町報に満濃池が国の名勝指定のことが伝えられていました。そこで、今回は満濃池が消えていた中世の様子を見ていくことにします。
幕末の「讃岐国名勝図会」(1854年)は
「平安末期に、大洪水により堤は崩壊して跡形もなくなり、石高500石ばかりの山田となり、人家も置かれて、池内村と呼ばれた」
と記します。旧満濃池の底地は、耕地化され集落ができて池内村と呼ばれていたと言うのです。本当なのでしょうか?
史料から中世の状態を確かめましょう。
堤防崩壊から百年以上経った14世紀初頭の「昭慶門院御領目録」には、亀山上皇が皇女に譲った讃岐の29の荘園の郷名が記されています。そこには、吉野郷や吉野新名とならんで「万之(満濃)池」の郷名が見えます。その下には秦久勝という知行人(土地を治める人物)の名もあります。秦久勝は、亀山上皇の家臣です。つまり「万之池」は、旧満濃池が再開発されて荘園となり、領有していた地元開発領主が、国司の収奪から逃れるために亀山上皇に寄進し、泰久勝が上皇の荘園管理人として「万之池」を支配していたことが分かります。しかし、その時の現地の開発領主が誰なのかは、記されていません。なお、当時は「まんのう池」でなく「まの池」と呼ばれていたことも分かります。
その後「万之池」は京都の上賀茂社の社領に移ります。
上賀茂神社には「長禄二年(1457)五月三日」の日付の入った次のような送状が残されています。
上賀茂神社には「長禄二年(1457)五月三日」の日付の入った次のような送状が残されています。
「合わせて六貫六百文といえり。ただし口銭を加うるなり。右、讃岐国萬乃池内御公用銭、送り進すところくだんのごとし 賀茂御社沙汰人御中 瀧宮新三郎 」
これは讃岐在住の瀧宮新三郎が荘園主の上賀茂神社に提出した年貢請負の契約書です。内容は「讃岐国万萬乃池内」の領地を請け負いましたので、その年貢として銀6貫600文を送金します。ただし「口銭」料も入っています」とあります。「口銭」は手形決済の手数料です。この時代には、すでに手形決済が可能でした。また、請負人の瀧宮新三郎は、その姓から現在の滝宮を拠点とする綾氏に連なる武士団の統領かもしれません。
以上の史料から池跡地は、田地化が進み、讃岐の国人が請け負って上賀茂社へ年貢を納めていたことがわかります。
しかし、「池内村」という地名はでてきません。荘園の表記は「万乃池」です。「池内村」と表記されているのは、江戸時代初の「讃岐国絵図」(丸亀市立資料館所蔵)が初めてのようです。
しかし、「池内村」という地名はでてきません。荘園の表記は「万乃池」です。「池内村」と表記されているのは、江戸時代初の「讃岐国絵図」(丸亀市立資料館所蔵)が初めてのようです。
図の中央の金倉川を、源流にさかのぼっていくと小判型の中に「池内」と記されています。村名が小判型で示されていますので「池内」は村名です。この後の寛永年間(1633)に西嶋八兵衛による再築がなされ、池内村は姿を消すことになります。そして、満濃池が450年ぶりに姿を現すことになります。
参考文献
香川大学名誉教授 田中 健二
歴史資料からみた満濃池の景観変遷
満濃池名勝調査報告書