琴平町の金丸座の下にある真言宗松尾寺は、現在でも「金毘羅大権現を祀る寺」という看板を掲げています。
明治の神仏分離の際に、象頭山金毘羅大権現の別当寺の金光院や塔頭の僧侶が還俗し、神社化するなかで、松尾寺(普門院)は時流に従わずに金毘羅大権現を仏式で祀り続けようとします。そのため松尾寺と金毘羅宮の間では、明治末に裁判にもなっています。
明治の神仏分離の際に、象頭山金毘羅大権現の別当寺の金光院や塔頭の僧侶が還俗し、神社化するなかで、松尾寺(普門院)は時流に従わずに金毘羅大権現を仏式で祀り続けようとします。そのため松尾寺と金毘羅宮の間では、明治末に裁判にもなっています。
神仏分離の廃仏毀釈の際には、山内の諸堂宇にあった仏さんのいくつかが難を逃れて「避難」してきています。その中に、弘法大師坐像があります。調査の結果、この像の内側には造立銘記が発見されました。そこから文保三年(1319)正月に二人の仏師によって作られたことも分かってきました。今回は、この弘法大師座像をみていくことにします。
テキストは 「三好 賢子 松尾寺木造弘法大師坐像について 県ミュージアム調査研究報告第2号 2010年」です。この報告書を片手に見ていくことにします。
予備知識として、次の4点を抑えておきます。
①銘がある弘法大師像としては、県内最古のもの②後世に表面を彩色され、本来の風貌からやや遠のいている③しかし、まなざしが穏やかで、他の像にはない温和な親しみやすい顔立ちである④平成21年3月に、県指定有形文化財の指定を受けた。
まずは全体像について、テキストには次のように記されています。
椅子式の林座に践坐する通例の弘法大師像で、胸をはって上体を起こし、顔は正面を向き、視線をやや下方に落とす。頭部は円頂、後頭部下位はわずかに隆起し、首元はなだらかにつくる。鼻は鼻先の丸みが強く、鼻孔をあらわし、口は小さめで唇も薄く、一文字に結ぶ。右手は強い角度で屈腎して胸前で五鈷杵をとり、左手は膝上におろして数珠をとる。着衣は、内から覆肩衣、措、袈裟をまとう。覆肩衣は領を重ね合わし、ゆるくつきあわせて胸元を大きくひらく。腹部中央に祖を結びとめる紐をのぞかせる。左肩にはまわしかけた袈裟をとめる鈎紐をあらわす。体幹部の正中線からみて頭部はやや左に傾いている。眉はわずかな稜線でうっすらとあらわされ、彩色が落ちた現状では眉の存在を捉えにくい。鼻はそれほど高くなく、鼻先が肉づさのよい団子鼻であり、目が上瞼線をゆるやかに下げ、耳や眉とともに左右非対称であることなどもあって、理想的に整えられた顔というよりは、現実的に存在するかのような人間味をもった顔貌である。
【品質構造】
ヒノキ材 寄木造 玉眼嵌入 本堅地彩色仕上げ
空海の肖像(御影)は、「真如親王様」と呼ばれる形式が多いようです。真如親王が書いたと云われる高野山御影堂の根本像のスタイルです。それは、やや右を向いて(画面では向かって左へ顔をむける)椅子式の鉢座に座って、左手に五鈷杵、右手に数珠をとる姿です。
彫像も真如親王様のスタイルが多いようですが、向きが横ではなく正面を向くものがほとんどです。しかし、彫刻は、生きて永久の瞑想に入ったとする入定信仰を、具体的に意識させるために正面に向けた姿となっていることが多いようです。
この像も、着衣方法などは真如親王様と同じで、テキストは次のように解説します。
胸元をひろく開けて覆肩衣を着し、腹部に祐の結び紐をのぞかせ、袈裟は偏祖右肩にまとい、左肩に袈裟をとめる鈎紐をあらわす。また、袈裟は左肩にて懸け留められる部分の下方の端が、左腕外へもたれ、その下にまわされている袈裟(かけ初めの部分)は、下端が右は膝頭にかかって膝下に垂れ込み、左端は膝前に畳まれている。このような左腕にかかる袈裟の処理は、画像・彫像を問わず空海像に共通してみられるものである。胸前から左肩にかかる袈裟が上縁を折り返し、その縁端が波うつようにたわむのも、空海像に共通してみられるものだが、本像では、わずかにうねる曲線の表現にとどまる。近い時期のものとして、和歌山遍照寺像や奈良元興寺像と比較してもその違いは明らかである。
研究者にとって袈裟の表現が気になるようです。
「左肩の袈裟が波打つようにたわむ」表現が乏しく、絵画の描線のような硬さをぬぐいきれないと云うのです。さらに全体を通してみても、衣文や衣の動きには誇張的な表現もないかわりに、メリハリの効いた躍動感も乏しい。動的というよりは静的であり、穏やかにまとめられている」
このような印象を受けるのは、仏師が画像を手本に造ったためではないかと研究者は考えているようです。
さて、この像の面白いのはここからです。 像の底です。
一木造りではなく、いろいろな木が寄せられて作られている寄木造りあることが、板から見るとよく分かります。内部は空洞で、底が半月型の底板がはめられていたようです。これは、後世にはめられたします。
その底板を外して中を見ると・・・・
びっしと文字が書かれています。墨書銘です。そして、この中央付近には、後世に入れられた木製五輪塔が打ちとめられ、その五輪塔の側面にも墨書銘が記されていました。
文字は、像の背面部を、平らに彫り整えたところへ墨書されています。筆は一貫していて、制作当初の造像記とみて間違いないと研究者は判断します。一番右側の一行が「讃岐国 仲郡善福寺 御木願主」と見えます。
ここには次のように記されていました。
讃岐国 仲郡善福寺 御木願主弘法大師御形像壹鉢右奉為 金輪聖皇天長地久御願圓満 公家安穏 武家泰平常國之事 留守所在庁郡内郷内庄内安楽 寺院繁昌惣一天風口(寫)四海口(温)泰乃至法界衆生平等利益也敬白大願主夏衆 偕行慶 偕宗円文保三年己未正月十四日造立始之大佛師唐橋法印門弟法眼定祐小佛師兵部公定弁
像の内部の造立銘記を見ていきましょう。
先ほど見たように「讃岐国仲郡 善福寺 御本願主」で始まります。最初にあれ?と思うのは。願主が「善通寺」でなく「善福寺」なのです。この寺は、角川地名辞典やグーグル検索でも出てきません。史料にも出てこない、私の知らない未知の寺です。こんな寺が中世の仲郡にはあったようです。
研究者は「讃岐国仲郡善福寺御本願主」は「弘法大師」にかかる修辞句で「善福寺本願主の弘法大師」となるとします。善福寺という寺は弘法大師を本願主とする由緒をもっていたことになります。ここからは、願主は善福寺までは分かりますが、作られた本像がどこへ安置されたのかは分かりません。どうして、善福寺が大師本願寺だという由緒だけを書く必要があるのでしょうか。安置先が書かれないのは不自然です。
研究者は、銘記の書き振りを再度確認し「讃岐国仲郡」「善福寺」「御本願主」の語句それぞれは間をやや離して記されていることに注目します。そして「讃岐国仲郡善福寺」「善福寺御本願主」と二つの語句を記すところを、「善福寺」の語が重なるのを避けたのではないかという「仮説」を出しています。そして「讃岐国仲郡善福寺、当寺御本願主」と理解し、弘法大師本願の善福寺が、自分の寺に安置したとします。しかし、この善福寺についてはこれ以上は分かりません。
造られた年については「文保三年(1319)己未正月十四日造立始之」とあります。
当時の仲郡や多度郡の宗教界の様子を年表で見ておきましょう。
1300 正安2 3・7 本山寺(現,豊中町)本堂(国宝),造営される.
1307 徳治2 11・- 善通寺の百姓ら,寺領一円保の絵図を携え,本寺随心院へ列参する
1308 延慶1 3・1 金蔵寺,火災にあい,金堂・新御影堂・講堂以下の堂舎が焼失する
この年 僧宥範,善通寺東北院に入る(贈僧正宥範発心求法縁起)
1310 延慶3 3・- 善通寺蔵銅造阿弥陀如来立像,鋳造される.
1312 正和1 10・8 三野郡本山寺二天像,造り始める.130日で完成
1324 正中1 この年 白峯寺十三重塔.建立される.
1326 嘉暦1 この年 熊手八幡宮(現,多度津町)五輪塔,建立される.
1330 元徳2 4・8 僧隆憲,三野郡詫間荘内仁尾浦の覚城院本堂の再建
1336 建武3 2・15 足利尊氏,那珂郡櫛無社地頭職を善通寺誕生院宥範に寄進
1341 暦応4 7・20 守護細川顕氏,宥範に善通寺誕生院住持職を安堵
1338~42 善通寺誕生院宥範,善通寺五重塔などの諸堂を再興
1338~42 善通寺誕生院宥範,善通寺五重塔などの諸堂を再興
すぐに気がつくのは、現在の四国霊場の本山寺の本堂が建てられ、二天像が造られるなど活発な造営活動を展開しています。それ以上に目立つのが善通寺です。14世紀の前半は、宥範が登場し、善通寺の復興を進めている時です。この弘法大師像が造られたのも、中世の善通寺ルネサンス運動の流れの中でのことのようです。
願主として「大願主夏衆 偕行慶 偕宗円」と記されています。
これについては、研究者は次のように読み取ります
①「大願主夏衆」は「偕行慶」「偕宗円」両者にかかるもので、どこの寺院に属する僧かは分からない。「夏衆」は寺院によって、夏安居の修行僧をさす場合と、諸堂に勤仕する堂衆などのうち、仏への供花の役割を担った偕をさす場合のふたつがある。②両名は「大願主」であったが、ほか複数の願主もいた可能性もある。願文のいう、公家の安穏、武家の泰平、讃岐国、そして留守所も在庁も、郡、郷、庄内いたるところすべての安楽を願うといった内容は、多くの僧俗が願主となっていたからだと思える。
③本像の造立には、地域の多くの僧侶や信者が関わっていたことが考えられる。
そして、この像が作られた時には、体内に造仏に関係した人々の名を記した納入品などが入れられたと研究者は考えているようです。
次にこの像を作った仏師について見てみましょう。
「大佛師唐橋法印門弟 法眼定祐 小佛師兵部公定弁」と記されます。しかし「定祐」「定弁」の二人の仏師については何も史料がないようです。四国内では「定」をがつく仏師として、嘉暦二年(1327)二月、金剛頂寺板彫真言八祖像の大仏師法眼定審がいます。彼は院保の師事してに従っての造像が知られ、院派仏師のひとりのようです。また、正応四年(1291)四月、禅師峯寺金剛力士像の仏師・定明がいます。しかし、二人共に「定祐」「定弁」との関連性はないようです。地方仏師として「定」の名を冠して活動した一派が、活動していたのかもしれませんが、現在の所は分かりません。
「大佛師唐橋法印門弟 法眼定祐 小佛師兵部公定弁」と記されます。しかし「定祐」「定弁」の二人の仏師については何も史料がないようです。四国内では「定」をがつく仏師として、嘉暦二年(1327)二月、金剛頂寺板彫真言八祖像の大仏師法眼定審がいます。彼は院保の師事してに従っての造像が知られ、院派仏師のひとりのようです。また、正応四年(1291)四月、禅師峯寺金剛力士像の仏師・定明がいます。しかし、二人共に「定祐」「定弁」との関連性はないようです。地方仏師として「定」の名を冠して活動した一派が、活動していたのかもしれませんが、現在の所は分かりません。
体内からは,木製の五輪塔が出てきました。
四本出てきたのではありません。それぞれ別の角度から写しています。一番右側の正面に書かれた文字を見てみましょう。
まず上から梵字五字でキャ、カ、ラ、バ、ア)で、五輪法界真言で。東方のことのようです。
その下に
権大僧都宥盛逆修 善根
とあります。宥盛と云えば、金毘羅さんの正史が金毘羅大権現の開祖とする人物です。現在の金毘羅宮でも、その功績をたたえて彼を神として、奥社に祀っています。奥社に祀られているのは、宥盛です。
これが入れられたのは、いつなのでしょうか?
「右側面」には、梵字五字で北方と記され、その下に
慶長九(1604)年甲辰三月廿一日敬白
と記されています。宥盛の活躍した年代とぴったりとあいます。
これはいったいどういうこと? どうして宥盛の名前が入った五輪塔がでてくるのでしょうか。
五輪塔と一緒に二つ折りにして収められていたのが次の文書です。
五輪塔と一緒に二つ折りにして収められていたのが次の文書です。
これも分かりやすい字体で、私にも読めそうな気がするくらいです。花押と重なっていますが、その上の二文字は宥盛と読めます。研究者は、先ほど見た五輪塔とこの文書の筆跡は同一人物だと判断しています。つまり、宥盛自筆の文書であり、宥盛の花押ということになります。ふたつは、慶長九年(1604)、空海忌日の3月21日に、金光院住職宥盛が書いたものにまちがいないようです。
木製五輪塔の納入文書にの内容を見てみましょう
敬白真言教主大日如来両部界会一切三宝境界而奉採造弘法大師一鉢並三間四面御影堂一宇常山中古開山沙門権大僧都法印宥盛令法久住志深而偏咸端権現御前カタメ祈諸佛加被権現御前ヒレフス或時権現有御納受神変奇特顕ワル誠照不思儀一天是故一拝暫所望起叶悉地壹不崇哉不可仰々々々文爰貴賤上下投金銀弥財事春雨之閏似草木爰以僧都宥盛無比誓願ヲマシテ堂社佛閣建寺塔造佛像常山一カ建立畢如斯留授縁待慈尊成道春而已于時慶長九甲辰三月廿一口]常山中古開山沙門法印宥盛
(花押)奉供養佛舎利全粒二世安全所
これを入れたのは、先ほど見たように、象頭山金光院の宥盛です。
弘法大師像に奉採造(彩色)し、併せて三間四間の御影堂を山内に再建したとあります。その際に、宥盛自らが金毘羅大権現の御前で諸仏に祈ったようです。ここからは、弘法大師像が再興(本当は新建立?)された御影堂本尊として開眼されたことが分かります。「奉採造」とあるので、今の表面彩色は、この時に施されたようです。
この像の足取りを整理しておきましょう
①弘法大師像は「文保三年(1319)」に仲郡の善福寺に安置
②慶長九年(1604)、金光院住職宥盛によって新しく建立された御影堂の本尊として再デビューした。その時にお色直しされた。
②慶長九年(1604)、金光院住職宥盛によって新しく建立された御影堂の本尊として再デビューした。その時にお色直しされた。
ということでしょうか。
次の疑問は、どうして、金毘羅大権現にやってきたのかということです
「仏像は栄えるお寺に自然と集まる。それは財力のあるお寺なので、集まってきた仏さんたちのお堂をつくることもできる。いまの四国霊場のお寺が良い例ですわ」
というのが私の師匠の言葉です。この大師さんは、善福寺が廃寺となり、勢いの出てきた金光院に移ってきたようです。それが宥盛の時代であったという所が私には引っかかります。
金光院の宥盛について「復習」し、ひとつのストーリーを考えます。
流行神としての金比羅神を造りだし、金比羅堂を建立したのは、長尾城主の弟と云われる宥雅でした。しかし、宥雅は長宗我部元親の讃岐侵攻の際に堺に亡命を余儀なくされます。変わって金光院院主の座についたのは、元親に従っていた土佐出身の修験者宥厳でした。土佐勢が引き上げ、宥厳も亡くなると、金光院院主の正統な後継者は自分だと、堺に亡命していた宥雅は、後を継いでいた宥盛を生駒藩に訴えます。その際に宥雅が集めた「控訴資料」が発見されて、いろいろ新しいことが分かってきました。その訴状では宥雅は、弟弟子の宥盛を次のように非難しています
①約束のできた金比羅堂のお金を送らない②称明寺という坊主を伊予国へ追いやり、③寺内にあった南之坊を無理難題を言いかけて追い出して財宝をかすめ取った。④その上、才大夫という三十番社を管理する者も追い出して、跡を奪った
宥雅の一方的な非難ですが、ここには善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神などの旧勢力と激しくやりあい、辣腕を発揮している宥盛の姿が見えてきます。新興勢力の金光院が成り上がっていくためには、山内における「権力闘争」を避けることができなかったことは以前お話ししました。
このような「闘争」の結果、金毘羅大権現別当寺としての金光院の地位が確立して行ったのです。宥盛の金光院を発展させるための闘争心を感じます。当時に「無理難題を言いかけて追い出して財宝をかすめ取った」という宥雅の指弾からは、追放したり、廃寺に追い込んだ寺から仏像・仏具類の「財宝」を「収奪」したことがうかがえます。善福寺から奪ってきた弘法大師像を本尊として、新たな信仰施設を「増設」したのではないかとも思えてきます。
当時の宥盛の布教活動は、非常に活発なものであったようです。金比羅神は何にでも権化する神なのです。それは、時として弘法大師にも権化したのかもしれません。
大師堂は明治維新まで境内にあったようです。
志度の多和神社社人で高松藩皇学寮の教授であった松岡調が、金刀比羅宮に参詣したおりのことを『年々日記』に記しています。明治二年(1869)四月十二日条によると、神仏分離で神社化の進む境内を見て
「護摩堂・大師堂なと行見に内に檀一つさへなけれ」
と記しています。ここからは大師堂はあったことが分かります。しかし、その中に安置されていた弘法大師像は、この時すでに外へ移されていたようです。「内に檀一つさへなけれ」と堂内は空っぽだったと伝えます。
松岡調は、翌年には金刀比羅宮の禰宜に就任し、実質的な運営を彼が行うようになります。
明治5年5月になると、県にお伺いを立てて「入札競売を行い、売れ残った仏像・仏具は焼却処分にして宜しいか」と、問い合わせています。そして、県からの許可を得た6月末から仏像仏具などの競売が行われます。
松岡調の『年々日記』の明治5年6月から7月にかけては、次のような記述があります。(『年々日記』明治五年 三十三〔6月五日条〕
6月5日 今日は五ノ日なれは会計所へものせり、梵鐘をあたひ二百二十七円五十銭にて、榎井村なる行泉寺へ売れり、
7月10日 れいの奉納つかうまつりて、会計所へものセり、明日のいそきに、司庁の表の書院のなけしに仏画の類をかけて、大よその価なと使部某らにかゝせつ、百幅にもあまりて古きあり新きあり、大なるあり小なるあり、いミしきもの也、中にも智証大師の草の血不動、中将卿の草の三尊の弥陀、弘法大師の草の千体大黒、明兆の草の揚柳観音なとハ、け高くゆかしきものなり、数多きゆえ目のいとまハゆくなれハ、さて置つ
7月11日 御守所へものセり、十字(時)のころより人数多つとひ来て見しかと、仏像なとハ目及ハぬとて退り居り、かくて難物古かねの類ハ大かたに買とりたり、或人云、仏像の類ハこの十五日過るまて待玉へ、此近き辺りの寺々へ知セやりて、ハからふ事もあれハと、セちにこへ口口口口口、
7月19日 すへて昨日に同し、のこりたる仏像又売れり、けふ誕生院(善通寺)の僧ものして、両界のまんたらと云を金二十両にてかへり、
7月21日 御守処へものセり、今日又商人つとひ来て、とかく云のヽしれハ、入札と云事をものして、刀、槍、鎧の類を金三十両にてうり、昨日庁へ書出セしを残置て、其余のか百幅にもあまれるを百八十両にてうり、又大般若経(大箱六百巻)を三十五両にて売りたり、今日にてワか神庫の冗物ハ、大かたに売ハてたり
7月23日 御守所へものセり、元の万燈堂に置りし大日の銅像を、今日金六百両にてうれり
ここには具体的に買手がついたものとして、次のようなものが挙げられています。
①梵鐘が、榎井村の行(法)泉寺へ227円50銭で②両界曼荼羅が善通寺へ金20両で③刀、槍、鎧の類が金三十両で落札され④万燈堂にあった大日入来の銅像は金六百両で
そして買い手のなかった仏像・仏具類は焼却されます。この中に、松尾寺の弘法大師像は入っていなかったのです。
どのようにして松尾寺にもたらされたのでしょうか?
どのようにして松尾寺にもたらされたのでしょうか?
①松尾寺が入札し、買い受けた②混乱の中で密かに、松尾寺に運び入れた。
先ほどの入札売買リストの中に弘法大師像はありませんでした。それ以前に、すでに松尾寺に運び込まれていたのかもしれません。
最後に、この座像のたどった道をまとめておきます。
最後に、この座像のたどった道をまとめておきます。
①14世紀に善福寺②17世紀初頭に金毘羅大権現の金光院へ③明治の神仏分離で松尾寺へ
という変遷になるようです。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 三好賢子 松尾寺木造造弘法大師坐像について
県ミュージアム調査研究報告第2号 2010年
参考文献 三好賢子 松尾寺木造造弘法大師坐像について
県ミュージアム調査研究報告第2号 2010年