知人から「琴平の山城」という冊子が送られてきました。
定年退職後に、讃岐の山城を歩いて調査して、それを何冊も自費出版し続けています。開いてみると最初に登場したのは櫛梨城でした。
私も最近、善通寺中興の祖・宥範の生誕地である琴平町櫛梨についてアップしたばかりでしたので、なんか嬉しくなりました。そこで、今回はこの冊子に引かれて櫛梨城跡を訪ねて見ます。
櫛梨城は如意山の西に続く尾根上に築かれています。この山は丸亀平野のど真ん中に位置しますので、ここを制した者が丸亀平野を制するとも云える戦略的な意味を持つ位置になります。
定年退職後に、讃岐の山城を歩いて調査して、それを何冊も自費出版し続けています。開いてみると最初に登場したのは櫛梨城でした。
私も最近、善通寺中興の祖・宥範の生誕地である琴平町櫛梨についてアップしたばかりでしたので、なんか嬉しくなりました。そこで、今回はこの冊子に引かれて櫛梨城跡を訪ねて見ます。
櫛梨周辺図(「琴平町の山城」より)
櫛梨城は如意山の西に続く尾根上に築かれています。この山は丸亀平野のど真ん中に位置しますので、ここを制した者が丸亀平野を制するとも云える戦略的な意味を持つ位置になります。
櫛梨神社への参道と、その上にある櫛梨城跡
櫛梨は銅鐸・平形銅剣が捧げられ、式内社の櫛梨神社が鎮座することから分かるように、早くから開発が進み諸勢力を養ってきた地域です。中世には、櫛梨は宥範を出した岩崎氏の勢力下にあり、彼の生誕地ともされています。戦国時代には、この山に山城が築かれていたようですがそれが岩崎氏のものであったかどうかは分かりません。
三野の秋山家文書には、応仁の乱後に櫛梨山周辺での戦闘があり、秋山氏の戦功に対して、天霧城主の香川氏から報償文書が出されています。丸亀平野に侵入しようとする阿波三好勢力と、香川氏の間に小競り合いが繰り返されていたことうかがえます。
それから約百年後に、毛利軍が守る櫛梨城を取り囲んだ三好軍のほとんどは、讃岐武士団でした。その中には西長尾城主の長尾氏もいました。長尾氏が目論む丸亀平野北部への勢力拡大のためには、香川氏との争いは避けては通れないものだったはずです。これ以前にも、長尾氏は堀江津方面に侵入し、香川氏への挑発行為を繰り返していたことが道隆寺文書などからは見えます。
それから約百年後に、毛利軍が守る櫛梨城を取り囲んだ三好軍のほとんどは、讃岐武士団でした。その中には西長尾城主の長尾氏もいました。長尾氏が目論む丸亀平野北部への勢力拡大のためには、香川氏との争いは避けては通れないものだったはずです。これ以前にも、長尾氏は堀江津方面に侵入し、香川氏への挑発行為を繰り返していたことが道隆寺文書などからは見えます。
どちらにしても元吉合戦が始まる前には、この城には毛利氏の部隊が駐屯し、山城の普請改修をおこなっていたようです。その経過については、以前にお話ししましたので、要点だけを羅列します。
毛利氏は石山本願寺支援のための備讃瀬戸ルート確保が戦略として求められます。そのためにも讃岐を押さえておく必要性が高まり、櫛梨城を調略し、改修普請を行います。これに対して、織田信長の要望を受けた三好勢力は、配下の讃岐惣国衆を動員し、櫛梨城を攻めました。これが1577年の元吉合戦です。
麓には式内社の櫛梨神社が鎮座します。明治になって合祀した周辺の祠が集められきちんと祀られています。この神社にも神櫛王(讃留霊王)伝説が伝わっています。しかし、社伝ではなく善通寺中興の祖=宥範の伝記の中に記されているものです。中世以後に、語られるようになったものであることは以前にお話ししました。
神社に参拝し、拝殿の東側から整備された遊歩道を登ります。遊歩道は頂上に向かって直登するのではなく、トラバースした道でなだらかな勾配です。10分ほどで①尾根上に立つことができました。
ここからは、西への展望が開けます。毛利の援軍が陣を敷いたという摺臼山が、金倉川を越えて指呼の間に望めます。
毛利援軍が陣取ったという摺臼山、その向こうには善通寺の五岳
ここからは、西への展望が開けます。毛利の援軍が陣を敷いたという摺臼山が、金倉川を越えて指呼の間に望めます。
毛利軍の冷泉元満らが送った勝利報告書には次のようにあります。
急いで注進致します。 一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000程です。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。ここは要害で軍を置くには最適な所です。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた警固衆は山を下り、河縁に出ると河を渡り、一気に敵に襲いかかりました。敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
ここからは、元吉城に攻めかかっている三好軍の背後を毛利援軍が襲ったようです。そうだとすると三好軍は、摺臼山に陣取る毛利軍を背後にしながら元吉城の攻撃を始めたようです。敵を背後にしながら攻城戦をおこなうのかな?と疑問に思いながら緩やかで広い稜線を東に歩いて行きます。そうすると木橋と階段が見えてきました。ここが縄張り図Aの位置になるようです。
竪堀にかかる木橋
ここで縄張り図について、専門家の説明を聞いておきましょう。
(東部分の)曲輪Ⅱは低い土塁で囲み北側に虎口を開く。Iとの段差は小さい。Iへは北西部で虎口より上り、南側隅は緩い斜面で下の曲輪へ通ずるが虎口かどうかはっきりしない。この曲輪は土塁に囲まれ両側に虎口を有するので大型の枡形といえる。曲輪は幅4~8mでI・Ⅱを完全に取り囲む。Iとの段差は3m前後と高い。南側中央には虎口状の小さな凹みがあり山道が下る。東端は低いが土塁となっている。曲輪IVは頂部を半周し、西側には一部土塁が残り土橋状地形もある。曲輪IVの南西隅から緩やかに下ると小さな平場があり、直下には幅6m前後の堀切Aがあり、両側へ竪堀となって数十m落ちる。堀切西側には平坦地がありここと上の小さな平場には木橋がかかっていたのかも知れない。
南西尾根先端には出曲輪Vがある。尾根は緩やかに下るが途中両側に土塁があり、先端に性格不明の凹みがある。V南直下には曲輪があり、その下は採石場により崖となる。現在神社よりここまで立派な道が作られている。
木橋がかかる所は「堀切A」で「両側へ竪堀となって数十m落ちる。堀切西側には平坦地がありここと上の小さな平場には木橋がかかっていたのかも知れない」とあります。報告書通りに、木橋がありました。そして木橋の両側には竪堀があり、下におちています。
山城としては、なかなか遺構が良く残っています。木橋を渡って整備された急な階段を登っていくと曲輪Ⅳを経てⅠへたどり着きます。ここが頂上ですが、まず感じるのは、その広さと大きさです。
平成7年の試掘調査では、主郭中央で柱穴が見つかっているようです。さらに、主郭と堀切Aの間で地山を削り出した上に盛り土を行った3段の帯曲輪を確認し、そこからは土器片や火炎を受けた石材が多数出土したようです。
休息所のベンチに腰を下ろして、報告書を読みながら改めて、南に広がる景観を楽しみます。
琴平やまんのう町の丸亀平野南部の平野が南に伸びます。その向こうには低く連なる讃岐山脈。木が茂っているので、東の西長尾城は見えません。しかし、西長尾城を睨むには最適の要地です。長尾氏に取ってみれば、ここを押さえられたのでは、丸亀平野の北部に勢力を伸ばすことは難しかったでしょう。何が何でも欲しかった要地でしょう。
琴平やまんのう町の丸亀平野南部の平野が南に伸びます。その向こうには低く連なる讃岐山脈。木が茂っているので、東の西長尾城は見えません。しかし、西長尾城を睨むには最適の要地です。長尾氏に取ってみれば、ここを押さえられたのでは、丸亀平野の北部に勢力を伸ばすことは難しかったでしょう。何が何でも欲しかった要地でしょう。
クヌギの大きな木の枝にブランコが懸けられています。
洒落たおもてなしに感謝しながらブランコに座って丸亀平野の北を見回します。讃岐富士や青野山の向こうには備讃瀬戸が広がります。北西部には、多度津の桃陵公園が見えます。ここには香川氏の居館があったとされます。眼下には与北山と如意山の谷間に堤を築いて作られた買田池の水面が輝いていました。この櫛梨城を制した毛利氏が、備讃瀬戸の南を通る海上ルートを確保できたことを実感します。
洒落たおもてなしに感謝しながらブランコに座って丸亀平野の北を見回します。讃岐富士や青野山の向こうには備讃瀬戸が広がります。北西部には、多度津の桃陵公園が見えます。ここには香川氏の居館があったとされます。眼下には与北山と如意山の谷間に堤を築いて作られた買田池の水面が輝いていました。この櫛梨城を制した毛利氏が、備讃瀬戸の南を通る海上ルートを確保できたことを実感します。
如意山に向かっては、いったん鞍部を東に下りていきます。その前に、報告書で確認です。
曲輪Ⅲの東下には塹壕状の突出を持つ横堀Bがあり北寄りに虎口が開く。この横堀は上の曲輪の切岸を高くしたために出来たと思われるが、北端と南端は上の曲輪とつながる道があり、曲輪Ⅲから横矢も効くので登城路として使用し、突出部は枡形機能を持たせ尾根続きへの防御を強めたものであろう。その下には2重堀切Cがあり竪堀となって両側へ深々と落ちる。C北側にはしっかりした連続竪堀2本(1本はその後の調査で判明のため未描写)を構築している。竪堀の間には上の横堀より道が下る。
確かに鞍部まで下りると竪堀が2本連続して、鞍部を横切っています。これは、今から向かう如意山方面からの攻撃に備えるためのようです。「東方の防御性に備えた縄張り」となっているようです。
しかし、これは毛利氏による修築ではないようです。
櫛梨城は、この後すぐに土佐の長宗我部元親のものになります。信長や秀吉と対立するようになっていた元親は、西長尾城とセットで、この城を丸亀平野の防備拠点としたようです。何千人もの籠城戦を考えていた節もあります。どちらにしても、ここにみえる二重堀切は長宗我部築城法の特徴で、長宗我部氏の存在を示す遺構であると研究者は指摘します。
しかし、これは毛利氏による修築ではないようです。
櫛梨城は、この後すぐに土佐の長宗我部元親のものになります。信長や秀吉と対立するようになっていた元親は、西長尾城とセットで、この城を丸亀平野の防備拠点としたようです。何千人もの籠城戦を考えていた節もあります。どちらにしても、ここにみえる二重堀切は長宗我部築城法の特徴で、長宗我部氏の存在を示す遺構であると研究者は指摘します。
この鞍部からさらに東に伸びる稜線を辿っていくと、石の祠があるピークに着きます。
この祠の前には、こんな「説明版」が置かれていました。
近代には、雨乞い行事がここで行われていたようです。社伝に伝えられる尾野瀬山から運ばれた聖なる火がここで再び灯され、雨乞いが行われたのかも知れません。
さらに、なだらかな歩きやすい稜線を行くと三角点のあるピークに出ました。ここが如意山頂上のようです。櫛梨山に比べると頂上は狭く、山城を築くには不適な印象を受けます。展望もないので早々に、稜線を下ります。
ピンクの誘導テープに従って下りていくと出てきたのは神社の境内でした。グーグルで見ると丸王神社とあります。 どうも如意山を西から東まで縦走したことになったようです。
山を歩きながら考えたこと
ピンクの誘導テープに従って下りていくと出てきたのは神社の境内でした。グーグルで見ると丸王神社とあります。 どうも如意山を西から東まで縦走したことになったようです。
山を歩きながら考えたこと
①天霧城の香川氏が本当に、毛利氏のもとに亡命していたのか②香川氏の讃岐帰国支援とリンクした備讃瀬戸海上覇権確保③そのための毛利水軍衆による櫛梨城防衛=元吉合戦④その後の土佐・長宗我部元親の侵攻と西長尾城や櫛梨城の改修普請
そんなことを頭の中で考えながらの里山歩きは、楽しいものでした。
山城についての著書を送っていただいたYさんに感謝
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山本祐三 琴平町の山城
中世城郭分布調査報告書 香川県教育委員会