瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:松岡調

白峯寺 近世建築物群

白峯寺には近世の建築物が15棟あります。この内の9つの建物が2017年7月にまとめて重文指定を受けています。特に、先ほど見た頓証寺の5棟は同時期に高松藩主松平頼重によって建てられています。こうして見ると白峯寺の伽藍配置は、17世紀後期には現状の体裁を整えていたことが分かります。
幕末にペリーがやって来た頃の白峯寺を見ておきましょう。

白峯寺 讃岐国名勝図会
白峯寺(讃岐国名勝図会 1853年)
見ていただくと分かるように主要な建物はほとんど変わっていません。言い換えると、白峯寺は200年以上前の姿をそのまま現在に伝える寺院と云うことになります。これが多くの建物が一括して重文化財に指定される決め手にもなりました。ちなみに、この絵図を書いたのが松岡調です。神仏分離の際に金刀比羅宮の責任者となる人物です。後ほど、詳しく見ることにして、ここでは前に進みます。             
 明治維新とともに出された神仏分離令で、その被害を香川県で最も大きな被害を受けたのが白峯寺です。どのような大嵐が白峯寺を襲ったのかを見ていくことにします。

京都の白峯神社
白峯神社(京都今出川)
まずこの写真から見ていくことにします。白峯神社とあります。
いったいどこにある白峯神社なのでしょうか。これは京都の白峯神社です。堀川通りと今出川通りの交叉点附近の一等地に、もと公家の邸宅跡に新しく作られた神社です。ここに明治初年に、白峰山から崇徳院の御霊は明治天皇の命で移されました。そのためこのような碑が建っています。白峯神社のHPの由来には次のように記されています。

幕末、風雲急を告げる中、孝明天皇は、保元の乱(1156)によって悲運の運命を辿られた崇徳天皇の御霊を慰め、かつ未曾有の国難にご加護を祈らうとされ、幕府に御下命になり四国・坂出の「白峰山陵」から京都にお迎えして、これを祀らうとされましたが叶わぬままに崩御されました。明治天皇は父帝の御遺志を継承・心願成就され、社殿を現在地に新造し、奉迎鎮座されました。 

つまり、今は崇徳院の御霊は今はここに移されているということになります。どんな経緯で、白峯山からここにみたまが移されたのでしょうか?
 明治元年(1868)3月に新政府は神仏分離令を出します。その影響を最も早く蒙るのが白峯寺です。

白峯寺 神仏分離2

②4月に明治天皇の名によって、白峯寺の崇徳院の御霊を京都へ移すことが発表されます。その背景には幕末の混乱した情勢があったようです。「崇徳上皇の怨霊が社会不安を引き起こしている」という噂や、新政府への反乱分子が崇徳上皇の怨霊を担ぎ上げて蜂起しようとしている噂が拡がります。③こうして8月26日に、天皇の勅使が30隻余りの船団で坂出港にやってきます。勅使団は、高松藩の警護も含めると400人に及ぶ一行でした。白峯寺にやってきて、頓證寺の御真影と愛用の笙を受け取り、それを神輿に移して、翌日に下山します。これに対して、白峯寺は何も出来ません。事前に儀式に参加したい旨を伝えますが許されませんでした。やってきた勅使が御霊を抜き、御像を移す儀式を、僧侶である白峰寺の住職は見守るしかなかったようです。
 28日に神輿と勅使一行は高松藩主の御用船「飛龍丸」で、京都にむけて出港します。こうして白峯陵は「もぬけの空」となってしまいます。これは白峰寺にとっては精神的に大きなダメージになりました。これが白峯寺への最初の一撃でした。

これに追い打ちをかけたのが明治4年(1871)年の上知(あげち)令です。
上知令というのは、寺院が持っていた寺領を収して国有化することです。大寺院にとっては、これは経済基盤を全て失うことになります。これに対して、奈良の興福寺の僧侶達は春日神社の神官に転職していきます。残された伽藍や仏像は、がらくたのように売り払われ、五重塔も売り晴らされる解体寸前になります。このような状況が伝わると、全国の神仏混淆の僧侶達も不安になって、還俗して神官になるものが続出します。このような中で明治6年、白峯寺の住職も、陵墓墓守に転職します。その背景には白峯寺は、檀家を持たない祈祷系寺院で、今後の寺院将来に不安を感じたのでしょう。自分も住職から皇室の墓守へという決断になったのでしょう。この結果、白峯寺は住職がいなくなってしまいます。当時の新政府の方針は、寺院削減でした。無住職・無檀家の寺院はどんどん取り潰していくというものでした。住職がいなくなった白峰寺はこうして廃寺となってしまいます。
 そして明治8年には、当時の白峯陵の管理者は、陵墓周辺に仏教寺院があるのは環境に宜しくないと、白峯寺の建物群を取り払って更地にするように県に求めています。もし、これが認められていれば現在の白峯寺はなかったことになります。

その3年後の明治11年に、次のような申請書が金刀比羅宮から県に提出されます。
金刀比羅宮の頓證寺摂社化

ここでは②「もぬけの空」になった頓證寺を③金刀比羅宮が管轄下におくべきだと主張しています。この背景には、江戸後期になって京都の安井金毘羅宮などで拡がった「崇徳上皇=天狗=金昆羅権現」説がありました。
 それが金毘羅本社でも、受け入れられるようになったことは以前にお話ししました。そして明治の神仏分離で金毘羅大権現を追放して、何を祭神に迎え入れるかを考えたときに、一部で広がっていた「金毘羅=崇徳上皇」説が採用されることになります。こうして金刀比羅宮の祭神の一人に崇徳上皇が迎え入れられます。そして、崇徳上皇信仰拠点とするために目をつけたのが、廃寺になった白峰寺の頓證寺です。これを金刀比羅宮の摂社として管理下に置こうとします。
これを提言し実行したのが松岡調(みつぐ)だと私は考えています。

松岡調 神仏分離

彼は200石取りの高松藩士の4男として生まれ、才覚を買われて20歳の時に志度神社へ養子に入ります。②若いときには、先ほど見た讃岐国名勝図会の挿絵を担当しています。③そして高松藩の藩校の教授に就任します。④明治維新に神仏分離令が出されると、東讃から高松にかけての担当エリア五郡の「神社取調」の調査を担当しています。この調査は各神社の御神体をチェックし、そこに何が保存され、どんなものが祀られているのかを報告するものでした。そのため各神社の宝物類はすべて頭の中に入れていたようです。その彼が請われて、金刀比羅宮の禰宜職に就任したのです。この調査活動を通じて、彼は頓證寺にどんなお宝があるかも知っていたはずです。その松岡調がさきほどの文書を起草したと私は考えています。
 申請を受けた県や国の担当者は、現地調査も聞き取り調査も行なっていません。机上の書面だけで頓証寺を金刀比羅宮へ引き渡すことを認めてしまいます。この瞬間から頓証寺は白峯神社と呼ばれる事になります。つまり頓証寺という崇徳天皇廟の仏閣がたちまちに神社に「変身」してしまったのです。そして、その中に補完されていた宝物の多くが金刀比羅宮の所有となり、持ち去られます。ある意味では、これは金刀比羅宮の「乗っ取り」といえます。これが明治11年4月13日のことです。
この経緯が、かつての金刀比羅宮白峰寺の説明版には次のように記されていました。
金刀比羅宮白峰寺の説明館版

ここからは次のようなことが分かります。
①頓證寺が金刀比羅宮の境外摂社として、②敷地建物宝物等一切が金刀比羅宮の所有となったこと。
③大正3年になって、白峯神社が現在地に遷座したこと
④現白峯神社の随神は、頓證寺の勅額門にあったものであること

こうして、明治になって白峯寺は住職がいなくなって廃寺になり、その中の頓證寺は金刀比羅宮の管理下に置かれて「白峯寺神社」となったことを押さえておきます。白峰寺は、このままでは姿を消していきそうになります。
 このような白峯寺の危機に対して立ち上がっていったのが地元の人達でした。

頓證寺返還運動

 白峰寺の麓の松山村などの住人たちは、白峯寺復活のために明治8年7月、白峯寺住職選定の願いを阿野郡に提出しています。この時には、当時の国の方針が寺院削減だったので、県は認めません。②しかし、M11年頃になると時流が変化します。明治政府は神仏分離の行き過ぎを修正し、廃寺になった寺院に対する救済策を許可するようになります。そのような動きの中で、新しい住職を迎えることが許可され、牟礼・洲崎寺の橘渓導が住職として、白峰寺に入ります。③橘新住職は、地元の支援者と協議しながら金刀比羅宮への反撃を準備します。その一つが裁判に訴えることでした。明治17年に白峯寺勝利の判決が下るのですが、金刀比羅宮は、これに従いません。
 禰宜の松岡調の抵抗があったようです。ところが日清戦争の時に、金刀比羅宮が朝鮮半島や遼東半島で、政府や軍の許可なく神道布教を行ったことが問題になり、松岡調は1895年に長年勤めた金刀比羅宮禰宜を解任されます。その翌年に、高屋・青海村の住人達は、頓證寺の返還願いを県に提出しています。それが認められるのが2年後の1898(明治31)年になります。そうすると金刀比羅宮は、祭神である崇徳院をまつる宗教施設がなくなってしまいました。そこで、本社と奥社の間に、新たな神社を建立します。これが現在の、金刀比羅宮の白峯神社です。

金刀比羅宮の白峰寺創建

現在のお札には金刀比羅宮白峯神社と書かれています

しかし、金刀比羅宮は総てを返還したのではないようです。
返還したのは仏具など仏教関係のモノが中心で、その他のものは返還に応じません。この結果、金刀比羅宮に移された宝物の多くが頓證寺にはもどっていないのです。その代表が奈与竹(なよたけ)物語の絵巻です。
重文なよたけ物語

 なよ竹物語は、鎌倉後期の後嵯峨院の時代に、春の蹴鞠(けまり)を見物に来ていた人妻を、後嵯峨院に見初めます。その人妻は悩んだ末に院の寵(ちょう)を受け入れ、その果報として少将は中将に出世する。人の妻である女房が帝に見出され、その寵愛を受け入れることで、当の妻はもとより、周囲の人々にまで繁栄をもたらすというストーリーで、鎌倉時代になってできた物語のひとうのパターンです。白峯寺は、後嵯峨院の勅願所でもあったようで、そのような機縁で、絵巻が伝えられたと研究者は考えています。これは、金刀比羅宮蔵のままです。
 白峯寺の地元の青年団では、戦後も引渡を求めていますが金毘羅山の回答は、次の通りです。

白峯寺と金刀比羅宮の言い分


松山青年団の返還申請

 
政府や県の承認にもとづいて頓證寺の占有権を得たのであって、その時期に金刀比羅宮のものとなった宝物の返還の義務はないという立場のようです。
 文化財の保管・展示を考える場合に、国際的な流れとしては、その文化財がもともとあったところに返すのが原則という考え方が国際的な流れとなりつつあります。そのためルーブルや大英博物館に対して、各国からの返還要求が出されています。このような流れの中で、この問題も考える必要があるのではないかと私は思っています。

明治の神仏分離で白峯寺は、次の3つのものを失いました。


白峰寺のダメージ

そして一時的には廃寺となり、残された建物も神域にふさわしくないと取り壊しが建議されたこともありました。それを救ったのが地元の人達でした。その結果、白峯寺には江戸時代の建物が15棟、そのままの姿で残されることになりました。その内の9棟が重文指定、将来の国宝候補となっています。江戸時代の建物がこれだけ一括して残っていること、そしてその伽藍レイアウトがほとんど変わっていないことことは、非常に希有な寺院です。これらは明治の住職や地元の人達の運動によって、後世に伝えられたことに感謝したいと思います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事

讃岐国名勝図会表紙
讃岐国名勝図会(前編5巻 大内~香川東)
 讃岐の幕末の様子が絵図で分かる資料として、私が重宝しているのが「讃岐国名勝図会」(嘉永7年(1854)刊行)です。 国立公文書館のデジタルアーカイブで、自由に閲覧でき拡大縮小も思いのままです。見ていると時間を忘れそうになります。しかし、三豊や善通寺など多度郡のエリア部分はでてきません。どうしてなのだろうと思っていたときに出会ったのが「田中健二 歴史資料から見た満濃池の景観変遷」 満濃池名勝調査報告書111P」です。今回は、これをテキストに「讃岐国名勝図会」の成立過程を見ていくことにします。

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讃岐国名勝図会
この書の成立・刊行に至る経過は次の通りです。
①編者は高松藩の梶原藍水で、父・藍渠が既に書いていた「讃岐志」など9冊などの讃岐国地誌類を集大成して「讃岐国名勝図会」をあらわした。
②「讃岐国名勝図会」は、讃岐国名所「名跡」、「名勝」を挿絵入りで、前編・後編・続編の三部構成で紹介したものである。
③挿絵の大部分は、巻一の表紙見返真景「松岡信正(調)」とある。
④挿絵には、讃があり、詩文が添えられています。
⑤前編は刊行されたが、後編・続編(多度・三野・豊田郡)については未完であった。

増補改訂 讃岐人名辞書 復刻讃岐叢書・続 讃岐人名辞書 計2冊(梶原竹軒監修 草薙金四郎監修 ・磯野実編集) /  古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

『讃岐人名辞書』(第二版 1928年)には、梶原藍渠・藍水父子について次のように記します。

藍渠の名は景淳。宝暦12年(1762)生まれ。高松の商家柵屋の出で歴史に通じ、高松藩主頼恕のとき士分に取り立てられ、藩の史局考信閣の学士として、国史の編纂事業に従事した。一方で、讃岐国内の名勝志編纂を企て、「讃岐国名勝図会」の刊行を目指したが、天保5年(1834)病没した。
 藍水の名は景紹。藍渠の第4子で後を継いだ。父の任を継いで考信閣出仕となり国史編纂に従事した。その一方で、父の遺業を継ぎ「讃岐国名勝図会」を完成した。明治初年(1868)没。その子は泉太郎という。

梶原家は藍渠・藍水・泉太郎と高松藩の歴史編纂に携わる家系であったことを押さえておきます。

「讃岐国名勝図会」巻五の末尾

 嘉永7年(1854)に刊行された「讃岐国名勝図会」巻五(前編)の末尾(上写真)には次の広告があります。
 真景 ①松岡信正
 讃岐國名勝圖會前編 七冊 大内 寒川 三木 山田 香川東上 五郡
 同      後編 八冊 香川東西 阿野郡北南 鵜足 那珂 四郡
 同      続編 五冊 多度 三野 豊田 三郡
最初に「真景 ①松岡信正圖」とあり、挿絵を担当した人物です。
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讃岐国名勝図会 松岡調による挿絵
「松岡信正」とは、松岡調が若い頃に名のっていた名前だそうです。松岡調は国学者で、志度の多和神社に婿入りし、讃岐における神仏分離推進の中心人物だったことは以前にお話ししました。彼は金毘羅大権現を金刀比羅神社へと様変わりさせた人物で、金比羅宮祢宜、後には田村神社宮司を勤めています。著書に「新撰讃岐国風土記」・「讃岐国官社考証」などもあります。
讃岐の神仏分離7 「神社取調」の立役者・松岡調は、どんなひと? : 瀬戸の島から
 
 このページからは、もともとは前・後・続の3部作として出版が予定されていたことが分かります。ところが刊行されたのは前編だけで、後は明治になるまで刊行されなかったようです。そして、草稿本が国立文書館や坂出の鎌田資料館などに所蔵されているようです。

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「真景 ①松岡信正圖」と記された讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会が国立公文書館に保管されるようになった経緯を見ておきましょう。
 明治初年に樫原藍水が亡くなります。後編は未完のままで原稿が、その子泉太郎に託されます。和太郎は父の残した原稿の校正を続けますが公刊の見通しはたたなかったようです。そうした中で明治6年(1873)7月、泉太郎は、明治政府による皇国地誌の編さん事業に貢献するために、「讃岐志」とともに讃岐国名勝図会後編の原稿を献納します。泉太郎は書籍の代金は不要だと、無料で国に献納すると申し出ます。これに対して太政官では「奇特のことである」として賞金10円を下賜します。その際に、本の献納を受けた政官地誌課では受け入れのための議案書を作成しています。そこには「讃岐志」と「讃岐国名勝図会」について、次のような評価が記されています。

 讃岐志九冊、旧高松藩梶原藍渠編輯、一国の全志に候こと讃岐国名勝図会続篇八冊、藍渠子梶原藍水編輯、前編はすでに刊行相なり、本書は、まったく板下にて書中図面等、ゆくゆく上梓候ところもこれあり。殊勝の書籍にていずれも世上伝本これなく候こと

ここからも、献納された前編については「刊行相なり(刊行済み)であること、今回献納された分(後編)は「まったく板下(草稿)」であり、将来的には刊行が予定されているが、世間上では手に入らないものであったが分かります。
  ここでは国立公文書館蔵の後編6巻8冊は、献納される明治6年(1873)7月までは、旧高松藩士で藍水の子である梶原泉太郎が所蔵していたことを押さえておきます。

 後編トップの巻六の冒頭には、次のように河田興(迪斎)の序が記されています。
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              讃岐国名勝図会 後編巻頭(河田興(迪斎)の序) 
河田興は、讃岐出身の儒者で昌平黌の教官として当時は著名だったようです。その年紀を見ると「安政四年(1857)丁巳平月下淀(12月下旬)」です。ここからは、藍水は前編につづけて後編を刊行する予定で、準備を進めていたことがうかがえます。しかし、後編の出版チャンスは生まれなかったようです。そして明治初年に藍水は亡くなります。その意志を継いで子・和太郎によって編集が続けられていたことは先に述べたとおりです。
 続篇3巻(多度・三野・豊田郡)は、国立公文書館の蔵本に含まれていません。つまり、この時には献本されなかったようです。 明治6年(1873)の国への献本の際には、出来上がっていなかったのかもしれません。とすると、讃岐国名勝図会の続編部は明治6年以後に和太郎やその子息によって脱稿したのかもしれません。

大正11年建立の見事な建物 - 坂出市、鎌田共済会郷土博物館の写真 - トリップアドバイザー
鎌田共済会郷土博物館
 続編については、坂出の鎌田共済会郷土博物館に昭和4年(1929)に写されたの写本が保管されています。その表題と書写奥書には次のように記されています。   
(十三巻)
    讃岐國名勝圖會草稿 多度郡 十三 上下
    昭和四年十二月二十日写 原本竹内コハル氏蔵
(十四巻)
    讃岐國名勝圖會草稿 三野郡 十四 上下
    昭和四年十二月二十日写 原本竹内コハル氏蔵
(十五巻)
    讃岐國名勝圖會草稿 豊田郡 十五
    昭和四年十二月写 原本梶原猪之松氏保管

 原蔵者の竹内コハルは、『日本名所風俗図会』収録の『讃岐國名勝図会』解説によれば、綾歌郡羽床村在住。梶原猪之松は、昭和5年(1930)に刊行された『古今讃岐名勝図会』の補訂兼発行者となっている梶原猪之松(竹軒)のようです。
4344104-03
讃岐国名勝図会 那珂郡下 金刀比羅神社

以上をまとめておくと
①讃岐国名勝図会は、父樫原藍渠の「讃岐志」9冊などを、その子の藍水が「讃岐国名勝図会」前編・後編・続編の三部作として公刊予定であった。
②「讃岐国名勝図会」は、讃岐国名所「名跡」、「名勝」を挿絵入りで紹介したもので、挿絵は後の金毘羅神社禰宜の「松岡信正(調)」によるものである。
③前編8巻は嘉永7年(1854)に刊行されたが、後編・続編(多度・三野・豊田郡)については未完のまま明治を迎えた。
④未刊行だった後編は、明治6年(1873)7月、藍水の子である梶原泉太郎が、明治政府に貢献した。これは後に、公刊された。
⑤しかし続編は(多度・三野・豊田郡)については未完で、坂出の鎌田博物館に原稿のままで保管されている。
4344104-07金毘羅大権現 本殿 讃岐国名勝図会
金刀比羅神社本殿(讃岐国名勝図会)
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


四国遍路のユネスコ登録に向けての準備作業の一環として、霊場の調査が行われ、その報告書が次々と発行されています。2022年1月に愛媛県教育委員会から発行された三角寺の調査報告書を見ていて目に留まったものがあります。それがこの写真です。
三角寺 大般若経箱横側
三角寺の大般若経経箱
黒い漆の箱の横に金書で書かれた内容からは、 この箱が正徳6年(1716)に京極高登が金比羅大権現に寄進したものであることが分かります。京極高澄を、グーグルで検索すると次のように出てきます。

「京極高澄(高通)は多度津藩の初代藩主。丸亀藩2代藩主高豊の子として高或が生まれる前年の元禄4年(1691)に生まれたが、正室との間の子であった高或が世継となった。しかし高豊が元禄7年に没するとその遺言により高澄には1万石が分知されて多度津藩が成立した。」
 香川県の多度津町観光協会
多度津藩の殿様

京極高登とは、多度津藩初代藩主京極高通(1691-1743)のことののようです。箱の正面を見てみましょう。

三角寺 大般若経正面

  箱の正面には「六百」と金書された引き出しが4つ。左側面には「大般若経 六百巷」と見えます。そして、上面には京極家の家紋である四つ目結があるようです。
この箱には大般若経が入れられていたようです。
『大投若経』は、正式には『大般若波羅蜜多経』で、唐代玄実の訳出で、全600巻にもなるものです。三角寺の蔵本は、全600巻の内557巻が現存します。5巻をひとまとめにして、ひとつの引き出しに25巻ずつ収められています。引き出しは4段あるので、1箱に百巻を収めることになります。全600巻ですので、箱は6つあります。「六百」と書かれているので、最後の500巻代の経が納められています。
祈り込め、大般若経の転読 山形・立石寺で法要|モバイルやましん
大般若経転読のようす

どこで作られたものなのでしょうか?
一番最後の巻第六百には、次のように記されています。

三角寺大般若経 巻末
寛文十(庚戊)仲冬吉日
中野氏是心板行
板木細工人
藤井六左衛門
彫り職人と摺り職人の名前が記され、この大般若経が寛文10年(1670)の仲冬(12月)に摺られたことが記されています。それでは表装を行ったのは誰なのでしょうか?

三角寺大般若経 巻末印

 巻末には黒印が押されています。拡大して見ると次のように読めます。
「御用所大経師 降屋内匠謹刊」

大経師(だいきょうじ)を辞書で調べると、次のように書かれています。
 「  もと朝廷御用の職人で、経巻および巻物などを表装する表具師の長。奈良の歴道である幸徳井・賀茂両氏より新暦を受けて大経師暦を発行する権利を与えられたもの」

 朝廷御用の職人で江戸初期は浜岡家が大経師でしたが、貞享元年(1684)頃に断絶し、その後に大経師となったのが降屋内匠のようです。その名前がここにあります。

三角寺 大般若経大経師
大経師
以上から、三角寺の『大般若経』は、寛文10年(1670)に摺られていた摺刷を、大経師である降屋内匠が表装したものであることが分かります。
 同じ版木で摺られた「大般若経」が滋賀県野洲市の浄満寺にもあるようです。
滋賀県野洲市 浄満寺大般若経
    浄満寺の大般若経(野洲市『広報やす 2011年』8月1号参照)
一番最後の巻末には、次のように記されています。
寛文十庚戌仲冬吉日
中野氏是心板行
版木細工人藤井六左衛門」
先ほど見た三角寺と同じ版木で刷られたことが分かります。
しかし、大経師の降屋内匠の印はありません。

三角寺大般若経巻頭
三角寺大般若経1巻 表紙見返しの貼紙
今度は大般若経の一番最初の巻を見てみましょう。
巻の表紙見返の貼紙には、次のように墨書されています。

楠公筆 京極壱岐守 高澄 
大般経(二十箱二而 六箱)六百巻 
奉寄附 本ムシナシ極上々物也 類ナシ 
正徳六丙中歳 正月十日 
金昆羅大権現宝前

 ここからは改めて三角寺の大般若経は、正徳6年(1716)に京極高登が金比羅大権現に寄進したものであることが確認できます。
今までの所を年代別に並べておきます。
1670(寛文10)年 大般若経版木の摺刷
1691(元禄 4)年 京極高通(登)誕生(丸亀藩2代藩主高豊の子)
1694(元禄 7)年 4歳で多度津藩主に
1711(正徳 元)年 京極高通が藩主として政務開始
1716(正徳 6)年 京極高通(登)が金比羅大権現に寄進
1735(享保20)年 長男・高慶に藩主の座を譲り隠居
1743(寛保 3)年 江戸藩邸で病没した。享年53。
この年表を見ると京極高通が実質的な政務を執り始めたのが1711年(20歳)の時になります。そして、その5年後に大般若経は金毘羅大権現(現金刀比羅宮)に奉納されたことになります。新しい藩の門出と、その創立者としての決意を、大般若経奉納という形で示す。そのためには、格式ある専門家やに大経師に作成を依頼する。そのような流れ中で作られたのが、この大般若経のようです。

金毘羅に寄進されたものが、どうして三角寺にあるのでしょうか?
 これについては搬入経過を示す史料がないので、よく分からないようです。
三角寺大般若経内側

ただ、巻156-160、巻476480、巻481-485、巻486-490、巻491-495の各峡の内側に「三角寺現侶 賢海完英代」と上のように墨書されています。大般若経がもたらされたときの三角寺の住持は賢海だったことが分かります。

巻1表紙見返を見てみましょう。
三角寺大般若経巻頭2

墨抹された部分には、次のように記されているようです。
発起願主
嘉永元(1848)戊中六月□□□
宇摩郡津根村八日市
近藤豊治隆重三男
完英貳十有六」

そしてその横に
「本院(三角寺)現住法印権大僧都賢海

と記します。ここに出てくる完英と賢海は同人物であることが分かっています。ここからは、当時の住職は賢海で、嘉永元年(1848)年には賢海と呼ばれ26歳であったことが分かります。棟札などからは嘉永年間には、弘宝が住持で、賢海はまだ住持ではなかったことが分かります。
  どちらにしても『大般若経』転入には、当時の住持である弘宝か、次の住持となる賢海が関係していたことがうかがえます。さらに研究者は「賢海が三角寺の住持になった後、「大投若経」巻第一の署名を再び書き直した」と推察します。以上から、「この頃(嘉永年間)に大般若経が三角寺へ持ち込まれたのではないか」とします。

  しかし、これについては私は次のような疑問を覚えます。
幕藩期において、多度津藩主が金毘羅大権現(金光院)に奉納した大般若経を、断りなく他所へ譲り渡すと言うことが許されるのでしょうか。これがもし発覚すれば大問題となるはずです。私は、大般若経が三角寺にもたらされたのは、明治の神仏分離の廃仏毀釈運動の中でのことではないかと推測します。

明治の金刀比羅宮を巡る状況を見ておきましょう。
神仏分離令を受けて、金毘羅大権現が金刀比羅宮へと権現から神社へと「変身」します。そして、権現関係の仏像や仏画は撤去され、「裏谷の倉」の一階と二階に保管されます。それが明治5(1872)年になると、神道教館設置のための資金調達のためにオークションにかけられることになります。これを差配したのが禰宜の松岡調であることは以前にお話ししました。
讃岐の神仏分離7 「神社取調」の立役者・松岡調は、どんなひと? : 瀬戸の島から
松岡調

彼の日記である『年々日記』明治五年七月十日条には、次のように記されています。(意訳)

7月10日 明日11日から始まる競売準備のために、書院のなげしに仏画などをかけて、おおよその価格を推定し係の者に記入させた。百以上の仏画があり、古新大小さまざまである。中には、智証大師作の「草の血不動」、中将卿の「草の三尊の弥陀」、弘法大師の「草の千体大黒」、明兆の「草の揚柳観音」などもあり、すぐれたものも多い。数が多過ぎて、目を休める閑もないほどであった。 

7月18日 裏谷の蔵にあった仏像の中で、商人が買いそうなものを抜き出して、問題のないものを選んで売りに出した。数多くの商人が、競い合って買う様子がおもしろい。

7月19日 昨日と同じように、次々と入札が進められ、残っていた仏像はほとんど売れた。誕生院(善通寺)の僧侶がやってきて、両界曼荼羅図を金20両で買っていった(以下略)

7月21日 御守処のセリの日である、今日も商人が集い来て、罵しり合うように大声で「入札」を行う。刀、槍、鎧の類が金30両で売れた。昨日、県庁へ書出し残しておくtことにしたもの以外を売りに出した。百幅を越える絵画を180両で売り、大般若経(大箱六百巻)を35両で売った。今日で、神庫にあったものは、おおかた売り払った。

ここからは入札が順調に進み「出品」されていたものに次々と、買い手が付いて行ったことが分かります。数多くの仏像や仏画・聖教などが競売にかけられて、周辺の寺院に引き取られていったのです。
 その中に気になる記述があります。7月21日の「大般若経(大箱六百巻)を35両で売った。」です。
これが三角寺の大般若経だと私は考えています。競売が行われたのは明治5(1872)年7月です。経路は分かりませんが、それ以後に三角寺にもたらされたようです。
以上をまとめておきます
①三角寺には、多度津藩初代藩主が金毘羅大権現に奉納した大般若経がある。
②この大般若経は、京の大経師・降屋内匠に表装を依頼し、漆塗りの6つの箱に収められたもので、殿様の奉納物らしい仕立てになっている。
③入手経路についてはよく分からないが、神仏分離後に金刀比羅宮が行った仏像・仏画などの競売の際に流出したものが、何らかの経路を経て三角寺にもたらされたことが考えられる。
④金毘羅大権現から競売を通じて流出した仏像・仏画は、膨大なものがあり、善通寺など周辺の有力寺院はそれを買い求めたことが松岡調の日記からは分かる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年 愛媛県教育委員会」の「(139P)聖教 大般若経」
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C-23-1 (1)

 明治初期に吹き荒れた神仏分離・廃仏毀釈の嵐を、金毘羅大権現は金刀比羅神社に姿を変えることで生き残りました。そこでは、仏閣から、神社への変身が求められました。それに伴って金毘羅大権現の仏像・仏具類も撤去されることになります。仏さん達は、どこへ行ったのでしょうか。全て焼却処分になったという風評もあるようですが、本当なのでしょうか。金毘羅大権現を追い出された仏達の行く方を追って見たいと思います。

  松岡調の見た金毘羅大権現の神仏分離は       
 明治2年(1869)4月、「事比羅宮」(旧金毘羅大権現・以後は金刀比羅宮使用)を多和神社社人の松岡調が参拝しています。彼の日記『年々日記』同年4月12日条に、次のように記されています。

 (前略) 護摩堂、大師堂なとへ行見に、①内にハ檀一つさへなけれハ、ゐてこしヽ老女の涙をおしのこひて、かしこき事よと云たるつらつき、いミしうおかし、かくて本宮へ詣て二拝殿へ上りて拝奉る、御前のやう御撫物のミもとのまヽにて、其外は皆あらたまれり、白木の丸き打敷のやうなる物に、瓶子二なめ置、又平賀のさましたる器に、②鯛二つかへ置て奉れり、さて詣っる人々の中にハ、あハとおほめく者もあれと、己らハ心つかしハそのかミよりは、己こよなくたふとく思へり、
絵馬堂へ行て頚(くび)いたきまて見て、やうように下らんとす、観音堂も金堂も十王堂も皆、③仏像ハとりたる跡へ御簾をかけて、白幣を立置たり
  意訳しておきましょう
4月12日 護摩堂、大師堂なども見てまわったが、①堂内には檀一つも置かれていない。それを見た老女が涙を流しながら「かしこき事よ」と呟いた表情が、印象に残った。
 本宮に詣て、拝殿に上り拝奉した。御前の様子は御撫物は、もとのままであるが、その他は全て神式に改められていた。白木の丸い打敷のような物に、瓶子が置かれ、平賀のさましたる器に、②鯛が2匹が供えられていた。参拝する人々の中には、生ものが供えられていることに驚く者もあるが、私は、その心遣いが上古よりのものであり、こよなく貴いものをと思った。
 絵馬堂を見て、階段を下ろうとすると観音堂も金堂も十王堂も皆、③仏像は取り除かれている様子で、その跡に御簾をかけて、白幣を立置いてあった。
この日記からは、仏教伽藍から神社へのリニューアルが進む金刀比羅宮の様子が見えてきます。仏像仏具に関しては
①護摩堂、大師堂などの、堂内には仏像はもちろん檀一つも置かれていない。
②拝殿も全て神式に改められ生ものの鯛も供えられていた。
③観音堂も金堂(現旭社)も十王堂も、仏像は取り除かれ、その跡に御簾をかけて白幣を立置かれてあった。
 松岡調の日記からは仏像たちがお堂から撤去され、神仏分離が急ピッチで進行していたことが分かります。ちなみに、これから3年後の明治5年〔1872〕1月27日に松岡調は、金刀比羅宮の禰宜に就任します。
1 金毘羅 狛犬1

さて、撤去された仏像はどうなったのでしょうか。
 取り除かれた仏像・経巻・仏具類は、仏堂廃止とともに境内の一箇所に取りまとめて存置されていたようです。それが動き出すのは、松岡調が金刀比羅宮の禰宜に就任した年になります。明治5年4月に香川県宛に旧金光院時代の仏像の処分について、伺いが出されています。これについては『年々日記』明治五年四月二十四日条に、
二十四日 一日ハ(晴)れす、会計所へものせり、さきに県庁へねき聞へし条々につきて、附札にてゆるされたる事ども
事比羅神社社用之廉々伺書
一 当社内二在之候従来之仏像、御一新後悉皆取除、山麓之蔵中江集置候処、右撥遣(廃棄) 二相成候上者、如何所置可仕哉、焼却二及候而も不苦候哉之事、
      焼却可申事 (○中略)
事比羅神社
  県庁御中
意訳しておくと
当社内に保管する仏像について、維新後に全て取除き、山麓の蔵中へ集めて保管してきました。これらについて廃棄することになった場合は、どのように所置すればよろしいか。焼却してもよそしいか。

この伺いに対する香川県の回答が「焼却可申事」であったようです。ここからは仏像類の処分方法について、金刀比羅宮が事前に香川県の承認をうけていたことが分かります。4月に焼却処分の許可を得た上で、8月4日に仏像類の大部分を焼却したようです。
これだけ見ると「全ての仏像・仏具を焼いた」と思われそうです。実際に、そのように書かれた本や言説もあります。しかし、松岡調の日記を見ると、そうではないことが分かります。

1 金毘羅 狛犬222表

 処分に先立って、松岡調自ら仏像・仏具類を納めた倉庫を検分したり、松崎保とともに社中に残し置くべき仏像などについて、立ち合い検査を行なっています。6月から7月になると『年々日記』に、次のような記述が見られるようになります。
 
五日 (中略)今日は五ノ日なれは会計所へものせり、梵鐘をあたひ二百二十七円五十銭にて、榎井村なる行泉寺へ売れり、(『年々日記』明治五年 三十三〔6月五日条〕、読点筆者)

八日 雨ふる、こうきあり、例の時より会計所へものセり、西の宝庫に納たりし雑物を出して塵はらわせり、来る十一日にハ、仏像仏具を始、古きものともをうらんとて置そす、今夜いミしう雨ふる、(以下略)(『年々日記』明治五年〔七月八日条〕)

6月5日には、金毘羅さんのお膝元・榎井村の行泉(興泉)寺が梵鐘を227円50銭で買いつけています。これも、戦中の金属供出で溶かされたのでしょうか、今は興泉寺に、この鐘はないようです
7月8日には、西の倉庫に保管されていた「雑物」を出して奇麗にしたようです。それは仏像仏具を売りに出すための準備であったようです。
 九日 雨はれす、二字(2時)のころやうくはれたり、御守所へ詣てつ、間なく裏谷なる仏像、仏具を納たる倉を見にものセるか、大きなる二層の倉の上にも下にも、かの像ともの古きなる小きなる満々たり、小きこまかなるは焼ハらふも、いとあたらしきワさなれハ、仏ゑと共にうらんとて司庁(社務所)へおくりやる、数多の中に大日仏の像なとは いみしき銅像になん、
(『年々日記』明治五年 〔七月九日条〕)
意訳すると
7月9日 
雨晴れず、2時頃からようやく晴れてきた。御守所へ参拝してから「裏谷」の仏像、仏具を保管している倉を見行く。そこには大きな2層の倉の上にも下にも、古い仏像や小さい仏像などで満ちている。小さい仏像は燃いても、造られたばかりの新しいものは、仏絵と共に売ることにして司庁(社務所)へ運んだ。数多くある中でも大日如来像は、価値のあるもののように見える。       
ここからは、次のような事が分かります。
①「裏谷」にある倉に仏像、仏具を保管してあったこと
②倉の中には、仏像でいっぱいだったこと
③新しい仏像は、仏絵と共に販売するために運び出したこと
④大日如来像はすぐれた作品であると「鑑定」していたこと
明治元年に撤去された仏像たちは、「裏谷の倉」の一階と二階に保管されていたようです。そして、売れるものは売るという方針だったことがうかがえます。
1 金毘羅 備前焼狛犬1

十日 れいの奉納つかうまつりて、会計所へものセり、明日のいそきに、司庁の表の書院のなけしに仏画の類をかけて、大よその価なと使部某らにかゝせつ、百幅にもあまりて古きあり新きあり、大なるあり小なるあり、いミしきもの也、中にも智証大師の草の血不動、中将卿の草の三尊の弥陀、弘法大師の草の千体大黒、明兆の草の揚柳観音なとハ、け高くゆかしきものなり、数多きゆえ目のいとまハゆくなれハ、さて置つ 
   (『年々日記』明治五年 【七月十日条】)
     ○
意訳すると
7月10日 明日11日から始まるオークションの準備のために、書院のなげしに仏画などをかけて、おおよその価格を推定し係の者に記入させた。百以上の仏画があり、古新大小さまざまである。中には、智証大師作の「草の血不動」、中将卿の「草の三尊の弥陀」、弘法大師の「草の千体大黒」、明兆の「草の揚柳観音」などもあり、すぐれたものである。数が多過ぎて、目を休める閑もないほどであった。 

  仏画類については、前日に書院のなげしに掛けて「鑑定」を行って、おおよその価格を事前に決めていたようです。
1 金毘羅1 狛犬11

さて入札当日は、どうだったのでしょうか。
十一日 御守所へものセり、十字のころより人数多つとひ来て見しかと、仏像なとハ目及ハぬとて退り居り、かくて難物古かねの類ハ大かたに買とりたり、或人云、仏像の類ハこの十五日過るまて待玉へ、此近き辺りの寺々へ知セやりて、ハからふ事もあれハと、セちにこへ口口口口口、
 (『年々日記』明治五年 七月十一日条)
意訳すると 
7月11日 10時ころより、多御守所でセり(入札)が始まり。多くの人がやって来て入札品を見てまわった。しかし、仏像などは鑑定眼がないので、近寄る者はいない。難物や古かねの類の価値のないものはおおから買取り手が見つかった。ある人が言うには、仏像の類は15日が過ぎるまで待ったらどうか。近くの寺々に、この入札会のことを知らせれば、買い手も集まってくるだろう。

十二日 東風つよく吹けり、会計処へものセり(払い下げ)、今日も商人数多ものして、くさくさの物かへり、己ハ柳にて作れる背負の鎧櫃やうのもの、価やすけれハかいつ、よさり佐定御願へものセるに、かたらへる事あり。    
意訳
7月12日 束風が強く吹いた日だった。会計所へ払下品を求めて、今日も商人たちが数多くやってきて、買っていく。自分は、柳で編んだ背負の鎧櫃のようなものを、値段が安いので買った。佐定は御願へもとするのに使うために、相談があった。

仏像・仏具の払い下げが、11日から始まったようです。最初に売れたのは、「難物・古金」のように重さで売れるものだったようです。仏像などは、見る目がないので手を出す者は初日にはいなかったようです。そして、ここでもコレクターとしての血が騒ぐのでしょう、松岡調は「柳で編んだ背負の鎧櫃」を買い求めています。

1 金毘羅 真須賀神社狛犬12
18日 今日も同じ、裏谷の蔵なる仏像を商人のかハんよしをぬきだし、ままに彼所へものさハりなきをえり出して売りたり、数多の商人のセりてかへるさまのいとおかし
 (『年々日記』明治五年 [七月十八日条])

十九日 すへて昨日に同し、のこりたる仏像又売れり、けふ誕生院(善通寺)の僧ものして、両界のまんたらと云を金二十両にてかへり、(○以下略)『年々日記』明治五年〔七月十九日条〕)
意訳
7月18日 裏谷の蔵にあった仏像の中で、商人が買いそうなものを抜き出して、問題のないものを選んで売りに出した。数多くの商人が、競い合って買う様子がおもしろい。
     
7月19日 昨日と同じように、次々と入札が進められ、残っていた仏像はほとんど売れた。誕生院(善通寺)の僧侶がやってきて、両界曼荼羅図を金20両で買っていった(以下略)
1 金毘羅 牛屋口狛犬12

7月21日 御守処のセリの日である、今日も商人が集い来て、罵しり合うように大声で「入札」を行う。刀、槍、鎧の類が金30両で売れた。昨日、県庁へ書出し残しておくtことにしたもの以外を売りに出した。百幅を越える絵画を180両で売り、大般若経(大箱六百巻)を35両で売った。今日で、神庫にあったものは、大かた売り払った。(『年々日記』明治五年七月二十一日条〕)

ここからは入札が順調に進み「出品」されていたものに次々と、買い手が付いて行ったよです。
二十三日 御守所へものセり、元の万燈堂に置りし大日の銅像を、今日金六百両にてうれり
 (『年々日記』明治五年〔七月二十三日条〕)
意訳すると
23日 御守所での競売で、旧万燈堂に安置されていた大日如来像が金600両で売れた。

1 金毘羅 高灯籠1

 二十日 会計所へものせり、去し六月のころ厳島の博覧会にいたセる、神庫物品目録と云を見に、仏像、仏具を数多のセたるより、ワか神宮の仏像の類も古より名くハしき限りハのこし置て、さハる事もなからすと思ふまゝに佐定とかたらひ定て、この程県庁へさし出セし神宮物品録の追加として、仏像(木造9体、絵図13軸)・仏具(15品)の目録かかせて、明日戸長の県庁へものセんと聞かハ、上等使部山下武雄をやりてかたらひつ、此つひてに志度郷の神宮の宝物、また己かもたる古器をも、いさヽかいつけ(買付けて)てことつけたり、
  (○中略)
 よさり佐定と共に裏谷に隠置(かくしおき)たる物を検査にものセしに、長櫃二つあり。蓋をとりて見に、弘法大師の作といふ聖観音立像、及智証大師の作といへる不動の立像なといミしきもの也、外に毘沙門また二軸の画像なとの事ハ、こヽには記しあへす、今夜矢原正敬かりに宿る。
(『年々日記』明治五年[七月二十日条])
意訳すると 
会計所での「ものせり(入札)」の日である。昨年6月に安芸の宮島厳島神社の博覧会の時の「神庫物品目録」を目にした。そこには仏像、仏具を数多く載せてある。我が金刀比羅宮の仏像類も古くて価値があるものは残して置いても支障はないと思うようになる。
 佐定と相談して、県庁へ提出した神宮物品録の追加として、仏像(木造9体、絵図13軸)・仏具(15品)の目録に追加させた。それを明日、琴平の戸長(町長)が県庁(高松)へ出向いて入札すると聞いたので、上等使部山下武雄を使いにやって、志度郷の神宮の宝物、また自分のものとして古器なども、かいつけ(買付けて)を依頼した。
  (○中略)
 佐定と一緒に、裏谷に隠置(かくしおき)たる仏像類を検査しに出向いた。長櫃が2つあった。蓋をとって中を検めると、弘法大師作という聖観音立像智証大師作という不動立像などが出てきた。その他に、毘沙門像や二軸の画像など事については、ここにも記せない。今夜は矢原正敬宅に宿る。        (『年々日記』明治五年[七月二十日条])
1 JR琴平駅前狛犬

ここからは、次のようなことが分かります。
①宮島厳島神社の目録を見て、価値のある仏具類は残すことが出来ないか考えるようになったこと
②一部は志度の多和神社や自分のものとして、買い付けていたこと。
③裏谷の倉の長櫃から弘法大師や智証大師の作という仏像が出てきた
④その他にも毘沙門天像や軸物など「お宝」でいっぱいだったこと。
⑤矢原正敬を訪れ、今夜はそこに泊まること
ここからは価値のある仏像類は、残そうという姿勢がうかがえます。また、個人蔵とするために、お宝を買い付けていたことが分かります。このあたりに、松岡調のコレクターしての存在がうかがえます。多和神社や多和文庫の中には、金毘羅大権現からやってきたものがあるようです。
  そして、矢原正敬が登場してきます。
「矢原家家記」によると、矢原氏は讃岐の国造神櫛王(かんぐしおう)の子孫を自称し、満濃池再興の際には、弘法大師が先祖の矢原正久(やばらまさひさ)の邸に逗留したと記し、自らを「鵜足郡と那珂郡の南部を開拓し郡司に匹敵する豪族」とします。
 そして、近世になって西嶋八兵衛の満濃池再築の際にも、池の中に出来ていた「池内村」を寄進し、再築に協力したと伝えられます。その功績で、満濃池の池守として存続してきた家です。 矢原正敬はその当主になります。   歴史的な素養もあり、骨董品についても目利きであったようなので松岡調とは、気心があったようです。この日も、夜を明かして、「裏谷の倉」に眠る「お宝」についての話が続いたのかもしれません。

倉の中に保管していた仏像・仏具を、明治五年になって処分しようとしたのはなぜでしょうか。
それは、宥常が進める事業の資金を賄うためであったようです。
明治5年4月,宥常は権中講義に補せられ,布教活動プランを提出するよう教部省から求められます。これに対して、宥常は早速に東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館を設置案と提出します。しかし、これには多くの経費が必要となりました。上京していた宥常は、資金調達のため一旦帰国しています。そして、6月から仏像・仏具・武器・什物の類の売却が始まるのです。ここからは、東京での出費を賄うために「仏像・仏具の入札」という方法が採られたと研究者は考えているようです。

 残った仏像類の処分に関しては、次のような記録があります
 葉月三日 四日
   今日第八字ヨリ於裏谷、仏像不残焼却致候事、
   担シ 禰宜、社掌、筆算方 立合ニ罷出候
中略
佐定云、さハりありとて残置し仏像を此八日の頃に皆焼きすてたり、一日の内に事なくハて、灰なとハ何処となく埋めさセたり、ことにをかしき事にハ、たれに聞きつけたるか、其日の日暮れ頃に老いぼれたる老女の二三人、杖にすかりあえき来て、かの仏像を焼たる跡に散りぼひたる灰を、恐ろしきことよとつまミ取て、紙に包ておしいたヽきて帰りしさまと、又仕丁ともの灰をかきよセて埋る時に、眼の玉を5つ六つ7つなと拾ひて、緒しめにせんなと云あへりし事よ、又瓔珞(ようらく)の金具のやけ残りたるを集さセて売しに、金三両にあまれりなと かたれり。
 (『年々日記』明治五年〔八月十八日条〕

意訳すると
8月3・4日 今日8時から裏谷で、仏像を全て焼却した。これには、禰宜、社掌、筆算方は立ち会ていない。(中略)
佐定は次のように話した。
「障りがあると残していた仏像を、皆焼きすてた。一日の内に、無事終えて、灰などは何処となく埋めさせた。印象に残ったことは、誰に聞いたのか、その日の日暮頃に老女が二、三人、杖にすがり喘ぎながら登ってきて、仏像を焼いた跡に散らばる灰を、「恐ろしきことよ」と、拾い集めて、紙に包んで押し頂くように帰って行った姿と、仕丁たちが灰をかき寄せ埋る時に、眼の玉をいくつも拾ひて、緒び締めにしようと言い合っていたことである。
 また瓔珞(ようらく)の金具のやけ残を集めて売ったところ、金三両になったと云うことだ。 
 こうして仏像・仏具類などは売却され、残ったものは焼却処分にされたようです。
ここからは「全てが焼かれた」のではないことが分かります。例えば、最後まで残った大日如来像が金600両で入札されています。松岡調が目を付けていた仏像だけの価値はあったようです。これがどこの寺に収まったのか気になるところです。入札で、買い手が付いた仏像や仏画などは商人の手を経て、どこかの寺に収まったのかもしれません。また、全国ネット取引を通じて、横浜に運ばれ海外に流出したものもあるのかもしれません。それも仏像に「流出先 金毘羅大権現 明治5年競売」とでも書かれていない限りは、探しようがありません。どちらにしても大量の仏像・仏具が、明治初期には市場に出回ったことがうかがえます。
 そして、こうした仏像は「寺勢」のある寺に自然と集まってくるのです。古い仏像があるだけでは、そのお寺の年暦が判断できないのは、こんな背景があるからなのでしょう。
 
禰宜であった松岡調が「宝物」として遺した仏像類も何体かあったようですが、現在残るのは次の二体です。

Kan_non
①伝空海作とされていた十一面観音立像(社伝では正観音といわれており、旧観音堂本尊)重文
1 金刀比羅宮蔵 不動明王

②伝智証大師円珍作とされていた不動明王像
(旧護摩堂本尊)重文
 
備前西大寺には、金毘羅から二体の仏像が「亡命」しています。
これは万福院の宥明(福田万蔵)が、明治3年に岡山の実家角南悦治宅に移したものでした。裏谷の倉の中に保管されていた仏像群の中から不動明王と毘沙門天を選んで、密かに運び出したようです。このような例は、これ以外にもあったのではないかと思うのですが、その由来が伝わっているところは、あまりありません。確かに本尊伝来書に
「金毘羅さんで競売された仏を入札したのが現在の本尊」

と書くのは憚られます。それに、似合う物語を創作するのが住職の仕事でしょう。
西大寺の金毘羅大権現の本地仏
西大寺に移された仏像
以上をまとめておくと
①神仏分離で金毘羅大権現の仏像・仏具類は撤去され、裏谷の倉に保管された
②明治5年に、東京虎ノ門の事比羅社内に神道教館を設置することになり資金が必要になった。
③そこで、保管していた仏像・仏具類の入札販売を行うことになった
④6月から仏像・仏具・武器・什物の類の売却が始まり、7月末には売却を終えた。
⑤8月に残ったものを償却処分にした。
ここから多くの仏像は、競売品として売られていたことがうかがえます。それが、いまどこにあるのかは一部を除いてわかりません
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
松原秀明    神仏分離と近代の金刀比羅宮の変遷
西牟田 崇生 金刀比羅宮と琴陵宥常  国書刊行会

                                                        

   

CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現

明治維新の御一新のスローガンとともに、こんぴらさんに嵐をもたらした「神仏分離」政策。その結果、
金毘羅大権現は金刀比羅宮へ、
象頭山は琴平山へと名前を変え、
その姿も仏教伽藍から神社へと
姿を変えていきました。こうして、仏号であった金毘羅大権現はお山から「追放」されます。しかし、このような「宗教改革」に対して反発を感じている人たちも数多くいたようです。その中から従来通りの仏式で金毘羅大権現をまつるスタイルの寺院を作ろうとする動きもあったようです。今回は琴平山(旧象頭山)と峰続きの大麻山の麓の大麻村での「金毘羅大権現」復活計画の動きを見てみましょう。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
  現在の琴平町榎井には長法寺というお寺があります。
このお寺は、鎌倉時代に善通寺の復興に活躍した宥範僧正が隠棲のために建立されたと伝えられ、もともとは丸亀市亀水町とまんのう町の境にある上池の南西にあったようです。広い伽藍を持っていたとされ、『仲多度郡史』には南門から現在の高篠小学校に至る県道が門前町であり、付近からときどき古瓦などを掘り出すと記されています。
 しかし、1579年 天正合戦で土佐から侵入してきた長宗我部元親軍と長尾氏の戦いで灰燼に帰したとされます。現在も、上池の池底には石碑が建っていて、碑面には(俗世)アビラウソナソの梵字が刻まれているようです。その後、榎井の地に再建されて現在地にあるようなのです。しかし、その寺伝には
「故ありて明治16年2月大麻村字上の村に移転し、同28年再び元の地に復せり」
という気になる記述があります。明治の時代に、12年間ほど隣村の大麻村に移動していたというのです。なぜでしょうか?
長法寺の金毘羅大権現復活の試み
 神仏分離に伴う狂信的な廃仏毀釈運動も熱が冷めてきた頃、象頭山の麓の榎井や大麻では、仏教徒を中心に金毘羅大権現の信仰を守り、かつての繁栄を回復しようとする動きが出てきます。そこには
「新たに生まれた金刀比羅宮は、本来の神である金毘羅大権現を追い出した後に、大国主命とし迎えた神社である。本来の金毘羅大権現を祀る仏式の宗教施設を自分たちの手で作りたい」
という願いがあったようです。
20157817542
 その中心となったのが長法寺の檀家の有力者達です。
彼らは長法寺を「金毘羅大権現」を祀る寺院にしていこうと考えます。そのためには、信仰対象となる金毘羅大権現像とそれを納める礼拝施設(お堂)が必要になります。こうして長法寺は、明治16年に新たな伽藍建設地とを求めて麻野村大麻に移転してきます。
  長法寺の檀家指導者達が、先ず取り組んだのが祈りの対象となる金毘羅大権現像を迎える事でした。当時の神仏分離政策下において、明治政府は寺院への管理を強めていましたので、諸仏の勧進についても、各方面の許可が必用でした。そのため金毘羅大権現像の安置・勧進を求める長法寺と本山や県のやりとりをめぐる文書が残されています。それを見てみましょう。
   護法神勧請之義二付御願
当寺本堂二於テ金比羅童子 威徳経儀軌 併せて大宝積経等々煥乎仏説有之候 金毘羅神ヲ安置シ金毘羅大権現卜公称シ鎮護ヲ祈り 利済ヲ仰キ人法弘通之経路ヲ開キ申度蓋シ大宝積経三十六巻 金毘羅天授記品 及金毘羅童子威徳経 二名号利益明説顕著ナリ
今名号ノツ二ツヲ挙レバ 時金毘羅即以出義告其衆云云 
又曰時二金毘羅与其部徒云云 又曰金毘羅浄心云云 
其他増一阿含経大般若経大日経等之説所不少 
且ツ権現之儀モ義説多分ナレトモ差当り 金光明最勝王経第二世学金剛体権現 於化身云云如此説所分明ナル上ハ 仏家二於テ公称勧請仕候テ 毫モ異論無之儀卜奉存候 勿論去ル明治十五年一月四日附 貴所之布教課御告諭之次第モ有之 旁以テ御差悶無之候得ハ速二御免許被成下度此段奉伏願候也
 愛媛県讃岐国多度郡大麻村 長法寺 住職 三宅光厳印
   同県同国郡那珂郡琴平村  信徒総代塩谷太三郎印
   同郡榎井村檀徒総代    斎藤寅吉印
   同郡 同村檀徒総代    斎藤荒太郎印
 明治十八年一月十一日
 本宗管長 三条西乗禅殿
   明治十八年十月二十一日付で当時の長法寺住職の三宅光巌、信徒総代、増谷太三郎、檀徒総代、斎藤寅吉の連名で、本宗管長の三条西乗禅宛「護法神勧請之儀二付御願」と題する文書が提出されています。当時は香川県は愛媛県に併合されていたので「愛媛県讃岐国」となっています。さて内容は、
「金毘羅神を安置して金毘羅大権現と呼んで信仰活動を行いたい。それが人々を救い世の中を栄えさせることにつながる」として金毘羅神についての「神学問答」が展開されます。
そして、金毘羅大権現を仏教徒が勧進信仰しても、何ら問題はないと主張します。しかし、先年明治15年の神祇官布告もあるので、問題が生じた場合は直ちに停止するので、認めていただきたい。
という内容です。このあつかいについては、本寺との間に長い協議があったようです。本寺からの正式の回答は6年後の明治24年に出されています。ふたつの条件付で、真言宗法務所名で「護法善神」としての礼拝を許されます。二つの条件について見ておきましょう。
     内  諭
長法寺住職 三宅 栄厳
護法神金毘羅大権現勧請之義 御聞置相成候二付ハ左之条々ヲ遵守スベシ此段相達候事
           真言宗 法務所印
  明治廿四年一月廿六日
   第壱条
 金毘羅大権現者仏家勧請之護法神タリト雖モ 従前象頭山金毘羅大権現卜公称之神社アリシヨリ 目下金刀比羅神社卜同一ノ物体ナリト意得ノ信徒等有之候 テハ却テ護法神勧請ノ本旨二背馳シ
神仏混淆廃止ノ朝旨ニモ戻り 甚夕不都合二候 宝前二於いて法式ヲ執行シ信徒之為メニ祈祷等ヲナサント欲セハ必ス先本宗ノ経軌ニヨリテ事務シ 毫モ神社前二紛敷所為など供物等不相備様屹度可致事
  第貳条
本堂内二勧請之尊体ハ固ヨリ 経説ニヨリテ彫刻スベキハ勿論 萬一他二在来ノ尊体ヲ招請スル訳ナレバ授受ノ際 不都合無之様注意シ 尚地方廳エハ順序ヲ践テ出願シ 其許可ヲ得テ 該寺シ内務省ヘモ可届出筋二付 此旨相意得疎漏之取計方無之様可致候事 以上
第一条では、金毘羅大権現は仏教の「護法神」ではあるが、以前は金毘羅大権現を公称する神社もあったので、そこと混同されるおそれがある。そうなると「護法神」の本旨にも背き、また「神仏分離」という政府の政策にも背くことになる。そのために法式や祈祷を行うときには、神前と異なることにくれぐれも留意しておこなうこと
第二条では
尊体(金毘羅大権現像)を迎えるに当たっての注意で、什宝帳への記載や郡庁や県丁への出願手続きに遺漏がないように求めています。
 この時期に、長法寺は本山の推薦で新住職を迎えています。
 明治二十三年十月一日付で、新たな住職として兵庫県武庫郡良元村、西南寺住職、権大僧都、筧光雅を迎えます。「兼務」ですので、長法寺には常駐することはなかったようですが、トップが変わることで体制づくりは進んだようです。そして、新住職の就任を祝うかのように本山から金毘羅大権現像が長法寺に寄付されます。
   寄 附 状 (写)
讃岐国多度郡麻野村 長 法 寺
 金毘羅大権現   木像 壱躯
  右令寄附畢
 明治廿四年三月十日
       大本山仁和寺門跡
       大僧正 別處 栄厳
  こうして待ちに待った金毘羅大権現さまが寺にやってきたのです。しかし、当時の神仏分離政策下において、明治政府は寺院への管理を強めていましたので、諸仏の勧進についても許可が必用でした。そこで檀徒惣代、安部長太郎と連名で麻野村長、渋谷丑太郎の副申を添え、香川県知事、谷森真男宛に兼務住職届と、同時に金毘羅大権現木像の什物帳編入願いが提出されます。  
御管内多度郡麻野村大字大麻長法寺儀 
別紙願面三通 金毘羅大権現木像壱躯 什物帳へ編入之義 
出願事実相違無之候
条右御聴許相成度此段副伸候也
    京都葛野郡花園村御室
     仁和寺門跡大僧正別處栄厳代
      権少僧正 鏝  瓊 憧
 明治廿四年五月十六日
香川県知事 谷森 真男 殿
これには仁和寺門跡、真言宗長者の副中と麻野村長渋谷丑太郎の次の添書が付けられていました。
御管下多度郡麻野村大字大麻長法寺 
明細帳へ金毘羅大権現木像壱体編入之儀 
別紙願出之通事実相違無之候条副申候也
  明治廿四年五月十九日
      真言宗長者  大僧正 原  心猛印
 香川県知事 谷森 真男殿
   しかし、県はこれを認めませんでした。
 そこで、翌年に、住職筧光雅は不在なので代理人の吉祥寺(高篠村)住職三輪慈長と外檀信徒惣代六名の連署を付けて、再度、金毘羅大権現像の什物編入を願い出ます。
今度は副中書(別掲)に詳しく補足説明を付けています。しかし、これも県は却下します。
 そこで、長法寺は次の手立てとして「仏体寄附ヲ受ケタル届書進達之義二付具申書」を那珂多度郡長高島光太郎に提出して、この一件についての理解と、とりなしを請願します。
 郡長高島光太郎が、出願に当たっての今までの不備を指摘、指導を加えた文書が残っています。こうして、明治二十五年七月三十日付文書は、郡長の指導を受けて作成したもので、三度目の県知事宛の願書を提出します。様式などに問題が無かったので、県も受けいれざる得なかったのでしょう。この結果、九月二十日付で、金毘羅大権現木像外四躯の仏像が宝物古器物古文書目録への編入を許されました。
 しかし、金毘羅大権現勧請については許可が下りませんでした。そればかりか、今までは許されていた明細帳に載せられた本尊以外の仏像の勧請や信者の参拝についても、その都度の許可が必用とされるようになります。これは常識的には考えられません。お寺にある仏像を拝むのに、いちいちその都度許可を求める内容です。
県が頑なに金毘羅大権現の復活を拒む理由は何だったのでしょうか?
大国主命を祭神として祀る金刀比羅宮としてリニューアルされた金刀比羅宮にとっては、足元の大麻村に金毘羅大権現が復活する事は、面白い事ではなかったはずです。
そして、金刀比羅宮の禰宜を勤めていたのは、以前に紹介した松岡調です。彼は明治維新期の讃岐の神仏分離政策を担った神道家であり研究者でもありました。彼が当時の香川県の宗教政策に影響力を持っていたことは、延喜式神社の指定選考過程にも見られます。
  また、当時の神道の教学・指導の宗教行政の中心は金刀比羅宮の中にありました。境内にあり廃寺となった3つの脇坊の建物が利用されていたのです。これらの神道組織を指導するのも松岡調の仕事の一つでした。つまり、当時の彼は県の宗教行政に大きな影響力を行使できるポストにあったのです。
 度重なる長法寺の金毘羅大権現像をめぐる動きに、県が許可を下ろそうとしなかったのは、松岡調の意向に「忖度」してのことだったのかもしれません。

 しかし長法寺は諦めません。
明治二十八年二月十四日に「金毘羅大権現木像勧請之義二付御願」なる書面を県に提出します。しかし、これも新任の小畑知事と、その側近によって一蹴されます。
  そこで長法寺は戦略を転換します。県を相手にするのではなく、国を相手にしたのです。
明治二十九年五月十四日、長法寺は「本堂建築願」を内務大臣板垣退宛てに提出します。ここにはかねてからの目論見である鎮守堂(護法善神としての金毘羅大権現堂)を中心とした千六百坪に及ぶ境内に本堂、書院、庫裏等の配置伽藍建設案が示されており、仏教中心のこんぴら信仰の復活を目指そうとするものでした。

長法寺の新伽藍工事始まるが・・・・
 そして、この願いは明治政府によって認められるのです。長法寺は、香川県の敷いた障害を越えたかのように思えました。関係者の喜びは大きかったでしょう。
 ところが建立工事が始まると、勧進資金が思うように集まりません。そのため資金不足で新伽藍建設は思うように進まなかったようです。その上に、台風が襲いかかり、建設途中の建物は大きな被害を受けました。こうして新伽藍の工事は中断したままで、工事資金をめぐる勧進の進め方についても信徒間での意見が対立するようになります。長い対立の後に、明治39年になって建設断念派が推す住職が就任し、お寺を元の榎井村にもどして新築する次の申請が県に出されます
  長法寺移転二付境内建物明細書
   寺院移転ノ儀二付願
 香川県仲多度郡善通寺町大字大麻
   真言宗御室派 長 法 寺
右寺儀今般檀徒及ビ信徒ノ希望二依り旧寺地ナル 仝那榎井村参蔭参拾番地へ移転致度候
条御許可被成下度 別紙明細書及図面相添へ此段上願仕候也
    右寺法類
     龍松寺住職 長谷 最禅
     圓光寺住職 出羽 興道
こうして金毘羅大権現信仰復活の拠点として、建設が目指された長法寺の新伽藍計画は、あっけなく幕を閉じることになります。
いままでのことを、最後にまとめておきましょう
I 金毘羅さんは金毘羅大権現と呼ばれ「寺院」として信仰されてきた。ところが明治政府の神道国教化の有力拠点としての思惑から仏教的な金毘羅大権現は追放され、代わって大国主命を祭神とする金刀比羅宮に生まれ変わった。
2 これに対して、金毘羅大権現の復活をはかる動きが地元で起きたが、県の「妨害・阻止」もあり、スムーズには新伽藍の建設は進まなかった。
3 神仏分離から30年近くたって新伽藍の建設工事の許可が下りたが、時流は金刀比羅宮に流れ、金毘羅大権現の伽藍建設を支援する募金活動は広がらずに、資金不足で中断に追い込まれた。
4 そして、長法寺はもとの榎井の地に新伽藍を小規模で建立し、現在に至っている。

ここから分かることは金毘羅大権現から金刀比羅宮への素早い「変身」ぶりに反感を覚え、古い形のこんぴら信仰を残そうとする動きが地元にあったということは、記録に留めて置くべき事のように私は思います
 
参考史料 榎井の長法寺について ことひら 昭和63年所収

      
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白峯寺の境内には、崇徳院白峯御陵の御霊を廟として祀るために、後白河法王によって頓証寺が建立されていました。ここには、古くから皇室や武家が崇徳上皇の霊を慰めるため夥しい数の什器・宝物類が、寄進されてきました。永徳2年(1382)火災によって、大半は焼亡しましたが、それでもなお多くの宝物が幕末には残っていました。これは神仏習合の下では、白峯寺により守られてきました。それらの寺宝が、その神仏分離の嵐の中で、どのようになって行くのでしょうか?

siramine19讃岐國名勝図会:明治維新直前の景観
維新直前の白峰寺(讃岐国名勝図絵)
最初に白峰寺をめぐる年表を見ておきましょう
明治2年 明治天皇の命で、崇徳上皇霊を新に創建した京都白峯神宮に遷祀。
明治6年 白峯寺住職恵日が復飾し御陵陵掌に転じ、寺は無住化。
明治8年 白峯陵掌友安十郎、白峯寺堂宇の取払いを建議。
明治11年 寺は白峯神社と改称、金刀比羅宮の摂社となる。
明治31年 仏寺に復する。頓証寺は白峯寺に返還される。
崇徳上皇陵

  明治元年(1868)三月に新政府によって出された神仏分離令については、讃岐の神仏混淆の各寺院は、何が起きているのか分からず、当初は模様眺めであったようです。金毘羅大権現社のように、別当自らが京都にのぼって打開策を探ると云うのは特異な行動でした。模様眺めの白峰寺にとって寝耳に水のような知らせが届きます。
新政府の神祇科は、御陵を宮内省の管轄に移し、御霊を京都へ移すというのです。

崇徳上皇
崇徳上皇
 京都の今出川通りの西に廟を造営して、崇徳上皇の御霊はここに祀るというのです。これは、白峰陵の御霊を京都の新しい神社に移すということです。
   崇徳上皇の御霊代(みたましろ)である御真影と愛用の笙(しょう)を頓証寺から受け取るために京都から勅使がやってきて「奉還」されることになります。しかし、白峰寺は何も出来ません。やってきた勅使が御霊を抜き、御像を移す儀式を、僧侶である白峰寺の住職は見守るしかなかったようです。事前に遷還に奉仕したいと願いも許されませんでした。こうして勅使を載せた御用船が、坂出港から京に向かって出航したのは、明治元年8月28日のことでした。

京都の崇徳天皇廟
           京都の崇徳天皇廳 

約七百年余にわたって崇拝の対象となっていた崇徳上皇の御霊がなくなるということは、白峰寺にとっては精神的に大きなダメージになりました。
  さらに追い打ちをかけるように明治4年には寺領上知令が出されます。
これにより境内以外の寺領は国家に没収されることになります。これは、中世以来の朱印地を全て失う事でした。この間に、脇坊の僧侶の中には寺を廃寺として、寺院の土地、建物を私有化する者も現れます。財政基盤をなくし、白峰寺の将来を考えたのか当時の白峯寺住職・恵日は、明治6年10月に還俗して、隣の崇徳天皇白峯御陵の陵掌に転身します。僧侶から神職になったのです。このため白峰寺は住職がいない無住寺院となります。明治5年の太政官布告234号で「無檀家・無住寺院は廃寺」の通達が出ていましたので、主をなくした白峰寺は廃寺となってしまいます。

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頓証寺

  四国巡礼の札所がこんなありさまになったのを、なげき立ち上がったのは講中、信徒たちです。彼らは明治8年7月、白峯寺住職選定の願いを阿野郡大区長片山高義あてに出します。これに対して大区長はすぐに名東県令(当時は愛媛と合併)古賀定雄に取りつなぎます。当時は、廃寺になった各地の札所からの復興要望が出されていたようです。また、中央政府も神仏分離の行き過ぎを修正し、廃寺になった寺院に対する救済策がとられるようになっていたために直ちに聞き届けられます。その結果、明治11年には牟礼・洲崎寺の橘渓導が住職として、無住となっていた白峰寺に入ります。
 神霊奉還後の頓証寺を見ておきましょう。
中央に崇徳上皇宸筆とされる「南無阿弥陀仏」の六字名号を御霊代として安置されていました。これは、流石に京都からやってきた勅使も持って行かなかったようです。

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       頓証寺の中央に奉られる崇徳天皇

頓証寺には、中央に崇徳天皇、向かって右側に十一面観世音菩薩、右側に山ノ神相模坊(天狗)を祀っが祀られていました。この姿は神社ではなく、仏舎であったことを物語っています。御陵は宮内省に属して、白峯寺の管轄を離れ、陵掌の守るところとなっていました。が、頓証寺は寺号であったので、白峯寺の一部として依然その管轄下にあったのです。

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左に(白峰)相模大権現(白峰の天狗)
ところが、第三の災難が白峰寺にふりかかってきます。
明治11年、金刀比羅宮の禰宜松岡調から頓証寺を神社して、金刀比羅宮の摂社とするが願い出られたのです。これに対して、県や国の担当者は、白峯寺への現地調査も聞き取りも行わずに、机上で頓証寺を金刀比羅宮へ引き渡すことを認めてしまいます。この時から頓証寺は白峯神社と呼ばれる事になります。つまり頓証寺という崇徳天皇廟の仏閣がたちまちに神社に「変身」してしまったのです。ある意味では、これは金刀比羅宮の「乗っ取り」といえます。

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頓証寺の相模(白峰)大権現(天狗)
こうして頓証寺は金刀比羅宮の摂社とされ、白峯寺から「所有権」が金刀比羅宮に移ってしまいました。
これが明治11年4月13日のことです。この時に白峯寺の宝物は、上下二棟の倉庫に納められていました。上の倉には准勅封として帝に関する宝物を納め、さらに下の倉には白峯寺に関するものが納められていました。上の倉は、頓証寺を摂社化した金刀比羅宮が引き継ぐことになります。そして、残りが寺側の所有となったのです。これは、現代風に云えば「資産乗っ取り」と云えます。

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崇徳上皇白峰御陵
  なぜこのようなことを県や国担当者は許したのでしょうか。
担当者が事情に通じてなくて、軽はずみに判断したためとも云われます。しかし、私にはそれをすんなりと信じる事は出来ません。なぜなら、この時期の金刀比羅宮の禰宜職は松岡調なのです。彼が讃岐の神仏分離の立役者であったことは、以前触れましたので省きます。松岡貢と白峰寺の接点としては次の点があげられます。
①松岡調が若いころの1850年代に「讃岐国名勝図絵」の挿絵を担当し、白峰寺も描いていること。
②明治の神仏分離の際には、「神社取調」調査の担当者として、白峰寺を担当していること
以上から、白峰寺と頓
頓寺の事情と頓証寺が保管する「宝物」は周知していたはずです。そして当時の彼は讃岐神道界のリーダー的な存在として発言権を高めていました。同時の彼が禰宜を務める金刀比羅宮は、香川の神道界の中心的な立場にもありました。彼の手回しで「頓証寺の白峯神社化と摂社化が進められ、宝物は金刀比羅宮のものとするという手順」案が作成されたと私は考えています。そして、当局への根回しも行われていたのではないでしょうか。

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白峯御陵への階段
 当時の松岡調の提言は、おそらく次のようなものだったでしょう。

崇徳上皇は讃岐の地に移られてから親しく琴平の宮に参籠されおり、ここには「古籠所」・「御所の屋」という上皇ゆかりの旧跡も残っている。そのようないきさつから、琴平の宮では古くから上皇の御霊をひそかにお祀りしてきた。頓証寺に祀られていた上皇の御霊が京都に還った以上、頓証寺は抜け殻になってしまったのだから琴平の宮が上皇を祀る讃岐の中心でなければならない、

というようなものだったのではないでしょうか。
この結果、頓証寺が長年にわたって皇室や武家から寄進を受けてきた什器・宝物類が金刀比羅宮に移されることになったのです。同時に金刀比羅宮では崇徳上皇が祭神として祀られるようになります。

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白峰御陵

廃仏毀釈の嵐が弱まると、白峯寺の渓導住職や信徒らは、頓証寺の復興計画を立てます。
そして、白峰神社(旧頓証寺)の返還を金刀比羅宮に求めるようになります。こうして、金刀比羅宮への反撃が始まったのです。しかし、協議では解決できないと見るや、金刀比羅宮を訴訟します。その言い分は、次の通りです。

白峯寺と頓証寺は、金刀比羅宮と歴史的に何の関係もない。にもかかわらず、金刀比羅宮が頓証寺を自社の末社として古くから頓証寺に伝わる宝物まで占有管理しているのはおかしい、


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白峰御陵

 明治17年に裁判所は、白峯寺勝訴の判断を下します。
その後も、いろいろなやりとりが金刀比羅宮との間で行われますが、明治28年に松岡調が大陸における布教事件で失脚して後の明治31年9月に、県の命令で、白峯神社は白峰寺に返還されることになります。こうして金刀比羅宮から境内・建物の返還を受け、頓証寺として元の仏堂にもどすことができたのです。
 このため金刀比羅宮には祭神とした崇徳上皇を祀る神社がなくなってしまいました。そこで、本社から奥社への参道沿いの現在地に「白峯神社」が「創建」されたようです。

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「崇徳上皇陵」ではなく「白峰陵」

 しかし、20年ぶりに金刀比羅宮から頓証寺は変換されましたが、問題は残りました。金刀比羅宮は、摂社とした頓証寺から多くの宝物を持ち去っていました。その宝物の変換を白峰寺は要求します
白峯寺の言い分は、
歴史的経緯からいってすべて頓証寺に返還するのが当然だということです。

一方の金刀比羅宮の言い分は、
明治11年から20年間頓証寺が白峯神社として金刀比羅宮の末社であったことは政府の命令に基づき行われたことであって、すべての宝物を返還する理由は無い

ということのようです。
 結局、この問題は最終決着がつきませんでした。その結果、頓証寺から金刀比羅宮に移された宝物の多くが金比羅宮に残されたのです。その代表例が下の重要文化財の絵巻物「なよ竹物語」です。

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 昭和40年にもこの問題がぶり返し、地元の青年団から金刀比羅宮に対して、宝物返還の嘆願が出されています。どちらの言い分が正しいかどうかは別として、歴史的な経緯は後世に正しく伝えていく必要があるというのが歴史家の考えのようです。

なよ竹物語
 
 最後に明治の神仏分離政策が白峰寺に与えたダメージは
1 天皇家によって崇徳上皇の御霊を京都へ移され
2 明治政府によって土地財産を奪われ
3 その結果、お寺は一時的にせよ廃寺となり
4 さらに金刀比羅宮によって頓証寺の摂社化と、その宝物の「横取り」された。
5 その復活・復興に30年を要したということになるようです。

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  明治を迎える直前に新政府から出された神仏分離令によって、各藩では神社の御神体チェックが始まります。その後の「神社取調」に示された項目に従って各神社の「身元調べ」が行われたことを前回はお話しました。その調査スタッフの中心メンバーが松岡調(みつぎ)でした。今回はこの人物について見ていきたいと思います。
彼は、高松藩士・佐野衛士の四男として天保9年(1830)生まれています。
友安三冬(良介)から国学、中村尚輔から和歌、森良敬から絵画を学ぶとあり、平田神学や水戸学とのつながりはみられません。
  「天性学を好み友安良介に従い 皇典の学を学び、後に松岡氏を継ぎ、多和神社の禰宜(ねぎ)となり、・・・」
とあり、20歳の時に多和神社に養子に入り、36歳で養父の松岡寛房を継いで神主に就任します。
多和神社 (香川県さぬき市志度 神社 / 神社・寺) - グルコミ
多和神社は、志度寺の守護神の八幡神を祀る神社で「多和八幡宮」と呼ばれ、
志度寺の境内に隣接していたようです。しかし、15世紀後半に志度寺とともに焼失します。江戸時代になって、高松藩藩主松平頼重の手で志度寺と同時に再興されますが、場所は現在地に移転します。高松藩からの保護を受けると同時に、港町として賑わう志度の氏子達の信心も集め、経済基盤もしっかりとした神社であったようです。現在は式内神社とされますが、この指定経過には問題が残るようです。
多和神社
 
松岡調が多和八幡宮の神主となった頃は、明治維新の嵐が四国にも吹きつけ、高松藩が「賊敵」として土佐藩などに占領される時期でもありました。このような激動の中で、明治2年(1869)に高松藩の家老の推薦を受けて藩校・皇学寮の教授に就任します。
 時を同じくして、新政府は、神仏分離令を出し、そのために「御神体チェック」や「神社取締」作業をおこなうことを矢継ぎ早に各藩に通達します。讃岐において、これらの作業の中心的な存在として活動したのが藩校教授に就任したばかりの松岡調でした。その後の調査経過については、前回にお話ししましたので省略します。

 以後、松岡調は東讃から高松にかけての担当エリア五郡の神社についての「神社取調」を進めます。各神社の御神体をチェックし、そこに何が保存され、どんな文書や絵図などがあるかを頭の中に入れていきます。今なら研究者にとっては絶好のフィルドワークです。神社・仏閣に出向いて、そこに保管・保存されている文書や絵図類を「強制力」を行使して見る事が出来るのです。現在の研究者にとってはうらやましいと思う人も入りかも知れません。この2年間あまりの経験は、彼を研究者として大きく成長さる契機となったと私は考えています。この経験が神道界のみならず、文化財や郷土史などの面でも第一人者としての立場を築く事になったようです。

 神社取調が一段落した明治3年の春、桜の季節に松岡調は、妻と娘と共に金刀比羅宮に参詣しています。
そして、金毘羅大権現の仏教伽藍から神社へのリニューアルが進む金刀比羅宮の様子を細かく日記に記していますので見てみましょう。
 金倉川に掛かる普請中の鞘橋を見ては、その美しさを讃えます。内町から小坂までの家の門毎に桜が一本ずつ植えられているのを見て、四、五年経った年の春の日の花をしのび、大門まで登って金毘羅神が去り給うたことを記した立札を見ています。
 琴陵家を訪ねて、書院の広く美しいのを見て、娘は手をうって喜ぶ。護摩堂・大師堂によって、内には檀一つさへないのを見て涙する妻に対し、かしこきことなりと言って、わが心のおかしさを思う。
本宮に詣で、拝殿に上りて拝み奉る。御前の模様、御撫物のみもとのままにて、その外はみなあらたまっているのを見る。白木の丸き打敷のやうなるものに瓶子二なめ置き、又平賀のような器に鯛二つがえ置きて供えている。さて詣でる人々の中には受け入れられない人々もあろうが、己れらはその昔よりはこの上なく尊くかしこく思われた。
 絵馬堂を見て、下りに諸堂を廻る。観音堂も金堂も、十五堂も、皆仏像をとりのぞきたる跡は、御簾をかけて白幣を立てていた。(中略)     
      金刀比羅宮文書 「松岡調日記抄」
  高松街道を徒歩か人力車でやって来たのでしょう。大門には
「金毘羅神が去り給うたことを記した立札」
があったと記します。
神仏分離によって山号は象頭山から金毘羅山へ、社号は金毘羅大権現から金刀比羅宮へと「転身」したことを告げる告知文を読んだのでしょう。そして、旧金光院であった琴陵家を訪ね、書院で接待を受けた事を記します。
この時の当主は琴陵宥常(ありつね)で、松岡調よりも十歳若い若者でした。
維新の際には、上京し神祇科との交渉を重ね金毘羅大権現の存続のための働きかけを行い、金刀比羅宮として生き残る道を開いた若き指導者でした。それから、着々と改革を推し進めていました。宥常については前回にお話ししましたので省略します。
   本宮に参拝すると
が御供えしているのを見て、参拝者の中には受けいれられないかも知れないが自分にとっては「尊くかしこく」感じられた
と述懐します。
金刀比羅宮の仏閣の時代には生魚が御供えされるということは考えられなかったことでしょう。ここに「神仏分離」の新時代の到来を感じたのかも知れません。帰りに見た金堂(現旭社)なども仏像が取り除かれ、御簾がかけられ御幣がたててあった記します。

 松岡調が、東讃・高松地区の神社の「神仏分離」を行っている間に、金刀比羅宮でも改革が進んでいたようです。
 この時の琴平訪問は、「面接」のようなものだったのかも知れません。翌年の1月から彼は、藩校の教授を兼務しながら、ここで禰宜として勤める事になります。それは以後、23年間続く事になるのです。松岡調は、翌年に禰宜就任に当たって次のように述べています
 いみじきことなり、わがすめらみくにの神社仏堂のうちにて、かかるところはおさおさあらじとぞ思われる
当日の彼の日記には 月給20円を受け取ったと記しています。

 翌々年の3月に政府が任命した深見速雄が鹿児島より宮司として赴任してくると、そのもとで宥常が社務職として、松岡調が禰宜として金刀比羅宮の改革を推し進めていく事になります。若い指導者の下で、金刀比羅宮は新たな輝きを放ち始めるのです。

琴陵宥常と松岡調と神仏分離の年表
1857 10月22日宥常18歳で 第19代金光院別当に就任
1868
 3月13日 明治政府が神仏分離令を通達
 4月21日 金光院宥常は、嘆願のために上京
 6月14日 金光院宥常は京都で還俗し、琴陵宥常と改名
       神祇官からの達書で神号は「金刀比羅宮」
 8月18日 宥常に社務職付与 しかし宥常が求めた大宮司は許されず
 10月28日 多度津藩が「藩内一宗一寺」統合案発表。
       領民の反対運動が高まる。
1869 2月 琴陵宥常が京都での陳情活動を終えて1年ぶりに帰讃
              神祇伯白川家の古川躬行が琴平到着、以後逗留して改革指導
 2月5日  松岡調が「御神体検査」メンバーにとして「神社取調」開始
1871 1月 5日 「社寺領上知令」が出され、社寺領を上知(没収)
     4月12日 松岡調が、妻と娘と共に金刀比羅宮に参詣
     6月    金刀比羅宮は事比羅宮となり国幣小社に列せられる
1872 1月27日 事比羅宮の祢宜に松岡調が就任   以降23年間、禰宜
     3月21日 事比羅宮は県庁の指示で職員を三十数人にまで削減
1873 6月      仏像・仏具の処分開始 ~7月まで
1874 3月    鹿児島より深見速雄が宮司として赴任

その後の松岡調
松岡調

 神仏分離にともなう讃岐の神社仏閣の調査・研究によって、松岡調は古典考証学や考古学に通じ、さらには東京大学に遊学し、研究活動を深めました。仕事を通じて日本各地に出張して学者・文人たちと交わり、各地の典籍・書画・考古遺物の蒐集・調査、讃岐郷土史の研究などを深化させていきます。1885年には、多和神社内の自邸に蔵を建てて「香木舎」と命名し、自分が集めた典籍や事物を保管します。これが現在の多和文庫につながります。
 しかし、日清戦争の時に、金刀比羅宮が朝鮮半島や遼東半島において、政府や軍の許可なく神道布教を図ったことが問題になり、1895年に長年勤めた金刀比羅宮禰宜を解任されます。
 文久4年(1864年)から死の直前まで書かれた『年々日記』は、讃岐における廃仏毀釈・神道国教化の動きを知る上での根本史料です。しかし、残念ながら一般公開されていません。これが讃岐の神仏分離の研究を進める上では大きな障害となっているように私には思えます。
  それともうひとつ讃岐式内社の「選定」めぐる経緯に関しては、問題があると思います。選定の責任者として歴史考証・史料批判等も行わず松岡家が社家を勤める神社を多和神社として、指定したと後世に云われても仕方のない手順が取られているように思います。研究者らしからぬ対応ぶりです。多くの功績を残した人物ですが、晩節を汚したと云われても仕方がないように思えます。
 これに対してはこんな声も聞こえてきそうです。
維新の際の神仏分離の「神社取調」とは、「研究」ではないのだよ。「政治」だったのだ。式内神社の指定もまたしかり・・・と・・・

 明治と年号が変わる直前の慶応4年の3月に新政府から神仏分離令が出されます。この一連の通達を受けて、丸亀藩や高松藩はどのように対応したのでしょうか? 新政府の通達を見ると
「仏像をもって神体とし、また仏像、仏具を社地に置いている場合はすべて取り除き・・・・」
とあります。
 この通達をうけた各藩が先ず行わなければならなかったのは何でしょうか?
それは「神社の御神体のチェック」ということになります。まずは、何を御神体として祀っているのかを確認しなければ、取り除くかどうかも判断できません。こうして明治2年2月5日、「御神体検査」を行う実行メンバーが招集され、八日には打合会が開かれ辞令が公布されます。そして、担当エリアと担当者が次のように決まります。
松岡調   大内、寒川、三木、山田、香川東の五郡
吉成好信 黒木茂矩 香川西、阿野。鵜足、那珂の四郡
大宮兵部 原石見  三野郡
川崎出雲、真屋筑前 豊田郡
 東讃から高松にかけて五郡をひとりで担当する松岡調がリーダー的存在だったようです。彼らに課せられた「御神体チェック」は、先祖が大切に本殿の奥深くに祀ってきた御神体を白日の下にさらすということです。これは、当時の人々にとっては、まさしく恐れを知らぬ行為と思われても仕方がありません。検査官」を見守る人々は、恐怖と不安で眺めていたでしょう。御神体のベールをはがそうとする「検査官」を、敵意のこもった目でみる人もいたかも知れません。調査に当たった人たちもお役目とはいえ、相当の胆力が求められたように思います。御一新の世の中だからこそ出来たことかも知れません。
 さて「御神体チェック」は、どのように行われたのでしょうか?
松岡調が残した高松市周辺の神社の調査記録を見てみましょう。
松縄村熊野社 神体円石 梵字 仏像仏具は本門寿院へ。
伏石村八幡宮 大石
太田八幡宮  新しき木像外に厨子入り小仏像、本地堂は大宝院へ。
一ノ宮村田村大社 男女木像、鏡三面。
 ここからは御神体として、神像、鏡、石、仏像・鏡などが納められていたことが分かります。仏像・仏具類は近くの寺院へ移しています。粗略に扱ったり、集めて燃やすなどの「廃仏」的な行為は、行っていません。これは、小豆島巡礼の八幡さんに祀られていた仏さんが神仏分離で、近くの新しくお堂に移されていたり、かつて四国巡礼の札所で会った観音寺の琴弾神社にあった仏さんが、観音寺の境内に移されているのは、この時の検査チェックの結果だということが分かります。一宮の田村神社には、仏さんは祀られていなかったようです。
 この他にも、棟札などの古いものを入れてあるところもあります。また神像にも木像、立像、坐像、男神、女神と実にさまざまな御神体が出てきました。「御一新」の名の下に社殿の奥深くから引き出され白日のもとにさらされた神々もびっくりしたでしょう。
 こうして御神体が仏像などであった場合は、取り除かれました。
すると御神体がなくなる神社が出てきます。そこで新政府は、明治二年(1869)5月
「御神体なき神社には新しい御神体を勧請せよ」
という通達を出しています。この時に、新しくご神体を調えた神社も多かったようです。
  調査が進められている中で、さらなる通達がやってきます。
【太政官布告】 第七百七十九(布)太政官 (明治3年)閏10月28日 
今般国内大小神社之規則御定ニ相成候 
条於府藩縣左之箇条委細取調当12月限可差出事
 某国某郡某村鎮座 某社
1.宮社間数 並大小ノ建物
1.祭神並勧請年記 附社号改替等之事 但神仏旧号区別書入之事
1.神位
1.祭日 但年中数度有之候ハゝ其中大祭ヲ書スヘシ
1.社地間数 附地所古今沿革之事
1.勅願所並ニ宸翰勅額之有無御撫物御玉?献上等之事
1.社領現米高 所在之国郡村或ハ?米並神官家禄分配之別
1.造営公私或ハ式年等之別
1.摂社末社の事
1.社中職名位階家筋世代 附近年社僧復飾等之別 1.社中男女人員
1.神官若シ他社兼勤有之ハ本社ニテハ某職他社ニテハ某職等の別
1.一社管轄府藩縣之内数ヶ所ニ渉リ候別
1.同管轄之庁迄距離里数
ここには、示された項目に従って、藩内の神社すべてを調査して12月までに提出せよという内容です。これが「神社取調」と呼ばれる作業になります。

神社取調ひな形様式2 M15年茨城県

項目を見れば、神社については、社殿の間取りや大きさから始まり、いつ勧進してきたのか、新旧の社号、神社の歴史沿革、勅願所の有無、社領の石高、さらには神官については神職の職名や、僧侶からの還俗者であるかどうか、他社との兼務有無など多岐にわたっています。
 これは、新政府の神祇科が進めようとする神社のランク付け(神社位階)や延喜式の式内神社指定の根本資料になるものでした。この作成を行う事になったのが「御神体チェック」作業を行っていた7人のメンバー達でした。彼らはすでに、主な神社には出向いて調査を行っていました。さらに各神社に通達を出し、これらの項目についての回答を求めると供に、再度出向いて確認も行ったはずです。彼らは調査権を行使できる立場にあったのです。彼らは、讃岐の神社の実態データーを握ったことになります。そして、神社の専門家に育っていきます。

神社取調帳 徳島県
 さて、調査される側の立場に立って見ましょう。
この調査票が送られてきた神社は、どう対応したのでしょうか。
 神職がいた神社は対応ができたでしょうが、神職がいない「村の鎮守さま」などはどうしたのでしょうか。村の庄屋層たちが集まって、協議したでしょう。しかし、村の鎮守のような小さな神社は、歴史・沿革などは分からないこと多かったようです。にもかかわらず、藩からは期限を切って提出を求められてきます。提出しなければ神社として認められないのです。存続のためには「創り出す」ほかありません。後世の適当なことを付会することに追い込まれた所も多かったようです。極めて短期間に、この「調書」は作成されたようです。そのため
「神社取調とは、大半の由緒不明の神社で、付会・でっち上げを行う過程であった」
と指摘する研究者もいます。
こうして、提出期限までの約2ヶ月の間に、各神社の「取調」書が作成され新政府の神祇科(じんぎ)に送られました。この作業に従事したメンバーは讃岐の神社について最も精通している人物たちに成長していきます。なかでもその後の神道界の権威になるのが松岡調です。彼については次回に見ていく事にして、先を急ぎます。
 明治三年11月には政府から
「伝説による神号で呼んでいるところは神道による神号へ改めよ」
という通達が来ます。
この結果「伝説神号」とされた次のような神社名が新しい名前に改められます。
祇園社    → 須賀神社
王子権現   → 高津神社
妙見社    → 産巣日神社
皇子権現社  → 神櫛神社
十二社権現社 → 木熊野神社
金毘羅権現  → 琴平神社
こうして、讃岐の二十六の神社に新しい神号が与えられます。
4-Z6-25-2復飾取調書上帳
調査が進んでいくと、金毘羅大権現がたどった道と同じような道を歩む寺院が出てきます。つまり、神社の別当寺の僧侶が還俗し、神主となるという対応です。
その結果、次のような別当寺が廃寺となります。
大川郡では志度町鴨部にあった西光寺ほか十二力寺。
木田郡では牟礼村の愛染寺、最勝寺ほか五ヵ寺。
小豆郡は土庄町渕崎の神宮寺ほか四力寺。
香川郡は香南町の由佐にあった宝蔵寺。
綾歌郡では綾南町滝宮にあった竜燈院ほか三ヵ寺。
高松市は前田地区の押光寺ほか十四ヵ寺。
坂出市が川津町の宝珠院ほか三ヵ寺。
丸亀市は土器町の寿命院ほかIヵ寺。
仲多度郡は琴平町の金光院ほか一力寺。
観音寺市は粟井町の大円坊一力寺のみ。
三豊郡では山本村財田大野の阿弥陀院ほか六ヵ寺。
   讃岐全体では総数で六十一力寺が廃寺となりました。  しかし、この数は高知と比べると1/8程度の数です。
どうして、讃岐では廃寺となる寺院が少なかったのでしょうか。
  それは還俗する僧侶の数が少なかったからです。高知では全体の2/3近い僧侶が還俗する「雪崩現象」が起きましたが讃岐ではそれが見られません。その原因を考えて見ましょう。 
 以前にも示しましたが神仏分離令を契機として、廃仏毀釈へと運動が燃え広がって廃寺が多く出た藩には、次の共通する3つの要因があります。
平田神学・水戸学などの同調者が宗教政策決定のポスト近くにいたこと。
廃仏に対する拒否感のない殿様がいたこと。
庶民の寺院・僧侶への反発や批判が強く、寺院擁護運動が起きなかったこと
①については、讃岐の神社・仏閣の調査メンバーは、平田神学信奉者ではなく過激な「廃仏毀釈」行動はとっていません。神社に祀ってあった仏像などへの対応ぶりからも、それはうかがえます。
②丸亀藩の最後の殿様は、明治政府の「華族は神道式の葬儀・墓石」という指示にもかかわらず国元の墓は仏教式を用いています。ここからも神道強制には批判的な立場であったことが分かります。高松藩も神仏分離は行うが「廃仏毀釈」まで踏み込もうとする姿勢は見られません。
③については、前回にお話ししたように小藩の多度津藩では「一藩一宗位置寺院」という過激な寺院削減縮小案が初期には出されますが、領民挙げての反対を受けて、撤回に追い込まれています。
つまり「廃仏毀釈」の火の手が大きく上がっていく条件にはなかったようです。
 さらに、加えるなら讃岐は真宗王国で浄土真宗のお寺が8割を越えます。
特に、高松藩は婚姻関係を何重にも結んでいた西本願寺興正寺派のお寺を保護してきた経緯があります。興正寺派のお寺のネットワークは宗学研究や講活動などでも活発な日常活動をを行っており、宗教的な情熱をもつ僧侶も多かったようです。これらが多度津藩の「一藩一宗位置寺院」への反対運動を支援したりもしています。
 さらに、中央においても東西本願寺は新政府への奉納金などを通じて、深いつながりをすでに作っていました。神仏分離の際には、真宗エリアの地域には新政府は配慮を行ったといわれます。こうした要因が、讃岐で廃仏毀釈運動が広がらなかった要因と私は考えています。
「神社取調」が終わった後の村では、今までと違う光景が見られるようになります。
例えば、村の八幡神社とその別当寺は隣接して、一体のもとして住職さんが祭礼を行っていました。しかし、神社とお寺の間には、垣根や玉垣などの人工的な境界が作られ分離されていきます。また、お寺の目の前の神社の祭礼を行うのは、他の村に住む神主さんがやってきて行うという光景が見られるようになるのです。

 近世讃岐の寺院NO1 松平頼重の仏生山法然寺建立計画を探る : 瀬戸の島から
高松藩初代藩主 松平頼重
寛永十九年(1642)に東讃岐12万石の領主となった高松藩主松平頼重は、家康の孫に当たり、家光とは従兄弟、そして弟が光圀という徳川家の御三家の出身です。彼は、初代藩主として金毘羅を保護し、金毘羅領330石を朱印地にすることに尽力しました。領主としても、代拝も含めると17回の金比羅参拝が記録されています。特に、幕府から朱印地に認められた年の八月には、参拝して一泊しています。

讃岐国絵図 琴平 佐文周辺
金毘羅周辺地図

松平頼重が金毘羅大権現に祈願のための願文をささげたことは二回あるようです。
1回目は寛文五年(1665) 養女大姫の安産を祈ったものです。大姫は頼重の父徳川頼房の娘女でしたが、頼重の養女となり将軍徳川家綱の命によって、熊本藩主の細川綱利に嫁していました。
2回目は寛文十一年(1671)に、

「今度参勤を遂げ、心中祈願相叶い、悉地成就せしめ、帰国致すに於いては、直ちに宝前に参詣し奉るべきなり」との願文を出しています。

「心中所願」とは、当時頼重は病みがちであり、隠居願いのことだったようです。二年後に、隠居が許されると頼重は、江戸から帰藩すると直ちに金毘羅大権現へ参拝しています。これより先延宝元年(1673)正月に、頼重は社領五〇石を三条村から割いて寄進しています。このときの寄進状は次のとおりです。

 那珂郡三条村において、本高の外興高を以て五拾石の事、金毘羅大権現神供料・千鉢仏堂料井びに神馬料として、これを寄進せしめ詑んぬ。全く収納有るべきの状、件の如し。」

50石の内訳は、神供料が10石、千体仏堂料10石、神馬料30石でした。三条村に住んでいた善左衛門に耕作が命じられています。

決壊中の満濃池
金比羅領(赤)と天領池御料の3村(白)

 前回お話ししたように朱印地金毘羅領330石の土地は、生駒時代に十数回にわたって寄進されたものです。そのため土地は飛び地でした。満濃池の池御料として天領の苗田村・榎井村・五条村と、境界が入り組んでいたようです。
天領池御料
天領池御料と金毘羅寺領(明治維新拡大図)

そのため松平頼重の肝煎で、金毘羅大権現の寺領(「院内廻り」)周囲に集められることになります。これは頼重の指示があったからこそ、できたことです。現在金刀比羅宮には、この時の絵図の写しが残っています。その絵図には、幕府寺社奉行三名の裏判が押されています。

この中に金毘羅領分は「院内(境内の周囲)廻りへ片付ける」ようにとの指示が書き込まれています。

つまり、天領3村の中に飛び地として分散していた土地を金毘羅領内にまとめようとしたようです。
池御両郷帳(榎井・五条・苗田)図
       金比羅領(赤)と天領池御料の3村(黄色)
この
結果、榎井村では一町ほどの土地が金毘羅へ、金毘羅領に遠い四條村の場合はすべて池領へ移っています。そして、全体ではほぼ同じ面積、石高が交換されています。おそらく、金毘羅に有利な形で、境界も定まったと思われます。これは、天領と金毘羅大権現の土地交換という難しい作業でした。実施に向けては、時の幕府の重役達の内々の同意を取り付けることが前提になります。これが出来るのは、親藩高松藩主としての頼重の政治力を抜きにしてはできなかったことでしょう。
 実施に当たっては、次のような要人が立ち会っています。
高松藩から大横目・代官・郡奉行と大庄屋
丸亀藩から大横目・郡奉行と庄屋
池御料からは代官・庄屋
金毘羅からは多聞院と山下弥右衛門ら町年寄
これも、後に禍根を残さない配慮でしょう。この結果、朱印地の寺領は、金倉川を越えた東側にも広がることになります。

金毘羅全図 宝暦5(1755)年
金毘羅神社絵図(宝暦5年 18世紀後半) 鞘橋から東が新町

この時に、金倉川の東側で得た現在の「新町」については、「古老伝旧記」に次のように記されています。

「地替相調い候て町並に家も立ち候」

地替(土地交換)で得た土地に家が建ち街並みとなっていることが分かります。高松街道沿いに榎井方面に向かって家々が並び立つようになり、門前町の発展に大きく寄与することになります。これも頼重の金毘羅に果たした大きな業績のひとつです。
一の橋・鞘橋
金倉川に架かる鞘橋と、それに続く新町

松平頼重の寄進で境内は、どのように姿を変えたのでしょうか?
 松平頼重は、多くの寄進を金毘羅山にしています。建築物だけを数え上げると
正保二年(1645)三十番神社の修復を初めとして、
慶安三年(1650)神馬屋の新築、
慶安四年(1651 仁王門新築
万治二年(1659)本社造営
寛文元年(1661)阿弥陀堂の改築
延宝元年(1673)高野山の大塔を模した二重宝塔の建立と
これだけでも本堂を始めとして、山内の堂舎が一新されたことを意味します。

IMG_3856
頼重寄進の仁王門(大門)
さらに石灯籠をみると、次のようになります
石灯籠 両基  寛文8年正月10日 本社前両脇
石灯籠 両基  寛文9年正月10日 摩利支天社前
石灯籠 両基  寛文10年正月10日 摩利支天社前
石灯籠 両基  寛文11年正月10日 本地堂上
石灯龍 両基  延宝元年5月3日 場所本地堂上
石灯寵 両基  延宝3年5月10日 場所本地堂上
寛文8年から11年までの四年間に、毎年正月に石灯寵を二基ずつ、
延宝元年と同3年にも石灯寵を5月に二基寄進しています。
これらの松平頼重の多くの寄進によって、境内は面目を一新します。同時に高松藩の殿様の厚い信心を受けていると評判になったはずです。整備された境内の堂舎は人々の目を楽しませ、殿様の寄進建築物・灯籠として話題になり、参拝者の数を増やしていったのではないでしょうか。
DSC04053石灯籠(頼重寄進)


松平頼重は、自分が身につけた刀や甲冑なども寄進しています。
それが讃岐国名勝図会に、次のように載せられています。

4344104-58松平頼重
松平頼重寄進の太刀

4344104-57松平頼重
松平頼重公寄進の太刀

4344104-56讃岐国名勝図会
           松平頼重公寄進の長刀

4344104-49福山城主阿倍氏甲冑
          松平頼重公寄進の馬具

4344104-48讃岐国名勝図会
          松平頼重公寄進の鎧

4344104-47松平頼重甲冑 讃岐国名勝図会
        松平頼重公寄進の鎧(左側)
ちなみに讃岐国名勝図会の挿絵は、若き日の松岡調が担当したとされます。そうだとすれば、讃岐国名勝図会が発刊される1850年代に、松岡調は金刀比羅宮にやってきて、これらを描いたことになります。
4344104-73
讃岐国名勝図会の裏表紙裏には「真景 松岡信正(調)模」と記されている
ちなみに、神仏分離後に松岡調は金刀比羅宮の禰宜として、仏式の金毘羅大権現から神道の金刀比羅宮への変身を進めていくことになるのは以前にお話ししました。

日本史賢兄賢弟

 頼重の弟が水戸光圀です。
光圀は弟である自分が水戸本家を継いだことについて儒教的孝徳意識から「不義」感を持っていたと言われます。そこで、兄頼重の実子の綱方、綱條を自分の養子として、水戸藩の家督は綱條に継がせます。一方、兄頼重は光圀の実子・松平頼常を養子に迎え、延宝元年(1673年)に幕府より隠居を認められ高松に帰ってきます。そして、真っ先に、金毘羅山に参拝し、報告しています。
 頼重は病気と闘いながら元禄8年(1695年)に没します。これ以後、金毘羅山は頼重が寄進したものを財産として、大きな発展がはじまるのです。

関連画像
頼重の眠る高松松平家菩提寺 仏生山(高松市)

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