奥の院の行場から発祥した寺
この寺には結願によってあげられた松葉杖とか金剛杖、笈、あるいはギブスなどがたくさんあります。結願寺とは、遍路の間に使ったものを全部そこに納めて帰るところです。巡礼・遍路の間に身につけたものを全部そこに置いて帰ります。
大窪寺の歴史はよくわかりません。
『四国領礼霊場記』の縁起によると、行基が開山してその後、弘法大師が中興したというありきたりの縁起になっています。本尊は弘法大師が作ったということになっています。薬師如来です。 奥の院の岩窟は、崩れたものとみえまして、奥行きはあまり深くありません。現在は、女体山に伸びる「四国の道」が通っており、ハイキングコースとしても親しまれています。女体山からの高松側の景色は絶景です。この山も岩場が多く行場になりそうな所がいくつもあります。
弘法大師が、ここで求聞持法を修行したと伝わります。
地理的な条件からいって、弘法大師が阿波の大滝嶽、あるいは土佐の室戸岬で求聞特法を修行したこととあわせて考えると、弘法大師が帰省するのは善通寺ですから、善通寺から阿波の大滝嶽、そこから土佐の室戸岬に行くにはどうしてもここを通らなければなりません。したがって、お寺の発祥は修行者が奥の院を開いて、やがて霊場巡礼が始まるようになると、山の下に本堂を建てた。『四国損礼霊場記』には「大師 いき木を卒都婆にあそばされ」とあります。
地理的な条件からいって、弘法大師が阿波の大滝嶽、あるいは土佐の室戸岬で求聞特法を修行したこととあわせて考えると、弘法大師が帰省するのは善通寺ですから、善通寺から阿波の大滝嶽、そこから土佐の室戸岬に行くにはどうしてもここを通らなければなりません。したがって、お寺の発祥は修行者が奥の院を開いて、やがて霊場巡礼が始まるようになると、山の下に本堂を建てた。『四国損礼霊場記』には「大師 いき木を卒都婆にあそばされ」とあります。
その後の歴史はまったく不明です。

最初から結願所というわけではありません。
八十八か所の結願寺になっていますが、最初からそうであったのではありません。特別の意味があるとは考えられません。
元禄年間に高野山の宝光院主の寂本が『四国遍礼霊場記』を書いた時には、讃岐一国については善通寺か1番で、大窪寺を二十五番の結願寺としています。
『四国損礼霊場記』は、ここは四国全体のではなくて、讃岐の結願寺であり、四国全体の結願書ではないと断っています。このように大窪寺の結願寺は絶対的なものではなかったのですが、現在はここが四国霊場の結願寺となっています。
『四国損礼霊場記』は、ここは四国全体のではなくて、讃岐の結願寺であり、四国全体の結願書ではないと断っています。このように大窪寺の結願寺は絶対的なものではなかったのですが、現在はここが四国霊場の結願寺となっています。

山岳寺院として盛んな時代があったらしく、東西南北に数十町を隔てて山門跡
多宝塔も寛文年間の初年までありました。寺中四十二坊があったといわれています。中世にこの寺を外護したのは寒川郡の郡司藤座元正と国司古家公とされていますが、時代、伝ともに未詳です。どういう人物であるのか、よくわかりません。
お堂は江戸時代初期の本堂が正面上壇にあって、吹放の礼室と中段と奥殿からなっています。
かなり念入りなお堂です。奥の多宝塔に薬師如来の本尊があります。ただ、参拝するところは吹放の板敷で、真ん中が外陣に当たる中殿といっているところです。三段構えになっているのは非常に珍しい例です。

奥殿は二層の多宝塔で、その中の薬師さまは薬壷のかわりに法螺貝をもっています。
これは修験の本尊にふさわしく、病難災厄を吹き払う意昧をこめたものだとおもわれます。阿弥陀堂があります。これも向かって左にあって、阿弥陀像が根本本尊です。
奥の院の本尊は阿弥陀。それを下ろしてきて本堂としたのが阿弥陀堂です。奥の院はいつでも発祥になりますので、奥の院の本尊が下におりたとすれは、やはり阿弥陀堂が根本です。また、本坊を遍照光院といっているので、大日如来をまつったことも確かです。いろいろの坊やお堂が分離併合されて、現在の堂宇になったものとおもわれます。

奥の院は、大窪寺入口の左の山道を十五町ほど登った小さな平地にある岩淵で、一間と二間の内陣に三間四方の外陣を張り出してあります。平地は不等辺三角形の三十坪ぐらいで、多くの石仏があります。内陣は半は淵内にあって、阿弥陀さんの石像、弘法大師の石像をまつっています。
行場と修験道者の姿が濃くうかがえるお寺です。
五来重:四国遍路の寺より
