1澄禅 種子集
             澄禅の種子字

澄禅は、サンスクリット語の研究で知られた学僧で、僧侶としても高い地位にあった人物です。今で云うと大学の副学長か学部長クラスの人物であったと私は考えています。そのため彼の残した四国辺路日記には、要点がピシリと短い言葉で記されていて小気味いいほどです。彼は、訪れた各札所で本堂や諸堂の位置や様式、本尊のことや、対応した住持のことまで記しています。今回は各社寺の景観に焦点を絞って見ていくことにします。
   テキストは「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です。以前に阿波の札所については、見ましたので今回は土佐から始めます


東寺(最御崎寺)
 本堂ハ九間四面二南向也。本尊虚空蔵菩薩、左右二二点ノ像在。
 堂ノ左二宝搭有。何モ近年太守ノ修造セラレテ美麗ヲ尽セリ、
津寺  本堂西向、本尊地蔵杵薩。是モ太守ヨリ再興ニテ結構ナリ。
西寺 (金剛頂寺)堂塔伽藍・寺領以下東寺二同ジ。
神峰寺 本堂三間四面、本尊十一面観音也
大日寺 本堂南向、本尊金剛界大日如来。是モ太守ヨリ近キ比修造
国分寺 寺領三百石、寺家六坊有り 近年堂塔破損シタルヲ太守ヨ
リ修理
シ給フ。
一宮
  宮殿・楼門・鳥居マデ高大広博ナル入社也。前太守長曽我部殿修
造セラレ
シタル儘也。当守護侍従殿時々修理ヲ加ラルルト云。
五台山 
本堂ハ太守ヨリ修造セラレテ美麗ヲ尽セリ 塔ハ当主宥厳上
人ノ造立ナリ。鐘楼・御影堂・仁王堂・山王権現ノ社、何モ太
守ノ願ナリ。
禅師峰寺 本堂南向、本尊十 面観音。二王門在り。
高福寺 玄関・方丈ノカカリ禅宗ノ寺立テ也
種間寺  本堂東向、本尊葉師。是も再興在テ新キ堂也
清滝寺  是再興有テ結構也。寺は真言宗。寺中六坊在
青龍寺
頂上二不動堂在リシガ先年野火ノ余焔二焼失シタリ。然ヲ本堂
再興ノ時、大守ヨリ小倉庄助方二被仰付新Hノ五社 南向横二双
ビテ四社サエフ 一社ハ少高キ所二山ノ上二立、何モ去年太守ヨ
リ造営
セラレテ結構也。

足摺山 内陣二横額二当寺諸伽帝ハ従四位上行徒従来上佐守源朝臣忠
義為武連長久祈願成就弁再興也卜五筆横二書タリ
寺 山  二王門・鏡楼・御影堂・鎮守ノ社、何モ此大守ヨリ再興在テ
 結構ナリ
観自在寺  本堂南向、本尊薬師如来。寺号はハ相違セリ。
稲荷ノ社  田中二在り小キ社ナリ。
仏木寺   本堂東向。本尊金剛界大H如来座像五尺斗
明石寺
本堂朽傾テ本尊ハ小キ薬師堂二移テ在り。源光山延寿院卜云。
寺主ハ無ク上ノ坊卜云山伏住セリ
菅生山
本堂間四面、二王門・鐘楼・経蔵・御形堂・護摩堂・鎖守ノ社
双、堅同広博ナル大伽藍也
岩屋寺 本堂三間四面、本尊不動明王
浄瑠璃寺 昔ハ大伽藍ナレドモ今ハ衰微シテ小キ寺一軒在り。
八坂寺 昔ハ三山権現立ナラビ玉フ故二十五間ノ長床ニテ在ケルト
  也。是モ今ハ小社也。
西林寺 本堂三間四面、本尊十一面観音、
浄土寺 此本堂零落シタリシヲ、(中略)十方旦那を勧テ再興シタル也。
繁多寺 本堂・二王門モ雨タマラズ、塔ハ朽落テ心柱九輪傾テ哀至極
ノ躰ナリ。
石手寺
本社ハ熊野二所権現、十余間ノ長床在り。ツヅイテ本堂在
り。本尊文殊菩薩。三重塔・御影堂・二王門、与州無双ノ
大伽藍
也。
大山寺  本堂九間四面、本尊十一面観音也。少下テ五仏堂在り悉朽
  傾テ在。
円明寺 本堂南向、本尊阿弥陀。
延命寺 本尊不動明王、堂ハ小キ草堂、寺モ小庵也。
三島ノ宮 本地大日卜在ドモ大通智勝仏ナリ
泰山寺 寺ハ南向、寺主ハ無シ、番衆二俗人モ居ル也。
人幡宮 本地弥陀。
佐礼山 本堂東向、本尊千手観音也。
国分寺 本堂南向、本尊薬師。寺楼、庭上前栽誠ニ国分寺卜可云様
ナリ。
一ノ宮 本地十一面観音也。
香園寺 本堂南向。本尊金界大日如来。寺ハ在ドモ住持無シ。
横峰寺 本堂南向、本尊大国如来。又権現ノ社在り。
古祥寺 本尊毘沙門天。寺は退転シタリ
前神寺 是は石槌山ノ坊也
三角寺 本堂東向、本尊十一面観青。前庭ノ紅葉無類ノ名木也。
雲辺寺 本堂ヲ近年阿波守殿ヨリ再興在テ結構ナリ。
小松尾寺 本堂東向、本尊薬師、寺ハ小庵也。
観音寺 本堂南向、本尊正観音。
琴弾八幡宮 南向、本地阿弥陀如来。
持宝院 本堂南向七間四面、本尊馬頭観音、二王門・鐘楼在り。
弥谷寺 寺ハ南向、持仏堂ハ、西向二巌二指カカリタル所ヲ、広サ
三間半奥ヘハ九尺。
曼荼羅寺 本堂南向、本尊金剛界大日如来。
出釈迦山 是昔ノ堂ノ跡ナリ。
甲山寺 本堂東向、本尊薬師如来。
善通寺 本堂ハ御影堂、又五間四面ノ護摩堂在り。昔繁昌ノ時分ハ
之二続タルト成。
金蔵寺 本堂南向、本尊薬師、(中略)古ハ七堂伽藍ノ所也、四方築
地ノ跡今二有。
道降寺 本堂南向、本尊薬師、(中略)昔ハ七堂伽藍ノ所ナリ。(中略)本
堂・護摩堂由々敷様也。
道場寺 本尊阿弥陀、寺ハ時宗也。
崇徳天皇 今寺ハ退転シテ俗家ノ屋敷卜成り。
国分寺 白牛山千手院、本堂九間四面、本尊千手観音也、丈六ノ像
也。傍二薬師在り、鐘楼在。寺領百石ニテ美々舗躰也。
白峯寺    当山ハ智証・弘法大師ノ開基、五岳山中随一也             
根来寺    青峰、本尊千手観音、五舟ノ一ツナリ。                      
一ノ宮    社壇モ鳥居モ南向.                                        
屋島寺    千手観青ヲ造本堂一安置シ給う                           
八栗寺    本堂ハ南向、本尊千手観音                               
志度寺    本尊十一面観音、本堂南向                                
長尾寺    本堂南向、本尊正観音也`                                  
大窪寺 本堂南向、本尊薬師如来。堂ノ西二塔在、半ハ破損シタリ。
是モ昔ハ七堂伽藍ニテ十二 坊在シガ、今ハ午縁所ニテ
本坊斗在

以上を国別に整理すると、次のようになります。
澄禅による四国88所の近世寺院状況

国別に見ると次のような事が云えます。
①阿波と伊予の札所寺院の荒廃が著しいこと
 阿波については以前にもお話ししたように23ケ寺の内の12ケ寺、伊予では26ケ寺中9ケ寺が、退転もしくは小庵の如き有様でした。特に阿波の十楽寺か井戸寺までの周辺の寺院が厳しい状況にあったようです。荒廃した寺院は、無住であったり、山伏などが仮住まいをしている状況だったようです。

②土佐と讃岐の寺院については「結構也」と表現しています。
つまり本堂・護摩堂などの諸堂字が整備されていたようです。澄禅から見ても真言寺院としての機能が果たされていると思えたのでしょう。特に土佐の場合、「太守ヨリ再興ニテ結構ナリ」という表現がいくつも見られます。戦国時代には長宗我部の領地として、他国からの侵入を受けなかったこともあります。また、江戸時代に入って山内一豊が高知城を築いて初代の土佐藩主となり、続く忠義の時代には、元和の改革など藩政の引き締めを行うとともに、野中兼山を起用して新川開発や土木事業・殖産興業の推進しました。その中で他国に先駆けて社寺の修築・造営を積極的に推進したことが、澄禅の記録にも反映しているようです。土佐の札所にとって、山内忠義の存在は大きいようです。
又太守ハ無二無三ノ信心者ニテ、殊二真言家ヲ帰依シ玉フト云。

ここからは、忠義がとりわけ真言宗を信仰していたことが分かります。

讃岐の場合は、なぜか各寺院の景観についてはあまり詳しく記していません。
そのため寺社についてよく分かりませんが、次のような評価が見えます。
サスガ大師以下名匠降誕在シ国ナル故二密徒ノ形儀厳重也。(中略)
其外所々寺院何モ堂塔伽藍結構ニテ、例時勤行丁重ナリ。
真言宗寺院としての構えと寺の勤めも申し分ない、結構な寺院であるとしています。ここからはその他の寺院の多くも伽藍が整備されていたと研究者は考えているようです。
『讃岐国名勝図会』などには、讃岐の有力寺院は生駒侯の再興を伝えるものが数多く見られます。
例えば金毘羅宮・善通寺・国分寺・屋鳥寺・長尾寺などに対して、
生駒氏は生駒記には、次のように記されています。
「殊に神を尊び仏を敬い、古伝の寺社領を補い、新地をも寄付し、長宗我部焼失の場を造営して、いよいよ太平の基願う」

民心の心を落ち着けるためにも、生駒氏は地域の有名寺院の保護・復興に取り組んだとされます。
さらに生駒騒動後にやってきた高松藩初代藩主松平頼重について、
寛文九年の『御領分中宮出来同寺々出来』は、次のような宗教政策を記しています。
金蔵寺
然るに右同年、御影堂・本堂・山王之社並寺院、松平讃岐守頼重再興、加之寺領高式拾石被付与事。
国分寺
慶長年中、生駒讃岐守一正被再興伽監棟数合十六宇、只今在之事。
白峯寺
寺領高百拾斗、内六拾石は天正年中生駒雅楽頭近規寄進。至干今寺納仕候折紙有之。内拾石ハ万治年中松平讃岐守頼重寄進折紙有之。内四拾石は寛文年中同源頼重寄付折紙有之事。
やってきた藩主の宗教政策によって、領内の四国辺路の札所も戦乱からの復興にスピードの差が出たようです。

最後に研究者は、御影堂(大師堂)に焦点を当てます。
御影堂が記されているのは焼山寺・恩山寺・鶴林寺・太龍寺・五台寺山・菅生山・石手寺・善通寺の九ケ所のみです。札所以外では三角寺奥院・海岸寺・仏母院・金毘羅金光院の四ヶ所だけです。これをどう考えればいいのでしょうか。弘法大師信仰と弘法大師像を祀る御影堂
(大師堂)はリンクしていると考えられます。弘法大師信仰があるから大師王は建立されます。この時代に大師堂が普及していなかった葉池を考えると
①弘法大師信仰がまだ、四国霊場には波及していなかった
②弘法大師信仰は広がっていたが、御影堂という形では表現されていなかった
③御影堂がなくても弘法大師像が本堂に安置され、大師信仰が行われていた
これは、各札所の弘法大師像の造立年代が、重要な決め手になってくるのでしょう。どちらにしても「大師信仰」は、熊野信仰や阿弥陀信仰、念仏信仰に比べると、後からやってきて接ぎ木されたような印象を持たされる札所が多いように私は考えています。

以上をまとめると、次のことが言えよう。
①四国のうち、阿波と伊予国は「堂舎悉退転シテ草堂ノミ」とか「寺ハ退転シテ小庵」のように、寺が荒廃している様子が数多く記されている。そこに念仏聖や山伏などが住み着いて、辺路に応対していた。 
②一方、土佐は藩主山内氏、讃岐は藩主生駒氏、藩主松平氏などが積極的に復興に尽力したため、「結構」な寺として密教の行儀がなされている。
③弘法大師を安置する御影堂は、わずか九ケ寺しかみられない。その後、真念『四国辺路道指南』では飛躍的に増加している。この間に弘法大師に対する信仰がより一層盛んになったことがうかがえます。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


参考文献
     「長谷川賢二 澄禅「四国辺路日記」に見る近世初期の四国辺路 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」