与北町)は、買田池の北側の岡の上にあるお寺です。末寺に(18)正信とあります。これは、寺号を持たない坊主の名前のようです。このような坊主名と思われるものが(2)(3)(4)(6)(11)(15)(18)と7つあります。正式な寺号を名のるためには、本山から寺号と木仏などを下付される必要がありました。そのためには、数十両(現在価格で数百万円)を本寺や中本寺などに奉納しなければなりませんでした。経済基盤が弱い坊などは、山号を得るために涙ぐましい努力を続けることになります。
(19)の源正寺は、如意山の東麓にある寺です。
(20)の願誓寺は旧丸亀琴平街道の垂水町にあるお寺で(21)の光教寺(まんのう町真野)を末寺としていたようです。

 阿波安楽寺に残された文書の中に、豊臣秀吉の大仏殿供養法会へ出勤するようにとの本願寺廻状があり、その宛名に次のような7つの寺院名が挙げられます。
「阿波国安楽寺、讃岐国福善寺・福成寺・願誓寺・西光寺・正西坊、□坊」

これらの寺が、讃岐の真宗寺院の中心的存在だったことが推測できます。願誓寺も西本願寺の拠点寺院として、早くからこの地に開かれたことがうかがえます。
仲郡の西本願寺末の3つの寺を地図に落としてみます。

 西本願寺末寺(仲郡)
西本願寺末寺の正覚寺・源正寺・願正寺
これをみると3つの寺が与北周辺に集中していることが分かります。丸亀平野の真宗教線ラインの伸張は、東から常光寺(三木町)、南から阿波美馬の安楽寺によって進められたこと、このエリアの東側の垂水地区にある真宗寺院は、ほとんどが常光寺末だったことは以前にお話ししました。それが与北の如意山の北側の与北地区には、西本願寺に属するお寺が17世紀後半には3つ姿を見せていたことになります。その始まりは願誓寺だったようです。ちなみに、この3つ以外には、高松藩領の仲郡には西本願寺末の寺はなかったということです。
正覚寺
西本願寺末寺の正覚寺

続いて宇(鵜)足郡の西本願寺末の5つの寺を見ておきましょう。
(12)東光寺は丸亀南中学校の東南にあります。寺伝には開基について次のように記します。
「清水宗晴(長左衛門尉、後に宗洽と改む)の次男釈清厳か讃州柞原郷に住居し本光寺を開基す」

祚原の三本松(今の正面寺部落)に本光寺を建てたとあります。それが、元禄のころに寺の東に光り輝く霊光を見て現在地に移され、名を東光寺と改めたとされます。

土器川旧流路
郡家・川西周辺の土地利用図 旧流路の痕跡が残り土器川が暴れ川だったことが分かる
 以前にもお話ししたように近世以前の土器川や金倉川(旧四条川)は、扇状地である丸亀平野の上を山田の大蛇のように何本もの川筋になって、のたうつように流れていました。そこに霞堤防を築いて川をコントロールするようになったのは、近世はじめの生駒藩の時代になってからです。西嶋八兵衛によってすすめられたとされる土器川・金倉川の治水工事で、川筋を一本化します。その結果、それまでは氾濫原だった川筋に広大な開墾可能地が生まれます。開発した者の所有となるという生駒家の土地政策で、多くの人々が丸亀平野に開拓者として入り込んできます。その中には、以前にお話ししたように、多度津町葛原の木谷家のように村上水軍に従っていた有力武将も一族でやってきます。彼らは資金を持っていたので、周辺の土地を短期間で集積して、17世紀半ばには地主に成長し、村役人としての地位を固めていきます。このように西讃の庄屋たちには、生駒時代に他国からやってきて、地主に成り上がった家が多いように思います。その家が本願寺門徒であった場合には、真宗の道場を開き、菩提寺として本願寺末に入っていったというストーリーは描けます。
 東光寺は丸亀南中学校の南東にありますが、この付近一帯は木や茅などの茂った未開の地で、今も地名として残っている郡家の原、大林、川西の原などは濯木の続く原野だったのでしょう。その原野の一隅に東光寺が導きの糸となって、人々をこの地に招き集落ができていったとしておきましょう。
(13)万福寺は、大束川流域にある富隈小学校の西側の田園の中にあるお寺です。
(14)福成寺は、アイレックス丸亀の東にある岡の上にあり、目の前に水橋池が拡がります。
(15)「先正」という坊主名がつく道場については、何もわかりません。以後、寺号を獲得してまったくちがう寺院名になっていることも考えられます。

まんのう町称名寺
称名寺(まんのう町造田:後は大川山)
(16)称名寺は、土器川中流のまんのう町造田の水田の中にあります。
このエリアは、阿波の安楽寺が南から北の丸亀平野に伸びていく中継地にあたります。そこに、17世紀という早い時期に、本願寺末のお寺があったことになります。寺伝には開基は「享徳2(1453)年2月に、沙門東善が深く浄土真宗に帰依して、内田に一宇を建立したのに始まる。」と記します。
讃岐国名勝図絵には、次のように記されています。

「東善の遠祖は平城天皇十三代の末葉在原次郎善道という者にて、大和国より当国に来り住す。源平合戦平家敗軍の時、阿野郡阿野奥の川東村に逃げ込み、出家して善道と改む。その子善円、同村奥の明神別当となり、その子書視、鵜足郡勝浦村明神別当となり、その子円視、同郡中通村に住居す。その子円空、同所岡堂に居す。その子善圓、造田村に来り雲仙寺と号す。その子善空、同所西性寺に居れり。東善はその子にして、世々沙門なり」

ここには次のようなことが記されています。
①称名寺の開基・東善の祖先は、大和国の人間で源平合戦の落人として川東村に逃げ込み出家。
②その子孫は川東村や勝浦村の明神別当となり、祭礼をおこなってきた
③その子孫はさらに山を下って、中通村や造田村に拠点を構えてきた
源平合戦の落人というのは、俄に信じがたいところもありますが、廻国の修験者が各地を遍歴した後に、大川信仰の拠点である川東や勝浦の別当職を得て、定住していく過程がうかがえます。その足跡は土器川上流から中流へと残されています。そして、造田に建立されたのが称名寺ということになるようです。しかし、山伏がどうして、真宗門徒になったのでしょうか。そして、安楽寺の末寺とならなかったのかがよくわかりません。

称名寺 まんのう町
称名寺(まんのう町造田)

中寺伝承には、次のように伝えられています。
「称名寺は、もともとは大川の中寺廃寺の一坊で杵野の松地(末地)にあった。それが、造田に降りてきた」

この寺が、「讃岐国名勝図絵」にある霊仙寺(浄泉寺)かもしれません。造田村の正保四年の内検地帳に、「りょうせんじ」という小字名があり、その面積を合わせると四反二畝になります。ここは、現在の上造田字菰敷の健神社の辺りのようです。この付近に霊仙寺があったと研究者は推測します。どうもこちらの方が私にはぴったりときます。
以上をまとめておくと、次のような「仮説」になります。
古代からの山岳寺院である中寺の一子院として、霊仙寺があった。いつしか寂れた無住の寺に廻国の修験者が住み着き住職となった。その子孫が一向宗に転宗し、称名寺を開基した。

西村家文書の「称名寺由来」(長禄三卯年記録)には、次のように記されています。
享徳2(1453)年3月、帯包西勝寺の子孫のものが、一向宗に帰依し内田村に二間四方の庵室を建て、朝夕念仏をしていた。人々はそれを念仏坊、称名坊と呼んだ。

 これが称名寺の開基のようです。とすれば、称名寺は「帯包西勝(性)寺の子孫」によって、開かれたことになります。
  称名寺は、寛文5(1665)年に寺号公称を許可、元禄14(1701)年に、木仏許可になっています。また文化年間(1804)の京都の本願寺御影堂の大修復の際には、多額の復興費を上納しています。その時から西本願寺の直末寺の待遇を受けるようになったといいます。

  ここで西本願寺末寺になっているからといって、創建時からそうであったとは限らないことを押さえておきます。
  17世紀中頃の西本願寺と興正寺の指導者は、教義や布教方法をめぐって激しく対立します。承応二年(1653)12月末、興正寺の准秀上人は、西本願寺の良如上人との対立から、京都から天満の興正寺へと移り住みます。これを受け、西本願寺は各地に使僧を派遣して、興正寺門下の坊主衆に今後は准秀上人には従わないと書いた誓詞を提出させています。この誓詞の提出が、興正寺からの離脱同意書であり、西本願寺への加入申請書であると、後には幕府に説明しています。つまり、両者が和解にいたる何年間は、西本願寺が興正寺の末寺を西本願寺の末寺として扱っていました。それはこの期間に西本願寺が下した親鸞聖人の御影などの裏書からも確認することができます。江戸時代、西本願寺は末寺に親鸞聖人の御影などを下付する際には、下付したことの控えとするため「御影様之留」という記録に、下付する御影の裏書を書き写していました。西本願寺と興正寺が争っていた期間に、興正寺の末寺に下された御影の裏書には興正寺との本末関係を示す文言が書かれていません。
 両者の対立は、和解後も根強く残ります。対立抗争の際に、興正寺末から西本願寺末とされ、その後の和解後に興正寺末にもどらずに、そのまま西本願寺末に留まった寺院もあったようです。つまり、興正寺末から西本願寺末へ17世紀半ばに、移った寺院があるということです。高松藩の西本願寺末の22ケ寺の中にも、そんな寺があったことが考えられます。開基当初から西本願寺末であったとは云えないことになります。
最後に、東本願寺の末寺を見ておきましょう。

東本願寺末寺 高松藩内一覧
東本願寺の末寺
①17世紀後半の高松藩「御領分中寺々由来書」には、東本願寺末の寺が24ヶ寺挙げられている。
②高松の福善寺が7ヶ寺の末寺を持っている。
③東本願寺の末寺は高松周辺に多く、鵜足郡や仲郡などの丸亀平野にはない
ここからは現在、丸亀平野にある東本願寺のお寺は、これ以後に転派したことがうかがえます。
 気になるのは(27)西光寺(西本願寺末香西郡)が、(26)竜善寺と(28)同了雲との間にあることです。
西光寺については由緒書に「寛文六年二月、西本願寺帰伏仕」とあります。もとは東本願寺の孫末であったのを、西本願寺に改派したときに、西本願寺直末になったようです。そうだとすると、前回見た真言宗大覚寺末の八口(八栗)寺が仁和寺孫末の安養寺と直末屋島寺との間にあるのは、もとは仁和寺末であったのを、大覚寺末に改派したためと研究者は推測します。
また②の高松の福善寺は阿波安楽寺文書の中の「豊臣秀吉の大仏殿供養法会へ出勤依頼廻状」に名前があるので、16世紀末にはすでに有力寺院だったことことが分かります。7つの末寺を持っていることにも納得がいきます。

  以上をまとめておくと
①17世紀末に成立した高松藩の「御領分中寺々由来書」には、西本願寺末寺として22の寺院が記されている。
②22の寺院の内訳は「寺号14、坊名1、道場主名7」で、寺号を得られていない道場がまだあった。
③丸亀平野には真宗興正派の常光寺と安楽寺の末寺が多い。
④その中で、仲郡の3つの西本願寺の寺院は、与北の如意山北麓に集中している。
⑤鵜足郡の西本願寺の5寺は、分散している。その中には他国からの移住者によって開基されたという伝承をもつ寺がある。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。参考文献

浄土真宗の讃岐での教線拡大について、三木の常光寺と阿波美馬の安楽寺が果たした役割の大きさについて以前にお話ししました。

松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来

そんな中で先達から紹介されたのが「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として―四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」です。松原秀明は、金毘羅宮の学芸員として、さまざまな史料を掘り起こし、その結果として「金毘羅大権現に近世以前の史料はない」ことを明らかにしていった研究者でもあります。彼が30年以上も前に発表した文章になります。

ウキには「御領分中宮由来」と「御領分中寺々由来書」について、次のように記します。
成立 寛文九(1668)年 写本 木田郡牟礼町洲崎寺
高松藩が各郡の大政所に寺社行政参考のために書上げさせたもの。神社は所在地・由来・変遷・祭礼・別当寺・神宝・社地・末社、寺院は宗派・創建・変遷・本末関係・諸堂・本尊・宝物・寺地などを記している。写本は文政13年写。活字本 新編香川叢書史料篇
 「御領分中寺々由来書」は、高松藩の寺院一覧表としては最古のものになります。
これが新編香川叢書史料篇におさめられて以後は、近世前半の寺院の簡単な由緒を知る時の史料として、「町史」などにはよく引用されています。原本は、牟礼町州崎寺にあり、「御領分中宮由来」と合せて一冊になります。表紙の題は、「御□□宮由来 右同寺々由来」と読めるようです。扉の題は次のように記されています。

「御領分中宮由来 寛文九酉年郡々大政所書上 同寺々由来 久保停有衛門 蔵書」

「宮由来」には標題はありませんが、「寺々由来書」には「御領分中寺々由来書」と書かれています。ここで押さえておきたいのは、「御領分中寺々由来書」と「御領分中宮由来」は合せて一冊であったことです。
  
 この史料を最初に世に出したのは、松浦正一氏です。
松浦氏は、昭和13年1月、「寺々由来書」を翻字して孔版印刷で関係者に配布します。松浦氏が出版した孔版本の奥書は「文政十三寅冬写 久保博右衛門 蔵書」という原本の奥書に続いて、次のように記されています。
「昭和十三年一月片一日 以御城俊氏蔵本篤之畢 於高松市天神前表誠館 松浦正一」

 蔵書していた御城俊騨氏は、州崎寺の前々住職になるようです。洲崎寺の住職が保存していたものを、松浦正一氏が見せられて、重要性に気付き簡易的に出版したようです。松浦氏は「宮由来」と「寺々由来書」について、「香川史学第二号」(昭和47年11月発行)の「中世讃岐の信仰」で次のように記します。

「御領分中寺々由来」は次に述べる『御領分中宮由来』と題する、高松藩領内の神社の調査と同じころに調べが行なわれ、藩に報告されたものと思われる。その寺と宮との調査は当時の藩主頼重公の命令で、各郡大庄屋によって調べられ、書き上げたもの」

 これを受けて昭和54年2月に発行された「新編 香川叢書 史料」に翻刻されたときの解説にも次のように記します。

「初代高松藩主松平頼重が社寺行政の資料とするため、領内各郡の大庄屋に書上げさせた報告書である」

「各郡の大庄屋に書上げさせた報告書」という説は、その後に出版された各市町村史にも受け継がれているようです。
 この通説に対して、松原秀明氏は次のように疑いの目を向けます。

①「宮由来」は大内・寒川・三木・山田・南条・北条・鵜足・那珂の郡別になっていること
②それぞれの末尾には「右之通、村々社僧・神主吟味仕、書上け申所相違無御座候、依て如件」という文言があること。
③具体的には次の通り
大内郡 寛文九酉年二月十一日
大山太郎左衛門
日下佐左衛門
寒川郡 寛文九年西二月
寒河都鶴羽浦  真鍋専右衛門
同神前村 蓮井太郎三郎
三木郡 寛文九年酉ノニ月朔日
三木部井戸村   古市八五郎
同ひかみ村   山路与三大夫
山田郡 寛文九年酉二月五日
岩荷八郎兵衛
佐野弥二右衛門
南条郡 寛文八申年
花房九郎右衛門
植松長左衛門
北条郡 寛文九酉年 月朔日
北条郡加茂村   宮武善七
鵜足郡 寛文九年酉ノ
久米膝八
内海次右衛門
那珂郡 寛文九年西ノニ月九日
高 畑 甚 七
新名助右衛門

ここには日付と大庄屋の署名があるので、「社僧・神主吟味」した上で、大庄屋が藩へ提出した書上げであることは間違いありません。しかし、成立年紀については、疑問が残るとします。それはこの時点では、あくまで各郡大庄屋の書上げ段階だからです。これを集めて書物にして「御領分中宮由来」という題名を付けたのは、それから何ヶ月か何年か後になるはずです。その際に、各大庄屋が高松に集まって編集会議を行って相談のうえで書名を決めたというのは、非現実的です。実際には、書上げを受取った藩の役人か、あるいはこの方面の事に興味を持つ誰かが、書上げを清書して「宮由来」と命名したというのが現実的だと研究者は指摘します。
 なお、「宮由来」には高松城下・香東・香西の部が欠けています。これは何かの事情で書上げが提出されなかったか、まとめられるまでに散逸したかのどちらかでしょう。もし、後者ならば書き上げ提出から、それがまとめられるまでに相当の年月があったことがうかがえます。
次に「寺々由来書」の方を見てみましょう。     
①浄土・天台・真言・禅・法華・一向の各宗派に分けて、寺院を次のような本山別に分類しています。
真言は仁和寺・大覚寺・誕生院、
禅宗は妙心寺・能州紹持寺
法華は身延・京都妙蓮寺・京都妙覚寺・尼崎本興寺・備州蓮昌寺
真宗は西本願寺・東本願寺・興正寺・阿州東光寺・阿州安楽寺
②収められた各宗派の寺数は、浄上8、天台2、真言115、禅宗7、法華12、 一向129、律宗・時宗・山伏各1の計376寺
③記載様式の特徴は、各宗本山の下に直末寺院があり、それに付属する末寺は直末寺院に続けて挙げてあること
④各寺院には簡単な山緒が書き添えがあること
しかし、ここには「宮由来」のように各郡の大庄屋の名前は、どこにもありませんし、作成年月も記されていません。

例えば、真宗興正派の教線拡大の拠点寺となった常光寺(三木町)の末寺・孫末寺30ヶ寺を郡別に見てみましょう。

真宗興正派常光寺末寺一覧
興正寺末寺の常光寺(三木町)の末寺一覧
 「御領分中寺々由来書」の常光寺(56)の末寺・孫末寺は高松2・寒川2・三木6・山田4・香東3・北条1・南条6・那珂6となっています。この表を「大庄屋が取調べて藩へ提出した」とすると、どのようにして調べたのでしょうか。考えられるのは
①各郡に散在する末寺諸院を、どこかの大庄屋が一人で調査した
②各郡の大庄屋が情報を持ち寄って、常光寺の末寺・孫末寺の書上げを作って、だれかがまとめた。
しかし、孫末寺までの複雑な本末関係関係を、大庄屋の手で調査したというのは現実的でないというのです。各宗本山ごとに国内の頭取の寺院が調査するか、あるいは末寺・孫末寺から提出させた調書の記事
をもとにして寺社奉行で作成したと考える方が自然だとします。どちらにしても「大庄屋が取調べて藩へ提出した」というのは、考えられないとします。
 次に真言宗寺院について、由緒記事を省略して本末関係のみを示した一覧表を見ておきましょう。

真言宗本末関係
高松藩真言寺院の仁和寺末寺

真言宗仁和寺の讃岐末寺
大覚寺末寺
ここからは次のようなことが分かります。
①高松藩内の真言寺院は、ほとんどが仁和寺・大覚寺両本山に属する。その他の末寺は、善通寺誕生院以外にはない。
②志度寺・白峰寺・八国(栗)寺は、末寺を持たない。
③孫末寺院は、大内・寒川・三木・山田という東から西への順序に並べられている。
④大覚寺末の三木郡八口寺(八栗寺)が仁和寺末聖通寺末の安養寺と仁和寺末屋島寺の間に入っている。以前は八栗寺は、仁和寺末であったことが考えられる。
⑤仁和寺末香東郡大宝院(115)が、誕生院末四ヶ寺の後、真言宗としては最後尾に置かれている
どうしてこのような順番や配列になるのか、研究者にも理由が分らないようです。しかし、全体を見渡すと、各寺院の本末関係は一目瞭然で、よく分かります。本末関係を確認するには、いい史料です。
今回は、このあたりまでとします。次回は真宗の本末関係を見ていくことにします。

  以上をまとめておきます。
①「御領分中宮由来」と「御領分中寺々由来書」は、同一冊にまとめられていたために、どちらも各郡の大庄屋によって書き上げられたものを、まとめたものとされてきた。
②しかし、「寺々由来書」については、庄屋によって作成された書上げを、藩がまとめたとは考えにくい。
③「寺々由来書」の成立は、寛文九(1668)年以後のことと考えられ、高松藩最古の寺院一覧表である。
④「寺々由来書」は17世紀後半の高松藩の寺院の本末関係や簡単な由来を知る際の根本史料となる。
⑤この書が「新編香川叢書史料篇」に入れられることによって、各寺院の寺伝や本末関係を知る際には欠かせない史料となっている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行

松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来2

関連記事


  江戸時代後期になると、自分の家の出自をより良く見せたり、争いごとを有利に進めるために偽物の系図屋や古文書屋が活動するようになります。その時に作られた偽文書が現代に多く残されています。江戸時代の椿井政隆という人物は、近畿地方全域を営業圏として、古代・中世の偽の家系図や名簿を売り歩いた、偽文書のプロでした。彼の存在が広く知られるようになる前までは、ひとりの手で数多くの偽文書が作られたことすら知られておらず、多くが本物と信じられてきました。
  椿井政隆は、地主でお金には困っていなかったようですが、大量の偽文書を作っています。その手口を見てみると、まずは地元の名士、といっても武士ではない家に頻繁に通い、顔なじみになって滞在し、そこで必要とされているもの、例えば土地争いの証拠資料、家系図などを知ります。滞在中に需要を確認するわけです。それで、数ヶ月後にまたやってきて、こんなものがありますよと示します。注文はされていなくて、この家はこんなもの欲しがっているなと確認したら、一回帰って、作って、数ヶ月後に持っていきます。買うほうもある程度、嘘だと分かっていますが、持っていることによって、何か得しそうだなと思ったら地主層は買ったようです。
 滋賀県の庄屋は、椿井が来て捏造した文書を買ったことを日記に書いています。自分のところの神社をよくするものについては何も文句を言わずに入手しているのです。実際にその神社は、椿井文書通りの位置づけになって今に至っているといいます。
 こうなると「商売」というより、何か自然に『偽の歴史』ができていった感じです。いくつかの資料をまとめて5両という領収書も残っています。五両(現在換算50万円)で、証拠や夢を買うことになります。買ったほうにしたら、裁判に勝てるし、場合によったらうちはいい家柄だとか言える。地主にとっては、高い買い物ではなかったのかもしれません。

 今回は金刀比羅宮に残る5つの偽文書を見ていきたいと思います。
テキストは「羽床雅彦   中臣宮処氏本系帳と金刀比羅宮所蔵偽文書について  こんぴら68 162P」です。

(1)「釈迦堂田地寄進状」
奉寄進
子松庄松尾釈迦堂免田職事、合陸段者、右件相免田職者、天長地久御願円満、殊者為本家領家地頭願所安穏泰平故也、寄進如件、
  康安二(1362)年壬丑四月十五日  預所 平保盛(花押)

ここには、小松荘松尾寺の釈迦堂に平保盛(花押)が康安二(1362)年壬丑四月十五日に免田を寄進したとされます。
しかし、長年にわたって金刀比羅宮の学芸員を務めた松原秀明の労作である「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇、金刀比羅宮社務所発行」は、残された史料や棟札から釈迦堂の創建は延宝五年(1677)としています。つまり、康安2年には釈迦堂はありません。

(2)「三断香田地寄進状」
奉寄進
松尾寺三断香免田職事、合弐段者、在坪六条九里四坪末弘名無是田也、右件於免田職、為金輪聖王天長地久、殊者当庄本家領家沙汰人、御息災延命増長福寿現等安穏、及生善所庄内豊饒社人快楽故也、働任承者之旨、所奉寄進如件、
庄安二歳次辛亥年十一月十八日 預所僧頼系(花押)
(3)貞治元年「金昆羅堂田地寄進状」
奉寄進、松尾寺金毘羅堂免田職事、合壱段者、在坪六条八里廿五坪但本庄是末重名内、右件者、金眈羅堂免田者、為金輪聖王天長地久御願円満、殊者領家地頭庄官沙汰人諸人快楽故也、傷任承知状如件、
貞治元年(1362)壬寅三月十八日  新庄御方預所僧頼景(花押)
(5)永治二年「金昆羅堂田地寄進状」
奉寄進、子松庄松尾寺金昆羅堂田地事、
右件者免田職者、天長地久御願円満、殊者為本家領家地頭預所安穏泰平故、被仰下任旨寄進如件、
永治二(1142)年壬成二月二十六日  平量次(花押)
(3)(5)の文書に出てくる金昆羅堂については、以前にお話ししたように元亀四年(1573)の創建棟札が残っています。金比羅堂は長尾一族の宥雅によって元亀四年(1573)に創建されたことは地元の研究者たちが明らかにし、「町史ことひら」にもそう記されています。13世紀まで金毘羅神の登場を遡らせることは出来ません。金毘羅神は16世紀後半に、修験者たちによって新たに作り出された流行神と研究者たちはは考えています。
(4)「鐘楼堂田地寄進状」は、
奉寄進、松尾寺鐘楼免田職事、合参百歩者、御寺方久遠名無是田也在坪六条八里十一坪、右件者免田職者、為金輪聖王天長地久御願円満、殊者当庄本家領家地頭預所安穏泰平故也、働為寄進如件、康暦元(1379)年己未九月十七日  御寺方御代官 頼景 判

(4)の文書の鐘楼堂については、松原秀明撰『金昆羅庶民信仰資料集 年表篇』には、元和六年(1620)に生駒正俊が建立寄進したものとしています。松原氏は金刀比羅宮に残された棟札・記録を調べて年表を作成しています。敷田は棟札・記録などの根本史料に当たらずに偽文書を作成し、破綻をきたしたようです。また、五つの文書には「天長地久」が全て入っています。時代が異なる文書に、全て記されるというのも不自然です。そして、これらの5つの文書が、同一人物によって偽作されたと研究者は指摘します。
 こうして松原秀明氏は、これの文書が後世の偽作と判断し、「金刀比羅宮に近世以前の史料はない」としました。それ以後に書かれた香川県史や町史ことひらも、同じ立場をとっています。

この偽文書は、いつだれによって、何の目的のために作られたのでしょうか?
『中臣宮処氏本系帳』という文書があります。この書は、古代讃岐の山田郡の有力豪族「中臣宮処氏」の存在を示す史料です。本系帳には原書であって、孝徳天皇の大化三年(646)3月に中臣宮処連静が書いたものだと記されています。これを書いたのが国学者の敷田年治です。彼は『中臣宮処氏本系帳考證』下巻には、本系帳は天平六年(734)3月15日に中臣宮処連静麻呂が書いたものとも記されます。
整理すると「中臣宮処氏家牒』は大化三年(646)に中臣宮処連静が書き、「中臣宮処氏本系帳』は天平六年(734)に中臣宮処連静麻呂が書いたいうのです。
「中臣宮処氏本系帳考證』下巻には、次のように記されています。
「この書は讃岐の国の人、本條半兵衛が今(明治26年1893)から32年か33年前に難波に持ってきたものだが、半兵衛は何の書物か知らず、明治11年(1878)9月18日に難波の道頓堀で焼失してしまった。しかし、これ以前に或る人がこの本系帳と家牒を借りて書き写し、家牒の方は半分も書き写さない内に持ち主が返すよう督促したので返した。明治21年(1888)春に半兵衛の息子の小野幸四郎が或る人が書き写した本系帳を持って来て、私(敷田年治)に見せたので考證を加えて出版することにした。家牒の方は十枚程残っていたが、鼠に喰われて四枚程になってしまった」

この史料を本物と判断した『讃岐の歴史』は、中臣宮処連について次のように記します。
このほか、(山田郡の)県主に任ぜられた豪族には、天児屋根命を祖とする中臣宮処連の一族や、武殻王を祖とする綾氏がいた。山田郡では、天児屋根命より出た中臣宮処連静足が和銅二年に、同静麿が養老三年にそれぞれ大領に任じられた。その居址は現在の高松市西前田町にあったという。

三、中臣宮処氏本系帳には、何が書かれ、どこに問題点があるのでしょうか
(疑間1)『中臣宮処氏本系帳考證』下巻の迦麻行大人命の条には、
綾県主(あがたぬし)迦麻抒大人命は巻向の日知宮(ひしりのみや)に天の下治しめし天皇の大御子、夜麻登多郡(やまとたける)天皇命の御子、多郡迦比古(たけかいこ)王命の御子、迩美麻(にみま)大主命の御子、那岐迩麻(おきにま)大主命の御子也。

とあって、綾県主(あがたぬし)迦麻抒大人命が巻向の日知宮に天の下治しめし天皇(景行天皇)―夜麻登多郡天皇(日本武尊)―多郡迦比古(神櫛王)王命―迩美麻大主命―那岐迩麻大主命―迦麻抒大人命と続く系譜にあることを記します。
 しかし、この系譜は以前にお話したように、南北朝時代の頃に法勲寺の僧侶達によってつくられた『綾氏系図』の系譜をそのままパクったものです。南北朝時代作成の『綾氏系図』が天平六年(734)作成の『中臣宮処氏本系帳』に採録されることはありあせん。中世に作られた系図が、古代の文書に載っていることになります。これがまず問題点1です。
疑間2は『中臣宮処氏本系帳考證』下巻の中臣宮処連静比古の条です。
此の静比古多麻岐の郎女(いらつめ)にあひて生める子静老、又栗田臣伊那其(いなご)の女美豆保の郎女に姿ひて生める子奴那美麻呂(ぬなみまろ)此は中臣御田代連、高屋連らの祖也、次に清比古、次に稚富比古此は中臣粟井連らの祖也。

ここでは静比古の子の稚富比古を中臣栗井連の祖としています。そしてその本拠地を苅田郡紀伊郷粟井里とします。しかし、粟井を本拠としていたのは中臣栗井連ではなくて、忌部氏です。紀伊郷栗井里には讃岐の国の延喜式内社24社の栗井神社(観音寺市)があって、その祭神は天太玉命(あめのふとのみこと)で、これは忌部氏の祖神です。
 また、延喜式内社の多度郡の大麻神社(善通寺)の祭神も天太玉命で、三豊郡豊中町竹田には忌部神社があって、この忌部神社の周辺は今でも忌部と呼ばれています。讃岐忌部の本拠地は苅田郡紀伊郷栗井里で、ここから分かれ出た忌部の一派が豊中町竹田及び豊中町忌部に住むようになり、また、別の一派は多度郡生野郷大麻里に住むようになったとされています。
 大同二年(807)に、斎部広成が、平城天皇の指示で選した『古語拾遺』には、
手置帆負命之孫、矛竿を造り、その裔今分かれて讃岐の国に在る。讃岐の国毎年調庸の外に八百竿を貢ぐ、是其の事等の証也。

とあつて、讃岐忌部は毎年800本の矛竿を貢納していたと記されています。また『延喜式』には、
凡枠木千二百四十四竿、讃岐国十一月以前差綱丁進納、

とあって、『延喜式』が完成した937年には毎年1244の矛竿を貢納し、引き続いて讃岐忌部氏の勢力が強かったことおがうかがえます。
 苅田郡紀伊郷栗井里は枠木を貢納した忌部氏が住む村で、紀伊郷も「木」郷を嘉字二字表記にしたため「紀伊」郷になったもので、古代は和歌山を拠点とすする紀伊氏の勢力下だったとされます。ここには中臣氏の祖神の天児屋根命を祀った神社はなく、中巨粟井連という氏族の気配はありません。これが問題点2です。。

『中臣宮処氏本系帳考證』下巻の中臣宮処静見臣の条には、
此の静依臣粟国麻殖直県主の祖忌部首玉代の女奴那佐加比売に妾ひて主める子鶴見臣、亦静見大人と謂う、中臣笠井連等の祖先

とあって、中臣宮処連静依臣を中臣笠居連の祖とします。しかし東寺の果宝が観応三年(1352)に編述した『東宝記』収載の天暦11年(957)2月26日の大政官符には、綾公文包や香川郡笠居郷戸主綾公久法の名があり、綾公が住んでいたとが分かります。久法の子孫は中世には香西という武士になって活躍します。ここからも笠居郷は綾公の勢力エリアで、中臣笠居連が住んでいたということを裏付けられる史料はありません。他の歴史資料と矛盾する内容である中臣栗井連や中臣笠居連が登場する『中臣宮処氏本系帳』は、疑わしい文書とされます。

中臣宮地連については、次のような記録があります
『姓氏録』左京神別に中臣宮地連は大中臣同祖とあり、
『姓氏録』和泉国神別に宮処朝臣は大中臣朝臣同祖とあり、
『推古紀』十六年六月条及び二十年二月二十日条に中臣宮地連鳥麻呂が見え、
『続日本紀』天平元年二月十日条に中臣宮処連東人が見え、
ここからは中臣宮処氏の本拠は和泉国で、その一族が都に出て左京に家を構えたことが分かります。実際に畿内では中臣宮処連が分布していています。讃岐にも宮処という地名があるところから、讃岐の宮処にも中臣宮処連がいたとする『中臣宮処氏本系帳』という偽書がつくられたと研究者は推測します。

以上から『香川県の歴史』は、『中臣宮処氏本系帳考證』について次のような評価を下しています。
『中臣宮処氏本系帳考證』(明治二十六年三月、敷田年治の考證出版)によれば、県主は山田郡宮処(高松市東山崎町)に住みその祖先は天児屋根命で、その子孫は中臣氏であろうといわれるが、歴史家の間ではその真疑が疑われている。これを信用することはできないだろう。『中臣宮処氏本系帳』は明治時代前期に敷田年治が作成した偽書である可能性が高いのである。

つまり『中臣宮処氏本系帳』は、明治時代前期に敷田年治によって作成された偽書と研究者は考えているようです。

讃岐山田郡
 
中臣宮処連が拠点としたという山田郡宮処(高松市東山崎町)を見ておきましょう。
 琴電長尾線高田駅の北に広がる土地がかつての山田郡宮処郷であったようです。宮処郷の喜多に鎮座する宮処八幡宮(高松市前田西町)周辺に中臣宮処連が住んでいたと『中臣宮処氏本系帳』は記します。宮処郷に中臣宮処連が住んでいた痕跡はあるのでしょうか?
『続日本紀』天平十三年(七四一)三月十四日条によると聖武天皇は国分寺・尼寺建立の詔を出します。しかし、国分寺・尼寺の建立は進みません。そこで、三年以内に完成させたら子孫が郡司職を世襲を認めるという法令を、天保勝宝元年(749)2月27日に出しています。讃岐では国分寺・尼寺と同笵の瓦が、寒川郡の長尾寺、三木郡の始覚寺、山田郡の拝師廃寺・山下廃寺、香河郡の百相廃寺・田村神社、那珂郡の宝幢寺から出土しています。ここからは、寒川郡、三木郡、山田郡、香河郡、那珂郡の郡司が国分寺・尼寺の建立に参加したことがうかがえます。
『図録東寺百合文書』二十一号文書は、
山田郡牒 川原□□
合田中校出田一町三百五十歩、牒去天平宝字五年巡察□□出之田混合如件、□□□伯姓今依国今月廿二日符□停止□□、為寺田畢、傷注事牒、牒至准状、□符、

天平宝字七年十月廿九日
大領外正八位上綾公人足 少領従八位凡直 主政従八位下佐伯 復擬主政大初位上秦大成 主帳外小初位下秦
寺印
正牒者以宝亀十年四月十一日讃岐造豊足給下

ここからは天平宝字七年(763)に山田郡の大領は綾公人足、少領は凡直某だったことが分かります。
 綾公(君)は隣の香河郡から、凡直は寒川郡からの移住者(勢力拡大)と研究者は考えているようです。先に入ってきたのは綾公で、古墳時代後期には移住して久本古墳・山下古墳・小山古墳などの巨石墳を築造し、奈良中期になると拝師廃寺・山下廃寺などを建立したようです。綾公人足は八世紀中頃に山田郡の大領となり、国分寺や尼寺が建立された天平宝字七年(762)頃は大領だったことが、この史料号)からは分かります。
 天平19(747)年に国分寺・尼寺建立に参加し、その功績が認められ氏寺の拝師廃寺や山下廃寺を国分寺の同笵瓦で建立しています。こうして山田郡北半は綾公、南半は凡直が支配したようです。中世になると綾公の子孫は高松(船木)という武士になり、凡直の子孫は十河・植田・三谷・池田・由良・神内・中村などの武士になってそれぞれ活躍しますが、凡直の子孫の方が羽振りが良かったようです。
  考古学的な史料からも山田郡に中臣宮処連一族の痕跡をみつけることはできません。
以上から「中臣宮処氏本系帳』は歴史学者の間では偽書とされ、これを考証出版した敷田年治も信用できない人物とします。
敷田年治 - 帆足先生的収蔵
敷田年治
敷田年治と金刀比羅宮の繋がりをしめすものがあります。
『金毘羅庶民信仰資料集 年表篇』の明治20年(1887)9月28日条に、
「宥常、国学者敷田年治を自宅に招き饗応」

とあるのです。金刀比羅宮の琴陵宥常が何のために敷田年治を自宅に招いて饗応したのでしょうか?
最初に示した金刀比羅宮の偽文書を作成したお礼として自宅に招いて饗応した可能性が高いと研究者は指摘します。敷田年治が金刀比羅宮の偽文書をつくったとすると、『中臣宮処本系帳』も敷田年治がつくった偽書である可能性はますます高くなります。最初に偽書作成の裏側を見たように、偽書を作っていた人物はプロで、依頼によってどんな文書も偽作していたのです。ひとつだけ偽文書を作ったというのは考えにくく、ひとりがいくつもの偽文書を作っているのが通常なのです。
中臣宮処氏本系帳考証. 上巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

『中臣宮処氏本系帳考証』は明治26年(1893)3月に出版されています。
金毘羅さんの偽文書も明治20年(1887)9月~明治26年(1893)9月までの間に、つくられたと推測できます。敷田は金昆羅堂・鐘楼堂・釈迦堂の創建について記した棟札・記録を良く調べないで偽文書をつくりました。そのために、これらの棟札の記述と矛盾する内容が見つかり、偽文書であることが露呈してしまいました。そして、彼が考證出版した『中臣宮処氏本系帳』も偽書である可能性が高いとされてしまいました。敷田は、依頼に応えて、これ以外の偽書もつくった可能性もあります。そういう需要が当時の寺社にはあったことが分かります。
中臣宮処氏本系帳考証. 下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 なぜ金刀比羅宮の琴綾宥常は、敷田年治に偽書の作成を依頼したのでしょうか
考えられるのは、明治の神仏分離に伴う祭神の転換です。神仏分離前は、金毘羅大権現という神仏混淆神が祀られていました。それが廃仏毀釈で追放され、神道の金刀比羅宮は大国主命と崇徳上皇を祭神として祀るようになります。その際に、崇徳上皇との縁が求められるようになります。そのためには崇徳上皇が流刑になった時には、金毘羅大権現や松尾寺は存在していないと辻褄があわなくなります。琴綾宥常にとって、12世紀には松尾寺があったことが証明できる年代の入った文書が必要になったのでしょう。そこで、国文学者としても名前が知れていた敷田年治に依頼したことが推測できます。その裏交渉を行ったのは、禰宜の松岡調であったと私は考えています。松岡調は、骨董品や文書のコレクターでもあり、それが現在の志度の多和神社の文庫となっています。そのようなコレクションを通じて、松岡調は敷田年治と深いつながりがあったことがうかがえます。松岡調の周辺には、後に護国神社宮司となる矢原氏がいましたが、矢原氏の周辺にも偽文書の存在があるように思えます。
 

武田信玄が年貢の減免等を行ったということが書かれているが、江戸時代の終わりに自分たちも税の減免をしてほしい、と訴える証拠の資料として捏造されたもの。これに類するものが甲州にはいくつもある。

江戸時代の甲府周辺では、武田信玄の偽物の手紙が量産体制で作られ、どんどん売られていたようです。
偽文書屋が商売として成り立っていたのです。信玄の偽文書がたくさんある地域は、特定の地域で、大名がいないエリアに限定されるようです。天領などの方が、わが家はかつての信玄の家来だ、と言いやすかったようです。伊賀・甲賀でも、かつては自分たちは忍者だったといくらでも言い放題の地域があります。チェック体制のなかった江戸時代は、由緒を主張したもの勝ちだったようです。
 江戸後半になると由緒を語ることによって、社会的な地位が実際に上がっていく。急にお金持ちになっても、俺はかつてから有力な家だ、と言うとその地位が村の中で安定します。さらにもう少し後になると、武士身分もお金で買えるようになってきます。いきなり武士身分を買うのではなくて、中世は武士だ、今は農民だけど、改めてお金で買って、今はもとの武士に戻ったんだ、という言い方ができます。
  そういう意味で、家の系図や寺社の由緒はそのランクを上げて行くための必須アイテムとなります。こうして、有力な寺社には偽文書がいくつも作られ、正当性や建立起源の古さを主張する根拠して使われるようになります。
 金毘羅さんも祭神変更に対応して、より古い由緒が求められるようになったとしておきましょう。
以上をまとめておくと
①金刀比羅宮には、今は偽書とされる5つの「古文書」があった。
②それらは、松尾寺の鐘楼や金比羅堂が12世紀にはあったことを証明するものであった。
③これらの偽文書は明治に琴綾宥常が国学者(プロの偽作者)に依頼して作らせたものであった。
④その背景には祭神となった崇徳上皇時代には、松尾寺や金毘羅堂があったことを示す必要があったためである。
⑤しかし、松原秀明の調査研究によって松尾寺は16世紀後半に創建されたものであり、それを遡る棟札も古文書もないことが明らかにされた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   中臣宮処氏本系帳と金刀比羅宮所蔵偽文書について  こんぴら68 162P

このページのトップヘ