瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:求聞持法

       
 「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」を読み返していると、空海入唐求法についての疑問点とされることが次のように挙げられていました。
①入唐の動機。目的は何か。
②誰の推挙によって入唐できたのか。
③どんな資格で入唐したのか。入唐の資格は何か。
④入唐中に最澄との面識はあったのか。
⑤長安での寄宿先の寺院はどこであったか。
⑥大量に持ち帰った経典・曼荼羅・密教法具などの経費の出所はどこか。
⑦帰国したとき乗った高階真人遠成の船はどのような役目の船であったか。
⑧空海は入唐して何を持ち帰ったか。入唐の成果は何か。

②~⑧の疑問に対しての研究状況が次のように記されています。
②誰の推挙だったかについては、次のような人物が考えれている
空海の師匠とみなされてきた勤操
おじが侍講を務めていた伊予親王
空海の一族佐伯氏
DSC04549遣唐使船

③入唐の資格については、
私費の留学生や大使の通訳などとみなす説もあるが、正式の留学僧であったことは空海の著作から間違いない。
④空海と最澄との面識については、
ふたりが出逢っていたとすれば、博多の津が考えられるが、帰国後、両者が著したものには入唐中に二人が出会った記述はない。入唐中、両者には面識はなかったと研究者は考えています。
⑤長安における寄宿先について、櫛田師は次のように記します。
「在唐の坊を予め連絡してから入唐したであろう」
永忠僧都の推挙によってこの西明寺と指示されたので喜んで入唐の志を堅くしたのであろう」
「空海入唐の斡旋の労も或いはこの永忠和尚の力によったものかも知れない」
この説によると、永忠と空海の間には、入唐以前からなんらかのやりとりがあったことになります。そして、長安で世話になる寺院については永忠から西明寺を推薦されていたと記します。
しかし、研究者は『日本後紀」所収「永忠卒伝」の記録には、永忠は宝亀の初めに入唐留学し、延暦の末に空海が入唐したときの大使藤原葛野麻呂とともに帰朝した、という記録があることを指摘します。この記録からは、二人がはじめて出会ったのは長安だったことになります。現在のように、事前に連絡を取り合うことは出来ません。櫛田説は再考される必要があると研究者は指摘します。

弘法大師 誕生と長安での書写1
長安での空海 曼荼羅図などの作成
⑥入唐に要した経費の出所ですが、空海がどれほどの資金を持参したかは分かりません。
櫛田師は、「もとより空海には莫大な財源も資産もなく、秀れた門閥でも、氏でもなかった」と記します。
しかし、空海の生家である讃岐国の佐伯直氏は、海運交易などで相当の経済力を備えていた、と考える研究者もいます。膨大な招来品のなかには、師の恵果和尚から贈られた品々も少なくなかったでしょうが、空海みずからが資金を出して入手した品々も多々あったと思われます。しかし、それらを明記したリストがない以上は、どれが「私費購入品」かも分かりません。したがって、空海かどれほどの資金を持参したかも、分からないというしかないようです。
⑦帰朝したときの高階遠成の船については、空海が入唐したときの第四船が有力
以上のように、問題点に対する現時点での「とりあえずの答」を簡潔に示してくれます。私にとってはありがたい本です。

①の入唐の動機・目的について、もう少し詳しく追いかけてみましょう。
空海の生涯には、いくつかのエポンクメーキングなできごとがあります。その最大のものの一つが虚空蔵求聞持法との出逢いであり、いま一つが入唐求法の旅であったと私は考えています。この二つは、別々のことがらではありません。入唐の出発点が求聞持法との出逢いで、両者は連続しているのです。それを並べると次のようになります。
①求聞持法との出逢い
②平城京の大学からのドロップアウト
③四国の辺路修行と室戸での求聞持法修得
④大日経との出会いと入唐決意

まず、求聞持法との出逢いから見ておきましょう。
空海の出家宣言の書といわれる『三教指帰』の序文は、若き日の空海の足跡を知ることができる唯一の史料です。現在の『三教指帰』は、24歳のとき著された『聾蓄指帰』に、唐から帰国後に序文と最後の「十韻の詩」を書き改め、あわせて題名を『三教指帰』と改めた、とみるのが通説のようです。
その『三教指帰』序文には、求聞持法との出逢いが、つぎのように記されています。
ア、髪に一(ひとり)の沙門あり。余(われ)に虚空蔵聞持の法を呈す。其の経に説かく、「若し人、法に依って此の真言一百万遍を誦ずれば、即ち、 一切の教法の文義、暗記することを得」と。

(現代語訳)
ここに一人の僧がいて、私に虚空蔵求聞持の法(虚空蔵菩薩の説く記憶力増進の秘訣)を教えてくれた。その秘法を説く『虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法』には、「もしも人々がこの経典に説かれている作法にしたがい、虚空蔵菩薩の真言「ノーボー アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」を百万遍唱えれば、あらゆる経典の教えの意味。内容を理解し、暗記することができる」と説かれている。

イ 大聖の言葉を信じて跳炎をさんずいに望む。阿国大瀧獄に登り攀(よ)じ、土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。
(現代語訳)
そこで私は、これは仏陀のいつわりなき言葉であると信じて、木を錐もみすれば火花が飛ぶという修行努力の成果に期待し、阿波の国の大滝岳によじのばり、上佐の国の室戸崎で一心不乱に求聞持法を修した。私のまごころが仏に通じ、あたかも谷がこだまを返すように、虚空蔵菩薩の象徴である明星が、大空に姿を現した。

最後の「谷響きを惜しまず、明星来影す」は、空海が体験した事実を、ありのままに記されたものと研究者は考えています。すなわち、「谷響きを惜しまず、明星来影す」とは、 一心に虚空蔵菩薩の真言、ノーボー アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ
(虚空蔵尊に帰命します。オーン、怨敵と貪欲を打ち破る尊よ、スヴァーハー)を唱えていると、こだまが必ず返ってくるように、求聞持法の本尊・虚空蔵菩薩の象徴である明星が、私に向かって飛び込んできた、つまり虚空蔵菩薩と合一した、 一つになった、と解されます。

ここには、机上空間からでは分からない、体験したものでないと分からない、つまり「強烈な神秘体験」が記されています。

DSC04630
室戸での求聞持法修行
求聞持法を求める中で、強烈な神秘体験に出逢った空海のその後は、この体験の法則化に向かいます。つまり、世界とはいかなるものかを探求する道程であり、いろいろな僧にみずから体験した世界を語り、それがいかなる世界であるかを問い続けます。そして仏典のなかに解答を求め、解明・研鑽に精魂をかたむけたのでしょう。
 そのひとこまとして、『御遺告』が語るように、『大日経』をひもといたけれども、納得できる解答を見出せないまま悶々としていた、といったシーンが語られます。

正倉院文書と写経所の研究 | 山下 有美 |本 | 通販 | Amazon

正倉院には国営の書写所があり、何十人ものプロの書写生がいて仏典を書き写して、国分寺や中央寺院に提供していたことは以前にお話ししました。
 正倉院文書には『大日経』が最初に天平九年(737)に書写されたこと、それから宝亀六年(775)にいたるまでに、十数本の『大日経』が書写・伝存していたことが記録されています。

1大日経写経一覧 正倉院

それらを年代順に一覧表にしたのが上表です。
ここから『大日経』が何回も書写されていること、なかでも空海が登場する直前の宝亀年間に8回と集中して写されていることが分かります。奈良朝末には『大日経』の写本が畿内には、何種類も出回っていたのです。空海が、大日経を探し求めれば、それらの一つを目にすることも可能だったようです。しかし、これを見ても「ダメだ 分からない、この国では納得てきる答はえられない」との結論に達したのでしょう。そのため空海は、最後の手段として、唐に渡ることを考えたと研究者は考えています。
御遺告
御遺告
『御遺告』のこの部分を意訳しておくと、次のような事が記されています。
①二十歳のとき、槙尾山寺において勤操僧正(岩淵贈僧正)にしたがって出家し、教海と称し、のちに如空と改めたこと。
②このとき、仏前において「諸仏よ、私に不二の教えを示したまえ」と一心に祈願したこと。
③この結果、「なんじの要めるところは『大日経』なり」との夢告を得たこと。
④久米寺の東塔下で、『大日経』を探じ求めて、ひとあたり拝見したけれども、理解できないところが多々あり、それを問いただすところもなかったこと。
⑤そこで、唐に渡ることを決意し、延暦23年(804)5月12日出発したこと。
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       久米寺の東塔下で、『大日経』を読む空海

ここからは、次のようなことが分かります。
①空海は勤操僧正(岩淵贈僧正)によって槙尾山寺において出家したこと。そして「教海」「如空」と名を換えたこと
「不二」の教えを学ぶために「大日経」を捜し求めたこと
③久米寺の東塔下で、『大日経』を手にしたが理解できないことが数多くあったこと
④そのために唐に渡る決心をしたこと
御遺告はかつては、空海の遺言とされてきました。そのためこれが入唐動機の定説でした。
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このような定説を踏まえた上で、福田亮成著『弘法大師の教えと生涯』は、空海が真言密教を大成できた理由として、次のような要因を挙げます。
①大師は中国語が堪能であったこと。
②研究の目的は明確に密教に定められていたこと。
③長安に密教の名師がおり、直ちに面授できることを願っていたこと。
④唐の新訳仏典、特に「金剛頂経系諸儀軌」を中心にして、その蒐集に目的を定めていたこと。
⑤その他、文化一般にわたリグイナミックな関心をもっていたこと。たとえば筆の製作技術のマスター、詩文や書の研究など。
そして次のように結論づけます。
以上のような諸問題は一年半という短期間でありながら実に効率よく摂取されたのであった。これは大師の優秀さもさることなから、目的が明確に定まっていたことの表れではなかろうか

これに対して、こには先入観があると武内孝善は指摘します。
空海が入唐以前に、「密教」や「灌腸」ということばの意味を理解していたかどうか、もう一度立ち止まって考える必要があるというのです。確かに、入唐以前の空海が、密教経典を読んでいたことは間違いないでしょう。しかしながら、今日われわれが用いるような形での「密教」「潅頂」という言葉の概念を、入唐以前の空海が明確にもっていたか、といえばそうとは言い切れないようです。
これを別の表現にいいかえると、次のような疑問になります。
①空海は、「密教」なる言葉をどこで知ったか。
②いつ、どこで、明確に意識されるようになったか。
③密教という言葉の概念をどのように押さえ、使っているのか
このような問題意識のもとに、空海の著作に「密教」という言葉がどのように使われているか、をひとつひとつ確認していきます。これにつきあうことは遠慮して、結論だけを追いかけます。
①については、空海の著作で「密教」という言葉を、自分の言葉として意識的に使っているのは、九ヵ所だけであること
②については、空海が「密教」という言葉を使いはじめるのは、弘仁五年(813)頃ごろからであること。
つまり、入唐以前には空海は「密教」という言葉を使っていないことを指摘します。
  それではそれ以前は、空海はどのような言葉を使っていたのでしょうか。
「大唐神都青龍寺・恵果和尚の碑」と『御請来目録』では、空海は「密教」に替わる言葉として「密蔵」という言葉を使っています。このふたつの文書には、合計19ヵ所に、「密蔵」が使われています。それは「密教」に置き換えられる意味で使われているようです。
以上をまとめておくと
①空海は、在唐中および帰国直後には、「密蔵」という言葉を使用していたこと
②空海が「密教」なる言葉を、自分の言葉として意識的に使用するのは、弘仁四、五年(813)ごろからであったこと
③それも10ヵ所足らずで、限定的にしか使用していないこと
つまり、入唐以前には、空海には「密教」という概念はなかったことがうかがえます。潅頂に関しても同じようなことがいえるようです。密教という概念がないのに「密教」を学びに行くのは、不自然です。

どのような手続きで、空海が遣唐使の一員に選らばれたのかは分かりませんが、空海は留学僧として入唐を果たします。
留学の期間は、20年でした。ちなみに最澄は、短期留学僧を選んでいます。貞元20年(805)2月11日、遣唐大使・藤原葛野麻呂らが長安を去ったあと、空海は西明寺の永忠の故院にうつり、留学僧としての本格的な生活が始めます。恵果和尚と出逢うまでの三ヵ月余りの間、空海は持ち前の好奇心から、長安城内をくまなく歩いたのでしょう。

空海と惠果
恵果和尚と空海

ここからはフィクションで小説風にいきます
ある日、いつものように長安の寺を訪ね歩いていました。ある寺の灌頂道場に足をふみいれた空海は、驚き立ち尽くします。そこには、室戸で求聞持法を修めたときに体験した神秘の世界が、そっくりあったからです。その灌頂道場の壁は、仏たちで満ち満ちて、曼茶羅か余すところなく描かれていました。曼荼羅と向かい合ったときに、それまでの空海の疑念は、氷解しました。空海は、かつて神秘体験した世界が、密教なる世界であったことを初めて知り、密教なる世界があること、長安ではじめて体感したのです。
 空海は、四国で求聞持法を行ったときに、体験的には密教の世界にまで到達していた、密教の世界を体験的には知っていた、と研究者は考えているようです。そして、空海自身のなかに、生命を賭けても唐に渡るだけの突き動かすような動機が生まれたのでしょう。その源は「強烈な神秘体験」だったということになるようです。
DSC04587青竜寺での恵果と空海
青竜寺での恵果と空海の出会い
 では、空海が曼茶羅と対峙した西安の寺はどこであったのであったのでしょうか。研究者は、ふたつの寺院を想定しています。
一つは恵果和尚を訪ねるまえ、般若三蔵や牟尼室利三蔵からサンスクリット語・インドの諸宗教などを学んだとみなされている禮泉寺
 一つは恵果和尚が住んでいた青龍寺東塔院の灌頂道場です。
禮泉寺については、空海自身『秘密漫茶羅教付法伝』、の恵果和尚の項に、次のように記します。
空海が入唐した貞元二十年(804)、恵果和尚は弟子・義智のために禮泉寺において金剛界大曼茶羅を建立し、開眼供養会を行なった、

青龍寺東塔院の灌頂道場に関しては、『広付法伝』の恵果和尚の項に、恵果和尚の直弟子の一人呉慇が撰述した師の伝記『恵果阿閣梨行状』を、次のように引用しています。
①大師、ただ心を仏事に一(もっばら)にして、意を持生にとどめず。受くるところの錫施は、一銭をも貯えず、即ち曼茶羅を建立して、法を弘め、人を利せんと願う。
灌頂堂の内、浮屠(ふと)の塔の下(もと)、内外の壁の上に、悉く金剛界、及び大悲胎蔵両部の大曼茶羅、及び十一の尊曼茶羅を図絵す。衆聖備然として、華蔵の新たに開けたるに似たり。万徳輝曜して、密厳の旧(ふる)き容(かたち)に還る。 一たび観(み)、 一たび礼するもの、罪を消し福を積む。
③常に門人に謂(かた)りて日はく、金剛界・大悲胎蔵両部の大教は、諸仏の秘蔵、即身成仏の路なり。普く願はくば、法界に流伝して有情を度脱せん。

ここには「灌頂堂はあたかも大日如来のさとりの世界が出現したかの観があった」とあります。つまり、ここで全ての疑問が氷解し、悟ったと研究者は考えています。

以上まとめておくと、次のようになります。
①空海入唐の動機・目的は、最初から密教受法のためとか、灌頂受法のためであったのではない。
②それは青年時代の求聞持法の修行によって体感された強烈な神秘体験の世界が、どんな世界であるかを探求する道のりの延長線上にあった。
③唐に渡り、はじめて室戸で体験した「神秘的世界」が密教なる世界であったことを知り、その世界を究めることを決意した。
④恵果和尚と出逢い、和尚の持っていた密教の世界を継承し、わが国に持ち帰った。

  空海と密教との出逢いは、体験的には20歳のころに求聞持法を修したときに遡ります。その世界が密教なる世界であることをはっきりと悟ったのは、入唐後の長安だったという説です。「はじめに体験ありき」と研究者は考えているようです。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年

2焼山寺1
    焼山寺の御詠歌は
後の世をおもへば苦行しやう山寺 死出や三途のなんじよありとも
 
です。苦行をしようとおもうということと焼山寺をかけて、ちょっと駄洒落のようになっています。「なんじよ」というのは、どういうふうにあろうとも、どんな具合であろうともという意味を俗語で表したものです。死出の山や三途の川はもっと苦しいんだろうけれども、後の世をおもえばこの山で苦行するのが焼山寺だといっています。

2焼山寺2

 ここには「遍路転がし」の辛さを「死出や三途のなんじよ(難所)=「苦行」と捉えているようです。この詠歌を思い出しながら、昔の遍路も「遍路転がし」を登ったのでしょう。
   しかし今は「四国の道」として整備され、たいへん歩きやすい自然遊歩道です。山歩きに慣れた人なら「遍路転がし」というのは、大げさな表現に聞こえるかも知れません。

IMG_0706
まずは、この寺の縁起を見てみましょう

 弘仁五年(814)に空海がこの山に登ろうとしたとき、毒龍が住んで火を吐き、全山火の海のようであったので焼山と呼んだという。空海が虚空蔵求聞持法を修すると、この火は消えて霊地となった。
 そこでこの山を摩盧山(まろさん)と名づけ、寺を焼山寺といった。摩盧とは梵語水輪の義、すなわち火伏の意味であるという。この毒龍を空海が封じた岩窟があり、その岩頭に空海は三面大黒天を彫刻して祀った、
とあります。

91横倉山
縁起の中にある「全山火の海」を、どう考えればいいのでしょうか。
奥之院の山頂からは、紀淡海峡の海が真東に見えます。この山頂で火を燃やせば海峡航行の船からも見えることになります。燈寵杉も龍燈杉、龍燈松も、現実には山頂の石上や岩窟の中で聖火を焚いたものと研究者は考えています。
 これが辺路信仰では、海中の龍神が山上の霊仏に燈明を献ずるという伝承に変化します。実際には修行者は、この聖火を常世の海神「根の国の祖霊」に献じていたのです。
 このような聖火は『三教指帰』(序)に、

望ム 飛炎ヲ於鑚燧  (燧を鑽る=すいをきる)火打道具を打ち合わせて火を発する。

とあるように、鑚燧で火をきり出し、大きな炎を上げたのです。そのためには、キャンプファイヤーのようにかなりの柴や丸太を積んだことでしょう。柴燈(さいとう)護摩というのは、この聖火を焚く方式が、修験道儀礼の中にのこったものと考えられます。ここから龍神の清浄な聖火なので斎燈(さいとう)と呼ばれ、薪に則して柴燈(さいとう)と書かれるよになったと研究者は言います。

2焼山寺4 奥の院へ

焼山寺の縁起は、
毒龍として表現していますが、これはインドの降魔の説話や絵によったものです。
これは、一面では煩悩雑念の克服、解脱をあらわしたものでしょう。
「毒龍が住んで火を吐き、全山火の海のようであったので焼山」
というのは、行者達の聖火のことと研究者は考えているようです。
さらに「毒龍」を岩窟に封じ込めたというのは、もともと山人(先行宗教者?=地主神)が住んでいた岩窟を空海に譲り、他の窟に移らせたという事実が背景にあるのではないかも指摘します。
 つまり、山人=毒舵の長の龍王が龍王窟に住んでいたのを、これを空海に譲って他に移った。その移ったところが奥之院にちかい不動窟で、今は崩落して浅くなった岩棚窟と、毒龍を封じたという岩の裂け目のような狭い窟がある。そこに三面大黒天が祀られているというのです。つまり、これが先住者であり、地主神であるということになるようです。
IMG_0715
  権現を山頂に祀った行者達は、そこで山が焼けてるようにみえるくらい火を焚いたようです。
  なんのために山頂で火を燃やしたのでしょうか?
 当時の修行は、火を焚くことが1つの条件だったようです。例えば、求聞持法の修行を行うためには節目では、火を焚くことが求められました。だから火を焚かなければ修行になりません。つまり、求聞持法と火を焚くということは一体化していたわけです。
 もともと火を焚くのは、海の神に捧げるためでした。
そのために海の向こうの神仏に届かなければなりません。大きな火を焚けば焚くほど、遠いところからみえて、海の神が喜ばれると思っていたようです。また、火を焚く場所は、よく目立つ岬の突端や岬の洞窟、霊山の頂上などが選ばれました。
 しかし、いつでもどこでも焚くのではなく、重大な修行や祭にだけ焚いたようです。そして、次第にその意味も、煩悩を焼尽するとか、自身火葬をするとか、災厄を焼きはらうというように変化していきます。しかし、柴を積みあげて焚き、遠くからも見える方式は変わりません。これを遠くから見たとき、山が焼けているように見えたから、この山は焼山の名がついたと研究者は解釈しているようです。
 焼山寺山の山頂には、いまは祠もあり、樹木が繁っています。しかし、聖火を焚いた時代は、まわりの樹を伐って山頂を裸にして、四方から見通せるようにして炊きあげたのではないでしょうか。時代を経て、聖火を焚かなくなると、山中の高い木に燈龍をあげたり、石燈龍の常夜燈に形が変わって行ったようです。
 このような柴燈による海の聖火は、平安時代まではさかんであったようです。空海も室戸崎、大瀧嶽やこの焼山寺山でも、節目節目には山頂で火を焚いたのです。それが変質して、今の焼山寺の「縁起」に伝わっているのかも知れません。
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 行者たちの聖火は海の神達に捧げられたものでした。
が、沖行く船からもよく見えました。それはまさに山が燃えているように思えたかも知れません。夜間に紀淡海峡から西を見ると焼山寺の火が見え、東を見ると紀伊の犬嗚山七宝滝寺の上にある燈明の火が見えるので、これを目印に舟は航海するようになります。もう一つ、北のほうの淡路の光山千火寺の常夜灯も航海の目印になったようです。
 しかし、最初は航海者のために火を焚いたわけではなかったようです。海の神に棒げるために焚いた火が、たまたま航海者の目印になって航海を安全にしたのです。のちにはそれが目的になって、やがて常夜灯が現れ、灯台になっていくようです。 金毘羅信仰の「海の神様」も象頭山の奥社の灯りを目印とした船乗り達の信仰が支えとなったのかも知れません。
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 以上を整理すると、
①辺路修行者が求聞持法修行をすることと、「飛炎ヲ於鑚燧ニ望み」聖火を焚くこととは同じ修行プロセスだった。
②そのため焼山寺山の山頂に求聞持法本尊の虚空蔵菩薩を祀つり、山頂で聖火をを焚いた。そのため焼山と呼ばれるようになった
③時代を経るにつれて求聞持法(経典)だけを重んじ、聖火(火を焚くこと=実践)を軽んずるようになった。
 そして聖火信仰は柴燈護摩として修験道儀礼にのみ残った
④「焼山」は、船乗り達の航海の目印となり信仰を集めるお寺も現れた
 

2焼山寺龍王窟

それでは、焼山寺山の行場を、一巡してみることにしましょう。
 焼山寺山の洞窟は龍王窟といい、かなり大きな窟があります。          
大瀧寺の「龍の窟」とおなじように、焼山寺とは谷をへだてた向山の中腹にある北向きの窟です。正面の幅は12メートルで、高さ2,5メートル、奥行は4メートルで、中央に禅定石とおもわれる長方形の台石が据えられています。その上に、いまは小祠が祀られています。 
2焼山寺龍王窟 
 かつては、行場の近くの洞窟が行者達の居住地域でした。現在のような本堂や諸堂、庫裡などはありません。山と洞窟と巌石、巌壁だけがあり、その中で修行者は行を重ねたのです。
 そうすると、この龍王窟は高さ30メートルほどの大きな岩壁の下に開口していて、その上から尾根道を山頂の奥之院に通ずる道と、谷道をいまの焼山寺まで出て、そこから急坂を奥之院に登る道とがあることがわかります。
 しかし寺のなかった時代には、この尾根道と谷道をつないで、龍王窟と奥之院を周回する行道路があったこと見えてきます。この道を周回しながら辺路修行をおこなっていたようです。
2焼山寺龍王窟.2jpg
さらにこの辺路は、閉じられたものではありませんでした。
 以前に、阿波の忌部修験のメッカである高越山を紹介しました。その高越山の中世文書『阿波国摩尼珠山高越寺私記』によれば、この寺は役行者の開山で、弘法大師求聞持法修行の山であるとして、次のように続けます。
 密祖弘法大師 有秘法修働願望 参拝此山 (中略)
故ニ虚空蔵求聞持法一百万遍呪、日夜精進誦得大悉地 
刻彫尊木像 是行者ノ形像ト大師ノ御影也 其像巍トシテ 而安座セリ也
 とあって、空海伝説を語ると共に、その後も求聞持法の霊場であったことを記します。つまり、焼山寺と高越山、そして讃岐の第八十八番大窪寺や阿波の大瀧寺をつなぐ求聞持法修行の道があったことが見えてきます。これらの山は、空海が求聞持法を修行し、火も焚いた霊山だった可能性があると研究者は考えているようです。それが、四国遍路への道へと繋がって行くのかも知れません。

2焼山寺 本尊虚空蔵菩薩
焼山寺の本尊 虚空蔵菩薩
  約三百年前の江戸時代初めの「四国霊場記」には焼山寺は、次のように書かれています。
 奥院へは寺より凡十町余あり。六町ほど上りて祇園祠(八坂)あり、後のわきに地窟あり。右に大師御作の三面大黒堂あり。是より上りて護摩堂あり。是より十町許さりて聞持窟、是よりあがりて本社弥山権現といふ。是は蔵王権現とぞきこゆ。下に杖立といふは大師御杖を立玉ふ所となん。地池と云あり。二十間に三十間もありとかや。
 祇園祠は、現在は不動尊を祀っています。奥の院までは、十町(1㎞)では行けません。もっと長いでしょう。不動尊をまつる祇園祠、地窟、三面大黒堂、護摩堂など、道具だてはみなそろっています。弥山といっているのは頂上のことです。

2焼山寺5
 弥山が頂上で蔵王権現が祀られているといいます。しかし、お寺では、もとは虚空蔵菩薩を祀ったといっています。そして、今の本堂の本尊は虚空蔵菩薩です。虚空蔵菩薩が本尊のお寺では、虚空蔵求文法の行が行われたと研究者は考えているようです。
また寺に所蔵される正中二年(1325)の文書には、次のように記されています。
  焼山寺免事
   合 田弐反内 壱反権現新免   在 鍋
          壱反虚空蔵新免  坪 石
 蔵王権現上山内寄来山畠内 古房野東任先例 
 蔵王権現為敷地 指堺打渡之畢但於四至堺者使者等先度補任状有之
 右令停止万雑公事可致御 祈勝之忠勤之状如件
    正中二年二月 日
  宗秀奉
 ここからは当時、寺には修験の守護神・蔵王権現も祀られていたことが分かります。現在の奥社に祀られているのは蔵王権現です。蔵王権現を祀るのは、吉野金峯山の真言系の修験者達と言われます。天台系の熊野修験者が多かった阿波では、この寺は少数派だったのかも知れません。

2焼山寺3

 しかし、「十二所さん」と呼ばれる小堂にある十数面の懸仏は、専門家によると
「熊野曼荼羅式のもので、南北朝・室町時代を降らない」
とします。熊野や吉野の修験者が共に、修行に励んでいたのかも知れません。どちらにしても、鎌倉時代には焼山寺にすでに修験道が浸透していて、南北朝・室町時代にも修験者達が活発に活動していたことがうかがえます。以上をまとめておきます。
①この山は霊山として地元の人々の信仰を集める山であった
②そこに空海伝説が付け加えられ、獄像菩薩・蔵王権現が祀られて修験者の山となった
③中世を通じて修験者の修行の山として機能した。
2焼山寺5 奥の院へ
江戸時代になると阿波蜂須賀家からの寄進を受けて、伽藍は整備されていったようです。
そして、霊山として周辺の里人の信仰をあつめて、季節の節目の祭礼には麓からの参拝者も集めていたようです。
 江戸時代後半に、この寺は大きな変動の時を迎えます
 近世後半に龍光寺が忌部十六坊から自立して剣山修験を「開発」します。すると、その剣講の有力寺院として、焼山寺や柳の水庵の修験関係者が協力するようになります。それは、この地方に剣山先達や剣山関係世話人などが他地方に比べると、圧倒的に多かったことからも分かります。
文化九年(1812)元木蘆洲によって書かれた「燈下録」には、剣山について次の様な記事があります。
 剣山は木屋平山龍光寺の奥山なり・・・(中略)
樹木なき所より臨み見れば、東は高越山、奥野明神の峯見ゆる二峯の間より逼に焼山寺山の弥山さし出たところ・・・ 

剣山の頂上はかつて「小篠」と呼ばれていたようで、この小篠に対して焼山寺山は弥山という立場であったようです。焼山寺と同じく神山町にあり、焼山寺の下寺的存在であった柳の水庵には剣山登山第一の鳥居がありました。これには、この地が剣参拝へのスタート地点であるという意味合いがあったようです。
 こうして、焼山寺周辺の修験者たちは周辺の村々を周り、剣講を作り、多くの信者を伴って剣登山参拝の先達を務めたのです。彼らの存在なくしては、剣山に多くの信者達が参拝する事はなかったでしょう。
2焼山寺12番 焼山寺 奥の院 弥山権現
 しかし、奇妙な現象が起きます。剣山登山が盛大になればなるほど、焼山寺山に登る人は少なくなったようです。つまり、焼山寺山の霊山としての価値は下落したということになるのでしょうか。新たに霊山化した剣に吸い上げられていくストロー化現象が起きたとも言えます。
 こうして、焼き山寺は藤井寺から登ってくる遍路以外は、参拝者がいない霊山になっていったようです。地元の修験者達は剣講の先達として、信者達を剣山に送り込み続けたのでした。この寺の周辺に、近代に至るまで多くの修験者(剣先達)がいたのは、そんな背景があるようです。
2焼山寺9

参考文献 五来重 遍路と行道 修験道の修行と宗教民族所収 131P
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