前回に続いて龍谷大学図書館蔵の「讃岐國諸記」(写本41冊)を見ていくことにします。この書は西本願寺と讃岐国内の真宗末寺との間の往復書簡を年代順に写し取ったものです。41冊の内の6冊には、裏に「長御殿(ながごてん)」とあります。これは、西本願寺の中枢部、今で言えば総務部に当たる部署になるようです。「長御殿」の六冊は、上下三段に分かれていて、上段には本寺から末寺へ、下段には末寺から本山へ出した書簡が収められています。そしてその内容は、長御殿の配下の財務、庶務、講、免物など、それぞれの係の記録を整理したもので、「留役所」のものも、ある事件に関連した幾つかの書簡を一か所に集めるという風になっています。いまでいう項目毎にフォルダで整理するスタイルです。その中の嘉永4、5年ごろの書簡の中に、梶原藍水の「讃岐國名勝図会」をめぐる問題が記されています。今回は、それを見ていくことにします。テキストは 「松原秀明 資料紹介「讃岐國諸記」について 香川の歴史2号 1982年」です。
「讃岐国名勝図会」(嘉永7年(1854)刊行)
嘉永4、5(1851)年ごろと云えば、梶原藍水の「讃岐國名勝図会」が出版される3年前になります。この「図会」の出版経緯については以前にお話ししましたので、ここでは省略します。父の残した資料や原稿を整理しながら、松岡調による挿絵も次々と仕上がり、この頃は原稿が出来上がってきます。そのため印刷に向けた動きが始まります。当時は、讃岐にはこのような書物を出版できる版元はなかったようで、京都の池田鳳卿に出版を頼んでいます。版下の確認・打合せののために、監水もよく上京していたようです。「讃岐国名勝図会 前編第1巻巻頭」(国立公文書館版)
そんな中で、池田鳳卿宅に出入りする西本願寺の用人藤田大学が「讃岐国名勝図会」の版下に目にとめます。中を見ると、記事の中に西本願寺の意に沿わない所があることに気がつきます。そこで上司に報告するとともに、自分の意見を讃岐の梶原藍水に書き送ります。その部分を要約すると、次のように記されています。
①「興正寺末 常光寺」とあるのを「本願寺御門跡御末寺」または「本願寺御門跡御末・興正寺御門跡下寺」とすること②一向宗という呼び名は讃岐ではよく通じる称号かもしれないが、それを「浄上真宗」と改めること
などを版元の池田を通じて梶原藍水と掛け合っています。
京都の西本願寺と興正寺
前回にもお話ししたように、興正寺は真宗寺院として、「雲上明覧」などには本願寺と並ぶ門跡寺として挙げられています。しかし、その本山である西本願寺では興正寺を自分の末寺としか認めず、讃岐国内の興正寺系統の寺々も、すべて西本願寺末だという態度を通します。そのような立場からすると「興正寺末 常光寺」という記述は認めがたいことになります。譲っても「本願寺御門跡御末・興正寺御門跡下寺」でなければならないという立場です。これを書き換えるなら、西本願寺による「一括大量購入」もありうるという話が持ちかけられたようです。今で云うなら出版に関する宗門の介入で、言論の自由に関わる問題になります。しかし、当時は本寺がこのような書物の内容に口出しするのは当たり前だったようです。 これを聞きつけた東本願寺からは、宗号のことは二の次にしても、東西本願寺を同格に書くのならよいが、西が東より尊いという書き方になれば大きい問題になるとの申入れが入ります。さらに興正寺からは「今のままでよいではないか。それなら興正寺末の四千の寺へ一部ずつ買わせるようにする」と言ってきます。
各寺からの申し入れを受けた藍水は、高松藩主や重役から言付けられたことで、自分の考えで書きかえは出来ないと初めは突っぱねます。しかし、西本願寺が末寺への配布のために「一括大量購入」という条件を見せると、書き直しに応じる姿勢を見せます。結局、その後の話し合いがうまくいかずに、記事は改めたものの、本は買ってもらえない結果になってしまったようです。
高松城下の寺町その2(讃岐国名勝図会)
高松城下の寺町その1(讃岐国名勝図会)
各寺からの申し入れを受けた藍水は、高松藩主や重役から言付けられたことで、自分の考えで書きかえは出来ないと初めは突っぱねます。しかし、西本願寺が末寺への配布のために「一括大量購入」という条件を見せると、書き直しに応じる姿勢を見せます。結局、その後の話し合いがうまくいかずに、記事は改めたものの、本は買ってもらえない結果になってしまったようです。
高松城下の寺町その2(讃岐国名勝図会)
以上の経緯からは、次のような事がうかがえます。
①東西本願寺や興正寺の僧侶たちは、寺格や本末関係のささいなことまで気にとめていたこと。
②京都の大寺院は「○○国図会」などを大量購入し、全国の末寺に配布していたこと。つまりこの手の書籍のお得意さんは、京都の大寺院であったこと。
③幕末の讃岐では、大型の書籍を大量に印刷できる版元はおらず、京都の版元に依頼していたこと
④そのため書籍出版の打合せなどのために、知識人が京都を訪れ、相互の情報交換が活発に行われていたこと。これが幕末の各国ごとの図会出版の流れを生んだこと。
讃岐国名勝図会 後編や続編の広告が載せられているが未完
ちなみに讃岐國名勝図会は、前編7巻(大内郡から香川郡まで)だけが1854年に出版されます。その後も梶原藍水は、後編の出版に向けて準備を進め、原稿は出来上がっていきます。しかし、これが出版されることはありませんでした。原稿のまま明治を迎え、彼の死後に受け継いだ息子は、明治政府に原稿を献本しています。それが鎌田博物館に保存されていることは、以前にお話ししました。
ちなみに讃岐國名勝図会は、前編7巻(大内郡から香川郡まで)だけが1854年に出版されます。その後も梶原藍水は、後編の出版に向けて準備を進め、原稿は出来上がっていきます。しかし、これが出版されることはありませんでした。原稿のまま明治を迎え、彼の死後に受け継いだ息子は、明治政府に原稿を献本しています。それが鎌田博物館に保存されていることは、以前にお話ししました。
讃岐国名勝図会後編の推薦文 安政4年となっている
どうして原稿が出来上がっていたのに出版できなかったのか。
ひとつ推測できるのは資金難です。前編を出版し、その売上金を資金に後編を出版しようとしていたと思われますが、それが回収できなかったことが推測できます。大量購入先と思っていた西本願寺との交渉が行き詰まったことは先に述べました。それなら興正寺が買ってくれたのでしょうか、これもよくわかりません。讃岐国名勝図会は、各資料を参考にした考証的な性格で、挿絵も松岡調による緻密なもので後世の評価は高いものがあります。しかし、採算的ベーズには乗らなかったのかもしれません。それが、前編だけの出版に終わった原因としておきましょう。
高松の岩瀬尾八幡
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「松原秀明 資料紹介「讃岐國諸記」について 香川の歴史2号 1982年」
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