金毘羅大権現に成長して行く金毘羅堂の創建は、戦国時代のことになります。松岡調の『新撰讃岐風土記』には、次のような金比羅堂の創建棟札が紹介されています。
宥範から後の凡そ300年近くの住職は分からないとした上で、「元亀元年」から突然のように宥雅を登場させます。この年が宥雅が松尾山の麓にあった称名院に入った年を指していると羽床正明は考えているようです。善通寺の末寺である称名院に、宥雅に入ったのは元亀元年(1570)頃としておきましょう。
それがこの讃岐国名勝図会には描き込まれています。長い階段の上に本宮が雲の中にあるように描かれています。しかし、創建当初は松尾寺の本堂である観音堂がここに建っていました。その守護神として金毘羅堂が最初に姿を見せたのは、階段の下の矢印の所だと研究者は考えています。両者の位置関係からしても、この宗教施設は松尾寺を主役で、金比羅堂は脇役としてスタートしたことがうかがえます。
金毘羅神が流行神となり信仰をあつめるようになると金毘羅神を祀る新しい御宝殿(本宮=金毘羅堂))は、観音堂を押しのけて現在地に移っていきます。その本宮はどんな様式だったのでしょうか?
ここからは元和九(1623)年に建てた金毘羅堂の寸法などが分かります。同時に「神殿」とあり、次いで拝殿、幣殿、内陣とあるので神道形式の社殿であったことが分かります。こうして観音堂は、金比羅堂に主役を譲って脇に下がります。 階段の下にあったそれまでの金毘羅堂は、修験者たちの聖者を祀る役行者堂となります。このあたりにも当時の金毘羅さんが天狗信仰の中心として修験者たちの信仰を集めていたことがうかがえます。それは金光院の参道を挟んで護摩堂があることからも分かります。ここでは、社僧達がいろいろなお札のための祈祷・祈願をおこなっていたようです。神仏混淆化の金毘羅大権現を管理運営していたのは社僧達だったようです。
こうして松尾寺の中心的な3つの建築物が姿を現します。
19世紀になると、寺院の金堂は大型化していきます。
そして明治維新の神仏分離で、仏教施設は排除されます。観音堂は大国主神の妻の神殿となり、金堂(薬師堂)は旭社と名前を変えています。金堂ににあった数多くの仏達は入札にかけられ売り払われたことが、当時の禰宜・松岡調の日記には記されています。ちなみに薬師像は600両で競り落とされています。また、ここにあった両界曼荼羅は善通寺の僧が買っていったとも記されています。
金堂は今は旭社と名前を変え、祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、天津神、国津神、八百万神 などで平田派神学そのものという感じです。今は堂内はからっぽです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明 松尾寺十一面観音の由来について ことひら平成12年」
(表)「上棟象頭山松尾寺 金毘羅王赤如神御宝殿 当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉于時元亀四年発酉十一月廿七日記之」(裏)「金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
ここからは次のようなことが分かります。
①金毘羅王赤如神が金毘羅神のことで、御宝殿が金比羅堂であること。②元亀四年(1573)に金光院の宥雅は、松尾寺境内に「金毘羅王赤如神」を祀る金毘羅堂を建立した③本尊の開眼法要を、高野山金剛三昧院の良昌に依頼し、良昌が開眼法要の導師をつとめた
宥雅は長尾一族の支援を受けながら松尾寺を新たに建立します。
さらにその守護神として「金毘羅王赤如神=金毘羅神」を祀るため金毘羅堂を建立したようです。それでは、後に金毘羅大権現に成長して行く金比羅堂は、どこに建立されたのでしょうか。今回は、創建時の観音堂や金比羅堂の変遷を追ってみることにします。テキストは羽床正明 松尾寺十一面観音の由来について ことひら平成12年」です。
さらにその守護神として「金毘羅王赤如神=金毘羅神」を祀るため金毘羅堂を建立したようです。それでは、後に金毘羅大権現に成長して行く金比羅堂は、どこに建立されたのでしょうか。今回は、創建時の観音堂や金比羅堂の変遷を追ってみることにします。テキストは羽床正明 松尾寺十一面観音の由来について ことひら平成12年」です。
長尾城城主の弟であった宥雅は、善通寺で修行して一人前の僧侶になった時、善通寺の末寺で善通寺の奥の院でもあった称名院を任されるようになります。そして善通寺で修行した長尾高広は師から宥の字を受け継ぎ「宥雅」と名乗るようになります。
「讃岐象頭山別当職歴代之記」には
「宥範僧正 観応三辰年七月朔日遷化 住職凡応元元年中比ヨリ 観応比ヨリ元亀年中迄 凡三百年余歴代系嗣不詳」
意訳変換しておくと
宥範僧正は、 観応三年七月朔日に亡くなった。応元元年から 元亀年中まで およそ三百年の間、歴代住職の系譜については分からない。
宥範から後の凡そ300年近くの住職は分からないとした上で、「元亀元年」から突然のように宥雅を登場させます。この年が宥雅が松尾山の麓にあった称名院に入った年を指していると羽床正明は考えているようです。善通寺の末寺である称名院に、宥雅に入ったのは元亀元年(1570)頃としておきましょう。
ここからは羽床氏の「仮説」を見ていくことにします
1570年 宥雅が称名院院主となる1571年 現本社の上に三十番社と観音堂建立1573年 四段坂の下に金比羅堂建立
宥雅は、荒廃していた三十番神社を修復してこれを鎮守の社にします。三十番社は、甲斐からの西遷御家人である秋山氏が法華経の守護神として讃岐にもたらしたとされていて、三野の法華信仰信者と共に当時は名の知れた存在だったようです。三十番社の祠のそばに観音堂を建立し、1573年の終わりに四段坂の下に金毘羅堂を建立したとします。
讃岐国名勝図会の四段坂周辺
金堂の竣工に併せて四段坂も石段や玉垣が整備されました。それがこの讃岐国名勝図会には描き込まれています。長い階段の上に本宮が雲の中にあるように描かれています。しかし、創建当初は松尾寺の本堂である観音堂がここに建っていました。その守護神として金毘羅堂が最初に姿を見せたのは、階段の下の矢印の所だと研究者は考えています。両者の位置関係からしても、この宗教施設は松尾寺を主役で、金比羅堂は脇役としてスタートしたことがうかがえます。
幕末の四段坂 金毘羅堂はT39の創建された
正保年間の金毘羅大権現の境内図
金毘羅神が流行神となり信仰をあつめるようになると金毘羅神を祀る新しい御宝殿(本宮=金毘羅堂))は、観音堂を押しのけて現在地に移っていきます。その本宮はどんな様式だったのでしょうか?
『古老伝旧記』には、この本宮について次のように記します。
元和九年御建立之神殿、七間之内弐間切り三間、梁五間之拝殿に被成、新敷幣殿、内陣今之場所に建立也、
ここからは元和九(1623)年に建てた金毘羅堂の寸法などが分かります。同時に「神殿」とあり、次いで拝殿、幣殿、内陣とあるので神道形式の社殿であったことが分かります。こうして観音堂は、金比羅堂に主役を譲って脇に下がります。
創建当初の金毘羅堂には、祭神の金毘羅神は安置されていなかったようです。
代わって本地仏の薬師如来が安置されていました。金比羅堂が本宮として現在地に「昇格」してしまうと、それまで金比羅堂に祀られていた薬師様の居場所がなくなってしまいました。そこで新たに薬師堂が建立されることになります。
代わって本地仏の薬師如来が安置されていました。金比羅堂が本宮として現在地に「昇格」してしまうと、それまで金比羅堂に祀られていた薬師様の居場所がなくなってしまいました。そこで新たに薬師堂が建立されることになります。
元禄末期の境内図
薬師堂の建立場所は、鐘楼の南側の現在旭社がある場所が選ばれます。
同時に高松藩初代領主の松平頼重の保護を受けた金光院は、境内の大改造を行い、参道を薬師堂の前を通って、本宮に登っていく現在のルートに変更します。
同時に高松藩初代領主の松平頼重の保護を受けた金光院は、境内の大改造を行い、参道を薬師堂の前を通って、本宮に登っていく現在のルートに変更します。
また、観音堂も現在の三穂津姫社の位置に移します。そして観音堂の奥には、初代金光院院主の宥盛を祀る金剛坊が併設されます。宥盛は「死して天狗となり、金毘羅を守らん」と言い残して亡くなった修験のカリスマ的存在であったことは以前にお話ししました。全国から集まる金比羅行者や修験者の参拝目的はこちらであったのかもしれません。
金光院のまわりを見ると、書院や客殿が姿を現しています。高松松平家の保護を受けて、全国からの大名たちの代参もふえてきたことへの対応施設なのでしょう。
本宮と観音堂は回廊で結ばれている。その下の薬師堂はまだ小型
本宮と観音堂は回廊で結ばれている。その下の薬師堂はまだ小型
こうして松尾寺の中心的な3つの建築物が姿を現します。
金毘羅大権現 本宮松尾寺本堂 観音堂薬師堂 金毘羅神の本地仏
以後、明治の神仏分離までは、このスタイルは変わりません。
幕末に大型化し金堂と呼ばれるようになった薬師堂が見える
19世紀になると、寺院の金堂は大型化していきます。
その背景には大勢の信者を集めたイヴェントが寺社で開催されるようになるためです。そのためには金堂前には大きな空間も必要とされます。同時代の善通寺の誕生院の変遷を見ても同じ動きが見られることは以前にお話ししました。
金光院も急増する参拝客への対応策として、大型の金堂の必要性が高まります。そこで考えられたのが薬師堂を新築して、金堂にすることです。薬師堂は幕末に三万両というお金をかけて何十年もかけて建立されたものです。この竣工に併せるように、周辺整備や参道の石段化や玉垣整備が進められていくのは以前にお話ししました。
金堂(薬師堂=現旭社)と整備された周辺施設(讃岐国名勝図会)
そして明治維新の神仏分離で、仏教施設は排除されます。観音堂は大国主神の妻の神殿となり、金堂(薬師堂)は旭社と名前を変えています。金堂ににあった数多くの仏達は入札にかけられ売り払われたことが、当時の禰宜・松岡調の日記には記されています。ちなみに薬師像は600両で競り落とされています。また、ここにあった両界曼荼羅は善通寺の僧が買っていったとも記されています。
松尾寺金堂(薬師堂)設計図
金堂は今は旭社と名前を変え、祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、天津神、国津神、八百万神 などで平田派神学そのものという感じです。今は堂内はからっぽです。
神仏分離後の絵図
観音堂は三穂津姫殿となり旧金堂は雲で隠されている
以上をまとめておきます
①16世紀後半に長尾一族出身の宥雅は、新たな寺院を松尾山に建立し松尾寺と名付けた。
②その本堂である観音堂は三十番社の下の平地に建立された。
③観音堂の下の四段坂に、守護神金比羅を祀るための金比羅堂を建立した
④金比羅神が流行神として信仰をあつめると、観音堂の位置に金比羅堂は移され金毘羅大権現の本宮となった。
⑤松尾寺の観音堂は、位置を金毘羅神に明け渡し、その横に建立された。
⑥金比羅堂に安置されていた薬師像(金毘羅神の本地仏)のために薬師堂が建立され、参道も整備された。
⑦19世紀には、薬師堂は大型化し松尾寺の金堂として姿を現し、多くの仏達が安置されていた。
⑧明治維新の廃仏毀釈で仏殿・仏像は追放された。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明 松尾寺十一面観音の由来について ことひら平成12年」