柞田町は観音寺市街の南側にあった町名です。古代の『和名抄』の刈田郡の中にあった柞田郷が荘園になった歴史を持ちます。そのために境界ラインが条里制を使って区分けされたようで、いまでも真っ直ぐなところが多いのが地図を見ると分かります。また、柞田郷全体が荘園化され柞田荘になったと研究者は考えているようです。
なお『和名抄』に見える刈田郡の6郡とは次の通りです。
①山本郷は三豊市山本町山本②紀伊郷は観音寺市木之郷町③柞田郷は同市柞田町④坂本郷は同市坂本町⑤高屋郷は同市高屋町⑥姫江郷は旧大野原町中姫および旧豊浜町姫浜
2 讃岐国柞田荘は、いつ、だれによって立荘されたの?
建長8 年(1256)8 月29日の日吉社領讃岐国四至膀示注文(『続左丞抄』所収文書)に
「去る三月十四日 宣旨により、国使を引率し、四至を堺し、膀示を打ちおわんぬ。」
3 日吉神社の荘園にされるいきさつは?
鎌倉時代末期の元応元年(1319)10月、日吉社領の由来と領主を書き上げた「日吉山工新記」(『続群書類従』に
「讃岐国柞田庄 二宮十禅師大行事長日御供。十禅師不断経二季大般若料所。後嵯峨院御寄付。」
とあります。この史料からは、柞田荘の領有を巡って争いがあり、最終的に後嵯峨上皇より日吉社へ寄付され、建長8 年3 月14 日の宣旨により立荘が公認されたようです。
ところが、現実はもっと複雑です。実は、九条家の文書の中にも
「朴(柞)田庄 日吉申日御供に寄せらる」
とあるのです。讃岐国内には、「朴田」という地名は、他にはないので「柞田」の誤記と考えられます。とすると、後嵯峨上皇による日吉社への寄付以前に、柞田荘は九条道家より同社へ寄進されていたことになります。 承久の乱後の朝政を主導した九条道家は、当時の讃岐国の知行国主でもありました。彼が讃岐の知行国主であったのは寛喜元年(1229)より建長4 年(1252)に死去するまでの間で、その間に、興福寺領寒川郡神崎荘、石清水社領三野郡本山荘などの荘園を寄進・立荘しています。彼は、四条天皇の外祖父、鎌倉将軍頼経の父という立場で権勢を誇りますが、最終的には執権北条氏に幕府転覆の嫌疑を掛けられ失脚します。道家死去の翌年建長5年の正月、讃岐国は後嵯峨上皇の院分国とされました。このような情勢を見ると、九条道家による柞田荘の寄進・立荘は宣旨を得るなど正式な手続きを経たものではなく、知行国主としての私的なものであったと研究者は考えているようです。
道家の死後、日吉社より後嵯峨上皇に対し、柞田荘の社領としての存続が申請されます。そして、あらためて正式に寄進・立荘の手続きが取られたようです。
4 荘園化の作業のためにどんな人がやってきたの?
柞田荘の立荘が認可されると、今度は立券・荘号のための作業が行われます。そのために、日吉社の社家(社務の執行者)の使者が、太政官の担当事務官等とともに讃岐の国府にやってきます。南海道を陸路やって来たのか、瀬戸内海を海路で坂出の松山・林田港国府へやってきたのか興味がわきますが、それを明らかにする史料はありません。彼らは、地元の国府の在庁官人をお供にして現地へ向かい、収納使・惣追捕使・図師などを指揮して、立荘予定地の検地を行なったようです。
こうした検地によって作られたのが「日吉社領讃岐国柞田庄四至膀示注文」(「続左丞抄』所収文書)と「実検田畠在家目録」になるようです。この2点の文書と添えられた「指図」(柞田荘の絵図)にもとづいて、柞田荘の立券・荘号を認可する手続きが取られました。
5 どのようにして柞田荘の境界線がひかれたの?
「日吉社領讃岐国柞田庄四至膀示注文」を見てみましょう
注進言上す、日吉社領讃岐国柞田庄四至を堺し、膀示を打つこと。一、四至東は限る、紀伊郷堺。苅田河以北は紀伊郷堺。以南は姫江庄堺。南は限る、姫江庄堺西は限る、大海。海面は伊吹島を限る。北は限る、坂本郷堺。両方とも田地なり。その堺東西行くの畷まさにこれを通す。膀示四本一本 艮角、五条七里一坪。紀伊郷ならびに本郷・坂本郷・当庄四の辻これを打つ一本 巽角、井下村。東南は姫江庄堺。その堺路の巽角これを打つ。路は当庄内なり。一本 坤角、浜上これを打つ。海面は伊吹島を限る。南は姫江庄内埴穴堺。北は当庄園生村堺。一本 乾角、海面は参里を限る。北は坂本郷。南は当庄。鈎洲浜上これを打つ。ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を紀(記)しこれを打つ。田畠以下取張(帳)目録一通。一、 右、去る三月十四日引率し、四至を堺し、膀示を打ちおわんぬ。よって注進言上くだんのごとし。建長八年八月二十九日 国使散位布師散位藤原「朝臣資員」(裏花押)散位藤原「朝臣長知」(裏花押)官使右史生中原「久景」社家
四至(シイシ)と読みます。東西南北の境界です。
膀示四本(ボウジヨンホン)と読みます。現在もあちこちにボウジという地名が残っています。榜示は境界標識です。これを4本打った場所が記されています。
地図に示すと次のようになるようです。
6 最後に花押(サイン)しているのは、どんな人?
一番最後に「散位藤原朝臣資員」の名前と裏花押があります。ここだけ筆跡が違います。本人のサインです。その下の花押は裏側に書かれています。この藤原資員というのは讃岐の国の役人です。この人は綾氏系図の中に、新居氏として名前があるそうです、讃岐藤原氏は、古代豪族綾氏の系譜をひく一族が中世に武士化して讃岐藤原氏を名乗るようになったと云われます。讃岐では一番勢力のあった武士団ですが、その中に新居氏がいて、国分寺町の新居に地名が残っています。そこにいた豪族です。つまり、讃岐藤原氏の在庁官人が柞田に出向いて立ち会い、サインしているということになるようです。
一番最後に「散位藤原朝臣資員」の名前と裏花押があります。ここだけ筆跡が違います。本人のサインです。その下の花押は裏側に書かれています。この藤原資員というのは讃岐の国の役人です。この人は綾氏系図の中に、新居氏として名前があるそうです、讃岐藤原氏は、古代豪族綾氏の系譜をひく一族が中世に武士化して讃岐藤原氏を名乗るようになったと云われます。讃岐では一番勢力のあった武士団ですが、その中に新居氏がいて、国分寺町の新居に地名が残っています。そこにいた豪族です。つまり、讃岐藤原氏の在庁官人が柞田に出向いて立ち会い、サインしているということになるようです。
その下に散位藤原朝臣長知という名前もあります。
ここも本人のサインがあります。こちらも同じく綾氏系図に載っている人物で、羽床氏になります。綾川中流の滝宮から羽床に架けて勢力を張っていた武士団で羽床城が拠点でした。その羽床氏の先祖になるようです。新居氏も羽床氏も在庁官人として国府に務めながら武士団を形成していたようです。彼らは荘園を立てるときも讃岐の国の役人として出張し、これで間違いがないと二人がサインをしています。
国府のある讃岐府中から観音寺の祚田までは、南海道を馬を飛ばしてやってきたのでしょうか。この時期には、帯刀していたのでしょうか。いろいろな疑問が沸きますが、それに答える史料はありません。
下から二番目の「官使右史生中原久景」が京都からやって来た中央官僚になります。そして比叡山日吉神社からも役人がやって来て立ち会っています。一番最後に「社家」というのが見えます。日吉大社は比叡山の守護神ですので、神仏習合のもとでは比叡山の僧侶が管理しています。つまり柞田荘は比叡山の管理下に置かれたということになるのでしょう。やってきた「社家」は僧侶であったのではないかと私は考えています
この境界線の確定作業につづいて、検地を行います。その際に、建長四年の検地による確定面積が借用されて使われたようです。それらを集計して土地台帳に当たる田畠在家目録が作成されます。
同実検田畠在家目録(朱)「この一紙各々破損す。」(注進す)建長八年田畠・(在)家・網代・荒野等目録)(合)一、作田百二十三町二段百二十歩 去る建長四年匚一、作畠四十二町二段百七十歩在家五十宇 上八宇 中六宇 下十七宇 下々十九宇 網代寄庭二所一所九町余り。一所五町余り。荒野百余町 林野江海池溝淵河などなり。
今回はこのくらいにします。次回に柞田荘の「四至」をもう少し詳しく見ていくことにしましょう。
参考文献 田中健二 日吉社領讃岐国柞田荘の荘域復元