瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:松平頼重と高松城

 
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「讃岐高松丸亀両図 高松城下図」(絵図4)

 寛永19(1642)年に松平頼重が高松に入り,生駒藩は高松藩となりました。松平頼重は城や町の整備を行ったことが『小神野夜話』には記されています。「讃岐高松丸亀両図 高松城下図」(絵図4)の製作年代は不明ですが,絵図内容より松平頼重入部直後に作られたものと考えられているようです。そのため『生駒家時代高松城屋敷割図』(絵図2)と比較してみても高松城内部にはあまり変化はありません。中堀に架けられた橋の北側の門東側は対面所ですが、西側の屋敷には変化があります。門の西側から近習者屋敷・局屋敷と記されていた屋敷が『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)では鷹匠・厩となっています。
高松城江戸時代初期
「高松城下図屏風」(絵図5)
「高松城下図屏風」(絵図5)が、いつ、何のために、誰によって描かれたのかについては、はっきりしません。しかし、作られたのは明暦2年(1656)前後のものと推定されているようです。この絵図は『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)よりも新しい絵図で、この時点で松平頼重によって次のような改築が行われたことが分かります。
①南にあった橋がなくなり、高松城西側に門と橋ができています。
②内堀と中堀の間の南部には局,厩,鷹匠の屋敷がありました。それが『高松城下図屏風』(絵図5)では、内堀と中堀の間の西部は北側に侍屋敷があり,その南側に馬が描かれ,厩と思われる建物があります。厩が,西側に移動したようです。おそらく,西側に橋がかかったためにの移動でだったのでしょう。
③「高松城下図屏風』(絵図5)では、海手門の外側は新たに埋め立てられ,瀬戸内海に向かってコの字型に張り出しができ,石垣が巡らされています。
④この張り出しの東側の「いほのたな町」の北側に、新しく波止場が作られています。
高松城絵図6
「讃岐国高松城図」(絵図6)
絵図6にも中堀の西側に橋が描かれています。
その橋の東側には蔵が見えます。海手門の外側には北海に向かって張り出しがあり,中堀の東側に波止場があり、西浜舟入と中堀の間に米蔵と注が記載されています。のちに,東の丸が築造され,米蔵は東の丸に移されますが、それ以前は西浜舟入と中堀の間にも米蔵があったことが分かります。
「讃岐国高松城図」(絵図6)では、中堀の南側の両角に櫓が新たに姿を見せています。築造年代は不明ですが、この櫓は「高松城全図」(絵図21)から烏櫓,太鼓櫓であることが分かります。。
寛文11年(1671)になって高松城の新郭である東の丸が築造されます。
東の丸の築造直後に製作された絵図はありません。東の丸が描かれた最も古い絵図は、享保年間(1716~1736年)の「高松城図」(絵図7)です。この絵図と「高松城下図屏風」(絵図5)を比べてみての変化点をまとめると次のようになります
①中堀の東側の侍屋敷であったところに東の丸が築造され、その東に隣接する魚の棚町の西半分に堀が掘られた
②海手門の北東側か埋め立てられ,北の丸が築造された。
③東の丸・北の丸には次のような櫓が築造された。
 東の丸の南東角は巽櫓,北の丸の北東角は鹿櫓,北西角は月見櫓や続櫓
④それまでは中堀の南側には太鼓御門があり,橋が架かっていて,城の南側から出入りをしていたが,東側に架け替えられている。東側に架け変えられた橋が旭御門。
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高松城の改築について『小神野夜話』では次のように記しています
「二の丸先代は中の門に橋有て,太鼓矢倉中門の東へ少寄て有之,東の角は折にて有之,角に先代之屋形有之,御玄関西向に成,桜御門は北面に成,桜の馬場西南の角に家老之小屋四軒有之候所,東御門新に明き中の御門橋を引,中の矢倉,東の矢倉,東の角今の太鼓の櫓に引き,家老の小屋は武具蔵になり,屋形の跡は今腰掛建申候。西御門は北の角櫓の下に有之候所,只今の所へ引申候。」
「ニノ丸へ御屋形引,海手へ出候門,只今の中御門に相成,北新曲輪 今之水御門,月見櫓,鹿之櫓,黒門,多門,作事魚棚の入川,北浜等,新規に被仰付候
御入部三年目に御普請初り,先二の丸より斧初め、次に御玄関落間一番に建ち申候」

ここからは
①中堀の橋が東に架け替わり櫓が移動したこと
②内堀と中堀の問は武具蔵になり,西御門は現在の場所,つまり西側の外堀の中央付近に移ったこ
③屋形が二の丸に移動し,北の丸,北の丸の水御門・月見櫓・鹿櫓や,東の丸の作事丸・米蔵丸・北浜などが新たにできたこと
松平頼重が入部して3年目に城内の改築を開始し、工事は継続して行われていたようです。
  
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 今度は城下町の様子を見てみましょう。
「高松城下図屏風」(絵図5)は松平頼重時代の始め頃,江戸にいることの多い頼重や家臣団の政策協議の資料として明暦2(1656)年以前に製作されたとも言われています。この絵図の頃は城下の
西端は蓮華寺・王子権現付近(現在の高松市錦町2丁目),
東端は通町付近
であることがわかります。
『小神野夜話』には城下町の拡大について
   街並みも東は今橋切にて,松島之家は一軒も無之由,
西はかしの屋の前石橋迄にて,王子権現は野中に御座候。
段々家立まし,今之通相成申候
 この記述から,街並みは東は今橋で切れて,西は吉祥寺の南の王子権現(錦町2丁目)あたりまで広がっていたようで、「高松城下図屏風」(絵図5)の描写と一致します。
東部の東の端には大きな川が描かれています。この川は仙場川のようです。
後世になって仙場川の北端には新橋が架かりますが,絵図5には新橋はまだ描かれていません。新橋の南に架かる今橋は見えます。仙場川の西岸には石垣による護岸整備が行われていて、通町の東側から北東方向に比較的大きな川が石垣のほうに向かって流れています。仙場川の東側は、松島町ですが今橋よりも北側は海が続きます。しかし,海岸に堤防は描かれていません。自然海浜のようです。ちなみに寛文7(1667)年には松島の沖合から西潟元まで堤防曜防が築かれ,新田が開発されたことが『英公外記』に記されています。

(絵図5)のと享保年間の下図『高松城下図』(絵図7)には約半世紀の隔たりがあり,城下町の様子もかなり変わっているようです。 
高松城 絵図7PTIMAGE

享保年間の「絵図7」をみると東端に仙場川が描かれています。
仙場川は南から北に向かって,瀬戸内海に注ぎ井口屋町の東側には新橋が描かれています。新橋が架かっていることからも松島の沖合が干拓されたことがうかがえます。
   仙波側の西側、現在の高松市築地町付近も大きく様変わりしています。通町の東側を流れていた川は町割りに沿って通町に平行に南から北に流れ,新塩屋町の南側を直角に曲がり,西から東に流れて仙場川に注いでいます。また,この流路と仙場川との間に流れていた小川はなくなっています。このあたりは(絵図5)では田畑が広がり,農家がぽつぽつとある程度でしたが『高松城下図』(絵図7)では,新通町・新塩屋町が新たにできて町屋になっています。南の方には深妙寺が姿を現しています。河川改修の結果,東方にも城下が広がったようです。
 ここでも新橋が架かっているということは、松福町は享保年間にはすでに干拓されていてことになります。また,新橋の北側の東浜も北西側と東側が埋め立てられ,新たに材木町が見えます。

 お城の東の丸の東側を見てみましょう。          
 東は『生駒家時代讃岐高松城屋敷割」絵図2では、城下は蓮花寺あたりまででした。それが享保年間の「絵図7」では、ほのたな町と記されていた町人町の北側が埋立てられ新たに北浜ができてきます。そして、北浜の北西角には波止場が見えます。
  西は「高松城下図屏風』(絵図5)では、蓮華寺付近まででした。
それが享保年間の「高松城下図」(絵図7)では、摺鉢谷川の東側まで城下が拡大しています。「絵図5」では高松城の外堀,船蔵の西側は侍屋敷でしたが,享保年間の「絵図7」では、その一部が町人町に変わり,西通町が形成されています。さらに,鉄砲町・高嶋町・木蔵町・西浜と摺鉢谷川の東まで町屋が連続しています。
 また,蓮華寺の西側には愛宕神社があり、その西に材木蔵があり,材木蔵の西側には港と波止場があります。この港は現在の扇町1丁目で、盲学校の北側付近になります。
  南西部にも侍町が拡大されています。
享保年間の「高松城下図」絵図7には,船蔵の南側から天神社の西側,九番丁まで侍屋敷が描かれていて,現在の香川大学の東端と高松市街の南部を走る観光通りまで市街地が広がったことが分かります。なお,船蔵の南西が浜ノ丁,その南側が北一番丁になります。

 これらの城下町の拡大については,「小神野夜話」には     
「御家中も先代は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,御入部巳後大勢之御家中故,新に六番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷に被仰付,・・・」

とあるので松平頼重の入部頃に,六番町・七番町・八番町・北一番町・古馬場・築地・浜の丁が新たに侍町になったようです。『高松城下図』(絵図7)の描写のように、侍屋敷が拡大していることが分かります。
『高松城下図屏風』(絵図5)では西浜舟入の北西にも侍屋敷が広がっていました。それが「高松城下図』(絵図7)では、北の1区画の侍屋敷と2軒の寺がなくなっていて,船蔵になっています。この船蔵の西側,蓮華寺の北側には新たに波止場ができています。そして蓮華寺と船蔵の間は侍屋敷に変わっています。なお,この2軒の寺は真行寺と無量寿院で、真行寺は御船蔵造営のため延宝2年(1676)に西の浜に、無量寿院は浄願寺の近くにそれぞれ移転したようです。ここから,船蔵が作られたのは延宝4(1676)年以後のことになります。 
西浜舟入と中堀の間は「高松城下図屏風」(絵図5)ではずらりと侍屋敷が並んでいました。
西浜舟人の東岸の北端には波止場があり,波止場の東側にはL字状に石垣が巡らされています。その内側には大きな侍屋敷がありました。ところが享保年間の「高松城下図」(絵図7)ではこのL字部分は埋め立てられて,大久保飛弾の屋敷地が西浜舟入の東隣に南北に長く伸び,その北東隣に西御屋敷があります。そして,中堀の西の橋の西側付近は空地となっています。
 このことも「小神野夜話』には、次のように書かれています
「船蔵大久保主計屋敷に有之候処,今之御船引申候、今之御船蔵之場所には真行寺・無量寿院有之候処,無量寿院は先代今之処へ引候跡開地と相成り居候,真行寺は御舟蔵西之角に有之候処,今之所へ引,跡御舟蔵に相成,只今之通りに御座候。船倉之跡屋敷に被仰付,八左衛門奉行にて大屋鋪と成,大久保主計に被下候,大概右之趣,役所之留ならびに林孫左衛門物語取合実説記置申候」
とあり,元の船蔵は大久保主計(飛弾)の屋敷となり、今の船蔵の場所には真行寺・無量寿院があったことが記されています。
 西浜の海岸縁には『高松城下図屏風』(絵図5)では真行寺と無量寿院が描かれています。2軒の寺のすぐ東側に南から北に流れる流路がありますが,享保年間の「高松城下図」(絵図7)では船蔵の西側,これらの寺があった場所に付け替えられています。流路の変更は新しい船倉建設に伴うものなのでしょう。
城下町の南東部にあった「馬場」について,         
①「高松城下図屏風」(絵図5)には勝法寺の南側には数頭の馬が描かれていますから,馬場があったようです。その南側は堀割りで,堀割りのさらに南は侍屋敷が東西に並んでいます。
②享保年間の「高松城下図」(絵図7)になると,勝法寺の南方に東西に並ぶ侍屋敷は見えますが,馬場はなくなっています。そして、馬場の北側にあった勝法寺が南部に寺域を広げ,御坊町も南部に拡大しています。
③「高松城下図」(絵図7)では,馬場は浄願寺の西に移動しています。

城下町の南への拡大を見てみましょう。
①「高松城下図屏風」(絵図5)では、町人町は高松城の外堀の常盤橋から南に続いています。その南限は高松市古馬場町付近で途切れていて,町人町がどこまで続いているのか不明でした。
②それが『高松城下図』(絵図7)には、現在の高松市藤塚町付近まで町屋が描かれています。丸亀町・南新町・下町・伊賀屋町・亀井町・田町・新町・ハタゴ町が見えます。

高松城絵図9
  享保年間以後の絵図で,最も古い絵図は元文5(1740)年に描かれた『元文5申年6月讃岐高松地図」(絵図9)があります。
享保年間の「高松城下図」(絵図7)と絵図9とでは四半世紀の隔たりがあります。
(絵図9)の東端には,仙場川が描かれていて,享保年間の絵図と同じように新橋が描かれています。その北には、八丁土堤と呼ばれた堤防が描かれています。この土堤は現在の福岡町付近の干拓のため築かれた堤防ですが、築造年代は分かりません。しかし、この絵図に描かれていることから享保年間(1716~1736年)以降で、元久元(1740)年以前には築造されたことが分かります。
高松城絵図9の2
「高松城下図」(絵図7)には外堀と中堀の間で,中堀の西門の外側は,西御屋敷と大久保飛騨の屋敷ですが,「元文5申年6月讃岐国高松地図」(絵図9)以降の絵図には,大久保飛騨屋敷の東隣は御用地または原となっています。『小神野夜話』には
「西御門外に家老屋敷二軒有之。引候て,壱軒之跡は今の下馬北かこひに成申候,一軒の跡は,十本松有之候場所に相成申候、外堀之際にも内馬場之通り並松有之候処,不残御伐らせ被遊候」
とあり,家老の屋敷が二軒あったが移動して,1軒の跡は馬の牧場,もう1軒の跡は10本の松が植えられたと記します。
高松城絵図9の3
 享保年間「高松城下図」(絵図7)と(絵図9)を比べると侍町の規模が縮小しています。
城下町の南東の福田町と南新町に挟まれた東西に並ぶ侍屋敷がなくなり,代わって古馬場町となっています。これについて「小神野夜話』は
「今之古馬場勝法寺南片輪,安養寺より西の木戸迄侍屋敷本町両輪,北片輪之有候処、享保九辰,十巳・十一午年御家中御人減り之節,此三輪之侍屋敷皆々番町へ引け,跡は御払地に相成,町屋と相成申候,享保十一,二之比と覚え申候,本町之南輪には,鈴木助右衛門・小倉勘右衛門・岡田藤左衛門・間宮武右衛門,外に家一二軒も有之候処覚候得共,幼年の節の義故,詳には覚不申候,北輪は笠井喜左衛門・三枝平太夫・鵜殿長左衛門・河合平兵衛。北之片輪には栗田佐左衛門・佐野理右衛門・飯野覚之丞・赤木安右衛門・青木嘉内等、凡右の通居申候,明和九辰年迄,右屋敷引五十年に相成候由,佐野宜休物語に御座候」
とあり,享保11(1726)年頃に,御家人が減ったことにより,勝法寺に南側にあった侍屋敷が町屋になったようです。これが現在の古馬場町のようです。古馬場は、もとは侍屋敷街だったのです。
侍屋敷から町人町になったのは古馬場だけではないようです。
「元文5申年6月讃岐国高松地図』(絵図9)をみると,浜の丁の蓮華寺の西に1軒の侍屋敷,蓮華寺の東の6軒の侍屋敷,船蔵の南の11軒の侍屋敷、城下の西端の南北に並ぶ侍屋敷の1列がなくなっています。このことについて『小神野夜話』は
「北海手東西之はと崎よりならびに蓮華寺之東,侍屋敷北手之土手を築,土手並木を植え候事,元禄十丑年七月大須賀小兵衛列座にて,主馬柘植安左衛門被仰渡,右安左衛門下知にて出来申候,並松も大木に成居申候処,享保五年之頃より北汐当強く相成,家中住かたく(難く)北六間引,土手松も汐に押し倒し土手も崩れ,石垣にて漸留り申候,右屋敷,同十二年正月に被仰付,六月迄に引申候」,
「浜之町土手は,我等若盛り迄は,土手下へ沖より汐満申事は夢々無之,西の波戸中程迄汐つかり申事覚へ不申候,東の船蔵の波戸は,三十年巳前迄は五十間の波戸,中程迄汐来り候,其後段々汐まして北の土手を打崩し候故,侍屋敷住居成不申,弐十七年以前に裏がわ六軒は引く申候。
材木蔵も八間南へ引,旁致候へは,次第に北のあて強く相成申候,‥」
とあり,元禄10(1697)に蓮華寺の東の侍屋敷の北に土手を築いたが,享保5(1720)年頃より,北から吹く潮が強くなり,享保12(1699)年に海岸縁の6軒の侍屋敷は移転し,材木蔵は八間ほど南に移動したことが記されています。このあたりは昔から冬の北西風が吹き付ける風の強いところだったようです。
高松城絵図10
        
寛政元(1789)年に描かれた鎌田共済会郷土博物館『寛政元年高松之図』(絵図10)と「元文元年申年6月讃岐国高松地図』(絵図9)を比較すると変化はあまりありません。
最後に、江戸時代末期の19世紀の絵図は3枚あります 。


(1804~1818年)に描かれた『文化年間讃州高松城下絵図』(絵図
高松城絵図11
これらの絵図には東浜の北に新湊町があります。新湊町は文化元(1804)年八代藩主松平頼儀の時代に,東浜の北に造成された町です。この町の北端に神社が記されています。これは東浜町から移された恵比寿神社のようです。
高松城絵図15
 このあたりを詳細に描いた絵図は鎌田共済会郷土博物館所蔵の「高松新井戸水元並水掛絵図」(絵図15)がります。これは文政4(1821)年に作られたもので,新井戸から配水する上水道を描いたものです。この絵図にも新湊町や恵比須神社が描かれています。江戸時代末期の『讃岐国名勝図会』にも新湊町の北側に蛙子社が詳しく描かれています。
高松城下町2

以上をまとめると、高松城及び高松城下町は以上のように移り変わってきたようです。
①高松城が築城後,最も変化するのは松平頼重の東の丸築造をはじめとした改築である。
②それまでの生駒藩時代には高松城の東西は浜が広がっていたが、浜を干拓したり,護岸工事を行なった。
③その結果,城下町が東西に拡大し、西は摺鉢谷川、,東は仙場川まで広がった。
④生駒藩時代の城下は高松城の外堀内にも侍屋敷があり、町屋を囲うようにコの字に侍屋敷が配置されいいった。
⑤城下の規模は東西8㎞、南北6㎞であった。
⑥松平高松藩になると城下も拡大し,松平頼重の時代には城下の南西部に侍屋敷が拡大して番丁まで広がった。
⑦しかし、享保年間には御家人が減少したため,城下の南東部の侍屋敷や馬場を縮小した
⑧代わって町屋となったため,外堀の南東は町屋ばかりになり,侍屋敷は南西部に配置された。
⑨南西部の侍屋敷の中でも西端の一部はなくなり,田畑となった,

絵図の紹介をしてきましたが急ぎ足になりすぎたのを少し反省しています。
参考文献
森下友子
   高松城下の絵図と城下の変遷                              香川県埋蔵物研究センター紀要Ⅳ

1高松城寛永16年

生駒時代の高松城のようすを、上の図1から説明すると
城の中央に天守閣があり、その西側に本丸、本丸の北側にニノ丸があり、ニノ丸の東側には三ノ丸があります。ここからは中濠と内濠に囲まれて西ノ丸と三ノ丸があるということが分かります。西ノ丸の下の方の一帯は、現在の「桜の馬場」になります。
 外濠は西の方には「西浜舟入」、東の方には[京浜舟入]と記されています。ここが前回にもお話しした船場になります。軍港としての役割もあったのではないかと私は考えています。
 この船場から南の方に下がって東西に走っているのが外濠です。この中濠と外濠に囲まれたところが、侍屋敷になります。その侍屋敷の南の中央辺りに、今の「三越」は位置しているようです。
 城への門は、中濠の南にかかっている橋が城への出入口で、大手門になります。外濠のあったところは、今では片原町から兵庫町、そして西の突き当たりが広場として残っています。
 城下町は、外濠から南の方に広がっていて、この地図にも当時の地名が書き込まれていますが、今の高松の商店街に残っている町名と殆ど同じです。例えば、片原町・兵庫町・丸亀町・塩屋町・新町・百聞町・通町・大工町・鍛冶屋町などです。当時のメーンストリートは、丸亀町から南新町へと南に進み、後に田町が発展して藤塚へと延びていくことになるようです。
1高松城 生駒時代屋敷割り図
生駒時代屋敷割図
                   
生駒騒動と生駒氏の改易
 秀吉によって讃岐一国を与えられた生駒氏によって、讃岐の近世は始まります。生駒氏は引田 → 聖通寺山と拠点を移し、高松に本格的なお城が築かれ、その南に城下町が形成されていくことになります。生駒氏は約五〇年間にわたって領主として支配し、讃岐に落ち着きを取り戻す善政を行ったと評価されています。
 ところが寛永十四年七月に国家老生駒帯刀が、生駒藩江戸家老前野助左衛門らを幕府に訴えたことから、「生駒騒動」が始まります。そして、寛永十七年五月に、「生駒藩内の家中立ち退き」が幕府で問題になります。生駒藩の家来が、国家老派と江戸家老派の二つに分かれ、江戸家老派に与した藩士が、讃岐からも江戸藩邸からも集団脱走して、大坂に集結するという大事件が起こりました。なぜ、そのようなことになったのか、ということについてはよくわかっていないようです。当然、家臣たちが藩邸を脱走すれば、藩が潰れるということは分かっているはずなのに、なぜ家臣たちが立退いたのか?当然、職場放棄し「脱走」した彼らも後に処分されます、この事件の原因については、諸説あって今後の課題のようです。

Ikoma_Takatoshi
生駒高俊
 この事件は、幕府の老中たちによって裁かれて、藩主の責任だということで、讃岐を取り上げられてしまいます。そして生駒高俊は、温暖な讃岐から秋田県の雪深い矢島へ移されてしまいます。矢島は、冬は2メートルも雪の積もる鳥海山の麓で、冬はスキーで賑わう小じんまりした町です。

1Matsudaira_Yorishige
松平頼重
 松平頼重による高松藩の基礎作り
 生駒氏が去った後、寛永十九年二月に松平頼重が高松藩主となります。この時に、讃岐は西の丸亀藩五万石余と高松藩11万石の二つに分けられます。ほぼ土器川から東の方の高松藩の政治体制・領内支配体制を作り上げていくのが松平頼重です。
 ちなみに、この人は水戸黄門のお兄さんになります。本来ならこの人が、水戸藩主になるべき人でした。一説には、頼重が生まれたときには、父の水戸藩主徳川頼房は、お兄さんたちに子供がなかったということで、頼重を世継として幕府に届けるのをためらった。そして、頼重を家臣に育てさせたと伝えられます。
 その六年後に弟の光圀が生まれました。その時には、お兄さんたちにも子供が生まれていたということで、頼房は光圀を世継として幕府に届けたといいます。こんな不遇な回り合わせにあった頼重は、やがてそのことが幕府に知れ、将軍徳川家光の耳にも入り、寛永十五年に下館藩(しもだて栃木県)の五万石の大名となります。そして四年後に高松城に入ることになります。このように高松藩は水戸家の分家的な存在で、幕府に非常に近く家門(親藩)という立場にある藩だったようです。
 城下上水道と溜池
 頼重が高松藩に入ってからの業績は、最後につけた年表にあるように、先ず城下に上水道を敷きます。上水道としては、全国的にみてそう古いものではありません。ただ、地下水を飲料水として使用したのは、全国初ということで注目されています。井戸としては次の三つが使われました。
「大井戸」現在でも瓦町の近くに大井戸というのが、規模を小さくして復元されて残っています。物が投げ込まれたりしていますが高松市の史跡です。
「亀井戸」亀井の井戸と呼ばれていたものです。五番丁の交差点の少し東の小さな路地があり、それを左に入ると亀井の井戸の跡があります。現在埋まっていますが、発掘調査をすればきっとその跡が出てくると思います。
「今井戸」ビルの谷間にほんとうに小さな祠が残っていて、鍛冶屋町付近の中央寄りの所で、普通に歩いていると見過ごしてしまうような路地の奥に、「水神社」の祠があります。この3つの井戸から、高松城下に飲料水としての井戸水を引いています。
 翌年の正保二年は、大旱魅で新らしく溜池を406を築いたといいます。しかし、一度に築いたものではなく、恐らく頼重の時代に築いたものが406で、この時にそれをまとめて記したものと研究者は考えているようです。どちらにしても生駒氏時代に西島八兵衛が溜池を築いたと同じように、頼重の時代に入っても溜池の築造が続いていたことがうかがわれます。
 高松城石垣の修築と検地
 正保三年には、高松城石垣の修築に着手しています。
この時期の高松城の様子を幕府が派遣した隠密が記録した「讃岐探索書」が残っています。
その中に、石垣が崩れているとか、土塀が壊れたりしていると書かれていて、当時の高松城は相当いたんでいたようです。生駒藩は、「生駒騒動」のごたごたで城の手入れも充分できていなかったのかもしれません。年表の寛文五年に、城下周辺から検地を始め、寛文十一年に終わるとあります。
 領主にとって検地は領地経営の根本に関わる重要事業です。
頼重も六年間かかって領内の検地をやり終えています。高松藩では、これ以後検地は行われていません。この検地によって、高松藩における年貢取り立てのための農民支配体制が、ほぼ出来上がったと考えることができます。
1高松城 松平頼重普請HPTIMAGE
いよいよ寛文十一年九月に高松城普請が始まります。
この工事の結果、できた高松城が図2です。
 普請前の生駒時代の違いについて、見ておきましょう
 一つは、生駒時代は東側の中濠は侍屋敷に沿っているだけでした。ところが普請後は、中濠が途中で東に分かれ下横町にぶつかってから北に進んでいます。この結果、中堀まで船が入ってこられる構造になっています。
 二つ目は、普請前は海に面した北の方は「捨石」と記されているように、石を捨てただけの簡単な石垣だったようです。ところが、普請後には、しっかりとした石垣もでき、爪か彫とか対手御門が新しくできています。
 三つ目として、普請前の城内への入り口である大手門が、普請後には橋がとりはらわれていて、右の方のが鼓櫓の横の濠の上に橋がかかっています。現在も、ここにある旭橋から城内に入ります。そして四つ目は北の方の一部に海を取り込んで北ノ丸を新しく造成し、さらに、東の方では侍屋敷と町屋を二つに分割して、新しく濠を設けて東ノ丸をつくり、もともとは城外であったところを城内に取り込んでいます。
 高松城普請は単なる城の修理ではなく、城の拡大であったということです。これ以後の高松城の姿は明治維新まで変わらなかったようです。
 
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この城下の屏風は、高松城だけでなく城下町の様子まで描かれています。そのため城の様子や城下町の様子がとてもよくわかります。人々がどんなものを運んでいるのか、どんなものを着ているのかなど、細かく描かれています。そういう意味で、この屏風は当時の人たちの風俗などが、よく分かる大変貴重な資料と評価が高いようです。

1 高松城p51g

その後の高松城はどうなったかのでしょうか
図2の東ノ丸の米蔵丸のところには、現在は県民ホール(レグザム)が建っています。それから米蔵丸の半分から下の作事丸にかけて、県立ミュージアムがあり、その南には城内中学校がありました。城の中にいろいろな建物が建つことは、高松城は国史跡であり、文化財保護の立場から考えると、問題だという意見もあるようです。
 また、本丸の石垣のすぐ横の内濠の部分が築港駅のホームになっています。さらに西ノ丸の一部が中央通りにかかり、生駒時代の大手門の跡の近くの西の中濠が埋め立てられて現在電車が走っています。東ノ丸の東側の濠は、フェリー通りになっています。
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 明治以後、高松は港町として発展してきましたが、この城の辺りが港町として発展していくさいにお城の敷地が切り取られていった歴史があります。21世紀になって、この国にも心の余裕ができたようで、文化的な面にも目を向けていこうという時代になってきました。昔のままの高松城を復元するのは無理でも、少しでも昔の姿に、戻そうとする動きが出てきています。
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 昔の高松城は、海に接して石垣のある海城で、瀬戸内海からは海辺に石垣の見えるすばらしい城だったと思います。今では、石垣の北を埋め立てて道路になって、石垣が海に洗われる姿を見ることはできません。しかし、行政は石垣と道路の間の建物を撤去して散歩道をつくり、石垣の北を少し掘って海水を入れて濠のようにして、昔の高松城の姿に少しでも近づけようとしているようです。岡山行きのフェリーが廃止になった跡の利用にも期待したいと思っています。
1 高松城 教科書.明治34年 - 新日本古地図学会
参考文献
  木原 高松城と松平頼重
(『高松市教育文化研究所研究紀要』四五号。1994年)
          「高松城と松平頼重」関係年表
天正12年(1582)6月 本能寺の変
天正12年(1584)6月頃長宗我部元親、讃岐十河城を攻略する
天正13年(1585)春 長宗我部元親、四国を平定する。
   4月 豊臣秀吉、長宗我部元親攻撃を決定する。
   7月 豊臣秀吉、四国攻撃軍と長宗我部軍との和議を命令
   8月 千石秀久、豊臣秀吉より讃岐国を与えられる。
天正14年(1586)12月 豊臣秀吉、千石秀久より讃岐国を没収
天正15年(1587)8月生駒親正、豊臣秀吉より讃岐国を与えられる。
天正16年(1588) 春 生駒親正、高松城築城に着手
慶長2年(1597)春 生駒親正、丸亀城を築く。        
     生駒藩、この頃から同7年頃にかけて領内検地実施
慶長5年(1600)9月  関ヶ原の戦い。
慶長6年(160U 5月 生駒一正、徳川家康から讃岐国を安堵
慶長19年(1614)10月 大坂の陣始まる。
寛永4年(1627)8月  幕府隠密、讃岐を探索する。
寛永8年(1631)2月  西島八兵衛、満濃池を築造する。
寛永14年(1637)7月  生駒帯刀、幕府老中土井利勝らへ訴状衛出・生駒騒動の始まり)
寛永17年(1640)7月 生駒高悛、「生駒騒動」で讃岐国没収 
            羽国矢島1万石に移封。 
寛永18年(1641)9月山崎家治、西讃岐5万石余を与えられ丸亀城に拠る 
寛永19年(1642)2月  松平頼重、東讃岐12万石を与えられ高松城に拠る
正保 元年(1644) 高松城下に上水道を敷設する。
正保2年(1645) 讃岐大干ばつ
正保3年(1646)6月  高松城石垣の修築に着手する。
明暦3年(1657)3月  丸亀藩山崎家断絶する。       
万治元年(1658)2月  京極高和が山崎家領を継ぐ  i
万治3年(1660)この年丸亀藩、幕府より丸亀城普請を許される       
寛文5年(1665)この年 高松藩、城下周辺より検地を始め11年に完了する。これを「亥ノ内検地」という
寛文9年(1669)5月 高松城天守閣の上棟式が行われる。
翌年8年 造営が成る。
寛文10年(1670)丸亀藩、延宝にかけて検地を行う。
寛文11年(1671)9月  高松城普請が始まる。この年家臣知行米を「四つ成」渡しとする。
延宝元年(1673)2月高松藩主松平頼重、病により隠退する。
延宝2年(1674)9月 米蔵丸・作事丸(東ノ丸)が完成する。
延宝4年(1676)3月 月見櫓の棟上げが行われる。北ノ丸完成か
延宝5年(1677)5月 艮櫓が完成する。
元禄8年(1695)4月  松平頼重、死去

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