瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:永正の錯乱

永正の錯乱以前に、讃岐国人は細川京兆家の繁栄のもとで四天王として勢力を振るってきました。それが永正の錯乱の結果、京兆家の弱体化と香西氏や両守護代の香川・安富氏の減亡により、以後権勢の座を畿内の国人や阿波の三好氏に譲ることになります。香西氏・安富氏など讃岐武士団の主導権は失われたのです。変わって、重要な役割を演じるようになるのが阿波三好氏です。そして、阿波三好氏は、永正の錯乱で敵対関係になった讃岐への侵攻を開始します。こうして讃岐の四天王は、没落し三好氏に従属していくことになります。その過程を押さえておきます。 テキストは「田中健二  永正の錯乱と讃岐国人の動向 香川県中世城館跡詳細分布調査2003年429P」です

細川政元政権下で、香西氏と薬師寺氏が内衆の指導権を握ったのはいつでしょうか?
政元暗殺の首謀者である薬師寺長忠と香西元長の二人が京兆家の有力被官で構成される「内衆」の中で指導的立場を確立したのは、永正元年9月に起こった薬師寺元一の謀反の鎮圧によってです。そこに至る経過を見ておきましょう。
永世の錯乱 対立構図
文亀3年(1501)5月、政元は阿波守護細川慈雲院(成之)の孫六郎(のちの澄元)を養子に迎えます。これ以前に政元には後継者として養子に迎えていた前関白九条政基の子九郎(澄之)がいました。その背景を「細川両覆記」は、次のように記します。
この養子縁組は実子のいない政元が摂関家出身の九郎に代えて細川一門から養子を迎えた。ところが京兆家の家督を細川家一族に譲りたいと心変わりしたため、当時摂津守護代であった薬師寺与一が尽力して成立した。

「実隆公記」や「後法興院記」には次のように記します。
細川一門の上野治部少輔政誠や薬師寺与一らが政元の使節として阿波へ下向し、慈雲院に「京兆隠居、相続の事」を「相計ら」うよう伝えた。

   こうして、政元が二人の養子を迎えたことは、二人の後継者を作ってしまったことになります。当然、後継者をめぐって京兆家家臣団の分裂・抗争の激化を招くことになります。その動きのひとつが薬師寺元一の謀反です。謀反当時、摂津半国守護代であった薬師寺元一は、かつて安富元家とともに政元より京兆家の家政を委任された薬師寺備後守元長の長子です。また、政元暗殺の首謀者である薬師寺長忠はその弟になります。阿波守護細川家より六郎を養子として迎えたときの経緯から澄元を押す元一と、なかなか家督相続者を決定しない政元との関係は次第に険悪なものとなります。こうした中で細川政元は永正元年3月に、薬師寺元一の摂津守護代職を罷免しようとします。このときは、元一は将軍義澄の取り成しによりようやく摂津半国の守護代職を維持することができます。(「後法興院記」)。残りの半国守護代に弟の長忠が任命されたのもこの時のことと研究者は考えています。

 薬師寺元一の謀反発覚と鎮圧過程を年表化しておきます。
1504(永正元)年
9月4日、元一の弟で京兆家被官の寺町氏の養子となっていた又三郎の通知で謀反発覚。元一は、淀の藤岡城に籠城
  6日、上野政誠、上野元治・安富元治、内藤貞正らが元一方に味方した京都西岡衆を討伐
  9日、淀で合戦開始し、讃岐守護代の安富(元家)が討死
 17日 西岡衆を討伐した軍勢は、淀へ向かい翌日18日藤岡城を攻め落とし、元一を生捕り。
こうして元一の謀反は失敗に終わります。
薬師寺元一 2つ新
薬師寺元一の辞世の句

しかし、この反乱に加わった者達は広範に及んでいました。「宣胤卿記」の9月21日条には挙兵の失敗について、次のように記します。
元一成囚。去暁於京切腹云々〈十九歳〉。世間静読如夜之明云々。希代事也。同意〈前将軍方)畠山尾張守〈在紀州)。細川慈雲院(在阿波)等出張遅々故也。且又元一弟〈号与次、摂州半国守護代)為京方国勢属彼手故也。京方香西又六、契約半済於近郷之土民悉狩出、下京輩免地子皆出陣。以彼等責落云々。
意訳変換しておくと
薬師寺元一は虜となり、明朝に京で切腹となった。19歳であった。この蜂起については明応の政変で政元に幕府を逐われた前将軍義材派の前河内守護畠山尚順、阿波の澄元の祖父の慈雲院などがも、元一の呼びかけに応じて挙兵することになっていた。阿波からは三好氏が淡路へ侵攻し、紀州の畠山尚順は和泉を攻め上がってくる動きを見せたが、蜂起発覚で遅きに失した。兄元一を裏切った長忠は左衛門尉の官途を与えられ、摂津半国の守護代となった。こうして京の国勢は、薬師寺長忠と京方香西又六が握ることになった。

 この合戦でそれまでの有力者であった薬師寺元一・安富元家という二人の死去します。その結果、京兆家被官(内衆)の中で最大の勢力を持つようになったのが香西氏と薬師寺長忠でした。薬師寺元一の謀反制圧の最大の功労者である長忠と香西元長とが、後に政元暗殺と澄元追放の首謀者となったのは決して偶然ではないと研究者は指摘します。

この事件の結果、都での澄元派は没落します。
「後法興院記」によると、政元は翌2年3月から4月にかけて一ヶ月以上淡路に滞在しています。この淡路下向は阿波の慈雲院討伐の準備のためだったようです。ところが、政元軍の淡路侵攻は見事に失敗してしまいます。
「後法興院記」の5月29日条には次のように記します。
伝え聞く。讃岐え進発の諸勢(淡路・上野・安富・香川)、敵御方数百人誅貌せらると云々ここれに依りまず引き退くと云々。淡路出陣の留守に三吉夜中推し寄せ館に放火すと云々。
意訳変換しておくと
淡路より讃岐へ侵攻した淡路守護家の淡路守尚春・上野玄蕃頭元治・安富元治・香川満景らの軍勢は返討ちに遭い。数百人の敗死者を出して撤退した。その上、守護の留守を狙って三好氏が淡路侵攻し守護の館を焼き討ちしたと伝え聞いた。

ここには、「讃岐え進発の諸勢(淡路・上野・安富・香川)」とあります。逆に見ると、この時点で讃岐は阿波勢の侵攻を受けて占領下にあったことがうかがえます。この敗戦後に、政元は阿波の慈雲院との和睦を図ります。「細川両家記」は永正2年の夏のころ、薬師寺長忠が澄元を京都に迎えるため阿波へ下向したと記します。和解に向けた事前交渉のようです。
  また、「大乗院自社雑事記」や「多聞院日記」には、6月10日ころ、かつて元一とともに謀反を起こした赤沢宗益が政元から赦されています。ここからは6月ころには、政元はそれまでの阿波の慈雲院との敵対関係を止めて、融和策に転じたことがうかがえます。

 これを受けて翌3年2月19日、まず三好之長が上洛します(「多間院日記」)。続いて4月21日には澄元の上洛が実現します。澄元が宿所としたのは「安富旧宅」で、故筑後守元家邸です。「多聞院日記」の5月5日条には、「阿波慈雲院子息六郎殿、細川家督として上洛す。」とあります。澄元は京兆家の家督として迎えられたことが分かります。
この間の事情について「細川両家記」は、次のように記します。

御約束の事なれば澄元御上洛。御供には三好筑前守之長、高畠与三等を召させ給ひ御上洛有ければ、京童ども是を見て、是こそ細川のニツにならんずるもとゐぞとさゝめごと申ける。さる程に九郎殿へ丹波国をまいらせられて、かの国へ下し中されければ、弥むねんに思食ける。
  意訳変換しておくと
約束したことなので澄元は上洛した。御供には三好筑前守之長、高畠与三等を従って御上洛した。これを京童が見て「これで細川氏はまっぷたつ分裂してしまう」とささやき合った。そして九郎殿(澄之)には丹波国への下向を命じた。これは澄之にとっては、さぞ無念なことであったろう。

政元は、阿波守護家との和睦を第一に考え、澄元を京兆家の家督にすえたようです。そして、澄之を丹波に下向させました。それまでの家督候補者であった澄之と彼の擁立を目指していた薬師寺長忠・香西元長らにとっては、政元のこの決断はとうてい受け入れがたいものであったはずです。ここに、政元暗殺の直接的な原因があると研究者は指摘します。
永正の錯乱前の讃岐の情勢は、どうだったのでしょうか?
永正3年10月12日、阿波の三好之長は、香川中務丞(元綱)の知行地讃岐国西方元山(現在の三豊郡本山町付近)と本領を返還するよう三好越前守と篠原右京進へ命じています。(石清水文書)。この時期は政元と阿波守護細川家との間で和睦が成立した時期です。その証として澄元が都に迎えられたのが、この年4月のことです。三好之長から香川中務丞に対して本領が返還されたのは、その和解の結果と研究者は推測します。つまり、政元と阿波守護家とが対立していた期間に讃岐国は阿波細川家の軍勢による侵攻を受け、守護代家の香川氏の本領が阿波勢力によって没収されていたことを示すというのです。これを裏付ける史料を見ておきましょう。
 永正2年4月~5月に、淡路守護家や香川・安富両氏などに率いられた軍勢が讃岐国へ攻め入っています。
当時の讃岐は、安富氏が讃岐の東半部を、香川氏が西半部を管轄する体制でした。讃岐の守護代である香川・安富氏がどうして讃岐に侵攻するのでしょうか。それは軍事行動は讃岐が他国の敵対勢力に制圧されていたことを意味すると研究者は指摘します。このときの敵対勢力とは、誰でしょか。それは阿波三好氏のようです。
  「大乗院寺社雑事記」の明応4年(1495)3月1日には、次のように記されています。
讃岐国蜂起之間、ムレ(牟礼)父子遣之処、両人共二責殺之。於千今安富可罷下云々。大儀出来。ムレ兄弟於讃岐責殺之。安富可罷立旨申之処、屋形来秋可下向、其間可相待云々。安富腹立、此上者守護代可辞申云々。国儀者以外事也云々。ムレ子息ハ在京無相違、父自害、伯父両人也云々。

意訳変換しておくと
讃岐国で蜂起が起こった時に、京兆家被官の牟礼氏を鎮圧のために派遣したが、逆に両人ともに討たれてしまった。そこで、守護代である安富元家が下向しようとしたところ、来秋下向する予定の主人政元にそれまで待つよう制止された。その指示に対して安富元家は、怒って守護代を辞任する意向を示した。

この記事からも明応4年2月から3月はじめにかけてのころ、安富氏の支配する東讃地方も「蜂起」が起こって、敵対勢力に軍事占領されたいたことがうかがえます。
管領細川家とその一族 - 探検!日本の歴史

このころ四国では何が起こっていたのでしょうか。阿波守護細川家の動きを追ってみよう。
明応3年11月27日、阿波守護細川⑦義春(慈雲院の子)は本国の阿波へ下向します。「後慈眼院殿御記」の11月28日・同31日条には、次のように記されています。
昨日讃岐守(義春)下国、不知子細云々。先備前可着小島也。其後可向讃州(慈雲院)云々。当国(山城)守護職相論之事、伊勢備中守復理之間、南都等路次静誌耳。一説.讃岐守下国。之与義材卿依同意、先趣四州云々。

他の関係史料も、義春は山城守護職就任を望んでいたが、将軍義澄に受け入れられなかったことをを恨み、阿波へ下ったことが記されています。義澄に対する反発から、義春は明応の政変で失脚した前将軍義材側についたのです。それは、義材を幕府から放逐した政元に背くことになります。
この結果、政元の守護分国である讃岐と阿波守護家の分国である阿波との間に軍事緊張関係が生まれたと研究者は判断します。
義春自身は、阿波帰国後まもなく12月21日に死去します。しかし、その遺志は父慈雲院(細川成之)が引き継ぎます。翌年春の讃岐での軍事衝突、永世元年の薬師寺与一の謀反への同意もその結果と考えられます。

徳島市立徳島城博物館(公式) on Twitter: "俗に「阿波の法隆寺」とも呼ばれる丈六寺 「徳島のたから」展では「絹本著色 細川成之像」を特別出品✨  応仁・文明の乱をのりこえ、阿波守護をつとめた細川成之は丈六寺を厚く保護します 徳島県内の肖像画では唯一の重要文化財 ...
永正8年9月12日、慈雲院(成之)は78歳で亡くなります。
「丈六寺開山金岡大禅師法語」には、次のように記されています。
「二州(阿波・讃岐)の伊を司どる。」
「門閥二州の都督に備う。」
「二州の釣軸(大臣の意)」
二州とは、阿波と讃岐のことです。ここには当時の人達が慈雲院が阿波・讃岐両国の実質的な守護であったと当時の人達が認識していたことが分かります。この時期に、讃岐は阿波細川氏の侵攻を受けて占領下に置かれたのです。
丈六寺 - Wikipedia
      慈雲院(細川成之)が保護した丈六寺(徳島市)
以上をまとめておきます。

①1493年(明応2)年 明応の政変で細川政元が足利義材を追放=足利義澄の将軍就任
②1501(文亀3)年5月、細川政元が阿波守護細川慈雲院(成之)の孫澄元)を養子に迎える。
③1504(永正元)年9月4日、薬師寺元一のクーデター謀反発覚と失脚 → 香西氏の権勢
④1505(永世2)年春 細川政元の淡路滞在、淡路守護家や香川・安富両氏などに率いられた          軍勢が讃岐国へ攻め入り敗北。
④1505(永正2)年夏頃、細川政元が阿波細川氏と和解 阿波の細川澄元を後継者に指名
⑤1506(永正3)年 阿波の三好之長が、香川中務丞(元綱)の知行地讃岐国西方元山(現三豊市本山町)と本領を返還するよう三好越前守と篠原右京進へ命じる。(石清水文書)。これは、阿波占領下にあった土地が和解によって返却されたもの。

⑥1507(永正4)年6月23日夜、細川政元が家臣によって暗殺される。
⑦1508(永正5)年4月9日、澄元と之長は自邸に放火して江州へ脱出=澄元政権の崩壊
⑧1511(永正8)年9月12日、慈雲院成之没(78歳)「二州(阿波・讃岐)の伊を司どる。」、
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 永正の錯乱については以前にお話ししましたが、それが讃岐武士団にどんな結果や影響をもたらしたかに焦点を絞って、もういちど見ていくことにします。テキストは「田中健二  永正の錯乱と讃岐国人の動向 香川県中世城館跡詳細分布調査2003年429P」です。

永世の錯乱1
永正4年(1507)6月23日の夜、管領・細川右京大夫政元は被官の竹田孫七・福井四郎,新名らに殺害されます。この暗殺について「細川両家記」は、次のように記します。
此たくみは薬師寺三郎左衛門(長忠)、香西又六兄弟談合して、丹波におわす九郎殿御代にたて、天下を我まヽにふるまふべきたくみにより、彼二人を相かたらひ政元を誅し申也

意訳変換しておくと
「この企みは此たくみは薬師寺三郎左衛門、香西又六兄弟が談合して、丹波にいた九郎殿御代を細川家棟梁の管領にたて、天下を思うままに動かそうとする企みで、彼二人が密議して主君政元を謀殺したものである」

ここには、政元の有力被官である摂津守護代の薬師寺長忠と山城守護代の香西又六元長らが謀ったものとあります。その目的は実子のいない政元の養子2人のうち、前関白九条政基の子九郎澄之を細川京兆家の家督に擁立し、そのもとで彼らが専権を振るうことにあったというのです。その目的を果たすためには、政元のほかにもう一人の養子である阿波守護細川家出身の六郎澄元をのぞく必要があります。政元殺害の翌日には、香西氏を中心とする軍勢が澄元邸を襲撃します。この合戦は昼より夕刻まで続きますが、澄元は阿波守護家の有力被官三好之長に守られて江州甲賀へ脱出します。このときの合戦では、香西又六元長の弟孫六・彦六が討ち死にします。
永世の錯乱 対立構図
この事件の見聞を記した「宣胤卿記」の永正4年6月24日条には、次のように記します。
去る夜半、細川右京大夫源政元朝臣(四十二歳)。」天下無双之権威.丹波・摂津。大和・河内・山城・讃岐・土佐等守護也。〉為被官(竹田孫七〉被殺害.京中騒動。今日午刻彼被官(山城守護代)香西又六。同孫六・彦六・兄弟三人、自嵯峨率数千人、押寄細川六郎澄元(政元朝臣養子)相続分也。十九歳.去年自阿波上。在所(将軍家北隣也)終日合戦。中斜六郎敗北、在所放火。香西彦六討死、同孫六翌日(廿五日)死去云々。六郎。同被官三好(自阿波六郎召具。棟梁也。実名之長。)落所江州甲賀郡.憑国人云々。今度之子細者、九郎澄之(自六郎前政元朝臣養子也。実父前関白准后政元公御子。十九歳。)依家督相続違変之遺恨。相語被官。令殺養父。香西同心之儀云々。言語道断事也。
  意訳変換しておくと
  細川政元(四十二歳)は、天下無双の権威で、丹波・摂津・大和・河内・山城・讃岐・土佐等守護であったが夜半に、被官竹田孫七によって殺害せれた。京中が大騒ぎである。今日の午後には、政元の被官である山城守護代香西又六(元長)・孫六(元秋)・彦六 (元能)弟三人が、嵯峨より数千人を率いて、細川六郎澄元(政元の養子で後継者19歳。去年阿波より上洛し。将軍家北隣に居住)を襲撃し、終日戦闘となった。六郎は敗北し、放火した。香西彦六も討死、孫六も翌日25日に死去したと伝えられる。六郎(澄元)は被官三好(之長)が阿波より付いてきて保護していた。この人物は三好の棟梁で、実名之長である。之長の機転で、伊賀の甲賀郡に落ちのびた。国人を憑むと云々。

 澄之は六郎(澄元)以前の政元の養子で後継者候補であった。実父は前関白准后(九条)政基公御子である。家督相続の遺恨から、香西氏などの被官たちが相語らって、養父を殺害した。香西氏もそれに乗ったようだ。言語道断の事である。
 
 7月8日には、丹後の一色氏討伐のため丹波に下っていた澄之が上洛してきます。そして将軍足利義澄より京兆家の家督相続を認められます。翌々日10日には政元の葬礼が行われています。この時点では、政元の養子となっていた細川高国をはじめ細川一門は、京兆家被官による主人政元の暗殺と養嗣子澄元の追放を傍観していました。しかし、それは容認していたわけではなく、介入の機会を準備していたようです。8月1日になると、典厩家の右馬助政賢、野州家の民部少輔高国、淡路守護家の淡路守尚春らが澄之の居所遊初軒を襲撃します。その事情を「宣胤卿記」8月1日条は、次のように記します。
早旦京中物忽。於上辺已有合戦云々。巷説未分明。遣人令見之処、細川一家右馬助。同民部少輔・淡路守護等、押寄九郎(細川家督也。〉在所(大樹御在所之北、上京無小路之名所也。〉云々。(中略)
九郎(澄之。十九歳。)己切腹。(山城守護代)香西又六。(同弟僧真珠院)。(摂州守護代)薬師寺三郎左衛門尉。(讃岐守護代)香川。安富等、為九郎方討死云々。此子細者、細川六郎、去六月廿四日。為香西没落相語江州之悪党、近日可責上之由、有沙汰。京中持隠資財令右往左往之間、一家之輩、以前見外所之間、我身存可及大事之由、上洛己前致忠為補咎也。然間京都半時落居。諸人安堵只此事也。上辺悉可放火欺之由、兼日沙汰之処、九郎在所(寺也)。香西又六所等、焼失許也。
意訳変換しておくと
  8月1日早朝、京中が騒然とする。上辺で合戦があったという。巷に流れる噂話では分からないので、人を遣って調べたところ、以下のように報告を受けた。細川一家右馬助・同民部少輔・淡路守護等、九郎細川家督たちが在所大樹御在所の北、上京小路の名なき所に集結し、細川澄之と香西氏の舘を襲撃した。(中略)九郎澄之(十九歳)は、すでに切腹。山城守護代香西又六・同弟僧真珠院・摂州守護代薬師寺三郎左衛門尉・讃岐守護代香川・安富等など、九郎澄之方の主立った者が討死したという。

 ここには、細川一門が澄之やその取り巻き勢力を攻撃した理由を、その追放を傍観した澄元が勢力を蓄え、江州より上洛するとのことで、それ以前に澄之派を討伐しみずからの保身を図るためとしています。この時に、澄之派として滅亡したのが、山城守護代の香西元長、摂津守護代の薬師寺長忠、讃岐守護代の香川満景・安富元治などです。永世の錯乱が讃岐武士団も墓場といわれる由縁です。
 翌2日の夜になると、澄元は細川一門に迎えられ5万人と伝えられる軍勢を率いて入京します。即日将軍義澄より京兆家の家督を認められています。8月7日には、右馬頭政賢が澄元の代官として、澄元をのぞく敵方の香西・薬師寺・香川。安富ら41人の首実検を行っています。このような混乱を経て澄元政権は成立します。


 ところが、この政権は成立の当初より不安定要素がありました。
それは阿波細川守護家の重臣で澄元を補佐していた三好之長の存在です。彼の横暴さは都で知れ渡っていたようです。澄元政権下で三好之長と反目した京兆家被官たちは、細川一門の領袖である高国を担ぐようになります。こうして高国は澄元を見限って、政元と対立していた中国の大大名大内義興と連携を計ります。そして政元が明応2年(1493)の明応の政変で将軍職を剥奪した前将軍の足利義材を擁立します。永正5年4月9日、澄元と之長は自邸に放火して江州へ脱出します。澄元政権の崩壊です。つづいて、16日には前将軍義材の堺到着が伝わる騒然とした状況のもとで将軍義澄もまた江州坂本へ逃れます。
この政元暗殺に始まり、澄元政権の瓦解にいたる一連の事件を永正の錯乱と呼びます。
この乱の結果、京兆家の家督は澄元系と高国系とに分裂します。
そして両者は、細川右京大夫を名乗り互いに抗争を繰り返すことになります。これを「細川両家記」には「細川のながれふたつになる」と記します。 今回はここまにします。次回は永正の錯乱を、讃岐との関わりから見ていくことにします。

永世の錯乱3
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     「田中健二  永正の錯乱と讃岐国人の動向 香川県中世城館跡詳細分布調査2003年429P」

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