日吉神社が分祠される
有力貴族や神社に荘園化されると、その氏神が分祠されるのが通常です。例えば藤原氏は春日神社を、賀茂神社の社領となった仁尾には賀茂神社が分祠されます。柞田荘は日吉神社の社領となったので、当然日吉(枝)神社がやってくることになります。
『香川県神社誌」には、
「当社は柞田荘が日吉社の社領となったことを契機として分祀された」と記します。編纂当時の氏子は、字下野・八町・油井・大畑・上出在家の390戸とありで、旧柞田村内の神社としては、式内社とみられる山田神社の915戸に次ぐ規模です。荘園化されて以後に荘政所が設けられたとすると、荘園領主である日吉社を分祀した山王の地が候補の第一となると考えるのは当然です。このため
荘政所の一番候補は、荘内の字山王に鎮座する旧村社日枝神社周辺とされてきました。
国道11号から少し入った所に大きな樟が何本も繁った中に立派な社殿があります。となりには延命寺の境内が隣接します。本殿の裏が、お寺の本堂のようになっています。神仏習合時代は、延命寺が別当寺であったのでしょう。それが明治の神仏分離によって引き離された歴史が伝わってきます。
神域の前には大きな広場があり、ここが祭礼の時には何台もの「ちょうさ(太鼓台)」が集まってくるのでしょう。この真ん中にある樟の下に「柞田駅」の道標(説明版)が立てられていました。
柞田駅跡と大きな字では書かれていますが、よく読むと「この付近にも柞田駅があったと伝えられます」と断定はしていません。どこにあったかは分かっていません。
しかし、南海道がどこを通っていたかは、次第に明らかになってきました。かつては「伊予街道=南海道跡説」が称えられていましたが、今では南海道は別のルートであったことが分かってきています。太点線が南海道推定ルートになります。高速道路よりもまだ東になります。
次の候補は「公文明」という小字名です。
これは、日枝神社の北東で柞田川の北側になります。南海道には近い場所です。『香川県神社誌』には、字公文明には、荒魂神社が祀られていたと記します。現在の公文明神社が鎮座する所です。公文名とは、郷や荘などの官人である公文に職分として給付される給田畠からなる名(名田)の呼び名です。ここから、その近辺に公文が住んでいた館があったと研究者は考えているようです。
13世紀の柞田荘で起きた殺人事件から分かることは?
柞田荘が立荘されて約30年後の弘安6年(1283)、柞田荘で殺人事件が起きます。これを朝廷に訴えた文書が残っています(祝部成顕申状(『兼仲卿記』紙背文書)
訴えた人 日吉社の祀官成顕訴えられた人 祀官成顕の兄・成貫罪状 兄成貫が柞田荘の地頭弘家と地頭代政行と「庄家」に乱入し、成顕の代官仏縁法師を斬り殺した
この殺人事件からは次のような事が分かります。
①近江の日吉社の祀官成顕は、代官仏縁法師を派遣して柞田荘を管理させていた②代官仏縁法師は「庄屋」で「業務」を行っていた。庄屋が支配拠点であった③加害者の「弘家」は、柞田荘の地頭。姓は不明。④近江日吉神社から派遣されていた代官と地元の地頭の間での対立があった背景にある
13世紀末には、地元「悪党」の台頭で次第に「正常な経営」ができなくなっていることがうかがえます。
この殺人事件から約60年後のち、南北朝時代の貞和4年(1348)5 月27 日の讃岐守護細川顕氏遵行状には、柞田荘地頭の名前が記されています。そこには
岩田五郎頼国・同兵庫顕国
とあります。また嘉慶元年(1387)11月26日の細川頼有譲状(細川家文書)に
「くにたのちとうしき ゆわたのそうりやうふん」(柞田の地頭職岩田の惣領分)
という地頭の名前が見えます。殺人事件で訴えられた「地頭弘家と地頭代政行」も、この岩田氏の先祖になる人物かもしれません。
どちらにしても、14世紀には柞田荘の地頭職を岩田氏が世襲するようになり「押領」が行われ、日吉神社の柞田荘経営は困難になっていったと研究者は考えているようです。
殺人現場の「庄屋」は、柞田荘の「現地支配機関」の荘所・荘政所?
それでは殺人事件の現場となった「庄屋」は、どこにあったのでしょうか?それが先ほど第2候補に挙げた公文明神社です。ここは地図で見ると分かるように、南海道より1〜2坪の近い距離です。南海道と柞田川右岸に沿うことから、柞田駅はここにあったと考える研究者もいます。そして、柞田駅の建物が荘所に転用されたします。立荘後に、すでにあった屋敷を荘政所として使っていたという推察です。このためここが第2候補になるようです。
ただ次のような問題が残ります。
柞田荘の東側の境界線がほぼ南海道と重なるのに「大路」・「作道」・「大道」などの表記はまったく残っていないことです。たとえば康治2年(1143)8 月19日の太政官牒案(安楽寿院古文書)には、寒川郡富田荘の四至に
「西は限る、石田郷内東寄り艮角、西船木河ならびに石崎南大路南」
弘長3 年(1263)12月日の讃岐国留守所下文写(善通寺文書)には、多度郡生野郷内善通寺領の四至に
「東は限る、善通寺南大門作道通り」、「北は限る、善通寺領五嶽山南麓大道」と、
南海道らしき道が出てきます。
しかし、柞田荘では巽の膀示を打った地点で、単に「道」とのみ書かれているだけです。つまり、南海道と見られる道が 柞田荘内に取り込められているのです。南海道が活発に利用されていたのなら、荘園に取り込まれることはなかったはずです。前回に柞田荘の東側の境界が推定南海道のルートであることを見てきましたが、実際には「南海道」をイメージさせる用語は出てきません。「紀伊郷界」などとしか記されていないようです。
これは何を意味するのでしょうか。
①現南海道推定ルートが間違っている②南海道の主要機能は、この頃にはほかのルートへ移動していた
というところでしょうか。
南海道は多度・三野両郡境を大日峠で越えていますが、鎌倉時代末期以降、それとは別に両郡境を鳥坂峠で越える「伊予大道」が重要度を増したようです。そして、伊予大道が幹線道路として用いられるようになったことが考えられます。
確かに母神山の西側の南海道推定ルートを辿ってみると、舌状に張り出した丘をいくつも越えていかなければならず高低差があったことが分かります。それに比べて、現国道11号に隣接して伸びる伊予街道は平坦です。利用者にとっては、伊予大道の方が数段便利だったと思います。直線をあくまで重視した南海道は、利用者の立場に立たない官道で、中世には使われなくなった部分がでてきていたようです。
以上、柞田荘全体をまとめておくと以上のようになります。
①柞田荘の荘域は、中世的郷である柞田郷の郷域を受け継いだものである
②そのため耕地だけでなく燧灘の漁業権までも含みこんでいた。
③周辺の郷・荘との境界線は、郷界線がそのままつかわれている
④境界は、条里施行地域においては、里界線や官道が用いられている
⑤条里制外で、南方の姫江庄と接する地域においては別の基準線が用いられていた。
⑥柞田郷は、柞田荘の立荘で消滅し、その領域支配は柞田荘に引き継がれた。
⑤柞田荘の拠点である庄家(荘政所)は、「伊予大道」に面した日枝神社の近くの「山王」にあった。
⑥13世紀には南海道はすでに「廃道」状態になっていて、柞田荘に取り込まれている。
⑦南海道に代わって伊予大道が幹線として利用されるようになっていた。
参考文献
田中健二 日吉社領讃岐国柞田荘の荘域復元