松尾寺の本堂観音寺
神仏分離以前の松尾寺の本堂観音寺堂と、その本尊十一面観音立像です。前回は、この観音堂がもともとは、現在の本宮の位置にあったこと、それが金毘羅神が流行神として信仰を集めるに従って、その場所を金毘羅大権現に明け渡し、この地に移ってきたことを見ました。観音堂の南側には、籠堂や通夜堂などもあり、観音信仰の拠点として活動していたことがうかがえます。それが明治の神仏分離で大きく姿を変えて、観音堂は撤去され、現在の別宮(三穂津姫社)が現れることになります。今回は、その経緯を見ていきます。テキストは「金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮」です。①三十番神社 廃止し、その建物を石立社へ②阿弥陀堂 廃止し、その建物を若比売社へ③観音堂 廃止し、その建物を大年社へ④金堂 廃止し、その建物を旭社へ⑤不動堂 廃止し、その建物を津嶋神社へ⑥摩利支天堂・毘沙門堂(合棟):廃止し、常盤神社へ⑦孔雀堂 廃止し、その建物を天満宮へ⑧多宝塔 廃止の上、明治3年6月 撤去。⑨経蔵 廃止し、その建物を文庫へ⑩大門 左右の金剛力士像を撤去し、建物はそのまま存置⑪二天門 左右の多聞天像を撤去し、建物はそのまま中門へ⑫万灯堂 廃止し、その建物を火産霊社へ⑬大行事社 変更なし、後に産須毘社と改称⑭行者堂 変更なし、大峰社と改称、明治5年廃社⑮山神社 変更なし、大山祇社と改称⑯鐘楼 明治元年廃止、取払い更地にして遙拝場へ⑰別当金光院 廃止、そのまま社務庁へ⑱境内大師堂・阿弥陀堂は廃止
その翌年(明治2(1869)年4月、「事比羅宮」(旧金毘羅大権現)を多和神社社人の松岡調が参拝しています。彼の日記『年々日記』同年4月12日条に、次のように記されています。(意訳)
4月12日 護摩堂、大師堂なども見てまわったが、①堂内には檀一つも置かれていない。それを見た老女が涙を流しながら「かしこき事よ」と呟いた表情が、印象に残った。本宮に詣て、拝殿に上り拝奉した。御前の様子は御撫物は、もとのままであるが、②その他は全て神式に改められていた。白木の丸い打敷のような物に、瓶子が置かれ、平賀のさましたる器に、③鯛が2匹が供えられていた。参拝する人々の中には、生ものが供えられていることに驚く者もいたが、私はその心遣いが上古よりのものであり、こよなく貴いものをと思った。絵馬堂を見て、階段を下ろうとすると観音堂も金堂も十王堂も皆、③仏像は取り除かれている様子で、その跡に御簾をかけて、白幣を立置いてあった。
この日記からは、仏教伽藍から神社へのリニューアルが進む明治2年の金刀比羅宮の様子が見えて来ます。仏像仏具に関しては、次のように「廃仏毀釈」されています。
①護摩堂、大師堂などの、堂内には仏像はもちろん檀一つも置かれていない。②拝殿も全て神式に改められ生ものの鯛も供えられていた。③観音堂も金堂(現旭社)も十王堂も、仏像は取り除かれ、その跡に御簾をかけて白幣を立置かれてあった。
③からは観音堂も仏像が撤去されて、御簾がかけられていたことが分かります。そして、寺院時代には備えられたことのない生身の鯛が御供えされています。寺院から神社への転換が象徴的に記されています。
松岡調の日記からは仏像たちがお堂から撤去され、神仏分離が急ピッチで進行していたことが分かります。ちなみに、これから3年後の明治5年〔1872〕1月27日に松岡調は、金刀比羅宮の禰宜に就任し、「近代化」を進めていく立場に立つことになります。そのために行ったことが神仏混淆色を拝した神道施設の建立です。具体的には、今までの金毘羅大権現の本殿を撤去して、新しい本宮を建てると云うことになります。その前に本宮の神々の一時的な遷宮先を確保する必要がありました。そこで着手されたのが別宮建立です。以上をもう一度整理すると以下のようになります。
松岡調の日記からは仏像たちがお堂から撤去され、神仏分離が急ピッチで進行していたことが分かります。ちなみに、これから3年後の明治5年〔1872〕1月27日に松岡調は、金刀比羅宮の禰宜に就任し、「近代化」を進めていく立場に立つことになります。そのために行ったことが神仏混淆色を拝した神道施設の建立です。具体的には、今までの金毘羅大権現の本殿を撤去して、新しい本宮を建てると云うことになります。その前に本宮の神々の一時的な遷宮先を確保する必要がありました。そこで着手されたのが別宮建立です。以上をもう一度整理すると以下のようになります。
本宮の仮遷先となる別宮の造営先として撰ばれたのが旧観音堂(大年社社殿)です。
こうして明治8(1875)年1月12日に旧観音堂の取り壊しが始まります。
多聞院の「片岡信範明治八年仮日記」(「金刀比羅宮史料」第十九巻(大正8年7月)所収)には、次のように記されています。
一月十二日の条-旧観音堂 今日ヨリ取壊シ相成候事
二月二十一日の条-当月九日 御別宮地所 地築相初リ市中ヨリ寄進指出シ日々々敷恐悦為候事
***三日・(前略)・・・三時も過る頃にいたりて、遙に太鼓の音聞ゆるなへ、人のハやセる声も聞ゆ、さらハ御宮材を引来るならんと、此方よりも太鼓打合せやかて黒門より男も女も若もたるも、めてたしと手を拍つ□おとり来る、其さまのいさきよき事、云んかたなし、・・(中略)・・三時にいたれハ、やうにひきとりつ、今日の材木を引ものともは、坂町、内町新町の者ともの、八百人ハかりも引なるか、昨夜より丸亀へものして、車四つにて引来れる今は御柱のれうの一本を、金の大鳥居より引来れるなりとそ、・・・・(後略)
意訳変換しておくと
1月3日 ・(前略)・・・三時すぎになって、太鼓の音が遙かから聞こえる。人の掛け声や囃す声も聞える。さらには御宮材を引っ張るのを手伝いとして、どこかしこから太鼓を打合せて、黒門から男女や若者も集まってくる。めでたしと手を拍ち、踊りながらやって来る、その光景は言葉に表せないほど貴い。・・(中略)
三時になると賑わいも鎮まった。今日の材木を山上へ引き上げるのは、坂町、内町新町の者たちで、八百人ばかりの人達が参加した。この材木は昨夜から丸亀へ出かけて、車四台で引き帰ったものである。今日はその内の御柱の一本を、金の大鳥居より引き上げるという。・・・(後略)
ここからは次のような情報が読み取れます。
①木材は船で丸亀湊に輸送してきたものを、荷車で琴平に運んできたこと。
②門前町の人々が祭りの山車のように木材を山上にボランテアで引き上げていること
こうして旧観音堂跡地には「本殿 + 中殿 + 拝殿」の複合社殿「別宮」が姿を現します。

金刀比羅宮 別宮
最後に別宮の役割と特徴について、整理しておきます。
①別宮は本宮よりも小規模で、簡素な造りとされているが、正遷宮後は末社社殿として位置づけられ、仮宮としての機能を担っている。
①別宮は本宮よりも小規模で、簡素な造りとされているが、正遷宮後は末社社殿として位置づけられ、仮宮としての機能を担っている。
②木鼻を角形とする試みもいち早く取り入れるなど、続く本宮工事への試行的要素も見られる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮



























































































