瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:松尾寺

金毘羅大権現に成長して行く金毘羅堂の創建は、戦国時代のことになります。松岡調の『新撰讃岐風土記』には、次のような金比羅堂の創建棟札が紹介されています。
 (表)「上棟象頭山松尾寺 金毘羅王赤如神御宝殿 当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉 
于時元亀四年発酉十一月廿七日記之」
 (裏)「金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
ここからは次のようなことが分かります。
①金毘羅王赤如神が金毘羅神のことで、御宝殿が金比羅堂であること。
②元亀四年(1573)に金光院の宥雅は、松尾寺境内に「金毘羅王赤如神」を祀る金毘羅堂を建立した
③本尊の開眼法要を、高野山金剛三昧院の良昌に依頼し、良昌が開眼法要の導師をつとめた
宥雅は長尾一族の支援を受けながら松尾寺を新たに建立します。
さらにその守護神として「金毘羅王赤如神=金毘羅神」を祀るため金毘羅堂を建立したようです。それでは、後に金毘羅大権現に成長して行く金比羅堂は、どこに建立されたのでしょうか。今回は、創建時の観音堂や金比羅堂の変遷を追ってみることにします。テキストは羽床正明   松尾寺十一面観音の由来について ことひら平成12年」です。

長尾城城主の弟であった宥雅は、善通寺で修行して一人前の僧侶になった時、善通寺の末寺で善通寺の奥の院でもあった称名院を任されるようになります。そして善通寺で修行した長尾高広は師から宥の字を受け継ぎ「宥雅」と名乗るようになります。
「讃岐象頭山別当職歴代之記」には

宥範僧正  観応三辰年七月朔日遷化 住職凡応元元年中比ヨリ  観応比ヨリ元亀年中迄 凡三百年余歴代系嗣不詳」
意訳変換しておくと
宥範僧正は、 観応三年七月朔日に亡くなった。応元元年から  元亀年中まで およそ三百年の間、歴代住職の系譜については分からない。

宥範から後の凡そ300年近くの住職は分からないとした上で、「元亀元年」から突然のように宥雅を登場させます。この年が宥雅が松尾山の麓にあった称名院に入った年を指していると羽床正明は考えているようです。善通寺の末寺である称名院に、宥雅に入ったのは元亀元年(1570)頃としておきましょう。
 ここからは羽床氏の「仮説」を見ていくことにします
1570年 宥雅が称名院院主となる
1571年 現本社の上に三十番社と観音堂建立
1573年 四段坂の下に金比羅堂建立
宥雅は、荒廃していた三十番神社を修復してこれを鎮守の社にします。三十番社は、甲斐からの西遷御家人である秋山氏が法華経の守護神として讃岐にもたらしたとされていて、三野の法華信仰信者と共に当時は名の知れた存在だったようです。三十番社の祠のそばに観音堂を建立し、1573年の終わりに四段坂の下に金毘羅堂を建立したとします。


絵図で創建当時の松尾寺と金毘羅堂の位置を押さえておきましょう。本堂下の四段坂を拡大した「讃岐国名勝図会」のものを見てみましょう。四段坂 讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会の四段坂周辺

金堂の竣工に併せて四段坂も石段や玉垣が整備されました。
それがこの讃岐国名勝図会には描き込まれています。長い階段の上に本宮が雲の中にあるように描かれています。しかし、創建当初は松尾寺の本堂である観音堂がここに建っていました。その守護神として金毘羅堂が最初に姿を見せたのは、階段の下の矢印の所だと研究者は考えています。両者の位置関係からしても、この宗教施設は松尾寺を主役で、金比羅堂は脇役としてスタートしたことがうかがえます。

5 敷石四段坂1
幕末の四段坂 金毘羅堂はT39の創建された
金毘羅堂と観音堂の位置

今度は17世紀中頃正保年間の境内図を見てみましょう。
境内図 正保頃境内図:
正保年間の金毘羅大権現の境内図

  金毘羅神が流行神となり信仰をあつめるようになると金毘羅神を祀る新しい御宝殿(本宮=金毘羅堂))は、観音堂を押しのけて現在地に移っていきます。その本宮はどんな様式だったのでしょうか?
『古老伝旧記』には、この本宮について次のように記します。

元和九年御建立之神殿、七間之内弐間切り三間、梁五間之拝殿に被成、新敷幣殿、内陣今之場所に建立也、

ここからは元和九(1623)年に建てた金毘羅堂の寸法などが分かります。同時に「神殿」とあり、次いで拝殿、幣殿、内陣とあるので神道形式の社殿であったことが分かります。こうして観音堂は、金比羅堂に主役を譲って脇に下がります。
 階段の下にあったそれまでの金毘羅堂は、修験者たちの聖者を祀る役行者堂となります。このあたりにも当時の金毘羅さんが天狗信仰の中心として修験者たちの信仰を集めていたことがうかがえます。それは金光院の参道を挟んで護摩堂があることからも分かります。ここでは、社僧達がいろいろなお札のための祈祷・祈願をおこなっていたようです。神仏混淆化の金毘羅大権現を管理運営していたのは社僧達だったようです。
 創建当初の金毘羅堂には、祭神の金毘羅神は安置されていなかったようです。
代わって本地仏の薬師如来が安置されていました。金比羅堂が本宮として現在地に「昇格」してしまうと、それまで金比羅堂に祀られていた薬師様の居場所がなくなってしまいました。そこで新たに薬師堂が建立されることになります。
境内平面図元禄末頃境内図:左図拡大図konpira_genroku
元禄末期の境内図

薬師堂の建立場所は、鐘楼の南側の現在旭社がある場所が選ばれます
同時に高松藩初代領主の松平頼重の保護を受けた金光院は、境内の大改造を行い、参道を薬師堂の前を通って、本宮に登っていく現在のルートに変更します。
 また、観音堂も現在の三穂津姫社の位置に移します。そして観音堂の奥には、初代金光院院主の宥盛を祀る金剛坊が併設されます。宥盛は「死して天狗となり、金毘羅を守らん」と言い残して亡くなった修験のカリスマ的存在であったことは以前にお話ししました。全国から集まる金比羅行者や修験者の参拝目的はこちらであったのかもしれません。
 金光院のまわりを見ると、書院や客殿が姿を現しています。高松松平家の保護を受けて、全国からの大名たちの代参もふえてきたことへの対応施設なのでしょう。

金毘羅山本山図1
本宮と観音堂は回廊で結ばれている。その下の薬師堂はまだ小型

こうして松尾寺の中心的な3つの建築物が姿を現します。
金毘羅大権現 本宮
松尾寺本堂  観音堂
薬師堂          金毘羅神の本地仏
以後、明治の神仏分離までは、このスタイルは変わりません。

観音堂と絵馬堂の位置関係
幕末に大型化し金堂と呼ばれるようになった薬師堂が見える

19世紀になると、寺院の金堂は大型化していきます。
その背景には大勢の信者を集めたイヴェントが寺社で開催されるようになるためです。そのためには金堂前には大きな空間も必要とされます。同時代の善通寺の誕生院の変遷を見ても同じ動きが見られることは以前にお話ししました。
 金光院も急増する参拝客への対応策として、大型の金堂の必要性が高まります。そこで考えられたのが薬師堂を新築して、金堂にすることです。薬師堂は幕末に三万両というお金をかけて何十年もかけて建立されたものです。この竣工に併せるように、周辺整備や参道の石段化や玉垣整備が進められていくのは以前にお話ししました。
4344104-31多宝塔・旭社・二王門
金堂(薬師堂=現旭社)と整備された周辺施設(讃岐国名勝図会)

 そして明治維新の神仏分離で、仏教施設は排除されます。観音堂は大国主神の妻の神殿となり、金堂(薬師堂)は旭社と名前を変えています。金堂ににあった数多くの仏達は入札にかけられ売り払われたことが、当時の禰宜・松岡調の日記には記されています。ちなみに薬師像は600両で競り落とされています。また、ここにあった両界曼荼羅は善通寺の僧が買っていったとも記されています。

旭社(金堂)設計図
松尾寺金堂(薬師堂)設計図

 金堂は今は旭社と名前を変え、祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、天津神、国津神、八百万神 などで平田派神学そのものという感じです。今は堂内はからっぽです。

金毘羅本宮 明治以後
神仏分離後の絵図 
観音堂は三穂津姫殿となり旧金堂は雲で隠されている

 以上をまとめておきます
①16世紀後半に長尾一族出身の宥雅は、新たな寺院を松尾山に建立し松尾寺と名付けた。
②その本堂である観音堂は三十番社の下の平地に建立された。
③観音堂の下の四段坂に、守護神金比羅を祀るための金比羅堂を建立した
④金比羅神が流行神として信仰をあつめると、観音堂の位置に金比羅堂は移され金毘羅大権現の本宮となった。
⑤松尾寺の観音堂は、位置を金毘羅神に明け渡し、その横に建立された。
⑥金比羅堂に安置されていた薬師像(金毘羅神の本地仏)のために薬師堂が建立され、参道も整備された。
⑦19世紀には、薬師堂は大型化し松尾寺の金堂として姿を現し、多くの仏達が安置されていた。
⑧明治維新の廃仏毀釈で仏殿・仏像は追放された。
境内変遷図1

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明   松尾寺十一面観音の由来について ことひら平成12年」


 
DSC01040明治15年 境内図
                          神仏分離後 明治13年の金刀比羅宮

神仏分離と廃仏毀釈で、仏閣であった金毘羅大権現にあった多くの仏像は「入札競売」にかけられ、残ったものは焼却処分にされたこと、そして、当時の禰宜であった松岡調が残した仏像の内で、現在も金刀比羅宮にあるのは2つだけであることを前々回に、お話ししました。この内の十一面観音については、何回か紹介しています。しかし、不動明王については、触れたことがありませんでした。今回は、この不動さまについて見ていくことにします。
1 金刀比羅宮蔵 不動明王
   護摩堂の不動明王

 現在宝物館に展示されている不動明王は、江戸時代、護摩堂の本尊として祀られていたものです。桧造りの像ですが、背後と台座はありません。政府の分離令で、金堂や各堂の仏像達の撤去命令が出たときに、急いで取り除かれ「裏谷の倉」の中に、数多くの仏像と一緒にしまい込まれていたようです。その際に、台座や付属品は取り除かれたのかもしれません。

2.金毘羅大権現 象頭山山上3

明治5年4月,東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館を建設する資金確保のために、それまで保管していた仏像・仏具・武器・什物の類の売却が進められます。そこで、閉ざされていた蔵が開けられることになります。
 その時のことを松岡調は、日記に次のように記しています。
 佐定と一緒に、裏谷に隠置(かくしおき)たる仏像類を検査しに出向いた。長櫃が2つあった。蓋をとって中を検めると、弘法大師作という聖観音立像、智証大師作という不動立像などが出てきた。その他に、毘沙門像や二軸の画像など事については、ここにも記せない。今夜は矢原正敬宅に宿る。 
(『年々日記』明治五年[七月二十日条])

 彼は、以前に蔵の1階にも2階にも仏像が所狭しと並んでいたのは確認していたようですが、長櫃の中までは見てなかったのです。それを開けると出てきたのが
①弘法大師作という聖観音立像(後の十一面観音)
②智証大師作という不動立像
だったようです。
11金毘羅大権現の観音
金刀比羅宮に残された十一面観音

他の仏像がむき出しのままであったのに対して、この2つの仏像は扱いがちがいます。社僧たちの中に、この一体に対しては「特別なもの」という意識があったようです。
 改めて不動明王を見てみましょう。

1 金刀比羅宮蔵 不動明王

像高162㎝で等身大の堂々とした像です。足の甲から先と、手の指先は別に彫られたもので、今は接続する鉄製のカスガイがむきだしになっています。忿怒相の特徴ある目は、右が大きく見開き、左は半眼で玉眼を入れている。頭はやや浅い巻髪でカールしています。頂蓮はありません。右手には悪を追いはらう威力の象徴である宝剣をもち、左手は少し曲げて体側にたらし、羂索をもっている不動さんの決まりポーズです。
  私には、このお不動さんはウインクをしているように見えるのです。忿怒の表情よりも茶目っ気を感じます。もうひとつ気になるのは、足もとから、胸元にかけて、火にあったようなただれた部分が見られ、塗りがおちて、部分的に木地が露出しているというのです。火災にあったのかなと思ったりもしますが、背面にはそれが見られないと云います。研究者は
「ただれ跡の剥落」を、「かつて護摩を焚いた熱によるもの」
と指摘します。

img000018金毘羅山名所図解
金毘羅山名所図会
 文化年間(1804~18)に書かれた『金毘羅山名所図会』の護摩堂の項には、
(前略)此所にて、天下泰平五穀成就、参詣の諸人請願成就のため、又御守開眼として金光院の院主長日の護摩を修る事、元旦より除夜にいたる迄たゆる事なし(後略)
意訳すると
護摩堂では、天下泰平・五穀成就、参詣者の請願成就のため、又御守開眼として、護摩祈願が行われており、元旦から12月の除夜まで、絶えることがない。(後略)

 とあり、護摩堂では連日護摩が焚かれたことが分かります。そのため、護摩堂のことを長日護摩堂とも呼んだと云います。ここからも金毘羅大権現が真言密教の仏閣で、修験者の僧侶の活動が日常的に護摩祈祷という形で行われていたことが分かります。 もっとも、この像は最初から護摩堂の本尊ではなかったようです。
この不動さんは延暦寺からスカウトされてきたようです。
護摩堂は、慶長9年(1604)に建立されていますが、その時にお堂と一緒につくられた不動さんがいたようです。ところが、次第に護摩祈祷に対する人気・需要が高まります。そこで、より優れたものを探させます。その結果、明暦年間(1656)に、京都の仏師が比叡山にあった不動明王を譲り受け、それを以前からあった本尊にかえて安置したのです。この不動さんは、後から迎え入れたもののようです。ここにも「仏像は移動する」という「法則」が当てはまるようです。
1 護摩祈祷

 護摩は、真言密教の修験者が特異とする祈祷方法です。国家や天皇家の平安を祈って、行われました。それが、やがて権力をもつようになった貴族、さらには武家・庶民へと広かって行きます。護摩といえば不動というぐらい護摩を焚く場所の本尊には、不動明王が安置されるようになります。高く焚え上った火炎と、忿怒相の不動の前で修せられる護摩に霊験あらたかなものを感じたからでしょう。
 大日如来の化身でもあり、修験者の守護神でもあったのが不動明王です。修験者は、護身用に小形の不動明王を身につけていました。行場の瀧や断崖、磐座にも不道明王を石仏として刻んだりもしす。
 金毘羅大権現では、象頭山が修験者の行場で、霊山でした。そこに修験者が入り込み、天狗として修行に励みます。そして、松尾寺周辺に護摩堂を建立し、拠点としていきます。修験者たちの中から、金毘羅神を作り出し、金比羅堂を建立するものが現れます。それが松尾寺よりも人気を集めるようになり、金毘羅大権現に成長していくというのが、私の考える金比羅創世記です。そこからすると、金毘羅大権現の護摩堂とその本尊には興味が涌いてきます。
香川県立図書館デジタルライブラリー | 金毘羅 | 古文書 | 金毘羅参詣名所図会 4

 金毘羅さんでも、朝廷の安穏や天下泰平を願うものから、雨乞いにいたるまで諸々の願いをこめて護摩焚きが行われたようです。
 護摩堂で二夜三日修せられた御守が、大木札や紙守で、木札の先端が山形となっているのは、不動の宝剣を象徴したものと研究者は考えているようです。これらが、霊験あらたかなお守りとして、庶民の人気を集めていたことが分かります。

1 金刀比羅宮 奥社お守り

 金毘羅山内にはもう一つ不動を本尊とする堂があったようです。
万治三年(1660)に建立された本地堂(不動堂)です。ここの本尊は、護摩堂に最初にあった本尊を移してきたものでした。この堂は今の真須賀社の所にありましたが、これも神仏分離で撤去され、堂も不動も残っていません。
 宝物館にもうひとつ残されている仏像は十一面観音です。

1 金毘羅大権現 十一面観音2

この観音様は、聖観音と伝えられてきましたが、頭の穴を見れば分かるとおり、ここには十の観音様の頭が指し込められていました。つまり十一面観音だったことになります。なぜ、十一面観音を聖観音として安置していたのか。それは、以前にお話しましたので省略します。
 どちらにしても、観音堂の本尊で秘仏とされ三十三年毎に開帳されていたという観音様です。開帳の時には、多くの参詣人を集め、後には山内の宝物も拝観させるようになり、ますますにぎわうようになります。この十一面観音は、藤原時代の作で、桧材の一木造りの優品として現在は重要文化財に指定されています。
思いつくまま 第986回・金刀比羅宮宝物館
金刀比羅宮の宝物館

 宝物館に残された二つの仏像は、金毘羅大権現にとって、最も大切な仏であったことがうかがえます。不動明王は、修験者たちの守護神として、観音さまは、松尾寺の本尊だったのでしょう。金毘羅大権現には、観音信仰の系譜痕跡もあるように私には思えます。その二つのルーツを体現するのが、宝物館の2つの仏達である・・・と云うことにしておきます。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

金毘羅神を生み出したのは修験者たちだった   
金毘羅大権現2
金毘羅信仰については、金毘羅神が古代に象頭山に宿り、近世に塩飽の船乗り達によって全国的に広げられたと昔は聞いてきました。しかし、地元の研究者たちが明らかにしてきた事は、金毘羅神は戦国末期に新たに創り出された仏神で、それを生み出したのは象頭山に拠点を置く修験者たちであったこと、彼らがそれまでの三十番社や松尾寺に代わってお山の支配権を握っていく過程でもあったということです。その拠点となったのが松尾寺別当の金光院です。そして、この金光院の院主が象頭山の封建的な領主になるのです。

e182913143.1金比羅大権現 天狗 烏天狗 絵入り印刷掛軸
 この過程を今回は「政治史」として、できるだけ簡略にコンパクトに記述してみようと思います。
 戦国末期から17世紀後半にかけて、金光院院主を務めた修験系住職六代の動きをながめると、新たに作りだした金毘羅大権現を祀り、象頭山の権力掌握をおこなった動きが見えてきます。金毘羅大権現を祀る金毘羅堂は近世始めに創建されたもので、金光院も当寺は「新人」だったようです。新人の彼らがお山の主になって行くためには政治的権力的な「闘争」を経なければなりませんでした。それは金毘羅神の三十番神に対する、あるいは金光院の松尾寺に対する乗っ取り伝承からも垣間見ることができます。
20150708054418金比羅さんと大天狗

宥雅による金毘羅神創造と金毘羅堂の建立
金毘羅神がはじめて史料に現れるのは、元亀四年(1573)の金毘羅堂建立の棟札です。
ここに「金毘羅王赤如神」の御宝殿であること、造営者が金光院宥雅であることが記されています。 宥雅は地元の有力武将長尾氏の当主の弟ともいわれ、その一族の支援を背景にこの山に、新たな神として番神・金比羅を勧進し、金毘羅堂を建立したのです。これが金毘羅神のスタートになります。

宥雅による金毘羅堂建立

 彼は金毘羅の開祖を善通寺の中興の祖である宥範に仮託し、実在の宥範縁起の末尾に宥範と金毘羅神との出会いをねつ造します。また、祭礼儀礼として御八講帳に加筆し観応元年(1350)に宥範が松尾寺で書写したこととし、さらに一連の寄進状を偽造も行います。こうして新設された金毘羅神とそのお堂の箔付けを行います。
 当時、松尾寺一山の中心施設は本尊を安置する観音堂であり、その別当は普門院西淋坊という滅罪寺院でした。さらに一山の地主神として、また観音堂の守護神として神人たちが奉じた三十番社がありました。これらの先行施設と「競合」関係に金毘羅堂はあったのです。
 そのような中で金光院は、あらたに建立された金毘羅堂を観音堂守護の役割を担う神として、松尾寺の別当を主張するようになります。それまでの別当であった普門院西淋坊が攻撃排斥されたのです。このように新たに登場した金毘羅堂=金光院と先行する宗教施設の主導権争いが展開されるようになります。
sim (2)金毘羅大権現6

 そのような中で天正六年(1578)から数年にわたる長曽我部元親の讃岐侵攻が始まります。

長宗我部元親支配下の金毘羅

これに対して長尾氏の一族であった金光院の宥雅は堺に亡命します。空きポストになった金光院院主の座に、長宗我部元親が指名したのが、陣営にいた土佐幡多郡寺山南光院の修験者である宥厳です。彼は、元親の信任を受け金毘羅堂を「讃岐支配のための宗教センター」としての役割と機能を果たす施設に成長させていきます。

C-23-1 (1)
 こうして宥厳は土佐勢力支配下において、金光院の象頭山における地位を高めていきます。彼は土佐勢撤退後も金光院院主を務めます。その亡き後に院主となるのが宥盛です。彼は「象頭山には金剛坊」と称せられる傑出した修験者で、金毘羅の社会的認知を高め、その基盤を確立したといわれます。歿する際には自らの修験形の木像を観音堂の後堂に安置しますが、彼は神として現在の奥社に祀られています。
 一方、宥雅は堺からの復帰をはかろうと、当時の生駒藩に訴え出ますが認められませんでした。彼は、金刀比羅宮の正史には金光院歴代住職に数えられていません。抹殺された存在です。長宗我部元親による讃岐支配は、宥雅とっては創設した金比羅堂を失うという大災難でしたが、金比羅神にとってはこの激動が有利に働いたようです。権力との接し方を学んだ金光院はそれを活かし、生駒家や松平頼重の良好な関係を結び、寺領を増加させていきます。同時に親までの支配権を強化していくのです。

o0420056013994350398金毘羅大権現

 それに対して「異議あり!」と申し立てたのは山内の三十番社の神人でした。
もともと、三十番社の神人は、祭礼はもとより多種の神楽祈禧や託宣などを行っていたようです。ところが金毘羅の知名度が上昇し、金光院の勢力が増大するに連れて彼らの領分は次第に狭められ、その結果、経済的にも追い詰められていきます。そのような中で、彼らは金光院を幕府寺社奉行への訴えるという反撃に出ます。
 しかし、幕府への訴えは同十年(1670)8月に「領主たる金光院を訴えるのは、逆賊」という判決となりました。その結果、11月には金毘羅領と高松領の境、祓川松林で、訴え出た内記太夫、権太夫の獄門、一家番属七名の斬罪という結末に終わります。これを契機に金毘羅(金光院)は吉田家と絶縁し、日本一社金毘羅大権現として独自の道を歩み出します。
20157817542
つまり、封建的な領主として金光院院主が「山の殿様」として君臨する体制が出来上がったのです。金毘羅神が生み出されてから約百年後のことになります。
 宥盛以降、宥睨(正保二年歿)・宥典(寛文六年隠居)・宥栄(元禄六年歿)までの院主を見てみると、彼らは大峯修行も行い、帯刀もしており「修験者」と呼べる院主達でした。

参考文献 

白川琢磨        金毘羅信仰の形成 -創立期の政治状況-

戦国時代末期の金毘羅山内は?
 そこには観音堂・釈迦堂・金比羅堂・三十番社・松尾寺などの諸堂が建ち並び並立する状態でした。その中心は観音さまを本尊とする観音堂=松尾寺でした。そして、この観音堂を守る守護神が三十番社だったようです。
正保年間 金毘羅大権現伽藍図
正保年間 江戸時代初期の金毘羅大権現の宗教空間
そのような中で地元の有力武将である長尾氏出身の修験僧・宥雅が一族の支援を受けて、観音堂の下に金比羅堂を建立します。そこには、讃留霊王の悪魚退治伝説から作り出された守護神・金毘羅神が祀つられるようになります。そして、宥雅はこの金比羅堂の別当として、金光院を開きます。これが金毘羅大権現のスタートです。
 ところで「別当」(べっとう)は、なんなのでしょうか?
 平安末期からの神仏習合では「神が仏を守る」「神が仏に仕える」という「仏が主で、神が従」という考えが広がります。具体的な例としては、東大寺を守るために宇佐から勧進された八幡神が挙げられます。そして、神社を管理するために寺が置かれるようになり、神前読経など神社の祭祀を仏式で行うようになります。その主催者を別当(社僧の長のこと)と呼んだのです。ここから別当の居る寺を、別当寺と呼ぶようになります。神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同じです。
 別当とは、すなわち「別に当たる」であり
「仏に仕えるのが本職である僧侶が、神職の仕事も兼務する」
という意味になるのでしょうか。
 次第に「神社はすなわち寺である」とされ、神社の境内に僧坊が置かれて、僧侶が入り込み渾然一体となっていきます。こうして神社で最も権力をもつのは別当(僧侶)であり、宮司はその下に置かれるようになっていきます。
 神道においては、祭神は偶像崇拝ではありません。
つまり目に見えないのです。神の拠代として、神器を奉ったり、自然の造形物を神に見立てて遥拝します。別当寺を置くことにより、神社の祭神を仏の権現(本地仏)とみなし、本地仏に手を合わせることで、神仏ともに崇拝できることになります。神社側にもメリットが多かったのです。
別当が置かれたからといって、その神社が仏式になったということではありません。
宮司は神式に則った祭祀を行い、別当は本地仏に対して仏式で勤行する「分業」が行われたのです。信者は、神式での祭祀を行う一方で、仏式での勤行も行ったのです。つまり、お経を唱えながら、神事祭礼が行われたのです。こんなことは神仏分離以前は、普通の信仰形態だったのです。明治時代の神仏分離令により、神道と仏教は別個の物となり、両者が渾然とした別当寺はなくなります。
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金比羅堂の別当であった金光院住職・宥盛の戦略は?
   関ヶ原の戦いが終わって、幕藩体制が整えられていくころに金比羅堂の別当となったのは金光院住職の宥盛でした。彼は、仙石権兵衛・生駒親正・一正・正俊の歴代領主から社領の寄進を受け、金毘羅さんの経済的基盤を確立します。
宥盛が背負った課題のひとつが金比羅堂の祭礼を創出することでした。
金比羅堂は宥雅によって建てられたもので、招来したインドの蕃神金比羅神を祀った新来の神でしたので、信者集団が組織されていませんでした。そこで、宥盛が行ったのが三十番社の祭祀を、金比羅堂の祭礼に「接ぎ木」して祭礼儀式を整えることです。三十番社からすれば、御八講の神事・祭礼を金比羅堂に奪われていくことになります。これに対して、三十番社の社人たちの金光院に対する不満は、次第に高まっていきますい。

DSC01222
 
宥盛を鉄砲で殺そうとした三十番社の社人・才太夫  
 金毘羅宮の縁起によると
「金毘羅大権現が入定した廓窟の中に仏舎利と金写の法華経が龍め置かれている」

と伝えられます。この法華経の守り神として三十番神が祀られ、その神殿が観音堂の近くに建てられていました。才太夫は、この三十番神社の社人を勤めていました。生駒家のバックアップを受けた金光院の宥盛の勢いが強くなり、祭祀の改変整備などで三十番社の立場は弱くなり、その収入も減少していきます。つまり、台頭する金毘羅堂、衰退する三十番社という構図です。
 こうした不満が爆発したのが慶長年間、生駒一正が藩主であった頃(1610頃)のことです。
才太夫は、金光院から大権現社に参詣しようとして参道を進んでいた宥盛に鉄砲を射ちかけたのです。が、暗殺未遂に終わり、宥盛を倒すことはできませんでした。才太夫は宥盛の手の者によって捕えられ、一族や関係者の人々と共に高松へ送られて生駒家の手で斬罪に処せられます。今風に言うと
「神に仕える社人による仏に仕える僧侶への殺人未遂事件」
です。
なぜ、殺意を抱くほどに才太夫は、宥盛を憎んでいたのでしょう。ここには、三十番社と金光院との対立が背景にあったようです。

正保年間 金毘羅大権現伽藍図
正保時代の宗教的空間 ①大夫屋敷が神職王尾家

新たに三十番社の社人となった王尾氏について 

この事件で、三十番神の神事を勤める社人がいなくなってしまいました。そこで宥盛は、五條村の大井八幡神社の社人であった王尾市良太夫を、三十番神の神役を兼帯させることにします。
 市良太夫は、長男の松太夫が十四歳の時に妻を失いましたが、数人の子供があったので後妻を迎えます。やがてこの後妻に権太夫・吉左衛門などの子供が生まれるのです。市良太夫は病いのために亡くなる直前に、複雑な家庭の将来を考えてこまごまとした遺言状をしたため、遺産の分配についても指示します。しかし、後妻の子である権太夫が成人すると、遺産の相続について先妻の子である松太夫との間に争いが起きてしまいます。

弟に訴えられた兄・松太郎
 才太夫事件から約40年近く経った1646(正保三)年6月29日、成人した権太夫は目安(訴状)に起請文を添えて兄松太夫を金光院に訴え出ます。この訴訟関係の資料が残っているので、その詳細がある程度分かります。それを見ていくことにしましょう。
 争いの第一は、三十番神の神役の相続問題です。
 松太夫の訴状は、父市良太夫の譲状の内容を詳細に書いてます。そして、幼少であった権太夫のことについては市良太夫が、次のように遺言した記します。
「権太夫の義は、太夫と成るか坊主となるかもわからないから、若し太夫となったならば、三十番神様の神楽(かぐら)を勤めさせるようにしてほしい」

これに対して、弟権太夫は「宥睨様へ継目の御礼を申上候 跡職にて相違御座無く候」と、当時の金光院住職の宥睨に対して「自分が三十番社の正統な後継者である」と反論しています。
争いの第二は、大井八幡神社の神主職など、小松荘の各神社の社頭の神楽と市立の権利と、その収入の分配です。
争いの第三は、父・市良太夫の遺産の分配をめぐるものです。
 この訴状と口答書からは、三十番社の神職である松太夫や権太夫が山内において次第に勢力を失って、生活が苦しくなっていっている様子がうかがえます。訴状の文面からは、兄弟が仇敵のように憎しみ合って、相手を非難攻撃し、妥協のできなくなっていく姿がうかがえます。二人は、互いに相手を攻撃することによって金光院の宥睨に取り入ろうという卑屈な態度をとり続け、兄弟争いで三十番社の神人としての立場を失うことに気付いていないようです。
 この争いは、4年間の和解調定作業を経て、慶安2年6月21日に次のような和解案が成立します。
①松太夫と権太夫が共に三十番神の神役を勤めること
②大井八幡神社の神主職や、市良太夫の遺産相続の解決。
しかし、松太夫と権太夫など王尾一族が骨肉の争いを続けている4年間の内に、彼らの立場は根底的なところ変化していたのです。それは生駒藩から高松松平藩・松平頼重に主導権が移り替わっていたのです。
 当時の高松藩の宗教政策を見てみましょう。
1642年(寛永十九)年に初代高松藩主として讃岐にやってきた松平頼重は、金毘羅さんのために社領の朱印状を幕府から貰い受けることに尽力します。当時の幕府は、各地の寺院や神社が保存している大名からの社領や寺領の寄進状に基づいて朱印状を与え、将軍の代替りごとに書き改めてこれを確認する方法をとるようになっていました。
 そこで1646(正保三)年、金光院宥睨は寺社奉行に社領の朱印状下付を願い出ます。当時は、神仏習合の中で時代で社領と寺領の区別が明らかでなく、また多くの塔頭が並ぶ大きな寺院では、どの院が朱印状を受け取るのかなどをめぐって全国各地で紛争になることがありました。そこで幕府は松平頼重に対して次のように指示しています。
金毘羅の寺家・俗家・領内の者に異議のないことを確かめて、更に願い出るよう

これを受けて高松藩は、藩の寺社奉行間宮九郎左衛門を金毘羅に派遣して、御朱印状を受けることについての異議の有無を確認させます。
 その時期は、松太夫と権太夫が骨肉の争いを繰り返していた時に当たります。
正保3年 1646 金光院宥睨は寺社奉行に社領の朱印状下付を提出。
正保3年 1646 王尾松太夫、権太夫の三十番社等の相続争いの提訴
慶安元年 1648 幕府より330石の朱印状を受け取る。
慶安2年 1649 松太夫と権太夫の訴訟事件が和解成立
寛文10年1670 王尾松太夫、権太夫が江戸に出て訴状を提出
冷静に考えれば、彼らが主張すべきことは次の2点でした。
①松尾寺の本来の守護神は三十番社であること、
②金毘羅神は新参の神であること
この2点を主張し、神人の立場を守ることが賢明な策だったと云えます。例えそこまでは望めなくても、ある程度の留保条件をつけて朱印状を金光院が受けとることを認めることだったのかもしれません。しかし、それは一族が骨肉の争いを繰り広げる中では、神職集団として一致団結して金光院に対応することは望むべくもありませんでした。松太夫と権太夫は、調停者の金光院の歓心をかうために連判状に調印します。こうして三十番社は、金毘羅大権現の別当である金光院の家来であることを誓約します。これは結果的に、今まで金毘羅堂(金光院)と共有していた松尾寺の守護神の座を奪われたことになります。

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金光院が金毘羅山のお山の大将に
 この作業を受けて、頼重は金毘羅山の一門が金光院の家来であることを認めさせ、主要な人々の連判状をとって、正保四年に幕府の寺社奉行に提出します。翌年の1648(慶安元)年に宥典が金光院別当となり、その継目の挨拶に江戸に出府することになります。この時、頼重は家老彦坂繊謬を同行させ、寺社奉行に働きかけ「金毘羅祭祀田三百三十石」の朱印状を受け取らせています。これは、金光院が封建君主として金毘羅山の全山を支配する権力であることが幕府に認められたことを意味します。 
 和解した松太夫と権太夫の兄弟は、揃って三十番神の神役を勤めることになります。
しかし、その地位は金光院の完全な支配下に置かれ、いろいろな圧迫を受けて三十番社の衰退と共に収入も次第に減少します。20年後に  松太夫の長男徳(内記太夫)は、父の松太夫が隠居した後を受けて三十番神の神役を取り仕切ることとなりますが、金光院の圧迫にと横暴に腹を据えかねて幕府を訴えるのです。しかし「それは主君を訴えた従者」として「逆賊」あつかにされ獄門貼付の厳罰に処せられる結果となります。それはまた次回に・・・

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参考文献 
金光院を訴え獄門になった神官たち              満濃町誌1173P

                     
金毘羅全図 宝暦5(1755)年
象頭山金比羅神社絵図

金比羅神が象頭山に現れたのを確認できるのはいつから?
それは宝物館に展示されている元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿の棟札が最も古いようです。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
銘を訳すれば、
表「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」
裏「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」と考えられてきました。しかし、近年研究者の中からは、次のような見解が出されています。
「この時(元亀四年)、はじめて金毘羅堂が創建されたように受け取れる。『本尊鎮座』とあるので、はじめて金比羅神が祀られたと考えられる」
 
 元亀四年(1573)には、現在の本社位置には松尾寺本堂がありました。その下の四段坂の階段の行者堂の下の登口に金比羅堂は創建されたと研究者は考えています。
1金毘羅大権現 創建期伽藍配置

正保年間(江戸時代初期)の金毘羅大権現の伽藍図 本宮の左隣の三十番社に注目

幕末の讃岐国名勝図会の四段坂で、元亀四年(1573)に金比羅堂建立位置を示す
しかし、創建時の金比羅堂には金毘羅神は祀られなかったと研究者は考えているようです。金比羅堂に安置されたのは金比羅神の本地物である薬師如来が祀られたというのです。松尾寺はもともとは、観音信仰の寺で本尊には十一面観音が祀られていました。正保年間の伽藍図を見ると、本殿の横に観音堂が見えます。
 金比羅神登場以前の松尾寺の守護神は何だったのでしょう

DSC01428三十番社
金刀比羅宮の三十番社
それは「三十番社」だったようです。地元では古くからの伝承として、次のような話が伝わります。
「三十番神は、もともと古くから象頭山に鎮座している神であった。金毘羅大権現がやってきてこの地を十年ばかり貸してくれといった。そこで三十番神が承知をすると、大権現は三十番神が横を向いている間に十の上に点をかいて千の字にしてしまった。そこで千年もの間借りることができるようになった。」
これは三十番神と金毘羅神との関係を物語っている面白い話です。
この種の話は、金毘羅だけでなく日本中に分布する説話のようです。ポイントは、この説話が神祇信仰において旧来の地主神と、後世に勧請された新参の客神との関係を示しているという点です。つまり、三十番神が、当地琴平の地主神であり、金毘羅神が客神であるということを伝えていると考えられます。これには、次のような別の話もあります。
「象頭山はもとは松尾寺であり、金毘羅はその守護神であった。しかし、金毘羅ばかりが大きくなって、松尾寺は陰に隠れてしまうようになった。松尾寺は、金毘羅に庇を貸して母屋を奪われたのだ」
この話は、前の説話と同じように受け取れます。しかし、松尾寺と金毘羅を、寺院と神社を全く別組織として捉えています。明らかに、明治以後の神仏分離の歴史観を下敷きにして書かれています。おそらく、前の説話をモデルにリメイクされて、明治期以降に巷に流されたものと研究者は考えています。

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             護国寺・三十番神
三十の神々が法華経を一日交替で守護する三十番神
なぜ三十番社があるのに、新しく金比羅堂を建立したのでしょうか
 院主の宥雅は、それまでの三十番神から新しく金毘羅神を松尾寺の守護神としました。そのために金毘羅堂を建立しました。その狙いは何だったのでしょうか?
  琴平山の麓に広がる中世の小松荘の民衆にとって、この山は「死霊のゆく山」でもありました。その拠点が阿弥陀浄土信仰の高野聖が拠点とした称名寺でした。そして現在も琴平山と愛宕山の谷筋には広谷の墓地が広がります。こうして見ると、松尾寺は称名寺の流れをくむ墓寺的性格であったことがうかがえます。松尾寺は、小松荘内の住人の菩提供養を行うとともに、彼らの極楽浄土への祈願所でもあったのでしょう。ところがやがて戦国時代の混乱の世相が反映して、庶民は「現利益」を強く望むようになります。その祈願にも応えていく必要が高まります。そのために、仏法興隆の守護神としての性格の強い三十番神では、民衆の望む現世利益の神にしては応じきれません。
 また、丸亀平野には阿波の安楽寺などから浄土真宗興正派の布教団が阿波三好氏の保護を受けて、教線を伸ばし道場を各地に開いていました。宥雅は長尾氏の一族でしたが、領内でも一向門徒が急速に増えていきます。このような状況への危機感から、強力な霊力を持つ新たな守護神を登場させる必要を痛感するようになったと私は考えています。これが金毘羅神の将来と勧請ということになります。これは島田寺の良昌のアイデアかもしれませんが、それは別の機会にお話しするとして話を前に進めます。

讃州象頭山別当歴代之記
     讃州象頭山別当職歴代之記(初代宥範 二代宥遍 三代宥厳 四代宥盛)
                   宥雅の名前はない
  正史から消された宥雅と彼が残した史料から分かってきたことは?
 金毘羅堂建立の主催者である宥雅は、地元の有力武士団長尾氏の一族で、善通寺で修行を積んだ法脈を持つ真言密教系の僧侶です。それは宥範以来の「宥」の一文字を持っていることからも分かります。ところが宥雅は金刀比羅宮の正史からは抹殺されてきた人物です。正史には登場しないのです。何らかの意図で消されたようです。研究者は「宥雅抹殺」の背景を次のように考えます。

宥雅の後に金光院を継いだ金剛坊宥盛のころよりの同院の方針」

なぜ、宥雅は正史から消されたのでしょうか?
 正史以外の史料から宥雅を復活させてみましょう
宥雅は『当嶺御歴代の略譜』(片岡正範氏所蔵文書)文政十二年(1829)には、次のように記されています。
「宥珂(=宥雅)上人様
 当国西長尾城主長尾大隅守高家之甥也、入院未詳、
 高家所々取合之節御加勢有之、戦不利後、御当山之旧記宝物過半持之、泉州堺へ御落去、故二御一代之 烈に不入云」
意訳変換しておくと
「宥珂(=宥雅)上人様について
 讃岐の西長尾城主・長尾大隅守高家の甥にあたる。僧籍を得た時期は未詳、
 高家の時に(土佐の長宗我部元親の侵入の際に、長尾家に加勢し敗れた。その後、当山の旧記や宝物を持って、泉州の堺へ政治亡命した。そのため宥雅は、歴代院主には含めないと伝わる入云」
ここには宥雅は、西長尾(鵜足郡)の城主であった長尾大隅守の甥であると記されています。ちなみに長尾氏は、長宗我部元親の讃岐侵入以前には丸亀平野南部の最有力武将です。その一族出身だというのです。そして、長宗我部元親の侵入に際して、天正七年(1579)に堺への逃走したことが記されます。しかし、これ以外は宥雅の来歴は、分からないことが多く、慶長年間(1596~1615)に金光院の住持職を宥盛と争っていることなどが知られているくらいでした。
なぜ、高松の高松の無量寿院に宥雅の「控訴史料」が残ったの? 
ところが、堺に亡命した宥雅は、長宗我部の讃岐撤退後に金光院の住持職を、宥盛とめぐって争い訴訟を起こすのです。その際に、控訴史料として金光院院主としての自分の正当性を主張するために、いろいろな文書が書写されます。その文書類が高松の無量寿院に残っていたのが発見されました。その結果、金毘羅神の創出に向けた宥雅の果たした役割が分かるようになってきました。

金毘羅神を生み出すための宥雅の「工作方法」は?
例えば「善通寺の中興の祖」とされる宥範を、「金比羅寺」の開祖にするための「手口」について見てみましょう。もともとの『宥範縁起』には、宥範については
「小松の小堂に閑居」し、
「称明院に入住有」、
「小松の小堂に於いて生涯を送り」云々
とだけ記されています。宥範が松尾寺や金毘羅と関係があったことは出てきません。つまり、宥範と金比羅は関係がなかったのです。ところが、宥雅の書写した『宥範縁起』には、次のような事が書き加えられています。
「善通寺釈宥範、姓は岩野氏、讃州那賀郡の人なり。…
一日猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。……
神現れて日く、我是れ天竺の神ぞ、而して摩但哩(理)神和尚を号して加持し、山威の福を贈らん。」
「…後、金毘羅寺を開き、禅坐惜居。寛(観)庶三年(一三五二)七月初朔、八十三而寂」(原漢文)
 ここでは、宥範が
「幼年期に松尾寺のある松尾山登って金比羅神に祈った」・・金毘羅寺を開き

と加筆されています。この時代から金毘羅神を祭った施設があったと思わせる書き方です。金毘羅寺とは、金毘羅権現などを含む松尾寺の総称という意味でしょう。裏書三項目は
「右此裏書三品は、古きほうく(反故)の記写す者也」

と、「これは古い記録を書き写したもの」と書き留められています。
このように宥雅は、松尾寺別当金光院の開山に、善通寺中興の祖といわれる宥範を据えることに腐心しています。
 もうひとつの工作は、松尾寺の本尊の観音さまです。

十一面観音1
十一面観音立像(金刀比羅宮宝物館)
宥雅は松尾寺に伝来する十一面観音立像の古仏(滝寺廃寺か称名寺の本尊?平安時代後期)を、本地仏となして、その垂迹を金毘羅神とします。しかも、金比羅神は鎌倉時代末期以前から祀られていたと記します。研究者は、このことについて、次のように指摘します。

「…松尾寺観音堂の本尊は、道範の『南海流浪記』に出てくる象頭山につづく大麻山の滝寺(高福寺)の本尊を移したものであり、前立十一面観音は、これも、もとはその麓にあった小滝寺の本尊であった。」

「松尾寺観音堂本尊 = (瀧寺本尊 OR 称名寺本尊説)」については、また別の機会にお話しします。先を急ぎます。 

さらに伝来文書をねつ造します
「康安2年(1362)足利義詮、寄進状」「応安4年(1371)足利義満、寄進状」などの一連の寄進状五通(偽文書と見られるもの)をねつ造し、金比羅神が古くから義満などの将軍の寄進を受けていたと箔をつけます。これらの文書には、まだ改元していない日付を使用しているどいくつかの稚拙な誤りが見られ、後世のねつ造と研究者は指摘します。
そして神魚と金毘羅神をリンクさせる 
宥雅の「発明」は『宥範縁起』に収録された「大魚退治伝説」に登場してくる「神魚」と金毘羅神を結びつけたことです。もともとの「大魚退治伝説」は、高松の無量寿院の建立縁起として、その霊威を示すために同院の覚道上人が宥範に語ったものであったようです。「大魚退治伝説」は、古代に神櫛王が瀬戸内海で暴れる「悪魚」を退治し、その褒美として讃岐国の初代国主に任じられて坂出の城山に館を構えた。死後は「讃霊王」と諡された。この子孫が綾氏である。という綾氏の先祖報奨伝説として、高松や中讃地区に綾氏につながる一族がえていた伝説です。

 羽床氏同氏は、「金毘羅信仰と悪魚退治伝説」(『ことひら』四九号)で次のように記します。

200017999_00178悪魚退治
神櫛王の悪魚退治伝説(讃岐国名勝図会)
①「宥雅は、讃岐国の諸方の寺社で説法されるようになっていたこの大魚退治伝説を金毘羅信仰の流布のために採用した」
②「松尾寺の僧侶は中讃を中心にして、悪魚退治伝説が広まっているのを知って、悪魚を善神としてまつるクンビーラ信仰を始めた。」
③「悪魚退治伝説の流布を受けて、悪魚を神としてまつる金毘羅信仰が生まれたと思える。」
このストーリーを考えたのは、宥雅ではないと考える研究者もいます。それは、最初に見た元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿棟札の裏側には「高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」と良昌の名前があることです。良昌は財田出身ので当時は、高野山の高僧であり、飯山の法勲寺の流れを汲む島田寺の住職も兼務していました。宥雅と良昌は親密な関係にあり、良昌の智恵で金毘羅神が産みだされ、宥雅が金比羅堂を建立したというのが「こんぴら町誌」の記すところです。

 いままでの流れを整理しておきます。
①金毘羅神は宮毘羅大将または金毘羅大将とも称され、その化身を『宥範縁起』の「神魚」とした。
②神魚とは、インド仏教の守護神クンビーラで、ガンジス川の鰐の神格化したもの。
③インドの神々が、中国で千手観音菩薩の春属守護神にまとめられ、日本に将来された。
④それらの守護神たちを二十八部衆に収斂させた。
 最後の課題として残ったのが、松尾寺に伝来する本尊の十一面観音菩薩です。
先ほども見たように、金毘羅神の本地仏は千手観音なのです。新たに迎え入れた本尊は十一面観音です。私から見れば「十一面であろうと千手であろうと、観音さまに変わりない。」と考えます。しかし、真言密教の学僧達からすれば大問題です。  真言密教僧の宥雅は「この古仏を本地仏とすることによって金毘羅神の由緒の歴史性と正統性が確立される」と、考えていたのでしょう。

          十一面観音立像(重文) 木造平安時代(金刀比羅宮宝物館)

宝物館にある
重文指定の十一面観音立像について、
「本来、十一面観音であったものを頭部の化仏十体を除去した」
のではないかと研究者は指摘します。これは、十一面観音から「頭部の化仏十体を除去」することで千手観音に「変身」させ、金毘羅神と本地関係でリンクできるようにした「苦肉の工作」であったのではないかというのです。こうして、三十番社から金比羅神への「移行」作業は進みます。

それまで行われていた三十番社の祭礼をどうするか?
 最後に問題として残ったのは祭礼です。三十番神の祭礼については、それを担う信者がいますので簡単には変えられません。そこで、三十番社で行われていた祭式行事を、新しい守護神である金毘羅神の祭礼(現世利益の神)会式(えしき)として、そのまま、引き継いだのです。

金毘羅大権現 観音堂行堂(道)巡図
                     観音堂行道巡図
      明治以前の大祭は、金毘羅大権現本殿ではなく観音堂の周りで行われていた

こうして金毘羅権現(社)は、松尾寺金光院を別当寺として、象頭山一山(松尾寺)の宗教的組織の改編を終えて再出発をすることになります。霊力の強烈な外来神であり、霊験あらたかな飛来してきた蕃神の登場でした。

讃岐琴平 草創期の金比羅神に関しての研究史覚え書き 

金比羅神については色々なことが伝えられているが、研究者の間ではどのようなな見解が出されているのかをまずは知りたかった。そのために金比羅神の草創期に絞って図書館で見て取れる範囲で、書物にあたってみた。その報告である。

まずは、金毘羅大権現についての復習

①仏教の神のひとつで、日本では海上の守護神としてひろく信仰。
②ガンジス川のワニの神格化を意味するサンスクリットのUMBHIRA(クンビーラ)の音写。
③薬師如来にしたがう十二神将のひとつ
④金毘羅信仰で有名な金刀比羅宮は、もとは松尾寺という寺院。
⑤その伽藍の守護神だった金毘羅神を、信仰の中心とするようになり、金毘羅大権現と称した。
⑥インドでは、この神の宮殿は「王舎城外宮比羅山」で、これを訳すると象頭山。
⑦そのため金刀比羅宮がある山は象頭山とよばれる。
⑧大物(国)主神を金比羅神(大黒天)と同一視し主祭神
⑨金比羅を「こんぴら」と呼ぶのは江戸っ子の発音。正しくは「ことひら」(これは後の神道学者の言い出したこと)
⑩仏や菩薩が、衆生救済のために神などの仮の姿をとってあらわれる神仏習合がすすみ、本地垂迹思想がおこると、神々は仏や菩薩の権化と考えられるようになった。
⑪明治維新の神仏分離で権現号は廃されたが、通称として生きつづけている。
以上のことは定説。それでは金比羅信仰がいつ、どのように作り出されてきたのかをめぐる論考に当たっていきたい。

小島櫻礼「金比羅信仰」1961年

①金比羅山の頭人制は、古い神を祭る祭礼であり村の神的な性格
②松尾寺の守護神であった神が、江戸初期に急速に発展した背景は?
③金比羅を金比羅として祭らず、ある日本古来の神として祭っていた江戸以前
④何か新しい「外部的な動機」によって、「流行(はやり)神」として全国的な信仰獲得?
⑤仏典に見える「金比羅竜王説」
⑥金比羅=留守神=蛇・竜=農業神的な性格
 古風な固有信仰の中核である農神が水神の性格を持ち蛇体・竜
 習合以前の「原金比羅信仰」は農神の痕跡
 ここの鰐を神体とする金比羅という外部の神が勧進
龍神⇒⇒海神⇒⇒船人の神へという転換
地元の龍神が、「外部の信仰」を引き寄せて全国展開へ
地元の信仰から原金比羅信仰に迫るために、金比羅祭礼の詳細な記述と分 析が今後の重要な作業。
⑦この信仰を説いたのはいかなる人たちか⇒⇒聖による流布?

  近藤喜博「山頂の菖蒲」1960年
問題意識 
金比羅という異国の神が、どうして琴平に勧進されたのか?
①「あり嶺よし」としての象頭山(万葉集1-62)
あり嶺よし 対馬の渡り 海中に 弊取り向けて はや還り来ぬ」

*航海上高く現れて目立つ山で「よき山」
*「海中に 弊取り向けて」は、航海安全の祈り。弊とは?奉弊上の幣帛?
古代の航海にあって「雷電・風波」は最も危険で恐れられたもの。
潮待ち風待ちの港の背後の山の「雲気」の動静は、関心事の最大
*弊串として串との一体で考慮。初穂・流し樽へ
②コトヒラ・コトビキの地名由来
*航海の安全を祈るために、「琴を引く」風習の存在
*播磨風土記の「琴の落ちし処は、即ち琴丘と名づく」
*本殿と並び立つ「三穂津姫社」の存在は、何を意味する?
③伴信友の延喜式社「雲気神社」は、「金刀比羅神社」説?
*「ありみねよき琴平山への海洋航海族の憧憬を雲気神社に」
*後に農耕神となり、雨乞いなどを祈り捧げる山へ
*周防国熊毛郡の式内社「熊毛(雲気)神社」も同じ性格
④「琴平山」の「原始雷電信仰」の痕跡が山上の竜王池
        *かつては大麻神社が管理。7月17日に祭神
*龍蛇は雷電に表裏したもの。稲妻は葦や菖蒲のシンボルへ
*稲妻⇒⇒稲葉⇒⇒因幡⇒⇒岐阜の伊奈波神社
⑤崇徳上皇の怨霊            
*保元物語の死に際に大魔王へ「怨念によりて、生きながらに天狗の姿に」
 都に相次ぐ不祥事を払うために白峰宮建立
*同時に讃岐に起こる風塵も崇徳上皇の怨念で、これを鎮めることが必要?
*そのような「怨霊」=「雷電神」=「天狗」を祭る鎮魂の社殿建設?
*京都北野の雷電信仰の上に、道真の「雷神=天神」が合祀され北野天満宮へ
*天狗は「天津鳥」で、「高津神」「高津鳥」(火の鳥)につながる系譜
*火の鳥は雷神の使令
          天狗の正体は烏で、人間の怨霊と結びついたもの?
 ⑥菖蒲の呪力
*菖蒲による人間への復活説話の意味 剣状のの植物の神聖さ
*雷電を避ける呪力のある菖蒲=「剣尖に座す神々」の存在=鉾
*竜王池の菖蒲の意味は?
*「大麻神社」の麻も長剣状葉の持つ呪術性の延長線上に
 ⑦本殿奥の神窟の存在
*讃岐国名勝図会
 「神の廟の巌窟に鎮座し、一社の深秘にて他に知ること無し」
*禁足林の存在。三十番社の大木の麓に岩窟⇒⇒古来以来の聖地
*雷=鬼の姿で表現。その巣が洞窟

武田明「金比羅信仰と民俗」

①死霊の赴き安まる山としての琴平山⇒⇒修験道の信仰の山へ
 *かつての行者堂の存在
 *降雨を祈る山
②金比羅山の祭礼=明治以前の神事の復元
*荘官と呼ばれる七軒の頭人
③地主神としての三十番神社
*あとからやってきた客神としての金比羅神
「この地を十年貸してくれ」⇒⇒十の上に点を付けて千年へ
④大祭後の心霊は、箸蔵山に天狗として去っていく?修験道の影響?
⑤地元の神としては、農耕神の雨乞い神として信仰
金比羅神は竜神、別名「金比羅龍王」
⑥恵比寿信仰は大漁神で、漁師の信仰⇒その後に、金比羅信仰の流行
 *漁民には入り込む余地がなかったので、航海者たちに浸透
 *金比羅神と山から吹き下ろす風の関係⇒⇒海難救助の神へ
⑦「象頭山金比羅大権現霊験記」(1769)の海難よけ信仰霊験集
 *このような霊験を伝播させたのは誰か?
 *天狗の面を背につけ、白装束に身を固めた「金比羅道者」の流布
 彼らによる金比羅講の組織
 *金比羅山から吹き下ろす風に乗って現れる金比羅大権現が海難から救う
*神窟からの風?
⑧代参講としての金比羅講
 *講の加入者が講金を集めて代参を立てる。代参しお札をもらい土産を買う。旅のおみやげという習慣は、この代参から来ているのかもしれない。
*各地の講からの寄進を請け、はやり神となった金比羅神の発展
⑨巨大な流行り神となっても古い信仰の名のこりを残す金比羅山

松原秀明「金比羅信仰と修験道」

①修験道の象頭山
*ふたのない箱に大きな天狗面を背中に背負った金比羅詣での姿
*修験道者のシンボルとしての天狗
*道中の旅を妨げる悪霊をはらうおまじない。弘法大師の「同行二人」的
*日柳燕石
「夜、象山に登る 崖は人頭を圧して勢い傾かんと欲す。
 満山の露気清に堪えず、夜深くして天狗きたりて翼を休む。
 十丈の老杉揺らいで声有り」 天狗はムササビ?
 *江戸時代の人々は、金比羅の神は天狗、象頭山は修験道の山という印象
②象頭山を騙る修験道者の出現
 *修験道系の寺院や行者による「金比羅」の使用
 *修験者が多数いた箸蔵寺は「奥の院」と称して執拗に使用
③金比羅神飛来説とその形は?
 *生身は岩窟鎮座。ご神体は頭巾をかぶり、数珠と檜扇を持ち、脇士を従える。これは、修験道の神そのもの 飛来したというのも天狗として飛行?
④天正前後の別当住職の修験道的な色合い
*長尾氏一族の宥雅⇒⇒長宗我部配下の宥厳⇒⇒宥雅の弟子の宥盛
*宥厳の業績の抹殺と宥盛の業績評価という姿勢

宮田 登「江戸の民間信仰と金比羅」

①19世紀初頭の都市市民の信仰タイプ → 流行神  
 *個人祈祷型で現世利益が目的。仏像・神像が所狭しと配列。
 *それぞれが分化した霊験を保持し、庶民の願掛けに対応。
 *農村部においても氏神の境内に、摂社末社が勧進
 *流行神のひとつとしての金比羅神
②江戸大名屋敷に祀られた地方神の流行
 *江戸に作られた大名屋敷に領地内の霊験あらたかな神を勧進
 *その屋敷神が一般市民に、月の10日に解放される機会あり
  大勢の人が参拝し、市が立つほどの賑わいへ⇒金比羅講の形成へ
   金刀毘羅宮
  虎ノ門をさらに名所にしたのが金刀毘羅大権現である。
讃岐国丸亀藩主の京極高和が、万治3年(1660)国元の本宮から三田藩邸に分祀。藩邸内に祀られた金比羅宮に塀の外から賽銭を投げ込んで参拝するほど江戸市民の熱烈な信仰を集め、毎月10日に限り邸内を開き参拝を許可した。

以上から推論できること

1 金比羅神草創は古代・中世の古くまで遡るものではない。
2 戦国末の天正年間に新たに作り出された神である。
3 その契機は、長宗我部元親の讃岐侵攻と四国平定事業と関わりがあるのではないか。
4 長宗我部支配下の修験道僧侶による金光院支配。
  新たな四国平定事業のモニュメント的な神の創設と宗教施設が求められたのではないか。
5 金比羅神草創から流行神流布まで、その中核には金光院別当を中心とする修験者たちの存在あり。
6 松尾寺別当金光院から金毘羅神別当金光院への転身の背景は?
7 生駒家による330石の寄進と山下家の系譜は?




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