大師号の下賜についてみておきました。その中で、最初に諡号を下賜されたのが天台宗の最澄と円仁であったこと、空海はそれより55年遅い921年に贈られたことを押さえました。つまり、空海は、最澄に比べると諡号下賜が半世紀以上遅れています。これは、当時の天台宗と真言宗の「政治力の差」と研究者は評します。今回は、当時の真言宗が空海の諡号追善実現のために、どのような動きをしたのかを見ていくことにします。テキストは「武内孝善 「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」です。
空海に大師号をたまわりたい、と真言宗から願い出たときの上奏文が4通、それに応えて下賜されたときの勅書が1通伝存しています。上奏文全体の構成は、次の通りです。
寛平法皇はきわめて賢明な天皇であり、漢詩文にもよく通じた文章家だったと研究者は評します。従って、もし法皇が上奏文を書いたとすれば、空海の事績を記すのに『寛平御伝』をほぼそっくり引き写すようなことはしないはずだと云うのです。法皇の教養は、漢文で書かれた日記『寛平御記』や醍醐天皇に与えられた『寛平御遺誠』をみれば、一目瞭然と指摘します。
以上をまとめておきます
①我が国で最初に諡号を下賜されたのが天台宗の最澄と円仁であった。
②空海はそれより55年遅い921年に贈られた。
③ここには当時の天台宗と真言宗の「政治力の差」があった。
④遅れた真言教団は、何度も空海への諡号下賜を朝廷に働きか掛けたが実現しなかった。
⑤そこで退位後に真言僧となり、真言宗に理解の深かった寛平法皇を通じて朝廷工作をおこなうという案が実行に移された。
⑥それが後世には、寛平法皇自身が上表書を書いたという話が加味され、その文書が偽作された。
どちらにしても、この時期の真言教団にとって空海への大師号下賜は、最重要用課題であったことが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
空海に大師号をたまわりたい、と真言宗から願い出たときの上奏文が4通、それに応えて下賜されたときの勅書が1通伝存しています。
①延喜18(918)年8月11日
寛平法皇、贈大僧正空海に諡号を賜わらんことを請わせ給う。②同 18(918)年10月16日
観賢、空海に諡号を賜わらんことを奏請す。③同 21(921)年10月2日
観賢、重ねて空海に読号「本覚大師」を賜わらんことを奏請す。④同 (921)年10月5日
観賢、早く諡号を賜わらんとの書を草す
⑤同 21(921)年10月27日
贈大僧正空海、「弘法大師」の諡号を賜う
この内の④については、③との間隔が短すぎるので、実際には提出されなかったとされます。そうだとすると、空海の場合は、寛平法皇による1回(①)と、観賢僧正による2回(②③)の計3回にわたる上奏をへて、下賜されたことになります。
まず①の寛平法皇の上奏文について、見ていくことにします。
寛平法皇(宇多天皇)即位 887年9月17日 - 897年8月4日
寛平法皇とは宇多天皇のことです。
まず①の寛平法皇の上奏文について、見ていくことにします。
寛平法皇(宇多天皇)即位 887年9月17日 - 897年8月4日
寛平法皇とは宇多天皇のことです。
宇多天皇の即位当初の政治基盤は弱く、執政の藤原基経に依存するものでした。そのための基経の嫡子時平を参議にする一方で、源能有など源氏や菅原道真、藤原保則といった藤原北家嫡流から離れた人物も抜擢し、基盤を強化していきます。そして、遣唐使の停止、諸国への問民苦使の派遣、昇殿制の開始、日本三代実録・類聚国史の編纂、官庁の統廃合などの改革を次々と進めます。また文化面でも寛平御時菊合や寛平御時后宮歌合などを行い、これらが多くの歌人を生み出す契機ともなりました。30歳で譲位した後は、真言僧侶となり経典研究なども行う文化人でもあったようです。
寛平法皇の譲位後を年表化しておくと、次の通りです。
①寛平9年(897)7月2日、30歳で醍醐天皇に譲位②昌泰2年(899)10月24日、仁和寺で益信を戒師として落飾し、空理、または金剛覚と称す③同年11月24日東大寺戒壇院にて具足成を受け④延喜元年(901)12月13日、東寺灌頂院において、益信を大阿開梨として伝法灌頂を受法
⑤延喜18年5月には、東寺濯頂院において法三宮真寂親王はじめ六名に、伝法灌頂
⑥同年8月には嵯峨大覚寺で寛空はじめ七名に、伝法灌頂
以上からは、延喜21年の時点で、寛平法皇が「すでに真言密教に精通され」ていたことが裏付けられます。
①の「延喜18(918)年8月11日 寛平法皇、贈大僧正空海に諡号を賜わらんことを請わせ給う。」は、退位後の寛平法皇自らが空海への諡号下賜を上表した文書ということになります。その上表文を見ていくことにします。上段が寛平法阜撰とみなされてきた「請賜諡号表」、下段が『寛平御伝』の本文です。
①の「延喜18(918)年8月11日 寛平法皇、贈大僧正空海に諡号を賜わらんことを請わせ給う。」は、退位後の寛平法皇自らが空海への諡号下賜を上表した文書ということになります。その上表文を見ていくことにします。上段が寛平法阜撰とみなされてきた「請賜諡号表」、下段が『寛平御伝』の本文です。
前半には、寛平7年(895)3月10日の奥書をもつ貞観寺座主(じざす)撰『贈大僧正空海和上伝記』(『寛平御伝」)の令文引用後半には、諡号を下賜せられんことを懇請する文章
ア、わが国における密教仏教の根源は、南岳の師すなわち空海にはじまります。イ、空海の法流を受法したものは、誰ひとり、空海の旧跡を仰ぎ讃えないものはありません。ウ、空海がわが国に請来した経論類は、総計二百十六部四百六十一巻にのぼります。工、真言宗が確立し法を相承する僧も多く輩出するにおよんで、朝廷は真言宗を鎮護国家の中心におかれました。オ、秘密の教えが弘通し業行も定まったことから、この法流をもって仏道修行の究極である悉地成就のはたらきが増しています。力、現今、人々は(あまり)変わつていないけれども仏道は盛んとなり、人は滅び去る(運命である)けれども、その名は新たに(讃嘆される)でありましょう。キ、仏法では、死後にその人の事績を崇め尊ぶことを行なつてきました。ク、王法では、死者を讃える規範を廃されたのでありましょうか、いえそんなことはないはずでございます。ケ、そこでお願いいたしたきことは、諡号を南岳の師(空海)に賜わりますとともに、この秘密の教えを官廷内にも盛んにせんことであります。誠心誠意のお願いであります。コ、謹んで事の成り行きを記録いたしまして、恐れながら、お願い中しあげる次第でございますり何とぞご高意を賜わりますように。
譲位後は、真言宗の僧侶となり潅頂を行う立場にまでなった法皇が、空海への諡号下賜を願って書いたものということになります。しかし、 これを寛平法皇の真撰としてよいかについては、意見の分かれるところのようです。
まず、この上奏文は寛平法皇の真撰であり、大師号の下賜に大いに力があったとみなす説を見ておきましょう。
蓮生観善師『大師伝』では、寛平法皇を諡号下賜の発議者とみなして、次のように述べています。
その事を第1番に発言されたのは宇多天皇様でありました。大師号を空海和尚に追贈して頂きたいと云う事を、初めて願出でられたのは、字多天皇様であります。宇多天皇は大師のお徳を慕い、出家して真言の灌頂を受け、御名を空理と称せられ、京都仁和寺を御建立遊ばされた御方であります。宇多天皇は御出家後、寛平法皇と申し上げて居りましたが、延喜十八年八月十一日に、醍醐天皇に対し、真言の根本阿閣梨贈大僧正法印大和尚位空海に諡号を追贈せられんことを請うの表を奉られました。その表文の中に、朝家以て鎮護息災の要と為し、紺流以て出世悉地の用と為す。当今民旧り、道盛んに、人亡びて名新なり。仏法猶尋崇の道を貴ぶ。王法何んぞ迫餅の典を廃し玉はん。望み請ふ諡号を南岳に贈り、秘教を北間に興さんことを。今ま懇款(こんかん)の至りに任へず。謹で事状を注し、上表以聞す。と仰せられ、空海大和尚にどうぞ大師号を贈って頂きたいと御奏請あらせられたのであります。(中略)此の問題につきての発議者は寛平法皇にて、寛平法皇は醍醐天皇の御父上であり、醍醐天皇と寛平法阜とは御親子の間柄であらせらるヽと共に、(中略)故に此の問題につきても書面の奏請は表面の事にて、内部にては御親子親しく御相談の上の事に違いないと信じます。(673~5P)
ここには最初の上奏が寛平法皇によって行なわれたことを微塵も疑っていないこと分かります。
これに対して、守山聖真『文化史伝』は、「寛平法皇の上奏」疑問説に立ち、次のように述べています。
この諡号奏請の歴史を見るに、伝教大師(最澄)は遷化後44年にして貞観8年7月13日に諡号宣下があり、慈覚大師(円仁)も同日の宣下であるから、これは入滅後僅かに3年目である。こうした方面から見ると、我が大師の諡号宣下のあったのは、入定後87年目であるから、相当に長い年月を経過して居る。大師に最初に諡号宣下を奏品したのは、寛平法皇であるとせられている。それは「諡号雑記」並びに「続年譜」にその表文があるからである。『続年譜』は、『諡号雑記』から採ったものであろう。①観賢また同年10月15日に上表奏請していることを『諡号雑記』に記して居り、「正伝」付録には後者を採録しているが載せては居ない。之はその確実性を疑ったものであろう。事実これは文章も粗雑にして、記事も相違して居る個所もあり、②荘重である可き法皇の上表文としては、余りに重みが欠けて居るばかりでなく、③全く貞願寺座主の『贈大僧正空海和上伝記』と同様のものであることである。寛平法皇でないとしても、表請文としてはその体をなして居ない。若しこれを以って、法皇の表請文とすれば、それは法皇を誤まるものではなかろうか。(中略)要するに偽作者があって、寛平法皇の如き至尊が大師の為めに諡号を奏請したとして、大師伝に光彩を添えんと試みたものであろう。(885~7P)
守山氏が寛平法皇の上奏文を疑わしいとみなす根拠は次の4点です。
① 『総号雑記』と『続弘法大師年譜』は、法皇の上奏文を収録するが、天保4年に高演が撰述した『弘法大師正伝』は収載していないから疑わしい
① 『総号雑記』と『続弘法大師年譜』は、法皇の上奏文を収録するが、天保4年に高演が撰述した『弘法大師正伝』は収載していないから疑わしい
② 文章が粗雑な上に誤記もあり、寛平法皇の上奏文としては、荘重さに欠ける。
③ 文章の大部分が「寛平御伝」と同じで引き写しである。
④ 表請文としての体をなしていない。
これらをうけて「若しこれを以って、法皇の表請文とすれば、それは法皇を誤まるものではなかろうか」「大師伝に光彩を添えようとして偽作されたものであろう」と結論づけます。
寛平法皇はきわめて賢明な天皇であり、漢詩文にもよく通じた文章家だったと研究者は評します。従って、もし法皇が上奏文を書いたとすれば、空海の事績を記すのに『寛平御伝』をほぼそっくり引き写すようなことはしないはずだと云うのです。法皇の教養は、漢文で書かれた日記『寛平御記』や醍醐天皇に与えられた『寛平御遺誠』をみれば、一目瞭然と指摘します。
実は、真言教団はこれ以前にも空海への諡号追善について、動いたことがありました。
①天安元年(857)10月21日、真済(しんぜい)の上表によって、空海に大僧正位が追贈されています。この時の真済の上表文を見ておきましょう。
【史料4】『高野大師御広伝』(『弘法大師伝全集』第1、270P)
【史料4】『高野大師御広伝』(『弘法大師伝全集』第1、270P)
沙門真済言す臣一善を得ては則ち必ず其の君に献ず。子一善を得ては則ち必ず其の父に輸(おく)る。真済の先師空海禅師は、去る延暦の末年、遠く大唐に入り秘法を学得す。大風樹を抜くの災、樹雨陵に襲るの異、詔を奉り結念すれば期に応じて消滅す。上国の真言、此より始めて興り、聖邦の濯頂此より方(まさ)に行わる。真済等毎(つね)に思う。先師の功人にして賞少なく、節屈して名下れりと。伏して惟れば、皇帝陛下、大いに天工に代わり世範を成立し、能く道中を得て品物を亭育す。伏して乞う、真済所帯の僧正を譲って、禅師の発魂に贈らんことを賜許したまえ。然れば則ち、陛下忽ちに聖沢九泉を潤すの人恵を顕わし、人天必ず礼骸報主の深志を尽さん。今懇誠迫慕の心に任えず。謹んで本人以聞す。伏して願わくば鴻慈微誠を照察せよ。真済誠慢誠恐、謹言。天安元年十月十七日 沙円僧正伝灯大法師位上表す
文徳天皇は、この真済の上表に応えて、10月22日に空海に僧正位を追贈します。
こののときの記録が正史の1つ『日本文徳天皇実録』天安元年(857)10月22日の条に次のように宣命書きで記されています。
【史料5】『文徳天皇実録』九(『国史大系』第4巻、 103~4P)法師等に詔して曰く。天皇が詔旨と、法師等に向さへと。勅命を白(まうさく)、増正真済大法師上表以為、故大僧都空海大法師は、真済が師なり。昔延暦年中、海を渡りて法を求む。三密の教門此より発揮す。諸宗の中、功二と無し。願う所は、僧正の号を以て、将に先師に譲らんとす、者(てへり)。師資其の志既に切なるを知ると雖も、朕が情に在っては、未だ許容布らず。仍て今先師をば、大僧正の官を贈賜ひ治賜ふ。真済大法師をば、如旧(もとのごと)く、僧正の官に任賜事を。白(まを)さへと詔勅叩を白す。 (傍線筆者)
ここからは、真済はみずからが賜わつた「僧正位」を師に譲りたいと願いでたのに対して、文徳天皇は師の空海には「大僧正位」を贈り、真済の「僧正位」はそのままとする、と応答したことが分かります。ここからは天安元年(857)10月22日、空海が「大僧正位」を賜わったことが確認できます。
「贈位」のいま1つは、その7年後の貞観6年(864)2月27日、空海に法印大和上(尚)位が追贈されたことです。 55P
これは『日本三代実録』貞観六年二月二十七日の条に次のように記されています。
『日本一代実録』八(『国史大系』第4巻、 134P)
十七日癸丑、贈大僧正伝灯大法師位空海、延暦寺座主伝灯大法師位最澄に、並びに法印大和上位を贈る。
ここからは、最澄とともに空海に法印大和上位を贈られたことが分かります。この「法印大和上位」は、その年の2月16日に、新たに制定された僧位の1つでした。「法印大和尚位」の僧階は僧綱に任ぜられる高僧と凡僧とのあいだに格差をもうけるために新設されたものでした。この僧制をさかのぼらせて、貞観6年(864)2月27日、最高位の法印大和上位が空海と最澄にも適用され追贈されています。ちなみに、空海は生前に大僧都に任ぜられていますが、最澄が僧綱に任ぜられた形跡はないようです。空海がこの法印大和上位を追贈されたのは、貞観六年(864)2月のことです。よって、その後の57年間、空海への諡号下賜はありません。このことを「只だ贈位の勅のみ有って、曾って礼論の栄無し」と訴え、読号の追贈を願ったことになります。それに対して最澄には、2年後の貞観8年、伝教大師の諡号が下賜されています。これを真言教団が黙って見ていることは出来なかったはずです。
以上をまとめておきます
①我が国で最初に諡号を下賜されたのが天台宗の最澄と円仁であった。
②空海はそれより55年遅い921年に贈られた。
③ここには当時の天台宗と真言宗の「政治力の差」があった。
④遅れた真言教団は、何度も空海への諡号下賜を朝廷に働きか掛けたが実現しなかった。
⑤そこで退位後に真言僧となり、真言宗に理解の深かった寛平法皇を通じて朝廷工作をおこなうという案が実行に移された。
⑥それが後世には、寛平法皇自身が上表書を書いたという話が加味され、その文書が偽作された。
どちらにしても、この時期の真言教団にとって空海への大師号下賜は、最重要用課題であったことが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」