瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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武田明2
武田明とその著書(多度津資料館展示)

前回は武田明が柳田國男に出会うまでを次のようにまとめました。
①武田明は「多度津七福神」と称された多度津の産業資本家の次男として生まれたこと
②旧制多度津中学から慶応大学に進み折口信夫の下で国文学を学んだこと
③その後、柳田國男の木曜会のメンバーとして各地の調査活動を行い、研究者としての技量やネットワークを形成したこと
④大学院卒業は東京で研究者としての道を歩もうとしたが、兄の出征で讃岐に帰ることになった。

1938(昭和13)年3月、武田明は慶応大学大学院を修了します。そして、地元多度津に帰ってきて、高松高等女学校の教員になります。武田にとつては木曜会や民話伝承の会に後ろ髪を引かれながらの帰郷でだったかもしれません。しかし、それが讃岐民俗研究会の発足につながっていきます。今回は、柳田国男が開いた民俗学が、讃岐で武田明によってどのように根を下ろしていくのかを追いかけてみることにします。テキストは 「佐々木涼成 昭和十三年の地方民俗学会 武田明と讃岐民俗研究会成立まで 香川の民俗85号(2024年5月」
 1930 年前後は,柳田國男が産み出した民俗学が民間伝承の会を中心に,全国の郷土研究の団体が組織化されていった時期のようです。
  その一つの例として北九州・小倉で活動した小倉郷土会を見ておきましょう。 この会について重信幸彦氏は、次のように述べます。「知の実践のかたちとローカリティ 『人文学報』第118号  2021年 11 月」(京都大学人文科学研究所)」(要約)
①この会は,小倉の耳鼻科医・曽田共助をパトロンとして,サロンのように開放されたその自宅を拠点に活動していた。
②1935年から各地の郷土研究の運動をオルグし始めた柳田國男と民間伝承の会とも深い関わりを持つようになる。
③この小倉郷土会を柳田國男の側から見ると,あたかも民俗学の九州支店の一つになったように見えるかもしれない。
④しかし,そのローカルな運動のありようを見ると,小倉郷土会の同人達にとって民俗学は,文学、文献史学,考古学などとともに,あくまでも実践の選択肢の一つに過ぎなかった。
⑤同人達は,民俗学に関心を寄せるとともに,しばしば短詩型文学・小説等の実作に関わり,また考古学に関心を寄せた。
⑥そして雑誌『豊前』を発行し,そこを一つの場として小倉に関わる近世資料を翻刻共有し,同人同士の座談記録により互いの関心を登録し,また小倉の幕末維新から明治期の記憶をたどる「古老」たちの声を記録した。
⑦それらは当時の柳田の民俗学の範疇には入らない,しかし小倉郷土会には欠かせない活動実践であった。
ここで注意しておかなければならないのは、「柳田國男の民俗学の全国展開」という視点ばかりで見ると、見落としてしまうものが出てくるということです。この時代の地方には地域には根ざした歴史や考古学・文学などにわたる運動の広がりがありました。そこに柳田たちの運動が着地し、同調者を増やしていったという風に見る視点が必要だと研究者は指摘します。
 旧制中学校など地元で中等教育を受け,場合によっては上京して大学まで出て故郷に戻ってくる若者が出てきます。彼らは文字を自在に操る力を身につけた者たちで、仕事を持ちながらも運動を続けていく気力と能力を持っていました。彼らの関心は多種多様で、領域横断的です。そのため地域に分散する知的な人々を結びつけるための一つの方法として、「中央」の人や組織を,自分たちのローカルな運動の資源として使うことも多々ありました。こんな視点に立って研究者は、武田明と讃岐民俗研究会を見ていきます。

  兄の友人・和気周一を、民俗学へ勧誘
 武田が讃岐に帰ってくる2年前の『民間伝承』第10号に、「三宅周一」の入会が記されています。三宅周一は、後に和気周一として讃岐民俗研究会や香川民俗学会の中心人物の一人として活躍する人物です。彼は、多度津生まれで武田明のお兄さんの同級生で、寺の息子でした。そのため、多度津の名望家同士のぼっちゃん同士で、早くからの知り合いでした。和気の入会については、武田明が和気周一に、民間伝承の会(民俗学)の話をして、それに興味を持った和気が入会したと研究者は推測します。入会後、和気は1937(昭和12)年2月の『民間伝承』に丸亀市中津の末子相続について初投稿しています。これに対して、編集部は次のようなコメントを載せています。

「讃岐に末子相続のあることは初めて知りました。今日学会で色々の意味から重要視されて居る問題です。充分御調査の上具体的な詳細な発表をされることを熱望して居ます(編集部)」

 雑誌『民間伝承』への投稿に、編集部からの返信を受ける例は少なかったようです。ここにも武田明の存在が背後にうかがえると研究者は考えています。

    須藤功「宮本常一 人間の生涯は発見の歴史であるべし』(ミネルヴァ書房、2022年P279~P281)には、日本観光文化研究所への各地域の協力者が引用されています。その中で四国と岡山県の人名を挙げると次のように記します。
香川県 市原輝士 武田明 和気周一 眞鍋稔
徳島県 多田傳三
高知県 坂本正夫 橋詰延寿 釣井龍宏
愛媛県 森正史 山口常助 村上節太郎
岡山県 角田直一 土井卓二 三浦秀宥 佐藤米司
香川県の協力者は4名です。その中に武田明と和気周一の名前があります。ここからは、二人は早くから宮本常一とも協力関係にあったことが分かります。
1936(昭和11)年11月には、塩田茂が民間伝承の会に入会します。
塩田は、『讃岐民俗』第2号で「恵比寿まはしの歌」を投稿しています。これも、武田明の働きかけがあったようです。さらに、後に讃岐民俗研究会の世話人となる川野正雄は、民間伝承の会に入会していませんが、柳田國男から紹介で知り合ったようです。
1938(昭和13年12月『民間伝承』4巻3号では、「民俗語彙の収集を」と題した会員だよりに、武田明は近況を次のように記します。

「当地の三宅(和気)周一君と連絡の上、九月から仲多度、三豊両郡の民俗語彙を採集致して居ります。高松高女では国漢作文を受持ってゐますので、鈴木棠三君の川越高女の例にならひ昔話の採集をやらせて見度いと思ひます。(多度津 武田明)」

 ここからは次のようなことが分かります。
①帰郷した武田明が、9月から和気とともに民俗語彙の採集を始める予定であること。
②川越高等女学校の鈴木棠三の実践例を参考にして、高松高等女学校の生徒に昔話の採集を行わせる構想があること
 川越高等女学校の鈴木棠三が生徒に昔話の採集を行わせていたことを、木曜会での報告で武田明は知っていたようです。女学生に昔話の採集を行わせるという方式は、丸亀女学校でも行われました。この結果、多くの女性民話採集者が生まれていくことになります。これが讃岐民俗研究会の財産のひとつになっていきます。

同じ号には、香川から「石川知夫」が入会したことが記されています。
石川知夫は、讃岐民俗研究会の世話人をしていた石川和夫の誤植のようです。石川和夫は、「讃岐民俗』第一号で、讃岐民俗研究会発足に関して、次のような文章を投稿しています。

「去る十一月初以来度々武田明君から、座談的に民俗学の話を聴いた。君は中学時代からこの方面に趣味を持たれていたさうだがとても熱心である。そしてただ君自身が熱心であるだけでなく、周囲の人達をその中に溶け込ませるだけの高い熱度を有する。常には無口な君も、談一度び民俗学に及ぶやなかなかの雄弁家である。」

ここからも武田明が帰郷し、讃岐民俗研究会を発足させよううという呼び掛け、座談会に石川が賛同し、民間伝承の会にも参加していく筋道がうかがえます。

研究者は、消印が1938(昭和13)年11月19日付けの武田明が柳田國男に宛てた葉書への柳田の返信(瀬戸内海歴史民俗資料館蔵)を紹介します。そこには
以下のように書かれています。

「會を御作り被成候よし悦ばしき御たよりと存じ候 今月一ぱいなら何か書いて差し上げられさうに候 雑誌及含の名ハやはり多くの人の気分でおつけ被成る候がよろしく候 木曜會の人に相談してもよいが會ハ二十七日には又よいのが見つかるとはきまらず候」

意訳変換しておくと
 (讃岐民俗研究会)を発足させるという嬉しい便りをいただきました。今月中なら私も何か書いて寄稿できます。 雑誌の名前は、多くの人の意見を聞きながらつけるのいいでしょう。木曜会の人達に相談してもいいのですが、27日までに良い名前が見つかるがどうかは分かりません。

ここからは次のようなことが分かります。
①武田明が讃岐民俗研究会の発足に向けて雑誌や会の名前等について、柳田國男に相談をしたこと。
②柳田は、それを悦び、寄稿を申し出ていること
③雑誌名決定については、自分たちで考えるようにと、遠回しに遠慮していること
④柳田は、東京の木曜会のメンバーもこのことを伝えていること。
そして、柳田は創刊号に「ぢんだら沼記事」を寄せています。それはこの葉書の返事に応えたものと研究者は考えています。

1939(昭和14)年1月『民間伝承』四巻四号の会員だよりには、讃岐民俗研究会発足に向けた報告が次のように記されています。

「○讃岐にも研究団体を 今度当地方民間停承会員が中心となりまして民俗研究並びに採集の団体を作る事になりました。既に二回程集合しました。 一年間に四回「民間伝承」と同型式の会報を発行致し、大に県下の同士に呼びかける事となりました。創刊号の原稿は十一月締切りとして着々と準備は進行して居りますが木曜会の諸氏初め広く皆さんの御助力を仰ぎます」

ここからは香川の「民間博承会員が中心」なり、研究会を設立することになったことが分かります。柳田國男の民間伝承の会は、讃岐にも種がまかれ拠点が芽吹き始めたことになります。 この中に創刊号の原稿〆切が1938(昭和13)年11月とあるので、それ以前に、発足会合は行われていたはずです。
こうして、1938(昭和13)年12月25日に『讃岐民俗』第1号が発刊されます。
巻頭を飾るのは柳田國男の「ぢんだら沼記事」です。ここで柳田は、相模の沼にまつわる伝説について述べています。一見すると讃岐民俗研究会となんの関連があるのかは分かりませんが、読み進めていくと、相模の沼にまつわる小さな伝説にからめて次のように記します。

「他の人のまだ心付かぬ文化現象に手分けをして観察の歩を進め、末には巨人の尻餅や地団駄といふような埋没した古い信仰の痕跡までが、一目に見渡されるやうにしてもらひたい」

これは『民間伝承』第一号掲載の「小さい問題の登録」において柳田が述べた「日本民俗学上の諸問題の登録を、この小さな月間物の一つの事業としたい」という文章と、共通する趣旨だと研究者は評します。
 次に来るのが武田明の「民間伝承の話」です。要約しておくと

民間伝承の學、即ち民俗学は生活解説の学問として吾が常民の伝承を其の封象としてきた」
「その特徴は実地見間による資料の比較研究にある」
そのため比較研究にあたっては「より綜合的な全罷的な意固のもと」
「お互いが連絡をとって無駄な採集の重複」をしないようにしたい

ここからは、採集資料のデータベース化、そして研究者間のネットワーク構築を構想した柳田と同じ構想が語られています。
 もう少しエッセンスだけを紹介しておくと
「此学問には吾々郷上人の誰もが豊かな希望を持って参加することが出来る」
「採集は郷土人でなければ理解出来ぬ採集とされてゐる。即ち吾々の採集が最も期待され得る採集だと云ってよからう」
こうして、郷土人としての会員の採集を呼び掛けます。現在の香川民俗学会の大きな特徴でもある「郷土人による民俗学」という姿勢は、ここから生まれていると研究者は評します。
その後に、次のような報告が載せられています。
山村調査で五郷(観音寺市大野原町)を訪れた瀬川清子による「昔話のない村」
栗山雉子彦(武田のペンネーム?による「阿波祖谷山諄」
編集部による「禁忌習俗語彙採集標目」
また会員通信として、次のような文章が載せられています。
石川和夫の「幼き日の思ひ出」
佐柳太郎(これも武田のペンネーム?)の「市埃」
三宅周一の「ユゼキ」
入江道夫の「南無阿弥陀仏の弾」
『讃岐民俗』に掲載されている「本會小規」には次のように記されています。

①会の名前は「讃岐民俗研究会」で、目的は「讃岐を中心とする民間博承の組織的採集及び研究の為に会員相互の連絡をはかること」
②會報「讃岐民俗」を年四回発行し、会員に無料配布すること、年額は六十銭
③本會世話人は、石川和夫(三豊)、監田忠太郎(仲多度)、三宅周一(多度津)、川野正雄(小豆)、青井常太郎(高松)、多田勇(高松)、九山匡右(大川)、武田明(多度津)
そして「編集後記」には、「目下予定では会員は是非一村に一人以上と望んでゐます」と記されています。
 民間伝承の会の目的と方針については、上記①に「組織的採集及び研究の為に会員相互の連絡を図ること」とあり、一郡一人の会員を目指しています。『讃岐民俗』第一号の紙面構成も『民間伝承』に類似しています。ここから武田明は「民間伝承の会」の讃岐版として、讃岐民俗研究会を考えていたと研究者は推測します。「讃岐民俗』第一号は、発行後すぐに柳田に送られたようです。
翌年1939(昭和14年)1月14日の消印付けの柳田から葉書が、武田の元に残されていました。
讃岐民俗初号先拝見 先つお祝申上げ 之の昔話記述ハ非常な進況となり候 此調子で話しを集出し肝要と存候 誤植及送りかなのまちまちなるハ体裁わるく侯 ■■学問にて多度津を御選任可候 然バ、防長文化、島根民俗、因伯民談、高志路なと交換を求められるやう御すゝめ申候  諸君にもよろしく御伝え 謹言
一月吉日」
  意訳変換しておくと
讃岐民俗の初号を拝見しました。まずはお祝申上げます。この中に掲載されている昔話からは貴会の活発な活動がうかがえます。この調子で昔話を採集することが肝要です。なお誌面の誤植や送りかなの不統一は体裁が悪いです。あなたが学問拠点を多度津に選んだのであれば、防長(山口)文化、島根民俗、因伯(鳥取)民談、高志路なとの会誌交換を行い交流を図って行くことをお勧めします。諸君にもよろしく御伝えください。 謹言
一月吉日」
この中で柳田は、武田の昔話収集への励ましと、会誌体裁統一のへの指摘を行っています。さらに、当時活動を行っていた地方民俗学会である防長文化研究会、島根民俗学会、鳥取郷土会、高志路会と会報を交換し、情報交換や交流を行う事を求めています。東京の民間伝承の会を中心としたネットワークだけでなく、横のつながりを持つことを奨めています。
讃岐での研究会の発足と『讃岐民俗』発刊は、東京の民間伝承の会でも取り上げられています。
昭和14年3月『民間伝承』4巻6号には、橋浦泰雄によって「讃岐民俗」の各論文の紹介があった後に次のように記します。
「遂に讃岐にも日本民俗学の旗が立てられた事を第一に喜びたい。然し旗は比較的容易に立てられるものだが、それを護り成長させる事は、百倍の困難さを伴って居るものであるから、そのつもりで大いに頑張って頂きたい」

同じ号では、
「○讃岐民俗は続刊 遅くなりましたが創刊号送りました。誤植が多くて残念でした。紙材不足の折柄続刊を遠慮してはとの意見もありますが今の庭では続刊の決心です。年末には土佐長岡郡豊永村へ採集へ行きましたが葬制資料として素晴らしいものがありました。柳田先生の酒と民俗の放送も遠く拝聴しました。(讃岐 武田明)」

さきほどみたように「讃岐民俗』第一号では、武田のペンネームと思われる人の投稿が多く、会員からの採集報告は限られていました。 その一方で、民俗学の概論や禁忌習俗や年中行事の採集標目が示され、採集調査の際の共通の土台が築かれたことは大きな意味がありました。特に武田明が「郷土人の調査」を呼びかけたことは、現在でも学会のモットーである「郷土人の民俗学」の発端になったと研究者は評します。
最後に武田明と讃岐民俗研究会発足までの流れを整理しておきます。
①大正三年、武田明は「多度津の七福人」と称される武田家の次男として生まれた
②武田明とともに讃岐民俗研究会を設立する和気周一は、武田の兄の同級生であり、讃岐民俗研究会発足以前より知り合いであった。
③旧制多度津中学5年生の時に、「石神問答』を読み民俗学に出会い、道祖神探訪などを行うようになる。
④慶應義塾大学予科で折口信夫に国文学を学びながら、昔話の採集を始める。
⑤1935年、関敬吾主催の『昔話研究』に投稿をし、関が柳田に紹介する。
⑥木曜会や日本民俗学への出席を通じて、各地の研究者と交流を行っていた。
⑦柳田國男の指示に応じて各地に採集調査を行った。
⑧1936年6月に、民間伝承の会に三宅(和気)周一が入会する。
⑨和気周一は、民間伝承に投稿を続け、編集部から激励をうけ、研究活動(語彙収集)を続けた。
⑩1937年、慶応大学大学院を修了後、兄の召集で研究生活を諦め多度津に帰郷する。
⑪高松高等女学校教諭として、女学生による昔話採集などの実践を行った.
⑫1038年9月以降、和気周一と語彙の収集を行うほか、石川和夫らと座談会を行う.
⑬民間伝承の会会員を中心に、讃岐民俗研究会を発足させ、その中心として活動する

以上から讃岐民俗研究会の設立に至る特徴について研究者は、次のように指摘します。
A「民間博承会員が中心」に設立されたこと
B「民間伝承の会」の讃岐版として讃岐民俗研究会を構想していたこと
C「綜合的な全般的な意同のもと」「お互いが連絡をとって無駄な採集の重複」をしないように武田明は考えていたこと
これらはどれもが、柳田国男が民間伝承の会に込めた構想を継承したものです。1935年の民間伝承の会設立後、武田明によって讃岐に「移植」されたとも云えます。それだけに武田明の果たした役割が大きかったとも云えます。
以上のような整理の上に立って、研究者は次のように指摘します。
①武田明は柳田國男に師事してきたようにみえるが、古典に造詣が深く、万葉集についての講義を家族にしたことがあるほか、能や太鼓についても明るかった
②慶応大学で折口に学んだ国文学がベースになって、昔話の採集に進んでいった
③そのため折口の民俗学をも含みこむ内容でスタートした。
④その間口の広さが、讃岐民俗研究会の特徴でもある。

最後に柳田國男から武田明への葉書で印象的なものを紹介しておきます。
武田明は戦後の多度津町長選挙に立候補して、当選します。その当選直後のもののようです。

武田明宛の柳田國男の葉書


柳田國男から武田明への葉書

最初に出征していた兄の戦死の知らせが届いたことへの悔やみの言葉があります。その後に町長当選によって武田明が民俗学から離れることを危惧して、次のように記します。

「世のために学業をおすてにならぬよう願い上げ候」

ここには、武田氏の研究者としての器を評価し、学問から離れることを惜しむ柳田國男の心情が表れているように思えます。また武田明の子息総一郎氏は次のように述べています。
「柳田氏を師に持ったことを何よりも喜びとしていた父にとって、このはがきは一番の心のよりどころだった」
柳田國男氏が弟子を気遣っていることが見て取れます。武田明が柳田氏からどんな指導を受けていたかや、その関係性を知る手がかりにもなります。

讃岐の風流踊りについて書かれた書物や論文を読んでいると、否応もなく「讃岐民俗研究会」の残した業績に出会います。その中心にいたのが多度津の武田明です。しかし、武田明の生い立ちや業績については、断片的な知識しか私にはありませんでした。そんな中で出会ったのが「佐々木涼成 昭和十三年の地方民俗学会 武田明と讃岐民俗研究会成立まで 香川の民俗85号(2024年5月)」です。これを読んだ跡を読書メモ代わりに残しておきます。
 
   北前船の寄港地として、船主と、北前船を利用して各地の物産を売り買いする商人が現れます。それらの商人を廻船問屋といい、多度津でとくに有名な廻船問屋で財を成した商人を「多度津七福神(武田3・塩田2・合田・景山)」と呼んでいました。

多度津七福人
P1240919 多度津七福人
多度津七福人 商業資本から産業資本へと脱皮していく
彼らは明治時代になると、鉄道・銀行・電力など近代産業に積極的に投資して、産業資本家へと成長して行きます。武田明の生家は、曽祖父の代までは北前船で砂糖を商い、分家して以後の祖父熊造の代には肥料を商うようになります。
祖父の武田熊造は、1915(大正4)年の「人事興信録」には、次のように記されています。
香川縣平民  職業 多度津銀行、四國水力電氣株式會 各取締役 
安政元年((1854)九月二十三日生武田茂祐の二男  妻 リサ 
(略伝)
君は香川縣平民亡武田茂祐の二男にして安政元年九月二十三日を以て生れ後、分れて一家をなす。現時前記諸會の重役たり。家族は前記の外、
七女秀子(明二九、八生)・八女艷子(同三三、一二生)・九女子(同三八、二生)
孫淳(同四五、二生、二男亮太郞長男)あり。
三女ツネ(同一八、四生)は香川縣平民武田茂?
四女タメ(同二一、九生)は同縣平民大西利三郞二男豹治郞に
妹ヱイ(安政四、二生)は同縣平民景山甚右衞門に
同モト(元治元、一〇生)は同縣平民武田定治郞に 
五女末(明二三、五生)は同縣平民武田定次郞長男謙に嫁せり」
祖父熊造について、多度津町の作成したパンフレットには次のように記されています。
 安政元年(1854)9 月 23 日 生 ~ 大正 11 年(1922)3 月 28 日 没 69 歳 
菩提寺:宝性寺(本通一丁目)
廻船問屋・米穀肥料を営む。武田家分家。初代 武田茂祐の次男に生まれ、分家して米穀肥料商を営んだ。㈱多度津銀行の創立に携わり、讃岐電気㈱・四国水力電気㈱では取締役として、景山甚右衛門とともに事業の再建と安定化に尽力した。また、多度津商工会議所の前身団体や教育団体「明徳会」の設立に携わったほか、県立多度津中学校の設立に際して寄付を行ったり、私財を投じて公会堂「楽水館」を建てたりするなど、教育・産業発展のための活動にも熱心であった。政治家としては、多度津町会議員を数期にわたって務めるなどして活躍した。妹は景山甚右衛門の妻エイ。また、第14代町長で民俗学者でもある武田明(1913~1992)と、版画家の武田三郎(1915~1981)は熊造の孫である。
   ここからは祖父の熊造は、多度津銀行や讃岐電気株式会社の経営者でもあり、香川の近代化のパイオニア的な人物だったことが分かります。また、「多度津七福神」の総帥と言われた景山甚右衛門の妻は、武田明の伯母になるようです。。

   武田明の父・武田亮太郞については1928(昭和3)年版に次のように記されています。
多度津銀行、共益、多度津製氷各(株)、取締役 慶尚共立銀行、多度津魚市場、讃岐土地各(株)監査役
明治二十年二月 (1887)生 武田熊造の二男  妻 ハナ 
君は香川縣人武田熊造の二男にして明治二十年二月を以て生れ大正十年家督を相續す。現時前記各銀行會社の重役にして、縣下の多額納税者たり。
家族は二男明(大二、一二生)・三男三郞(同四、一二生)・五男迪雄(同九、四生)・六男睦也(同一二、一一生)・七男杢夫(同一四、三生)・八男克也(同一五、七生)
ここからは、武田明が8人兄弟の次男として、1913(大正2)年に生まれたこと、長男の戦死後は跡継ぎとなったことが分かります。

武田明の長男・総一郎氏が近所の人から聞いた話として、次のようなことを伝えています。
①武田家は多度津町から琴平にむけて、幅50m×14㎞の大地主だった。
②商家・大地主だった武田家には、小作人を束ねる支配人や、家に勤める男衆など様々な人々がいた。
以上からは武田家が北前船の寄港地で富を蓄積した「商業資本家」から、明治になって近代産業の「鉄道・銀行・電気」などに投資して、「産業資本家」へと成長して行く姿が見えてきます。同時に、彼らは利益を土地購入にも向けて大地主としての性格も持ちます。武田明は「多度津七福人」と称される飛び抜けて裕福な家の次男として育ったことを押さえておきます。同時に、大地主でもあった家には、多くの農民達や出入りしていたようです。これが「常民」への視線につながっていくのかもしれません。
武田明は、祖父が開設に尽力した旧制多度津中学に進学します。それまでは多度津に旧制中学はなかったので、その設立は地域の願いでもありました。
石川和夫は、旧制多度津中学校時代の武田明について次のように記します。(1938年)
①「(多度津)中学時代から民間伝承に趣味を持っていた
②「旧制中学5年のころに、家にあった柳田の『石神問答』と出合い刺激された。
③そして、一人で山深く道祖神をたずね歩くようになった
④もともと絵画が好きで、美術史を専攻したかった
⑤しかし、美術大学は学生数が少ないのと、美学という哲学のジャンルも学ぶことが求められるのが厭で断念
ここからは、柳田國男の本が家にあったこと、大学選択に関してもいろいろな情報を手に入れているなど、知的な環境の中で育ったこと、そして旧制中学時代から道祖探訪などを行っていたことが分かります。
1931(昭和6)年、武田明は、折口が教鞭をとる慶応義塾大学へ進学します。
そこで「万葉集をはじめとして源氏物語国文学史芸能史」などを学ぶと後に書いています。同級生には、加藤守男や池田爾三郎など後の国文学・民俗学者がいました。武田が昔話を専門とするようになったのは、折口の講義の影響があるようです。
1934(昭和9)年の春休みには、昔話採集のために初めて阿波の祖谷に入って、人形劇の三番雙まわしに出会います。そこで翁の神歌とちがって伝承されていない歌詞があると知ります。これが後の「祖谷山民族誌」につながっていくようです。

祖谷山民俗誌 (1955年) (民俗選書 民俗学研究所編)  武田 明,


武田明と子泣き爺
子泣き爺を阿波で最初に発見したのは武田明 

1935(昭和10)年、7月31日から8月6日には、日本青年館で日本民俗学講習会が行われます。この時の開会の辞で柳田國男は、次のように述べています。

三重、宮城、島根、香川、福岡等の重要な数県から一人も賛同者を得なかったことは残念である

ここからは、香川県からは参加者はいなかったようなので、武田明も入会していなかったことがうかがえます。

民間伝承 第十一巻第二号 民間伝承の会

しかし、その年の12月20日発行の『民間伝承』第4号に、新入会員として武田明の名があるので、この頃に民間伝承の会に加わり、柳田國男と出会ったと研究者は考えています。

1935(昭和10)年、7月31日から8月6日には、日本青年館で日本民俗学講習会が行われます。
武田明は「柳田先生の絵はがき」と題した追想で、柳田との出合いを次のように述べます。

「成城のお邸に始めてお伺いしたのは、確か昭和十(1935)年で関敬吾さんの御紹介でした。丁度その頃は雑誌「昔話研究」が刊行されて居り、阿波の祖谷の昔話を集めて来たのを先生にお目にかけると、大層励まして下さいました。それからは月に二回ぐらいお伺いしていました」

 一方で、関敬吾は次のように記します。

「武田君と初めて会ったのはいつか、もう定かに記憶していない。多分、わたしが雑誌「昔話研究」を編集していた昭和十年か十一年ごろであったろう。柳田□男先生の引合わせで、私の隔居を訪ねてこられた」

柳田國男から武田明への葉書3

柳田國男から武田明への葉書2
柳田國男から武田明への葉書(東京からの帰郷後のもの)

以上をまとめておきます。
①武田明と民俗学の出会いは、家に出入りする農民たちの暮らしに興味を持ったことに始まる。
②家にあった柳田國男の「石神間答」を読んだことで、民俗学を志す。
③慶応義塾大学予科で折口に学んだことで昔話採集をはじめ、「昔話研究」への投稿を通じて柳田と出会った。

当時の柳田國男は、木曜日ごとにほぼ毎週、砧(きぬた〔現世田谷区成城〕)の自宅で、民間伝承論を講義していました。
この聞き取りにあたったのが、後藤興善・比嘉春潮、大藤時彦、杉浦健一、大間知篤三、橋浦泰雄などでした。この中の後藤興善は後に早稲田大学の教授としてマタギの研究などで知られるようになります。この講義はのちに『民間伝承論』という題名で出版されます。このあつまりが1934年(昭和9)1月から戦後の1947年3月までつづく「木曜会」の始まりになります。「木曜会」は柳田邸を拠点とする民俗学サロンで、月に1、2回開かれ、300回以上続きます。このサロンで、全国の山村・海村調査などが計画され、研究が深められていくことになります。そして、国男の書斎は「郷土生活研究所」と呼ばれるようになります。
 木曜会に出入りしていたのは次のような人達でした

桜田勝徳・守随一、山口貞夫、最上孝敬、瀬川清子、萩原正徳(「旅と伝説」編集長)、佐々木彦一郎、倉田一郎、関敬吾、島袋源七、和歌森太郎、丸山久子、金城朝永、鈴木棠三

この中に慶応大学在学中の武田明も飛び込んでいくことになります。ある意味では木曜界に集ったメンバーが柳田國男の弟子ということになります。

柳田國男と木曜会
柳田國男と木曜会のメンバー
三軒茶屋に下宿していた武田は、柳田邸での木曜会のことを次のように記します。

木曜会の皆さんの採集報告を聞かせて戴いたり、先生のお話を伺って私にとってもこれほど有益なことはありませんでした」(武田1969)

同席していた大藤ゆきは、昔話の報告をした武田を次のように評します。
「黒い詰衿学生服の清楚な慶應ボーイ」

柳田國男は1936(昭和11)年8月に「山の神とオコゼ」と題して、次のような報告を発表しています。
「志々島では、漁の初めに葉オコゼが網にかかると、其日はマンが悪いと云って嫌ふ」(柳田1936年)

この記述は武田明の報告に依拠しています。ここからは柳田の問題提起に応じて、香川県の事例を木曜会で報告していたと研究者は考えています。

以上をまとめておきます。
①武田明と民俗学の出会いは、家に出入りする農民たちの暮らしに興味を持ったことに始まる。
②そして柳田國男の「石神間答」を読んだことで、民俗学を志す。
③慶応義塾大学予科で折口に学んだことで昔話採集をはじめ、「昔話研究」への投稿を通じて柳田と出会った。
1936(昭和11)年には、雑誌『民間伝承』に志々島の餅無し正月や三豊のモモテなどの多数報告をするようになります。そのやりとりを研究者は次のようにまとめています。
①6号で柳田が田植えの夢を見ると近親が死ぬ言い伝えを紹介
②8号で宇和島市の会員山日常助が夢の良し悪しを報告、
③9号で広島県の山田次三の夢についての報告
④これを受けて第10号で、武田明が財田村で田植えの夢が忌まれることを報告
ここからは『民間伝承』では、柳田の話題提供の後に会員がそれに関する資料を報告するという流れで進められていたことが分かります。
 雑誌への報告だけでなく、当時の武田明の次のような活動が確認できます。
①1936年8月開催の第2回日本民俗学講習会に参加
②8月11日から、山村調査で三豊郡五郷村(観音寺市五郷)を訪れた瀬川清子に随行
③「柳田先生から行って来いと言われ」、福島県双葉郡に昔話の採集調査を行い、その成果を「昔話研究12巻4号」に報告
④1937年10月末から、長野県八ヶ岳山麓での採集調査。
④の八ケ峰山麓の調査のことについて、武田明は次のように記します。

「福島県の双葉郡や信州の南佐久郡、伊予の怒和二神の島々へ先生から昔話採集に行くようにすすめられて行って来ました。双葉郡の昔話は採集して来たのをお目にかけた処、方言の記述の仕方が間違っていると散々おしかりを受けました。雑誌「昔話研究」は方言研究の人々も見ているのだから、よく注意するようにと言われ、その後は行く前には土地の方言を調べてから行くようにしました」(武田1992)

この時には、柳田國男から少額ながら旅費が渡されています。柳田國男の手足として調査活動を行う一方で、厳しい指導を受けていたことが分かります。

武田明氏の調査ノート、テープ、カメラ
武田明愛用のノートやカメラ
1937(昭和12)年4月末には、渋沢敬三にも出会います。
  渋沢栄一の孫敬三は、実業家、政治家のかたわら民俗学にも関心を寄せ、自宅にアチックミュージアム(屋根裏博物館)を私設し、宮本常一らを全国に派遣し、漁村・漁業資料や民具の収集に力を注いでいたことは以前にお話ししました。渋沢は、1937年に自ら船を仕立て、「瀬戸内海島嶼巡訪調査」として岡山から香川県域の備讃瀬戸の島々を調査を行うことになります。大学院在籍中の武田明もこれに誘われたようです。

瀬戸内島嶼巡訪調査時の記念写真
瀬戸内海島嶼巡訪調査のメンバー
 こうして5月15日から20日にかけて、備讃瀬戸の島々を船で巡るの調査活動が行われます。

瀬戸内島嶼巡訪調査

その時の旅行の記録をまとめたもので、採訪先で各々がノートに書き留めた土地ごとの暮らしや生業、民具、民家のつくり、信仰、行事、語彙といった事柄が記されています。この船には、澁澤のほかに宮本常一など著名な民俗学者や、岡山の郷土史家・岡長平も参加していていたようです。参加メンバーを挙げておきます
〈東京〉礒貝勇、岩倉市郎、小川徹、櫻田勝徳、澁澤敬三、高橋文太郎、武田明、宮本馨太郎、村上清文、山口和雄
〈岡山〉岡長平、高戸都三、永山卯三郎、花田一重
〈大阪〉宮本常一
〈広島〉結城次郎
〈高松〉高野敏夫」
巡回コースは次の通りです

  第一日】  八濱
【第二日】 味野  釜島  興島  岩黒島  櫃石島  田ノ浦
【第三日】 六口島 手島  小手島 佐柳島  眞鍋島  小飛島  大飛島 走島
【第四日】 魚島 高井神島 股島  伊吹島  室濱   志々島  高見島
【第五日】 鹽飽本島  牛島 沙彌島 瀨居島
【第六日】 牛窓町  前島  豐島  男木島 女木島
このような調査活動には宮本常一も参加しています。船での調査活動を通じて、研究者からいろいろなことを学ぶと同時に、ネットワークを形成していったことがうかがえます。同時に、武田明の瀬戸内海への島々の関心は、この時期から生まれていたことが分かります。

備讃瀬戸の民俗と風土(文 武田明 写真 高橋克夫

武田明は慶応時代の学生生活を振り返って「授業に出ずに、ほとんど調査をしていた」と回顧しています。それが頷けるほど各地で調査活動を行っています。こうして「木曜会や日本民俗学講習会への出席 + 各地への調査活動 = 民俗学者間のネットワーク形成」へと繋がっていきます。

1938(昭和13)年3月には、武田明は慶応大学大学院を修了します。
その後も研究生活を続けるつもりでしたが、兄が招集を受けたために東京での研究者としての道を諦め、地元多度津に帰ってきます。そして選んだが高松高等女学校の教員でした。この時の武田は、木曜会や民話伝承の会に後ろ髪を引かれながらの帰郷だったかもしれません。しかし、それが讃岐民俗研究会の発足につながっていきます。それは、また次回に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「佐々木涼成 昭和十三年の地方民俗学会 武田明と讃岐民俗研究会成立まで 香川の民俗85号(2024年5月」
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讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年

 前回は 「武田 明  雨乞踊りの分布とその特色    讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」の「念仏踊り」について見ました。今回は「風流小歌踊系」を見ていくことにします。風流小歌踊系の雨乞い踊りは、初期の歌舞伎踊歌を思わせるような小歌が組歌として歌われ、その歌にあわせて踊ります。讃岐に残るものをリストアップすると次のようになります。
綾子踊  まんのう町佐文
弥与苗踊・八千歳踊        財田町入樋   
佐以佐以(さいさい)踊り     財田町石野   
和田雨乞い踊(雨花踊り)     豊浜町和田 
姫浜雨乞い踊 (屋形踊り)    豊浜町姫浜 
田野々雨乞い踊            大野原町田野々
豊後小原木踊              山本町大野 
讃岐雨乞い踊り分布図
讃岐の雨乞い踊り分布図
今でも踊られているのは綾子踊、弥与苗踊、さいさい踊、和田雨乞踊、田野々雨乞踊で、その他は踊られなくなっているようです。また小歌踊の分布は、東讃にはほとんどなく讃岐の西部に偏っています。念仏踊が滝宮を中心とする讃岐中央部に集中するのに対して、風流小歌踊は、さらに西の仲多度・三豊地区にかけて分布数が多いことを押さえておきます。この原因として考えられるのは、宗教圏のちがいです。東讃については、与田寺=水主神社の強い信仰圏が中世にはあったことを以前にお話ししました。この影響圏下にあった東讃には、「雨乞い踊り文化」は伝わらなかったのではないかと私は考えていま す。それでは、雨乞い風流踊りを見ていくことにします。綾子踊については、何度も触れていますので省略します。
佐以佐以(さいさい)踊は、財田町石野に伝承する雨乞踊で、次のように伝えられます。
昔、大早魃の折に一人の山伏がやって来で龍王に奉納すれば降雨疑いなしと言って教えられたのがこの踊りだと伝わる。その通り踊ったところ降雨があった。その山伏は仁保(仁尾町)の人だと言ったので跡を尋ねたが仁尾にはそんな山伏はいなかった。さてはあの山伏は竜王の化身にに違いないと、その後早魃にはその踊りを竜王に奉納していた。

さいさい踊の起りについてはもう一つの伝説があります。

昔、この村の龍光寺に龍王さんを祀っていた。ところが龍光寺は財田川の川下であった。ある日のこと、一人の塩売りがやって来て竜王さんをもっと奥の方へ祀れと言う。そして、そこには紫竹と芭蕉の葉が茂っているのだという。村の人はその場所を探し求めると上流の谷道に紫竹と芭蕉の葉が茂っていた。そこで竜光寺の龍王を、そのところへ移して渓道(谷道)の龍王と呼んだ。それからこの龍王で雨乞踊を奉納することになったと云う。この塩売りは三豊郡の詑間から来て猪鼻峠を越えて阿波へ行ったか、この塩売りはやはり龍王さまご自身だろうと言うことになった。

この伝説からは次のようなことがうかがえます。
①財田下に龍光寺という寺があり、龍王を祀っていたこと
②それが川上の戸川の鮎返しの滝付近に移され渓道(谷道)の龍王
と呼ばれるようになったこと
③三豊の詫間から塩商人が入ってきて、猪ノ鼻峠を越えて阿波に塩を運んでいたこと

また、さいさい踊りの歌詞の中には、第六番目に次のような谷道川水踊りというのが出てきます。
谷道の水もひんや 雨降ればにごるひんや 
うき世にすまさに ぬれござさま ござさま
(以下くつべ谷の水もひんや……とつづく)
また、さいさい踊りという歌もあって、次のように歌われます。

あのさいさいは淀川よ よどの水が出て来て 名を流す 水が出て来て名を流す……

雨乞踊の時に簑笠をかぶって踊れと云われていますが、雨を待ちわびて、雨がいつ降っても身も心も準備は出来ていますよと竜神さまに告げているのかも知れません。さいさい踊りが奉納されたのは、渓道(たにみち)神社で、戸川ダムのすぐ上流で、近くには鮎返りの滝があります。
渓道神社.財田町財田上 雨乞い善女龍王
渓道(たにみち)神社
また、佐文や麻は渓道(たにみち)神社の龍王神を勧進して、龍王祠を祀っていたことは以前にお話ししました。佐文の綾子踊りには、さいさい踊りと同じ歌もあるので、両者のつながりが見えて来ます。

財田町にはさいさい踊りの他に、弥与苗(やおなや)踊があります。
弥与苗踊は八千歳踊と共に入樋部落に伝承されています。この縁起には俵藤太秀郷の伝説がついていて、次のように語られています。

昔、俵藤太秀郷は竜神の申しつけで近江の国の比良山にすむ百足を退治しょうとした。その時に秀郷は竜神にむかってわが故郷の讃岐の国の財田は雨が少なくて百姓は早魃に苦しんでいます。もし私がこの百足を退治することが出来たならばどうぞ千魃からわが村を救い給えと祈ってから百足を退治した。竜神はそれ以後、財田には千害が無いようにしてくれた。秀郷は財田の谷道城に長らく居住したが、他村が旱魃続きでも財田だけは降雨に恵まれ、これを財田の私雨(わたくしあめ)とよんでいた。

このような縁起に加えて、今も財田の道の駅がある戸川には俵藤太の墓と伝えるものや、ある家には俵藤太が百足退治に使ったという弓が残っていると云います。弥与苗踊はもともとは、盆踊りとしても踊られていたようです。真中に太鼓をすえて、その周囲で踊る輪おどりなので、盆踊りが雨乞成就お礼踊りに転用されていったことがうかがえます。ここで押さえておきますが、雨乞い踊りが先にあったのではなくて、盆踊りとして踊られていたものが「雨乞成就」のお礼踊りに転用されたと研究者は考えています。

豊浜和田雨乞い踊り
和田の雨乞い踊り(観音寺市豊浜町)
豊浜の和田雨乞踊と姫浜雨乞踊を見ておきましょう。
和田と姫浜とは、ともに豊浜町に属していて、田野々は大野原町五郷の山の中にあります。これらの雨乞踊は伝承系統が同じと武田明氏は考えます。和田の雨乞踊の歌詞は、慶長年間に薩摩法師が和田に来てその歌詞を教えたとされます。それを裏付けるように、歌詞は和田も田野々も、「四季、屋形、雨花、薩摩、目出度さ」は共通で、その踊り方も昔はよく似ていたと伝えられます。和田から田野々へ伝わったようです。
和田の道溝集落の壬生が岡の墓地には、薩摩法師の墓があります。
雨乞い踊りを伝えた薩摩法師の墓
薩摩法師の墓(豊浜町道溝)
その墓の建立世話人には和田浜、姫浜、和田、田野々の人々の名前が連なっています。法師の信者達だった人達が、供養のために建てたものでしょう。この墓の存在も、雨乞踊の歌が薩摩法師という廻国聖によってもたらされたものであることを裏付けます。しかし、「薩摩法師の伝来説」には、武田明氏は疑問を持っているようです。 
さつま(薩摩)小めろと一夜抱かれて、朝寝して、
おきていのやれ、ぼしゃぼしゃと  
さつま(薩摩)のおどりをひとおどり……
この歌詞には「さつま(薩摩)」が確かに出てきます。これを早合点して、遍歴して来た琵琶法師を、四国では薩摩琵琶の方が有名なので、薩摩法師が琵琶を弾きながら語り伝えたように誤解して伝わった可能性があるというのです。琵琶法師は、語りの他にも今様も歌って遍歴したとされます。和田、田野々などの歌は、琵琶法師によってもたらされたものとします。芸能運搬者としての琵琶法師ということになります。琵琶法師も広く捉えると遍歴の聖(修験者)になります。
 和田も田野々も、踊るときにはその前の夜が来ると笠揃えをして用意をととのえます。田野々では夜半すぎから部落の中央にそびえる高鈴木の竜王祠まで登ります。夜明けになると踊り始めて、何ケ所かで踊った後に法泉寺で踊り、最後は鎌倉神社で踊ることになっていたようです。

風流小唄系の踊りに詠われている歌詞の内容については、綾子踊りについて詳しく見ました。その中で、次のようにまとめておきました。
①塩飽舟、たまさか、花かご、くずの葉などのように、三豊の小唄系踊りと共通したものがあること
②歌詞は、雨を待ち望むような内容のものはほとんどないこと。
③多いのは恋の歌で、そこに港や船が登場し、まるで瀬戸内海をめぐる「港町ブルース」的な内容であること。
どうして雨乞い踊りの歌なのに、「港町ブルース」的なのでしょうか? それに武田明は次のように答えています。
もともとは雨乞のための歌ではなかったのである。
それが雨乞踊の歌となったのに過ぎないのであった。
私なりに意訳すると「雨乞い風流踊りと分類されてはいるが、もともとは庶民は祖先供養の盆踊唄として歌ってきた。それが雨乞成就のお礼踊りに転用された」ということになります。

最初に見たように雨乞風流小歌踊は、三豊以外にはないようです。
佐文の綾子踊だけが仲多度郡になりますが、佐文は三豊郡との郡境です。これをどう考えればいいのでしょうか。武田明氏は次のように答えます。

このような小歌を伝承し伝播していた者が三豊にいて、それが広く行なわれているうちに雨乞踊として転用されていったのではないかと想像される。そして前述の薩摩法師と伝えているものもそうした伝播者の一人でなかったかと思われる。

  芸能伝達者の琵琶法師によって伝えられた歌と踊りが、先祖供養の盆踊り歌として三豊一円に広がり。それが雨乞踊りに転用されたというのです。卓見だとおもいます。

 P1250412
滝宮念仏踊りの各組の芸司たち
念仏踊りや綾子踊りでは芸司(ゲイジ・ゲンジ)・下司(ゲジ)が大きな役割を担います。
これについて武田明氏は次のように記します。

芸司は踊りの中でもっとも主役で、滝宮念仏踊では梅鉢の定紋入りの陣羽織を着て錦の袴を穿いた盛装で出て来る。芸司にはその踊り組の中でも最も練達した壮年の男子が務める。芸司は日月を画いた大団扇をひらめかしてゆう躍して、踊り場の中を踊る。それは如何にもわれ一人で踊っているかの様子である。他の踊り手が動きが少ないのに反してこれは異彩を放っている。土地によっては芸司は全体の踊りを指導するというが指導というが、自からが主演者であることを示しているようにも思える。或いは芸司の踊りが一遍上人などの念仏踊りの型を伝えているのではないかとも思われる。

 ここで私が注目するのは「芸司の踊りが一遍上人などの念仏踊りの型を伝えている」という部分です。各念仏踊りの由来は、菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られるようになったと伝えます。しかし、年表を見ればすぐ分かるように、念仏踊りが踊られるようになるのは中世になってからです。菅原道真の時代には念仏踊りはありません。菅原道真伝説は、後世に接ぎ木されたものです。また念仏踊りの起源を法然としますが、これも伝説だと研究者は考えています。45年前に「芸司の踊りが一遍上人などの念仏踊りの型を伝えている」と指摘できる眼力の確かさを感じます。

以前に兵庫県三田市の駒宇佐八幡神社の百石踊の芸司(新発意役)について以前に、次のようにまとめておきました。
百石踊り(駒宇佐八幡神社) | ドライブコンサルタント
百石踊の芸司 服装は黒染めの僧衣
①衣裳は僧形で、白衣のうえに墨染めの法衣を着て、裾をたくって腰までからげ上げる。
②月と日(太陽)形の切り紙を貼った編笠を被り、右手に軍配団扇、左手に七夕竹を持つ。
③踊りが始まる直前に口上を述べ、踊りの開始とともに太鼓役を先導して踊る。
百石踊りの新発意役(芸司)は、実在する人物がいたとされます。それは文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧、元信僧都です。元信という天台宗の遊行僧が文亀年間に生存し、雨乞祈席を修したかどうかは分かりません。ただ、遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などに関与したことは以前にお話ししました。百石踊り成立過程において、これらの宗教者がなんらかの役割を果たしたことがうかがえます。研究者は注目するのは、次の芸司の持ち物です。
①右手に金銀紙製の日・月形を貼り付けた軍配団扇
②左手にを、赤・ 青・黄の数多くの短冊と瓢箪を吊した七夕竹
これらを採り物として激しく上下に振りながら、諸役を先導して踊ります。本願の象徴として、以下のものを好んで使用したとされます。
①空也系聖は瓢箪
②禅宗系の放下や暮露は七夕竹と団扇
彼らは人々から頼まれたいろいろな祈願を行う際に、自分たちの属する教団の示す象徴が必要でした。そのシンボルが、瓢箪と七夕竹だったようです。空也系聖と禅宗系聖の両方を混合したのが高野聖になります。ここからは、採り物についても百石踊りの成立過程には、下級宗教者(高野聖など)の関わりがうかがえます。民俗芸能にみられる芸司は、本願となって祈祷を行った修験者や聖の姿と研究者は考えています。
 しかし、時代の推移とともに芸司の衣装も風流化し、僧形のいでたちで踊る所は少なくなったようです。芸司の服装についても変化しているようです。滝宮念仏踊りで出会った地元の研究者が、次のように教えてくれました。

「戦前までは、各組の下司は、麻の裃を着て踊っていた。ところが麻やかすりの裃は、もうない。特注扱いで高価で手がでん。そこで、ある組の下知が派手な陣羽織にしたら、全部右へなれいになりました。」

以上からは芸司の服装には次のような変化があったことがうかがえます。
①古いタイプの百石踊の「芸司」は「新発意(しんほつい)=僧侶」で、法衣のうえから白欅をした僧衣
②それが綾子踊りの芸司は「裃」で、庄屋の格式衣装
③現在の滝宮念仏踊りの芸司は、陣羽織
つまり、中世は僧衣であったものが、江戸時代に「裃」になり、今は金ぴかの陣羽織に変化してきています。今では被り物・採り物だけが、遊行聖の痕跡を伝えている所が多くなっているようです。

P1250412
滝宮念仏踊りの芸司の陣羽織姿
滝宮念仏踊の中で子供が参加するのを子踊りとよんでいます。
いつ踊りだすのかとみていると、最後まで踊ることなく腰掛けています。どうして踊らないのでしょうか? 武田明氏は次のように記します。
子踊りは菩薩を象徴すると言って、入庭(いりは)の際には芸司の後に立つ。すなわち社前の正面で芸司についで重要な位置である。しかし、いよいよ踊りが始まると、社殿に向って右側の床几に腰を下して踊りのすむまでは動かない。その子供達は紋付き袴の盛装でまだ幼児であるために近親のものがつきそっている。子踊りの名称はありながら踊らない。その上、滝宮念仏踊では子踊りの子供は大人によって肩車をされて入庭するのが古くからの慣習であった。これはおそらくはその子供を神聖なものとして考えて踊りの庭に入るまでは土を踏ませないことにしていたのである。古い信仰の残片がここに伝承されていることを私達は知ることが出来る。滝宮を中心とする地方で肩車のことを方言でナッパイドウと言うが、この行事が早くからこの地方にはあったことを示している。

ただ南鴨念仏踊だけで子踊りが芸司の指図に従って踊っていて、それが特色であるように言われているが、私はかって南鴨念仏踊の保持者であり復興者であった故山地国道氏に聞いたことがある。どうして南鴨だけが子踊りが踊るのですかと言うと、山地氏はいやあれは人数が少ないとさびしいので、ああ言う風にしましたと私に語るのであった。その言葉を信じるとどうも復興した折に、ああ言う風に構成したように思われる。
 善通寺市の吉原念仏踊というのは南鴨の念仏踊の復活以前の型をそのまま移したというが、ここの子踊りは子供は踊らず、ただ団扇で足元だけをナムアミドウの掛声に合せて軽く打つ程度の所作しかしなかった。すなわち踊ることなどはしないという。それを以て見ても南鴨念仏踊の子踊りの所作が古型そのままであると考えることは出来ないのである。

子踊りに所作がなく、踊りの庭に滝宮の例のように肩車をして入って来る。また滝宮ではこれを菩薩の化身と見るということは子踊りの子供自体を考える上において極めて貴重な資料である。おそらく子踊りは神霊の依座と考えていたのである。すなわち子踊りの子供に踊りの最中に神霊の依るのを見て、雨があるかどうかを見ていたのである。子踊りは念仏踊りにおいて古くはそのように重要な意味を持つていたのである。

武田明氏は民俗学者らしく小踊りが踊らない理由を「神霊の依座」として神聖視されていたからとします。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
しかし、七箇村念仏踊りを描いた諏訪大明神念仏踊図(まんのう町諏訪神社)を見ると8人の子踊りは、芸司と共に踊っているように見えます。また、七箇念仏踊りを継承したと思われる佐文の綾子踊りでは、主役は子踊りです。武田氏の説には検討の余地がありそうです。

綾子踊り4
佐文綾子踊りの子踊り

坂出の北条念仏踊には大打物と称する抜刀隊がいます。
その人数は当初は24人で、後には40人に増やされたといいます。どうしてこんな大人数が必要だったのでしょうか。
これについては武田明氏は、次のような「伝説」を紹介しています。

正保年間の念仏踊りの折に七箇村念仏踊は滝官へ奉納のために出掛けて行った。ところが洪水のために滝宮川を渡ることが出来ないでいた。昼時分までも水が引かないので待っていたが、 一方北条念仏踊はその年は七箇組の次番であったのだが待ち切れずに北条組はさきに入庭しようとした。すると、これを見た七箇組の朝倉権之守は急いで河を渡り北条組のさきに入場しようとした事を抗議して子踊り二人を斬るという事件が起った。それから後、警固のために抜刀隊が生れた。

 この話をそのまま信じることはできませんが、武田明氏が注目するのは抜刀隊(大打ち物)の服装と踊りです。頭をしゃぐまにして鉢巻をしめ袴を着て、白足袋で草鞋を履いています。右手には団扇を持ち、左手には太刀を持ちます。そして踊り方は、派手で目立ちます。ここからは抜刀隊(大打ち物)は事件後に新たに警固のために生まれたものではなく、何か「別の芸能」が付加されたものか、もとは滝宮念仏踊とは異なる踊りがあったと武田明は指摘します。
 北条念仏踊には他の念仏踊に見ないもう一つの異なる踊りがあるようです。
それはあとおどり(屁かざみ)と言って、芸司のあとにつづいてゆく者が、おどけた所作をして踊るものです。こうして見ると北条念仏踊は、滝宮念仏踊の一つですが、多少系統を異にすると武田明は指摘します。
 綾子踊り入庭 法螺・小踊り
佐文綾子踊り 山伏姿の法螺貝吹き
法螺貝吹きについては、武田明は次のように記します。
入庭の時には先頭に立って法螺貝を吹きながら行くのである。また、念仏踊りによっては踊りはじめの時に吹くところもある。鉦、筒、鼓ち太鼓などと違って少し場違いな感じがしするものである。法螺貝吹きは念仏踊が修験の影響をうけていることを音持しているのかも知れない。(中略)
 また、念仏踊りでも悪魔降伏のために薙刀を使ってから踊りはじめるのだが、綾子踊では薙刀使いが棒使いが踊りの庭の中央て問答を言い交わす。これはやはり山伏修験がこの踊りに参加していたことを物語るものであろうか。
綾子踊り 棒と薙刀
    薙刀と棒振りの問答と演舞(綾子踊り)
このように滝宮念仏踊りや佐文綾子踊りと山伏修験との関わりについて、45年前に暗示しています。
これについては、宇和島藩の旧一本松村増田集落の「はなとり踊」が参考になります。
はなとりおどり・正木の花とり踊り
            はなとり踊り
「はなとり踊り」にも、山伏問答の部分「さやはらい」があります。「さやはらい」は「祭りはらい」ともいわれ、踊りの最初に修験者がやっていました。
 はなとり踊りの休憩中には希望者の求めに応じて、さいはらいに使った竹を打って、さいはらい祈祷が行なわれます。このさいはらい竹は上を割り花御幣をはさみこんで、はなとり踊に使用した注連縄を切り、竹の先をむすんで祈祷希望者に渡します。この竹を門に立てかけておくと災ばらいのほか、開運招福に力があるとされます。ここからは、はなとり踊が修験者による宗教行事であることが分かります。行事全体を眺めると、この踊りをプロデュースしたのは修験者たちだったことが分かります。里人の不安や願いに応えて、新たな宗教行事を創案し、里に根付かせていったのは修験者たちだったのです。それを民俗学者たちは「芸能伝播者」と呼んでいるようです。

滝宮念仏踊には願成就(ガンジョナリ)という役柄があります。
南鴨念仏踊などでは、この役柄の人が「ガンジョナリヤ」と大声で呼ばわってから踊りが始まります。「雨乞い祈願で、雨が振ってきた。諸願成就したぞ」と大声で叫んでいるようです。そうだとすれば、念仏踊りは雨が降ったための御礼の踊りであったことを示していることになります。
「私雨(わたくしあめ)」ということばが、財田の谷道神社や佐文の綾子踊りの由来には出てきます。 
どんな意味合いで使われているのでしょうか。武田明氏は次のように記します。
旱魃の時に雨が降らなければ村の田畑は枯死する。そこで雨乞い祈願には、その村落共同体のすべての者が力を結集してあたった。雨が降ればその村のみに降ったものとして財田や佐文では「私雨(わたくしあめ)」と呼んだ。この言葉の中には、自分の村だけに降ったという誇りがかくされている。夏の夕立は局地的なもので、これも「私雨(わたくしあめ)」とも呼んでいた。

雨乞い踊りの組織と規模について武田明は、次のように記します。

村に人口がふえてくるにつれて起りはささやかな雨乞踊だったものが次第に大きい規模になっていったことも容易に想像出来る。大きくなっても重要な役割の者はふやすことは難しい。それは芸司(げんじ)のように世襲になっているものもあるし、法螺貝吹きなどのように山伏などの手によらねばならぬものもあった。しかし、外まわりに円陣を作って鉦を鳴らすとか、警固の役の人数はそれ相当に増やすことは出来た。そうすると、分家によって家が増えたり、新しく村入りして来た者があったとしても誰もが参加することが出来た。こうして、もとは少人数であったものが次第に大がかりなものになって来たことが想像される。

 雨乞念仏踊は共同祈願であったためにその村落の結束は非常に強固であった。殊に滝宮へ出向いてゆく踊り組は他の村の踊り組に対して古くは非常な関心を持っていた。そこで争わないように踊りの順番までがはっきりと定められていた。それを破ったというので七箇村組が北条組との間に争いを起したのであった。しかしこのような事件はこれほど大きい事件にならなくても、これに類似した事件は再三起っていたことが記録の上では明らかである。これはどういう事であろうか。やはり踊り組の結束というか、要するに村落共同体の一つの重要な仕事であるだけに他村に対して排他的とは言わないまでも異常な関心を持っていたからであろう。

滝宮への踊り込みを行っていた念仏踊りの各組については、その後の研究で次のようなことが分かっています。
①念仏踊りは、中世に遡るものでもともとは各郷の惣村神社の夏祭りに奉納された先祖供養の盆踊りであった。
②その構成メンバーは宮座制で、惣村を構成する各村毎に役割と人数が配分されていた。
③滝宮への踊り込みの前には、各村々の村社を約1ヶ月かけて巡回して、最後に惣社に奉納された後に滝宮へ踊り込んだ。
④各組は郷を代表するものとしてプライドが高く、争いがつきもので、その度に新たなルールが作られた。
⑤「惣村制+宮座制」で、これをおどることが各村々での存在意味を高まることにつながった。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田 明  雨乞踊りの分布とその特色    讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」

 P1120875
阿弥陀三尊の磨崖仏(弥谷寺本堂下)

四国霊場第71番札所の弥谷寺は、死霊が赴く「イヤダニマヰリ」の習俗が残る寺として紹介されてきました。昭和の時代に弥谷寺を紹介した記事には、どれも死霊が生者に背負われて弥谷に参る様子が描かれ、NHKの新日本紀行にも取り上げられていた記憶があります。私にとっては
「弥谷寺=死霊の集まる山=イヤダニマヰリ(詣り)」

という図式が刷り込まれていました。
 ところが最近の弥谷寺を紹介した記事には、「イヤダニマヰリ」に触れたものが殆ど見られません。これも「流行」なのかなと思っていると、どうもそうではないようです。「イヤダニマヰリ」そのものの立場が揺らいでいるようです。

P1120845

イヤダニマイリをめぐって、何が問題になっているのかを見てみることにしましょう。
テキストは「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」です。
  柳田民俗学は
「死者の霊魂は里に程近い山に籠る」
という祖霊観を掲げています。
このテーゼを証明するための数多くの民俗学的な調査が各地で行われてきました。そのような中で戦後の1950年代に、死霊の集まる山=「イヤダニマヰリ」として中央学界に紹介したのが地元、多度津町の民俗学者、武田明氏です。この研究は、柳田民俗学の死霊・祖霊観を立証する例として評価されるようになります。

Amazon.co.jp: 日本人の死霊観―四国民俗誌: 武田明: 本
  1999年刊行の『日本民俗大辞典』には「「イヤダニマヰリ」として、次のように解説されています。
「香川県西部に行なわれる、死者の霊を弥谷山に送って行く習俗。弥谷山は香川県三豊郡三野町と仲多度郡多度津町にまたがる標高382メートルの山で、300メートル付近に四国八十八ヵ所の第71番札所、剣五山弥谷寺(真言宗)がある。この山は香川県西部、ことに三豊郡・仲多度郡・丸亀市およびそれに属する島嶼部一帯で死者の行く山と考えられており、葬送儀礼の一環として弥谷参りが行なわれた。
 特に近年まで盛んだったのは荘内半島(三豊郡詫間町)である。同地の例では、葬式の翌日か死後三日目または七日目に、血縁の濃い者が偶数でまずサンマイ(埋め墓)へ行き、『弥谷へ参るぞ』と声をかけて一人が死者を背負う格好をして、数キロから十数キロを歩いて弥谷寺へ参る。境内の水場で戒名を書いた経木に水をかけて供養し、遺髪と野位牌をお墓谷の洞穴へ、着物を寺に納めて、最後は山門下の茶店で会食してあとを振り向かずに帰る。この間に喪家でヒッコロガシと呼ぶ竹製四つ足の棚を墓前につくり、弥谷参りから帰って来た者が鎌を逆手にもってこれを倒すという詫間町生里などの集落もある。
 山中を死者の行く他界と考え、登山し死者供養を行う例は各地にあるが、死亡後まもない時期に死霊を山まで送る儀礼を実修するところに、この習俗の特色がある。近年は弥谷寺で拝んでもらい、再び死者を負うてサンマイに連れ帰るとするところも多く、弥谷寺ではなく近くの菩提寺ですます習俗も広まっている。なお、イヤダニやイヤを冠した地名(イヤガタニ、イヤノタニ、イヤンダニ、イヤガタキ、イヤヤマなど)は古い葬地と考えられ、弥谷山にもその痕跡がみられる。」
弥谷寺が祖霊参りの山として定着したかのような中で、「異議あり」と名乗りを上げる研究者が出てきます。
日本民俗学 第233号 Bulletin of the Folklore Society of Japan NIHON ...

2003年『日本民俗学』誌上に発表された森正人の研究ノートです。
森氏は、「イヤダニマイリ」の習俗がこれだけきちんと分かるのなら、どうして今までの研究書は触れてこなかったのかという疑問から始めます。確かに戦前の『香川縣史第二版』(1909年)や中山城山の『國諄 全讃史』(1937年)、また弥谷寺の地元、三豊郡大見村の『大見村史』(1917年)には、「イヤダニマイリ」の記述は何も載せられていません。
 その理由を、それまでは地元ではなかったものを「死霊の集まる山」にアレンジして発表したからだと、次のように指摘します。

「この習俗は香川県の民俗学者である武田明が発見し、民俗学界にその存在を発表したから」

 そして、武田氏の民俗学者としての成立過程、研究史、調査記録、中央学界との関わりと地方学会(香川民俗学会)における権威化、関係者の証言、さらに現地調査まで含めて詳細に検討していきます。その結果として、弥谷に参る習俗の存在は認めるものの「イヤダニマイリ」という民俗概念はなかったと結論づけます。
  そして、柳田民俗学の祖霊観を実証するために、様々なデータが組み合わされた作為的な研究であると指摘します。これは弥谷参りだけでなく、他の事例も含めた民俗学全体の研究方法への批判も含んでいました。
日本村落信仰論( 赤田 光男 著) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の ...

このような批判の上に、新たな視点から弥谷参りに取り組んだのが赤田光男氏です。
もともと、武田氏の弥谷参りの研究は両墓制との関連が重要ポイントでした。両墓制とは、
「死体を埋葬する墓地とは別の場所に、石塔を建てる墓地を設ける墓制」

のことで、一般に前者を「埋め墓」、後者を「詣り墓」と呼び、弥谷参りがみられる荘内半島の生里、積、大浜などの集落、仁尾町、高見島、志々島、栗島といった島嶼部一帯に見られます。この地域では、埋め墓を「サンマイ」、詣り墓を「ラントウ」と呼びますが、両墓制が強く残る地域でした。
  武田説を、簡潔にまとめておくと次のようになります。
古来、この地域一帯の村々では「埋め墓」しかなく、霊魂祭祀の場が弥谷山であったのであり、その祭祀行為の残存が「弥谷参り」ではなかったか。そしてその後、弥谷山信仰が衰えていくに連れて村内に「詣り墓」が形成されていったのではないか
 
これに対して、赤田光男は
「弥谷山のすぐ下の大門、大見あたりであればこのことがいえるかもしれないが、両墓制地帯の荘内半島や粟島、志々島のような離れた所が、古くから弥谷山を唯一の霊魂祭祀場としていたか疑問が多い」

としてます。そして、荘内半島の箱集落(約225戸)について平成3年(1991)に両墓制と弥谷参りを中心にした全戸調査を行います。その結果、次のような事を明らかにします。
①初七日に死霊を弥谷山に連れて行くことを「オヤママイリ」、永代経の時(旧2月13から15日)に弥谷山に行くことを「イヤダニマイリ」と呼んで区別していること、
②オヤママイリ(弥谷参り)については、詣り墓が設けられている村内の菩提寺(香蔵寺)の勧めもあって昭和25,6年(1950,1)頃、廃止され、その後は香蔵寺がオヤママイリの対象となった
弥谷寺 九品浄土1
弥谷寺の九品浄土に彫られた南無阿弥陀仏

 一方で、武田説には欠けていた弥谷寺の歴史的研究も進めます。そして境内の祭祀場や宗教遺跡の検討も進め、中世以来弥谷寺を崇敬し保護してきた戦国時代の領主、香川氏や生駒氏、その後の山崎氏との関わりも考察していきます。
結局、荘内半島・箱集落の霊魂祭祀の場の変遷は、
①原始古代においては紫雲出山ないし家の盆正月に臨時に作られる霊棚
②中世においては、浦島太郎の墓伝説をともなう惣供養碑的残欠五輪塔、さらに香蔵寺、弥谷山
③近世においてはラントウ内の家型石厨子や詣墓石碑
④明治以降においてはサンマイのオガミバカ(拝墓)
の4段階を経ていることを明らかにします。
 この赤田説では、弥谷山は「中世」に霊魂祭祀の場として登場してきたことになります。その背景を次のように指摘します。

「香川氏は天霧山に貞治元年(1362)頃に城を築き、またこの頃に弥谷寺の檀越となり、山内に一族の墓地を作って菩提寺とし、弥谷山信仰を高め、そのことが庶民のイヤダニマイリを拡大、助長したと推定される」

ここには南北朝時代以後に讃岐守護代として天霧城を拠点に勢力を野伸ばした香川氏と関係を持ち、その菩提寺となることによって弥谷寺は寺勢を伸ばしたと、在地勢力との関係を重視します。
以上から赤田説をまとめると
①弥谷参りと両墓制は、分離して取り扱うべきである
②弥谷参りという習俗の背後に、天霧領主・香川氏の影響力があった
つまり、武田氏の示したように弥谷寺詣りは古代からの祖先神祀りに、仏教が後からやって来て組織化されたものではなく、弥谷寺が中世に作り出したものであるとします。
ここまで来ると、次の射程に入ってくるのが「死霊、さらにそれが浄化された祖霊は、里近くの山に籠る」という柳田民俗学の命題そのものです。このテーゼは、柳田國男が戦後直後(1946年)に「先祖の話」で定式化したものです。
柳田國男著「新訂 先祖の話」

これに対して歴史学者の中には
「定式ではなく、仮説として捉えなおし、再考すべきだ」

という考えも出てきているようです。
 例えば、赤田氏は次のように述べています。
「身体から離脱した霊魂が、身体が朽ちてもなおどこかに住み続け、時々わが家を訪れて子孫の生活を守護するという考えがまさに祖霊信仰の根幹をなすものであり、そうした宗教意識がいつ頃発生したのか明確な答えは今のところない。」

控えめな指摘ですが、ここには柳田民俗学の祖霊信仰が古代に遡るという命題への疑義がうかがえます。

弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」

佐藤弘夫は、この問題に正面から答えようとして、次のように指摘します
「柳田國男が論じ、多くの研究者が祖述してきた山に宿る祖霊のイメージは、けっして古代以来の日本の伝統的な観念ではない。人々が絶対者による救済を確信できなくなり、死者が他界に旅立たなくなった近世以降(17世紀~)に、初めて形成される思想だった」

 山に祖霊が宿るというのは古代以来のものではないと、柳田民俗学への疑義をはっきと打ち出した上で、それが近世以降の歴史的なものであると主張します。
 佐藤氏の到達した地点からは、次の新たな課題が見えてきます。
弥谷寺の祖霊信仰が古代まで遡るものでないとすれば、それでは中世の弥谷信仰とは何であったのかという疑問です。
この疑問に応えようと現在の研究者は、調査研究を続けているようです。
今後の弥谷寺研究の課題の方向性を探ると次のようになるようです。
①中世に祖霊信仰を広げた宗教勢力とはなんであったのか。
②その宗教者たちと弥谷寺の関係は、どうであったのか
③どのような過程を経て、祖霊信仰の霊山から真言密教の霊場へと弥谷寺は変身をとげたのか
 ここには、武田氏によって戦後華々しく打ち出された古代以来の祖霊信仰の霊山としての弥谷さんの姿はないようです。ひとつの仮説が
研究によって批判・検証され克服されていく姿がここにはあります。
それが歴史学の発展につながるようです。

参考文献テキスト
「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」
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