瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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 増吽(与田寺)

戦前に「弘法大師に次ぐ讃岐の高僧」とされた増吽は、戦前には忘れ去れた人物になっていました。それに再び光を当てて再評価のきっかけをつくったのが、「長谷川賢二 増吽僧正 総本山善通寺 善通寺創建1200年記念出版」です。
増吽僧正(武田和昭 著 ; 総本山善通寺 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この本の中では、増吽は次のようないくつかの顔を持っていたことが指摘されています。
①熊野信仰に傾倒する熊野系勧進聖
②弘法大師信仰を持つ真言僧侶
③書経・工芸集団を束ねる先達僧侶
 増吽はその87年の生涯の大半を社寺の復興と熊野参詣に費やしたようです。そのためか思想的・教学的な著作はほとんど残していません。この点が、善通寺中興の宥範と大きく異なる点です。
しかし、増吽はその遺品を水主神社・与田寺など香川県・岡山県の寺院に、何点か残しています。 今回は増吽の残した遺品から研究者がどんなことを、読み取っているのかを見ていくことにします。

  地元の大内郡与田・水主周辺には次のような増吽の遺品が残っています。
①十二天版木(東かがわ市・与田寺蔵)
②大般若経函(東かがわ市・水主神社蔵)
③大般若経(東かがわ市・若王寺蔵)
④水主神社旧本社蟇股(東かがわ市・水主神社蔵)
⑤水主神社扁額(東かがわ市・水主神社蔵)
  この内①②については以前にお話ししましたので今回は触れません。③から見ていきます。
大般若経(東かがわ市・若王寺蔵)
熊野権現を祀る与田神社(中世には若王子、近世には若一王子人権現社)の別当であった若王寺に残された大般若経には、つぎのような話が伝えられています。
元弘の乱に際して護良親王は、赤松則祐などとともに与田の地に逃れ、武運を析願して「大般若経50巻を書写し、若王寺に奉納した。その後、応永6年(1399)のころに、則祐の甥である赤松前出羽守顕則が与田山を訪れ、親王直筆の経巻を播州法華山一乗寺に移し、代りに『大般若経』600巻を奉納した。

これは東かがわ市の若王寺蔵の『若一王子大権現縁起』に記されいることです。しかし、これが史実かどうかはよくわかりません。これに関連して巻449には、次のような書き込みがあります。

願主赤松前出羽守源朝臣顕則 丁時応永八年二月七日末剋斗書写畢 讃州大内部与田山常住御経

また、巻一には、次のように記されています。
丁時応永九年歳二月三十日 敬以上筒日夜功労哉
謹奉外題哉      虚空蔵院住持金資増(吽?) 生年三十七
           并亮勝房増範
           明通房増喩
丁時応永六年己卯正月十一日立筆始
自同二月九日書写也 右筆真海六十九
ここからは次のようなことが分かります。
①この大般若経書写が応水六年(1299)に始まり、応永九年に終わったこと。
②外題を書いたのは増吽と増範と増喩の3人で、増吽はこの時、37歳で虚空蔵院の住持であった
③増吽が史料の中に登場するのはこの応永九年(1402)が初めてであること。
④第一巻は「入野山長福寺住呂真海」がおこなっていること。
 真海は全部で29巻も書写しています。真海が、この写経事業にはたした役割は大きいようです。
この他にも「入野郷下山長福寺住僧詠海」、「長福寺東琳社」などとあり、長福寺の僧侶が何人か出てきます。入野郷の長福寺の役割も見逃せません。しかし、長福寺は神仏分離で明治二年に廃寺となったていて、詳しいことは分からないようです。
 これ以外にも、この大般若経の奥書には、「大水主無動寺本空賢真」「大水主住僧小輔」など大水主神社の社僧が参加しています。大水主社との関係も深いことが分かります。また「播州法華山一乗寺竜泉坊増真二十七才」とあります。親王直筆の50巻は、法華山一乗寺に移されていました。
 また書写に加わった僧侶の名前を見ると、増任、増継、増快、増信、増元、増円、増祐など、「増」に係字を持つ僧侶が数多くいます。これは法脈的に増吽に連なる僧と研究者は考えています。
この他に讃岐以外で書写に参加してた寺院や僧侶を見ておきましょう。
若州遠敷郡霊応山根本神宮上寸 伊勢房 円玄二十七歳
薩摩国伊集院日置惣持院        円海二十三歳
越後州国上寺 大進円海
阿州葛島庄浜法談所 覚舜 十九歳
阿州板東部萱島庄吉令道 勢舜 三十六歳
阿州秋月庄 禅意
阿州名西郡橘島重松 宮内郷 尊恵 生歳三十八歳
阿波国板西下庄村建長寺 天海保行
三河国 星野刑部少輔高範
阿州坂西庄 小野末葉中納吾宥真
摂津国阿南辺北条多田庄清澄寺三宝院末流良祐
ここからは参加者に、阿波の板東郡、秋月庄など阿波北部地域が多いことが分かります。讃岐水主と阿波北部とは阿讃山脈を越えなければなりませんが、距離的に比較的近いので頻繁な交流が展開されていたことがうかがえます。
 この大般若経の制作経緯に、赤松氏との関係があったのかどうかはよく分かりません。しかし、少なくとも増吽や増範が大きな役割を果たしていたこと、また書写活動に阿波北部のなど讃岐以外の広範なネットワークがあったことはうかがえます。この大般若経書写事業に、勧進聖のネツトワークが重要な意味を持っていたことを押さえておきます。
  そして、 増件は書写集団のリーダーであったことがうかがえます。
虚空蔵院(与田寺)や大水主社(水主神社)を拠点として、書経スクールを開き、各地から僧侶を受けいれて、スタッフを充実させます。そして、大内郡だけでなく各地の寺社からの大般若経や一切経などの書写依頼に応える体制を形作って行きます。中四国地方で増件が中興の祖とする寺院が数多くあります。それは、このような写経事業と関係があると研究者は考えているようです。そして、このような動きが「北野社一切経」という大事業につながります。

若王子(現与田神社)には、熊野十二社の本地を表した八面の懸仏が所蔵されています。この神社は、古くからの熊野信仰の重要な神社で、ここに登場する多くの僧侶は熊野信仰で結ばれていたと研究者は考えています。神仏混淆時代の若王子は、与田山の地における熊野信仰の中心的な存在だったのです。

水主神社(讃岐国名勝図会)2
幕末の水主神社(讃岐国名勝図会)

水主神社の宝物庫には、かつて旧社殿に用いられていたという蟇股が数多く収められています。
この中には、次のような墨書が書かれているものがあります。
水主神社蟇股2
水主神社の増吽の名前のある蟇股
此成所作智 明神成事智之表相 五智随一不空成就也
為神徳三十七門満以 表刹塵徳相了 氏子丙午増吽
これは密教の金剛界五仏の北方、不空成就如来のことを指しているようです。そうだとすれば、この蟇股は本殿北側に用いられていたことになります。ここにも増吽の名前が見えます。

水主神社蟇股1
        水主神社の増吽の名前のある蟇股
もうひとつ墨書のある蟇股を見ておきましょう。
  自然造林之時ハ此カヒルマタカエス□ハメヌキ、上貫ノ寸法ヲ相計、カハラス様二可有其沙汰欺`殊含深意、形神徳三十六位、以備内証円明故也,
金宝
法界理性智 自増吽
法 業
金資増吽  生成四十八
垂本地弥陀之誓願故歎 自然之冥合如此
これは私には文意がなかなかとれません。再建するときに、この蟇股をどう利用するかについて書いてあるようです。増吽48歳の時とあるので、応永(1413)頃に書かれたことになります。これらの蟇股は本殿の建物の四方に配置されてたのでしょう。神社本殿に密教の四方四仏を配当してたことになります。水主神社の本殿を密教の仏が守るという神仏混淆の一つの形です。増吽の信仰の形の一端が見えてきます。
 「大水主大明神社旧記」の南宮の棟札には「勧進金資増吽」とあります。南宮建立のために増吽が勧進活動を行っていたことが分かります。本殿についてもこれと同じように、増吽が勧進活動を行っていたことを裏付けるもにになります。増吽によって、水主神社が整備されていったことが分かると同時に、増吽の宗教活動の実態の一端が見えてくる史料です。
水主神社扁額
水主神社楔殿扁額
この扁額は楔殿に掲げられていたものです。正面の字の周囲に、繰形のある縁を斜め外に向けて取りつけ、それに唐草模様を彫った縦型の扁額です。額の正面に「大水主御楔殿」と刻字されています。裏面には「工巧賓光房全秀  願主増吽(花押)七十五歳  画工洛陽檜所蔵人」とあります。ここからは次のようなことが分かります。
①この額は増吽が願主となり、水主神社楔殿のために造られたものであること
②工巧(細工者)は宝光房全秀、画工は洛陽の蔵人であること
③制作年代は増吽が75歳の時なので、永亨12年(1440)の晩年であること
④増吽によって、水主神社の整備が南宮・拝殿・楔殿と着々と進められてきたこと
 これを作った細工人・宝光房全秀は、水主神社所蔵の獅子頭の墨書に、次のようにも登場します。
水主神社獅子頭
水主神社の獅子頭(讃岐国名勝図会)
於大水主大明神御宝所
奉安置獅子頭事
文安五(1448)年戊辰十月日
大願主 仲村衛門文堯時貞宮竺大夫
次総色願主
   官内重弘(左?)衛門
   貞時兵衛尉
   細工 三位公全秀
文明二十二年十月日

   讃岐の獅子についての記録は、南北朝時代の『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』の応安三年(1370)2月が初見のようです。「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた」とあって、それから5年後の永和元年(1375)には「放生会大行道之時獅子面」を塗り直したと記されています。ここからは14世紀後半の小豆島では、獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。ここでの獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。注意しておきたいのは、この時期の獅子頭は獅子舞用ではなく、パレード用だったことです。さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。それから約80年後には、大内郡の大水主神社でも「放生会大行道」に獅子頭が登場していたことになります。この獅子頭の細工を行っているのが「三位公全秀」です。
また『讃岐国名勝図会』の水主神社の項目には、次のように記されています。
二重塔 長五尺八尺、 三位公全秀作
右彼塔婆建立意趣者、金剛仏子全秀、依病俄令身心悩乱、則当社大明神此塔婆有造立者、忽病悩可令平癒為夢想告也、然則速病悩令消除、而依面自作之致志、奉納当宮者也
願主真覚生年三十四
 永享第五従七月十八日始      彩色者千時作者全秀
  同七年十月十三日令成就云々      右筆定俊
意訳変換しておくと
二重塔 長五尺八尺は、三位公・全秀の手によるものである
この塔婆の建立意趣には、金剛仏子・全秀が病で身心が悩乱した際に、当社の大明神が塔婆を造立すれば病悩はたちまちの内に消え去り平癒するという夢告があった。そこで造立を誓うと、病悩は消え去った。そこで、自からの手で作成し、当宮に奉納したものである
願主真覚生年三十四
 永享第五従七月十八日始      彩色者千時作者全秀
  同七年十月十三日令成就云々      右筆定俊

さらに東かがわ市・別宮神社の獅子頭の箱書きには「従三位藤原全秀宝徳元年(1449)・・。」とあります。これも同一人でしょう。藤原全秀は、水主神社周辺で活躍した細工師(木工技能士)で、増吽や水主神社と深いつながりがあったことがうかがえます。以前に、与田寺には書写・仏師・絵師・塗師・木工師などの技能集団を抱えていて、その中心的な位置にいたのが増吽立ったのではないかという「仮説」をお話ししました。それを裏付けるような遺品になります

 水主神社には、重要文化財指定の「牛負の大般若経」または「内陣の大般若経」とよばれる大般若経があります。
一番古い巻は、保延元年(1135)の書写で、応永・嘉吉・文安など室町時代に補写された合せて600巻の大般若経となっています。10巻毎に入れた経函が60函あります。その中に至徳3年(1386)、文安2年(1445)、元禄14年(1701 )の銘があります。この内の一つ、文安二年の巻に次のように記されています。
奉加
与円僧衆分
増吽法印
百文 満蔵坊  百文 賓住坊
十文 松林坊  十文 多門坊
十文 増勢
(以下、略)
これをどういう風に解釈すればいいのでしょうか。増吽の名前が最初に出てきます。与田僧衆の一人として増吽が絹を奉納したとしておきます。しかし、その代表であったことは間違いないようです。
  至徳三(1386)年に仲善寺亮賢によって勧進された経函には次のように墨書されています。     
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、
  持来ル事、北内越中公・原上総公
一 細工助成、堀江九郎殿トキヌルマテ、宰相公与田山
一 番匠助成、別所番匠中也
意訳しておくと
1 箱の木は、全て阿波吉井の木で作られ、北内の越中公・原の上総公により持ち込まれた。
2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。
ここからは、次のような事が分かります。
①この経函を制作するにあたって、その檜原材が阿波・古井(那賀郡(阿南市古井)から持ち寄られたこと
②それを運んできたのは、北内越中公・原上総公であること。
桧用材を運送してきた北内・原の両人は水主の地名にあります。わざわざ記録に名前が記されているので、ただの人夫ではないはずです。名前に、公と国名を使用しているので出家体の者で、馬借・車借の類の陸上輸送に従事する馬借的な人物と研究者は考えています。
③堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
④水主神社(与田寺?)には職人集団が属する番匠中があり、与田山の宰相公は、「トキ」すなわち、「磨ぎ」、「ヌル」すなわち「塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたようです。 
⑤実際に、経函は桧材を使用し、外面を朱塗りで各稜角を几帳面どりして黒漆を塗っているようです。中央の職人によるものでなく材料も職人も地元の職人によって製作が行われています。ここからは、水主・与田山の文化圏の存在がうかがえます。増吽を通じて、水主神社と阿波那賀川流域の僧侶との間に、信仰的なネットワークが形成されていたことがうかがえます。
以上から推察できることをまとめておきます。
①増吽は熱心な熊野行者であり、指導的な先達でもあった。
②そのため各地の熊野行者のリーダとして、各地で勧進活動を進めた。
③与田寺僧侶として、熊野信仰の核となる水主神社の整備を別当として進めた。
④増吽のすすめる水主神社整備に、増吽の率いる勧進集団は積極的に支援した。
⑤その一環が水主神社に奉納された大般若経書写や経函寄進である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「長谷川賢二 増吽僧正 総本山善通寺 善通寺創建1200年記念出版」
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香川県史・中世編は、讃岐の領主的な志向をもつ神主として、次の3氏を挙げています。
大水主社(大内郡)の水主氏
田村大社(香川郡)の一宮氏
賀茂神社(三野郡)の原氏
今回は、水主神社の水主氏を見ていくことにします。
水主氏は、一宮田村大社と並ぶとされていた大水主社の「惣官」であり、「地頭」でもありました。水主氏は「惣官源盛政」「水主三郎左衛円尉源盛政」と、源姓を称していますがその出自はよく分からないようです。
讃岐の古代郡名2東讃jpg
大内郡の郷名(与泰が与田)

水主氏が「地頭」として管理していた大水主社領は、大内郡の与田・入野両郷から一部を割り分けるという形をとっていました。そして両郷の残りの部分には「与田殿」「入野殿」「下村御代官」などがの荘園がありました。ここからは、水主神社の社領は、上級領主のいない一円的所領であったことが分かります。

讃岐東讃の荘園
大内郡の荘園
社領内は1386(至徳三)年の奉加帳によると「水水主分・与田郷分・入野郷分」を除いて、以下の8つの集落から構成されていたようです。
武吉・岩隈別所・中村・大古曽・原・宮内・北内・焼栗


水主神社領2

これらの地域を地図上で見ておきましょう。
水主神社領
赤い枠内が水主

三本松湾に流れ出す与田川の水源である焼栗付近から、平野部がはじまる与田寺あたりまでの谷間に当たり、現在の大字水主に相当します。奉加者名が114名いますので、それ以上の戸数があったことが分かります。
 中世になって武吉村などの各集落は、谷沿いに棚田を開いていきます。その際に農業用水確保のために、避けては通れないのが谷頭(たにがしら)池の築造です。与田川支流の小谷の谷頭に小さな池が作られます。その労働力や資金は、各集落内で賄われたはずです。こうして「水確保のための共同体」が各集落に成長します。中世の谷田開発は、このようにして進められて行きます。こうして水主神社の周辺には8つの集落が形成されます。しかし、この地域の住民は「農民」という範疇だけでは、捕らえきれない性格をもっていたようです。

水主神社大般若経と浪花勇次郎
水主神社の大般若経
   水主神社には、「牛負大般若経」と呼ばれ国重文に指定されている大般若経があることは以前にお話ししました。
この大般若経を収めるために、1386(至徳三)勧進された経函には次のように墨書されています。     
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、
  持来ル事、北内越中公・上総公
一 細工助成、堀江九郎殿ト(研)キヌ(塗)ルマテ、宰相公与田山
一 番匠助成、別所番匠中也
意訳しておくと
1 箱の木は、全て阿波吉井の木で作られ、北内の越中公・原の上総公により運ばれてきた。
2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。
建保職人歌合 塗仕
塗師
ここからは、経函制作のために地元の信者達が次のように関わったことが分かります。
①経函製作用の桧用材を運送してきたのは北内・原の住人であること。北内・原は先ほど見た水主の集落名の中にありました。わざわざ名前が記されているので、ただの人夫ではないはずです。名前に、公と国名を使用しているので出家者で、馬借・車借などの陸上輸送に従事するものと研究者は考えています。
②堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
③水主神社には職人集団が属する番匠中があり、与田山の宰相公は、「トキ」すなわち、「磨ぎ」、「ヌル」すなわち「塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたこと。 
④実際に、経函は桧材を使用し、外面を朱塗りで各稜角を几帳面どりして黒漆を塗っているようです。中央の職人によるものでなく材料も職人も地元の職人によって製作が行われています。ここからは、水主・与田山の文化圏の存在がうかがえます。

第26回日本史講座まとめ①(商工業の発達) : 山武の世界史

 また、中世の引田港の船は畿内に、薪炭や薪を積んで行き来していたことが「兵庫北関入船納帳」から分かります。後背地の山々で採取された薪類が水主の馬借・車借によって集められて、引田港に運ばれていたことが考えられます。同時に彼らは、阿讃山脈を越えて阿波の南部とも行き来していたことが見えて来ます。水主は、人とモノが行き交う経済活動の中心地であったことがうかがえます。

水主氏は地頭として、このような「村」をどのように指導・支配したのでしょうか?
それを示す史料はないようです。しかし、水主氏が神社惣官として、宗教的・イデオロギー的に社領内住人を掌握していたことがうかがえるものはあるようです。
①水主の住人は、1386(至徳3)と1445(文安2)年に奉加行動を行っていること
②水主の谷を囲む山が那智山・本宮山・新宮(虎丸山)と称されていること
などから水主住民にも熊野信仰が強く根付いていたことがうかがえます。
水主三山 虎丸山

このような住民の信仰を前提として、水主氏は1444(文安四)年8月吉日に、「大水主社神人座配の事」を「先例に任せて」定めています。水主氏は惣官として神人の座の決定権を握ることで、「村」の住人とはちがう高い位置に立つことになります。水主氏の地位は『大水主人明神和讃』では、「水主三郎左術円光政」が水主に水をもたらした大水主社祭神百襲姫命の「神子三郎殿」であると讃えられています。つまり、信仰上、水主氏は神と住人を結ぶ媒介者とされたのです。
 旧大内郡は、13世紀後半以降は南朝方の浄金剛院領となります。南朝方の荘園であったことが大川郡の宗教的な特殊性を形成していくことにつながったようです。これは鎌倉新仏教の影響を押さえて、水主神社を中心とする熊野信仰の隆盛を長引かせることになります。例えば、神祇信仰関係の文化財を見てみてると、国指定重要文化財だけでも次のようなものが挙げられます。

P1120111 大内 水主神社 大倭根子彦
大倭根子彦太瓊命坐像(水主神社)
倭追々日百襲姫命坐像
倭国香姫命坐像
大倭根子彦太瓊命坐像外女神坐像四体
男神坐像一体、
木造狛犬一対

大水主神社獅子頭  松岡調
木造狛犬一対
 これらは、いずれも平安時代前後のものです。この外にも、県指定有形文化財の木造狛犬一対、木造獅子頭があり、どちらも室町時代の逸品です。これらの文化遺産は、中世村落に神祇信仰の対象として偶像や神殿が造営されていく時期にちょうどあたります。香川県下で、これほど中世以前の神祇信仰遺物を伝えるところはありません。仏教文化だけでなく、神仏混淆の中で神祇信仰も隆盛を迎えていたのです。その保護者であったのが水主氏であったということになりそうです。そして、水主氏は守護であると同時に神官でもあったのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    中世讃岐の国人領主 香川県史2 中世347P

大水主神社 髙松写真庁
明治時代の水主神社
15世紀初頭の大内郡は、水主神社と与田寺を中心として仏神事が行われていて、独特の宗教空間を形作っていたことは以前にお話ししました。「北野社一切経」書写事業には、虚空蔵院(与田寺)から増範、増継、良仁、増密、賢真らが携わっていたとが奥書に記されています。その中の良仁と賢真は、次のように名乗っています。

「讃州大内郡与出虚空蔵院筆良仁」や「讃州大内郡大水主社良仁」

「讃州大内虚空蔵院賢真」「讃州大内大水主社住僧賢真」

二人は虚空蔵院(与田寺)とも、大水主社僧とも名乗っています。これは神仏混淆で、虚空蔵院(与田寺)が大水主社の神宮寺であったためでしょう。両者は一体化していて、水主神社の運営管理も与田寺の社僧達が行っていたのです。与田寺の工房に属していていた職人たちを今回は見ていきます。テキストは、「唐木 中世讃岐における宗教と文化  香川史学1989年」です。
水主(みずし)神社には、中世に書写された大般若経が二部伝えられています。
本殿内陣に安置されていた600巻 (内陣大般若経)
外陣に安置されていた570巻 (外陣大般若経)

 このうち、内陣大般若経は、1函に10巻ずつ、計60個の経函に収納されています。これらが一括で、国指定重要文化財となっています。今回、取り上げるのは大般若経ではなくて、それを入れてある箱=経函です。経函のうち32個の底には墨書があり、奉加帳や縁起などが記されています。その内の101〜160巻を収める6函には、至徳3年(1386)の経函制作・修復の奉加帳があり、勧進者の仲善寺亮賢によって次のような墨書が記されています。     
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、持来ル事、北内越中公・原上総公
一 細工助成、堀江九郎殿トキヌルマテ、宰相公与田山
一 番匠助成、別所番匠中也
                   (『香川県史』古代・中世史料)。
意訳しておくと
1 箱の周りの木は、全て阿波吉井の木が用いられ、北内の越中公・原の上総公により持ち込まれた。
2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。
3 番匠の助成は、別所番匠が行った

ここからは、次のような事が分かります。
①経函に使われた材木が全て阿波国吉井から供給されたこと、
②その用材を運送してきたのは「北内越中公・原上総公」であること
「北内・原」は水主の地名にあるので、そこの住人のようです。わざわざ名前が記されているので、ただの人夫ではないと研究者は考えています。名前に、公と国名を使用しているので出家体の者で、馬借・車借の類の陸上輸送に従事するものか、あるいは、海上輸送を生業とするものと推測します。水主神社の置かれた地理的環境を加味すると、馬車か車借とします。
第26回日本史講座まとめ①(商工業の発達) : 山武の世界史

これらを材料にして、ひとつの物語を考えて見ましょう
水主神社の経は、伊予の石鎚社から牛に背負われて水主神社に運ばれてきたので「牛負大般若経」と呼ばれていました。それを保管してた経函が傷んだので、新しいものに換えることになりました。その檜用材が阿波吉井から提供されたようです。用材を運んできたのが馬借の水主神社の周辺信徒である「北内越中公・原上総公」ということになります。そうだとすると、彼らは日常的には何を運んでいたのでしょうか?

そこで思い出すのが時代は百年下りますが兵庫北関入船納帳(1445年)の三本松船の積荷です。

兵庫北関入船納帳 引田・三本松船の積載品
兵庫北関入船納帳 讃岐船入港数上位船籍の積荷一覧
引田・三本松船は讃岐NO4・5の入港数を数えますが、その特徴は小型船が多いことです。その中で三本松船には290俵の材木(燃料材)があります。三本松の後背地は与田川沿いのエリアです。このエリアから切り出された薪材が三本松に集積されて、船で畿内に運ばれていたことが分かります。山から三本松港までの輸送にあたっていたのが「北内越中公・原上総公」の馬借・車借ではないかという仮説は考えられます。
水主神社やその別当寺の与田寺の職人集団の存在が見えてきます。 
②堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
③水主神社の別当寺・与田寺には職人集団が属する「番匠中」があったこと。
④与田山の宰相公は、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたこと。 
 実際に、経函は桧材を使用し、外面を朱塗りで各稜角を几帳面どりして黒漆を塗っているようです。これは中央の職人によるものでなく材料も職人も地元の職人によって製作が行われています。
建保職人歌合 塗仕
職人絵図 塗師

ここには「水主神社+与田寺」をとりまく周辺には、木工や大工・漆工芸などの職人集団がいたことが分かります。
水主神社の国指定重要文化財には、次のようなものがあります。
倭追々日百襲姫命坐像
倭国香姫命坐像
大倭根子彦太瓊命坐像外女神坐像四体
男神坐像一体、
木造狛犬一対

P1120164 水主神社 ももそひめ
倭追々日百襲姫命坐像(水主神社)

P1120208水主神社 狛犬
木造狛犬一対(水主神社)
P1120111 大内 水主神社 大倭根子彦
大倭根子彦太瓊命坐像(水主神社)
これらは、いずれも平安時代前後のものです。
大水主神社獅子頭  松岡調
木造獅子頭(松岡調 作画)
この外にも、県指定有形文化財の木造狛犬一対、木造獅子頭があり、どちらも室町時代の逸品です。この獅子頭が讃岐に残る一番古い獅子頭とされます。香川県下で、これほど中世以前の神祇信仰遺物を伝えるところはありません。
 これらの神像制作は、坂出の神谷神社のように中世の村落に神社の本殿が姿を現し、信仰対象として偶像が設置されていく時期にちょうどあたります。これらの木像は、別当寺の与田寺の工房の職人たちによって作られたと私は考えています。そして、周辺の神社からの「発注依頼」に応えたのも。与田寺の工房ではなかったのでしょうか。大内郡は水主神社と与田寺の神仏混淆体制の中で、独特の神祇信仰の隆盛を迎えていたのです。
 別当寺の与田寺には、増吽作とされる十二天版木が残されています。
十二点 風神 与田寺版
十二天の風天
 十二天の中の風天はその名のとおり風の神で、脚を交差させて後方を振り返るポーズには躍動感があります。顔に刻まれたしわや、風になびくあごひげが細かく表現されています。靴のヒョウ柄で台座には獅子が描かれます。彩色は後で、筆でおこなっているようです。なにかしら現代的なイメージがして、漫画家が描いたイラストのようにも私には見えます。
 与田寺の十二天版本は桜材の板に、五枚は両面に、三枚は片面に彫られています。その中の梵天像の武器の柄に、つぎののような文字が彫られています。
 讃州大内郡与田郷神宮寺虚空蔵院 
応永十四丁亥三月二十一日敬印
十二天像以憑仏法護持央 大願主増吽 同志嘘凋聖宥
ここからは次のような事が分かります。
①応永十四(1407)年3月21日に制作されたこと
②与田郷神宮寺虚空蔵院(与田寺)で作られたこと
③増吽42歳の時の作品であること。
与田寺は室町時代初期には、神宮寺虚空蔵院と呼ばれていたことも分かります。神宮寺とは、水主神社に対しての神官寺(別当寺)のことでしょう。このように与田寺の版本は開版場所、開版日時、開版目的、願主、制作者などが分かり、その大きさとともに全国的にも貴重な遺品であると研究者は指摘します。

水主神社 讃岐国名勝図会
江戸時代後期の水主神社

 同時に、与田寺には書経センターだけでなく、仏画などの工房センターもあり、全国からの需要に応える体制ができたことがうかがえます。そのために、塗師や摺師などのスタッフがいる工房があったことがうかがえます。また大般若経書写の際などには、これが写経センターに変身してフル稼働したと私は考えています。そのような体制の大締め(先達)として活躍したのが増吽だったのです。

P1120226 与田寺 薬師如来
薬師如来坐像(与田寺)

  前回は、本山寺の仁王像の制作に、弥谷寺周辺の大見の仏師と、善通寺の絵師が関わっていることを見てきました。それが与田寺では、工房センターや写経センター的なものが存在し、そこに職人たちが集まられ、組織化され、神像や仏画版画などを提供する体制が出来上がっていたようです。彼らは職人であり、僧侶であったかもしれません。どちらにしても水主神社や与田寺への信仰で職人たちが結びつけられていたことが分かります。
以上をまとめておくと
①水主神社の「牛負大般若経」は石鎚神社から牛に背負わせて運ばれてきたという由緒がある。
②ここからは五流修験や石鎚信仰など熊野行者や修験道のネットワークの中に、中世の水主神社があったことがうかがえる。
③水主神社の別当は与田寺であり、与田寺の社僧達によって水主神社は管理されていた。
④「牛負大般若経」の経函作成の用材は、阿波吉井から水主神社周辺の信者である馬借によって運ばれてきている。
⑤その用材を与田寺の工房で加工し作成されている。
⑥この工房には、大行く・木工・漆職人・仏師などの職人(僧侶)がいたこと
⑦水主神社の重要文化財指定の神像等は、この工房で製作されたこと
⑧さらにこの工房では、周辺寺社からの求めに応じて神像などを提供したこと
⑨与田寺のネットワークは、阿波から備中、仁尾にいたるや東瀬戸内海に広がっていたこと。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

増吽 水主神社jpg

  中世の大内郡の神祇信仰の中心は、水主神社です。
この神社は大内郡の鎮守社であり、讃岐国式内社24社の一つでした。水主神社はその名前からも分かる通り、もともとは水源の神を祀った神社だったようです。三豊の二宮川上流の大水上神社と性格がよく似ています。そこへ中世になって、熊野三所権現が勧進しされて、併せて祀られ同体とされるようになります。つまり、地神が水主神、客神が熊野権現ということになります。
水主三山 虎丸山

 水主神社の「大水主大明神和讃」は、中世の水主神社知る上では貴重な資料です。熊野信仰との関係がどのように記されているのかを見てみましょう。。
従孝霊天皇元年、至応永十七庚賞一千六百三十四年。
親依明神之御託宣直以和讃二結玉フ。又熊野与明神一外之事ハ、依熊野ノ若殿ノ御託宙、除今宮五郎殿ノ段、熊野本宮結御前与明神同一之由直承之。我御山ニテモ、水主二テモ、雖有因呆之不同一口也 神言銘肝、結和讃給。
 北御前ハ 如本宮証誠 天神六代 此ハニ親大御前ハ 結御前 南御前ハ 早玉 熊野両所三所権現卜中モ 一所大明神卜中モ 一然卜云々
明応第五天卯月五日書之。是偏二大明神之神慮卜存也。其故ハ、愚僧此和讃ヲ先年所持之処、行方不知失畢。乃此年来五六ケ年之間、彼方此方雖尋申更不得遇事然処二、此本ハ地蔵院宥改、大水主山麓之砌、自社中申出、所持之乃今熊野任神慮苦写之畢。此和讃之趣興大水主差図縁起寸分相違之儀無之。但従安居院神道出ル処ノ水主ノ本縁起ニハ、相違之処多之。但神秘之儀式、能々思エハ、只秘事ヲ尽シタル迄ニテ、更々無相違云々。
  意訳変換しておきましょう。
孝霊天皇元年から応永十七(1410)年に、明神の御託宣によって、この和讃が完成した。
熊野と明神は一体であり、熊野の若殿の御託宙、今宮五郎殿ノ段を除き、熊野本宮の御前で明神と同一であることの由緒を承った。我山、水主においても、この二つを同一とすることは肝に銘じるべしと和讃は結んでいる。
 北御前は、熊野本宮であり 天神六代は 親大御前は 結御前 南御前は 早玉熊野両所三所権現とも、三所大明神とも申す。明応五(1496)年に卯月五日にこの書は書かれた。これは大明神の神慮である。それ故に、愚僧(宥旭)は、この和讃を先年より所持してきたが、行方不明となっていた。近年の五・六ケ年の間、見つからなかった。ところが偶然に、宥改が、大水主山麓の地蔵院のにあることお申出でてきた。さっそく手元に置いて、書写して和讃の趣と大水主差図縁起を比較してみたところ寸分の相違もなかった。ただし安居院神道の水主本縁起と比べると、相違する所が多い。神秘の儀式については、よくよく考えるに、ただ秘事を尽したるに過ぎず、更々相違はない。
ここからは次のような事が分かります。
①応永十七年(1410)に、明神の託宣によって、増吽がこの和讃を作成したこと
②大水主大明神と熊野三所権現とが一体であること
③明応五年(1496)に僧宥旭が、これを書き終わるとしている。
④安居院神道の水主の縁起とは相違するところが多い
⑤この和讃以外にも縁起が存在した
ことが述べられています。
この和讃については『大水寺山緒』では、増吽の作としています。
つぎに、水主神社所蔵の「水主神社社坊図」をみていきますが、残念ながら絵図はアップできません。悪しからず。
 この図は文政四年(1821)に石門露珍によって描かれたもののようです。水主大明神を中心にして約67の寺社が描かれています。与田川流域の狭いエリアに多くの宗教施設がひしめきあっている姿が描かれています。水主神社を中心にして本宮山・新宮山・那智山が描かれ、その山麓に数多くの寺院・庵・神社などが極彩色で細かく描かれています。それぞれに短冊形の銘記欄を設けて、寺院名や坊の名が墨書されていますが、墨書の部分が剥落していて分かりにくい状態です。後世の貼紙に墨で寺院名や坊名が記されているので、個々の名称を知ることができます。有難いことです。
 しかし、江戸末期にこれほどの建物がこの地にあったとは、考えられません。
「讃岐国名勝図会」の挿図と比較してみます。
水主神社 讃岐国名勝図会

ここには大水寺以外は、何も描かれていません。また次のように本文には記されています。
「往古は大内一郡の惣鎖守なれば、社家も七十五員、僧坊四十二宇ありて繁栄なりしが、(中略)さるにより社殿・境内は古のままなりといへども、社家・僧坊もあまた退転し、寺跡当村に所々に存せり」
「仲善寺跡、釈迦寺跡、孝徳寺跡、葉王寺跡、蔵坊跡、観通坊跡、念仏坊跡、多聞坊跡、新蔵坊跡、善福寺跡、その他三十四坊一々挙ぐるにいとまあらず」

 ここからは江戸時代末期には、寺跡を残すだけになっていたことが分かります。そのため文政四年の社坊図は、中世末の室町時代ころの全盛期の様子を描いた古図を模したものと研究者は考えているようです。作者の石門露珍も「臨写」したと記しています。「臨写」とは「手本を見ながら写す」という意味になるようです。
 そのような視点で「社坊図」をみると、「大水主大明神旧記」にある嘉古二年(1442)九月八日の「大水主社供僧座配之事」の記述と、一致していると研究者は指摘します。そこには、供僧名が次のように記されています。
宰相坊・薬王坊・党音坊・釈迦寺・円光寺・満蔵坊・宝幢坊・定光寺・持宝坊・玉泉坊・仲善寺・善福寺・孝徳寺・城琳寺・宝積坊・岡之坊・財林坊・北之坊・継養坊・聖無動坊・十輪寺・妙光坊・浄土寺・多聞坊・十乗寺・遍照寺・忠日寺。光善坊・本蔵坊・善勝坊・智海坊・宝住坊・高原寺・I蔵坊・念仏寺・慈尊坊・報恩坊・願成坊・国護坊・観通坊
これだけの院坊が水主神社の周囲にはあり、僧侶や修験者・聖が住持していたことになります。以上のことを頭に入れた上で、研究者は絵図を読み込んで、次のように指摘します。
①大水主神社を図の中央に大きく描き、参道には桜並木があり、赤い大きな鳥居が一基描かれる。
②その奥まったところに本殿や摂社などが並び、三重塔が傍らにみえる。いかにも神仏混淆の中世の伽藍らしい
③水主神社に隣接して大水寺がみられるが、その規模はかなり大きい。
水主神社 看板

ここからは水主神社の別当寺として、大水寺があったことが分かります。
私は、水主神社の別当寺は与田寺だったと思い込んでいたのですが、そうではないようです。水主神社の別当寺は大水寺であったようです。水主神社と与田寺がかなり離れているので、神仏分離後に与田寺が移動したのかなと思っていました。それなら大水寺と与田寺の関係はどうなるのでしょうか? 今後の宿題としておきます。

大水寺について『御領分中寺々山来』には、次のように記されています。
「大水主人明神之別当にて在之候、開基は知不申候、中古応永年中、増吽僧正再興、則自筆之棟札有之事」

とあり、増吽の棟札が残り、彼が再興したと伝えます。また『御領分中寺々由来』には大水寺の項に
「当寺開基詳ならず、初め社坊といいしを寛文の頃、今の寺号に改む」

とあり、大水寺というのは江戸初期ころからの寺号とします。
たしかに『大水寺大明神社旧記」には、
永享四年(1432)卯月十五日の御法楽には「水徳山神宮寺宝珠院」とあり、古くはこの寺が神宮寺と呼ばれていたようです。また水主神社の鳥居の下部に位置するところの数棟には、浄土寺と刻まれているようです。
  この浄土寺は「御領分中寺々山来」には
「水主山石風呂在之事  、弘法大師堂、代々堂守之寺にて有之候、文禄年中再興、共後元和年中再興棟札有之事」
とあり、次のような事が分かります
①水主の石風呂があったところにあった
②弘法大師堂があり、弘法大師伝説が伝わっていた
③その大師堂の堂守を代々勤めていた寺である
④元禄期に再興された

①については「社坊図」を見てみると、堂宇に隣接して小さな建物があります。これが石風呂になるのでしょうか。よく分かりません。

その後は『讃岐国名勝図会』の「弘海寺」の項目に「はじめ浄土寺といえり」とあるので、浄土寺から江戸時代の末期には弘海寺と改名していたようです。
大水寺の変遷を整理しておきます
①中世は水徳山神宮寺宝珠院
②鳥居には浄土寺
③江戸時代の末期には弘海寺
④その後、大水寺?
 この変遷を見ていると、ひとつの寺院系譜ではないような気がします。中世には水主神社に仕えた社僧の寺がいくつかあって、並立していたのではないでしょうか。彼らが寺の寺勢とともに別当職を交替して担当していたようにも見えます。

社坊図には、背後に大きな山が描かれます。
水主三山のようです。  水主三山とは水主神社を取り囲む虎丸山・那智山・本宮山の三山です。今でも「ミニ熊野三山巡り」のハイキングルートとして親しまれています。社坊図には、それらの山の頂きには、那智・新宮・本宮と注記され、鳥居と社殿がみえます。特に那智には、滝が流れ落ちています。熊野の那智の滝にちなんだデフォルメのようです。
水主三山 虎丸山

この他に銘記欄には、依守太夫・定吉・貞遠太夫・守重太夫・楠谷太夫などと記されます。これらの人物は『大水主人明神旧記』の文安元年(1444)の「大水主神人座配之事」の座配に出てくる人物名と同じです。
 社坊図には、数多くの寺院や坊が書き込まれていますが、□□坊と記される建物は、小さく簡素なものです。
ここに居住したのが水主神社を根拠地とする熊野修験者であったのではないかと研究者は考えているようです。中世には、与田山の若一王子権現社や水主神社を中心とする熊野信仰を背景に、東讃の地には熊野系の勧進聖や先達が数多くいたようです。増吽はそうした熊野先達の中心的な存在であったことは前回に見たとおりです。

増吽 那智山

 水主神社を囲むように配置された水主三山の熊野権現は、熊野三山を勧進したものです。
それを増吽を中心とする熊野勧進集団は信仰し、勧進活動を進め、この地に数多くの神仏施設を作りあげていったのでしょう。それは、建物や施設だけでなく教学センターや書経センターも含め、一大宗教センターとなり、「東讃の新熊野」として機能していたようです。そのような姿は、海を越えた備中児島の五流修験の活動と重なり合ってきます。増吽が児島の数多くの真言寺院を創建したと語り伝えられていることとつながります。

水主三山 那智山
水主三山の那智山からの瀬戸内海方面

以上のことから、与田山や水主の地は、五流修験の児島と共に熊野信仰の極めて盛んな霊地で、熊野信仰の四国の拠点として機能していたとしておきましょう。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   武田和昭 吽僧正の弘法大師信仰と熊野信仰

増吽 与田寺

  讃岐大川郡の与田寺の増吽は、天皇から「大師(弘法大師)ノ再誕」とまで称えられ、戦前は弘法大師に次いで讃岐を代表する高僧と高い評価を受けていたようです。戦後は、忘れ去られてような存在になっていますが、再評価の動きがあるようです。どうして、彼が再評価されるようになったのかも含めて、見ていきたいと思います。
増吽
 増吽上人(倉敷市蓮台寺旧本殿(現奥の院)
まずは、 香川県史の増吽(ぞううん)に関する記述を挙げてみましょう
①増吽は、貞治丑年(1366)、大内部与出郷西村(現大内町)に生まれた。
②父は、不詳。母は、蘇我氏の末、安芸左衛門九郎盛正の女と伝える。
③幼くして、当時、水主(みずし)神社の別当寺であった薬師院神宮寺(与田寺)に入寺した。
④薬師院の住僧増慧法印に師事して竜徳坊と称した。
⑤高野山・東寺に真言密教を学び、教学に秀でると共に画像彫刻もよくしたという。
⑥水主寺の寺伝によると、増吽は、師である増慧が河野郡北条の天皇別院であった摩尼珠院に移ったので後住となり、薬師院を改めて虚空蔵菩院神宮寺(与田寺)とした。
増吽も高野山で真言密教を学んでいるようです。そして、仏像彫刻や仏画にも秀でていたようです。そのため彼の描いた弘法大師像が数多く残されています。しかし、彼の若い頃のことは、よく分からないようです。
増吽 与田寺2


増吽は、明徳二年(1391)に虚空蔵院(現与田寺)の住職となります。このお寺の「由緒」には、末寺として次のような寺院を記します
 下野小股(小俣)の会同院・同国小山の会削袖寺
 武蔵国高橋虚空蔵院
 尾張国冥福寺・
 播磨国無最寄院・
 備中国清氷山惣持院・同日女生山性椋院・
 備前国安寄院・阿波国虚空蔵院・
 同国談義所黒田寺・
 同順良骨寺・
 小豆島北山宝生院など国外21か寺、
 そして、大内・寒川郡に100か寺というのです。
 また「御領分中宮由来、同寺々由来」には、これらとは別に、宝生院末寺21、安寿院末寺等20、惣持院末寺50、性徳院末寺20、無量寿院末寺15、阿波の虚空蔵院末寺3とあって、末寺を全部合わせると104か寺と記します。
 この「由来」の成立は、寛永年間といわれ、寺社の本末関係がまだ明確になっていない時期です。この内容は誇大であり、自称が大部分であったと研究者は考えているようです。しかし、これら名が挙げられた寺は、増吽が関係した寺々であることに間違いはないと言います。それらは、増吽が修業や再興修造するなど、何らかの関係があった寺だと云うのです。そうだとすると、まさに偉大な勧進僧だったことになります。
 
水主神社の近くに若王子(東かがわ市与田山)という寺院があります。
ここには応永六年(1399)から応永九年にかけて書写された「大般若経』があり、そこには次のように記されています。
「若王寺大般若経』
外題実、歳空蔵院住持 金資増吽生年三十七、升亮勝一局増範、応永九年三月三十日、敬以三諮日夜功労乎、常一日写也、右筆真海六十九 明通一房増稔、子時応永六年己卯正月十一日立筆始、自陣二
  応永九年三月三十日の年紀を持つ巻に、増吽と噌範の名前があります。増吽は「天王寺大般若経」の書写にも、増範らとともに重要な役割を果たしています。
 この「大般若経』は若王子権現の常什の為に赤松前出羽守顕則が願主となって筆写されたもののようです。写経には、与田山・水主近在の僧侶を中心に、讃岐国三木郡や遠く若狭・薩摩国の僧侶たちが参加しています。
白鳥町誌に記された関わった写経者名一覧を見てみましょう
  一 国外からの写経者と認められるもの
   阿波国板西郡 宥真房(小野流)
   若狭国遠敷郡神宮寺   円玄房
    同  上      伊勢公
   阿 波 国 河 嶋   良吽房
   播磨国一乗寺  竜泉房増真
   薩摩国日置惣持院   円海
   越後・国上寺  円海
   阿波国名西郡  尊恵
   阿波国葛(萱力)嶋荘   覚舜(禅密系の僧か)
   阿波国萱嶋荘吉成   勢舜(禅密系の僧か)
   阿波国秋月荘  禅意
   阿波国板西郡建長寺   天海(禅密系の僧か)
    同  上      玉巷(禅密系の僧か)
   阿波国板西下荘  口口(不詳)
   摂津国多田荘清澄寺   良祐(三宝院流)
   (播  磨  国)   赤松顕則(範力) (願主)
  二 讃岐国内のうち大内郡外からのものと認められるもの
   三木郡氷上村長楽寺   教義
   三木郡田中郷     観照
   三木郡毎平(堂平力)   豊後公
  三 水主神社関係者と認められるもの
   虚 空 蔵 院   増吽
     同  上      増範
     同  上      増楡
   薬師堂般若坊  (不明)
   薬   師   堂   覚舜
   与田郷東大谷 増祐
   大   水   主   良闇
     同  上      小輔
   大水主無動寺  賢真
   大水主円光寺  定全
   大水主中(仲) 善寺  良啓
   金 剛 寺 坊 主   (不明)
  四 尼僧と認められるもの
              知栄尼
              法智禅尼
  五 与田山若王子関係者と認められるもの
   当山住人当寺住職   増光
   王 住 呂   増円
   下山長福寺   詠海
    同 上      真海
   長福寺東琳社   (不詳)
六 その他(若王寺・水主神社の住僧が大部分と思われる)
   相三郎丸  戒乗  教賢  教忍  玉泉坊
   賢実  源禅  孝斉  慈範  慈明  信照
   実仙  重賢  成鏝  成範  増任  増継
   増快  増信  増元  増意  増珍  増明
   増門  増(?) 朝等  了舜坊呈賢  等畦
   入野中山(某) 念尊 本乗 法林寺(表
   明通  祐光  宥慧  良恵  良成
   良仁  良尊  亮全  了海

 まず感じるのは、写経に関わっている僧侶の数が多いことです。これだけの数の書経スタッフがいたことに、びっくりします。そして参加者のエリアが広いことです。この写経には、当時37歳で虚空蔵院院主だった増吽も参加しています。それは巻一に、弟子二人とともに名前があることからも分かります。しかし、分担筆写から見ると、増吽は、この写経勧進にあまり主体的に関わっていないと研究者は考えているようです。この書写は幡磨の一乗寺増真が中心となって行われたようです。
次に、目が行くのは、阿波国の僧侶の多さです。
大内郡と地理的にも近いこともあるでしょう。当時の人々は、南海道の大坂峠を頻繁に行き来していたようで、阿讃山脈の険しい峠越えは、気軽な旅程だったかもしれません。参加者の拠点名を見ると吉野川沿いの寺院です。中でも宥真は40巻を書写しています。国外者では最も多い巻数になるようです。

なぜ、この大般若経は播磨の赤松氏が願主となっているのでしょうか?
「若王子大権現縁起」によると、鎌倉末期の元弘年中(1331~34)、大塔宮護良親王が赤松則祐・岡本武蔵坊の両人を連れて大内郡にやってきて、在地武士の佐伯季国の協力を得て虎丸山に一城を構えたと記されています。そして滞在の間に、親王が大般若経五〇巻を筆写して若王子権現に奉祀したとされます。赤松氏に縁のある者が鎌倉幕府討滅の軍勢を催すため大内郡にやってきて、同時に、若王子に戦勝祈願を行ったと解しておきましょう。
 それから約70年後のことになります。
奥書の年紀を見ると、応永八(1401)年三月五日、播磨国一乗寺の住僧増真は、巻四百二十五を書写し終えています。ついで、翌六日、巻四百十六を摂津国河南辺北条多田荘清澄寺の良祐が、そして、七日には巻四百四十九を赤松顕則がそれぞれ写経して筆を置いています。この三人は日を合わせるように、若王子権現にやってきて、同時期に経巻を筆写し終えているのです。一乗寺の増真と清澄寺の良祐は、播磨国守護赤松氏の所領にあるお寺です。赤松氏とその勢力基盤であった土地の住僧が、3人そろってやって来て大般若経を寄進したのは、どうも「戦勝祈願」だったようです。それを70年前の先祖の例にならって、行ったようです。
 増吽から話が逸れたようですが、ここで確認しておきたいのは、水主神社や与田寺周辺には、大勢の書写スタッフが存在し、それを取り巻くように広い範囲の支援ネットワークが形成されていたことです。
これがどのようにして、形作られていったのかが次の課題です。
 増吽の名を高めた最大の功労者は、彼の直弟子(詳しく見ると増慧の相弟子に当たるので弟弟子?)である増範であったようです。
少し回り道になりますが、増範について見ていきます。
 増範は、応永六(1399)年の若王子権現の大般若経書写のときは、34歳の働き盛りです。当時は、虚空蔵院にいて高墜房と称していました。この時に増吽は、37歳で同院住職を勤めています。増範は、その後まもない時期に上洛したようです。増吽の名声を高めたとされる応永十九(1412)年の北野社一切経の奥書によれば、覚蔵増範と署名しています。
  増範が北野社覚蔵坊主となって、この一切経書写供養会を主催したと研究者は考えているようです。
覚蔵坊は、写経会が行われる北野経王堂の管理と運営を執り仕切っていたようです。したがって、増範が、写経会に際して願主となって主催したことになります。その時も、虚空蔵院の増吽とその一門が参加しています。多度津の道隆寺第22世・23世の良秀・賢秀らの門下を始め、讃岐から35人が加勢しています。摂津からは20人の僧侶が参加し、そのエリアは山城・和泉など畿内から北は越後、南は九州諸国にいたる25国にもおよびます。それだけの人脈を増範は持っていたようです。しかし、これは増吽によって培われた人脈だったのかもしれません。そうだとすると増範の出世は、増吽によりもたらされたものと言えるかもしれません。
増範の業績で特筆すべきは『北野社一切経』の書写事業と勧進です。
mizmiz a Twitter: "経王堂  足利義満が三十三間堂の倍の長さで建て、江戸時代まで存在してたらしい!この立面が衝撃的で調べてたら石山修武も日記で同じこと言ってたw  https://t.co/Zc0CN9AzXe… "

 北野社経王堂は、応永八(1422)年に足利義満が建立したものです。ここでは明徳二(1391)年に起こった明徳の乱における戦死者を弔うために、将軍が主催して万部経読誦会が行われるのが恒例になっていました。「北野社一切経」は、この行事のために新たに書写されることになったようです。増範は北野社万部経会の経奉行として、実際の経営にもあたっていました。当然のことながら増範は「北野社一切経」の大願主で、多くの経巻に大願主や大勧進として名前が記されています。
 この事業は、応水19(1412)年12月17日から8月15日までの五カ月間にわたって書写し、執筆者は越後・尾張・伊勢・但馬・出科・近江・丹波・讃岐・河波・肥前和泉・摂津・大和・河内・紀伊・播磨・淡路・備前・備後・美作・日向の国々の僧侶などの百数十名が参加する大事業でした。このために大内郡の水主神社の書写社僧スタッフや全国ネットワークがこの時にも活躍したはずです。
 北野社の一切経五千五百帖が調ったのは、応永十九年のことです。この功績によって彼は、この後北野経王堂(願成就寺)住持となり、年々盛んになっていく万部経読誦会の経営に当ることになります。このような増範の異例とも云うべき出世には、讃岐東分郡守護代の安富氏の後援と管領細川氏の支援があったと研究者は考えているようです。
増範の出世を踏まえて、増吽のことに立ち返えりましょう。
 北野社一切経奥書の増吽の肩書には、
「讃州崇徳院住 僧都 増吽」

と記されています。ここからは増吽が白峯崇徳院(頓証寺)に「栄転」していたことが分かります。時は応永十九年三月十七日のことです。翌年の崇徳院250年遠忌法要の導師に、増吽が選ばれたためのようです。この時には、讃岐に流刑となっていた高野山の学僧宥範は、赦されて讃岐にはいません。増吽をおいて適任者はいなかったようです。
これが、増吽の讃岐一国に知名度を飛躍的に高めるイヴェントになります。増吽は、崇徳院の法要を無事済ませ、虚空蔵院へ帰ってきます。それを追うように、後小松院から任僧正位の吉報があったと研究者は考えているようです。このような増吽の出世には、弟弟子の増範と同じように讃岐東分郡守護代の安富氏の後援があったようです。

 15世紀初頭の応永年間の大内郡は、水主神社を中心として仏神事が盛んに行われて宗教的にも隆盛であったようで、独特の宗教空間を形作っていたことは以前にお話ししました。これらの環境は形成には、安富氏の力があったとしておきましょう。

「北野社一切経」書写事業には、虚空蔵院(与田寺)から増範のほかにも、増継、良仁、増密、賢真らが携わっていたとが奥書に記されています。
良仁は「讃州大内部与出虚空蔵院筆良仁」や
   「讃州大内郡大水主社良仁」
賢真は「讃州大内虚空蔵院賢真」
   「讃州大内大水主社住僧賢真」
と名乗っていて、虚空蔵院とも大水主社僧とも名乗っています。これは神仏混淆で虚空蔵院が大水主社の神宮寺であったためでしょう。両者は一体化していたのです。
旅 809 水主神社 (東かがわ市): ハッシー27のブログ

社僧の名前だけでなく、大水主社が書写場所であったことが分かる記録もあります。

ここからは、当時の大水主社は、多くのスタッフをとネットワークを持った書写センターとして機能していたことがうかがえます。それを形作っていったのが増吽ではないかと研究者は考えているようです。
増吽と写経集団
水主神社の「外陣大般若経』巻第二百七十は「水主、千光寺如法道場」で書写されたと記されます。この奥書からは、大水主社にも如法道場が設けられていたことが分かります。さらに想像力を働かせると、水主・千光寺如法道場は書写スクールの機能を果たしていたのではないかという仮説になります。讃岐だけでなく、隣国の阿波からやってきた僧侶達が水主神社で修行し、経衆(書経スタッフ)として帰国していく。そして、別当寺の増吽や増範の依頼があれば、割り当てられた巻を書経して水主神社に届ける。そんな書経ネットワークの存在が見えてくる気がします。この写経集団は増吽を先達として、水主神社を拠点としていたのでしょう。
水主神社】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
水主神社

もう一度、増範のいる北野社に自を向けましょう。
 北野社万部経会は1万部を千人の僧が読経する経会のようです。北野社一切経会とともに幕府にとって重要な年中行事でした。この万部経会に使用する経本は、毎年新写して僧侶達に頒布したとされます。この毎年新写される法華教を、増吽率いる経衆が書写していたのかもしれません。これも仮説です。
次に注目したいのは、増件が率いる経衆の誕生過程です。
大水主社のある水主地区は本宮・虎丸山(新宮山)・那智山に囲まれています。ここに増件が熊野三山を勧請したと伝えられます。ここからは増件が熊野系勧進僧であったこと、つまり熊野信仰を強く持っていた修験者という姿が垣間見えてきます。高野山で学んだのですから当然のことかもしれません。このことについては、また別の機会にします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
水主三山 虎丸山

 参考文献   
唐木   旧大内郡所在の大般若経二部と増吽をめぐって       
香川史学1989年

  増吽
倉敷市の蓮台寺旧本殿(現奥の院)に祀られている増吽上人

戦前には「弘法大師に次ぐ讃岐の高僧」とされた増吽には、熊野信仰と弘法大師信仰が重なり、いくつかの別の顔が見えてきます。
①熊野信仰にも傾倒する熊野系の勧進聖 廻国性
②弘法大師を深く信仰する真言宗の僧侶
③写経・工房集団を束ねる先達
前回は③の姿を追いかけましたので、今回は①の熊野信仰との関係を見ていこうと思います。
関西の力】祈りの場(1)熊野詣で 上皇も歩んだ「霊性」宿る参道 - 産経ニュース

 院政期から鎌倉時代にかけて、熊野詣が大流行するようになります。この流行をもたらす役割を担ったのが、熊野先達や熊野系の山伏・聖たちの勧進・布教活動でした。讃岐大内郡の与田山への熊野三山勧請を、増吽の時代のこととする説もあるようですが、香川県史はこれを否定します。増吽以前の、南北朝から鎌倉末期に遡るものという立場です。まず、熊野権現の与田山への勧進時期について確認しておきましょう。
増吽 水主三山

与田山の熊野権現勧進由来は、次のように伝えます

元弘年中(1331)、後醍醐天皇が捕らわれの身となり皇子大塔言(激趾親王)は、熊野へ落ち延び難を逃れようとした。その時、主従別行動することになり、その離別の瞬間に一羽の烏が西に飛び立った という。その烏は、神の導きとして与田山に飛来した。

烏の飛来は、熊野権現の使いを意味するものでしょう。ここからは、南北朝初期にはすでに与田山に、熊野権現が勧請されていたことがうかがえます。周囲を見ると、南朝方について活躍した備中児島の佐々木信胤が小豆島を占領し、蓮華寺に龍野権現を勧請しているのもこの時期です。

水主三山の那智山上空からの瀬戸内海
 水主三山の那智山上空からの瀬戸内海

 背景には「瀬戸内海へ進出する熊野水軍 + 熊野本社の社領である児島に勧進された新熊野(五流修験)の活発な交易活動と布教活動が展開」されていた時期です。その中で南北朝時代の動乱の中で、熊野が南朝の拠点となったため、熊野権現を勧進した拠点地も南朝方として機能するようになります。つまり
熊野本社 → 讃岐与田寺 → 小豆島 → 備中児島 → 塩飽本島 → 芸予大三島

という熊野水軍と熊野行者の活動ルートが想定できます。このルート上で引田湊を外港とする与田山(大内郡)は、南朝や熊野方にとっては最重要拠点であったことが推測できます。そこに熊野権現が勧進され、熊野の拠点地の一つとされたとしておきましょう。
水主神社 地図
水主神社やその神宮寺であった与田寺が熊野信仰関わっていたことを示す史料を挙げてみましょう
①与田寺縁起には、観応二年(1351)の預所沙弥重玄の寄進状があり、祝師阿闇梨苦海に免田畠が寄せられている
②貞和2(1346)年の銘文のある棟木がある 
③応永十七年(1410)に増件が作ったとされる「熊野水主大明神秘讃』には、熊野三所権現と大水主大明神は同一体であると記されている。
④水主神社の「外陣大般若経」巻第八十八には「敬白泰法山川市大水主社 五所大明神御賢治等」とあり、「為熊野権現」とある。大明神とは『大水、五所大明神和讃』から、熊野三所権現を指すようです。

そして、水主神社が熊野信仰の拠点であったことを示すのが「若王子大般若経」巻第二百二十八です。ここには次のように記されます。
真敬白 組斗書写率、讃州大内郡与田山王子常住御経由、右執筆宥南無熊野権現当世成就、子時志永七年三月二十一日
水主神社(讃岐国名勝図会)2
水主神社(讃岐国名勝図会)
ここには大般若経の書写成就を熊野権現に祈願しているのが分かります。増吽が言うように、当時の水主神社では、熊野三所権現と大水主大明神は、同一体であったことが裏付けられます。

 このほかにも若王寺の鎮守社与田神社には、平安後期から室町時代の熊野権現の本地を表した懸仏が伝わります。その後、文正年間や長亨年間に、大内郡の白鳥や引田の先達たちが檀那を導いて熊野詣でを行っている文書も残っています。以上からは、大水主社周辺では熊野信仰が人々の間に浸透していたことが分かります。
 大内郡に熊野信仰を持ち込んだのが熊野修験者たちでした。
その結果、水主神社周辺には修験道も浸透していたようです。それは以前にお話したように「内陣大般若経」が石鎚山から修験者によって運ばれたという「牛負い般若伝承」からもうかがえます。修験道の霊山・石鎚山から逮ばれたという伝承から、修験道との関係を読み取れます。
増吽(与田寺)
増吽(与田寺蔵)

 ここで増吽に再び目を向けましょう。
増吽は、このような熊野信仰や修験者が活躍する大内郡で生まれ、高野山で真言密教を学んでいます。当時の真言密教は山岳信仰と深く結びついていますから空海が行ったような山岳修行を僧侶達も行っていました。増吽もこの流れの中に身を投じたことが考えられます。その修行の中で、彼は多くの霊山や行場を巡り、人的なネットワークを形作って行ったのではないでしょうか。それは、増吽が勧進修験者への道を歩むことでもありました。
 
 「旧記』には、増吽が大水主・五社南宮を勧進活動により建立したと記されています。また熊野三山を水主に勧請したとも記されます。事実は別にして、当時周囲からは増吽が熊野系勧進僧として見られていたことがうかがえます。
茂木町の文化財「大般若経600巻他」
大般若経
 増件のもう一つの顔は、写経集団のリーダーであったことです。
虚空蔵院(与田寺)や大水主社(水主神社)を拠点として、写経スクールを開き、各地から僧侶を受けいれて、スタッフを充実させます。そして、大内郡だけでなく各地の寺社からの大般若経や一切経などの写経依頼に応える体制を形作って行きます。中四国地方で増件が中興の祖とする寺院が数多くあります。それは、このような写経事業の痕跡とも考えているようです。これが前回お話しした「北野社一切経」という大事業につながります。
 「北野社一切経」は、増吽の弟弟子の覚蔵院増範が大願主となっていますが、今見たように増吽を先達とする写経集団が背後にあったからこそできた事業でした。増吽だけでなく讃岐や阿波の僧侶たちがこの写経集団に加わっています。
水主三山の那智山上空からの引田・淡路方面
水主三山の那智山上空からの引田・淡路方面

それでは、彼らと増吽を結びつけたものは何だったのでしょうか。
その精神的紐帯は熊野信仰にあったようです。増吽は、幾度となく熊野参詣を行い、厚く信仰したと伝えられます。彼が先達として行った熊野参拝の様子を伝える文書が、仁尾の覚城院文書の中に残っています。
先度、付使宣、進状候しに、預御返事候、乃熊野参詣之銭送給候、令祝着候、道中散銭候て、可致祈疇候者哉、事繁候、篤志誠以喜存候、今日十九日舟出し候ハんと申居候へは、五月雨水々しく候て、末天陰に天気待居候、経衆ハ廿人、於阿讃両州調之候、伶人両三人同じく参候、彼是如法経百日ハ管弦と申候て、伶人参詣事被申下候、毎事計会、可被察候、露命之習、秋までも存命候者、下向候て、可入見参候、何事御助成大切候、恐々
五月十九日                                                     増吽(花押)
覚城院御返報
意訳変換しておきます
先日の進状にお返事をいただきました。熊野参拝の費用について送銭いただき喜んでいます。道中は費用がかかり、祈祷なども頻繁に行っていますがいただいた篤志は、誠に喜びに絶えません。本日19日に、出港予定でしたが五月雨で天気が悪く、天候待ちとなっています。
 経衆20人、伶人(楽人)2~3人は、阿波と讃岐で調え同行予定です。如法経百日管弦のために、伶人(楽人)を伴って参詣するようにと云われているので、それを適えて参拝することができます。秋まで熊野に留まる予定ですが、帰国後は、また出向きます。その時にお会いできることを楽しみにしております。最後になりましたが、御助成いただきありがとうございます。

最後に「覚城院御返報」とあります。熊野参詣に際しての仁尾の覚城院からの餞別への返礼のようです。内容は、熊野参詣のため船出しようとした増件は、五月の長雨により足留めされているようです。
足止めされているのは、どこなのでしょうか? 
与田寺の外港の引田湊が第1候補です。先ほども述べましたが、当時の引田湊は熊野水軍の拠点湊でもあり、多くの舟が紀伊や熊野との間を行き交っていたようです。芸予諸島の大三島と熊野の間には「定期船」も運行されていたと考える研究者もいます。そのため引田湊は、伊予や讃岐からの熊野詣信者が舟に乗るために集まってくる集結地点であったと私は思っています。引田港の後にあったのが水主神社とその神宮寺の与田寺でした。増吽が先達として、経衆(書写スタッフ)20人、伶人(楽人)2人を引き連れて、熊野詣でに出発する湊にはふさわしい場所のように思えます。
 第2候補は、阿波の那賀川河口です。

水主神社 那賀川流域jpg
この周辺には、増吽の率いる経衆(写経スタッフ)が多数いたところでもあり、紀州との関係が深いところでもありました。増吽は逢坂峠を越えて、ここまでやって来て、紀州への船便を待っていたのかもしれません。その間に熊野詣でに参加するメンバーを整えていたことも考えられます。
 さらに、如法経百日管弦のため伶人も伴い熊野参拝するとあります。「如法経」とは、法華教を写すことです。この行事に参加するために、20名もの書写スタッフを引率しているようです。このような「集団写経遠征」は、熊野だけでなく備中や阿波などに向けても行われていたのではないかと私は考えています。各地で行われる大写経事業に、大勢のスタッフを引き連れて応援に駆けつける増吽の姿が私には見えてきます。そして、そこで何ヶ月か泊まり込んで、写経を行い完成式典に参加して帰国する。そんな活動を増吽は重ねていたという仮説を出しておきましょう。これも勧進聖のひとつの活動パターンだったのかもしれません。このような活動を通じて、増吽の人的なネットワークは広く、遠くまで張り巡らされ、それに連れて名声も高まったのかもしれません。
水主神社2(讃岐国名勝図会)
江戸時代の水主神社周辺(讃岐国名勝図会)
後世の江戸時代前期になると、増吽と熊野を結びつけた文書が増えます。
『御領分中寺々山来』には、つぎのように記されています。
熊野三所大権現を以て同鎮守と為す。増吽僧正恒に熊野三所を信す。始め毎歳熊野に参詣。応永年中熊野新宮再興。増吽幸に参詣あり、祝等増吽に遷宮の導師憑。増吽曰汝等来る午日寅の一天に。新殿に於て神体を遷す可し。予は亦讃州誉田に於て開眼供養す可しと。契証有つて、当院に帰る。件の日寅の一人に当院に供養有り。其の時増吽檀上にて振鈴の声虚空に響いて熊野山に聞くと。村翁の伝説也。将、当所水主山にして三双の高嶺有り。
増吽後に、この山に熊野三社を勧請し。当寺中に於て塩水湧出の泉を掘る。毎朝塩水にて垢離あって医王山の嶺に踏。勧請の三社を伏拝。則伏拝の松並塩水涌出の泉今に之れ在る也。
意訳変換しておくと
 熊野三所大権現を勧進して、鎮守とした。増吽僧正は、熊野三所を信仰し、毎歳のように熊野に参詣し。応永年中の熊野新宮を再興の際に、増吽は参詣した。その際に新宮の祝が増吽に遷宮の導師を依頼した。そこで増吽は次のように応えた。「午日寅の一天、新殿に神体を遷すべし、私はそれを讃州誉田(与田寺)で開眼供養します」と。参拝が終わり、讃岐へ帰って来ると、約束した日に、与田寺で供養を行った。その時、増吽が檀上で鈴を振ると、その音が虚空に響いて熊野山に届いたという。これが村翁の伝説である。当所には水主山という三双の高嶺がある。増吽は後に、この山に熊野三社を勧請した。そして、当寺の境内中に塩水が湧き出る泉を掘った。毎朝塩水にて、垢離をとり、医王山の嶺に登り勧請の三社を伏拝する。伏拝の松と塩水涌出の泉は、今に伝わっている。

また『虚空蔵院・大水寺由緒』の「増吽僧正は常に熊野権現を信ず」には、つぎのように記されています。
応永年中熊野新宮再興あり。其節増吽熊野に参詣ある。社務・巫祝など増吽を以遷宮の導師と頼み奉る。増吽の曰く 我れ国に有り遷官の法執行す。来る午の日寅の一人に神を新殿に移し奉る可しと。契諾有って帰国せり。去れば契約の日に増吽遷宮の供養の法を之れ執行す。共の時供養法の鈴の声熊野由に於て虚空に聞こえるム々。増吽自筆の棟札など新宮に之有リム々。また水主村において一所の高山有り。増吽老年の後、熊野一所権現を勧請して当寺の鎮守と為す。塩水を以垢離を取り、当山自り毎日これを伏拝す。当山に於て其塩水涌出の泉あり、又伏拝の所の松とて古本今に之有り。

 さらに「讃岐国大日記』は、増吽が熊野に「毎月参詣」したと記し、『御領分中寺々山来』には「毎年参詣」とあります。参詣の回数については誇張があるとしても、熊野に度々参話していたことは事実のようです。ここからは増吽が強い熊野信仰を持ち、先達を勤めるなど熊野修験者であったことが分かります。
次に増吽が熊野三所権現を、水主三山に勧請したということについて見ておきましょう
『讃岐府志』には、
  水主三山権現。大内郡に有り。明徳年中、僧増吽新宮本宮那智之神を遷す。以、三山権現と為す。
『讃岐国人睡譜』には、
  増吽、常に熊野三社を信じて、月詣す、故に彼の三社を水主山に移し、毎日参詣而怠らず云々。

とあります。しかし、増吽以前から熊野信仰の痕跡が見えることは、前述したとおりです。つまり、増吽以前から水主神社には、熊野権現が勧進されていたと香川県史は記します。
これに対しては、次の2つの考え方が研究者の中にもあるようです。
①江戸時代初期に「増吽の伝説化」と共に、増吽勧進説が流布されるようになった。
②水主山には若一王子権現が古くからあったが、正式に熊野三所を勧請・再興したのは増吽である。
さてどうなのでしょうか。それを証明する史料はありません。
虎丸城 - お城散歩

増吽との関係で資料に記されているものに「石風呂」があります。
『水主石風呂記』(寛保三年( 1743)には、石風呂が次のように記されます
  また一説に熊野権現の風呂とも云う。水主村三高山ありて、南最高嶽の嶺に新宮大権(本地薬師)石の社建つ。西高嶽本宮(本地阿弥陀)、北の高根那智(本地観音)なり、この一の麓に三の石風呂ありしに、ただ新宮山下の風呂のみを償し、自他の人あつまり人治養す風呂の谷と名つせく、二所の風呂はいつとなく破壊す、ゆえに今の世の人、是を知らず。

ここからは次のような事が分かります
①水主村三高山には、
南の嶺に新宮大権 (本地薬師)石の社、
西高嶽に本宮 (本地阿弥陀)
北の高根に那智 (本地観音)の三者が山上に鎮座している
②三高山の麓に熊野権現の風呂と呼ぶ石風呂がある。
③新宮山下の風呂は、多くの人が集まり、人々を治養するので風呂の谷と呼ばれている
④その他の風呂は、いつとなく途絶えていまい、今は誰も知らない
虎丸城 - お城散歩

『讃岐府志」にも、同じような内容が次のように記されます
水主三山権現大内部に有り。明徳年中、僧増吽新宮本宮那智之神を遷す。三山を以、権現と為す。旧一石室有り。温泉に擬し、痢疾の徒を療す。其法生柴を以、石室の内に焼き、然れば灰炭を払い、洒たに塩水を用い後、瘤者を延べ、而して石室の内に坐じめ。炎気酷烈する寸は則ち出る。この如くすること一日二三次、或るは七日を期す。沈病の者十に六七を全。皆謂う増吽か行感至りこの如く。死者起きせしむ。俗に岩風呂と曰く。(中略)
按ずるに往苦より影行有りと雖も、中絶に依り、増吽再興す。諸人歩を運び石室を見ること、三嶺の麓に各之在り、今風呂は新宮風呂なり。
  意訳変換すると
水主三山権現は大内郡に鎮座する。明徳年中に、僧増吽が新宮本宮那智の三所神を勧進し、三山を権現とした。そこに古い石室がある。温泉のようで、様々な疾病の人々を癒やす。その使用法は、生柴を石室の内で焼いて、その後で灰炭を取り除いて、塩水をまく。そこへ瘤者を入れて、石室の内に座らせる。炎気酷烈なので長くは居られない。これを一日に二・三回、七日程続ける。そうすると沈病の者でも、十人の内の六・七人はよくなる。増吽さまのお陰で、死者も生き返ると皆が云う。俗に岩風呂という。(中略)
 この歴史を考える古くから岩風呂はあったが、いつしか途絶えていたのを、増吽が興したのであろう。かつては、、三嶺の麓に三つの石風呂があったが、今は新宮風呂だけになった。
ここでも三山の麓に風呂があったが、今は新宮のみであることが記され、増吽が再興したとされます。

では、この石風呂はどのような意味をもっていたと研究者は考えているのでしょうか。
  以前に湯屋と風呂のちがいについて次のように分類しました。
①湯屋とは沸かした湯を浴びる場
②風呂は、蒸気を浴びる蒸風呂(サウナ)
讃岐で古来から見られるのは②の温室(風呂)です。瀬戸内海の海岸部の岩屋では、海藻をつかって蒸風呂として利用したところがいくつか知られています。水主の石風呂は、熊野権現の風呂と言う別称があるように、このエリアの中世以来の熊野信仰と関係があります。神仏への参詣の前には、精進・みそぎがおこなわれましたが、水垢離(コリトリ)・塩垢離による熊野精進を熊野修験者は行いました。

水垢離 (みずごり) - なごみの散策
水垢離(コリトリ)

熊野本宮参詣では昌之峰温泉でコリトリを行いました。
これと同じような関係が、水主の熊野三山と石風呂にもあったようです。水主の風呂は、中世の大内郡の人々や熊野への参詣がかなわない人々が、水主の本宮那智新宮の山麓に設けられた石風呂に入浴して三山詣を行ったのでしょう。
 山岳宗教では女人を不浄としましたが熊野神社は、女人を嫌いませんでした。水主の三つの風呂でも江戸中期まで、新宮風呂に入る女性に、弘海寺(浄土寺)で水除けの符を配て入浴させていたといいます。これを見ても水主の石風呂の起源は、中世まで遡るようです。近世になると、これら石風呂の宗教的な起原は忘れ去られ、湯治目的の温室としてのみ引き継がれていくようになります。
 中世の石風呂は、現在のように衛生・娯楽よりも宗教施設であったことは以前にお話しした通りです。熊野三所と熊野権現風呂を再興したのが増吽という可能性も、大いにあるようです。
以上、増吽を熊野修験者として捉え、熊野詣での先達、熊野権現の勧進、石風呂の設置などについてみてきました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   武田和昭 吽僧正の弘法大師信仰と熊野信仰
   唐木   旧大内郡所在の大般若経二部と増吽をめぐって       香川史学1989年
 香川県史 

水主神社 古代郡名

 旧大内郡は讃岐の東端にある郡で、引田郷・白鳥郷・入野郷・与泰(田)郷の四郷からなります。その構成は、西に「中の山」(中山)が境界となり寒川郡と分かたれ、南は、讃岐と阿波の「中の山(大坂峠)」があって、両国を隔てます。さらに、郡内にも「中山」(伊座)があって引田郷と白鳥郷を分けます。そして、北と東は瀬戸内海に面し畿内と接します。 
中世の旧大内郡には、ひとつの宗教文化圏が形成されていたと研究者は考えているようです。
 南北朝期から室町期にかけて三方を山に囲まれ、北は瀬戸内海に広く開いた大内郡に花開いた宗教文化が形作られていたというのです。その中心が水主神社やその神宮寺の与田寺であったといいます。そして、その頂点の時代を象徴するのが増吽という真言密教系の僧侶であったと指摘します。

水主神社 地図
大川郡に形成された中世文化圏がどのようなものであったのかを見ていきたいと思います。
旧大内郡には、中世以前の大般若経600巻を保有する寺社が二ヵ所あります。それだけの歴史と勢力を持っていた宗教施設と考えることが出来ます。
肉筆 古写経 大般若波羅蜜多経 全600巻揃 室町 江戸初期 中国経典経本唐本 真言宗天台宗 仏教密教 大般若経  古筆仏書和本古文書写本仏画(掛軸)|売買されたオークション情報、yahooの商品情報をアーカイブ公開 - オークファン(aucfan.com)
オークションに出されていた写経大般若経六百巻

まず、大般若経の写経とその意味について最初に確認しておきます。
写経は、経典の一字一句を書き写すことですが、功徳の最も大きい行為だとされてきました。
①朝廷や諸経寺の写経所では、専門の写経生らが書き写しました。一般の僧俗らも盛んに写経を行いました。修験者たちも山野での修行と同じように、写経は修行ともされ、功徳ともされていたようです。
②写経は大般若経が主流でした。これは600巻もある大部の経です。これを願主の呼びかけに応じて何人もが手分けしながら写経し、納めたのです。つまり、写本に参加した僧侶達は何らかのネットワークで結ばれていたことになります。残された大般若経の成立過程を追うことで、それに関わった僧侶集団を明らかにすることができます
③大般若経を真読する法会を大般若会といいますが、その目的は、現世安穏(あんのん)・菩提追修の祈願と国家安寧のための祈願のふたつがあったようです。これが、しだいに各階各層を越えて各地で流行するようになります。室町時代になると真読するのではなく転読することが盛行するようになります。
①真読は600巻すべてを読誦するために多くの僧侶と時間が必要です。
②そこで考えられた短縮方法が「転読」です。転読は、巻頭の経題と数行を読んで次に移る方法です。
③巻子本では、巻き取りに手間と時間がかかるため折本が使われるようになります。
④さらに、折り本を片手に巻末を扇状に広げると経文を読み通すような様になります。華麗な動作は、転読に主る祈願法会の「華」でした。
大般若経600巻を一気読み!日龍峯寺で大般若祈祷会が行われました! - 伝説ロマン溢れる津保谷(TSUBODANI)のブログ

旧大川郡で大般若経があるのは大内町の水主神社と白鳥町の若王寺です。
香川県内には古代・中世の大般若経六〇〇巻揃えて保存している所はほとんどありません。この2ヶ所以外では
①丸亀市の正覚院
②庵治町の願成寺
③観音寺市の宝寿寺
④高松市の随願寺(戦災で焼失)
だけです。その中でも、水主神社の大般若経は、国の重要文化財に指定されています。この経は、もともと巻子本であったものを転読しやすいように折本に仕立て直しています。600巻の中の7巻に奥書があります。さらに、その7巻の内巻388には、保延元(1135)年の年紀があります。ここから平安時代後期のものを中心に、鎌倉から室町時代にかけて補写したものが混しっていることが分かります。
秋の大般若経転読会(だいはんにゃきょうてんどくえ) | 成田山 東京別院 深川不動堂
経函に保管された大般若経

 この経は、「牛負大般若経」と呼ばれてきました。
それが何故なのかは、経函の底に書かれた墨書から分かります。そこには「水主神社大般若経函底書」書かれ至徳三(1286)年に水主神社の末寺であった仲善寺の亮賢が勧進して作らせたものであることが記されています。
そして、伝来については次のように記します。
破損した箱を新たな物に交換する際に、書き直したと注記して次のように水主神社大般若経の由緒を記しています。
 本云伝聞、此大般若経、元伊予国石鎚社所奉安置御経也、而自彼国奉送当社之時、負牛運送之間、於泥中奉落、失般若二巻、雖然彼牛負大般若経依功徳、受人身成沙門形上、件子細具感夢想之間、参詣当社 此経内二巻書写之、奉加之、此子細聞及之間、為後代記之、洛陽比叡山末流阿闇梨幸厳

  意訳変換すると
 次のように伝え聞いている。この大般若経は、元は伊予国の石鎚社に奉安されていたものである。それが牛の背中に乗せられて運ばれてきた際に、泥の中落ち、般若二巻を失ってしまった。しかし、牛負大般若経の功徳を伝え聞いた沙門が阿現れ、当社で失われた二巻を写経し、奉納した。この子細については、後代の記録でよく知られている。比叡山末流阿闇梨幸厳

  ここからは次のような事が分かります
①この大般若経、元は伊予国石鎚社にあったものを移管したこと
②その際に牛によって運ばれてきたので牛負大般若経と呼ばれるようになった
③輸送中に亡くなった2巻については、写経し完成させた。
 このような牛負(荷)伝承は、仏教説話として各地に残るのもので、ありふれた内容です。しかし、面白いのは、伊予の石鎚社にあった経巻を水主神社に納めていることです。石鎚社は、長寛元(1163)年以前に、すでに熊野権現が勧請されて『梁塵秘抄』にも有名な修験行場の一つに数えられているように四国における熊野信仰の一大拠点でした。当然、伝来した時には水主神社でも熊野信仰が盛んで、熊野行者が相互に頻繁に往来していたことがうかがえます。
   それでは、だれが、いつ大般若経を石鎚社から水主神社にもたらしたのでしょうか。
 経巻奥書と函書に出てくる3人の人物で研究者が注目するのは、阿闇梨伝燈大法師幸厳です。彼は、牛負伝承の伝聞者であると同時に、仁治元(1240)年八月十七・十八の両日それぞれ巻186と316を書写した人物です。そして幸厳は、境内にある御幸殿に祭られています。これは大般若経六百巻をもたらした功によるものではないかと研究者は考えているようです。
   幸厳は、天台系の修験者を自ら示唆しています。
伊予石鎚社の横峰寺の最澄の弟子が仁寿四(854)年、延暦寺別当になっています。これらの関係を併せて考えると大般若経が水主神社に移されたのも唐突ではないようです。

至徳三(1386)年に仲善寺亮賢によって勧進された経函には次のように墨書されています。     
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、
  持来ル事、北内越中公・原上総公
一 細工助成、堀江九郎殿トキヌルマテ、宰相公与田山
一 番匠助成、別所番匠中也
意訳しておくと
1 箱の木は、全て阿波吉井の木で作られ、北内の越中公・原の上総公により持ち込まれた。
2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。
ここからは、次のような事が分かります。
①経函製作のための桧用材を運送してきた北内・原の両人は水主の地名にあります。わざわざ記録に名前が記されているので、ただの人夫ではないはずです。名前に、公と国名を使用しているので出家体の者で、馬借・車借の類の陸上輸送に従事するものか、あるいは、海上輸送を生業とするものでしょう。水主の地理的環境からして前者と研究者は考えているようです。
②堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
③水主神社には職人集団が属する番匠中があり、与田山の宰相公は、「トキ」すなわち、「磨ぎ」、「ヌル」すなわち「塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたようです。 
④実際に、経函は桧材を使用し、外面を朱塗りで各稜角を几帳面どりして黒漆を塗っているようです。中央の職人によるものでなく材料も職人も地元の職人によって製作が行われています。ここからは、水主・与田山の文化圏の存在がうかがえます。
水主神社 那賀川流域jpg

それでは、「皆阿州吉井ノ木」とある吉井とはどこなのでしょうか。
阿波の吉井は、阿波国那珂郡の南北朝期、東福寺普門院領であった大野本荘にあたるようです。大野本荘の本所は、一条家です。この荘園は、鎌倉時代から熊野信仰の盛んなところで、正安二(1300)年三月三日付けの先達栄賢引旦那注文案(米良文書)によると、大野本荘にあった岩嶺寺の先達に導かれる旦那33家が目録に記されています。熊野先達にとっては、有力な旦那衆がそろっていたところだったようです。
 また、地図で分かるとおり吉井の地は、那珂川の下流に位置します。この川の上流は、鶴林寺や太龍寺があり、真言系僧侶(修験者)たちが山林管理も担当していたようです。また、紀州からやって来た集団の寄進を受けていたことは、以前にお話ししました。那賀川流域の流通・交流に熊野修験者のネットワークは大きな影響力を持っていたようです。ある意味、那賀川流域の木材の流通圏を握っていたのかもしれません。木材等は、那賀川で河口に運ばれ、そこから遡上して水主神社まで運ばれた可能性もあります。後世には、阿波木材は堺に運ばれ三好衆の大きな財源となっていたようです。そのようなルートが中世からあったと考えられます。

  大内郡における神仏習合
 旧大内郡は、13世紀後半以降、南朝方の浄金剛院領となります。南朝方の荘園であったことが大川郡の宗教的な特殊性を形成していくことにつながったようです。これは鎌倉新仏教の影響を押さえて、水主神社を中心とする熊野信仰の隆盛を長引かせます。そのため南北朝以降も新仏教勢力が浸透・定着が進まなかったと研究者は考えているようです。そのことを、当時の大川郡における神祇信仰から見ていきましょう。

水主神社 地図
中世の大内郡の神祇信仰の中心は、水主神社です。
先ほど見た大般若経の函書にあるように、大内郡の鎮守社であり、讃岐国式内社24社の一つでした。江戸時代のものですがは、「水主神社関係神宮寺坊絵図(水主神社蔵)」、文政四(1822)年には、水主大明神を中心にして約67の寺社が描かれています。与田川流域の狭いエリアにこれだけ多くの宗教施設がひしめきあっていたのです。
水主神社(讃岐国名勝図会)2
水主神社(讃岐国名勝図会 幕末)
坊舎をふくめると100を越える数になったとでしょうし、与田山周辺を含めると、さらに数は増えるでしょう。その中には、宗教活動だけでなく経済活動に従事する出家の者たちもいたようです。彼らは、信仰を紐帯にいろいろなネットワークを結んでいたようです。
 水主神社の残る神祇信仰関係の文化財を見てみてみましょう。ここには次のような国指定重要文化財があります。
倭追々日百襲姫命坐像
倭国香姫命坐像
大倭根子彦太瓊命坐像 女神坐像四体
男神坐像一体、
木造狛犬一対
P1120164 水主神社 ももそひめ
倭追々日百襲姫命坐像(水主神社)
P1120111 大内 水主神社 大倭根子彦
大倭根子彦太瓊命坐像(水主神社)

P1120208水主神社 狛犬
木造狛犬一対(水主神社)

P1120167水主神社 女神3
女神像2(水主神社)

P1120169水主神社 女神4
女神像4(水主神社)
大水主神社獅子頭  松岡調
水主神社の獅子頭(讃岐国名勝図会 松岡調筆)
これらは、いずれも平安時代前後のものです。狛犬や獅子頭は、中世の村々に神社が姿を現し、本殿が造営され、その中に神像が納められていく時期にあたります。与田寺周辺にあった工房で作られて、周囲の寺社に提供されていたことが考えられます。
  どちらにしても香川県下で、これほど中世以前の神祇信仰遺物を伝えるところはないと研究者は評します。仏教文化だけでなく、神仏混淆の中で神祇信仰も大内地区は隆盛を迎えていたのです。これが後の浄土真宗の大内地区への教線拡大が進まなかった要因のひとつだと私は考えています。
大内郡全体を見てみると、誉田神社が2社あります。
引田の亀山と旧誉水村横内です。この二社は、県下の誉田神(応神天皇)を祭っている神社の多くとは異なり、中世以前の勧請で古社です。郷八幡社は、『宝蔵院古暦記』によれば、承平一(936)年秋八月に一郷一八幡勧請によって創始されたと伝わります。
 引田の誉田神社は社伝に、承和八(841)年に河内国誉田八幡宮を勧請して、当初中山伊座に祭祀していたものを延久元(1069)年、現在地へ遷宮したと記します。
 横内の誉田神社は、創始は不明ですが、同じく河内国誉田八幡宮からの勧請を伝えます。研究者が注目するのは、両社が河内国誉田八幡宮からの勧請をうたっていることです。
 八幡神は、神仏習合の強い神で、源氏の氏神とされて以来、鎌倉時代からは盛んに武神としても祭られるようになります。河内の誉田八幡宮の創始は、平安時代末期のこととされます。したがって、大内郡の誉田神社両社の勧請は、それ以降のことになります。そうだとすれば、与田郷に地頭職を得て東国から遷住した小早川氏の勧請が考えられます。
 引田の誉田神社は、中世引田港の管理機能を担っていた可能性があること以前にお話ししました。そのため戦国末期に引田に城下町を築こうとした生駒氏も、この寺院を取り込んだ町割りを行っています。
  しかし、神祇信仰では、大内郡では圧倒的に水主神社の勢力が強かったようです。
このことは、江戸時代になっても松平頼重が水主神社の強勢に対抗させるため白鳥宮への保護政策をとったことからもうかがえます。このように、大内郡の宗教文化は、仏教と神祇信仰との習合と競合によって隆盛を見ることができました。その中心にあったのが水主神社と、その別当の与田寺であったようです。それは、熊野系修験者(真言密教僧侶)に担われていたようです。そのため、熊野行者のネットワークを通じて、水主神社は阿波や伊予の石鎚、或いは備中児島の五流修験、紀伊熊野と結びつけられ、活発な人とモノの交流が行われていたようです。
 その例が伊予石鎚社からの大般若経の奉納であり、阿波那賀川流域からの木材の寄進にみられました。また、熊野参拝の四国側の集結地点にも当たります。熊野参拝を目指す先達に連れられて、この地にやってくるきて信者への宿泊や行場を提供したはずです。その外港である引田港は、熊野水軍の拠点として寄港する舟も多かったことは以前にお話ししました。 
  四国巡礼(八十八ヵ所)の始発(打ち出し)上陸地は、金毘羅参詣の隆盛に押されるまでは、引田・白鳥・三本松が圧倒的優位を占めていました。
 大内郡における宗教文化を中世讃岐の文化史上に、正しく位置付けようとする試みが研究者によって続けられているようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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