前回には、次のようなことを見てきました
①中世讃岐では高野の念仏聖たちのプロデュースで、念仏踊りが広く踊られるようになっていたこと。
②これは、庶民の芸能活動のひとつであり、当初は雨乞いとの関連姓はなかったこと。
③それが雨乞いの「満願成就のお礼」として、菅原道真の雨乞祈願伝説の中心地となった滝宮神社に奉納されるようになったこと。
今回は、念仏踊りがどのようにして、各郷村で組織されていたのかを見ていくことにします。
滝宮神社の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となった龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は西四郡而已に成り申し候」「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」
意訳変換しておくと
かつては、讃岐国内の13郡すべての郡が念仏踊りを滝宮に奉納に来ていた、ところが近年は西4郡だけになってしまった。そこで寅7月23日に、押さえのための高札をお立てなされるように承知いたした
ここには大幅な省略があるので補足しておくと、もともと讃岐国13郡全てのから奉納されていたが、近年は中断されていた。それを松平頼重が初代髙松藩主としてやってきて、慶安三(1650)年に西四郡のみで再興させたというのです。西とついているのは、高松藩領の西部という意味でしょう。ですから、四郡は 阿野郡の南と北、那珂郡、多度郡ということになるようです。
しかし、私は讃岐全郡からはやってきていなかったと思っています。もともと滝宮周辺の四郡だけで、これが滝宮牛頭天王社(別当龍燈院滝宮寺)の信仰圏だったと考えています。
しかし、私は讃岐全郡からはやってきていなかったと思っています。もともと滝宮周辺の四郡だけで、これが滝宮牛頭天王社(別当龍燈院滝宮寺)の信仰圏だったと考えています。
松岡調編の「新撰讃岐風土記」には、近世初頭の滝宮踊について次のように記します。
此踊りは村人の踊るには非ずして、往古は本国の人民こぞりて七月二十五日に菅原神社境内に集ひ来て踊れるが、今は僅かに阿野部の村々又那珂郡七箇の村、鵜足郡坂本村等の者の務むることなれり。共式厳重にして踊曲の前後を争へる事最も甚だし。其村々より踊の前後を争はむと数十人行列をなして旗幟を翻し、鉦鼓を鳴し、甲冑を具したる者数多太刀抜きかざし長刀振りまわしつつ押し寄せ来て既に踊むとするに到て互いに撃合ひ殴合ひて人を害し己をも害せらるる状いかにも野蛮めきて見るにしのびぎるなり。是は元亀天正の野武士の悪癖の遺風たらむと思はれていといと片腹いたくなむ故に国主より官吏を派遣させ制札をも立て警固する事になりしに遂には隔年に二組づ務めめさせることしていと穏便になれるが、今も猶然かり。
意訳変換しておくと
この踊りは村人だけが踊るのではなく、昔(中世)は讃岐の人民がこぞって、7月25日に滝宮神社境内にやってきて踊っていた。それが今は僅かに阿野部(北条組)の村々や那珂郡七箇村、鵜足郡坂本村の者達だけが務めている。かつては組通しで踊りの順番をめぐって争いが絶えなかった。そのため各組は数十人行列を作って、旗幟を翻し、鉦鼓を鳴し、甲冑を着けた者が多数、太刀を抜きかざし、長刀振りまわしながら押し寄せ来て、踊ろうとしている組に襲いかかり、撃合い殴合いが起こり、多くの人達が傷つく野蛮で見るにしのびない惨状でもあった。まさに元亀天正の戦国時代の野武士の悪癖の遺風のような有様であった。そこで国主(高松藩藩主松平頼重)は、官吏を派遣し、制札を立てて警固を厳重にして、隔年に二組ずつ務めめさせることした。それ以後は、次第に穏便になった。
ここからは、滝宮への踊り込みは大イヴェント行事で、ただの踊りでなく、各組の示威行動の場でもあったこと、そのため暴れるためやってきている連中が数多くいて、争いが絶えなかったこと。そのため甲冑を着け、刀を振り回すような連中に対抗するためにも警固衆が必要だったことが分かります。
その時に、国守(高松藩の松平頼重)によって立てられた高札には次のように記されていたようです。
滝宮念仏踊の節 御制札左の通一 於当社 会式之場意趣切喧晩無願仕者在之者 不純理非双方可為曲事・縦雖為敵討無断者可為 越度事附闘落之者見出候共其主人届出会式過重而以い断可相済事一 於当社・桟敷取候義堅停止事 次鳥居之外而辻踊同寿満別之事一 宮林竹木不可伐採一併作毛之場江 牛馬放入間敷事慶安元子年七月廿三日
意訳変換しておくと
滝宮念仏踊の節 御制札左の通一 滝宮神社における念仏踊り会場においては、喧嘩やもめ事などの騒動は厳禁する。たとえ敵討ちであろうとも許可なく無断で行ったものについては、その主人も含めて処罰する。一 当社においての見物用の桟敷場設置は堅く禁止する 鳥居の外での辻踊や寿舞は別にすること一 宮林の竹木は伐採禁止、また境内へ牛馬放入はしないこと慶安元子(1650)年7月廿三日
この制札は、幕府よりの下知で、滝宮の念仏踊の日だけ立てられたものです。内容の書き換えについては、その都度、幕府・寺社奉行の許可が必要でした。正保元申年・慶安元子年・寛文三卯年に書き換えられたことが、取遺留に特記されています。
こうして、回が重ねられ、順年毎の出演する組や、演ずる順番が固定し、安定した状態で念仏踊りが行われるようになったのは、享保三年(1717)頃からになるようです。
『瀧宮念仏踊記録』は坂本念仏踊りについて、次のように記します。
坂本郷踊りも七十年計り以前までは上法軍寺・下法軍寺の二村が加わっており、合計十二ヶ村で踊りを勤めていた。ところが、黒合印幟が出来て、それを立てる役に当たっていた上法軍寺二下法軍寺の二村の者が滝宮神社境内で間違えた場所に立てたため坂本郷の者共と口論になり、結局上法軍寺・下法軍寺の二村が脱退して十ケ村で勤めることとなった。このことで踊り・人数で支障が出るのではと尋ねてみたが、坂本郷の方では十ケ村で相違ないように勤めるからと答えたこともあって、今日(寛政三年)まで坂本郷十ヶ村で勤めてきている
坂本郷十ヶ村というのは、どういう村々でしょうか?
東坂元・西坂元・川原・真時・東小川・西小川・東二村・西二村・東川津・西川津
この村々について、『瀧宮念仏踊記録』は、次のように記します。
「坂本郷は以前は一郷であったが、その後東坂本・西坂本・川原・真時と分けられ、他の六ヶ村は、前々から付村 (枝村)であった」
これは誤った認識です。和名抄で鵜足郡を見てみると、小川郷・二村郷・川津郷は当初からあった郷名であることが分かります。
坂本念仏踊りは「鵜足郡念仏踊り」と呼んだ方がよさそうです。どちらにしても、もともとは近世の「村」単位ではなく、郷単位で構成されていたこと分かります。具体的には、坂本郷・小川郷・二村郷・川津郷の中世の郷村連合によって構成されたものと云えそうです。
坂本念仏踊りを構成する郷エリア
滝宮へ踊り入る年(4年に一度)は、毎年7月朔日に東坂本・西坂本・川原・真時の四ヶ村が順番を決めて、十ヶ村の大寄合を行って、踊り役人などを決めていたようです。その数は300人を越える大編成です。編成表については以前に紹介したので省略します。
滝宮神社に躍り込んだのではありません。次のようなスケジュールで各村の鎮守にも奉納しています。
一日目 坂元亀山神社 → 川津春日神社 → 川原日吉神社 →真時下坂神社二日目 滝宮神社 → 滝宮天満宮 → 西坂元坂元神社 → 東二村飯神社三日目 八幡神社 → 西小川居付神社 → 中宮神社 → 川西春日神社
もうひとつ記録の残る七箇村念仏踊りを見ておきましょう。
滝宮に奉納することを許された4つの組の内、七箇村組も、満濃御料(天領)、丸亀藩領、高松藩領の、三つの領にまたがる大編成の踊組でした。その村名を挙げると、次の13の村です。
真野・東七箇・西七箇・岸の上・塩入・吉野上下・小松庄四ケ村・佐文
これも郷単位で見ると、吉野・真野・小松の3郷連合組になります。
次の表は、文政十二(1829)年に、岸上村(まんのう町)の庄屋・奈良亮助が念仏踊七箇村組の総触頭を勤めた時に書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。
次の表は、文政十二(1829)年に、岸上村(まんのう町)の庄屋・奈良亮助が念仏踊七箇村組の総触頭を勤めた時に書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。
総勢が2百人を越える大スッタフで構成されたいたことが分かります。そして、スタッフを出す村々は次の通りです。
高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村丸亀藩 西七ヶ村・塩入村・佐文村天 領 小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
どうして、藩を超えた編成ができたのでしょうか。
それは讃岐が、丸亀藩と髙松藩に分けられる以前から、この踊りが3つの郷で踊られていたからでしょう。滝宮に躍り込んでいた念仏踊りは、中世の郷村に基盤があったことがここからもうかがえます。
それは讃岐が、丸亀藩と髙松藩に分けられる以前から、この踊りが3つの郷で踊られていたからでしょう。滝宮に躍り込んでいた念仏踊りは、中世の郷村に基盤があったことがここからもうかがえます。
踊りが奉納されていた各村の神社と、そこでの踊りの回数も、次のように記されています。
七月十六日 満濃池の宮五庭七月十八日 七箇春日宮五庭、新目村之官五庭七月廿一日 五条大井宮五庭、古野上村営七庭七月廿二日 十郷買田宮七庭七月二十三日 岸上久保宮七庭、真野宮九庭、吉野下村官三庭、榎井興泉寺三庭右寛保二戌年七月廿一日記
満濃池の堰堤の右の丘の上に鎮座するのが池の宮
池の宮の拡大図
「7月18日の七箇春日宮五庭、新目村之官五庭」とあるのは、西七箇村(旧仲南町)の春日と新目の神社です。全部の村社に奉納することは出来ないので。その年によって、奉納する神社を換えていたようです。それでも2百人を越える大部隊が、暑い夏に歩いて移動して奉納するのは大変だったでしょう。
文久二(1862)年の時には、榎井の興泉寺と、金毘羅山を終えて、岸上村の久保宮で踊り、最後に真野村の諏訪神社で九庭踊って、その年の踊奉納を終了することになっていたようです。ここからは真野村の諏訪神社がこの組の中核神社であったことがうかがえます。
それぞれの宮での、踊る回数が違うのに注目して下さい。「真野宮九庭」とあります。数が多いほど重要度が高い神社だったことがうかがえます。また、「下知」を出しているのも真野村です。後にも述べますが、このメンバーは宮座構成員で世襲制です。村の有力者だけが、この踊りのメンバーになれたのです。
七箇村踊組は7月7日から盛夏の一ヶ月間に、各村の神社などを周り、踊興行を行い、最後が滝宮牛頭神社での踊りとなるわけです。
この絵図については以前にお話ししたので、ここでは踊りの廻りに設置されている見物桟敷小屋だけを見ておきましょう。これについては、以前に次のように記しました。
①風流化した念仏踊り奉納の際に、境内に桟敷席が設けられて、所有者の名前が記されていること。②彼らは、村の有力者で、宮座の権利として世襲さしていたこと③桟敷小屋には、間口の広さに違いがあり、家の家格とリンクしていたこと。④後には、これが売買の対象にもなっていたこと。
この特権が何に由来するかと言えば、中世の宮座のつながるものなのでしょう。このようにレイアウトされた桟敷席に囲まれた空間で踊られたのが風流化した念仏踊りなのです。ここからも、この念仏踊りが雨乞い踊りではなく風流踊りであったことがうかがえます。
佐文綾子踊り
これも風流踊りが雨乞い踊りとして踊られるようになったもの
これも風流踊りが雨乞い踊りとして踊られるようになったもの
念仏踊りが風流化して、郷社で踊られるようになるまでの過程を見ておきましょう
中世も時代が進むと、国衛や荘園領主の支配権は弱体化します。それに反比例するように台頭するのが、「自治」を標榜する惣郷(そうごう)組織です。惣郷(そうごう)は、寄合で構成員の総意によって事を決します。惣郷が権門社寺の支配を排除するということは、同時に惣郷自らが、田畑の耕作についての一切の責任を負うということです。つまり灌漑・水利はもとより、祈雨・止雨の祈願に至るまでの全ての行為を含みます。荘園制の時代には、検注帳に仏神田として書き上げられ、免田とされていた祭礼に関する費用も、惣郷民自身が捻出しなければならなくなります。雨乞いも国家頼みや他人頼みではやっていられなくなります。自分たちが組織しなくてはならない立場になったのです。この際の核となる機能を果たしたのが宮座です。
中世期の郷村には「宮座」と呼ぶ祭祀組織が姿を現します。
各村々に、村の鎮守が現れるようになるのは近世になってからです。
各郷の鎮守社で、春秋に祭礼が行われていました。そこでは共通の神である先祖神を勧請し、祈願と感謝と饗応が、地域の正式構成員(基本的には土地持ち百姓)によって行なわれました。また同時に、神社境内に設けられた長床では、宮座構成員の内オトナ衆による共同体運営の会議が開催されます。宮座構成員は、各地域の有力者で構成されます。彼らが念仏踊りの担い手(出演者)でもあったのです。
各郷の鎮守社で、春秋に祭礼が行われていました。そこでは共通の神である先祖神を勧請し、祈願と感謝と饗応が、地域の正式構成員(基本的には土地持ち百姓)によって行なわれました。また同時に、神社境内に設けられた長床では、宮座構成員の内オトナ衆による共同体運営の会議が開催されます。宮座構成員は、各地域の有力者で構成されます。彼らが念仏踊りの担い手(出演者)でもあったのです。
日根野荘の宮座
近世初頭の「村切り」によって、小松郷や真野郷は分割され、多くの村ができました。
それでも「村切り」の後も、かつて同じ郷村を形成していた村々の結びつきは、簡単にはなくなりません。しかし、一方で「村切り」によって、年貢は村ごとに徴収されるようになります。次第に、村それぞれがひとつの共同体として機能するようになります。また、直接に村が領主と対峙するようになると、次第に村としての共同意識が生まれ育っていきます。そして各々の村は、新たに神社を勧請したり、村域内にある神社を村の結集の軸として崇めるようになります。「村切り」後の村は、結集の核として新たな村の神社を作り出すことになります。つまり、「村氏神(村社)」の登場です。
近世初頭の「村切り」によって、小松郷や真野郷は分割され、多くの村ができました。
それでも「村切り」の後も、かつて同じ郷村を形成していた村々の結びつきは、簡単にはなくなりません。しかし、一方で「村切り」によって、年貢は村ごとに徴収されるようになります。次第に、村それぞれがひとつの共同体として機能するようになります。また、直接に村が領主と対峙するようになると、次第に村としての共同意識が生まれ育っていきます。そして各々の村は、新たに神社を勧請したり、村域内にある神社を村の結集の軸として崇めるようになります。「村切り」後の村は、結集の核として新たな村の神社を作り出すことになります。つまり、「村氏神(村社)」の登場です。
こうして、村人たちは2つの神社の氏子になります、
①中世以来の荘郷氏神(真野の諏訪神社や、小松荘の大井神社?)②「村切り」以降に生まれた「村氏神」
例えば、綾子踊りの里の佐文村は、中世以来の郷社である小松郷の大井神社の氏子であり、あらたに村切り後に生まれた佐文村の鴨神社の氏子でもあることになります。氏子の心の中では、二つの神社の綱引きが行われることになります。
新しく登場した村の神社は、宮座はありません。
村の百姓たちに開かれた開放制です。そこで新たに採用される祭礼も、原則全員です。祭礼行事には、後には「獅子舞」が採用されます。これは、各組で獅子を準備さえすれば後発組でも参加できます。宮座制のような排他性はありません。
村の百姓たちに開かれた開放制です。そこで新たに採用される祭礼も、原則全員です。祭礼行事には、後には「獅子舞」が採用されます。これは、各組で獅子を準備さえすれば後発組でも参加できます。宮座制のような排他性はありません。
宮座祭祀の郷社では、従来の有力者が、宮座のメンバーを独占し、祭祀を独占していたことは先ほど見てきました。ところが新たに作られた村社では、開放性メンバーの下で獅子舞が採用されたと私は考えています。
人々は郷社のまつりと、村社の祭りのどちらを支持したのでしょうか。
これは地元の村氏神ではないでしょうか。これを加速するような出来事が起きます。それが讃岐の東西分割と金毘羅領や天領の出現です。
これは地元の村氏神ではないでしょうか。これを加速するような出来事が起きます。それが讃岐の東西分割と金毘羅領や天領の出現です。
生駒騒動で生駒藩が取りつぶしになった後に、讃岐は高松藩と丸亀藩の東西に分割されます。この境界が旧仲南町の佐文や買田との間に引かれます。その上に、小松庄は、金毘羅大権現を祀る松尾寺金光院の寺領と、満濃池御料として天領に組み込まれます。つまり、念仏踊りの構成員エリアが丸亀藩と高松藩と金毘羅寺領と天領の4つに分割されることになったのです。これは地域の一体感を奪うことになりました。こうして時代を経るに従って、それまでの荘郷氏神との関係は薄れていくことになります。かつての郷社での念仏踊りよりも、地元の村社での獅子舞重視です。
「讃岐国名勝図会』に描かれた水主神社の獅子頭
それでも念仏踊りは松平頼重のお声掛かりで滝宮神社への定期的な奉納が決められていたこと、また、宮座で役割が世襲制で、これに参加できることは名誉なこととされてもいたこと、などから中止されることはなかったようです。しかし、異なる藩や天領・寺領などからなる構成員をまとめていくことはなかなか大変で、不協和音を奏でながらの運営であったことは以前にお話ししました。
以上を前回のものと一緒にしてまとめておきます。
①中世の讃岐では、高野の念仏聖たちのプロデュースで、念仏踊りが広く踊られるようになっていたこと。
②念仏踊りは、宮座によって、郷社の祭礼や盂蘭盆会に奉納されるようになったこと
③これは、庶民の芸能活動のひとつであり、当初は雨乞いとの関連姓はなかったこと。
④それが菅原道真の雨乞祈願伝説の中心地となった滝宮神社に奉納されるようになったこと。
⑤江戸時代に復活され際には、盆踊りでは大義名分に欠けるので雨乞への「満願成就のお礼」とされ、それがいつの間にか「雨乞踊り」とされるようになったこと。
⑥各踊り組は、かつての中世郷村が、近世に「村切り」で生まれた村の連合体であった。
⑦そのため各村にも「村氏神」が生まれたので、ここに奉納した後に滝宮へ躍り込むというスタイルがとられた。
⑧踊組のメンバーは中世以来の宮座制で、あったために役割は世襲化され、一般農民が参加することは出来なかった。
⑨そのため時代が下るにつれて「村氏神」の重要度が高まるにつれて、念仏踊組は機能しなくなる。
それは「村氏神」に獅子舞が登場する時期と重なり合う。宮座制のない獅子舞が、祭礼行事の中核を占めるようになっていき、風流踊りの念仏踊りも地域では踊られることがなくなっていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山路興造 中世芸能の底流 中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌」
「井上智勝 近世神社通史稿国立歴史民俗博物館研究報告第148集 2008年12月
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