瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:松平頼重

新編 香川叢書 全六巻揃(香川県教育委員会編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
香川叢書(昭和14年発行 昭和47年復刻)

私が師匠からいただいた本の中に「香川叢書」があります。久しぶりにながめていると「真福寺由家記」が1巻に載せられていました。それを読んでの報告記を載せておきます。
 香川叢叢書1巻18Pには、真福寺由末記の解題が次のように記されています。
仲多度郡紳野村大学岸上の浄土宗真福寺は、法然上人の配流地那珂郡小松庄での止住遺蹟と伝ふる所謂小松三福寺(四条村清福寺・高篠村生福寺)の一で、もとは同郡四條村にあつたが、寛永二年高篠村に移轄再興され、更に寛文二年藩主松手頼重が復興を計らせた。この記はその復興の成りしを喜び、寛文三(1663)年正月、松平頼重自ら筆執つて書いた由来記である。(同寺蔵)

高松藩藩祖の松平頼重自身の筆による由来記のようです。読んでみましょう。

讚州那珂郡高篠村の真福寺は、源空上人(法然)之遺跡、念佛弘通之道場也。蓋上人念佛興降之御、承元丁卯仲春、南北之強訴により、月輪禅定之厚意にまかせて、暫営寺に棲遅し、源信自から作る本尊を安置して、六時に礼讃ス。直に専念を行すれは、群萌随て化し、唯名字を和すれは、往生日こに昌なり。道俗雲のとくに馳、英虜星のごとくに集まる。而后、皇恩勅許之旨を奉し、阪洛促装,の節に及て、弟子門人相謂曰く。上人吸洛したまわは、誰をか師とし、誰をか範とせん。洪嘆拠に銘し、哀馨骨に徹す。依之上人手つから、諸佛中之尊像を割ミ、併せて極難値遇の自影をけつり、古云く、掬水月在手、心は月のこく、像は水のとしし誰か迄真性那の像にありと云はさらんや。而華より両の像を当寺に残して、浄土の風化盆揚々たり。中葉に及て、遺雌殆頽破す。反宇爰にやふれ、毀垣倒にたつ。余当国の守として、彼地我禾邑に属す。爰に霊場の廃せんとすると欺て、必葛の廣誉、あまねく檀越の信をたヽき、再梵堂宇を営す。予も亦侍臣に命して、三尊の霊像を作りて以寄附す。空師の徳化、ふたヽひ煕々と然たり。教道風のとくにおこり。黎庶草のとくにす。滋に法流を無窮に伝ん事を好んして、由来の縁を記す。乃ち而親く毫を揮て、以て霊窟に蔵む。維時寛文三歳次癸卯初春下旬謹苦。
     
  意訳変換しておくと
讚州那珂郡高篠村の真福寺は、源空上人(法然)の旧蹟で、念佛道場である。承元丁(1207)年卯仲春、南北之強訴により流刑となり、月輪禅定(九条良経)の荘園・小松荘にある当寺で、生活することになった。法然は自から彫った本尊を安置して、一日六回の礼讃を、専念して行っていると、高名を慕って多くの人々が集まってきて、名号を和するようになった。みるみるうちにいろいろな階層の人々が雲がたなびくように集まってきた。
 その後に、勅許で畿内へ帰ることを許さたときには、弟子門人が云うには「上人が京に帰ってしまわれたら、誰を師とし、誰を範としたらよいのでしょうか。」と嘆き悲しんだ。そこで上人は、自らの手で尊像を彫り、併せて自影を削った。古くから「掬水月在手、心は月のごとく、像は水のごとし 誰か迄真性那の像にあり」と云われている。このふたつの像を残して、法然は去られた。
 しかし、その後に法然の旧蹟は荒廃・退転してしまった。私は、讃岐の国守となり、この旧蹟も私の領地に属することになった。法然の霊場が荒廃しているのを嘆き、信仰心を持って、檀家としての責任として堂宇を再興することにした。家臣に命して、三尊の霊像を作りて、寄附する。法然の徳化が、再び蘇り、教道が風のごとくふき、庶民が草のごとくなびき出す。ここに法然の法流を無窮に伝えるために、由来の縁を記す。毫を揮て、以て霊窟に収める。
 寛文三(1663)年 癸卯初春下旬 謹苦。
内容を整理しておくと次のようになります
①那珂(仲)郡高篠村の真福寺は法然の讃岐流刑の旧蹟で、念佛道場で聖地でもあった。
②法然は、この地を去るときに、阿弥陀仏と自像のふたつの像を残した。
③松平頼重は、退転していた真福寺を再興し、三尊を安置し、その由来文書を収めた。
真福寺1
真福寺(まんのう町岸上 法然上人御旧跡とある)
少し補足をしないと筋書きが見えて来ません。
①については、残された史料には、小松荘で法然は生福寺(しょうふくじ)(現在の西念寺)に居住し、仏像を造ったり、布教に努めたといいます。当時、周辺には、生福寺のほか真福寺と清福寺の三か寺あって、これらの寺を法然はサテライトとして使用した、そのため総称して三福寺と呼んだと伝えられます。真福寺が拠点ではなかったようです。
小松郷生福寺2
 生福寺本堂で説法する法然(法然上人絵伝)

法然が居住した生福寺は、現在の正念寺跡とすれば、真福寺は、どこにあったのでしょうか?
満濃町史には「空海開基で荒れていたのを、法然が念仏道場として再建」とあります。真福寺が最初にあったとされるのはまんのう町大字四條の天皇地区にある「真福寺森」です。ここについては以前にお話したので省略します。
真福寺森から見た象頭山
四条の真福寺森から眺めた象頭山

松平頼重による真福寺の復興は、仏生山法然寺創建とリンクしているようです。
 法然寺建造の経緯は、「仏生山法然寺条目」の中の知恩院宮尊光法親王筆に次のように記されています。
 元祖法然上人、建永之比、讃岐の国へ左遷の時、暫く(生福寺)に在住ありて、念仏三昧の道場たりといへども、乱国になりて、其の旧跡退転し、僅かの草庵に上人安置の本尊ならひに自作の仏像、真影等はかり相残れり。しかるを四位少将源頼重朝臣、寛永年中に当国の刺吏として入部ありて後、絶たるあとを興して、此の山霊地たるによって、其のしるしを移し、仏閣僧房を造営し、新開を以て寺領に寄附せらる。

意訳すると
①浄土宗の開祖法然が、建永元年に法難を受けて土佐国へ配流されることになった。
②途中の讃岐国で。九条家の保護を受けて小松庄の生福寺でしばらく滞在した。
④その後戦乱によって衰退し、草庵だけになって法然上人の安置した本尊と法然上人自作の仏像・真影だけが残っていた。
⑤それを源頼重(松平頼重)が高松藩主としてやってくると、法然上人の旧跡を興して仏生山へ移し、仏閣僧房を造営して新開の田地を寺領にして寄進した

 ここには頼重が、まんのう町にあった生福寺を仏生山へ移した経緯が記されています。これだけなら仏生山法然寺創建と真福寺は、なにも関わりがないように思えます。
ところが話がややこしくなるのですが、退転していた真福寺は、松平頼重以前の生駒時代に再建されているのです。
もう少し詳しく見ておくと、生駒家重臣の尾池玄蕃が、真福寺が絶えるのを憂えて、岸上・真野・七箇などの九か村に勧進して堂宇再興を発願しています。その真福寺の再建場所が生福寺跡だったのです。生駒家の時代に真福寺は現在の西念寺のある場所に再建されたことを押さえておきます。
 その後、生駒騒動で檀家となった生駒家家臣団がいなくなると、再建された真福寺は急速に退転します。このような真福寺に目を付けたのが、高松藩主の松平頼重ということになります。
頼重は、菩提寺である法然寺創建にとりかかていました。その創建のための条件は、次のようなものでした。
①高松藩で一番ランクの高い寺院を創建し、藩内の寺院の上に君臨する寺とすること
②水戸藩は浄土宗信仰なので、浄土宗の寺院で聖地となるような寺院であること
③場所は、仏生山で高松城の南方の出城的な性格とすること
④幕府は1644年に新しく寺院を建てることを制限するなどの布令を出していたので、旧寺院の復活という形をとる必要があったこと。

こうして、法然ゆかりの聖地にあった寺として、生福寺は仏生山に形だけ移されることになります。そして、実質的には藩主の菩提寺「仏生山法然寺」として「創建」されたのです。その由緒は法然流刑地にあった寺として、浄土宗門徒からは聖地としてあがめられることになります。江戸時代後半には、多くの信徒が全国から巡礼にやって来ていたことは以前にお話ししました。いまでも、西念寺(まんのう町羽間)には、全国からの信者がお参りにやって来る姿が見えます。

真福寺3

真福寺(讃岐国名勝図会)
 その後、松平頼重は真福寺をまんのう町内で再興します。
それが現在地の岸の上の岡の上になります。その姿については、以前にお話ししたのでここでは触れません。真福寺再建完了時に、松平頼重自らが揮毫した由来記がこの文章になるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
真福寺由来記 香川叢書第1巻 446P

前回は17世紀末に高松藩で作られた寺院一覧表「御領分中寺々由来書」の東西本願寺の本末関係を見ました。この書では真宗の各派の順番は、西本願寺・東本願寺・興正寺・東光寺・永応寺・安楽寺の順になっています。今回は、真宗興正寺の本末関係を見ていくことにします。由緒書きを省略して本末関係に絞って一覧表化したのが次の表です。
興正寺末寺
高松藩の興正寺末寺(御領分中寺々由来書)

ここからは、つぎのようなことが分かります。
①(48)「代僧勝法寺」がトップに位置します。
この寺が現在の高松御坊(高松市御坊町)になります。高松藩藩祖の松平頼重が大和国にあった寺を讃岐に持ってきて、高松の寺町に高松御坊・興正寺代僧勝法寺(高松市御坊町)を再建(実質的な創建)します。これが、京都興正寺の触係寺として大きな役割を果たすようになることは以前にお話ししました。高松藩の興正寺末寺の管理寺院ともいえる寺なのでトップに置かれるのは納得できます。
高松御坊(興正寺別院)
高松御坊(勝法寺)と付属の3寺(讃岐国名勝図会)
興正寺代僧勝法寺の周辺に、寺中が三ヶ寺置かれます。勝法寺が大和からやってきた寺で、讃岐に地盤がなく政治力もなかったので、その支えのために常光寺や安養寺の末寺がその周囲に配されます。そのうちの(49)覚善寺は、常光寺(三木郡)末、(50)西福寺は安養寺(香東郡)末、(51)徳法寺は覚善寺末(常光寺孫末)です。そのため本寺から離れて勝法寺に続けて記載されています。
 どうして松平頼重は、興正寺を特別に保護したのでしょうか?
それは松平頼重と興正寺住職との間の次のような婚姻関係に求められます。
①興正寺18世門跡准尊の娘・弥々姫が、松平頼重の父頼房(水戸藩初代藩主)の側室に上っていたこと
②自分の娘万姫が20世門跡円超の養女となり、のち円超の四男寂眠と結婚したこと
このような婚姻関係があったために松平頼重は興正寺に強く加担したと研究者は考えています。そのため「御領分中寺々由来書」では、興正寺と西東本願寺は、並列関係に置かれています。興正寺の扱いが高いのです。
 松平頼重は京都の仏光寺とも深い関係にありました。
そのために仏光寺の末寺を藩内に作ろうとします。「常光寺記録」には次のように記されています。

 松平頼重は讃岐にやってくると、まず常光寺から末寺の専光寺を召し上げた。専光寺は末寺を13ヶ寺ももつ寺であったが、この末寺13ヶ寺も合わせて差し出せ言って来た。常光寺は、それを断って3ヶ年の間お目見えせず無視していた。あるとき、頼重は「常光寺の言い分はもっともだ」と言って13ヶ寺を常光寺へ返えしてくれた

どうして専光寺を差し出せと常光寺に要求したのでしょうか?
 ここにも頼重と、仏光寺の姻戚関係がからんできます。松平頼重は延宝2(1674)年7月、興正寺19世准秀の息子・雄秀(実は弟)を養子として、10月に高松へ迎え、11月には仏光寺へ入室させています。つまり、松平頼重頼重の子(養子)が仏光寺の第20世の随如となったのです。随如は法号を尭庸上人といい享保6年に81才で没しています。頼重は自分の養子となった随如が仏光寺門跡となったのに、讃岐に仏光寺の末寺がないのを遺憾に思い、常光寺から専光寺を取りあげて仏光寺末にしたというストーリーを研究者は考えています。どちらにしても後に現れる仏光寺末寺は、高松藩の宗教政策の一環として政策的に作り出されたもののようです。「由来書」の項目には、仏光寺末寺はありません。高松藩に仏光寺末寺は、もともとはなかったのです。
真宗興正派常光寺末寺一覧
常光寺の本末関係

(56)の常光寺(三木町)は、真宗興正派の讃岐教線拡大に大きな役割を果たした寺院です。
 常光寺の部分を拡大してみておきましょう。ここからは次のようなことが分かります。
①常光寺は高松藩に45ヶ寺の末寺・孫末寺があった。これに丸亀藩分を加えるとさらに増えます。
②東本願寺の寺院分布が高松周辺に限定されるのに対して、常光寺の末寺は、仲郡にまでおよぶ。
興正寺の本末表を見ての第一印象は、西東本願寺に比べて複雑なことです。
 直末のお寺の間に、(56)常光寺や(97)安養寺などの多くの末寺をもつ「中本寺」があります。常光寺の末寺である(70)専光寺(香東郡)や善福寺(南条郡)もその下にいくつかの末寺をもっています。これは興正派の教線拡大の拠点時となった安養寺や常光寺の布教活動との関連があるように私は考えています。このふたつの寺院は、丸亀平野や三豊平野に拠点寺院を設け、そこから周辺への布教活動を展開し、孫道場を開いていき、それが惣道場から寺院へと発展するという経緯を示しめすことは以前にお話ししました。
本願寺 (角川写真文庫) - NDL Digital Collections

 西本願寺には『木仏之留』という記録が残っています。

これは末寺に親鸞聖人の御影などを下付する際には、下付したことの控えとするため『御影様之留』という記録に、下付する御影の裏書を書き写したものです。「寺々由来書」の真宗寺院のうち「木仏之留」に名があるのは、香東郡安養寺など22ヶ寺です。そのうち寛永18年8月25日に木仏の下付を受けた宇多郡クリクマノ郷下村明源寺」は、その後の記録に出てこない謎の寺ですが、他はその後の消息がたどれます。例えば常光寺を見てみると、寛永17年正月15日に木仏を授与されたことが裏書(本願寺史料研究所所蔵「常光寺史料写真」)にから分かります。しかし、西本願寺側の寛永17年の「木仏之留」は、今のところ見付かっていないようです。両方があると、裏がとれるのでより信頼性が増すことになります。
「木仏之留」の記事と、「寺々由来書」の由緒書は、どんな風に関わっているか?
両書の記事が一致する例として、(68)常光寺末の常満寺(三木郡)があります。
  『木仏之留』
釈良如―
寛永一八年十巳八月十六日
願主常満寺釈西善
右木仏者興正寺門徒常光寺下 讃州三木郡平本村西善依望也             (取次)大進
  『寺々由来書』
一 開基寛正年中西正と申僧諸日一那之以助力建立仕候事
一 寺之證檬者蓮如上人自筆六字之名号丼寛永年中木仏寺号判形共二申請所持仕候事
由来には寛永十八年八月十六日という日付はありませんが、寛永年中として抑えています。これと同じような例が残る寺としては、次の寺が挙げられます。
西本願寺末  山田郡源勝寺
興正寺末   安養寺末山田郡専福寺
興正寺末常光寺末 専光寺末三木郡福住寺
同末同郡 信光寺
阿州東光寺末大内郡善覚寺
阿州安楽寺末宇足部長善寺(まんのう町勝浦)
同末同郡 慈光寺
22ヶ寺の中で、15寺までは木仏下付のことを寺の證拠として挙げていて、8ヶ寺までは授与された年代も正確に伝えています。下付された各末寺と、下付した側の本願寺の記録が一致するということは、「寺々出来書」の由緒の記事は、ある程度信頼できると研究者は判断します。
真宗興正派安楽寺末寺
安楽寺の末寺(寺々由来書)

『寺々由来書』を見て、不思議に思うのが阿波の安楽寺が興正寺の末寺に入っていないことです。安楽寺は、興正寺から独立した項目になっています。高松藩の安楽寺の末寺については、以前に次のように記しました。
①美馬の安楽寺から三頭峠を越えて、勝浦村の長善寺や炭所村の尊光寺など、土器川の源流から中流への教線拡大ルート沿いに末寺がある。
②長尾城跡の周囲にある寺は、下野後の長尾氏によって開かれたという寺伝をもつ。
③地域的に、土器川右岸(東)に、末寺は分布しており、左岸に多い常光寺の末寺と「棲み分け現象」が見られる。
④(123)超正寺は、現在の超勝寺

この本末関係図に、安養寺が含まれていないのはどうしてでしょうか。安養寺の寺伝には、安楽寺出身の僧侶によって開かれたことが記されていることは、以前にお話ししました。しかし、ここでは安養寺は安楽寺末寺とはされていません。安養寺が安楽寺から離末するのは18世紀になってからです。

  以上、まとまりがなくなりましたが、今回はこれで終わります。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」
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浄土真宗の讃岐での教線拡大について、三木の常光寺と阿波美馬の安楽寺が果たした役割の大きさについて以前にお話ししました。

松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来

そんな中で先達から紹介されたのが「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として―四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」です。松原秀明は、金毘羅宮の学芸員として、さまざまな史料を掘り起こし、その結果として「金毘羅大権現に近世以前の史料はない」ことを明らかにしていった研究者でもあります。彼が30年以上も前に発表した文章になります。

ウキには「御領分中宮由来」と「御領分中寺々由来書」について、次のように記します。
成立 寛文九(1668)年 写本 木田郡牟礼町洲崎寺
高松藩が各郡の大政所に寺社行政参考のために書上げさせたもの。神社は所在地・由来・変遷・祭礼・別当寺・神宝・社地・末社、寺院は宗派・創建・変遷・本末関係・諸堂・本尊・宝物・寺地などを記している。写本は文政13年写。活字本 新編香川叢書史料篇
 「御領分中寺々由来書」は、高松藩の寺院一覧表としては最古のものになります。
これが新編香川叢書史料篇におさめられて以後は、近世前半の寺院の簡単な由緒を知る時の史料として、「町史」などにはよく引用されています。原本は、牟礼町州崎寺にあり、「御領分中宮由来」と合せて一冊になります。表紙の題は、「御□□宮由来 右同寺々由来」と読めるようです。扉の題は次のように記されています。

「御領分中宮由来 寛文九酉年郡々大政所書上 同寺々由来 久保停有衛門 蔵書」

「宮由来」には標題はありませんが、「寺々由来書」には「御領分中寺々由来書」と書かれています。ここで押さえておきたいのは、「御領分中寺々由来書」と「御領分中宮由来」は合せて一冊であったことです。
  
 この史料を最初に世に出したのは、松浦正一氏です。
松浦氏は、昭和13年1月、「寺々由来書」を翻字して孔版印刷で関係者に配布します。松浦氏が出版した孔版本の奥書は「文政十三寅冬写 久保博右衛門 蔵書」という原本の奥書に続いて、次のように記されています。
「昭和十三年一月片一日 以御城俊氏蔵本篤之畢 於高松市天神前表誠館 松浦正一」

 蔵書していた御城俊騨氏は、州崎寺の前々住職になるようです。洲崎寺の住職が保存していたものを、松浦正一氏が見せられて、重要性に気付き簡易的に出版したようです。松浦氏は「宮由来」と「寺々由来書」について、「香川史学第二号」(昭和47年11月発行)の「中世讃岐の信仰」で次のように記します。

「御領分中寺々由来」は次に述べる『御領分中宮由来』と題する、高松藩領内の神社の調査と同じころに調べが行なわれ、藩に報告されたものと思われる。その寺と宮との調査は当時の藩主頼重公の命令で、各郡大庄屋によって調べられ、書き上げたもの」

 これを受けて昭和54年2月に発行された「新編 香川叢書 史料」に翻刻されたときの解説にも次のように記します。

「初代高松藩主松平頼重が社寺行政の資料とするため、領内各郡の大庄屋に書上げさせた報告書である」

「各郡の大庄屋に書上げさせた報告書」という説は、その後に出版された各市町村史にも受け継がれているようです。
 この通説に対して、松原秀明氏は次のように疑いの目を向けます。

①「宮由来」は大内・寒川・三木・山田・南条・北条・鵜足・那珂の郡別になっていること
②それぞれの末尾には「右之通、村々社僧・神主吟味仕、書上け申所相違無御座候、依て如件」という文言があること。
③具体的には次の通り
大内郡 寛文九酉年二月十一日
大山太郎左衛門
日下佐左衛門
寒川郡 寛文九年西二月
寒河都鶴羽浦  真鍋専右衛門
同神前村 蓮井太郎三郎
三木郡 寛文九年酉ノニ月朔日
三木部井戸村   古市八五郎
同ひかみ村   山路与三大夫
山田郡 寛文九年酉二月五日
岩荷八郎兵衛
佐野弥二右衛門
南条郡 寛文八申年
花房九郎右衛門
植松長左衛門
北条郡 寛文九酉年 月朔日
北条郡加茂村   宮武善七
鵜足郡 寛文九年酉ノ
久米膝八
内海次右衛門
那珂郡 寛文九年西ノニ月九日
高 畑 甚 七
新名助右衛門

ここには日付と大庄屋の署名があるので、「社僧・神主吟味」した上で、大庄屋が藩へ提出した書上げであることは間違いありません。しかし、成立年紀については、疑問が残るとします。それはこの時点では、あくまで各郡大庄屋の書上げ段階だからです。これを集めて書物にして「御領分中宮由来」という題名を付けたのは、それから何ヶ月か何年か後になるはずです。その際に、各大庄屋が高松に集まって編集会議を行って相談のうえで書名を決めたというのは、非現実的です。実際には、書上げを受取った藩の役人か、あるいはこの方面の事に興味を持つ誰かが、書上げを清書して「宮由来」と命名したというのが現実的だと研究者は指摘します。
 なお、「宮由来」には高松城下・香東・香西の部が欠けています。これは何かの事情で書上げが提出されなかったか、まとめられるまでに散逸したかのどちらかでしょう。もし、後者ならば書き上げ提出から、それがまとめられるまでに相当の年月があったことがうかがえます。
次に「寺々由来書」の方を見てみましょう。     
①浄土・天台・真言・禅・法華・一向の各宗派に分けて、寺院を次のような本山別に分類しています。
真言は仁和寺・大覚寺・誕生院、
禅宗は妙心寺・能州紹持寺
法華は身延・京都妙蓮寺・京都妙覚寺・尼崎本興寺・備州蓮昌寺
真宗は西本願寺・東本願寺・興正寺・阿州東光寺・阿州安楽寺
②収められた各宗派の寺数は、浄上8、天台2、真言115、禅宗7、法華12、 一向129、律宗・時宗・山伏各1の計376寺
③記載様式の特徴は、各宗本山の下に直末寺院があり、それに付属する末寺は直末寺院に続けて挙げてあること
④各寺院には簡単な山緒が書き添えがあること
しかし、ここには「宮由来」のように各郡の大庄屋の名前は、どこにもありませんし、作成年月も記されていません。

例えば、真宗興正派の教線拡大の拠点寺となった常光寺(三木町)の末寺・孫末寺30ヶ寺を郡別に見てみましょう。

真宗興正派常光寺末寺一覧
興正寺末寺の常光寺(三木町)の末寺一覧
 「御領分中寺々由来書」の常光寺(56)の末寺・孫末寺は高松2・寒川2・三木6・山田4・香東3・北条1・南条6・那珂6となっています。この表を「大庄屋が取調べて藩へ提出した」とすると、どのようにして調べたのでしょうか。考えられるのは
①各郡に散在する末寺諸院を、どこかの大庄屋が一人で調査した
②各郡の大庄屋が情報を持ち寄って、常光寺の末寺・孫末寺の書上げを作って、だれかがまとめた。
しかし、孫末寺までの複雑な本末関係関係を、大庄屋の手で調査したというのは現実的でないというのです。各宗本山ごとに国内の頭取の寺院が調査するか、あるいは末寺・孫末寺から提出させた調書の記事
をもとにして寺社奉行で作成したと考える方が自然だとします。どちらにしても「大庄屋が取調べて藩へ提出した」というのは、考えられないとします。
 次に真言宗寺院について、由緒記事を省略して本末関係のみを示した一覧表を見ておきましょう。

真言宗本末関係
高松藩真言寺院の仁和寺末寺

真言宗仁和寺の讃岐末寺
大覚寺末寺
ここからは次のようなことが分かります。
①高松藩内の真言寺院は、ほとんどが仁和寺・大覚寺両本山に属する。その他の末寺は、善通寺誕生院以外にはない。
②志度寺・白峰寺・八国(栗)寺は、末寺を持たない。
③孫末寺院は、大内・寒川・三木・山田という東から西への順序に並べられている。
④大覚寺末の三木郡八口寺(八栗寺)が仁和寺末聖通寺末の安養寺と仁和寺末屋島寺の間に入っている。以前は八栗寺は、仁和寺末であったことが考えられる。
⑤仁和寺末香東郡大宝院(115)が、誕生院末四ヶ寺の後、真言宗としては最後尾に置かれている
どうしてこのような順番や配列になるのか、研究者にも理由が分らないようです。しかし、全体を見渡すと、各寺院の本末関係は一目瞭然で、よく分かります。本末関係を確認するには、いい史料です。
今回は、このあたりまでとします。次回は真宗の本末関係を見ていくことにします。

  以上をまとめておきます。
①「御領分中宮由来」と「御領分中寺々由来書」は、同一冊にまとめられていたために、どちらも各郡の大庄屋によって書き上げられたものを、まとめたものとされてきた。
②しかし、「寺々由来書」については、庄屋によって作成された書上げを、藩がまとめたとは考えにくい。
③「寺々由来書」の成立は、寛文九(1668)年以後のことと考えられ、高松藩最古の寺院一覧表である。
④「寺々由来書」は17世紀後半の高松藩の寺院の本末関係や簡単な由来を知る際の根本史料となる。
⑤この書が「新編香川叢書史料篇」に入れられることによって、各寺院の寺伝や本末関係を知る際には欠かせない史料となっている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行

松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来2

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 まんのう町岸の上 寺山
岸上村(まんのう町 金倉川流域)
19世紀中頃の江戸時代後半に那珂郡岸上村(まんのう町)の庄屋だった奈良亮助は、几帳面な性格でいくつもの文書を残しています。 奈良亮助は、伯父の奈良松荘のもとで和漢の学を学んでします。伯父奈良松荘(1786ー1862)は、国学者で詩文を備後の菅茶山に学び、頼山陽と並び称せられと云います。郷里に帰り、金刀比羅の日柳燕石や三井雪航などに感化を与え、晩年は岸上村の奈良家に寄寓していました。その時に、奈良亮助はその教えを受けたようです。残された文書の中に「滝宮念仏踊行事取遺留」と題されたものがあります。
一番上には、「念仏踊の事」という記録が綴り込まれていて、次のような内容が記されています。
①滝宮念仏踊が法然上人によって、念仏布教の方法として採り上げられて発達したこと
②享保年中の滝宮での御神酒樽受取の前後争いに端を発して、念仏踊が中止になったこと
③元文四年六月晦日に雹が降って農作物が大被害を受けたこと
④この被害は滝宮への念仏踊りを行っていないことへの天罰との噂が拡がったこと
⑤そこで、寛保二壬戌年から七か村念仏踊が復活したこと
以上が、簡潔な筆致で記されています。
 この記録に続いて、文政九(1826)年から安政6(1859)年までの約30年間に、13回実施された七箇村組念仏踊のことが岸上村の庄屋記録に綴りこまれています。今回は、奈良亮助の残した文書を見ていくことにします。テキストは「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について ことひら1988年」です。
 
龍燈院・滝宮神社
滝宮牛頭権現(滝宮神社)と別当寺の龍燈院

前回にお話ししたように、初代高松藩主松平頼重が復活させた滝宮念仏踊りに、参加したのは4郡の4つの踊組でした。踊組の間には異常なほどの対抗心があって、いろいろな事件や騒動を起こしています。
 例えば、正保二(1645)年の時には、演じる場所・順番をめぐって、七箇村組の岸上村の久保の宮・神職が長刀で、北条組の小踊二人を切り殺すという事件があったことは前回お話ししました。このため北条組は、その後は48人の抜刀隊を編成して警固するようにしたとも伝えられます。また、七箇村組とは踊る年を変えて鉢合わせしないようにもしています。踊りはこのようなぴりぴりとした緊張感の中で奉納されていたようです。
滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り
 念仏踊りが復活した当初は、七箇村組は二組編成だったようです
1790年(寛政二)年の編成表を見ると、
①主役を勤める下知 真野村と佐文村からそれぞれ各一人、
②6人1組で子供が踊役を勤める小踊 西七箇村から一人、吉野上下村から三人、小松庄四ヶ村から二人の計六人、それと、佐文村単独で六人
③笛吹が岸上村と佐文村から一人宛、
④太鼓打が西七箇村と佐文村から一人宛、
⑤鼓打が小松庄四ヶ村と佐文村から二人宛、
⑥長刀振が真野村と佐文村から一人宛、
⑦棒振も吉野上下村と佐文村から一人宛、
⑧棒突は西七箇村四人、岸上村三人、小松庄四ヶ村三人の計10人に対して、佐文村は単独で10人
ここからは次のようなことが分かります。
A七箇村組には、次の東組と西組の二組があったこと。
東組 真野・吉野郷(高松藩領) 郷社 真野の諏訪大明神(諏訪神社)
西組 小松郷と西七箇村(池御領と丸亀藩)    郷社 五条村 大井八幡社
B 東組は高松藩の村々、西組は池御領(天領)と丸亀藩の村々から編成され、藩を超えた編成になっていたこと
C その中で、西組は佐文中心に編成されていたこと。ちなみに佐文は、ユネスコ登録になった綾子踊りの里でもあります。
七箇村組の編成からは、もともとはこの踊りが中世の郷社に奉納されていた風流踊りだったことがうかがえます。

まんのう町の郷
滝宮念仏踊り 那珂郡七箇村組(真野・吉野・小松郷)
那珂郡七箇村組をめぐる事件や問題を年表化しておきます。
享保年間(1716~36)龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順番をめぐって、東西費が領組が騒動
1736(元文元)年 念仏踊は中止され、七箇村組は解体状態へ。
1739(元文四)年 6月の雹(ひょう)という異常気象で農作物被害甚大。念仏踊り中止のせいだとの声が拡がる
1742(寛保二)年 龍灯院の住職快巌の斡旋で、滝宮念仏踊への参加復活
1790(寛政二)年 東西二組の編成で、奉納が続く。
1808(文化五)年 「下知一人」となり東西2組編成から一組編成へ縮小
次に年表内容を、詳しく見ていくことにします。
享保年間(1716~36)の争いの原因は、滝宮牛頭天皇社(現滝宮神社)への踊奉納の時に、別当寺の龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順番です。踊りが終わった後に、どちらが先に御神酒樽を受け取るかをめぐる争いです。当時は樽はひとつしか準備されていなかったようです。おやつをもらう順番をめぐる子供の喧嘩のようにも思えます。しかし、背後には、高松藩・丸亀藩・池御料(天領)の三者の対立感情があります。天領の踊り手や役員達はプライドが高く、何かと周辺の住人達を見下すことがあったようです。東組には、高松藩(親藩)の住人ということで、外様の丸亀藩の西組の踊り手たちを見下します。こういう意識構造が、このようなハレの舞台で吹き出します。この結果、元文元年(1736)年以後は、七箇村組の踊りは中止に追い込まれてしまいます。
 3年後の1739(元文四)年の6月晦日に、季節外れの雹(ひょう)が降って東西七箇村・真野村・岸上村は稲・棉などの農作物が大被害を蒙ります。
「これは滝宮念仏踊を中止したための神罰である」という声が起こって念仏踊復活の気運が高まります。そして、滝宮牛頭権現(滝宮神社)の別当寺龍灯院の住職快巌の斡旋で、1742(寛保二)年から滝宮念仏踊への参加が復活します。龍灯院は対応策として、踊奉納を終えた七箇村東西組に対して、御神酒樽を二個用意してそれぞれの組に贈り、紛争の再発を避けていています。事件事故に学んで、新たな対応策が出されています。しかし、二組の編成は対立感情による紛争の起こる危険を常に含んでいました。復活後は、東西二組編成で1790(寛政二)年まで続いたことが史料から確認できます。

まんのう・琴平町エリア 讃岐国絵図
念仏踊七箇村組の村々

 ところが1808(文化五)年には、1組で出演していることが史資料から分かります。この年の7月24日書かれた真野村・庄屋安藤伊左衛門の「滝宮念仏踊行事取扱留」滝宮大明神(神社)の別当寺龍燈院宛の報告には、この年の七箇村組の行列は、次のように記されています。
「下知一人、笛吹一人、太鼓打一人、小踊六人、長刀振一人、棒振一人」

「下知一人、笛吹一人」ということは、一編成になったことを示すものです。「取遣留」の1808年7月25日の記事にも、龍灯院からの御神酒樽については、龍灯院の使者が、「御神酒樽壱つを踊り場東西の役人(村役人)の真中へ東向きに出し……」、口上を述べ終わると、御神酒樽は踊り場である神社から龍灯院が預かって直ちに持ち帰っています。そして、牛頭天皇社での踊りが終わってから、踊組一同を龍燈院の書院に招待して御神酒を振る舞っています。ここでも酒樽は1つしか準備されていません。1808年の時点で、七箇村組は一編成の踊組として、龍灯院から待遇されるようになっています。
   ここからは1790(寛政二)年から1808(文化五)年までの間に、七箇村組のなかで大きな問題が起こったことがうかがえます。また、一番踊り手構成メンバーが削減されているのが佐文村です。佐文は西組の中心だったことは、先ほど見たとおりです。それが棒付10名に減らされているのです。七箇村組が二編成から一編成に縮小された背景には、佐文をめぐる問題があったことがうかがえます。19世紀初頭には、それまで東西2組で運営されていた七箇村組は一組となってしまったようです。
以上を整理しておきます。
①中世に小松・真野・吉野郷では、風流踊りが郷社に奉納されていた
②それは地域の村々の有力者による宮座で組織されていたが、戦国時代に中断していた
③それを初代高松藩主松平頼重が地域興しイヴェントとして復活した
④その時に参加したのは、4つの郡の郷社に奉納されいた風流踊りであった
⑤4つの踊組は対抗心が強く、いろいろな事件や騒動を引き起こした
⑥那珂郡七箇村組も、当初は東西2組編成であったが、18世紀初頭には、1組に「縮小」している。これも内部での騒動か事件があったことが考えられる。
こうして、19世紀になると軌道に乗り、3年毎に安定して踊り奉納は行われるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら1988年」
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  高松藩の初代藩主松平頼重の弟は、水戸藩の徳川光圀です。長子相続が当たり前の時代に、どうして、兄頼重が水戸藩を継がなかったのかについては、複雑な問題が絡み合っているようです。それを探っている内に、頼重や光圀の父が気になり出しました。今回は水戸藩初代藩主の頼房について見ていくことにします。テキストはテキストは「古田俊純 徳川光圀の世子決定事情    筑波学院大学紀要第8集」です
徳川(トクガワ)とは? 意味や使い方 - コトバンク  
 頼重と光圀の父である水戸藩初代藩主徳川頼房は、1603(慶長八)年8月10日に家康の末男として誕生します。
わずか3歳で常陸下妻10万石を与えれ、6歳で常陸水戸25万石へ加増転封されますが、なにせ幼少ですので、家康のお膝元である駿府で育てられまします。
 1610年(慶長15年)7月に父家康の側室於勝(英勝院)の養子になり、翌年に8歳で元服して頼房を名乗りますが、水戸へは赴かず江戸で過ごします。
水戸の藩主たち~徳川頼房~ | 歴史と文化と和の心
徳川頼房
頼房は「公資性剛毅ニシテ勇武人二過玉フ」と、武勇の人であったようです。
光圀も父の武勇談を「故中納言殿の御事、いろいろ武勇の御物語多し」とあるので、よく語ったようです。武勇の人であった頼房は、若いときには歌舞伎者でした。彼の服装や言動について次のように記します。

「公壮年ノ時、衣服侃刀ミナ異形ヲ好玉ヒ、頗ル行儀度アラス。幕府信吉ヲ召テ、譴責アラントス。」

そのために服装・行動に問題があり、家臣の中山信吉が必死の諫言をしたと伝えられます。江戸時代初めには、時代に遅れて生まれた勇猛な若い武士たちは、歌舞伎者になって憂さを晴らしました。頼房もその一人だったようです。そして、女遊びを覚えます。次の表は、頼房の子女一覧です。頼房には公認された子弟として、男子11人・女子15人、合計26人の子があったことが分かります。この他にも「未公認」の子弟も数多くいたようです。

徳川頼房子女一覧表
徳川頼房子女一覧表
26人の子女というのを、どう考えればいいのでしょうか?
頼房は、生涯正室を持ちませんでした。頼房の側室は8人までは確認できるようですが、それ以上いたようです。
 それでは、どのような女性を側室にしているのでしょうか。
表の1の頼重と7の光圀の母は、久昌院谷久子です。彼女は鳥居忠政の家臣だった谷重則の娘で、水戸家に老女として仕えていた母の側にいたので、頼房の寵愛をえたようです。
2の通、3の亀丸、4の万、8の菊、10の頼元、13の頼雄、21の藤の母は、円理院佐々木勝です。彼女は生駒一正の家臣、佐々木政勝の娘です。弟の藤川正盈は『水府系纂』に、「元和六年威公二奉仕ス、時二九歳ナリ。姉円理院卜同居シ、奥方二於テ勤仕ス」と記されています。彼女は1602(慶長七)年生まれですから、1620(元和六)年には19歳でした。頼房の寵愛を受けるようになったので、弟も召抱えられています。彼女は、女中奉公をしていたのを見初められたようです。
5の捨、9の小良、11の頼隆、14の頼泰、16の律、19の重義の母は寿光院藤原氏です。彼女は興正寺権僧正昭玄の娘です。
6の亀の母は野沢喜佐で、出自は扶持取の家臣、野沢常古某の娘で、出産後「七夜ノ中二死ス。十六歳」と『水府系纂』にあります。
12の頼利の母は真了院三木玉で、三木之次の兄で播磨の光善寺住職長然の娘。
15の頼以と17の房時の母は原善院丹波愛。
20の大と24の市の母は真善院大井田七。
25の助の母は高野氏。
18の不利と22の竹と23の梅の母は、「某氏」としか分かりません。
26の松に至っては、「女子」とあるだけ。
水戸藩の家臣の系譜集である『水府系纂』で確認できる側室は、兄弟が召抱えられた谷久子と佐々木勝、藩士の娘であった野沢喜佐と姪であった三木玉の3人だけです。
ここからは、残った四人プラスαの側室たちは、水戸藩士の娘ではなかったと研究者は考えています。竹・梅・松の母親の姓名は分かりません。なぜ名前が伝わらなかった理由は、女子のみ生んだ身分の低い女性だったためだったのでしょう。

徳川頼房―初代水戸藩主の軌跡― - 水戸市立博物館 - 水戸市ホームページ

 大名の子、とくに若君を生んだ側室は厚遇されるのが普通です。
谷氏や藤川氏にみられたように、 一族・兄弟の新規召抱えとなる場合もありました。しかし、藤原氏と丹波氏には、このような形跡が見られません。ここからは、頼房は正規の手続きをへて側室を迎えたのではなく、女中奉公に屋敷に上がっていた女性や、出先で身分の低い女性たちに手を着けていったことが推測できます。そのため「未公認」の子弟も数多くいたようです。
それでは生まれた子女は、どうなったのでしょうか。
 誕生した26人の子女のうち1男3女は早世して、成入したのは男子10人女子12人、合計22人です。男子のうち大名になったのは、頼重(高松12万石)、光圀、頼元(守山2万石)、頼隆(府中2万石)、頼雄(宍戸1万石)です。残りの頼利・頼泰・頼以・房時は光圀が寛文元年(1661)に相続したとき、領内の地三千石をそれぞれに分知しています。
女子のうち大名・公家に嫁したのは、通(松殿道昭室)、亀(家光養女前田光高室)、不利(本多政利室)、大(頼重養女細川網利室)の4人だけです。小良は英勝院の養女となって、鎌倉の英勝寺を相続しています。ほかの7人は家臣に嫁いでいます。これに対して、尾張・紀州の男子はみな大名になり、女子はみな大名・天皇公家に嫁いでいます。これと比べると、見劣りがするようです。男子のうち4人は三千石分知されたといっても、実質上は家臣となっています。 女子も七人が家老級とはいえ、家臣に縁付いています。
幕府も努力はしていますが、頼房がもうけた子供が多すぎたのです。そのためこういう結果となったと研究者は指摘します。そして次のように評します。
  頼房は子供の将来を考えもしないで、水戸徳川家が必要とする家族計画をもたず、つぎからつぎへと多い年には、1年に三人も子供を誕生させた。

頼房は、どうして正室をむかえなかつたのでしょうか。

威公(頼房)御一代御室これなき故は、威公御幼少の時台徳公(秀忠の詮号)の御前にてどれぞの聟にしたしと台徳公仰られけるを、台徳公の御台所御傍におわしまして、あの様なるいたづらな人を、誰か聟にせうぞとありければ、御一代それを御腹立終に御室これなき由。

意訳変換しておくと
水戸の頼房公に正室がいないのは、頼房公が幼少の時に将軍秀忠の御前で、どこかの大名にしたいおっしゃると、傍らにいた御台所が「あんないたづらな人を、誰が婿にしましょうか」とおっしゃた。それを聞いた頼房は立腹して正室をもうけることはなかった。

これはあくまで噂話ですが、当時の大奥での頼房観を伝えているのかも知れません。御三家水戸家の若い当主であった頼房には、将軍家をはじめいろいろな所から縁談が持ち込まれたはずです。いくら歌舞伎者であったとしても、それを拒否し続けることはきわめて難しかったことが推測できます。にもかかわらず、断りとおせたのは、なにか事情があって、将軍はじめ周囲のものも無理強いできなかったのかもしれません。理由は分かりませんが頼房は、正室を迎えて行動の自由を制約されることを嫌い、とくに女性に関して自由奔放に生きる道を選んだことを押さえておきます。
 時代に遅れて生まれた頼房は勝れた武勇の才能を発揮する場をえられず、その憂さを晴らす場さえ奪われていったのかもしれません。頼房はそれを、身近かにいて思うがままになる女性たちに求めるようになります。そこには真実の愛情など望むべくもなかつた、と研究者は指摘します。

1622(元和八)年7月1日に頼房の第一子頼重は誕生します。
頼房19歳の時で歌舞伎者として気ままな生活を送っている頃です。懐妊を知った頼房は、流産を命じます。そのために江戸の三木邸で密に出生したようです。
その事情を高松藩の「家譜」は、次のように記します。

初め谷氏懐李之際、頼房相憚義御坐候て、出生之子養育致間敷との内意にて、(此時頼房兄尾張義直・紀伊頼宣ともに未た男子無之に付相憚候義の由、其後光圀も内々之次か別荘にて谷氏之腹に出生候得共、其節ハ尾・紀ともに男子出生以後に付、追て披露有之候由に御坐候)谷氏を仁兵衛へ預け申候処、仁兵衛義窃に頼房養母英勝院(東照宮の妾太田氏)へ相謀り、同人内々之指揮を得候て、出生之後仁兵衛家に養育仕候。然るに江戸表に差置候ては故障之次第も御座候二付、寛永七年庚午六月九歳にて京都へ指登し、滋野井大納言季吉卿ハ仁兵衛内縁御座候二付万事相頼ミ、大納言殿内々之世話にて洛西嵯峨に閑居仕候。

意訳変換しておくと
初め谷氏の懐妊が分かった際に、頼房は尾張・紀伊藩への配慮から、産まれてくる子を養育せず(水子にせよ)と伝えた。(この時には、頼房公の兄尾張義直・紀伊頼宣ともに、まだ男子がなかったので配慮のためであった。その後光圀公も内々に別荘で谷氏が出産したが、この時には、すでに尾・紀ともに男子が出生していたので、追て披露することになった。) こうして谷氏を仁兵衛へ預けた、仁兵衛は秘かに頼房の養母英勝院(東照宮の妾太田氏)へ相談し、その内々の指揮を得て、頼重を仁兵衛宅でに養育した。ところが江戸表で「故障之次第」となり、寛永七年六月、頼重9歳の
時に、京都へ移し、仁兵衛は内縁の滋野井大納言季吉卿に相談し、洛西嵯峨に閑居させた。そして、1632(寛永九)年、11歳の時に江戸に帰ったとあります。
始めてて子供が出来ると知ったときの頼房の感情や反応は、どうだったのでしょうか。
20歳で、正室を迎えていなかつた若い頼房に、子供をもうける考えはなかったはずです。子供が出来るという慶びよりも、まずい、どうしようと思い、二人の兄のことが思い浮かんだのではないでしょうか。それが「水子とせよ」という命令になって現れます。
 流産を命じられた家臣の三木は、英勝院の指揮を受けて秘かに出産させ、養育します。ところが「故障(事情)」があって9歳のときに、内縁(季吉は三木の娘の夫)のある滋野井大納言に依頼して、京都に送ったというです。
これは『桃源遺事』の記載とは、次の点が違います。
①頼重を京都に送ったのは2歳のときで、 16歳まで京都にいて「出家」させる予定だったこと
②「家譜」のかっこに入れた細字注がないこと。
「家譜」がこの部分を本文にしないで注記としたのは、確証がもてなかったからでしょう。
「此時頼房兄尾張義直・紀伊頼宣ともに未た男子無之に付相憚候義の由」は、押さえておきます。たしかに当時、尾張・紀伊には子供が誕生していなかったのです。

二番目の子である通は1624(寛永元)年に生まれています。この時点でも尾張と紀伊には子供はありません。尾張義直の最初の子・光友は1625(寛永二)年、紀伊頼宣の最初の子光貞は1626(寛永三)のことです。
 頼重問題がおきて以後、重臣達の諫言や親戚筋も説得して、頼房も納得したようです。それは、寛永四年以降は、毎年二人、三人と子供が生まれていることからもうかがえます。
ところが、光圀の誕生の際には、ふたたび頼房は流産を命じるのです。どうしてなのでしょうか
『桃源遺事』には、次のように記されています。
御母公西山公を御懐胎なされ候節、故有て水になし申様にと頼房公仁兵衛夫婦に仰付られ候所に、仁兵衛私宅にて密に御誕生なし奉り、深く隠し御養育仕候。
意訳変換しておくと

光圀公を御懐胎された時に、故有て水子にするようにと頼房公は仁兵衛夫婦に申しつけた。しかし、仁兵衛は自宅で密に出産させて、秘かに隠して養育した。

理由は「故有て」とだけで具体的なことは記されていません。そして、「密に」水戸の三木邸で誕生し、養育されています。もちろん、頼房に知れると生命の危険があったからでしょう。

どうして頼房は、久昌院谷久子にふたたび水子を命じたのでしょうか。
徳川頼房子女一覧表

表をみると、これ以後彼女は子供を生んでいません。一方、円理院佐々木氏と寿光院藤原氏はその後も出産し続けています。そして、側室の数も増えています。ここからは光圀の出産を機に、久子は頼房の寵愛を失ったことがうかがえます。
それでは、なぜ久子は頼房の寵愛を失ったのでしょうか。
そこにあるのが頼重をめぐる葛藤だと研究者は推測します。
頼重は1630(寛永七)年、9歳のときに京都に送られています。『桃源遺事』では2歳とありますが、水戸の頼重の京都行きと帰還の扱いは、弟の光圀が世子となったことを合理化するために操作されているから、高松藩の記録のほうが信頼できると研究者は考えています。
三木之次の妻武佐は頼房の乳母の姉で、頼房に気に入られていたようです。
 その縁で之次を頼房は「乳母兄」と呼んでいたと『水府系纂』は記しています。これだけ信頼されていた三木夫妻だったからこそ、二人の兄弟を密に誕生させ、養育できたのでしょう。しかし、頼重が9歳のときに京都に送ったということは、夫妻の力では守りきれなくなったようです。頼房は頼重が誕生し、どこかに生きていることを知つて激怒したでしょう。その時期に久子は、光圀を妊娠したのです。
 久子は頼重の安全のため一切語らなったはずです。そうだとすれば、命令にそむいて長男を出産し、その事情を語ろうともしない久子に頼房は怒りを抱き、「出産は認めない!水子にせよ」という態度をとったのでしょう。こうして久子への寵愛は消えていきます。
 頼房は、ふたたび三木夫妻に託して流産を命じます。命じられた三木夫妻は、頼重を探し始めた頼房をみて、今度はより安全な水戸で出産させ、養育したのでしょう。どちらにしても、頼房は正常な家庭をもとうとはしなかつた人物であったと研究者は考えています。

以上をまとめておきます
①高松藩初代藩主の松平頼重の父は、水戸藩祖の徳川頼房である
②頼房は、家康の末の男の子として幼年にして水戸藩を継いだ。
③頼房は、天下泰平の時代に遅れてやって来た武勇人で、歌舞伎者でもあった。
④時代の流れに取り残されるようになった頼房は、「女遊び」にはまり、多くの女性に手を付けた。
⑤公認されている子女だけでも26人で、それを産んだ女性達も多くは身分の高い出身ではなかった。
⑥このような風評は、兄の将軍秀忠や大奥にも及び、評判はよくなかった。
⑦そのような仲で、20歳で最初の子・頼重が産まれることが分かると、水子にして流すことを家臣に命じた。それは、兄の紀伊公や尾張公への世間体を重んじたものだとされる。
⑧これに対して養母於勝(英勝院)は、秘かに養育を命じた。
⑨さらに、それが頼房に知れると京都の天龍寺塔頭に預けた。これが頼重9歳から12歳のことである。
⑩その後、何人かの子供は生まれてくるが、光圀が生まれてきたときには、再度水子にすることを命じている。
⑪この背景には、自分の命を守らずに頼重を養育していた側室への怒りもあった。

つまり、頼重と光圀の兄弟は、父頼重から一度は命を奪われかけた存在であったようです。そして、この時点では水戸藩をどちらが継ぐかについては、決まっていなかったというのです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
古田俊純 徳川光圀の世子決定事情    筑波学院大学紀要第8集

高松市御坊町 興正寺別院
高松御坊町にある興正寺別院と勝法寺
 高松市の御坊町という町名は、ここに高松御坊があったことに由来するようです。高松御坊は、現在の興正寺別院にあたります。興正寺別院と勝法寺は並んで建っていて、その前の通りがフェリー通りで、長尾線の向こうには真言の名刹無量寿院があります。このレイアウトを頭に残しながら

高松御坊(興正寺別院)
「讃岐国名勝図会」(1854年)で見てみましょう。
 勝法寺という大きな伽藍を持った寺院の姿が描かれています。これが高松御坊でもありました。この広大な伽藍が戦後の復興と土地整理の際に切り売りされて、現在の御坊町になったようです。通りを挟んで徳法寺・西福寺・と3つの子坊が見えます。その向こうに見える無慮寿院の伽藍の倍以上はある大きな伽藍だったことが分かります。この辺りは江戸時代には寺町と呼ばれ、西方の市役所辺りまで、大きな寺院がいくつも伽藍を並べて、高松城の南の防御ラインでもありました。そのため勝法寺の南側には堀が続いているのが見えます。このような広大な伽藍と、偉容を備えた寺院を誕生させたのは高松藩初代藩主松平頼重です。その裏には頼重の真宗興正派保護政策があったようです。まずは、ここにこのような寺院が現れる経過を見ていくことにします。
興正寺別院歩み

高松興正寺別院の境内の石碑「高松興正寺別院の歩み」の一番最初には次のように刻まれています。
1558年 興正寺第16世証秀上人讃州遊化。

これについて『興正寺付法略系譜』には、次のように記します。
永禄ノ初、今師(証秀)讃州ノ海岸ニ行化シ玉ヒ一宇ヲ草創シ玉フ

永禄年間(1558~70)のはじめに、興正寺門主の証秀が讃岐の海岸に赴き、一宇を草創したとあります。この一宇が現在の高松別院のことを指すと伝えられています。また現在の高松別院のHPの寺伝には次のように記されています。

 1558年(永禄元年) 興正寺第十六世 証秀上人が教化活動として讃岐を訪問されたのをきっかけに、当時、東讃を支配下に置いた阿波の三好好賢(三好実休)の庇護を受けて、「楠川の地(現高松市上福岡町)」に高松御坊勝法寺を建立。現在地へは、1614年(慶長19年) 高松藩主 生駒正俊公の寄進により、寺地三千坪で移転。

 証秀は興正派の富田林の地内町建設に大きな役割を果たすと同時に、彼の時代に西国布教を進めています。しかし、実際に讃岐や四国に来たことはないと研究者は考えているようです。証秀が讃岐に赴いて建立したと述べられていますが、これは憶測で、証秀の代に高松御坊(現在の高松別院)が開かれたとまでしか云えません。ここでは現在の興正寺富田林別院や、高松別院も証秀上人の代に開かれたと伝えられていることを押さえておきます。

16世紀半ばになると三好氏配下の篠原氏に従って、讃岐国人の香西氏や十河氏が畿内に従軍します。
そして本願寺を訪れ真宗門徒となり、帰国して地元に真宗の菩提寺を建立するようになることは以前にお話ししました。この背後には、三好氏の真宗保護政策があったようです。どちらにしても16世紀半ばには、髙松平野には本願寺や真宗興正寺派の末寺が姿を見せるようになっていたようです。
 文献によって確実に高松御坊(別院)が確認できるのは、天正11年(1583)2月18日の文書です。
三好実休の弟で十河家を継いだ十河存保が、高松御坊の坊主衆に対して出したもので次のように記されています。

 野原野潟之寺内、池戸之内四覚寺原へ引移、可有再興之由、得其意候、然上者課役、諸公事可令免除者也、仍如件(「興正寺文書」)

意訳変換しておくと
 ①野原の潟の寺内を、②池戸の四覚寺原へ引き移し、再興したいという願いについて、それを認める。しかる上は③課役、諸公事などを免除する。仍如件
 
野原郷の潟(港)の寺内町と坊を四覚寺原に再興することを認め、課税などを免除する内容です。池戸の四覚寺原とは、現在の木田郡三木町井上の始覚寺周辺になるようです。この時点では讃岐御坊は、高松を離れ三木の常光寺周辺に移ったことが分かります。

 野原・高松・屋島復元図
中世の野原の港(現高松市) 背後に無量寿院が見える
 ①の「野原の潟」とは野原の港周辺のことです。
髙松平野で最も栄えていた港であったことが発掘調査から明らかになっています。その背後にあったのが無量寿院です。その周辺に真宗門徒の「寺内町」が形成され、道場ができていたともとれます。同時期の宇多津でも鍋屋町という寺内町が形成され、そこを中心に「鍋屋下道場」が姿を現し、西光寺に成長して行くことは以前にお話ししました。しかし、「可有再興之由」とあるので、移転ではなく「再興」なのです。ここからは高松御坊は、お話としては伝わっていたが、実態はなかったことも考えられます。この時期は、興正寺の中本寺として三木の常光寺が末寺を増やしている時期です。
常光寺と始覚寺と十河氏の拠点である十河城の位置を、地図で見ておきましょう。

常光寺と十河城
三木の始覚寺 常光寺の近くになる
地図で見ると、常光寺や始(四)覚寺は、十河氏の支配エリアの中にあったことがうかがえます。ある意味では、十河氏の保護を受けられるようになって始めて、教勢拡大が展開できるようになっとも考えられます。ちなみに、安楽寺の末寺である安原村の安養寺が教線を拡大していくのも、このエリアです。ここからは次のような仮説が考えられます。
①三好氏は阿波安楽寺に対して、禁制を出して保護するようになった。
②安楽寺は、三好氏の讃岐侵攻と連動する形で真宗興正派の布教を展開した。
③三好氏配下の十河氏や香西氏も真宗寺院を保護し菩提寺とするようになった。
④そのため十河氏や香西氏の支配エリアでは、真宗寺院が姿をみせるようになった。
⑤それが安養寺や常光寺、始覚寺などである。

十河文書出てくる再興を認められた池戸の四覚寺の坊について見ておきましょう。
坊の境内地を寺内と表記し、その寺内への加役や諸公事を免除するといっています。寺内は寺内町の寺内で、加役や諸公事を免除するとはもろもろの税を免除するということです。ここからは坊の境内地には俗人の家屋もあって、小規模な寺内町をかたち作っていたと推測できます。しかし、四覚寺原での再興がどうなったのかははよく分かりません。また、常光寺との関係も気になるところですが、それを知る史料はありません。

高松野原 中世海岸線
中世の海岸線と御坊川流路
再び御坊が三木から高松に帰ってくるのは、1589(天正17年)のことです。
 讃岐藩主となった生駒親正は、野原を高松と改め城下町整備に取りかかります。そのためにとられた措置が、有力寺院を城下に集めて城下町機能を高めることでした。そのため高松御坊も香東郡の楠川河口部東側の地を寺領として与えられ、それにともなって坊も移ってきます。親正は寺領の寄進状に、この楠川沿いの坊のことを「楠川御坊」と記しています(「興正寺文書」)。ここにいう楠川はいまの御坊川のことだと研究者は考えています。そうだとすれば楠川御坊のあったのは、現在の高松市松島町で、もとの松島の地になります。

高松御坊(興正寺別院)2
東寺町に勝法寺が見える 赤は寺院で寺町防衛ラインを形成
さらに1614(慶長19)年になって、坊は楠川沿いから高松城下へと移ります。
それが現在地の高松市御坊町の地です。これは、先ほど見たよう高松城の南の防衛ラインを寺町として構築するという構想の一環です。寺院が東西に並べられて配置されたのです。その配置先が高松御坊の場合には、無量寿院の西側だったということになります。

高松城下図屏風 寺町2
高松城下図屏風
生駒騒動の後、1640年に初代高松藩主として松平頼重が21歳でやってきます。
 松平頼重は水戸徳川家の祖徳川頼房の長子で、母は徳川光圀と同じ家臣の谷重則の娘です。しかし頼房は、頼重が兄の尾張・紀伊徳川家に嫡男が生まれる前の子であったため、遠慮して葬らせようとした所、頼房の養母英勝院(家康の元側室)の計らいで誕生したといわれます。そのため、頼重は京都天龍寺の塔頭慈済院で育ち、出家する筈でした。英勝院が将軍家光に拝謁させ、常陸国下館五万石の大名に取り立てられ、その後に21歳で讃岐高松12万石の城主となりました。このような生い立ちを持つ松平頼重は、京都の寺社事情をよく分かっていた上に、的確な情報提供者を幾人ももっていたようです。そして、宗教ブレーンに相談して生まれたのが次のような構想だったのでしょう。
①真宗興正派の讃岐伝道の聖地とされる高松御坊(高松別院)を勝法寺とセットで創建する。
②勝法寺は京都の興正寺直属として、代々の住職は興正寺より迎える。
③その経済基盤として150石を寄進する。
④御坊護持のために3つの子院(徳法寺・西福寺・願船坊)を設置する。
高松御坊(興正寺別院)3
勝法寺とセットになった高松御坊(興正寺別院)
このような構想の下に、現れたのが高松御坊と勝法寺が一体となった大きな伽藍のようです。ところが「入れ物」はできたのですが、その運用を巡って問題が発生します。それは次のような2点でした。
①勝法寺が奈良から移されたよそ者の寺で、末寺などが持たず政治力もなかった。
②勝法寺は興正寺直属のために、興正寺から僧侶が派遣された。
このため讃岐の末寺との関係がうまく行かずにギクシャクしたようです。そこで、松平頼重が打った手が、頼りになる地元の寺を後見としてつけることです。そのために選ばれたのが次の2つの寺です。
①三木の常光寺 興正寺末の中本寺として数多くの末寺保有
②安原村の安養寺 阿波安楽寺の末寺ではあるが髙松平野への真宗興正派の教線拡大の拠点となり、多くの末寺保有
このふたつの寺については以前に紹介しましたので詳しく述べませんが、讃岐への真宗興正派の教線拡大に大きな役割を果たし、数多くの末寺を持っていました。そして、目に見える形で勝法寺の後見寺が安養寺であることを示すために、安養寺を高松の城下町へ移動させます。その場所は、先ほど讃岐国名勝図会でみた見た通りです。この場所は、寺町防衛ラインの堀の外側になります。これは、寺町が形成された後に、安養寺が移転してきたために外側でないと寺地が確保できなかったようです。こうして、常光寺と安養寺を後見として勝法寺は、京都の興正寺直属寺として機能していくことになります。

松平頼重は、どうしてこれほど興正寺を保護しようとしたのでしょうか。 
一般的には、次のような婚姻関係があったことが背景にあると言われます。
松平頼重の興正寺保護

しかし、これだけではないと研究者は考えています。
松平頼重の寺社政策についての腹の中をのぞいてみましょう

大きな勢力をもつ寺社は、藩政の抵抗勢力になる可能性がある。それを未然に防ぐためには、藩に友好的な宗教勢力を育てて、抑止力にしていくことが必要だ。それが紛争やいざこざを未然に防ぐ賢いやりかただ。それでは讃岐の場合はどうか? 抵抗勢力になる可能性があるのは、どこにあるのか? それに対抗させるために保護支援すべき寺社は、どこか? 

具体的な対応策は?
①東讃では、大水主神社の勢力が大きい。これは長期的には削いでいくほうがいいだろう。そのために、白鳥神社にてこ入れして育てていこう。
②髙松城下では? 生駒藩時代には、祭礼などでも楯突く神社が城下にあったと聞く。岩清尾神社を保護して、ここを高松城下町の氏神として育てて行こう。そして、藩政に協力的な宮司を配そう。
③もっとも潜在的に手強いのは、真言宗のようだ。そこに楔をうちこむために、長尾寺と白峰寺の伽藍整備を行い、天台宗に転宗させよう。さらに智証大師の金倉寺には、特別に目をかけていこう。
④讃岐の真言の中心は善通寺だ。他藩ではあるが我が藩にとっても潜在的な脅威だ。そのためには、善通寺包囲網を構築しておくのが無難だ。さてどうするか? 近頃、金毘羅神という流行神を祭るようになって、名を知られるようになった金毘羅大権現の金光院はどうか。ここを保護することで、善通寺が牽制できそうだ。
松平頼重の宗教政策
潜在的な脅威となる寺社(左側)と対応策(右側)
⑤もうひとつは、讃岐に信徒が多い真宗興正派の支援保護だ。興正寺とは、何重にも結ばれた縁戚関係がある。これを軸にして、高松藩に友好的な寺院群を配下に置くことができれば、今後の寺社政策を進める上でも有効になる。そのためにも、京都の興正寺と直接的につながるルートを目に見える形で宗教モニュメントとして創りたい。それは、興正派寺院群の威勢を示すものでなければならない。
このような思惑が松平頼重の胸には秘められていたのではないかと私は考えています。

高松興正寺別院
現在の興正寺高松別院

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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江戸時代の讃岐各藩における雨乞修法を担当したのは、次の真言寺院でした。
①髙松藩  白峯寺
②丸亀藩  善通寺
③多度津藩 弥谷寺
旱魃になるとこれらの寺院では、藩に命じられて雨乞修法が行われるようになります。そのために、善如(女)龍王が勧進され、小さな社が建立されていました。この善如(女)龍王に降雨を祈るという修法は、中世以来のものかと私は思っていました。しかし、そうではないようです。17世紀後半になって、ある人物によって讃岐にもたらされたようです。それが浄厳(じょうがん)という真言僧侶のようです。
浄厳
浄厳
彼は、善通寺の僧侶や髙松藩初代藩主松平頼重にも大きな影響を与えた僧侶のようです。今回は、浄厳が讃岐に何をもたらしたかに焦点を合わせて、見ていくことにします。テキストは、「高橋 平明 白峯寺所蔵の新安祥寺流両部曼荼羅図と覚彦浄厳   白峯寺調査報告書NO2 香川県教育委員会」です。

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まず、彼が何者であるのを浄厳伝(現代訳)で見ておきましょう。
浄厳律師は、寛永16年(1639)11月23日に生まれた。字(通称)は覚彦(かくげん)と言い、俗姓は上田氏であり、河州錦部郡鬼住村(河内長野市神ガ丘)の出身である。父母は信仰に篤く、深く三宝を信じており、律師は生まれながら非凡であった。幼少の御、授乳の時には、いつも右の人差し指で梵字や漢字を、母の胸に書いたと言われ、また一切の文字も習ってもいなかったのによく知っていたと言う。四歳の頃には、法華経の普門品や尊勝陀羅尼を読誦し、またよく阿弥陀や観音、地蔵などの仏の名号を書いたと言う。ある時には、父親に出家したいと願い、密かに般若経を唱えていたとも言われ、女性に会うことを嫌い、生臭いものは食べなかつた。六歳の時には、桂厳禅師の碧巌録の講義を聴き、家に帰りまた自ら講じ、それを聴いた者を驚歎させたと言う。
慶安元年1648)十歳の時に高野山に登り、悉地院の雲雪和尚に付き得度。雲雪和尚遷化後は、釈迦文院の朝遍和尚に師事。
明暦二年(1656) 実相院の長快阿閣梨から中院流の伝法灌頂を受ける。
寛文四年(1664) 南院の良意阿闇梨から安祥寺流の伝法灌頂を受け秘印を授かる。
以後は、倶舎、唯識、華厳や法華の諸経論を兼学して勉学研鑽する。
寛文十年(1670) 大師の『即身成仏義』を講義して、高野山の全山学徒が心服。高野山で修行すること20余年で、学侶の席を捨て山を下る。
寛文十二年(1672)春、故郷河内に帰り、父の俗宅に如晦庵を建て、観心寺で『菩提心論』『理趣経』などを講義
延宝元年(1673) 神鳳寺派の快円律師より梵網菩薩戒を受け、浄厳と名を改め、これ以降は戒律を護持。
翌年には、仁和寺の顕證阿闇梨、孝源阿閣梨の二師に拝謁して、西院の法流や真言の諸儀軌を受得する。また、黄檗の鉄眼禅師に超逓して意気投合し、その後も親交は深められる。
延宝四年(1676)春二月、河内の常楽寺にて曼茶羅を建てて、初めて受明灌頂を行った。この受明灌頂は、真言密教の重要な灌頂であったが伝授が途絶えていた。その灌頂を復興。
この年の5月に、泉州堺の高山寺で、神鳳寺一派の玄忍律師を証明師として招請。通受自誓の受戒を行い、比丘となる。

別行次第秘記は浄厳の真言密教の修行に関する口訣書
 
延宝六年(1678)春、讃岐善通寺に招かれ講経や説法。讃岐高松の藩主松平頼重は、律師の戒徳を仰ぎ慕い、直接律師から教えを受けた。
  1680年には松平頼重の要請に応じて、『法華秘略要砂』十二巻を著述。
貞享元年(1684)11月、教化のために江戸に出る
が、旅住まいをして間もないのに、学人が雲のように多く集まり、講経や説法をしても、人が来ない日は無いほどであった。三帰依の戒を授かった者は、六十万九千人。光明真言呪を授かった者 一万千百余人。書薩戒を授かった者は千百三十人であった。
元禄四年(1691)8月、幕府の命で、湯島に霊雲寺を開創
元禄十年(1697)春2月、結縁灌頂を大衆に授け、入壇し受けた者が九万人
水戸藩の儒者であった森尚謙は、律師の法座があまりに盛んであったのを祝って、次のように詩作している。
「南天の鉄塔覚皇の城、芥子扉を開いて此道明らかなり。憫恨す会昌の沙汰の濁れることを、讃歎す日域の法流の清きことを、戸羅具足して無漏を証し、結縁灌頂して有情を救う。遍照金剛今いづくにか在る。那伽の定裏に形声を見はす」

元禄十五年(1702)6月、体調を崩し病に罹り、27日に、頭北面西し、右脇して臥して、印を結んで、静かに遷化。享年六十四。
浄厳は、戒律を護持して、決して怠らず、三衣一鉢などの持ち物を飾ることもなく、美味しい食物を口にすることはなく、人に接する時は謙譲であり、また人を送迎する際には、非常に丁寧であった。信者から受けた布施は、すべて経典や仏像を購入したり、堂塔を修復することに用い、慈悲の実行を常に旨とし、護法を自らの勤めとなしたのである。まさに、仏教界の逸材と言うべき高僧であった。
浄厳の墓(河内延命寺)
浄厳の墓(河内延命寺)
以上のポイントを要約しておくと
①寛永16(1639)年 河内に生まれ10歳で高野山に入山得度
②寛文10(1670)年  高野山修行20余年で、高野山を下り故郷河内に真言新安祥寺流を開く
③元禄4(1691)年  5代将軍徳川綱吉と柳沢吉保の援助を受けて江戸湯島に霊雲寺を建立
庶民の教化に努め、近世期の真言宗の傑僧と評され人物のようです。
この中で注目したいのが讃岐との関連で、次の記述です。
延宝六年(1678)春、讃岐善通寺に赴き講経や説法。讃岐高松の藩主松平頼重は、浄厳の戒徳を仰ぎ慕い、直接浄厳から教えを受けた。
1680年には松平頼重の要請に応じて、『法華秘略要砂』十二巻を著述。
これを裏付けるのが「浄厳大和尚行状記」です。
浄厳行状記
浄厳大和尚行状記
この書は、浄厳が善通寺誕生院主宥謙の招きで讃岐を訪れ際の様子や、松平頼重との関係が詳しく記されています。浄厳来讃のきっかけについては。次のように記します。

延宝六(1678)年3月26日 讃州多度郡善通寺誕生院主宥謙の請によって彼の地に赴き因果経を講じ、4月21日より法華経を講じ、9月9日に満講した。

ここからは、延宝6(1678)年に、善通寺誕生院主宥謙の請いを受けて因果経ならびに法華経の法筵を開いたことに始まると記されています。
どうして宥謙は、浄厳を善通寺に「講師」として招聘したのでしょうか?
誕生院主宥謙の課題は、7年後の貞享2年(1685)に控えた弘法大師八百五十年遠忌でした。それを前に善通寺を浄厳の説く新安祥寺流に改める「宗教改革」の道を選んだと研究者は考えています。それは、宥謙以後の善通寺歴代住持の動きからもうかがえるようです。
宥謙以後の善通寺誕生院住職は、光胤―円龍―光歓―光天―光國と続きますが、新安祥寺流との関わりが深くなっていきます。
宥謙が元禄四年(1691)に入寂すると、住持職を譲られていた光胤は、元禄9(1696)年に、京都や江戸での寺宝の開帳を行ったことは以前にお話ししました。元禄の出開帳のスケジュールは次の通りです。
①元禄 9(1696)年 江戸で行われ、
②元禄10(1697)年3月1日 ~ 22日まで
           善通寺での居開帳、
③同年11月23日~12月9日まで上方、
④元禄11年(1698)4月21日~ 7月まで 京都
⑤元禄13年(1700)2月上旬 ~ 5月8日まで   
            播州網干(丸亀藩飛地)
以上のように3年間にわたり5ヶ所で開かれています。
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善通寺江戸開帳の「元禄目録」
 江戸での開帳の際に首題に「讃岐国多度郡屏風浦五岳山善通寺誕生院霊仏宝物之目録」と題された「元禄目録」が残されています。

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元禄開帳末尾

その末尾に「此目録之通、於江戸開帳以前桂昌院様御照覧之分 如右」とあります。ここから元禄九年(1696)の江戸出開帳の際に、桂昌院の「御覧(見学)」のために作成された目録であることが分かります。桂昌院は、家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母で、大奥の当寺の実権者でした。その桂昌院に見てもらうために料紙を切り継いで、薄墨の界線がひかれ、36件の宝物が記され、それぞれについての注記(作者・由来・形状品質など)が書かれています。
 「大奥の実力者が見学に行った善通寺のご開帳」というのは、ニュースバリューがあり、庶民を惹きつけます。現在でも、皇室記事に人気があり、皇族たちの着ているものや見学先に庶民が強い関心を持っているのと同じです。しかし、どうして四国の善通寺のご開帳に、わざわざ桂昌院が見学にきたのでしょうか。法隆寺や善光寺に比べると、全国的な知名度はかないません。

善通寺薬師如来像内納入文書 (2)
善通寺本尊薬師如来開眼供養願文(善通寺)
ここには桂昌院の「息災延命」が願われている

 この時に大きな力になったのが桂昌院の帰依を得ていた浄厳の存在だと研究者は推測します。
当寺の浄厳は江戸にいて、五代将軍綱吉から湯島の地を賜って霊雲寺を開いて真言律を唱え、多くの信者たちを得ていました。浄厳による大奥への裏工作があったことが考えられます。

1 善通寺本尊2
善通寺本尊薬師如来像
 それを裏付けるのが、現在の善通寺本尊薬師如来像です。
この本尊は、開帳で集まった資金で造られたようで、開帳から4年後の元禄13(1700)年に開眼されています。この制作にあたったのは、京都の仏師法橋運長であることは以前にお話ししました。運長は誕生院光胤あてに、元禄12(1699)12月3日付け文書を4通提出しています。
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大仏師運長が誕生院にあてた「見積書」
その内の「御註文」には、像本体、光背、台座の各仕様について、全18条にわたり、デザインあるいはその素材から組立て、また漆の下地塗りから金箔押しの仕様が示され見積書となっています。このような「見積書」によって、運長は全国の顧客(寺院)と取引を行っていたようです。
 ここで研究者が指摘するのは、運長は浄厳の肖像を制作していることです。浄厳は、以前から運長にさまざまな仏像の制作を依頼してようです。ここからは私の推論です。「弟子」にあたる誕生院院主光胤は浄厳に次のような依頼を行います。

「おかげさまで江戸での開帳が成功裏に終わり、善通寺金堂並びに本尊造立のための資金が集まりました。つきましては、善通寺金堂の本像作成にふさわしい仏師を紹介していただけないでしょうか」

 江戸の浄厳に相談し、仏師紹介を依頼したことが考えられます。そして浄厳が紹介したのが腕利き仏師運長だったと私は考えています。このように考えると、江戸での開帳計画も一か八かのものではなく、浄厳の指導助言に従って光胤が進めたもののように思えてきます。善通寺の運営について浄厳は、さまざまな助言や協力もしていたようです。
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円龍が運長に依頼した愛染明王像(善通寺)
次の善通寺住持の円龍は、宥謙・光胤から受法した正嫡の弟子です。
そして、京都愛宕宝蔵院主から善通寺に転住してきた人物です。
宝蔵院主(円龍?)が光胤に、仏師の法橋運長に不動尊と愛染明王像の制作を依頼し、開眼を浄厳に求めた元禄十四年の手紙が残されています。円龍も浄厳の指導下にあったことが分かります。
次の光歓は円龍の念持仏を開眼した浄厳弟子の蓮体について新安祥寺流を受け、白峯寺等空法印からも同法を授かった人物です。

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善通寺大塔再興雑記には、光圀の名前が見える

光國僧正は阿波出身であり、東大寺戒壇院長老となった慧光(1666~1734)に師事していました。また、五重塔再興に東奔西走した人物です。

慧光は浄厳の高弟のひとりで、湯島・霊雲寺の二世でもあります。善通寺に伝えられる新安祥寺流聖教には光國が所持していたものがあり、さらに白峯寺等空と離言書写のものも伝えられています。これらをあわせると善通寺の大部分の聖教が整うようです。
以上をまとめておくと、浄厳を善通寺に招請した誕生院主宥謙のねらいは、弘法大師650年遠忌を契機として善通寺を新安祥寺流の拠点のひとつとすることにあったと研究者は考えています。
それを裏付けるように、これ以後善通寺周辺の真言有力寺院がである金昆羅金光院・弥谷寺・白峯寺・志度寺などが新安祥寺流を受入れます。 (松原秀明「讚岐における浄厳大和尚の遺蹟と、その法流について」『郷土歴史文化サロン紀要』第1集1974年

密教では誰から誰に教えが伝わってきたということを非常に重視します。
たとえば空海が教えを授かるときも、恵果から空海に灌頂というかたちで師匠の器から弟子の器に水を注ぐように密教を教える。同じように空海が実恵とか真雅に水を移すように灌頂を行います。誰から伝わってきたかというのを非常に重視しますから、師から弟子に教えが受けつがれると血脈という系図のようなものが与えられます。真言宗におけるある流派の教えが受け継がれていった法脈がこうして形成されていきます。そして、その証として肖像画が作られていくことになります。

こうして、讃岐の真言寺院は新安祥寺流に席巻されていくようになります。
これは、ある意味での「讃岐における宗教改革」とも云えます。それまでの真言の流儀や法脈が一変されていくことになります。同時に「宗教改革」にともなうエネルギーも生み出されます。それは、善通寺を拠点とする新安祥寺流の寺院ヒエラルヒーの形成につながって行きます。そういう視点で見ると戦国末の兵乱で一時的な衰退状態にあった善通寺が新安祥寺流によって近世寺院として蘇っていく契機となったのかもしれません。弥谷寺の善通寺への末寺化などの動きもこのような流れの中で見ておく必要があるようです。


以上から浄厳の讃岐にもたらしたものを挙げておきます。
①善通寺誕生院院主の帰依を受けて、善通寺を新安祥寺流の拠点寺院としたこと
②善通寺を拠点に西讃の有力真言寺院が新安祥寺流を受けいれたこと
③善通寺の歴代院主は、浄厳やその弟子たちと法脈をひとつにして、寺院経営などに指導助言を得たこと
④そのひとつが江戸での開帳行事の開催や、本尊作成の仏師選定などが史料から分かる。
⑤浄厳は髙松藩松平頼重の護持僧侶として、宗教政策に強い影響力をもつようになったこと
⑥松平頼重の引退後の宗教政策には、浄厳がさまざまな点に影響を与えていたことが考えられる事

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
         「高橋 平明 白峯寺所蔵の新安祥寺流両部曼荼羅図と覚彦浄厳   白峯寺調査報告書NO2 香川県教育委員会」

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白峯寺本堂(松平頼重により再建)
白峯寺は近世初頭には生駒家、その後には高松藩の松平頼重の保護を受けて本堂などの再建を行っていったことを前回に見てきました。その後の伽藍整備は、どのように進められたのか、またその資金はどのように捻出したのかを今回は見ておこうと思います。テキストは
「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」です。

白峯寺の財政基盤は、以下の寺領120石です。
①60石は生駒藩初代藩主生駒親正より寄進
②10石は高松藩初代藩主松平頼重より千躰仏堂領として寄付  (青海村の1町2反1畝23歩)
③50石は林田村の海岸での白峯寺の「自分開発」

寺領120石というのは、高松藩主の墓所法然寺と、城下菩提寺の成願寺の300石に次いで多い数字になるようです。しかし、白峯寺は120石という財政基盤を、無視した「過剰設備投資」を繰り返します。それを、崇徳院六百年回忌を翌年に控えた宝暦12年(1762)の財政状況で見ておきましょう。

崇徳上皇陵と頓證寺 讃岐国名勝図会拡大
讃岐国名勝図会(拡大図)
  白峰寺には、高松藩主第五代頼恭(よりたか)の名前の入った寛延3年(1750)の棟札が多いようです。この時には、賀茂社ほか8社の再建立、御滝蔵王社・華表善女竜王社の再興、十王堂・鐘楼堂の再上葺、諸伽藍の繕、崇徳院社幣殿・御本地堂廊下・相模坊社幣殿・御供所廊下・惣拝殿陵門の再上葺を行っています。さらに宝暦12年(1762)に客殿上門の再葺が行われています。ここからは、600年回忌に向けて、藩主頼恭が事前に各堂宇の修理・整備を計画的に行ってきたことがうかがえます。それでもまだ足りない部分があったようです。白峯寺は、本尊・諸宝物・寺修覆等の費用が不足するためとして、高松藩へ「拝借銀(借金)」を次のように願い出ています。
諸本尊再興残り・ 銀2貫500目
宝物御寄付物等再興 銀6貫目
御成門玄関・客殿玄関境露次門等 銀8貫500目
御成門御上段・ニノ間客殿貼付唐紙等諸造作 銀4貫目
以上、合計銀22貫目が必要経費として挙げられています。そのため銀20貫目の拝借とその返済として毎年25石の「上米」を行うことを藩に申し出ています。高松藩はこれを認めません。しかし、白峯寺は食い下がります。借金額が多くなっていて自力での費用確保できないとして、再度寺社奉行へ願い出ます。その結果、高松藩は銀8貫600目、毎年25石の上米で手を打とうとします。これに対し白峯寺は再再度、銀20貫目の拝借を願い出ています。最終的には拝借は、銀13貫500目、上米は35石で折り合いがついたようです。拝借銀の利子は1か年1割3歩、返済の上米は寺領米の中から35石を代官所へ毎年暮れに納めるということになります。

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白峰寺本堂裏の宝寿瓦
高松藩からの借金返済がどうなっているのかを見ておきましょう。
 崇徳院六百年回忌から約40年後の享和元年(1801)に、返済の上米35石が10石減らされています。高松藩と拝借銀をめぐっての値引き交渉があったようです。この年には、民間から銀札4貫500目を借用した証文写しがあります。藩ばかりではなく、民間の金貸業者からも白峯寺は借金していたことが分かります。証文には拝借人・白峯寺、加判(保証人)高屋村百姓佐一郎とあります。地元の有力者である「高屋村百姓」が白峰寺の保証人を務めていることに研究者は注目します。
 以上から、この頃の白峯寺は、旱魃や水害によって寺領米が思うように入らず、借金が重なり高利返済に追われていて、借入額が銀40貫にもなっていたようです。白峯寺の寺領収入は、先ほど見たように1年間当たり120石です。倹約してその内の60石で寺運営を行い、残りを借銀の返済に廻しています。しかし、これでは借金は減りません。金利払いのために借金を重ねるというという悪循環の中にあったようです。これは丸亀藩の善通寺と共通します。
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白峯寺大師堂
 そのような中で、最後に頼るのは髙松藩です。
高利の借金返済ににあてるため銀40貫目を拝借し、寺領米の中から年60石を返済財源とする財政建て直し案を、高松藩へ願い出ます。これが許されたら「去々年(寛政12)御金蔵二而、拝借仕元銀十貫目」の未納銀をも皆済するといっているので、これより以前にも藩から借り入れていたようです。そして髙松藩は、これを認めます。白峯寺は先にも触れた通り、髙松藩の祈祷寺でした。藩のオフィシャルな面を担う寺院だったので、放置して見放すわけにはいきません。

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頓證寺殿の看板
 ところが早くも2年後の文化元年には、返済に廻した残りの60石では、寺運営ができないので、返済米の半減と利子の減少を願い出ています。財政再建計画は、わずか2年で頓挫したようです。今度は髙松藩も認めません。3年後の文化5年になると、再度60石返納の半減願いが出されます。髙松藩は、妥協案として20石減らして40石の上納にすることを認めています。
崇徳院回忌650年が終わった文化10年11月には、回忌行事に要した諸経費や、本寺の御室御所や京都の公家衆の奉納物に対するお礼の上京などの費用のために、銀40貫目の借金を願い出ています。これは認められますが、拝借銀40貫目から、納め残りの22貫目を差し引いた17貫目を白峯寺へ渡しています。髙松藩もなかなかの対応ぶりです。(以上、「白峯寺諸願留」7-5).
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勅額門
4年後の文政元年には、拝借銀の5年間免除を次のように願い出ています。(「白峯寺大留 51」報告書309P)
口達之覚
拙寺義、古来より西新通町二而旅宿所持仕居申候処、先住時分より追々及大破候二付、修覆之義職人共江積せ候所、年占キ建前二而最早修覆二難相成由二付、建更積せも仕セ候処、余程之入用二相見、其上上打続種々物入多指支候二付、去ル酉年重キ拝借をも相願候所、銀四拾貫目御貸被下、毎歳御定之通、米六拾石ツ、無滞相納居申候二付、尚更普請手当無之、及延引居申候、右旅宿之義者、龍雲院様御入国以来於御城主御祈蒔執行被仰付、正五九月御城下江罷出候節、拙僧ならびに衆僧共多人数止宿仕来候、往占ハ諸役御免地之由二も伝承仕候得共、年古キ義二而書面二相記有之義二も無御座は成義ハ難相別、当時町並二相成居申候処、件之通、及大破居申候、其上時年之風雨二而所々崩れ止宿等も難相成候、
白峯権現之講席等茂難相勤候付、無拠法縁之義等願相勤候程之義二而、甚心配仕、色々相考申候得共、所詮難及自力、乍併前条中上候、先達而之拝借銀上納方二も年二寄指支候仕合、其上御時節柄と申、別段之拝借難相願、ゴ極当惑仕罷有候、依之近頃中上候兼候へ共、右拝借銀上納方何卒五ヶ午之間、御用捨被成下候様、本願度奉存候、左候ヘハ右御用捨米を引当旅宿普請手当仕度奉存候、呉々も御時節柄右様之願中出候段、奉恐入候、
御城内重御祈躊二罷出候義二付、拙僧井衆僧共多人数仮宅等二而ハ、指支候次第茂御座候間、不得止事御歎申上候、此段宜御賢慮被下候様、奉願候、
以上
寅十月     白峯寺
右之通御勘定所江願指出候所、同月下旬願之通相済、尤三ヶ年御用捨被下候、若林義左衛門殿より申来候、
意訳変換しておくと

口達之覚
白峯寺については、古来より髙松城下の西新通町に「旅宿所」を持っていますが、先代の頃から大破したままになっています。そこで、修復について大工職人と協議したところ、「建物自体が耐久年数を超えて、修復は困難」とされました。そのため建替の見積もりを依頼しようとしました。
 しかし、打続く種々の物入のために、4年前に多額の借金を次のような内容でにお願いしたばかりです。銀四拾貫目の借金に対して、毎年米60石を返済すること。
 「旅宿」については、龍雲院(松平頼重)様が讃岐入国以来、御城主から祈祷執行を白峯寺が仰せつかってきました。そのため、正月・五月・九月の三回、拙僧や衆僧などの多人数の僧侶たちが髙松城下に参った際の宿となってきました。(中略)
しかし、先述したとおり長年の風雨で、痛みがひどく宿泊も出来ない状態です。(後略)
ここには髙松城下の西新通町にある白峯寺の旅宿の普請に充てるために、借入金返済の免除を願いでています。白峯寺は初代藩主松平頼重以来、藩主祈蒔執行のため正月・五月・九月に、住職はじめ多数の僧が高松城下へ出かけていきます。そのため旅宿です。これは髙松藩の公式行事でもあるので、無碍にも断れません。髙松藩は拝借銀の免除期間を5年間から3年間に短縮して認めています。
 さらに3年後の文政4年に、大師堂について借金を申し出ます。

太子堂は仮堂でしたが、寛政のはじめに造営が認められて、造営が始まり上棟します。しかし、資金不足で、外回り囲い板、唐戸厨子が出来上がっていません。そこで諸国参詣者の印象も悪いため、大師堂造作と城下旅宿の造作費用にあてるため、さらに拝借銀上納の3か年免除を願い出ます。藩は2か年間免除に値切って認めています。大師堂は天保5年春に完成しますが、西新通町の白峯寺旅宿の修繕は意外と経費がかかり、15貫目の借財となります。そのため、15貫目の拝借を願い出、返済は寺領米の中から行うことにしています。
 白峯寺では「諸初穂賽銭二至迄減少」「御寺内暮方難立行」状態で、寺の財政がゆきずまっていることを藩に訴えています。
藩は銀15貫目の拝借は認め、その内の10貫目は寺領米の中から毎年30石、5貫目は持林の伐取代金から上納することになります。この時高松藩は、郡方より阿野郡北の大政所(大庄屋)渡辺七郎左衛門と本条和太右衛門へ白峯寺の財政状況を問い合わせています。両大政所は、白峯寺の寺領からの収納は60石で、近いうちには借銀も皆済することができると返答しています。これは、白峯寺寄りの見通しの甘い見解です。

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白峯寺薬師堂

 危惧したとおり天保7年には長雨による寺領収納の減少のため、拝借銀10貫目に充てる返済米30石の免除を願っています。また翌年にも免除を申し出ています。(以上、「白峯寺諸願留」7-9)

以上、宝暦から天保にかけての白峯寺の財政状況について見てきました。
ここからは、寺領120石の財政収入を大幅に超える支出があったことが分かります。所謂、収入に見合う寺社経営ではないのです。そのために借金が膨らみ、どうしようもなくなると藩に泣きつくということを繰り返しています。崇徳上皇の百年に一度の回忌行事に備えて伽藍整備は進みますが、多額の借金は積み増しされて行きます。整った堂宇の背後には、「過剰な設備投資」による「火の車の財政状況」があったようです。それを最後で支えていたのが髙松藩であるということになります。髙松藩の祈祷所として公的な性格を持つ白峯寺だからこそできた寺社運営かもしれません。

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 近世後期になると、白峯寺は「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」と名乗るようになったことは以前にお話ししました。ここには、崇徳天皇御廟所である白峰寺を髙松藩が見放すはずがないという「確信」もあったような気もしてきます。
 これは以前に見た善通寺と丸亀藩の関係とよく似ています。善通寺も寺社経営は財政的には火の車でした。それを丸亀藩からの借金で賄っていました。そして、その多くは返金されることはありませんでした。空海生誕地の善通寺を、丸亀藩が見放せるはずがないという確信が善通寺側にはあったようです。
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参考文献
  「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」
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 村の鎮守や祠にまで興味が涌いてきたのですが、各市町村の市史や町史で神社史を見ても要領を得ません。その記述パターンは、神社の由緒書きを、そのまま書き写し、どれだけ歴史が古いのか、由緒があるのかを競うような内容で、長宗我部元親の兵火によって全てが焼き尽くされたために、詳細未詳、と締めくくるものが多いようです。
 近世のムラの神社が置かれた状況を、歴史の文脈の中で捉えようとする文章に出会いましたので読書メモ代わりに紹介します。テキストは テキストは 「井上智勝   近世神社通史稿 国立歴史民俗博物館研究報告第148集 2008年12月」
近世の宗教と社会 2 / 井上 智勝/高埜 利彦【編】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア

著者は、中世と近世の間には、大きな社会的な断層があることを最初に指摘します。断層の形成要因のひとつが、近世に登場してくる強力な統一政権だというのです。そして「近世ムラの神社」は、「格段に強力な統一政権」の動向や影響を受けながら、あるものは継承され、あるものは否定されていくことになると云います。

兵農分離

まず取り上げるのが兵農分離と検地です。
織豊政権は、武士団の城下町へ集住化で兵農分離を進めます。さらに検地で、複雑な土地所有関係を領主と農民が直接向かい合うシンプルなものにしていきます。
 兵農分離は、村の神社に何をもたらしたのでしょうか?
 それまで村々に生活していた武士団は城下町に集住させされ、常備軍の一員に編成されます。つまり、ムラから武士が消えたのです。これはムラの神社に大きな打撃となります。なぜなら、それまでムラに居館を構え、自ら耕作に携わってきた在地領主は、ムラの神社にとっては、最大の篤信者であり、パトロンでした。兵農分離は、ムラの神社の最大の庇護者を奪ったことになります。
理文先生のお城がっこう】歴史編 御家人の館
ムラにあった中世の武士居館

 戦国の乱世の中で敗者となった武士団の中には、西長尾山城主(まんのう町・丸亀市)の長尾氏のように、帰農しながら寺院や神社の宗教者として地域での指導性や優位性を確保しようとする者も現れます。しかし、これもあくまでムラの一員としての存在です。武士たちいなくなったムラでは、百姓たちの手で神社運営が行われるようになります。
太閤検地|記事|ヒストリスト[Historist]−歴史と教科書の山川出版社の情報メディア−|Historist(ヒストリスト)

 検地も、ムラの神社にとっては、大きな打撃となりました。
 検地によって、寺社が今までに持っていた田地も、一旦清算されす。広大な土地を持っていた有力神社をはじめ村の氏神社(鎮守社・産土社)まで、社領や神領は没収されます。そして、検地を施されて、貢納の対象とされました。豊臣・徳川初期の検地による社勢の衰えを伝える神社が多いのは、検地による寺領縮小と関係しているようです。誇張もありますが、ある程度史実を反映したものと研究者は考えているようです。

こうして、ムラから武士たちがいなくなったことで、神社は百姓や宗教者が維持・運営してゆかなければならない時代がやって来ました。
しかも、検地によって神田や免田などが没収されます。まずは、神社を維持するための経済的な基盤を再建することが求められました。氏子たちは、年貢地に組み込まれた村の耕地の一部を「神田」などと位置づけ、年貢を納めた余りで神社を維持する努力を重ねます。
村切り
青いエリアが中世の郷、赤いエリアが「村切り」の地に生まれた村

 検地を受けて行われた「村切り」も、神社に影響を与えました。
近世の統一政権は、中世の中間搾取をなくして、領主が小農民から直接に年貢を集めるという方向を指向しました。そのためにムラは、小農民を把握しやすいように再編成されることになります。郷に、いくつもの線引きがされ、切り分けられます。これが「村切り」です。中世まであった広い荘郷は解体され、集落を単位として「村」が生まれます。これが近世的な「村」の誕生です。

中世から近世に移る際に、神社の奉仕者も変容します。
兵農分離によって武士団の棟梁などムラの領主がいなくなった所では、神社の維持・管理の担い手や司祭者、あるいは祭祀秩序に大きな影響が出ています。ムラの神社の神職には、領主層の一族が多かったようです。それが武士団がいなくなるということは、神職にとってはその後ろ盾をなくすることとを意味します。
「ムラの領主の転出=神職失脚=神社の祭礼行事再編」

ということにつながります。
 検地には土地に耕作民を縛り付けることで、安定的な貢租収入を確保し、政権の安定を図るという目的もありました。そういう意味では、封建体制とは人々の移動の自由、職業選択の自由を奪うことによって成立するものといえます。
四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から

 これは、諸国を巡り歩く廻国の宗教者にとっては、「生活権の侵害」でした。諸国を遍歴して活動していた山伏などの廻国の宗教者の多くは、いままでの「営業スタイル」がとれなくなります。こうして、山伏たちは、一つの土地に定着して、生きていくしか道がなくなります。ムラに定着した山伏たちは、当然のように村の宗教活動に積極的に関わろうとします。これは、神職との間に緊張関係を生むことになります。祭祀の方法や祭祀に携わる巫女などの職掌をめぐって、両者はしばしば争いを引き起こしていることが讃岐の資料にも出てきます。このような争いを重ねる中で、控訴判例などを通じて両者の職分は整理されていきます。職分の明確化は、神職に独自の身分に属するという自意識を育てていきます。それは、神職達の身分集団の形成につながります。
また、山伏と同じように廻国行者である伊勢や熊野の御師も、所属する神社の神を奉じて、巡回先に定着する者が数多く現れます。近世初頭の新田村落への伊勢社の勧請は、このような御師の活動によるものが多いようです。
 近世初頭には、修験者や廻国者・御師たちの移動が原則禁止され、彼らが地域に定着し、世俗化していく時期であったことを押さえておきます。

戦国の乱世を終らせた豊臣政権は、積極的に神社の修造を行います。
その覇業を継いだ家康もまた、著名神社の修造を行っています。これらは彼らの篤い信仰心を表すものとされたりもします。が、実際は国家レベルの「神事」を果たすことによって、自分が正当な国家公権の掌握者であることを誇示することが目的であったと研究者は考えています。
 豊臣政権も徳川政権も、検地によって神社の領地経営を一旦は否定しました。しかし、有力神社に対しては改めて社領を与えています。各藩主も、同じように領内の有力寺社に寺領や神領を寄進します。讃岐の生駒氏が新興の流行神であった金毘羅神を祀る松尾寺金光院に、併せて330石の寄進を行うのも、このような文脈の中で見ておく必要がありそうです。金毘羅山の金光院の場合には、高松藩主松平頼重の斡旋で、朱印地になります。朱印状を持つ神社は、高い格式をもって処遇され、年頭や八朔に将軍や大名らに拝謁を許されました。
 しかし、神領寄進が行われたのは、幕府や藩主が信仰を寄せる一部の寺社だけです。恩典に与れない神社の方が圧倒的に多かったのです。
それでは、村の神社は、どのように維持管理されたのでしょうか。
生駒藩の場合を見てみると、村の神社の境内や神官の住居などは「除地」という免税地あつかいにしています。そのエリアは領主側が決めるもので、神職や氏子の希望どおりにはならなかったようですが、村の神社の維持には助かりました。藩が神社維持について、全面的に村の氏子の自助努力に委ねていたのでもないことがうかがえます。

 確かに、信長は、中世の土地制度や国家権力の在り方を否定して登場してきました。スクラップ&ビルド方式が採用されます。抵抗するものは強大な軍事力によって焼き払い、それを乗り越えて新しい時代を開くという使命感の故なのでしょう。
 しかし、江戸時代に入りしばらくすると、殿様の中には
「帰順する者は多くこれを容れ、利用できる部分は旧来の枠組みを利用することで、無駄な消耗を省いた藩造り」

を目指す殿様も現れてきます。それが讃岐では、生駒氏であり、初代高松藩藩主の松平頼重になるのかもしれません。彼らは「神事遂行は、統治者の責務」という認識を、持っていたようです。もっと具体的に云うと、殿様の頭の中には、「領主には領内の寺社を維持し、神事を円滑ならしめる責任がある」という「義務意識」があったということです。
 讃岐が二つに分けられ後の高松藩には水戸藩から松平頼重が初代藩主としてやってきます。この頃にになると全国的に、衰退・廃絶していた古社を復興し、神社の秩序化を推し進めようとする動きが、各藩で起こってきます。
神祇宝典(じんぎほうてん) - 貴重和本デジタルライブラリー

例えば正保三年(1646)尾張名古屋藩主徳川義直は、「神祇宝典」を著しています。
その中には、全国の式内社およそ870社と、祇園社・北野社など著名式外社68社について、祭神の考証、注釈が付けられています。義直は、一宮真清田社や熱田社など領内の有力社を崇敬・保護しています。それだけに留まらずに、旧社顕彰の意図が全国の神社に及ぶものであったことがうかがえます。その思想は、仏教隆盛以前の状態を理想とし、そこに回帰するという姿勢に立脚しています。これはある意味では排仏思想で、唯一神道の立場に近く、その根拠は吉田神道ではなく、儒学の尚古主義にあったようです。
 式内社などの古社を重視し、これを顕彰しようとする動向は17世紀の半ばには、その他の藩でも見られるようになります。
紀伊和歌山藩では、慶安三年(1650)に廃絶した式内社の旧跡を比定し、それぞれに石碑を建てています。この式内社の顕彰の動きは、磐城平藩、土佐高知藩、肥前平戸藩などでも行われています。注意しておきたいのは、これらの古社保護が神社整理とともに行われたことです。つまり小さな神社の破棄が一方では進められたのです。神社に秩序を与えるために序列化し、上位の神社を保護し、下位に位置づけられた神社は、淘汰されたことになります。まさに「神社整理政策」です。
江戸泰平の群像』(全385回)149・松平 頼重(まつだいら よりしげ)(162 | 史跡探訪と歴史の憧憬

   松平頼重による金毘羅大権現・長尾寺・白峰寺などへの保護は、このような動きの一環として捉えられます。
ここからは藩主が、領内にある神社なら何でも保護したわけではないことが分かります。あくまで藩が宗教施設として公認した神社に限られていたのです。保護すべきは、天下泰平・国家安全と藩主の武運長久を願う神社です。領民が個人的な祈願を込めるだけの流行神的な神社は、存在意義のない、むしろ民を惑わす「淫祠(淫祀)」とされて破却の対象となったようです。藩にとって、「神事」は、あくまでイデオロギー支配の手段で、領民への迎合ではなかったことがうかがえます。
 一方、村の破棄対象となりそうな神社側としては、「淫祠」ではなく、藩に必須の神社であることを誇示することを求められます。その結果、領内津々浦々の神社の棟札にまで「天下太平」「国家安穏」などの文字が記されることになります。これを掲げないことには、存在意義の証明にならなかったのです。逆に言うと、これが前面に出ると、庶民の信仰対象とはならなくなります。庶民は、現世利益や病気治癒を求めて、新たな流行神の信者へとなっていくことになります。

神社の序列化や整理のあとに作られたのが、神社管理のための藩の帳簿です。
会津藩の「会津神社志」および「会津神社総録」、
岡山藩の「御国中神社記」
は神社整理後、その結果をもとに編まれたものです。反対に水戸藩の「鎮守開基帳」は、神社整理に先だって行われた調査の結果を集成した簿冊です。神社整理を行わなかった領主も、領内の神社を掌握しておく必要から、神社帳を作成しています。こうして藩内の神社は「神社帳」に記載され、序列が付けられていくことになります。「藩内神社ランキング表」が完成したことになります
 藩は、治安上の理由から無制限に神社が増えることを望んではいませんでした。しかし。神社帳を作ったあとは、放置状態で、取り締まりが行われた痕跡は見えません。そのため稲荷神社など小さな神社は建立され続けたようで、公的に未公認な神社がたくさんあったようです。

以上をまとめておくと
①近世初頭の検地と兵農分離(刀狩り)は、中世以来の神社におおきな影響を与えた。
②武士層が村からいなくなったことによって、村の神社は百姓たちに維持されることになる。
③検地のためにそれまでの寺領没収や、あらたな年貢課税を求められた寺院は、百姓たちの支えで維持されるようになった。
④藩主の中にも神社の維持を藩全体の政策の一環として捉え、保護を策を講じる者も現れた。
⑤しかし、それは同時に神社整理と神社のランキング化を進めるものでもあった。
こうして各村の神社は、藩の神社帳に記載され、その管理を受けることになりました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「井上智勝   近世神社通史稿 国立歴史民俗博物館研究報告第148集 2008年12月」

前回は、途中から金毘羅さんの方へ話が進んでしまって、仏生山のことが尻切れトンボになってしまいました。仏生山門前町の発展に素麺屋さんが大きく寄与していることに前回は触れました。これは、私には面白い話なので、今回はもう少し追いかけて見ます。
    仏生山の素麺業者の願いをうけて享保13年に、法然寺が郡奉行へ出した次のような要望書があります。
門前町人共五拾九年前素麺の座下し置かれ候、近年別而困窮に及び候得共、是れを以て渡世の基二仕り、只今迄取続き罷り在り、偏えに以て開祖君御源空(法然)の程愚寺に於ても在り難く存じ奉り候、然ルニ近年出作村下百相村二而素麺致す二付き、町人共難儀の筋(中略)
申し出候、右隣村の義、近年乍ら致し来たり杯と名付け捨て置き候而、畢竟、龍雲院様(松平頼重)成し置かされ候御義相衰え候段、千万気の毒二存じ奉り候、其の上町人共末々門前居住も仕り難き由の申し立て、尤も以て黙正し難き趣二候段、則ち町人共願書(下略)
意訳すると
①仏生山門前では、59年前に素麺座をつくり共存を図ってきたが近年困窮化している。
②素麺業は藩祖松平頼重のお陰で発展してきたもので、その素麺業が衰えてしまっては困る
③原因は出作村や下百相村での新たな素麺業者の競合
④仏生山素麺業の継承、発展のための保護をお願いしたい
 郡奉行の方では、法然寺や門前素麺業者の意向をくんで、近隣業者の水車のひとつを運転停止にするという措置で、紛争を収めています。この史料からは、いろいろなことがうかがえます。
①まずは、素麺業者の数の増加ぶりです。
59年以前から素麺座があったと云います。しかし、それは寛文十年に当たり、松平頼重によって法然寺が建立された年です。建立当初から素麺座があったとは考えられません。まあ、城下から四・五人の素麺屋を仏生山に移住させて座をつくらせたと考えておきましょう。それが、約60年後には、50人に増加しています。10倍強の増大ぶりで、頼重の「仏生山特区振興策」のたまものかもしれません。同時に座を作り、ギルド的な規制で新規参入者を入れないという動きも見えます。50軒という数字は、幕末まで変わらないことがそれをうかがわせます。
② 次に注目すべき点は、「近年出作村下百相村七川素麺致す」と書かれている所です。
出作村も下百相村も仏生山門前に隣接する村です。とくに下百相村からは平池の水掛りをうけています。隣接する村が仏生山門前の素麺業の活況を見て、新規に参加してきたのです。この動きに対して素麺座の方は、ギルド的閉鎖性から法然寺の力を借りて抑圧する方向に動いていたことが分かります。
 約120年後の天保十三年(1842)に、今度は平池水掛り村々の百姓と素麺業者との間で紛争が起きます。
その決着の際に、浅野村の水車持主三人(素麺業者)が出した詫び状の一札をみて見ましょう。
       一札の事
 平池用水ヲ以て私共渡世致し候義、本掛り衆中丿故障等者之れ無き義与相心得、種々身勝手二趣不束の義致し候所、用水御指支えの趣、卯七月願書の通り、夫々御願い出二付き、水車御指し留め御封印御附け置き成され候上、御役人中様御入り込み、達々御吟味仰せ付けられ、平池用水の義者御収納(水田)第一の義二付き、御普請等仰せ付けられ候義二而、水車の用水与申す義者毛頭之れ無き段、尚、達々仰せ聞かされ二付而者、前件の趣二言の御申し訳相立ち申さず、不調法至極恐れ入り奉り後悔致し罷り在り候、然ル所、本掛り衆中丿水車取り除ケ候様御願い出二付、甚心配仕り候趣、達々御願い申し上げ候所、此の度、岡村庄屋丸岡富三郎殿・寺井村庄屋山崎又三郎殿・東谷村庄屋嘉右衛門殿、右始末、本掛り衆中江御掛合下され候所、取除ケ御願いの義者、御扱い人衆中様江御任せ下され候由、在肛難き仕合せ二存じ奉り候、左の条以来相守り申すべく候(下略)

これをみると、「御取調べの節御指し留めに相成」りとして、これ以前の文化年間にも紛争が起きていたようです。その時は、水車がひとつだけ運転停止になったと記します。
意訳すると、
「私どもは平池の水を使って渡世(稼業)いたしてきました。そのことが本掛りの方々に大層迷惑をかけていたとも知らずに水車を動かしていたわけですが、用水に支障がおこっているため水車の封印を願うという天保十四年七月の本掛りの方々の願書で、役人衆が見分に来ました。その際の吟味で平池用水は年貢収納第一のためのものであって水車の用水ではないことが十分にわかり、これまでのことについては誠に申しわけなく後悔いたしております。
 ですが、本掛り衆の願い出ている水車撤去については困ったことと心配しておりましたところ、岡村庄屋丸岡富一二郎殿・寺井村庄屋山崎又三郎殿・東谷村庄屋嘉右衛門殿が掛け合い、取り除いていただきました事について、まことにありがたき幸せと感じ入り、以後は取り決めを遵守していく所存であります。

素麺業者の「違法行為」を認めた上での詫び状的な内容です。
「平池水掛り衆が水車の取り除ヶを訴える程の一種々身勝手』とあり、百姓の中には水車の撤去を主張する者もいたようです。そこまで百姓を怒らせた背景には、素麺業者の中に
①水車の大きさを次第に大きくしていったり、
②新しい井手を勝手に作って水を流したり、
③水車を新しく建てる際に道を勝手に潰したり、
④ひどいものは、用水を水車小屋の中へ引き込む形にして水車を廻したりする者がいた
からのようです。
   素麺の需要増大と用水問題の発生
 これを逆に考えれば、水車稼働能力を高め小麦粉の増産を求められていたことになります。そこまでして、生産しなければ需要に追いつかないという実情があったのでしょう。その傾向は、文化年間ごろあたりから始まったようです。
 先ほど見た享保十三年の紛争の際には、水車の一つが運転を停止するといった形で妥協したわけですが、その後は素麺業者にとって有利な状況が続いていたようです。その背景には、前回に見たように、松平頼重が門前を繁栄させるために素麺業者を呼びよせたという「始祖物語」と、法然寺の素麺業者保護という背景があったからでしょう。そして素麺需要の増大に対し、素麺業者らは「種々身勝手」なやり方で、その生産量を増やしていきます。

4344098-05仏生山
仏生山
 どうして文化年間ごろから素麺需要が伸びたのでしょうか?
まず、考えられるのは法然寺への参拝者の増加です。文政五年の開帳では、「御触」の中に次のように記されています。
「此の度、仏生山開帳二付き、参詣人多く之れ在るべく候、就中、他国ぶも参詣人之れ在り、貴賤群衆致すべく候」
「先年御開帳の節なども右場所二而一向参詣ノ衆中休足も仕らず模寄々々二至り恰」
と、開帳のたびに以前にまして、参詣人が増えていったことがうかがえます。また、開帳時以外のふだん時でも、参詣者が多くなっていたことが次のように記されています。
 金比羅石燈篭建立願願い上げ奉る口上
 私共宅の近辺、仏生山より金毘羅への街道二而御座候処、毎度遠方旅人踏み迷い難渋仕り候、之れに依り申し合わせ、少々の講結び取り御座候而、何卒道印石燈篭建立仕り度存じ奉り候、則ち、場所・絵図相添え指し出し候間、願いの通り相済み候様、宜しく仰せ上げられ下さるべく候、願い上げ奉り候、已上
 文化七午年十月 香川郡東大野村百姓 半五郎
                   政七
    政所 文左衛門殿
これは仏生山から一つ村を隔てた大野村の百姓半五郎と金七が連名で提出した道印「石燈篭建立願い」です。その建立理由には、
家近くに仏生山から金毘羅への街道があるが、遠方の旅人がよく迷い込んで難渋している様子をよく見る。そこで、講をつくり、その基金で道標・石燈篭を建てて旅人が迷わないようにしたい
というものです。
 仏生山から金毘羅へむかう参詣者・旅人が増えていることを示す史料です。ちなみに、この石燈篭は今でも建っているそうです。
 金毘羅や法然寺などの寺社への参詣の増加という風潮
18世紀後半頃から湯治、伊勢参り、西国巡礼、四国八十八力所巡拝など、庶民が旅行に出るという風潮が広がります。法然寺も「聖地巡礼」のひとつになっていたようです。それは「法然上人遺跡二十五箇所巡拝」と関係します。この巡拝は、18世紀半ばの宝暦年間にはじまります。法然の五百五十回忌が宝暦11年(1762)にあたることから、それを記念する事業として始められたようです。「遺跡二十五箇所巡拝」の25という数字は、『仏教大辞典』によると
「源空(法然)示寂の忌日たる正月二十五日、或は念仏来迎の聖衆たる二十五菩薩などの数に因みたるものなるべし」
とあります。この25霊場は、
一番 作州誕生院 
二番 讃州仏生山法然寺 
三番 播州高砂十輪寺
と続いて、以下摂州→摂津国→大坂→紀州→大和→京都と各浄土宗の寺を巡拝し、第二十五番に大谷知恩院で完了するというルートです。法然寺は、この二番目の霊場に当たるようです。
 宝暦ごろからはじまった法然霊場巡りは、19世紀の文化年間ごろに、最も賑わいを見せるようになります。この頃は、四国八十八ヵ所の霊場巡拝や金毘羅参りも盛んになる時代です。これらの聖地を行楽を兼ねて巡拝することが、全国的に盛んになったのでしょう。そのような中で、法然寺門前も急速に繁栄していき、素麺業も発展します。その結果が
①素麺材料の小麦の増産
②水車の稼働率の向上と大型化
③用水の確保 
④平池の農業用水の権利侵犯と争論発生
という流れとなって現れたようです。
仏生山の繁栄は、周囲の出作村や百相村に波及していきます。
天保五年(1834)百相村の内の桜の馬場・出作村の下モ町(両町とも仏生山門前の続き)との氏子惣代が提出した口上書です。
  願い上げ奉る口上
私共氏神膝大明神定例九月十三日御祭日二而御座候、右祭礼の節者神勇のための檀尻二而花笠踊、仏生山町続き百相村の内桜ノ馬場、出作村の内下モ町二而都合二つつゝ古年仕成二御座候処、(中略)
右下モ町・桜ノ馬場与申す場所者 仏生山町同様二而店々商イ等の義茂御免遊ばされ、尚又桜ノ馬場二於て人形廻シ万歳芸等古年者御願済み二而土地賑いのため春秋仕来たり居り申し候、(中略)
且右場所町並二居り申し候者共商イ等仕り、当時相応の渡世も出来、一統御国恩の程在り難く存じ奉り候、尚又町内障り無く相暮らシ居り申し候義、全く氏神の御与刄奉り候聞、祭礼の節、神勇のため檀尻踊の義御免遊ばされた・・
「仏生山町続き」に注意しながら意訳してみましょう
①神膝大明神定例祭には、仏生山町続きの百相村の内桜ノ馬場出作村の内下モ町も参加してきた。
②このふたつの町は仏生山と同じように商いの特権を与えられてきた
③そのため「賑わい創出」のために人形回しや演芸なども春秋に行っている
④ふたつの村は仏生山と共に商いを行い、発展してきた
と「仏生山との一体性」を強調します。
この口上書には「付札」があり、それには本文に続いて次のように記します。
仏生山同様与申す義者、恐れ乍ら龍雲院様(松平頼重)仏生山御建立の節、百相村の内新開地仏生山江御寄附遊ばされ、当時仏生山町の場所汪居宅等仕り候者者御年貢諸役等御免二仰せ付けられ候由、下モ町桜ノ馬場同様二仰せ付けられ候哉の御模様二而兎角土地祭茂仕り候様二与御趣意二而、本文申し上げ候通り、桜ノ馬場二人形廻シ井万歳芸等土地賑いの為め、御免遊ばされ、庄屋御取り上げ下され候、土地の由申し伝え候間、何卒格別ヲ以て加文、願いの通り相済み候様宜しく願い上げ奉り候
この内容は、
①下モ町と桜ノ馬場は法然寺建立の際に頼重が寄進した新開地に含まれている
②仏生山門前同様に年貢諸役が免除された土地である
③だから人形廻し・万歳芸なども土地賑いのために許されていたのである
という主張展開になっています。そのままこれが事実であるとは云えないようですが、仏生山の影響を受けて享保十三年に「出作村下百相村」で素麺を始めたというのは、この付近なのかも知れません。寛文年間以降、仏生山の門前が次第に拡大し、祭礼を通して周辺の町並との一体化の風潮が進んでいったようです。

以上をまとめると
①松平頼重は仏生山の門前町作りについてもプランを持っていた。
②門前町形成のパイオニアとなったのは素麺業者である。
③彼らは松平頼重の保護を受け、急速にその数を増やし座を形成し特権擁護を図った
④急速な素麺業の発展の背後には、庶民の参拝熱の高揚があった
⑤周辺にも素麺業を始める者が現れ、門前町の拡大が始まる
⑥その際に周辺の商人も特権確保のために昔から仏生山の一員であったと主張するようになる
⑦こうして、周辺地域の仏生山化が進む
4344098-06仏生山法然寺
法然寺
讃岐の門前町は、藩の保護の下で発展していった例が多いようです。特に、高松藩初代藩主松平頼重の貢献は大きかったことが仏生山からも分かります。
参考文献     
丸尾 寛  近世仏生山門前町の形成について

 
1Matsudaira_Yorishige
松平頼重
 松平頼重は、下館藩主を経て高松にやって来てきます。その際に、新たな国作りの構想を既に持っていたような気配がします。高松城の天守閣の造営、石清尾神社や法然寺の建立などは、基本構想として彼の頭の中には早い時期にあったのではないでしょうか。それは
「讃岐全体を安泰に統治していくためにはどんな仕掛けが必要なのか」
という政策課題に沿ったものだったのでしょう。例えば、
①天守閣造営は領民に対しての藩主としての権威を示す統治モニュメント
②石清尾神社や法然寺の建立は鎮護国家を目的にした神道・仏教の宗教モニュメント
とも見えます。また、金毘羅へも多大の寄進を行ったり、諸々の保護を与えたりしているのも政治的な意味が漂います。
高松 仏生山1
高松松平藩の菩提寺 仏生山法然寺
 松平家は法然寺・金毘羅・白鳥神社に厚い保護を加えます。
そのため、この三つは寺社として讃岐で屈指の門前町に発展します。門前町というのは、お寺や神社に奉仕する人々のためのモノや人が集まり、お参りする人々へいろいろな物やサービスを提供するために職人・商人などが集まってできあがった町です。金毘羅さんを見れば分かるように、その施設が広がり・参詣人が増えることで、町の規模は大きくなっていきます。これらの宗教政策と同時進行で、高松城下の整備も進められていきます。

仏生山13
法然寺は、松平頼重によって出来上がったお寺です。
頼重は、法然寺を松平家の菩提寺とし造営に取りかかり、寛文八年に着工し2年後に完成させています。この寺は頼重の宗教政策の大きな柱となるべくつくられたと研究者は考えているようです。
たとえば、この寺の寺格を上げるためにいろいろ工作しています。
その一つが「一本寺」という格です。
どこの寺にもつかず、法然寺そのものが本山であるということです。そのために、まんのう町の子松庄にあった生福寺というお寺を探し出します。この寺は、その昔、法然上人が京都で流罪になり、まず塩飽に流されて、そこでしばらく過ごした後、子松の庄に流されて住んだという寺です。ここで法然上人は教えを広めていたわけです。浄土宗の中では、ひとつの「聖地」です。
4344098-06仏生山法然寺
法然寺
法然寺建造の経緯は、「仏生山法然寺条目」の中の知恩院宮尊光法親王筆に次のように記されています。
 元祖法然上人、建永之比、讃岐の国へ左遷の時、暫く(生福寺)に在住ありて、念仏三昧の道場たりといへども、乱国になりて、其の旧跡退転し、僅かの草庵に上人安置の本尊ならひに自作の仏像、真影等はかり相残れり。しかるを四位少将源頼重朝臣、寛永年中に当国の刺吏として入部ありて後、絶たるあとを興して、此の山霊地たるによって、其のしるしを移し、仏閣僧房を造営し、新開を以て寺領に寄附せらる。

意訳すると
①浄土宗の開祖法然上人が建永元年に法難を受けて土佐国(現在の高知県)へ配流されることになった。
②途中の讃岐の国で九条家の保護を受けて塩飽庄から小松庄でしばらく滞在する。
③小松庄に寺が建てられ念仏三昧の道場となった。
④その後戦乱によって衰退し、わずかに草庵だけになって法然上人の安置した本尊と法然上人自作の仏像・真影ばかりが残っていた。
⑤寛永年中に松平頼重が東讃岐に入部して高松藩が成立する。
⑥頼重は法然上人の旧跡を興して仏生山へ移し、仏閣僧房を造営して新開の田地を寺領にして寄進した
ということになるようです。移転前は生福寺と呼ばれていましたが移転後の跡地には後に寺が建てられ現在に至っています。
頼重公は、まんのう町にあった生福寺を仏生山へ移すプランを実行に移します。

仏生山11
 どうして浄土宗の寺が選ばれたのでしょうか?
それは徳川宗家の菩提寺増上寺が、浄土宗だからでしょう。本家の水戸家も浄土宗です。ですから高松松平家も浄土宗のお寺を菩提寺にしなければいけないのです。 その意味で、頼重公は浄土宗・法然の跡にこだわったようです。
 同時に、高松藩の菩提寺である以上、讃岐にそれまであった寺よりもはるかに寺格は高くなければならなかったのです。菩提寺をそれまでにない寺格の寺にすることで、松平家を頂点とする寺のヒエラルヒーが形作られることになります。これも封建社会においては重要な宗教政策だったのでしょう。
  「讃州城誌」には
国中之れ在る仏作ノ仏像御集め遊ばされ候間、寺御指し置き遊ばされ候」
とあり、讃岐中の優れた仏像を集めて法然寺に置くことも、頼重は行ったとあります。頼重の法然寺に対する思い入れの深さがうかがえます。
 享和二年(1802)の「寺格帳」には、浄土宗寺院のランク表が載せられています。
NO1 芝増上寺
NO2 京都の知恩院、京都黒谷の金戒光明寺、浄華院
NO3 仏生山法然寺
となっていて、全国でNO3というランクです。
仏生山4

もう一つ法然寺の格の高さをあらわすのに「常紫衣」があります。
お坊さんの着る衣は格で決められているそうですが、紫の衣が着られるのは一番格が高いようです。法然寺の僧はいつも紫衣を着てよいとされていました。さらに寺格を高めるものとして、「朱印状」が与えられています。そして将軍へのお目見えが許されていました。
 頼重は法然寺を、このいうな「格」でランクアップを図り、全国NO4のランクにまで高めていたようです。このように、法然寺は頼重の宗教政策の一環として建立され、育成されたのです。
 ちなみに、法然寺建立より前の1644年に新しく寺院を建てることを制限するなどの布令が幕府より出されます。その令が出されて二ヵ月後に造営に取りかかっています。

仏生山12
造営に当たって、頼重はじめ家臣達が造営地をめぐってもめています。
「御霊屋御建ナサレ候ニツキ 仏生山や船岡ヤ両所者可然卜御評議有之 仏生山お究只今ノ通御普請仰せ付け」
とあり、仏生山の地に建てるか、船岡山の所へ建てるかでもめたようです。結局、仏生山という名前から仏生山に決まったことになっています。本当でしょうか?別の理由があったんではないでしょうか。

4344098-05仏生山
仏生山 
考えられるのは交通の要地、地理的戦略価値です。
江戸時代には仏生山の近くに阿波へ抜ける、阿波本道があったのではないかといわれています。そうだとすると、船岡山より仏生山の方が交通の上からは重要な位置にあったといえます。寛政年間の「御用留」(別所家文書)の中には、讃岐に来た阿波の商人が仏生山の宿屋に泊まっている事例がかなりあります。文政年間に仏生山には宿屋が5軒にあったので、そこに泊まったのでしょう。このことも仏生山の交通上の重要な位置を示す一つといえるかもわかりません。
仏生山法然寺十王堂

   頼重公のころ、讃岐と阿波では「走り人」という現象が時々おこっていたようです。
「走り人」というのは、困窮し逃散や流人した農民をさしたようです。高松藩二代目頼常の時に、阿波との間で取り交わした「走り人」についての処置マニュアルが残っています。阿讃の間に緊張感のようなものがあったようです。そういった人々を監視するには、やはり街道沿いの交通の便がよい仏生山の方がいいという判断があったのではないでしょうか。阿波を意識した要地なのです。

仏生山法然寺2
法然寺から高松城の常磐橋まで御成街道が作られます。
法然寺は北側から見ると、お墓が並んでいて、お寺そのものです。しかし、阿波からやって来る人から見える南側は、石垣が積まれお城のように見えます。つまり阿波から見ればお城になり、防御の役割を担います。一方、高松城は水城ですので、海からの防御を果たします。海からの防御高松城の新たに出来上がった天守閣と阿波からの防御法然寺、そしてこの間を御成街道が結ぶという一本の戦略ラインが引かれたことになります。ほとんど同じ時期に完成した天守閣と法然寺の間には、頼重の中では強い政治的関連があったように思います。
「讃州城誌」には、「仏生山法然寺 御代々ノ御寿城、英公御築き遊ばされ候」とあり、頼重は、法然寺を高松藩の南方方面の出城と考えていたよいう説は、私には説得力があります。
仏生山10
 
 頼重は仏生山門前町の育成のために何をしたか? 
頼重は、法然寺に次のような寄進を行います。
①朱印地        300石
②法然寺師弟家来賄料  250石
③鎮守膝宮入目     200石
などで合計750石を寄進しています。さらに、「法然寺條目」の中にみられるように
「当山霊宝等諸人拝見所望之れ有らば之れを拝せしむべし、其の香花代は住持受納すべき事」
として他の収入、散銭などによる収入も認めています。こうして寺野家財政的な基礎を作った上で、門前町の整備を進めます。
 「法然寺條目」の中には次のように記されています。
「門前町屋敷は地子等之れを免許す、諸事方丈より支配の町年寄両人に申し付け、町の儀万事私曲無き様相計らうべき事」
とあるように、門前の住人は税を免除し、すべての事が不正がないよう取り計えと、門前への住居奨励を行っています。
 しかし、門前町への人々の移住は進まなかったようです。
頼重の時から約200年近く経った天保十四年(1843)に仏生山町の素麺業者が連名で提出した口上書の中に次のような記述があります。
 恐れ乍ら私共家業の義素麺仕り(中略)
右素麺職の義 御当山御建立の最初御門前町並家造り仰せ付けられ候得共、其の頃は今の町並の地 野原二而御座候ヲ新た二右の土地高下ヲ切りならし候迄二而今此の所ハ船着き候与申す二も之れ無く渡世仕るべき便り一向御座無く候二付き、当所江参る人一切之れ無く(下略)
  意訳すると
①法然寺造営が始まったころは今の町並はなくて野原であった
②土地の高低を切りくずして平らにした野原で、しかも船を着けるところもないため(荷物の運搬にも不自由で)商売をする方便もない
③法然寺へ参拝する人は、全くないといった状況だった。
 それを頼重がいろいろと考えて、次のような手を打ったと記します
御上様(頼重)二も御苦労二思召され 幸イ素麺所二遊ばされ度御目論見二而御山の鎮守ヲも三輪三嶋春日三社ヲ御勧請遊ばされ候与申すも是れ何れも素麺所の御門前繁昌の事ヲも思召され候由」
  然ル所当所素麺屋御座無く候二付き、御城下二罷り有り候素麺屋四五人引越し仰せ付けられ、右の者共ヲ頭取二成され、諸人江相勧メ難渋の者江ハ元手ヲも御貸し下され、其の上右素麺屋の義 御領分中御指し当り二相成り素麺ヲ家業二仕り候義 仏生山限り候旨仰せ付けられ候間、御城下ヲ始め近郷の諸人御門前二住居相望み候者共多く相成り、尚又、素麺粉の義 浅野村平池尻三冊水車御願い申し上げ候処、速々御免仰せ付けられ下され素麺粉右の車二而挽き立てさせ候二付き、至而弁利二相成り候間、益諸人思い付き宜しく、夫丿連年打ち続き土地繁昌仕り候(下略)
意訳すると。
①そこで頼重公が素麺業者を4,5軒寄せ集めた。
③さらに素麺所の神様、三輪三嶋春日の三社を勧請した
④さらには、資金不足の者には貸付援助もおこなった
素麺粉は浅野村の牛池尻で水車を利用する許可が下りて技術革新がすすんだ
⑥これを契機に
、素麺産業は繁盛するようになった
⑥その結果、次第に仏生山に住むことを望む者が増えた。
と、自分たち素麺業者が仏生山発展の原動力であったと主張しています。ここからは、仏生山の地域発展のために頼重が素麺産業の移住定着事業を行い、素麺にゆかりの深い三輪神社を勧進するなどの「地域振興策」や優遇策がとられたことがうかがえます。
 このような門前町への「移住奨励策」は金毘羅にも見られます。讃岐藩主となった仙石秀久は、門前に商人を集めるために税金をただにしたりして、町を賑わわせる政策をとっています。

この他にも、道路工事に関しても、頼重は次のような指示を出しています。
「町幅六間与仰せ付けられ候も、左右ノ弐間宛の目板ヲ出し、中弐間往来ヲ明け置き、人馬通し申すべきため」
ということで、門前町の大通りを作り時に、道幅六間の内左右から弐間ずつ目板を出して、残りの二間を人馬が通る往来としておくようにといった指示もなされています。これが、仏生山のその後の発展に大きく寄与することになります。
 法然寺を支える組織は?
 この寺の組織は、住職の方丈、その下に天台・真言・浄土宗などの各宗派から召し抱えた道心(ここまでが僧侶)が十二人いて、さらに用人・小姓・医師などで構成されております。これが「寺役人」です。しかし、寺だけでは経営が成り立たたないので、周りに商人などを置いて、経営が成り立つような仕組みを作っていくことになります。それが門前町が発達していく原動力になります。
 
仏生山6

 素麺業の成立は、17世紀後半の寛文・延宝年間のころのようです。その後、享保十二年(1728)ころに、今度は素麺業者が訴えられます。素麺業というのは、うどんと同じでかなりの水を必要します。そのため近くの平池から引いた水を使っていたようです。周囲の村々も、法然寺が朱印地ということや寺のもつ高い格式などからあまり抗議はしなかったようです。しかし、日照りの時にも遠慮せずに水を使うことに、周辺の百姓も我慢できなくなったようで、両者の問に争論が起こります。その争論に際して、素麺業者側から出されこの訴状が残っています。その中で素麺業者は
「我々は法然寺とともに発展した由緒正しいものであるから、水は勝手に使ってよい」
と主張しています。この時には、素麺業者の数は50軒と記されています。 半世紀ほどの間に、10倍に増えたことになります。この数は、幕末くらいまでほとんど変わっていません。門前町に賑わいをもたらす「重要産業」に育っていたようです。
高松 仏生山2
仏生山の「にぎわい創出事業」ひとつとして、松平頼重は涅槃会と彼岸会の時に芝居興業を許したようです。
その上演のために「芝居土地」と呼ばれる「除地(空地)」が設定されています この土地は、
①上町に南北四十八間、東側・西側とも奥行きが三十間ずつ
②中町に南北百十六間、東側・西側とも奥行きが三十間ずつ
との二か所あったようです。どちらもかなり大きなものです。しかし、この敷地全体に芝居小屋が建っていたのではないようです。幕末の弘化二年(1845)の「御用留」(片岡家文書)の中に芝居小屋の平面図があります。そこには「十八間に二十間」と書かれていますから、小屋掛けした舞台のみの面積で、客席は野外という感じだったようです。金毘羅の金丸座が出来る以前の公演方法と同じやり方のようです。
  芝居以外にも見世物興行も行われていたようです。
文政四年(1807)の見世物興行興業の様子については法然寺の「御開帳記録」(『香川県史 近世史料』収載)にも載せられています。そこには、
西横町で薬売り人形廻し、物まね、軽業で、小屋の大きさは五間と六間から十間で七十二間
と記されています。
 芝居小屋が常設的に作られて賑わいを増すのは文化・文政期以後のことのようです。ただ、幕末ころからは、秋祭りなどで檀尻芝居の興業が盛んに行われるようになります。これは、太平洋戦争前まで続いていました。

仏生山8
 仏生山法然寺門前に商店は何軒くらいあったのでしょうか?
 片岡家文書の中から拾い出した史料には、文政十年ころの時点で、
①法然寺に関係した役人の家が28軒
②素麺業者が五〇軒以上、
③薬屋が一軒
④米屋11軒
⑤木綿屋4軒
⑥太物関係四軒
⑦宿屋五軒
⑧筆・墨屋一軒
⑨酒屋一軒
⑩油屋一軒
で合計106軒になるようです。100軒を越える商店が軒を並べる門前町だったのが分かります。そこに何人暮らすんでいたのかは猪熊家文書「御寺領人別改指出帳」の寛政三年(1792)のものには、法然寺領の人口が合計で434人と記されています。
 法然寺門前は、町ですので単婚家族が多いく一家族の平均がだいたい4人と考えると、
人口434人÷世帯人数4人=約百世帯
という数値になります。これは、先ほどの史料に現れた店数にほぼ一致します。ここから200年前の19世紀前後のころの法然寺門前は、人口が400人以上で家屋は百軒程度のまちであったと研究者は考えているようです。
 松平頼重が法然寺を建立したときには、高松に続く新道が作られ、その周囲は野原や田んぼが続いていた所が、四・五軒の素麺業者を誘致することから始まって、百数十年後には百軒を越える町へと発展していたことになります。これは。自然発生的に起きたことではなく、政策として作り出した成果と云えます。

仏生山14
拡大・延長する門前町仏生山
 19世紀前半の天保三年の別所文書には
「檀笠三万花笠吊リ 仏生山町続き百相村之内桜之馬場出作村之内下モ及ブ」
と書かれています。ここからは仏生山の町続きである百相村の桜之馬場と出作村二つ仁生山の門前と同じように、花笠を吊るようになっていると記されます。つまり仏生山と一体化して同じ様な行事を行うようになっているのです。門前町が街道沿いに「点」から「線」と伸びていく様子が分かります。
さらに「附札」の所には、次のように記されています。
龍雲院様(松平頼重)仏生山御建立之節、百相村之内新開地仏生山江御寄附遊ばされ、当時仏生山町之場所に居宅等仕り候者者御年貢諸役等御免二仰せ付けられ候由、下モ町桜之馬場同様二仰せ付けられ哉之御模様二而」
意訳すると
①松平頼重が仏生山を建立したときに、百相村の新開地を仏生山に寄付した
②仏生山に居宅を構える者には年貢諸役の免除を行った
③以前はそうではなかったが、いつのまにか仏生山の町続きとして、百相村と出作村が仏生山同様に免除扱いをうけるようになった
 ここには「仏生山=年貢諸役免除」と「免税特区」にされたために、時代と共に周辺地域もそのエリアに入り特権を手に入れていく過程がうかがえます。つまり「周辺エリアの仏生山化」が税制においても起きていたようです。
このプロセスを法然寺の開帳という視点から見てみましょう。
別所家文書「文政六年御用留」の中には、次のようにありますす。
「此の度仏生山御開帳二付き、参詣人多く之れ有るべく候、就中他国よりも参詣人之れ有り、貴賤群集致すべく…」
ここからは他国からの参拝者を含めて、非常に大勢の人が集まってきている事がわかります。研究者は、文政六年(1826)という年に注目します。この年は例年より大きな催し物が前年から年を跨いで進められたようです。そのため金毘羅の方まで案内の立札(高札)が立てられ、大規模に行われたようです。
 高松城下の京浜で町年寄を勤めた鳥屋の「触帳」(難波家文書)の中には
「二万人から三万人の人々が開帳参詣に来るので、火の用心や盗賊などの用心をするように」
といった触れがあったと記されています。
 19世紀前半には、金毘羅大権現や善通寺などでも定期的に「ご開帳」が行われるようになり、何万人もの人々が参拝に訪れるようになります。つまり、寺社は大イヴェントの場になり、そのプロモターの役割も果たすようになるのです。そして、この開帳で集まった寄進の金品が寺社運営の重要財源となっていくのです。そのため、門前町にはイヴェント時だけに使われる空間や建物が準備されるようになります。その代表が小屋掛けの芝居小屋です。これが「イヴェントの恒常化」と共に、金毘羅に金丸座が登場するように、常設小屋へと発展していきます。「讃岐名所図絵」に描かれている仏生山は、そんな賑わいを見せるようになった幕末の姿のようです。
人々は何を求めてご開帳にやってきたのでしょうか
それは「信仰」のためでしょう。しかし、それだけとは、私には思えないのです。確かに法然寺の宝物の公開を許可する条目もあるので、参詣の人々が宝物を拝観し、その霊験にあやかることで病気平癒などを願ったことは間違いありません。
DSC01329
しかし、元禄時代の「金毘羅祭礼図屏風」の高松街道から参詣に来た人々の流れを見ていると、別のものも見えてきます。
①まず新町の鳥居をくぐり、
②さらにその先の金倉川に架かる鞘橋のたもとで沫浴をして精進潔斎

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③前夜は酒も飲まずに潔斎
④翌朝宿を出発して、仁王門のところからは裸足になって本殿まで登り参拝

そして参拝後は「精進落とし」なのです。宿で大宴会です。花街へ繰り出す人たちもいます。
DSC01354

内町の背後の金山寺町には歌舞伎や人形浄瑠璃・見世物小屋が小屋を広げています。まさにエンターテイメントのオンパレードです。日頃は、体験できないことが見聞きできるアミューズメント施設でいっぱいです。神聖で禁欲的な参拝だけなら庶民がこれほど金比羅詣でを熱望したとは思えません。参拝後の精進落としを楽しみにやってきた人たちも多かったと私は思います。その意味で、 近世の門前というものは「癒し」の場であったと研究者は考えているようです。
 寺社の神域そのものが浄化の作用の場であり、その中で門前町は宿泊はもちろん、精進潔斎し、さらに「精進落とし」をするという機能を持っていたのです。もっとオーバーな言い方が許されるなら門前町全体で、輪廻転生、再生という循環機能を果たすシステムが出来上がっていたのかもしれません。
 ある意味、現代人が
「四国霊場巡りの後は、道後温泉に入って・・・」
と願うのと同じような行動パターンが形作られていたような気がします。
 こうして「信仰+精進落とし」という願望をかなえることが門前町や寺社に求められるようになります。その充実度を高め参拝客を呼び込むための「産地間競争」が繰り広げられるようになります。その要求に最もうまく応え続けたのが金毘羅さんであったと私は考えています。
参考文献     丸尾 寛  近世仏生山門前町の形成について

           
生駒氏による高松城築城の「通説」ストーリーは?
1587年(天正15)、豊臣秀吉の命により、播磨赤穂6万石の領主・生駒親正が讃岐国主に任じられます。親正は、まず引田城に入り、次いで宇多津の聖通寺山城(平山城)に移り、翌1588年(天正16)に香東郡野原の地に高松城と城下を築いた(『南海通記』)。引田城の後、聖通寺山城・亀山(後の丸亀城)・由良山(現在の高松市由良町)と城の候補地を考えたが、結局高松築城に至ったとする説(『生駒記』など)が従来語られてきたストーリーのようです。
 それでは生駒氏の高松城は、いつ完成したのでしょうか?
南海通記は、着工2年後の1590年には完成したとしますが、お城が完成したことに触れている史料はありません。ここから高松城については
①誰が縄張り(計画)に関与したか、
②いつまで普請(建設工事)が続き、いつ完成したか、
の2点が不明なままのようです。
 また、生駒時代の高松城を描いた絵図は、1627年(寛永4)に幕府隠密が高松城を見分して記した「高松城図」(「讃岐伊予土佐阿波探索書」所収)以後のものしか知られていません。そのため完成当初の高松城・城下町がどのような景観だったかについても、よく分かっていないというのが実情のようです。
 文献史料がない中で、近年の発掘調査からいろいろなことが分かってきました。
例えば天守台の解体修理に伴う発掘調査からは大規模な積み直しの痕跡が見られず、生駒時代の建設当初のままであることが分かってきました。建設年代はについては
「天守台内部に盛られた盛土層、石垣の裏側に詰められた栗石層から出土した土器・陶磁器は、肥前系陶器を一定量含んでおり、全体として高松城編年の様相(1600 ~ 10年代)の特徴をもっている」

と指摘しています。つまり、入国した1588年(天正16)から10 ~20年ほど立ってから天守台は建設されたようです。
 織豊政権の城郭では、本丸や天守の建設が先に進められる例が(安土城・大坂城・肥前名護屋城・岡山城)が多いので、高松城全体の本格的な建設は関ヶ原の戦い以後の慶長期(1596 ~ 1615年)に行われた可能性が出てきたようです。
1) 上級家臣が屋敷を構える外曲輪では、
ここからは屋敷内や街路にゴミ穴(土坑)が掘られて土器・陶磁器・木器が廃棄されていました。ゴミ穴を年代毎に見てみると外曲輪での日常的なゴミ処理が、1588 ~ 1600年頃には極めて少なく、生活感の希薄な状況であると指摘されています。また屋敷地の区画施設(溝や塀)にも1588 ~ 1600年まで遡るものは、現在までの発掘ではありません。
しかも1630 ~ 40年代までは、それぞれの屋敷地に個別に区画溝が巡らされていて、中世的な屋敷の景観が読み取れるといいます。「高松城下図屏風」に描かれたような、塀(板塀・土塀)や長屋門をもつ区画施設は、1640 ~ 50年代になってようやく現れるようです。つまり、私たちが見なれた「高松城下図屏」と生駒時代のお城や街並みは大きく違うようです。特に家臣団屋敷の景観も相当大きく変化したことがうかがえます。
岡山城と高松城に瓦を供給した「瓦工場」
16世紀末葉~17世紀初頭における高松城跡出土瓦を、時代ごとに分類すると次のようになります。
Ⅰ期 1588 ~ 90年代前半(天正16 ~文禄期)頃。
在地系の瓦主体。まだ瓦の量自体が少なく、中世的で丁寧な製作技法が見られる。
Ⅱ-1期   1590年代後半(慶長1~5年)頃。
在地系の系譜(瓦工集団)で集中的な生産に伴う粗雑化が進む。姫路系の直接的な影響の可能性をもつ系譜も出現する。
Ⅱ-2期   1600年代前半(慶長5~ 10年)頃。
岡山城跡と同笵・同文関係にある軒平瓦の系譜(三葉文系)が普遍化し、瓦の量が急増する。胎土・焼成ともに、近世的な特徴をもつようになる。
Ⅲ期  1600年代後半~ 10年代(慶長11 ~元和6)頃。それ以降も含むか。岡山城跡との同笵・同文関係は継続。
ここでも城・城下の建設の進展を窺わせる瓦の大量供給は、Ⅱ-2期~Ⅲ期(慶長期)になってからのようです。そして大量に出てくるのは、岡山城との同笵・同文瓦の瓦なのです。
これをどう考えたらいいのでしょうか?
 同時進行で建設されていた高松城と岡山城に瓦を供給した「瓦工場」がどこかにあったようです。
「高松での大量供給段階でも岡山城の大規模な普請は継続していることから、現状では岡山からの搬入の可能性の方に妥当性がある。」
と研究者は考えているようです。
  岡山では1590年代(文禄・慶長初期)に瓦の大量生産・供給の最初のピークがあります。一方高松への大量供給はこれに遅れていますので、岡山城での普請が先行すると考えられます。
 岡山城主・宇喜多秀家は信長政権下での中国攻め以来、秀吉と深い関わりがあり、1585年(天正13)には秀吉の養子として元服しています。その後は豊臣政権の中で重用され、文禄の役では総大将を務め、五大老に名を連ねます。岡山城建設の最初のピークは、豊臣政権における秀家の台頭と軌を一にしているようです。
 阿波の蜂須賀氏に対して、どこに城を築くかについては秀吉からの指示があったといいます。天下を握ったばかりの秀吉は、西国の最前線は備讃瀬戸あたりで、この地域での政治的中心地の建設にあたり
「まず岡山城、次に高松城を造る」
という意向があったことは充分に考えられます。その岡山城建設に必要な瓦工場も宇喜多家の管理下に建設操業を始めます。そして、関ヶ原の戦い以後に遅れて高松城築城を開始した生駒家へも瓦を提供することになったという筋書きが描けそうです。
築城に当たっての寺院への対応は?
  西浜で真行寺に隣接して境内があった無量寿院は、戦国期には野原中黒(高松城中心部周辺)に存在したことが「さぬきの道者一円日記」(1565年、永禄8)から分かり、発掘調査により西ノ丸がその旧境内地と特定されました。出土瓦などから
「少なくとも17世紀以降に無量寿院が[西浜へ]移転したものと考えておきたい」
と報告書は記します。
   「高松城下図屏風」等には、外堀に面した片原町に愛行院の境内が描かれています。愛行院は、中世野原から継続する華下天満宮(中黒天満宮)の別当寺で、城下における山伏の統括を行う役割が与えられていました。中世の境内の位置は分かりませんが、絵図にある境内地の周辺にあったと考えられ、城下に組み込まれた形になったようです。
丸亀町の性格は?
大手筋の丸亀町は1610年(慶長15)に生駒藩3代当主正俊の時に、丸亀城下町の商人を移住させて成立したと伝えられます(『南海通記』巻廿下)。城下の中心市街地に立地する丸亀町は城内にあり「高松城下図屏風」での町家の描写からも最も格式の高い町人地であったことが分かります。つまり、丸亀町は城下の整備・拡大に伴い新たに新設された、いわば後発的な中心市街地という性格をもつようです。
城下町の発展
  「高松城下図屏風」は1640 ~ 50年代の景観を描いていると言われます。この屏風からは、南側の寺町を超えて城下が拡大している様子がうかがわれます。寺町の外側(南側)には水路が描かれていますが、その一部は馬場として埋め立てられています。本来は外堀に匹敵する幅をもっていたようです。この水路の内側(北側)に寺町が連続していて、町人地の南大手筋ではこの水路より内側が丸亀町、外側が南新町となっています。ここからも各町の成立年代が違うことが読み取れます。
  こうした水路の存在は何を示すのでしょうか?
  研究者は「城下全体を囲む堀=惣構が存在した」と考えているようようです。その完成は、丸亀町成立の1610年(慶長15)から「讃岐探索書」で「南ニ四筋アリ」(水路以北の範囲に相当)と記された1627年(寛永4)の間で、おそらくは元和の一国一城令(1615年)までに求められるようです。
生駒藩の知行地と自立した家臣団
 「生駒家廃乱記附録」には、4代高俊の治世(1630年代)のこととして
「壱岐守殿御家中大形[方]在郷、時々用事之有る節高松へ罷り出候に付、屋敷小分之由」
とあります。また「小神野夜話」には
「御家中も先代[生駒氏治世]は何も地方にて知行取居申候故屋敷は少ならでは無之」
ともあります。つまり、家臣に対して知行地を与える地方知行が行われていたため、家臣たちは知行地に留まり(在郷)、用事のある時だけ高松へ出仕していた、というのです。これは先ほどで述べた「家臣団屋敷で築城当初の生活の痕跡が希薄
と併せて考えると、いろいろなことが想像できます。知行地制は時代に逆行する制度でした。それが生駒氏では行われていたとようです。同時に、周辺の開発・開拓も知行主が主体となって行っていた様子が窺えます。それは新たに召し抱えられた在地制の強い家臣団であり、彼らが積極的な開発主体であった気配があります。彼らにすれば、知行制が行われる限り高松城下町に屋敷を置き生活する必要はないわけです。この辺りが旧来の家臣団との藩政上の対立を生みだし「生駒騒動」へとつながったのではないかと私は考えています。
 どちらにしても、生駒藩時代の城下町は家臣団が「常駐」していた痕跡はあまりないようです。
発掘調査からの高松城の建設過程を確認しておきましょう
①1588 ~ 1600年頃(第1段階)
小規模で散発的な建設が進められ、領主生駒氏の居館も「仮屋形」にとどまった
②1600年代頃(第2段階)
天守台の建設が始まり順次城郭中心部の建設・整備が進んだ
③1610年代前半(第3段階)、
③新たな中心市街地としての丸亀町の建設が惣構推定ライン外堀0 500m行われ、寺町の形成がほぼ完了し、城下全体を囲む惣構が建設された
④1620 ~ 30年代(第4段階)、
家臣団の屋敷地がほぼ完成形に近付く
 第1段階では、素掘りの区画溝を主体とした領主居館と家臣団・町人地の屋敷割が、部分的に行われていたと見られる。中世から続く寺社は、小さな位置変更程度で存続が認められたようです。(見性寺・愛行院等)。
 第2段階では、外堀より内側での城郭の建設や武家地の屋敷割が全面的に行われました。天守台を含む本丸や二ノ丸・三ノ丸・桜馬場・西ノ丸などが整備され、外堀とこれに沿った土塁も作られます。ただし家臣の屋敷割は、素掘り溝で作られています。この段階で、生駒氏居館は三ノ丸にあり、桜の馬場の対面所とともに領主権力の政庁としての役割を担っていたようです。
城下町の膨張が進んだ段階で高松城に入ったのが松平頼重でした(1642年:寛永19)。
頼重は入部直後から城下に多くの町触を出して都市法の整備にかかります。その背景には、初期高松城下町の成長に伴い、高松という都市を新たな形で把握するという政治的な意志が見られます。

 以上の状況を踏まえ、改めて『南海通記』の記事(2)に立ち戻ると、
『南海通記』が記す生駒氏入部後、直後の1588年から高松城の築城に取りかかったというのは否定的に考えざる得ません。それは、朝鮮出兵という大規模な軍事遠征下という背景や、考古学的な発掘調査の示すことでもあります。高松城の具体的な縄張りが実現するのは第2段階であり、生駒親正の最晩年(関ヶ原合戦時に出家し、3年後に死去)になります。高松築城に関与したのは2代目の一正であると見た方がいいようです。
 ところで生駒藩では、関ヶ原の戦い直前の時期に、高松城と丸亀城と引田城を同時に建設しています。
丸亀城は1597年(慶長2)に建設に着手し、1602年(慶長7)に竣工したとされます。また引田城は、最近の調査により高松城・丸亀城と同じく総石垣の平山城であることが分かってきました。出土した軒平瓦の特徴から、慶長期に集中的な建設が行われていたようです。このことからこの時期になって、生駒氏は讃岐に対する領国支配の覚悟が固まったと見えます。信長・秀吉の時代は手柄を挙げ出世すると、領国移封も頻繁に行われていましたから讃岐が「終の棲家」とも思えなかったのかもしれません。

 参考文献 佐藤 竜馬  高松城はいつ造られたか

1高松城寛永16年

生駒時代の高松城のようすを、上の図1から説明すると
城の中央に天守閣があり、その西側に本丸、本丸の北側にニノ丸があり、ニノ丸の東側には三ノ丸があります。ここからは中濠と内濠に囲まれて西ノ丸と三ノ丸があるということが分かります。西ノ丸の下の方の一帯は、現在の「桜の馬場」になります。
 外濠は西の方には「西浜舟入」、東の方には[京浜舟入]と記されています。ここが前回にもお話しした船場になります。軍港としての役割もあったのではないかと私は考えています。
 この船場から南の方に下がって東西に走っているのが外濠です。この中濠と外濠に囲まれたところが、侍屋敷になります。その侍屋敷の南の中央辺りに、今の「三越」は位置しているようです。
 城への門は、中濠の南にかかっている橋が城への出入口で、大手門になります。外濠のあったところは、今では片原町から兵庫町、そして西の突き当たりが広場として残っています。
 城下町は、外濠から南の方に広がっていて、この地図にも当時の地名が書き込まれていますが、今の高松の商店街に残っている町名と殆ど同じです。例えば、片原町・兵庫町・丸亀町・塩屋町・新町・百聞町・通町・大工町・鍛冶屋町などです。当時のメーンストリートは、丸亀町から南新町へと南に進み、後に田町が発展して藤塚へと延びていくことになるようです。
1高松城 生駒時代屋敷割り図
生駒時代屋敷割図
                   
生駒騒動と生駒氏の改易
 秀吉によって讃岐一国を与えられた生駒氏によって、讃岐の近世は始まります。生駒氏は引田 → 聖通寺山と拠点を移し、高松に本格的なお城が築かれ、その南に城下町が形成されていくことになります。生駒氏は約五〇年間にわたって領主として支配し、讃岐に落ち着きを取り戻す善政を行ったと評価されています。
 ところが寛永十四年七月に国家老生駒帯刀が、生駒藩江戸家老前野助左衛門らを幕府に訴えたことから、「生駒騒動」が始まります。そして、寛永十七年五月に、「生駒藩内の家中立ち退き」が幕府で問題になります。生駒藩の家来が、国家老派と江戸家老派の二つに分かれ、江戸家老派に与した藩士が、讃岐からも江戸藩邸からも集団脱走して、大坂に集結するという大事件が起こりました。なぜ、そのようなことになったのか、ということについてはよくわかっていないようです。当然、家臣たちが藩邸を脱走すれば、藩が潰れるということは分かっているはずなのに、なぜ家臣たちが立退いたのか?当然、職場放棄し「脱走」した彼らも後に処分されます、この事件の原因については、諸説あって今後の課題のようです。

Ikoma_Takatoshi
生駒高俊
 この事件は、幕府の老中たちによって裁かれて、藩主の責任だということで、讃岐を取り上げられてしまいます。そして生駒高俊は、温暖な讃岐から秋田県の雪深い矢島へ移されてしまいます。矢島は、冬は2メートルも雪の積もる鳥海山の麓で、冬はスキーで賑わう小じんまりした町です。

1Matsudaira_Yorishige
松平頼重
 松平頼重による高松藩の基礎作り
 生駒氏が去った後、寛永十九年二月に松平頼重が高松藩主となります。この時に、讃岐は西の丸亀藩五万石余と高松藩11万石の二つに分けられます。ほぼ土器川から東の方の高松藩の政治体制・領内支配体制を作り上げていくのが松平頼重です。
 ちなみに、この人は水戸黄門のお兄さんになります。本来ならこの人が、水戸藩主になるべき人でした。一説には、頼重が生まれたときには、父の水戸藩主徳川頼房は、お兄さんたちに子供がなかったということで、頼重を世継として幕府に届けるのをためらった。そして、頼重を家臣に育てさせたと伝えられます。
 その六年後に弟の光圀が生まれました。その時には、お兄さんたちにも子供が生まれていたということで、頼房は光圀を世継として幕府に届けたといいます。こんな不遇な回り合わせにあった頼重は、やがてそのことが幕府に知れ、将軍徳川家光の耳にも入り、寛永十五年に下館藩(しもだて栃木県)の五万石の大名となります。そして四年後に高松城に入ることになります。このように高松藩は水戸家の分家的な存在で、幕府に非常に近く家門(親藩)という立場にある藩だったようです。
 城下上水道と溜池
 頼重が高松藩に入ってからの業績は、最後につけた年表にあるように、先ず城下に上水道を敷きます。上水道としては、全国的にみてそう古いものではありません。ただ、地下水を飲料水として使用したのは、全国初ということで注目されています。井戸としては次の三つが使われました。
「大井戸」現在でも瓦町の近くに大井戸というのが、規模を小さくして復元されて残っています。物が投げ込まれたりしていますが高松市の史跡です。
「亀井戸」亀井の井戸と呼ばれていたものです。五番丁の交差点の少し東の小さな路地があり、それを左に入ると亀井の井戸の跡があります。現在埋まっていますが、発掘調査をすればきっとその跡が出てくると思います。
「今井戸」ビルの谷間にほんとうに小さな祠が残っていて、鍛冶屋町付近の中央寄りの所で、普通に歩いていると見過ごしてしまうような路地の奥に、「水神社」の祠があります。この3つの井戸から、高松城下に飲料水としての井戸水を引いています。
 翌年の正保二年は、大旱魅で新らしく溜池を406を築いたといいます。しかし、一度に築いたものではなく、恐らく頼重の時代に築いたものが406で、この時にそれをまとめて記したものと研究者は考えているようです。どちらにしても生駒氏時代に西島八兵衛が溜池を築いたと同じように、頼重の時代に入っても溜池の築造が続いていたことがうかがわれます。
 高松城石垣の修築と検地
 正保三年には、高松城石垣の修築に着手しています。
この時期の高松城の様子を幕府が派遣した隠密が記録した「讃岐探索書」が残っています。
その中に、石垣が崩れているとか、土塀が壊れたりしていると書かれていて、当時の高松城は相当いたんでいたようです。生駒藩は、「生駒騒動」のごたごたで城の手入れも充分できていなかったのかもしれません。年表の寛文五年に、城下周辺から検地を始め、寛文十一年に終わるとあります。
 領主にとって検地は領地経営の根本に関わる重要事業です。
頼重も六年間かかって領内の検地をやり終えています。高松藩では、これ以後検地は行われていません。この検地によって、高松藩における年貢取り立てのための農民支配体制が、ほぼ出来上がったと考えることができます。
1高松城 松平頼重普請HPTIMAGE
いよいよ寛文十一年九月に高松城普請が始まります。
この工事の結果、できた高松城が図2です。
 普請前の生駒時代の違いについて、見ておきましょう
 一つは、生駒時代は東側の中濠は侍屋敷に沿っているだけでした。ところが普請後は、中濠が途中で東に分かれ下横町にぶつかってから北に進んでいます。この結果、中堀まで船が入ってこられる構造になっています。
 二つ目は、普請前は海に面した北の方は「捨石」と記されているように、石を捨てただけの簡単な石垣だったようです。ところが、普請後には、しっかりとした石垣もでき、爪か彫とか対手御門が新しくできています。
 三つ目として、普請前の城内への入り口である大手門が、普請後には橋がとりはらわれていて、右の方のが鼓櫓の横の濠の上に橋がかかっています。現在も、ここにある旭橋から城内に入ります。そして四つ目は北の方の一部に海を取り込んで北ノ丸を新しく造成し、さらに、東の方では侍屋敷と町屋を二つに分割して、新しく濠を設けて東ノ丸をつくり、もともとは城外であったところを城内に取り込んでいます。
 高松城普請は単なる城の修理ではなく、城の拡大であったということです。これ以後の高松城の姿は明治維新まで変わらなかったようです。
 
DSC02528

この城下の屏風は、高松城だけでなく城下町の様子まで描かれています。そのため城の様子や城下町の様子がとてもよくわかります。人々がどんなものを運んでいるのか、どんなものを着ているのかなど、細かく描かれています。そういう意味で、この屏風は当時の人たちの風俗などが、よく分かる大変貴重な資料と評価が高いようです。

1 高松城p51g

その後の高松城はどうなったかのでしょうか
図2の東ノ丸の米蔵丸のところには、現在は県民ホール(レグザム)が建っています。それから米蔵丸の半分から下の作事丸にかけて、県立ミュージアムがあり、その南には城内中学校がありました。城の中にいろいろな建物が建つことは、高松城は国史跡であり、文化財保護の立場から考えると、問題だという意見もあるようです。
 また、本丸の石垣のすぐ横の内濠の部分が築港駅のホームになっています。さらに西ノ丸の一部が中央通りにかかり、生駒時代の大手門の跡の近くの西の中濠が埋め立てられて現在電車が走っています。東ノ丸の東側の濠は、フェリー通りになっています。
1 高松城54pg
 明治以後、高松は港町として発展してきましたが、この城の辺りが港町として発展していくさいにお城の敷地が切り取られていった歴史があります。21世紀になって、この国にも心の余裕ができたようで、文化的な面にも目を向けていこうという時代になってきました。昔のままの高松城を復元するのは無理でも、少しでも昔の姿に、戻そうとする動きが出てきています。
1 高松城p1g

 昔の高松城は、海に接して石垣のある海城で、瀬戸内海からは海辺に石垣の見えるすばらしい城だったと思います。今では、石垣の北を埋め立てて道路になって、石垣が海に洗われる姿を見ることはできません。しかし、行政は石垣と道路の間の建物を撤去して散歩道をつくり、石垣の北を少し掘って海水を入れて濠のようにして、昔の高松城の姿に少しでも近づけようとしているようです。岡山行きのフェリーが廃止になった跡の利用にも期待したいと思っています。
1 高松城 教科書.明治34年 - 新日本古地図学会
参考文献
  木原 高松城と松平頼重
(『高松市教育文化研究所研究紀要』四五号。1994年)
          「高松城と松平頼重」関係年表
天正12年(1582)6月 本能寺の変
天正12年(1584)6月頃長宗我部元親、讃岐十河城を攻略する
天正13年(1585)春 長宗我部元親、四国を平定する。
   4月 豊臣秀吉、長宗我部元親攻撃を決定する。
   7月 豊臣秀吉、四国攻撃軍と長宗我部軍との和議を命令
   8月 千石秀久、豊臣秀吉より讃岐国を与えられる。
天正14年(1586)12月 豊臣秀吉、千石秀久より讃岐国を没収
天正15年(1587)8月生駒親正、豊臣秀吉より讃岐国を与えられる。
天正16年(1588) 春 生駒親正、高松城築城に着手
慶長2年(1597)春 生駒親正、丸亀城を築く。        
     生駒藩、この頃から同7年頃にかけて領内検地実施
慶長5年(1600)9月  関ヶ原の戦い。
慶長6年(160U 5月 生駒一正、徳川家康から讃岐国を安堵
慶長19年(1614)10月 大坂の陣始まる。
寛永4年(1627)8月  幕府隠密、讃岐を探索する。
寛永8年(1631)2月  西島八兵衛、満濃池を築造する。
寛永14年(1637)7月  生駒帯刀、幕府老中土井利勝らへ訴状衛出・生駒騒動の始まり)
寛永17年(1640)7月 生駒高悛、「生駒騒動」で讃岐国没収 
            羽国矢島1万石に移封。 
寛永18年(1641)9月山崎家治、西讃岐5万石余を与えられ丸亀城に拠る 
寛永19年(1642)2月  松平頼重、東讃岐12万石を与えられ高松城に拠る
正保 元年(1644) 高松城下に上水道を敷設する。
正保2年(1645) 讃岐大干ばつ
正保3年(1646)6月  高松城石垣の修築に着手する。
明暦3年(1657)3月  丸亀藩山崎家断絶する。       
万治元年(1658)2月  京極高和が山崎家領を継ぐ  i
万治3年(1660)この年丸亀藩、幕府より丸亀城普請を許される       
寛文5年(1665)この年 高松藩、城下周辺より検地を始め11年に完了する。これを「亥ノ内検地」という
寛文9年(1669)5月 高松城天守閣の上棟式が行われる。
翌年8年 造営が成る。
寛文10年(1670)丸亀藩、延宝にかけて検地を行う。
寛文11年(1671)9月  高松城普請が始まる。この年家臣知行米を「四つ成」渡しとする。
延宝元年(1673)2月高松藩主松平頼重、病により隠退する。
延宝2年(1674)9月 米蔵丸・作事丸(東ノ丸)が完成する。
延宝4年(1676)3月 月見櫓の棟上げが行われる。北ノ丸完成か
延宝5年(1677)5月 艮櫓が完成する。
元禄8年(1695)4月  松平頼重、死去

 近世讃岐の寺院NO1 松平頼重の仏生山法然寺建立計画を探る : 瀬戸の島から
高松藩初代藩主 松平頼重
寛永19年(1642)に東讃岐12万石の領主となった高松藩主松平頼重は、家康の孫に当たり、家光とは従兄弟、そして弟が光圀という徳川家の御三家の出身です。彼は、初代藩主として金毘羅を保護し、金毘羅領330石を朱印地にすることに尽力しました。領主としても、代拝も含めると17回の金比羅参拝が記録されています。特に、幕府から朱印地に認められた年の八月には、参拝して一泊しています。

讃岐国絵図 琴平 佐文周辺
金毘羅周辺地図

松平頼重が金毘羅大権現に祈願のための願文をささげたことは二回あるようです。
1回目は寛文五年(1665) 養女大姫の安産を祈ったものです。大姫は頼重の父徳川頼房の娘女でしたが、頼重の養女となり将軍徳川家綱の命によって、熊本藩主の細川綱利に嫁していました。
2回目は寛文十一年(1671)に、次のような願文を金光院に出しています。

「今度参勤を遂げ、心中祈願相叶い、悉地成就せしめ、帰国致すに於いては、直ちに宝前に参詣し奉るべきなり」

「心中所願」とは、当時の頼重は病みがちで、隠居願いのことだったようです。二年後に、隠居が許されると頼重は、江戸から帰藩すると直ちに金毘羅大権現へ参拝しています。これより先延宝元年(1673)正月に、頼重は社領50石を三条村から割いて寄進しています。このときの寄進状は次のとおりです。
供田 松平頼重寄進
松平頼重寄進の御供田50石(那珂郡三条村)

 那珂郡三条村において、本高の外興高を以て五拾石の事、金毘羅大権現神供料・千鉢仏堂料井びに神馬料として、これを寄進せしめ詑んぬ。全く収納有るべきの状、件の如し。

50石の内訳は、神供料が10石、千体仏堂料10石、神馬料30石でした。三条村に住んでいた善左衛門に耕作が命じられています。

決壊中の満濃池
金比羅領(赤)と天領池御料の3村(白)

 前回お話ししたように朱印地金毘羅領330石の土地は、生駒時代に十数回にわたって寄進されたものです。そのため土地は飛び地でした。満濃池の池御料として天領の苗田村・榎井村・五条村と、境界が入り組んでいたようです。
天領池御料
天領池御料と金毘羅寺領(明治維新拡大図)

そのため松平頼重の肝煎で、金毘羅大権現の寺領(「院内廻り」)周囲に集められることになります。これは頼重の指示があったからこそ、できたことです。現在金刀比羅宮には、この時の絵図の写しが残っています。その絵図には、幕府寺社奉行三名の裏判が押されています。

この中に金毘羅領分は「院内(境内の周囲)廻りへ片付ける」ようにとの指示が書き込まれています。

つまり、天領3村の中に飛び地として分散していた土地を金毘羅領内にまとめようとしたようです。
池御両郷帳(榎井・五条・苗田)図
       金比羅領(赤)と天領池御料の3村(黄色)
この
結果、榎井村では一町ほどの土地が金毘羅へ、金毘羅領に遠い四條村の場合はすべて池領へ移っています。そして、全体ではほぼ同じ面積、石高が交換されています。おそらく、金毘羅に有利な形で、境界も定まったと思われます。これは、天領と金毘羅大権現の土地交換という難しい作業でした。実施に向けては、時の幕府の重役達の内々の同意を取り付けることが前提になります。これが出来るのは、親藩高松藩主としての頼重の政治力を抜きにしてはできなかったことでしょう。
 実施に当たっては、次のような要人が立ち会っています。
高松藩から大横目・代官・郡奉行と大庄屋
丸亀藩から大横目・郡奉行と庄屋
池御料からは代官・庄屋
金毘羅からは多聞院と山下弥右衛門ら町年寄
これも、後に禍根を残さない配慮でしょう。この結果、朱印地の寺領は、金倉川を越えた東側にも広がることになります。

金毘羅全図 宝暦5(1755)年
金毘羅神社絵図(宝暦5年 18世紀後半) 鞘橋から東が新町

この時に、金倉川の東側で得た現在の「新町」については、「古老伝旧記」に次のように記されています。

「地替相調い候て町並に家も立ち候」

地替(土地交換)で得た土地に家が建ち街並みとなっていることが分かります。高松街道沿いに榎井方面に向かって家々が並び立つようになり、門前町の発展に大きく寄与することになります。これも頼重の金毘羅に果たした大きな業績のひとつです。
一の橋・鞘橋
金倉川に架かる鞘橋と、それに続く新町

松平頼重の寄進で境内は、どのように姿を変えたのでしょうか?
 松平頼重は、多くの寄進を金毘羅山にしています。建築物だけを数え上げると
正保二年(1645)三十番神社の修復を初めとして、
慶安三年(1650)神馬屋の新築、
慶安四年(1651 仁王門新築
万治二年(1659)本社造営
寛文元年(1661)阿弥陀堂の改築
延宝元年(1673)高野山の大塔を模した二重宝塔の建立と
これだけでも本堂を始めとして、山内の堂舎が一新されたことを意味します。

IMG_3856
頼重寄進の仁王門(大門)
さらに石灯籠をみると、次のようになります
石灯籠 両基  寛文8年正月10日 本社前両脇
石灯籠 両基  寛文9年正月10日 摩利支天社前
石灯籠 両基  寛文10年正月10日 摩利支天社前
石灯籠 両基  寛文11年正月10日 本地堂上
石灯龍 両基  延宝元年5月3日 場所本地堂上
石灯寵 両基  延宝3年5月10日 場所本地堂上
寛文8年から11年までの四年間に、毎年正月に石灯寵を二基ずつ、
延宝元年と同3年にも石灯寵を5月に二基寄進しています。
これらの松平頼重の多くの寄進によって、境内は面目を一新します。同時に高松藩の殿様の厚い信心を受けていると評判になったはずです。整備された境内の堂舎は人々の目を楽しませ、殿様の寄進建築物・灯籠として話題になり、参拝者の数を増やしていったのではないでしょうか。

DSC04053石灯籠(頼重寄進)


松平頼重は、自分が身につけた刀や甲冑なども寄進しています。
それが讃岐国名勝図会に、次のように載せられています。

4344104-58松平頼重
松平頼重寄進の太刀

4344104-57松平頼重
松平頼重公寄進の太刀

4344104-56讃岐国名勝図会
           松平頼重公寄進の長刀

4344104-49福山城主阿倍氏甲冑
          松平頼重公寄進の馬具

4344104-48讃岐国名勝図会
          松平頼重公寄進の鎧

4344104-47松平頼重甲冑 讃岐国名勝図会
        松平頼重公寄進の鎧(左側)
ちなみに讃岐国名勝図会の挿絵は、若き日の松岡調が担当したとされます。そうだとすれば、讃岐国名勝図会が発刊される1850年代に、松岡調は金刀比羅宮にやってきて、これらを描いたことになります。
4344104-73
讃岐国名勝図会の裏表紙裏には「真景 松岡信正(調)模」と記されている
ちなみに、神仏分離後に松岡調は金刀比羅宮の禰宜として、仏式の金毘羅大権現から神道の金刀比羅宮への変身を進めていくことになるのは以前にお話ししました。

日本史賢兄賢弟

 頼重の弟が水戸光圀です。
光圀は弟である自分が水戸本家を継いだことについて儒教的孝徳意識から「不義」感を持っていたと言われます。そこで、兄頼重の実子の綱方、綱條を自分の養子として、水戸藩の家督は綱條に継がせます。一方、兄頼重は光圀の実子・松平頼常を養子に迎え、延宝元年(1673年)に幕府より隠居を認められ高松に帰ってきます。そして、真っ先に、金毘羅山に参拝し、報告しています。
 頼重は病気と闘いながら元禄8年(1695年)に没します。これ以後、金毘羅山は頼重が寄進したものを財産として、大きな発展がはじまるのです。

関連画像
頼重の眠る高松松平家菩提寺 仏生山(高松市)

   
琴平 本庄・新庄2
中世末期の琴平

 戦国時代末期・天正年間の象頭山のお山では、松尾寺を中心に三十番神社などの諸社が建ち並び、そこに新参者の金毘羅堂が割り込んでくるという神仏・諸堂の雑居状態でした。人々は金倉川の東側に広がる中世以来の小松庄に生活していて、金毘羅山の麓には「門前町」は、まだ姿を見せていませんでした。
 豊臣秀吉の天下統一の動きが進む中で、讃岐の領主は、仙石氏から尾藤氏、そして生駒氏へと目まぐるしく変っていきます。この中で、金毘羅山内では新参者の金毘羅神・金光院がその中心的地位につくといった大変革が進んで行きます。その変革の中心にいたのが金光院院主の宥盛や宥睨であったことを、前回までに見てきました。
 宥睨は、実家の叔母オナツが生駒家二代目の一正の側室に入り、左門という男子を出産するという「運と縁」を授かります。甥と叔母という縁を活かし、生駒家からの寄進を幾度も重ねて得ることに成功します。それは最終的には330石という石高になります。これは、他の神社仏閣への寄進高と比べるとダントツです。

詳しくは「http://tono202.livedoor.blog/archives/1684460.htmlを参照


生駒正俊の家紋「生駒車」とは?香川の丸亀城を守りたかった戦国武将 | | お役立ち!季節の耳より情報局

生駒正俊
 このような中で、第三代藩主になった生駒正俊は、金毘羅支配の方針にといえる「条々」を慶長十八年に出します。
一 金毘羅寺高、諸役免許せしむ事、付けたり、荒れひらき同前の事
一 城山勝名寺、前々の如く寄進せしむ事
一 金毘羅新町に於いて、他国より罷り越し候者の儀、諸公事緩め置き候間、
  住宅仕り候様二申し付けらるべき事
一 神役前々の如く申し付けらるべき事
一 先の金光院定めの如く万法度堅く申し付けらるべき事 右条々永代相違有る間敷き者なり
意訳変換しておくと

 金毘羅寺(金光院)の寺領、諸役免許の件、荒地開墾についても従前通りの権利を認めること。
一 城山勝名寺については、以前通りに寄進すること。
一 金毘羅新町で他国からやってきた商人が商売を行う事      
  住宅を建てて住み着くこと
一 神役についえは従来通り申し付けることができること事
一 従来のように金光院が定めた法は、今後も継続されること
 以上の件について、永代相違有る間敷き者なり
ここからは、生駒正俊が寺高・諸役の免除、城山勝名寺領の寄進、金毘羅への商人などの移住奨励、神役負課、金光院の院領内の裁量権を従来通りに認めたことが分かります。
 ある意味では、金毘羅山域に対してある種の「治外法権」が認められていたといえます。特に研究者が注目するのは、、金毘羅門前への「他国よりの移住奨励策」が認められている点です。これが金毘羅領が門前街として発達していく重要な条件になります。

IMG_3975

   35年もの間、金光院住職を勤めてきた宥睨に、最後の荒波が押し寄せます。
それは生駒騒動の結果、生駒家が矢島へ転封になってしまうのです。宥睨は理解ある大切なパトロンを失います。そして、新たな領主との関係を作ることが求められることになります。その交渉相手が初代高松藩として水戸からやって来た松平頼重だったのです。これは、宥睨にとっては幸いなことでした。

讃岐高松藩 初代藩主松平頼重は、どうして真宗興正派を保護したのか : 瀬戸の島から
松平頼重
 頼重は、生駒家の宗教政策を基本的に継承し、金毘羅山の既得権を認めます。

そして、当時幕府が行っていた全国の神社仏閣の朱印地認定作業に、金毘羅山の登録申請を行うのです。頼重の配慮、努力によって、慶安元年(1648))三月十七日に幕府からの朱印状を得ます。 
『徳川実紀』に
「先代御朱印給はらざる寺社領、こたび願いにより新たにたまふもの百八十二

とあるように、このとき朱印状を与えられたのは金光院だけでなく、全国の寺社領が対象でした。その182の寺社の中のひとつに、金毘羅山も登録されたと言うことです。
朱印状の内容はは次の通りです。
讃岐国那珂郡小松庄金毘羅権現領
同郡五条村内百三拾四石八斗余、
榎内村の内四拾八石壱斗余、
苗田村の内五拾石、
木徳村内弐拾三石五斗、
社中七拾三石五斗、都合参百三拾石事、
先規に任せこれを寄付し詑んぬ。全く社納すべし。
并びに山林竹木諸役等免除、有り来たりの如く
いよいよ弥相違有るべからず。
てへれば、神事祭礼を専らとし、天下安泰の懇祈を抽んずべきの状、件の如し。
    慶安元年二月廿四日
  御朱印  別当金光院

決壊中の満濃池
明治維新時の天領池御料と金毘羅寺領
朱印料として認められ他のは、金毘羅領と、その金倉川の東岸の3つの村に飛び地としてある土地でモザイク的なものでした。三つの村が寺領となったのではありません。これらは生駒藩時代に寄進された物です。これらを総て併せた330石が朱印地として認められたことになります。

金毘羅山を代表して朱印状を受けたのは金光院でした。
朱印状が渡される前年には、これを金光院が受け取ることについての賛否が山内で問われたようです。後に金光院を訴え獄門にされる三十番社の神職が起こした訴訟資料には、次のように記されています。
正保三年大猷院様御時代、金光院住僧宥睨御目見相済み候以後、御朱印の義 安藤右京進殿松平出雲守殿御両人ヘ讃岐守取り遣り仕り候処、当地に於いて相煩い、讃州へ着き、程なく宥睨相果て申し候間、其の讃岐守申し付け候は、後住宥典義御朱印の御訴訟申し上ぐべく候間、彼の山の寺家・俗家、領内下々迄後住宥典に申し分これ有る間敷哉、山の由来詮義仕るべきの由、讃州へ申し遣わし、彼の山穿繋仕り候処、
一山の者共家来にてこれ無き者一人も御座無く候。
門下の寺中弟子等其の外双び立ちたる者、連判の手形に仕り、彼の内記・権太夫連判届きに付き、連判致させ所持仕り、其の節江  府へ持参仕り、(後略)
意訳変換しておくと
正保三年に大猷院様(松平頼重)の時代に、金光院の宥睨との初会見した。その後に(金毘羅大権現の)朱印状については、松平頼重公が安藤右京進殿・松平出雲守殿へ取り次いだ。その結果、当地に出向いて調査確認を行ったが、その後程なくして宥睨が亡くなってしまった。松平頼重公の申し付けは、その跡を継いだ宥典の時に、御朱印についての訴訟が起こりました。その前に金毘羅山中の寺家・俗家、領内下々に至るまで、宥典が金毘羅全山の最高責任者であることを確認しています。山の者総てが、金光院の家来で、そうでないものは一人もいません。そのことについては、門下の寺社関係者たち総ての連判の手形も取っています。そして、現在控訴人となっている内記・権太夫も連判状に記銘しています。それは今回、江戸に持参予定です。

ここからは次のようなことが分かります。
①正保三年(1646)12月に、金光院宥睨が亡くなり宥典が継ぎいだこと、
②正保四年に朱印状を金光院が受け取ることについての賛否が問われたこと
③その結果、「一山の者」全員が金光院が金毘羅山の主人として受け取ることに賛成したこと
④それを「連判の手形」として署名したこと
これは、中世以来の松尾寺・三十番社・金比羅堂等の諸寺諸堂の並立状態が終わったことを意味するものです。ここに正式に、金光院が金比羅領の「お山の大将」としての地位が確認され、金光院の権勢が確立したことを示します。
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  同時に金光院院主が、330石の寄進地を含む「お山の領主」になったことを意味します。
それは、讃岐国は松平家と京極家、塩飽の「人名」に加えて、金毘羅山という新しい「領主」の誕生と言えるかもしれません。金光院院主は、宗教的な存在としてだけでなく、金比羅領の「殿様」として政治的な存在として、この地に形成されていく金比羅門前町を治めていくことにもなるのです。
この時すでに宥睨は亡く、院主は宥典に交代していました。
 宥睨は生駒家から得た寄進地を、幕府の朱印地に格上することに成功したわけです。そういう意味では、宥睨が金毘羅山に果たした役割は大きく「金毘羅山の大恩人」として、江戸時代に書かれた書物では大きく評価されることになります。それが宥睨の実家である
山下家が金光院住職の地位を世襲化することにつながるようです。以上をまとめておきます。
金光院の支配権確立まで

①近世初頭の 象頭山は、さまざまな宗教施設の混淆状態にあった。
②そこに長尾家出身の僧宥雅が、守護神として金毘羅神を造りだし、そのお堂を建立した。
③長宗我部元親はこの地を占領すると、土佐から有力な修験者を招き、松尾寺の管理運営を任せた。
④こうして、金毘羅は丸亀平野の拠点宗教センターに改装された。
⑤当時の松尾寺は、天狗信仰の修験者たちの拠点で、彼らがいくつもの院坊をもち管理するようになった。
⑥その中で最も有力になったのが宥盛の金光院であった。
⑦金光院は、生駒家に姻戚関係をもつ院主の元で寄進地を次々と増やして行った。
⑧生駒家転封後の高松藩初代藩主・松平頼重は、金光院への保護を継続した。
⑨松平頼重によって、金光院の寺領は朱印地となり、その領主として金光院が認められた。

こうして見ると、近世初頭に流行神としてして登場した金毘羅神が急速な成長を遂げるのは、長宗我部元親・生駒藩・松平頼重という支配者達の保護を受けてきたことが大きな要因であることが分かります。
ここからは金毘羅信仰を「庶民信仰」として捉える従来の考えに対する疑問が生まれてきます。時の支配者の寄進・保護を受けて経済基盤を調え、伽藍整備を行い、その後に庶民達がやってくるようになったと云えそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
最終改訂2024/11/29
町史ことひら

参考文献  金比羅領の成立  町史ことひら3 42P~
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  「大窪密寺記」、「大窪寺記録」による寺史復元の成果は?

この寺の歴史について中世文書が残っていないため、よく分かっていないことが多いのです。その中で2007年に香川県歴史博物館から調査報告書が出され、寺に残る「大窪密寺記」「大窪寺記録」を基に寺史復元が行われています。その成果をまとめてみると・・・。
縁起は行基が開山してその後、弘法大師が中興したというありきたりのものになっています。中世については文書はありませんが、鎌倉時代末~室町時代の瓦などの遺物が寺域から出土しており、中世におけるこの寺の存在を示しています。
「大窪寺」の画像検索結果

本尊は ホラ貝を持ったお薬師さんで飛鳥・天平様式

 本尊の弘法大師作とされる薬師如来坐像は、飛鳥・天平様式を持ち、平安時代前期のものとされ県の指定になりました。普通、薬師如来は薬壷を持つものですが、ここのお薬師さんは、法螺貝を持っています。これはこの寺の由来を考える際のヒントになります。ホラ貝は修験者の持ち物です。修験の本尊にふさわしく、病難災厄を吹き払う意昧をこめたものだとおもわれます。同時に、この寺の大師信仰よりも古い、修験道・山岳宗教との関わりをうかがわせます。
 さらに寺宝の弘法大師伝来という鉄錫杖が平安時代初期のものであることが判明し、この寺の平安時代初期の建立の可能性が出てきました。

イメージ 1

  近世になると秀吉政権下で讃岐一国を領した生駒氏は
殊に神を尊び仏を敬い、古伝の寺社領を補い、新地をも奇符(寄付)し、長宗我部焼失の場を造栄して、いよいよ太平の基願う」(「生駒記」)
というように、旧寺社の復興、菩提寺法泉寺の創建などに力を注ぎます。こうして、生駒親正は入国直後に次の寺院を「讃岐十五箇院」に選定し、真言宗古刹の保護に努めます。
①虚空蔵院与田寺(東かがわ市中筋)、
②宝蔵院極楽寺(さぬき市長尾束)、
③遍照光院弘憲寺(高松市)、
④地蔵院香西寺(高松市)、
⑤無量寿院隋願寺(高松市)、
⑥千手院国分寺(高松市国分寺町)、
⑦洞林院白峰寺(坂出市)、
⑧宝光院聖通寺(綾歌郡宇多津町)、
⑨明王院道隆寺(仲多度郡多度津町)
⑩覚城院不動護国寺(三豊市仁尾町)、
⑪威徳院勝蔵寺三豊市高瀬町)、
⑫持宝院本山寺(三豊市豊中町)、
⑬延命院勝楽寺(三豊市豊中町)、
⑭伊舎那院如意輪寺(三豊市財田町)、
⑮地蔵院萩原寺(観音寺市大野原町)
 生駒氏転封後の高松・丸亀藩に分けると、⑧までが高松藩領寺院となります。これにニケ寺を加え松平藩時代に「十ケ寺」保護制度が整ったようです。大窪寺の寺格は、この「十ケ寺」の次席という格式であったと伝わります。

「四国霊場大窪寺 本尊薬師座像」の画像検索結果

荒廃した大窪寺を復興したのは、高松藩祖松平頼重

荒廃した大窪寺を復興したのは、水戸光圀の兄で水戸藩からやってきた高松藩祖松平頼重です。頼重の肝煎りで、本堂・鎮守社・弁天宮・二王門が姿を現します。頼重は同時期に、根香寺・志度寺・八栗寺など八十八ヵ所霊場の寺院復興を行っています。さらに頼重は、寺領十石に加え新開地十五石を寄進するなど厚い保護を行ったことが寺領寄進(安堵)状に書き留められています。藩祖に習って以後も高松藩は手厚い保護を行っていたことが資料から分かります。
「四国霊場大窪寺 本尊薬師座像」の画像検索結果
 
大窪寺は、頼重の時代(寛永~延宝期)までに京都・大覚寺末となっていたようで、現在でも真言宗大覚寺派に属します。本寺の大覚寺からは、寛政六年(1794))菊御紋の提灯・幕などを下賜されており、特別な処遇であったことがわかります。

  大窪寺の弘法大師坐像を解体修理したところ、面部裏から
「大仏師かまた喜内、京あやのかうち、東之とい北へ入る」
の墨書銘が発見されました。
その結果、この座像が江戸時代中期に京都の仏師鎌田喜内によって作られたことが分かりました。彼は三豊市の本山寺の愛染明王坐像(平安時代・県指定有形文化財)を修理し、同寺の十王・倶生神像を見積もった仏師でもあります。江戸時代の本山寺と大窪寺はともに大覚寺の末寺であり(本山寺は現在高野山真言宗)、同じ宗派の寺院と京仏師の関係が見えてきました。
 
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 明治33年(1900)5月9日、本堂脇から出火し、本堂・大師堂・阿弥陀堂・薬師堂などを全焼し、徳川光圀寄進法華経(自筆箱書阿弥陀経か)・鷹司右大臣寄進医王山額など多くの什物が焼失しました。このため、中世以前の古文書・古記録はありません。
 しかし、兵火・大火をくぐり抜けてきた、弘法大師ゆかりと伝わる本尊・錫杖が、遺された江戸時代の古記録から、藩主をはじめ、数多の人々の信仰を集める寺宝であったことがわかってきました。また、藩主一族や嵯峨御所(大覚寺)からの寄進物の存在は、当寺の格の高さを示しています。

参考史料 胡光 大窪寺の文物 香川県歴史博物館調査報告 第三号

   法然ゆかりのお寺 まんのう町岸上の真福寺 
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 最初にこのお寺と出会ったのは、もう何十年も昔。丸亀平野が終わる岸上の丘の上にどっしりと立っていた。この周辺に多い浄土真宗のお寺さんとは立地環境も、境内の雰囲気も、寺院建築物も異なっており、「なんなのこのお寺」という印象を受けたのを今でも覚えている。境内の石碑から「法然ゆかりのお寺」ということは分かったが、それ以上のことを知る意欲と機会に恵まれなかった。
改めて訪ねて見て「寺の歴史」を書物だけからでも調べておこうと思った。以下は、真福寺に関しての読書メモである

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法然上人御旧跡とあります。
この寺と法然には、どんな関係があるのでしょうか?
1207年2月、専修念仏禁止令が出され、法然は土佐に、弟子の親鸞は越後に流罪となります。しかし、法然を載せた舟は、土佐には向かわず瀬戸内海の塩飽諸島の本島をめざします。その後は、讃岐の小松庄(現在の琴平・まんのう町周辺)に留まる。そして10ヶ月後には赦免され讃岐を離れることになります。
 この背景には、法然の擁護者であった関白藤原兼実(かねざね)の力が働いていたようです。法然が過ごした本島も、小松庄も九条家の荘園で、兼実の庇護下で「流刑」生活でした。そのため「流刑」と言うよりも未知の地への布教活動的な側面も生まれたようです。
4月頃に九条家の小松庄に本島からやって来た法然は、生福寺(現西念寺)という寺院に入ります。
「法然上人行状絵図」には
「讃岐国小松庄におちつき給いひにけり。当座のうち生福寺といふ寺に住して、無常のことはりを説き、念仏の行をすすめ給ひければ、当国近国の男女貴賤化導に従ふもの市のごとし
と書かれています。当寺、生福寺周辺には真福寺・清福寺の2つの寺があり併せて「三福寺」と呼ばれていたようです。
九条家の荘園である小松庄の大寺院は、古代瓦が出土する弘安寺だと思われるのですが、なぜか法然はそこには行きません。小松荘の東端で土器川の川向こうで、西山のふもとの生福寺を拠点にします。そして、周辺の真福寺と清福寺を「サテライト」として活動したとされています。

法然がやって来たときに真福寺は、どこにあったのか?

  真福寺についての満濃町史には「 空海開基で荒れていたのを、法然が念仏道場として再建」とあります。真福寺が最初にあったとされるまんのう町大字四條の天皇地区にある「真福寺森」の地名が残る場所へ行ってみましょう。
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「真福寺森」は、西に象頭山、その北に善通寺の五岳山がのぞめ、北は丸亀平野が広がる田野の中にありました。満濃池のゆるが抜かれて田植えが終わったばかり。
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この集会所の周囲が寺域とされているようです。
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かつての寺院のものとも思われる手洗石造物が残るだけ。
当寺の真福寺を偲ばせるものはこれのみ。
ここでも法然は、念仏の功徳を民衆に説いたのでしょうか?
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しかし、この寺院も長宗我部軍と長尾大隅守との戦いの兵火に焼かれて消失したと伝えられます。復興の動きは江戸時代になってからです。生駒家の家臣の尾池玄蕃が、真福寺が絶えるのを憂えて、岸上・真野・七箇などの九か村に勧進して堂宇再興を発願。その後、1662(寛文二)年に僧広誉退休によって、現在の高篠村西念寺の地に再建されたようです。つまり、真福寺は元あった場所ではなく、法然が居住した生福寺(現西念寺)に再建されたようです。


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ところがわずか十余年後に、初代高松松平城主としてやってきた頼重は、再びこの寺を移転させます。それが現在の岸上の岡の上。

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この時に、寺領五〇石の他に仏像・仏具や山林なども頼重から受領しています。
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当時の境内は東西約110㍍、南北約140㍍で、馬場・馬場裏などの地名が残っていると云います。
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広い境内に堂宇が立ち並んでいたのでしょう。江戸時代に、この寺が管理していた寺院は岸上薬師堂・福良見薬師堂・宇多津十王堂・榎井村古光寺・地蔵院・慈光院などであったと云います。まさに高松の殿様の庇護を受けて再建されたお寺なのです。それにふさわしい場所が選ばれ、移ってきたのでしょう。周辺の浄土真宗のお寺とは規模も寺格も異にするお寺さんであったようです。

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ここからは神野・真野・吉野方面が一望できる。支配モニュメントの建設場所としてはうってつけの場所だ。
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頼重の宗教政策の一環として保護を受け再建され、藩政下においては隆盛を誇った寺院。今でも法然由来の寺院として信仰を集めているが訪れる人は少ない。しかし、私はこのお寺の雰囲気と景観が好きだ。



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