西の丸公園で行われる結婚式に参加するためにやってきたの大阪城。

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そのついでに見ておきたかったのは、石垣の巨石です。

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まず、大手門を入って迎えてくれるのが大阪城の巨石NO4・5の次の二つです。
NO4  見付石(大手門 約108t 讃岐・小豆島 熊本藩主・加藤忠広
NO5  二番石(大手門 約85t 讃岐・小豆島 熊本藩主・加藤忠広
  加藤忠広は、おなじみ清正の後継者です。この二つは、瀬戸の海を渡って小豆島から運ばれてきました。石の前に立ち、石との「交流」をはかります。しかし、石は何も語ってはくれません。

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 石との対話を諦め、NO1の巨石に会いに行きます。

大阪城の巨石NO1 桜門の蛸石

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桜門を登っていくと、開かれた門の奥に巨石が、そしてその上に天守閣が見えてきます。門をくぐると全景を見せてくれます。およそ36畳敷き(60㎡)、推定130tと言われています。岡山藩主・池田忠雄(姫路の池田輝政の三男)が寛永元年(1624年)に寄進した物で、備前犬島産の花崗岩です。

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 大阪城の石垣の巨石ベストテンは次の通りです。
 名前  設置場所   重量    生産地     寄進者 
1 蛸石  桜門   約130t   備前・犬島   岡山藩主・池田忠雄
2 肥後石  京橋門   約120t  讃岐・小豆島   池田忠雄
3 振袖石  桜門    約120t  備前・犬島    池田忠雄
4 見付石  大手門   約108t  讃岐・小豆島   熊本藩主・加藤忠広
5 二番石  大手門   約85t   讃岐・小豆島  加藤忠広
6 碁盤石  桜門    約82t   備前・沖ノ島  池田忠雄
7 二番石  京橋門   約81t   讃岐・小豆島  池田忠雄
8 三番石  大手門   約80t   讃岐・小豆島  加藤忠広
9 四番石  桜門    約60t           池田忠雄
10 竜石   桜門      備前・沖ノ島    池田忠雄

こうしてみると巨石群NO10の全てが、瀬戸内海の小豆島周辺の島から運ばれてきたことが分かります。
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「太閤さんのお城」と呼ばれる大阪城は江戸時代のもの。

1583年に秀吉により築城されますが三十年後、大坂夏の陣で落城し豊臣氏は滅亡。すると家康は、堀も石垣も打ち壊し、さらに盛土をして秀吉の城は、石垣も含めて埋めてしまいます。その上に改めて築かれたのが現在の大阪城です。現在の大阪城には、秀吉の痕跡はありません。
 再建されることになった江戸幕府の大阪城は、幕府の威信をかけ諸大名に普請を負わせる天下普請により造られることになります。 大阪城の修築の第一期工事は、藤堂高虎の縄張りで、元和六年から九年までに行われ、第二期は寛永元年から三年まで、第三期が寛永五、六年で、この工役に動員された西国大名は163家を数えました。石垣普請を任された大名達は、要所に配される巨石を島から切り出し、苦労しながら海を渡し、この上町台地の北端まで運び上げたのです。

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  この巨石群がどうやって切り出され、運ばれたのかを見るために小豆島の石切場を見に行きましょう。

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小豆島で採石した大名の受持地区は次の6藩です。
①岩ケ谷:筑前福岡城主    黒田筑前守長政、忠之父子、
②当浜、福田地区:伊勢津城主 藤堂和泉守高虎、高次父子、
③小海:豊前小倉城主     細川越中守志興、志利父子、
④小瀬、千軒等土庄地区:   肥後熊本城主 加藤肥後守忠広(清正の息子)
⑤池田町石場辺:       筑後久留米城主 田中筑後守志政、
⑥大部:豊後竹田城主     中川内
先ほど見た大手門にあるNO4・5の「見付石」「二番石」は、④ですから小豆島の前島の小瀬や千軒で切り出されたものだと分かります。ちなみにこの地区は、現在はパワースポットとして人気のある「重ね岩」がある場所としても有名です。もしかしたら、重ね岩も石垣として大坂に運ばれる可能性があったかも・・?
海岸に四十数個の残石が並ぶ「大坂城残石記念公園」
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 当時、小豆島小海村には七ヶ所の丁場(石切場)がありました。
ここは小倉藩細川家(熊本県知事から首相になった細川氏の先祖)の受け持ちでした。切り出された石は石舟や筏に載せられ大坂へ運ばれました。ここには、「洋上運搬実験」につかわれた筏が置かれています。

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 どういう理由か積み残され置き去りにされた石があります。

それが後に「残念石」と呼ばれるようになりました。折角、切り出されたのに運ばれることなく置き去りにされたという思いが込められているのでしょう。
 花崗岩から切り出した石材が御影石ですが、ここに残された積み石(平石)も上質の白御影石です。村のあちらこちらに散らばっていた残念石は明治初年にここに集められ、現在は香川県の指定史跡となっています。

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大坂城残石資料館には当時運搬に使われていた道具類、石工が使った工具などが展示されていました。

天狗岩丁場の巨大天然石「大天狗岩」

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東海岸の岩谷地区にも五つの丁場跡があり、福岡藩黒田家が採石に当たりました。
一帯には1,600個あまりの種石が残るといわれます。中でもこの天狗岩丁場は島内最大のもので、石切丁場としては唯一の国指定史跡となっています。
 入口の道標から畑の中を取って伸びる山道が延びていきます。振り返ると播磨灘が広がります。晴れていれば淡路島を望むことも出来ます。
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さらに登って行くと、みかん畑山の斜面に多くの天然石が露出しています。

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断面を見ると豆腐形に整形される「種石」の状態であることが分かります。
自然石が割られ、その中に豆腐形にするために四角い穴が並んで開けられています。
現場で整形され、海岸に下ろされていたことが分かります。
また、政策担当者(班)が分かるように○×△など簡単な刻印が刻まれています。この段階では藩の刻印はありません。

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ジブリのアニメに出てくるロボットのような石も土に埋もれながらあります。

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順路の道標に導かれながら石のトンネルをくぐります。
すると見えてきたのが
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大きな花崗岩の自然石です。
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これが推定重量1,700トンといわれる「大天狗岩」です。
高さ17m、周囲35mという巨石に、思わず立ちすくんでしまいました
大坂城の石垣の「鏡石」といわれる各巨石は、このような天然石から切り出されたのでしょう。大阪城の石のふるさとのひとつがここなのです。

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残念石やその元となった種石には表面に歯形のような一列の穴が残っています。これ矢穴と呼ばれるものです。石工が目を見定め、割る位置と方向を決め鉄製の石ノミで開けた下穴の跡です。
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途中で計画が変わったり目を読み違えた失敗作もあり、矢穴の跡のある大石が当時の姿のまま横たわっています。
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今は静まりかえった丁場跡です。
石の上に座って目を閉じてみると石工の鎚音が聞こえてくるような気がしてきます。海を渡り石垣に組み込まれた積み石と、ここに残された残石を比べながらひとときの時間を過ごしました。
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