タイムトラベル 中世の村
中学校歴史教科書 帝国書院 タイムトラベル中世の農村

ここに描かれているのは、鎌倉時代の領主屋敷がある村です。承久の乱後に、東国からやってきた西遷御家人の地頭舘かもしれません。
谷間を流れる川沿いに水田が開かれ、谷の出口に領主屋敷があります。その前を川沿いに街道が走っていて、多くの人が行き交います。街道沿いには、定期市も開かれるようです。田んぼを見ると、稲刈りが行われ、刈り取った稲がはぜに架けられて干されていてます。収穫の秋の一日が描かれています。村の小高い丘には鳥居が見え、幟が立っています。神社の秋祭りのようです。そのために、琵琶法師や風流踊りの集団が街道をやってきています。今日は賑やかな秋祭りのようです。そして稲刈り跡の田には,貧しい女性(寡婦)や老女,子どもが落ち穂拾いをしています。落ち穂拾いは,こうした人々の権利であり,彼らの大切な食料となりました。
 今回は、その前面に描かれた武士居館を見ていくことにします。
武士居館を描いた史料絵図として、最も古いのが次の粉河寺縁起とされます。

武士居館 『粉河寺縁起』に描かれた河内国の長者の舘 
         『粉河寺縁起』に描かれた河内国の長者の舘 
 門前には、飾り付けた馬が繋がれています。門の前は深い堀があって、丸太の板橋が架かっています。その橋の上にいるのが、袈裟を付け、数珠を手にした垂髪姿の童行者(千手観音の化身)です。長者の娘の病を聞いて訪れ、門番に取り次ぎを頼んでいます。門番は家の中を指差して応対しています。その横を農民達が、唐櫃を担いで運び入れています。
 居館内側には竹藪がめぐり、その外を板塀が囲みます。板橋の前が入口で、そこには櫓門が建っています。上の屋形には、矢の束が見えるので、非常時にはここから矢が撃たれるのでしょう。屋形には帷が垂らされています。このような櫓門は、『一遍上人絵伝』巻四の筑前の武士の館にも描かれています。この時期になると、有力者が武装化し武士団が形成されていたことがうかがえます。このような絵図史料を参考にして、イラストは描かれています。

たいむタイムトラベル 中世農村解説3 武士居館
櫓(矢倉)門付近を拡大して見てみましょう。

タイムトラベル 中世の村 軍事拠点としての居館

ここでは居館が、武士という軍事集団(暴力装置)の軍事拠点であったことを押さえます。
周囲には堀が掘られています。ここでも唐櫃を担いだ人々が入って行きます。門を入ると馬屋があり、駿馬の世話をしています。中世の武士のたしなみは「弓馬の道」でした。源平合戦のスターは屋島合戦の那須与一です。彼は乗馬からの騎射で有名になりました。剣の道がもてはやされるようになったのは、江戸時代になってからです。武士にとって騎馬と弓射が最重要の武芸ですから,馬屋は大切にされ,きれいに掃除されていました。そして、高級車を持つことステイタスシンボルであるように、名馬を持つことが誉れでもありました。そのために馬には惜しげもなく投資したのです。高級外車は玄関前の車庫にあるように、玄関前に馬小屋があり、何頭もの馬がいます。

たいむタイムトラベル 中世農村解説4 武士居館

武士達が何をしているのか拡大して見ましょう。

タイムトラベル 中世の村 弓の作成


 庭では武士が弓の弦を2人がかりで張っており,もう1人の武士は弓の強さを試しています。中門廊では,武士が自ら矢をつくっています。弓の羽根などの材料については、強いこだわりがあって、どの鳥のどの羽根が矢羽根には相応しいとランキングまでされていました。ここからは、戦いのプロ=軍事集団としての武士の姿が垣間見えます。
武士達には、もうひとつ徴税官としての性格がありました。それが先ほど見た粉河寺縁起の中に描かれています。
『粉河寺縁起』に描かれた河内国の長者の舘2 貢納物 
粉河寺縁起
縁先の唐櫃(からひつ)には、山の幸である柿・栗・梨・石榴など、後から運ばれてくる方には、伊勢エビ・大魚・昆布・さざえなど海の幸が盛られています。腰刀を差した男が、よいしょと担ぎ寄せます。狩衣の老人が、手ぶりよろしく口上を述べます。

那珂郡小松郷佐文村の太郎兵衛からの貢納品でございます。赤く大きな伊勢えびに、縁起物の鯛に、よろコンブに、朝取れたばかりのサザエです。

なんて云っていたのかもしれません。
その後に、折枝に雉子を結わえて差し出す男。ほかにも、なにやら大事げに箱を棒げる痩せ男など、貧富さまざまです。しかし、その表情をよく見ると、彼らの表情は、心なしか暗いように見えます。それに対して、縁にどっかと腰を下ろして、目録に眼を通しているのが、この家に仕える家司のようです。家司のニコニコした顔と、里人の浮かぬ顔が対照的に描き分けられていると研究者は指摘します。
 これらの貢納品が長者(武士)の富になります。里人たちは、武力によって生業を保証される代わりに、様々な貢物が要求され、納めなければならない従属的な関係にあったことが見えてきます。これを支配・非支配の構図とよぶのでしょう。この絵図を参考にイラスト化されているのが次の部分です。

タイムトラベル 中世の村 貢納品

屋敷には米俵などがかつぎこまれ、家来たちが俵を調べています。縁には家司の武士がいて、唐櫃(からびつ)の中の年貢を,目録と照合しているところです。横にいる女性(領主の妻)は,織物・布を見ています。そばには,猫が紐でつながれています。中世ではつながれて飼われていました。また、この時代の屋敷は板敷きが基本で、畳は敷きつめられていませんでした。

以上からは中世の武士居館には、次のような機能があったことが読みとれます。

タイムトラベル 中世の村 地頭の定着


タイムトラベル 中世の村 武士居館

こうしてみると地頭として東国からやって来た西遷武士達は、武力を持った軍事集団で、警察署長と税務署署長のふたつの役割を持っていたことになります。そして彼らは新参者で、集落から離れた所に拠点を構え、武力を背景にして名主や荘司たちを圧迫していきます。同時に彼らは、東国で培った土木工事を梃子にして周辺開発を行います。
発掘調査などから分かってきた武士居館の復元模型を見ておきましょう。

武士居館
武士居館の復元模型
武士居館は各地域でばらばらなスタイルがあるわけではなく、全国的な定型モデルがあるようです。その背景には、鎌倉時代に東国武士達の西遷で東国スタイルの居館モデルが全国に普及したためと研究者は考えています。その際に、東国武士の信仰の厚かった八幡信仰が氏神(守護神)として持ち込まれ、それが近世になると村の鎮守に脱皮成長していくという筋書きになります。
 また、周囲の堀は上流から引いた灌漑用水の分水池の役割を果たしていたことは以前にお話ししました。その水域の水源と灌漑用水網を支配することで、地域の生命線を握る戦略もあったようです。武士集団が灌漑整備を積極的に行った痕跡が丸亀平野にも見られます。

例えばこれは江戸時代に描かれた「大(王)堀佐古絵図」(まんのう町吉野)を描いたものです。

武士居館 まんのう町大堀左古絵図

この絵図は、次のような情報が読みとれます。
①右上の濃紺部分が佐古(さこ=出水)
②土器川からの取水路が右方につながり、各方面に用水路が分配されていること
③堀の中央が江戸時代には水田化していたこと
④右側の堀の内部に社が祀られていて、少し小高くなっていてここに居館があったこと。
まんのう町周辺では、近世後半になっると神櫛王伝説が流布されるようになります。そのため、神櫛王の舘跡で「大(王)堀」と呼ばれるようになります。しかし、先ほどの居館模型と見比べると一目で、中世の武士居館跡であることが分かります。

大堀居館と潅漑施設

土器川や金倉川からの取水し、それを居館の堀に引き込み、下流の灌漑地域を自己の支配下に置いていた武士集団がここにはいたことになります。そして、その居館では、イラストに描かれたような武士達の活動や生活があったことが想像できます。
灌漑用水網と居館群
中世居館と井堰型水源4
武士居館の水堀で分水されて下流に用水が提供されている

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
帝国書店 中学校歴史教科書 タイムトラベル 中世の農村
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