瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:水の祭礼

香川県史14巻民俗編の東植田町についての聞取調査報告を読みながら、現地を訪れていろいろ考えたことをまとめています。今回は、東植田町の下司廃寺跡と近くの大泉神社の湧水をみながらボケーと考えたことを書いておきます。「現場でボッケーと考える妄想シリーズ」です。時間と興味のある方はお付き合いください。
まずは髙松南部の丘陵地帯を見ていくことにします。
 東植田町はゆるやかな丘陵地帯が続きます。背後の讃岐山脈の連なりからすれば、ほんのわずかなふくらみにしか見えません。こうした丘陵地帯に降った雨は、多くの枝分かれした谷を通って、高松平野に流れ出して行きます。川と言っても短く、雨を集める流域面積もたいしたことはないので、ふだんはほとんど水が流れなかったでしょう。その一方で、大雨が降ると土砂を含んだ雨水が急激に流れ出し、平地部の川の天井川化や洪水を引き起こすことがしばしばありました。
 地面にしみ込んだ雨水の一部は地中にもぐり、地層の切れ目から湧き水として出てきます。それは多くはありませんが、コンスタントに湧出します。丘陵南端に見られる「垂水(湧水)」は、この地下水の出口です。
そのひとつである東植田町の下司の大泉神社の湧水を見ておきましょう。
 
東植田町 下司廃寺2

地形図で見ると、郷や下司の南側にはいくつの小さな尾根が南北に走り、その両側に小さな谷が開かれています。その谷を流れるいくつもの川は、北で朝倉川に流れ込み、西へと流れて稗田で春日川に合流し、髙松平野に流れ出していきます。朝倉川と高様川の合流点が下司になります。

東植田町 下司廃寺
髙松市東植田町下司周辺の土地利用図
ここでは、下司・郷・杣尾・高柿は、周囲からの小さな川がいくつも流れ込む小盆地地形にあることを押さえておきます。これらの谷川の水に頼れば、春日川などの洪水の被害を受けずに、稲作が出来るので早くから開発が行われたようです。
 下司には、 弥生時代後期から古墳時代にかけての遺跡が多く、下司廃寺の塔跡も残っています。

髙松市植田町清光神社2
下司廃寺跡近くの湧水
この塔跡は春日川の支流朝倉川の南岸段丘上にあり、古代の山田郡植田郷条里二条二里八坪に位置します。方約10m、高さ2mの塔基壇が残り、樟の大木の下に塔礎石が5個ほど顔をのぞかせています。

髙松市東植田町 下司廃寺の白鳳時代の軒丸瓦
その周囲には多量の古瓦片が散らばっていて、白鳳期後半の「川原寺式の退化型式の複弁八葉軒丸瓦」も出土しています。また、塔基壇北部で採集された四国唯一の三尊像嬉仏破片は、白鳳期特有のもので、飛鳥の弘福寺の荘厳にも使用されているものです。ここからは下司廃寺建立にあたり、瓦製作や堂宇建設の様々な支援や情報を中央の貴族から直接的に得ることのできた氏族がいたことがうかがえます。想像を膨らませるなら、中央貴族との強い結びつきをアピールするために「讃岐の川原寺」としての荘厳が行われたのかもしれません。どちらにしても渡来系の氏族でしょう。そしてちかくには、この氏寺を建立した氏族の居館もあったはずです。古代の下司は、この周辺の支配・文化センターであったことになります。
下司廃寺跡2
下司廃寺塔跡 塔楚石らしき石が5ケある
私は、下司廃寺の西にある「大泉神社の湧水」周辺が豪族の舘があった所ではないかと想像しています。
大泉神社の湧水
大泉神社の湧水(東植田町下司)
今は蓋をされて見ることも出来な小さな湧水(出水)です。しかし、もともとの名前は「大泉神社」です。聖なる泉が湧きだし、そこが聖地とされ神社が建立されて、信仰対象となっていたことがうかがえます。地形から考えても、そんなに多くの水量が湧き出ていたとは思えません。しかし、水に乏しい丘陵部では、わずかでも水が湧き出していれば、人々の関心を引くには十分です。少量でもコンスタントな湧き水があることは、有利な条件です。ここに「水の神」を祀り、この湧水(泉)を源に舘が構えられていたという想像です。
DSC05364
琴平町榎井の春日神社の本殿横の出水 神聖な場所として信仰されてきた
DSC05362
今も澄んだ水が湧き出してくる榎井の春日神社の湧水
古代の人達にとって、泉(湧水)とは、どんなものであったのかを見ておきましょう。

泉信仰が鏡信仰へスライド移行した    
古代の泉への信仰は、鏡への信仰にスライとしたと民俗学者たちは考えています。
神話に登場する泉の3つのタイプ
神話には以上のような3つのタイプの泉が登場します。泉は信仰対象でした。そこでは、聖なる儀式や神事が行われるのも林の中の泉でした。このような湧水(泉)は、宗教的の信仰対象であったことは以前にお話ししました。
 泉や井戸や川が祭祀遺跡として見られるようになったことを研究史で押さえておきます。
1976年に、奈良盆地の纏向遺跡の報告書「纏向」が出されます。その中の「三輪山麓の祭祀の系譜」で、湧水に達するまで掘られた土墳から 容器・農具・ 機織 具 ・焼米・水鳥形木製品・ 舟形木製品・稲籾などが出土し、その湧水の隣には建物を伴う祭祀が行われていたことが分かってきました。これを「火と水のまつり」として「纏向型祭祀」とします。
 文献史学の立場からは、風土記や日本書紀などに描かれた「 井 」や「井水」の祭儀の重要性が指摘されるようになります。そして水神信仰の例が「延喜式」などからも説かれるようになり、さらに「風土記』に記されてた井泉とかかわる地名起源伝承から、地域首長が井水に対する祭祀を行う風習が各地にあったことも明らかにされます。
水の祭礼 滋賀県の服部遺跡の導水施設の構造図

滋賀県の野洲川下流域の弥生中期の下鈎遺跡からは、泉(湧水)からの祭礼場所までの導水施設が出てきました。水の祭礼が行われた聖なる場所です。

下鈎遺跡の導水施設下鈎遺跡の導水施設イラスト
弥生中期の下鈎遺跡
弥生中期の下鈎遺跡では、泉(井戸)から祭礼の行われる覆屋まで聖なる水を導いています。土坑には覆屋が被せられ、近くには祭祀用の掘立柱建物もあります。これが「水の祭礼」現場の祖型と研究者は考えています。ここでどんな「水の祭礼」が行われていたかを復元図で見ておきましょう。

水の祭礼 下鈎遺跡の導水施設での祀り(想像図)
下鈎遺跡の復元図 (https://mizunosaishi.yayoiken.jp/w-d-matsuri.html 
導水施設とそれを覆い隠す覆い屋、(左上)
祭祀を執り行ったと考えられる掘立柱建物(右上)
その間に広がる「広場」
それら全体を区画溝で区切るなどの祭祀遺構が揃っています。また、導水施設周辺には何も遺物はなく、区画溝には多量の土器・炭化物、焼けた土が入れられています。これらの事実より、ある程度の祀りの様相が見えますが、祭祀の主体は分かりません。」

服部遺跡の導水施設服部遺跡の導水施設
古墳時代早期の水の祭礼
                
鈎遺跡の導水施設状遺構イラスト

 古墳中期の下鈎遺跡の「水の祭礼」
水祭礼 奈良県かしはら考古学研究所博物館の想像模型
水の祭礼 

この時期になると、浄水部に当たる土坑に祭祀具を捧げる儀式が行われるようになりました。そばには独立した土坑もあります。祭祀用の建物も建てられていました。木槽はなく土坑ですが、多くの玉製品が入れられており「水辺の祭祀」の場となっています。そして「聖なる水」を得る導水施設から「水辺の祭祀」に変わったようです。独立棟持柱建物の大型祭殿と、その前面にある井戸の組み合わせは、「特別な水」を用いる首長の祭祀遺構に発展したと研究者は考えています。

ここで行われた儀式について、研究者は次のように記します。
この儀礼は渡来人と首長を含めた少人数で、夜間に執行された、水を用いた秘儀であった可能性が高い。閉鎖的な空間はそれを象徴していよう。また、供物として肉、塩、果物、水などが土器や木製容器などに盛られ、机の上にならべられた。量が多いので、適宜入れ替えられた可能性がある。上記アイテムのうち、モモ、ヒョウタン、ウマ、壷などは水を連想させる。建物の外側には盾や蓋を立てかけ、内部は要所を石製品などで飾ったと考えられる。参加者は竪櫛や勾玉などを身につけ、刀剣を帯び、下駄を履き、従者にさしばや蓋を翳させて、椅子もしくは木樋脇の板に着座したと考えられる。
 飾りつけが終わり、一同が揃うと、木製品を使って農耕、機織り、戦い、音楽などの情景を、場面を入れ替えながら演者が水を用いて象徴的に演じたと考えらる。なお、儀礼終了後、それらの木製品は刃物で斬りつけられ、火をつけてから、ダムか木樋周辺に投棄した可能性がある。その他の遺物も、順次水に投棄されたようだ。ところで、この施設は、一見したところ恒久的な性格を帯びているように見えるが、1回しか使われなかった火きり臼の存在などは、短期間しか使われなかった可能性も残す。
青柳泰介 2010「ヤマト王権と水のマツリ」安土城考古博物館」
  そして「水の祭祀」について、研究者は次のように考えています。

常に湧きあ ふれ出る井泉の水の生命力・ 永遠性は、首長権の象徴にもなり、井水は首長権 の継承儀礼にも欠かせないものであるとともに、 地域首長にとって国の物代ともいえる聖水を大王に体敵する行為は大王への服属の証として 重要な儀礼となっていった

湧水点祭礼 城の越遺跡4
城之越遺跡(三重県上野市) 湧水近くに建てられた豪族の舘

古墳時代の首長居館跡とされる城之越遺跡の調査報告書には、次のように記します。
①湧水に隣接してあった大型建物は、首長居館・居宅遺構であったこと
②湧水点祭祀の主宰者が地域首長層であったこと
③湧水点祭祀が古墳時代首長の実施する祭祀の中でも最も重要度の高いものであったこと
 この遺跡だけでなく井泉と大型建物がセットで出土している遺跡は各地にあり、その建物形式も共通していることが指摘されます。ここからは首長層の間に湧水点祭祀について、なんらかの全国統一マニュアルがあったことが想定できます。これが飛鳥の「水の遺跡群」に、成長・発展していくと研究者は考えているようです。

湧水点祭礼 飛鳥
    用明天皇の水の祭礼遺跡(奈良明日香)
下司の大泉神社の泉は、このような祭礼儀式の場として相応しいと私には思えてくるのです。そういう目で周りを見回していると、このあたりの風景も飛鳥の丘陵地帯とよく似ているように思えます。髙松平野の春日川などの龍のように暴れる大河をコントロールできない古代の支配者が撰んだ生活基盤は、下司のような場所だったのではないかと思えてくるのです。 「現場に立って妄想するシリーズ」でした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
導水施設と水の祭礼 https://mizunosaishi.yayoiken.jp/w-rekishi.html
青柳泰介「ヤマト王権と水のマツリ」安土城考古博物館」
香川県史14巻民俗編 東植田町

関連記事

 

          DSC05362
春日神社(琴平町)の本殿横の湧水 
 丸亀平野の扇状地上にある古い神社を訪れると、境内に湧水が湧き出しているところがいくつもあります。古代人にとって、大地からこんこんと湧き出し、耕地に注ぐ湧水は土地のエネルギーそのもので、信仰対象でもあったのでしょう。
泉信仰が鏡信仰へスライド移行した    

その湧水や人工的に作られた導水路に対して豊穣を祈願することは、ある意味では首長の権利であり役割であって、これをきちんと行うことが、地域支配の根拠(正当性)でもあったと研究者は考えています。これは古くから中国で「黄河を制する者が天下を制する」とされ、治水灌漑事業を行う者が、天下の覇者となることを正当化することと通じるものがあります。治水灌漑の土木事業の進展と共に、水に関する祭礼儀式が生み出されたとしておきましょう。湧水点は、聖地だったのです。

神託は聖なる泉で行われていた

DSC05364
            春日神社の湧水

 湧水地(水神)になんらかの宗教施設が加えられ、後に神社になっていったという仮説が湧いてきます。

琴平大井・春日神社

 例えば琴平周辺では、旧金倉川跡に南北に並んで鎮座する大井八幡・春日神社・石井八幡は、それぞれ境内に湧水地があります。そこから導水路が下流へと流れ出し、今でも水田の灌漑に使われています。この原初の姿を想像すると、弥生時代に稲作農耕が始まった時に、この湧水は下流の農耕集団の水源とされ、同時に信仰対象となったのではないかという気がしてきます。そして、時代が下ると宗教施設が設けられ、神社が姿を現すようになったというのが私の仮説です。今回は、湧水から神社はどのように生まれたを知るための読んだ文章の読書メモになります。テキストは「北条勝貴 古代日本の神仏信仰    国立歴史民俗博物館研究報告 第148集 2008年12月」です。

DSC05339
大井八幡神社境内の湧水
古代の神社に祀られるようになった「神」は、古墳時代に生まれていると研究者は考えているようです。
前方後円墳での儀式は、喪葬と首長霊継承の関連で語られていました。しかし、墳墓の造出し部分の発掘成果によって、それだけではなく古墳は、首長が行ういろいろな宗教行為のパフォーマンスの場が古墳であったとされるようになってきました。古墳では、中央や地域の王権を支えるさまざまな祭祀が行われていたこと、それが、次第に古墳から離れて豪族居館や、神霊スポットへと移り、独自の祭祀空間を獲得していくようになります。その時期が5世紀後半~6世紀前半で、この時期が「神の成立」期だと研究者は考えているようです。  
 その原型は古墳時代には、登場していたと云うことです。

DSC05347
大井八幡神社(琴平町)境内の北大井湧水
  井戸や川を祭祀遺跡として見るようになったのは、戦後のことになるようです。
少し、研究史らしきものを記しておきます。
1976年に、奈良盆地の纏向遺跡の報告書「纏向」が出されます。その中の「三輪山麓の祭祀の系譜」で、湧水に達するまで掘られた土墳から 容器・農具・ 機織 具 ・焼米・水鳥形木製品・ 舟形木製品・稲籾などが出土し、その湧水の隣には建物を伴う祭祀が行われていたことが分かってきました。これを「火と水のまつり」として「纏向型祭祀」と記されています。

神話に登場する泉の3つのタイプ

 また文献史学の立場からも 風土記や日本書紀などに描かれた「 井 」や「井水」の祭儀の重要性が指摘されるようになり、古代日本の水神信仰の例が「延喜式」などからも説かれるようになります。さらに「風土記』に記されてた井泉とかかわる地名起源伝承から、地域首長が井水に対する祭祀を行う風習が各地にあったことも明らかにされます。

  そして「水の祭祀」については、次のように理解されるようになります。
常に湧きあ ふれ出る井泉の水の生命力・ 永遠性は、首長権の象徴にもなり、井水は首長権 の継承儀礼にも欠かせないものであるとともに、 地域首長にとって国の物代ともいえる聖水を大王に体敵する行為は大王への服属の証として 重要な儀礼となっていった

  水辺の祭祀は 、現在では次のふたつに分類されるようです。
①河川等の水の流れる所で行われた「流水祭祀」
②水の湧き出る所で行われたであ ろう「湧水点祭祀」
  その代表的な三重県の城の越遺跡を見ておきましょう。
湧水点祭礼 城の越遺跡1

  城之越遺跡は、新聞報道では「日本最古の庭園」と紹介されています。しかし、これは湧水を祭場に「加工」した湧水点祭祀跡です。それが、「庭(園)」にもなっていきます。この泉水遺構は,人工的に敷き詰められた石積みとともに約30年前に発掘されています。
湧水点施設1

同時に、儀式用の土器(高杯など)や刀剣型の木製品なども多数見つかっっています。これらの出土品から4世紀後半ごろに、ここで水に関する何らかの祭祀が行われていたようです。
湧水点祭礼1

祭祀遺構のすぐそばには、大型建造物の跡も見つかっていています。

湧水点祭礼 城の越遺跡4
城之越遺跡 湧水近くに建てられた豪族の舘

この建物の分析から、次のような点が分かってきました。
①湧水に隣接してあった大型建物は、首長居館・居宅遺構であったこと
②湧水点祭祀の主宰者が地域首長層であったこと
③湧水点祭祀が古墳時代首長の実施する祭祀の中でも最も重要度の高いものであったこと
 さらに、この遺跡だけでなく井泉と大型建物がセットで出土している遺跡は各地にあり、その建物形式も共通していることが指摘されます。この背景には、首長層の間に湧水点祭祀について、なんらかの全国統一マニュアルがあったことが想定できます。

湧水点祭礼 城の越遺跡3
庭園の石組みのようにも見える城の越遺跡の湧水施設

 また、湧水点では、誓約儀礼も行われた可能性があるようです。「記紀神話」のアマテラスとスサノフの誓約とよく似ているとされます。とすると、古墳時代の水に関する儀礼が、記紀神話にも取り込まれていることになります
湧水点祭礼 飛鳥
飛鳥の水の祭礼遺跡

飛鳥の水の祭礼遺跡です。先ほど見た城の越遺跡との間には、約200年の隔たりがあります。しかし、飛鳥の施設が城の越遺跡の発展系であることは想像ができます。湧水の下に導水施設が組まれています。これはより奇麗な水を濾過する装置と研究者は考えています。
湧水点祭礼 飛鳥京跡苑池
飛鳥京跡苑池
  橿考研の岡林孝作調査部長は、次のように云います。
「飛鳥京跡苑池は宮殿の付属施設であり、流水施設も王権に関わる水のまつりの場だったと考えられる」

 飛鳥には、大王に関わる水祀りの施設が、酒船石遺跡などを含めて、いろいろな所に作られ、それは「庭」とも考えられてきたのです。そのため「庭園遺跡」という見出しを付ける記者も出てきます。これは、さきほど見た古墳時代の城之越遺跡の湧水点遺跡と導水遺跡の複合系遺跡と研究者は考えています。
 
以上をまとめておくと
①出水、湧水は弥生維持代から神聖なものとして信仰対象とされ水神が祀られた。
②古墳時代になると豪族によって、湧水周辺の開発と治水灌漑工事は行われ、湧水周辺には附属施設や豪族居館が建設されるようになった。
③さまざな儀礼が湧水周辺では、豪族主催の下に行われるようになり、湧水点遺跡や導水遺跡が整備されるようになる。
④周辺は石畳で聖域化されるなど、整備が更に進む。
⑤このような水の祭礼施設は、大和の大王のもとでも整備され、それが飛鳥の湧水点施設や流水施設である。

とすると、このような施設は讃岐の古墳時代の豪族も作っていたことが考えられます。佐伯氏支配下の善通寺周辺にも、このような水の祭礼に関わる施設があったのかもしれません。しかし、善通寺一円保絵図に描かれた壱岐の湧水や二頭湧水には、神社は描かれていません。ふたつの湧水に今も神社はありません。なぜ、壱岐や二頭湧水に神社が建立されなかったのかが私にとっては疑問なのです。
 それにたいして、最初に紹介した琴平の旧金倉川の伏流水の上に鎮座する大井神社・春日神社・石井神社には、後に神社が姿を見せます。さらに、荘園化されると春日神社のように荘園領主の九条家(藤原氏)の氏神である奈良の春日大社が勧進され、合祀されます。さらに後世には、八幡神までも合祀されていきます。そのもとは湧水に宿る水神信仰が出発点だったのかもしれません。
今日もまとまりのない内容になってしまいました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「北条勝貴 古代日本の神仏信仰    国立歴史民俗博物館研究報告 第148集 2008年12月」
関連記事


このページのトップヘ