瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:櫛無保地頭職

南北朝の動乱が勃発してから10年余り過ぎると、南朝方の勢力はすっかり衰え、戦乱は終結に向かうように見えました。ところがそれが再び活発になり、さらに50年近く戦乱が続くのは、争いの中心が、
南朝と北朝=幕府の政権争いから、守護や在地武士たちの勢力拡大のための争いに移ったからだと研究者は指摘します。

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 観応の擾乱(かんのうのじょうらん)を契機として、守護・在地武士は、ある時は南朝方、ある時は尊氏方、また直義・直冬方と、それぞれ、自分の勢力の維持や拡大に都合のいい方へついて、互いに戦いを続けます。
.観応の擾乱

 薩摩守護の島津貞久が尊氏方についたのも、大隅・日向の支配をめぐって対立していた日向守護畠山直顕が、直義方であったことが大きな要因のようです。これを好機と見て動いたのが讃岐守護細川顕氏です。
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細川顕氏
顕氏は直義方だったので、島津氏が尊氏側に立ったのを見て、櫛無保の島津の代官を討取るか追放するかして、櫛無保を支配下に入れたようです。こうして、島津氏の櫛無保の地頭職は細川氏に奪われます。
尊氏と直義の和睦によっていったんおさまったように見えた観応の擾乱は、まもなく尊氏・義詮と直義の対立があらわになって、再び燃え上がります。

島津家系図
島津家系図 貞久は5代目
 康安二(1362)年6月、薩摩守護の島津貞久は再び幕府に提訴状を提出しています。
その内容の前半2/3は、半済の撤回を繰り返して求めたものです。後半の1/3は、讃岐国櫛無保が中国大将細川頼之に押領されていることを次のように訴えています。
進上 御奉行所  
嶋(島)津上総入道 (貞久)々璽謹言上
(中 略)
 讃岐国櫛無保地頭職は、曾祖父左衛門少尉藤原忠義、去る貞応三年九月七日、勲功の賞と為て拝領せじめ、知行相違無きの処、(頼之)近年中国大将細河典厩押領の条堪え難き次第也、道璽御方に於て数十ケ度の軍功抜群の間、恩賞に預るべきの由言上せしむる上は、争でか本領に於て違乱有るべきや、就中九州合戦最中、軍忠を抽んずる時分也、然らば則ち、彼両条厳密の御沙汰を経られ、御教書に預り、弥忠節を致さんが為め、言上件の如し、
康安二年六月 日              
意訳変換しておくと
讃岐国櫛無保の地頭職は、曽祖父の忠義が勲功の賞として拝領した由緒のある所領である。ところが近年中国大将の細川典厩(頼之)が押領しており許しがたい。私(貞久)は幕府の味方として数十度の合戦に抜群の働きをしてきた。恩賞に預かるべきが当然なのに、どうして本領の櫛無保が押領されてよいであろうか。

将軍義詮はこの訴えを受けて、次のような書状を讃岐守護の細川頼之に送って、押領を止めるよう命じています。
嶋(島)津上総入道々雪申す讃岐国櫛無保地頭職の事、道璽鎮西に於て近日殊に軍忠を抽ずるの処、譜代旧領違乱出来の由、歎き申す所也、不便の事に候歓、相違無きの様計り沙汰せしむべき哉、謹言
十一月二日               (花押)
細河稀駐頭殿             
意訳変換しておくと
嶋(島)津上総入道が訴える讃岐国櫛無保地頭職の件について、島津氏は、鎮西において近頃抜群の軍忠を示したものであるが、譜代の旧領が違乱されていることについて、対処を求めてきた。不便な事でもあるが、相違ないように計り沙汰せよ。
十一月二日              将軍義詮 (花押)
細河稀駐頭(細川頼之)殿 
島津氏は、櫛無保以外にも、下総・河内・信濃などの遠国に所領を持っていたことは前回に見たとおりです。南北朝時代も後半になると、守護や地頭が遠国に持っている所領は、その国の守護や在地の武士たちによって押領されるようになります。島津氏も同様だったと思うのですが、特に讃岐の櫛無保の押領だけを取り上げて幕府に訴え、所領として確保しようとしています。この背景には、櫛無保が島津氏にとって薩摩と畿内を結ぶ中継基地として重要な所領であったことを示している研究者は指摘します。
押領停止の将軍の命が出された頃の讃岐は、どのような状勢だったのでしょうか?
細川氏系図
細川氏系図
  讃岐守護細川顕氏は、頼春の戦死に遅れること四か月余りで病死し、子息の繁氏(しげうじ)があとを継ぎますが、彼も延文四年(1359)六月に急死してしまいます。
『太平記』によると、繁氏は九州で征西軍と戦っていた少弐頼尚を救援するため九州大将に任じられて自分の分国讃岐で兵力を整えていましました。その際に崇徳院御領を秤量料所として取り上げたので、崇徳院の神罰を受けて、もだえ死んだと伝えられます。
  それはともかく繁氏死去の後、しばらく讃岐守護の任命がなく、讃岐の守護支配は一時空白状態になったようです。
一方、京都では、延文三年(1358)4月20日、足利尊氏が没し、義詮が征夷大将軍になります。
義詮は細川清氏(きようじ)を執事に任命します。

細川清氏 - Wikipedia
細川清氏 白峰合戦で敗れる

清氏は頼春の兄和氏の子で、観応の擾乱以来たびたび戦功を挙げ、義詮の信頼を得ていたのです。しかしまもなく佐々木道誉らの有力守護と対立し、謀反の疑いをかけられて若狭に逃れ、その後南朝に帰順します。康安二年(1362)の初め、清氏は阿波に渡り、 そして守護不在となってきた讃岐に入ってきます。讃岐は前代からの顕氏派、頼春派の対立がまだ尾を引いていたようです。そこを狙って、清氏は進出してきたようです。
 『南海通記』によると、清氏はまず三木郡白山の麓に陣を置いて帰服する者を招きます。これに応じたのが山田郡の十河・神内・三谷らの諸氏です。清氏はこれらを傘下に入れて、阿野郡に進み、白峯の麓に高屋城を構えて、ここを拠点とします。
これに対して将軍義詮は、清氏の討伐を細川頼春の遺子頼之に命じます。
細川頼之」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書
細川頼之
頼之は、そのころ中国大将に任ぜられていました。彼は、九州から中国に渡って山陰の山名氏などの援助を得て勢力をふるっていた足利直冬と備中で戦っていました。将軍義詮の命を受けて讃岐に渡り、宇多津に陣を置いて、清氏の軍と対峙します。
 先ほど見た、薩摩守護の島津貞久の櫛無保押領の訴えは、この時に出されたものになります。細川頼之は、阿野郡に拠点を構えた清氏に対抗するために、父頼春の死後ゆるみかけた中・西讃の支配を固め直す必要があると判断したのでしょう。そのための行動の一つが、南朝方に帰属していた島津氏櫛無保の押領し、兵糧米確保や味方する諸将に与えることだったと推測できます。これが島津貞久から訴えられることになったと研究者は考えています。
どこいっきょん? 讃岐での細川頼之さん
白峰合戦
康安二年(1362)7月23日、頼之は高屋城を攻撃して、清氏を敗死させます。これが中世讃岐の合戦は有名な白峯合戦です。那珂郡辺りの武士は、頼之に従ってこの合戦に参加したようです。この時に、清氏に味方した南朝方中院源少将が守っていた西長尾城(満濃町長尾城山)は、庄内半島の海崎城にいた長尾氏に与えられています。櫛無保も同じように戦功のあった者に与えられた可能性があります。
 こうして白峰合戦に勝利した細川頼之を、足利義詮は讃岐守護に任命します。同時に、先に挙げたように書状を送り、守護として責任を持って櫛無保の押領を止めるように命じたのです。この書状を手にした細川頼之は、どのように反応したのでしょうか。
将軍足利義詮の命令通りに、「押領」を停止して櫛無保の守護職を島津氏に返却したのでしょうか。それとも無視したのでしょうか。それを示す史料は残っていないようです。

島津家五代の墓
島津家五代の墓(出水市)
島津貞久は、貞治二(1363)七月二日、九十五歳で戦いに明け暮れた生涯を終えます。
その3ケ月前の4月10日に、薩摩国守護職を師久に、大隅国守護職を氏久に分与します。これによって島津氏は二流に分かれることになります。師久のあとを総州家といい、氏久のあとを奥州家と云います。
島津家五代の墓2

櫛無保は師久への譲状の中に、次のように載せられています。
譲与  師久分
薩摩国守護職
同国薩摩郡地頭職
(中略)
讃岐国櫛無保上下村
公文名并光成
田所
(中略)
右、代々御下文以下證文を相副之、譲り与える所也、譲り漏れの地においては、惣領師久知行すべきの状件の如し
貞治弐年卯月十日     道竪      
しかし、櫛無保の名はこれ以後の島津氏の所領処分目録には見えなくなります。南北朝末期には島津総州家は衰退に向かい、次第に薩摩国内の所領すら維持が困難になるような状態に落ち入っています。讃岐櫛無保の地頭職も島津家の手に還って来ることはなかったようです。

島津貞久の墓
 島津貞久の五輪塔
一方、讃岐国では、白峯合戦に勝利した讃岐守護細川頼之が、領国支配を着々と固めています。
島津家領の櫛無保も、細川頼之の支配下に収まったと見るのが自然です。荘園領主法勝寺の櫛無保支配については、関白近衛道嗣の日記『愚管記』の永和元年(1375)4月11日の条に、法勝寺領櫛無保をめぐって法華堂公文実祐と禅衆とのあいだに相論があったことが記されているので、南北朝末期まで法勝寺の支配が続いていたことがうかがえます。しかし、地頭職をだれが持っていたのかなどについては、他に史料がなくよく分からないようです。

どこいっきょん? 讃岐での細川頼之さん
細川頼之の宇多津守護所
 以上をまとめておくと
①櫛無郷は古代末に、白河天皇が建立した法勝寺の寺領となり、櫛無保が成立した
②鎌倉時代の承久の乱の功績として、薩摩守護の島津氏が櫛無保の地頭職を獲得した。
③以後、島津氏は歴代の棟梁が櫛梨保守護職を引き継いできた
④南北朝混乱期に、南朝方について讃岐守護となった細川顕氏は島津氏の櫛無保を奪った
⑤白峰合戦に勝利して、讃岐守護となった細川頼之も島津氏の櫛無保を押領した。
⑥これに対して、薩摩守護の島津氏は室町幕府に、押領停止を願いでて将軍の停止命令を出させた。
⑦しかし、その将軍の命令が実行された可能性は低い。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献  法勝寺領櫛無保と地頭島津氏 町史ことひらⅠ 119P

讃岐丸亀平野の郷名の
古代の櫛梨郷
   古代の那珂郡櫛無郷は、東が垂水、南が小松、西が生野、北が木徳郷に接して郷の北部に式内神社の櫛梨神社が鎮座し、西側を金倉川が北に流れていきます。
櫛無郷

古代の櫛無郷は現在の次のエリアを併せたものになります。
①上櫛梨(無) 琴平町
②下櫛梨    琴平町
③櫛梨町    善通寺市
櫛梨郷は古代末には櫛梨保となり、中世にはその地頭職を薩摩守護の島津氏が持っていたようです。今回は櫛梨保の成立とその地頭職を島津氏が、どのように相続していたかを見ていくことにします。テキストは「法勝寺領櫛無保と地頭島津氏 町史ことひらⅠ 119P」です。
 櫛梨保が最初に登場する史料は、『経俊卿記(後嵯峨院に仕えた吉田経俊の日記)』の正嘉元年(1257)4月19日の次の記事のようです。
十九日雨降、参院、奏條ヽ事、(中略)
正嘉元年四月十九日源雅言 奉
法勝寺條ヽ
(中 略)
櫛無保年貢事、
仰、於寺用者、地頭抑留不可然之由、先度披仰下了、任彼趣重可被仰遺武家、
(図書寮叢刑)
この日記には、後嵯峨院の評定での記録が記されています。この日の記録には天候は雨で「法勝寺条々」が議せられ、その審議の中に「櫛無保年貢事」が出てきます。ここから櫛無保が京都の法勝寺の寺領だったことが分かります。また、鎌倉時代には、櫛無保の地頭が年貢を送ってこなくなり「抑留」していたことも分かります。この日の院評定で、櫛無保の年貢を抑留している地頭に、幕府に命じて止めさせるよう議定しています。
櫛無保 法勝寺1
法勝寺町バス停 地名として残っている
ここに出てくる法勝寺とは、どんなお寺だったのでしょうか?
法勝寺のあったのは、平安神宮の南側、岡崎一帯で、現在では京都国立近代美術館、京都市美術館、京都会館、京都私立動物園、都メッセなどの文化施設が建ち並ぶエリアです。
法勝寺

この地は、平安時代の後期、白河天皇が建立した寺院が大伽藍を並べる地域でした。その最初は、白河天皇が藤原師実から別荘地を譲り受け、1075年(承保2年)に造営を始めたのが法勝寺です。

法勝寺の説明版
 法勝寺の説明版
 白川天皇は「神威を助くるものは仏法なり。皇図を守るものもまた仏法なり」との考えの下に、仏教を保護して統治する金輪聖王(転輪聖王)にならって法勝寺を建立したと伝えられます。この寺を、慈円は「国王の氏寺」と呼んでいます。それは天皇家の氏寺という意味だけでなく、太政官機構の頂点に位置する「日本国の王の寺院」ということのようです。白河には法勝寺に続いて次々と寺院が作られ、総称して六勝寺と呼ばれるようになります。法勝寺は六勝寺のうち最初にして最大のものでした。法勝寺には、金堂、五大堂、講堂、阿弥陀堂などが建ち並び、約四町という広大な寺域を誇っていました。
法勝寺の塔
①が法勝寺の大塔 ②が東寺五重塔 ③醍醐寺五重塔

1083年(永保3年)なると、高さ約80mという当時の高層建築である八角九重塔が建立されます。ちなみに現存する日本最大の塔は、東寺の五重塔で高さ55mです。

法勝寺八角九重塔 CG復元図

 また、白河には他にも次々と天皇の寺院が作られ、六勝寺(法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺)と総称されました。しかし、文治元年(1185)の大地震で法勝寺の諸堂の大半は倒壊し、八角九重塔もかろうじて倒壊は免れたものの垂木はすべて落ちるという状態でした。1208年には落雷で八角九重塔も焼失し、一部は再建されましたが、1342年の火災で残る堂舎も焼失しました。鎌倉時代になると寺領からの年貢が途絶え、伽藍維持が困難になり衰退していきます。現在は遺跡をとどめるのみです。
 以上からは法勝寺は、11世紀末に白川天皇によって建立された「国王の氏寺」で、栄華を誇った寺院であったこと。それが鎌倉時代には、維持管理が出来なくなり衰退していったことが分かります。これだけの寺院の維持管理のためには、大きな経済的な基盤が必要です。そのために櫛梨郷もどこかの時点で、「櫛無保」に指定され法勝寺領になったようですが、その過程は史料がないのでよく分からないようです。ただ「保」という用語がついています。
保は、本来は国衛領のなかの特別行政区域になります。
 律令制が傾いてくると、封戸からの租税の徴収が困難になってきます。そこで封戸の代わりに田地を定めて、そこから納められる租税(官物・雑役)を封主に与えることになります。このような代替給付を行うことを便補といい、定められた田地が保と呼ばれるようになります。(便補保)。
 法勝寺も、落慶供養の6日後の12月24日に、1500戸の封戸が寄せられています。寺は出来ても経済的な基盤を保証されないと「持続可能」にはなりません。この封戸が何処にあったのかは分かりませんが、櫛無郷が便補保とされたのが法勝寺領櫛無保ではないかと研究者は考えているようです。

法勝寺跡
白川院・法勝寺跡

  島津忠義は、宇治川合戦の戦功によって櫛無保地頭職に補任された
 貞応三年(1324)9月7日付で、鎌倉幕府の北条泰時が藤原(島津)忠義を櫛無保地頭職に任命した開東下知状には次のように記されています。     
可令早左衛門少尉藤原忠義(忠時) 、為讃岐國 (那珂郡)櫛無保地頭職事、
右人為彼職、任先例可致沙汰之状、依仰下知如件、
貞應三年九月七日
                                                       武蔵守不(花押)   (北条泰時)
読み下しておくと
早く左衛門少尉藤原忠義をして、讃岐国櫛無保地頭職と為すべき事。右の人彼の職と為し、先例に任せ沙汰致すべきの状、仰に依て下知件の如し、
貞応三年(1324)九月七日
武蔵守平(花押)    (北条泰時) 
藤原忠義は忠時ともいい、薩摩国守護島津氏の第二代当主のことです。
忠時の父忠久は、本姓は惟宗氏で、摂関家近衛家の家人です。近衛家の荘園である薩摩国島津荘の荘官となり、文治二年(1186)、源頼朝から島津荘惣地頭職に補せられて島津氏を名乗るようになります。藤原氏を称することもあったようですが、主家藤原氏(近衛氏)との関係を強調して家柄を高める意図があったのではないかとされます。これは古代綾氏の流れを汲むとされる讃岐藤原氏も同じようなことをやっています。

島津家系図
島津家系図

 島津氏は建久8年(1197)に、薩摩・大隅の守護職に任ぜられ、さらに日向の守護も兼ね勢力を拡大していきます。ところが建仁3年(1203)、二代将軍源頼家の外戚比企能員とその一族が反逆を起こし、北条時政によって滅ぼされたれます。(比企氏の乱)、この時に島津氏は破れた比企氏側に味方したために三か国守護職及び島津荘惣地頭職を没収されます。しかし、その後に薩摩国守護職だけはほどなく返され、建暦三年(1213)には、島津荘惣地頭職も返されています。ここでは比企氏の乱で、「勝ち馬」に乗れなかった島津氏が領地を大きく削られたことを押さえておきます。

承久の乱 (1221年)【政広】 - 居酒屋与太郎

島津忠義に復活のチャンスはすぐにやってきました。承久の乱です。
先ほど見たようにその3年後に、櫛梨保の地頭職が島津氏に与えられています。ここからは、この補任は承久の乱の功賞によるものと推測できます。島津忠久、忠義も承久の乱の当時は鎌倉に在住し、上京の軍勢に加わって戦功を挙げたようです。『吾妻鏡』の承久3年6月18日の記事には、14日の宇治川の合戦で敵を討ち取った戦功者98人の名が挙げられています。そのなかに「島津二郎兵衛尉(忠義)(辻袖離一ゑ)」の名前もあります。幕府は後鳥羽・順徳・土御門の三上皇を配流し、上皇方についた貴族や武士の所領を没収して、戦功のあった武士たちに恩賞として与えました。島津忠義も宇治川合戦の戦功によって櫛無保地頭職に補任されたとしておきます。

地頭職

鎌倉幕府が武士に所領を与えるのは、当寺は地頭に任命する形をとりました。
「綾氏系図」には、讃岐藤原氏の頭領であった羽床重基が、承久の乱の際に讃岐国の軍勢を率いて後鳥羽院の味方に参じ、敗戦で所領を没収されたことが書かれています。また『全讃史』には、綾氏の嫡流綾顕国が羽床重員とともに院方として戦ったと記されています。院方について破れた勢力は、当然領地没収されました。その跡に、東国武士たちが地頭として送り込まれたわけです。承久の乱で、地頭が置かれたことが明らかなのは、櫛無保のほか法勲寺、金倉寺、善通寺などです。讃岐の地頭のほとんどが承久以後になって現れる東国武士であることは、以前にお話ししました。
地頭が新恩の地に補任された時は、前の領主の所領・得分を受け継ぐのが原則です。承久新恩地頭の場合は、前領主の所領・得分が少なく、またはっきりとした基準がなかったので、やってきた地頭地頭に対して幕府は新しく所領・得分の率を次のように定めています。
①荘園全体の田地に対して11町について1町の割合で与えられる給田
②一段ごとに五升の加徴米徴収権
これを新補率法と呼びます。承久の乱後に地頭になったものを一般に新補地頭と呼んでいますが、厳密な意味では新補率法が適用される地頭が新補地頭になるようです。 これに対して、前領主の所領・得分を受け継いだ地頭を本補地頭と呼びます。島津氏が補任された櫛無保地頭職は、承久の乱後の地頭なので、本補地頭になるようです。
櫛無保は、封戸から転じた便補保ですので、地元に保司(ほうし)という保を管理する在庁官人がいて、租税を徴収して保の領主に送ります。したがって、保司は保全体に対して強い支配力を持つようになります。櫛無保にもこうした保司(武士団)がいて、保領主の法勝寺とは無関係に後鳥羽上皇方につき、所領没収の憂目を見たと研究者は推測します。

島津氏が前保司から受け継いだ櫛無の所領は、給田・給名などの限られた田地ではなく、上村・下村といった領域的な所領です。
さらに公文名や田所名を所有しています。これは下級荘官の公文や田所の所領名田です。地頭島津氏は、公文や田所の所職も兼ねていたことがうかがえます。公文は文書の取り扱い、年貢の徴収に当たる役人、田所は検田などに当たる役人で、これらの下級荘官は実際に田地や農民に接して検地や徴税に当たります。彼らの権限を掌握することは、地頭が荘園を支配する上で重要な意味を持ていました。ちなみに、櫛梨町には公文という地名が今も残ります。このあたりに公文名や彼らの舘があったことが推測できます。

島津氏は三代久経までは鎌倉に在住し、その後は薩摩国守護として薩摩に本拠を置いていました。
そのため櫛無保には、一族か腹心の家臣を代官として派遣して支配したようです。そして、今見てきたような背景から考えて、その支配力はたいへん強力なものであったと研究者は考えています。

最初に挙げた『経俊卿記』正嘉元年(1257)4月19日の記事には、この日の院評定で、法勝寺に納入すべき櫛無保の年貢を地元の地頭が送ってこないのを、幕府に命じて止めさせるよう議定されていました。地頭はもともとは土地管理、治安維持、租税の徴収などを職務とする役職で、所領を与えられたものではなく「領主」ではありませんでした。しかし鎌倉時代の中ごろから、地頭たちは次のような「不法行為」を次第に働くようになります。
①徴収した年貢を荘園領主に送らず自分のものとしたり(年貢抑留)
②給田以外の田地を押領したり
③規定外の租税を農民から徴収したりなどの手段で、荘園全体を支配下に置こうとする動き
櫛無保地頭島津氏も、①の年貢抑留という手段によって、櫛無保内の領主権をさらに強化しようとしていたことがうかがえます。
 隣接する善通寺領良田郷では地頭が年貢抑留に加えて農民の田地を奪い、永仁6年(1298)には、領主善通寺と土地を分け合う下地中分になっています。三野郡二宮荘でも、地頭の近藤氏と領家とのあいだで下地中分が行われています。さらに鎌倉幕府が倒れた元弘の乱の時には、荘園領主分の年貢をことごとく押領していたことは以前にお話ししまします。櫛無保以外でも讃岐各地で地頭の荘園侵略が進んでいたのです。
島津家系図

元寇前の文永二年(1265)、島津忠義(時)の嫡子久経が父のあとを継いで薩摩国守護となります。
文永四年(1267)12月に、忠義(忠時)は譲状を作っています。そのなかで、「櫛無保内光成名給米百石」については、次のように記されています。
こけふん (後家分)
さつまのくに みついゑのゐん
しなのゝくに かしろのかう
さぬきのくに(讃岐国)くしなしのほう(櫛無保)の内
みつなり名(光成)給米百石  一 このちはすりのすけ(修理免久経)
ここからは次のようなことが分かります。
①久経の母尼忍西に「後家分」として、「櫛無保内光成名給米百石」が給米として与えること
②百石という年貢はたいへん多いので、光成名は大きな名田で、荘官の給名田だったこと
③この給米は、彼女の死後は嫡子久経に返すように指示されていること
建治元年(1275)、それまで鎌倉にいた三代目の久経は、文永11年(1274)に、蒙古軍の再度の来攻に備えて九州にやってきています。そして弘安4年(1281)の弘安の役では、薩摩の御家人を率いて奮戦しています。久経は元寇後の弘安七年(1284)に没し、嫡子忠宗が4代目を継ぎます。
それから34年後に文保二年(1318)二月十五日に、忠宗は次のような2つの譲状を書いています。
    〔史料A 島津道義(宗忠)譲状〕
 〔島津道義譲状〕
「任此状、可令領掌之由、依仰下知如件、
文保二年三月廿三日
相模守(花押)(北条高時)
武蔵守(花押)(北条貞顕)
ゆつりわたす  (譲り渡す)
    ちやくし(嫡子)三郎左衛門尉貞久
さつまの國すこしき(薩摩国守譲職)
十二たうのちとうしき(地頭職)
さつまこほり(薩摩郡)のちとうしき(地頭職)
山門のゐん
いちくのゐん
かこしま(鹿児島)のこほり 同なかよし
さぬき(讃岐)の国くしなしのほ(櫛無保)上村・下村
しなのゝ(信濃)國太田の庄内南郷
下つさの國さむまの内ふかわのむら、下黒
ひうか(日向)の國たかちを(高千穂)の庄     
ふせん(豊前)の國そへたの庄
右所ヽ、貞久にゆつりあたうる(譲り与える)所也、女子分子なくば其一この後ハ、そうりやう(総領)貞久可知行之状□□
文保二年二月十五日     沙爾道義(花押)
 (島津家文書)
   〔史料B 島津道義納譲状〕
「任此状、可令領掌之由、依仰下知如件、
文保二年三月廿三日
相模守(花押)(北条高時)
武蔵守(花押)(北条貞顕)
ゆつりわたす  (譲り渡す)
女子大むすめ御せん分
さぬきの國くしなしのほう(櫛梨保)のうちくもんみやう(公文名) 同たところみやう(田所名)
右、大むすめ御せんにゆつりあたうる所也、但、子なくハ、一この後ハ(死後は)、そうりやう(総領)貞久ちきやうすへし(返還すべし)、乃状如件、
文保二年三月十五日      沙爾道義(忠宗)(花押)
史料Aは、忠宗が、嫡子貞久に譲ったすべての「領地」の中に、讃岐国櫛無保の上村・下村も含まれています。上村・下村は現在の琴平町上櫛梨・下櫛梨(一部善通寺市櫛梨町)の地になります。
 ところが忠宗は同じ日に、史料Bの譲り状を書いています。そこには「女子大むすめ御前」に櫛無保内の公文名・田所名を譲り、ただしこれについては、その死後には惣領貞久に返す定めであると記されています。このように所領を生きているあいだ(一期)に限り認め、死後は一族の惣領(家督を継いだもの)に返  す規定は、領地分散を防ぐための方策で、鎌倉中期以後武家領のあいだでは一般的になります。特に女子は、そのままでは婚嫁先に所領が移ってしまうので、この規定が設けられるようになったようです。櫛梨保地頭職は、島津氏出身の女性たちに一代限りで認められ、死後は総領に返却され、島津家のものとして相続されたことがうかがえます。
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文元年(1356)8月6日に、足利義詮が島津貞久に与えた安堵下文には、櫛無保上村・下村のほか、公文名・光成名が加わっています。ここには公文名とともに貞久に返されるはずの田所名がありませんが、その所有については分かりません。

櫛無郷2
櫛梨(明治39年地形図)

 貞久は、鎌倉幕府が滅亡する2年前の元徳三年(1321)八月九日に嫡子生松丸(宗久)に、薩摩国薩摩郡以下の所領を譲っています。
そのなかに櫛無保については次のように記されています。
さぬきの国くしなし(櫛無)の保上村・下村 此内上殿給ハ、資久一期之後可令知行之
同くもんみよう(公文名)
同みつなりみやう(光成名)
これによると上村・下村のうちに「上殿給」というのがあって、当時は貞久の弟である資久がそれを知行していたことが分かります。そしてこれは「資久一期」のもので、資久の死後は宗久が知行することになっています。しかし、宗久は父貞久に先立って死んでしまいます。 すでに老齢に達していた貞久は、その後二男師久、三男氏久とともに貞治二年(1363)、95歳で亡くなるまで、南北朝動乱を戦い抜くことになります。その混乱の中で、島津家も櫛無保の地頭職を押領され失っていくようです。
以上をまとめておくと
①櫛無郷は延喜式の櫛梨神社一帯に成立した古代の郷である。
②櫛無郷は白川天皇が造営した法勝寺の保に指定され櫛無保となった。
③鎌倉時代の承久の乱後に、櫛無保の地頭職を得たのが島津氏である。
④島津氏は地頭として、領主である法勝寺への「抑留」などを行いないながら、実質的な支配権を獲得していった。
⑤櫛無保は、一時的には女性の一代限りの相続を経ながらも、基本的に島津氏の棟梁が相続して引き継がれて行った。
⑥しかし、南北朝の動乱期に「押領」を受け、島津氏の支配から脱落していく。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  法勝寺領櫛無保と地頭島津氏 町史ことひらⅠ 119P

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