瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:河野氏

河野氏・湯築城年表
戦国初期の伊予

 前回は伊予の河野氏が守護職という地位にありながら、戦国大名としての領国統治策が弱かった要因として、次のような点を挙げました。
①河野氏は、室町幕府の中では家格が低く、相次ぐ中央の戦争に切れ日なく動員されたこと。
②そのため伊予を不在にすることが多く、領国支配体制の強化がお留守になったこと
③別の見方をすると瀬戸内海交易で得た資本が、領国統治強化に使われずに、幕府の軍事遠征費として使用された
 これが河野氏が領国支配体制を強めていくためには大きなマイナス要因になったとしました。

さて、河野氏の室町幕府の将軍とのつきあい方には、ある特徴があると研究者は指摘します。今回は、河野氏の足利将軍との関係について見ていくことにします。テキストは、「永原啓二   伊予河野氏の大名領国・小型大名の歩んだ道   中世動乱期に生きる91p」です。
河野氏は、守護であるという地位にかなりこだわりを持ち続け、これを自分の立脚基盤にしようとしたようです。
 河野氏は戦国時代の終わりのころになっても、将軍に贈答を送り続けます。
1 秋山源太郎 haitaka

ハイタカ
具体的には「ハイタカ(鷹)」という猛禽類を贈る風習を止めませんでした。鷹狩りには、オオタカ・ハイタカ・ハヤブサが用いられましたが、将軍が使っていたのはハイタカでした。ハイタカは鳩くらいの小型の鷹で、その中で鷹狩りに用いられるのは雌だけです。そのハイタカにも細かいランク分けや優劣があったようです。贈答用のハイタカは領内の森林で捕らえられ、鷹匠が飼育し、狩りの訓練もしたもので、手間暇と費用のかかる最高ランクに近い贈答品だったようです。

地方の大名たちが鷹を捕らえて将軍に送るというのは、ひとつの儀礼で、忠誠心のあかしを示すもので、頻繁に行われていました。
河野氏はハイタカを、信長に追われた最後の将軍足利義昭のときまで贈っています。その結果、将軍とのやりとりが将軍のじきじきの手紙として、河野家関係の文書の中に残っているようです。

湯築城 河野氏
河野氏の居城 湯築城(松山市)
応仁の乱以降、戦国の動乱に入ると、多くの大名たちがこれを機会に幕府体制から離脱するという動きをとりだします。守護クラスの者でも幕府体制からの離脱する動きが増えます。
そんな中で河野氏が戦国時代になっても、将軍とのつながりを大事にしていたのはどうしてでしょうか。
それは幕府との結び付きを持つことによって、自分の立場を有利に計ろうと考えていたようです。河野氏は伊予の守護とは云っても難しい立場にありました。例えば伊予を取り巻く情勢を見てみると、次のような勢力に囲まれていました。

大洲城 ~伊予国攻防の歴史と美しい木造天守 | 戦国山城.com
①東 讃岐・阿波の細川氏という室町幕府で最も大きな勢力をもった勢力の東予侵入
②北 毛利、小早川氏の力の南下
③西 山名・大友の圧力
④南 土佐の長宗我部元親の北上
河野氏は大国の間に挟まれた小国の悲哀を味わい続けます。

それに加えて最初に見たように、幕府の動員に従って対外遠征を繰り返したために、領国支配体制は強化できず、国内はバラバラでした。河野氏は伊予国の守護ですが、実際には国全体に力が及ばないという弱みがあります。そのためにとられのが「幕府と強く結び付く」という外交方針だったのかもしれません。自分を幕府に結び付け、その権威に寄り掛かつて自分の弱い立場を補強しようとする手法を選んだと研究者は考えています。
当時、大名領国を形成しようとする指導者の中には、次の2つのタイプがいました。
①守護職を早くから得た家柄の出身者で、戦国大名として大きくなっても、守護であるということにこだわりを持ち、幕府との結び付きという点に自分の価値を見いだそうとする人。
②早々と幕府体制から離脱して、自分の実力で領国体制を作り出そうとする人
マロ眉&公家風のルックスから劇的変化!『信長の野望』に見る“今川義元”グラフィックの変遷<画像11 / 62>|信長の野望 出陣 Walker
今川義元(公家風衣装)

戦国大名の中で①の例にふさわしいのは、駿河の今川氏でしょう。
今川義元は信長に倒されましたが、南北時代らの駿河の守護でした。室町時代に入ってからは、遠江の国の守護職も手に人れます。今川氏は守護として京勤務が義務づけられていましたから、ずっと都にいて、幕政の中でも重きをなしていました。その一族には今川了俊のような文化人も輩出します。これは都との関係が深いから生まれることです。歴代の今川氏は、京都の公家とも婚姻関係を持ち、文化的なつながりを保ちました。お歯黒をつけて公家風の衣装を纏い、都とのつながりを大事にしました。そして義元は大軍を率いて上洛しようとします。しかし、桶狭間で負けると、その後はほとんど立ち直れませんでした。義元のあと氏真のときには、為す術もない状態で武田氏に占領されてしまいます。これは今川氏の領国支配の根が浅かったからだと研究者は指摘します。
長宗我部元親1

土佐の長宗我部元親を見ておきましょう。
彼も領国支配には相当に力を人れていたようです。例えば、秀吉に征服された1585(天正13)年以降になって、秀吉の意向に沿った形で検地をやります。これは長宗我部自身の独自の検地ですから、秀古の役人が直接入ってきてやったものではありません。その時に作られたのが『長宗我部地検帳』で、土佐一国にわたって綿密に行われています。国内の職人たちが一人ひとり調べ上げて記されています。
長宗我部検地帳2
長宗我部地検帳

例えば「鍛冶職人」の項目を見ると、各郡に鍛冶がたくさんいたことが分かります。それが江戸時代になると「土佐の農鍛冶」として、全国的な市場を視野に入れた商品生産につながったと研究者は考えています。
木挽職人

 その他に「大鋸職人」、「結桶職人」もいます。
酒を入れたり、水を入れるのは、それまでは壷や甕でした。ところが大鋸が登場すると、タテ板製材が容易になります。それ以前は材木をくさびで割って、ちょうなで削っていたわけです。それが大鋸挽きだと、縦の細い材もつくりやすくなります。

樽職人2


そこに「結桶」がひろまると、これは「革新的変革」を引き起こす素地ができます。酒などを人れて運ぶのが壷・甕から木の桶に代ると輸送条件はぐっとよくなります。酒などは檜垣船で長距離輸送が可能になって、全国展開が開けてきます。領国支配というのは、そこまでの視野を持って、職人たちまでをしっかり組織していかないとできるものではないのです。研究者は次のように述べます。「経済力というものは、民衆が担っているものだが、それを組織し掌握するのは大名権力であった。」
 『長宗我部地検帳』からは、そういう方向を長宗我部氏が目指していたことが見えて来ます。だからこそ、長宗我部氏は比較的短期で、あれだけの力を持つことが出来たと研究者は考えています。
それと比べると、河野氏の場合いわゆる大名領国政策らしいものが見えてこないようです。
もちろん河野氏が全然やってなかたということではありません。例えば、応仁の乱が終わったころ、の15世紀後半になると、石手寺を再興したときの作業の分担関係の中に、「河野公の大工」という人物が出てきます。ここからは、河野氏に直属する番匠、大工がいて、職人編成をやっていたとが分かります。16世紀半ばの戦国時代の真っ最中には「段別銭本行役」という役職が出てきます。ここからは河野氏も領内から段銭を取るために「段別銭本行」を置いていたことが分かります。段銭は、守護が領国大名化するとき公的立場をしめすシンボリックな税目でもあります。
 このように河野家の出した文書からは、領国支配のための「本行人の制度」や、「段銭を徴収する体制」、「領国経済を掌握するための御用職人の編成」などがあったことが分かります。何もしていないとは云えないようです。
戦国時代には商人をどう組織するかが、ひとつのキーポイントだったようです。
兵糧や武器を調達することは、一国内だけではなかなか難しくなります。戦争のときには各出先でそれらが調達出来るようにしなければなりません。そのためには、国内を越えた活動範囲を持つ有力な商人を、国内に招致したり、御用商人に編成したりしておく必要がありました。そういう商人は、有力大名には必ずいました。先ほどは領国支配体制が不十分だったとした今川氏も、友野・松本と言う御用商人の活動が知られています。北条氏には賀藤・宇野、上杉では蔵田、越前の浅井氏には橘岸がいました。さらに織田信長には伊藤という商人頭がいて、商人を統括して、戦争のときには各地で兵糧を調達出来るような体制が作られていました。そういう点について、河野氏に関してはいまのところ見られないようです。
 河野氏はどうも守護であるということにこだわることによって、幕府との関係強化=中央権力依存型となり、実力を直接自らの手で作り上げていくという点においては、立ちおくれたと研究者は指摘します。

  以上をまとめておきます。
①河野氏は、戦国時代末になっても、足利将軍との贈答関係を緊密に続けた。
②具体的にはハイタカを、信長に追われた最後の将軍足利義昭のときまで贈っている。
③その背景には、河野氏を取り巻く内外の苦しい状況があった。
④河野氏は幕府との結び付きを強めることによって、自分の立場を有利に計ろうという政治的な思惑があった。
⑤守護へこだわりが「幕府との関係強化=中央権力依存型」志向となり、自分の実力で領国体制を作り出そうとする動きを弱めた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

中世動乱期に生きる : 一揆・商人・侍・大名(永原慶二 著) / 南陽堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献       永原啓二   伊予河野氏のの大名領国・小型大名の歩んだ道   中世動乱期に生きる91p
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伊予の河野氏の守護大名から戦国大名への成長についての講演録集に出会いましたので、読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは 「永原啓二   伊予河野氏の大名領国――小型大名の歩んだ道  中世動乱期に生きる91p」です。

中世動乱期に生きる : 一揆・商人・侍・大名(永原慶二 著) / 南陽堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 戦国時代になると国全体を一人の大名が支配していくようになります。それが大名領国で、これを成し遂げた大名を見ると先祖が守護をつとめている者が多かったようです。それでは伊予の河野氏はどうなのでしょうか?
南北朝の初めに、河野通盛が足利尊氏から守護職を与えられます。まず、その背景を見ておきましょう。

足利尊氏の九州逃避図
足利尊氏の九州逃避と再上洛系図

 これは後醍酬天皇の建武政権に対して、鎌倉に下った尊氏が背いた直後になります。尊氏は鎌倉から京都に攻め上りますが、京都を維持できずに九州まで落ちのびます。しかし、たちまちのうちに勢力を盛り返し、海陸を進んで湊川合戦を経て京都に入ります。このときに、河野通盛は水軍を率いて尊氏を颯爽と迎え、尊氏の軍事力の有力な軍事力の一員となります。それが認められての守護任命のようです。
 足利尊氏は、守護には出来るだけ多く足利一門を任命するという方針を持っていたようです。それからすれば、河野氏は尊氏にとっては外様です。にもかかわらず河野氏を守護任命にしたのは別格の扱いといえます。それほど尊氏にとって、河野氏の水軍は貴重だったことを押さえておきます。
伊予守護職に就いた 河野通盛は、これを契機に本拠を伊予川風早郡の河野郷から松山の湯築に移します。

河野氏居城
伊予河野氏の拠点

「伊予中央部に進出して伊予全体ににらみをきかす」という政治的、軍事的意図がうかがえます。河野氏は南北朝という新しい時代に、水軍力で一族発展の道を摑んだとしておきます。

その後の通朝(みちとも)、通尭(みちたか)の代には、河野氏は波乱に襲われます。
管領職の細川氏が、備前・讃岐を領国として瀬戸内海周辺の国々を独り占めするような形で、守護職を幾つも兼ねるようになります。

管領細川氏の勢力図
         管領職 細川氏の勢力図

上図を見ると分かるように、讃岐・阿波・土佐・和泉・淡路・備中といった国々はみな細川一族の守護国になります。
 足利義満が将軍になったころは、南北朝の動乱の真っ只中でした。義満は父の義詮が早く死んだので、十歳で将軍になります。その補佐役になったのが細川頼之で、中央政治の実権を握っていた時代が10年ほど続きます。長期の権力独占のために、身内の足利一門の中からも反発が多くなり、頼之は一時的に失脚します。そして自分の拠点国である讃岐の宇多津に下り、そこで勢力挽回をはかります。それに、細川の一族の清氏が、幕府との関係がまずくなって四国に下ってきた事件も重なります。
 このような情勢の中で頼之は、讃岐から伊予の宇摩、新居の東伊予二郡へ軍を進めます。それを迎え撃った河野氏の通朝・通尭は、相次いで戦死してしまいます。当主が二代にわたって戦死するという打撃のために、河野氏の勢力伸張は頓挫してしまいます。それでもその後の通義の代にも伊予の守護職は、義満から認められています。この点については、足利義満が戦死した父のあとに河野通尭を守護に補任した文書が残っています。それ以降は、河野氏の守護職世襲化が続きます。

伊予河野氏の勢力図
 守護が世襲化されるようになると、国人・地侍級の武士たちを守護は家来にするようになります。
そうなると国内の領地に対する支配力もますます強くなります。さらに、守護は国全体に対して、段銭と呼ぶ一種の国税をかける権利をもつようになります。「家臣化 + 国全体への徴税権」などを通じて、守護は軍事指揮官から国全体の支配者に変身していきます。これが「守護による領国化」です。
 こうしてみると河野氏には、守護の立場を梃子にして大名領国体制を形成していく条件は十分にあったことになります。しかし、結果はうまくいきませんでした。どうしてなのでしょうか?

そこで研究者が注目するのは、河野氏が日常的にはどこにいたかです。
河野氏は伊予よりも都にいた方が多かったようです。河野氏は将軍の命令で、あっちこっちに転戦していたことが史料からも分かります。
この当時、諸国の守護は、京都にいるよう義務付けられていました。
ただし、九州と東国は別のようです。九州と東国の守護は在京しなくてよいのですが、西は周防、長府、四国から東は駿河までの守護は在京勤務義務がありました。河野氏も在京していたのは、他の守護と変わりありません。
 ところが軍役については「家柄による格差」があったことを研究者は指摘します
在京守護の中で、河野氏は格式が低かったようです。そのため戦争となるとまっさきに軍事動員されていることが史料で裏付けられます。大守護たちは軍事動員されて戦争に行くことを避けようとします。関東で足利持氏が反乱を起こしたときなど、将軍の義教はかなリヒステリックで、すぐ軍事行動を起こそうとします。しかし、畠山や細川など三管領の政府中枢の大守護たちは、できるだけ兵力発動を行わないように画策します。別の言い方をすれば「平和的解決の道」で、軍役負担を負いたくないというのが本音です,
そういう中で河野氏のような外様の弱い立場の守護たちに、まず動員命令が下され第一線に立たされています。
もちろん、河野氏だけが動かされたわけではありません。嘉占の乱の場合には、山陰に大勢力を持って、赤松の領国を取り巻く国々を押さえていた山名氏が討伐軍の主力になります。そして好機と見れば、戦功を挙げて守護国を増やしています。それに比べると河野氏は、いつも割りの悪い軍事動員の役を負わされたと研究者は指摘します。このため河野氏は大変な消耗を強いられます。
当時の合戦は、将軍から命令を受けても、兵糧や軍資金をくれるわけではありません。
自前の軍事力、経済力で出兵というのが、古代の防人以来のこの国の習わしです。河野氏が度重なる動員を行えたというのは、その背景に相当の経済力をもっていたことになります。
以上をまとめておくと
①室町時代半ばになると有力な守護が領国体制を作り上げていた。
②その時期に、河野氏は相次ぐ中央の戦争に切れ日なく動員されていた。
③これは河野氏の領国支配体制の強化がお留守になっていたことを意味する。
④別の見方をすると瀬戸内海交易で得た財力が、国内統治強化に使われずに、幕府の軍事遠征費として使用されたことになる。
 これが河野氏が領国支配体制を強めていくためには大きなマイナス要因になったと研究者は指摘します。そう考えると河野氏はある意味で、守護であることによってかえって貧乏クジをひいたともいえます。守護でなければ、国内に留まり、瀬戸内海交易を通じて得た財力で周囲を切り従えて戦国大名へという道も開けたかもしれません。
  こうして見てくると、讃岐に香川氏以外に戦国大名が現れなかった背景が見えてくるような気がします。讃岐も管領細川家の軍事供給として「讃岐の四天王」と呼ばれる武士団が畿内で活躍します。しかし、それは本国の領国支配への道をある意味では閉ざした活動でした。学ぶ点の多いテキストでした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
「永原啓二   伊予河野氏のの大名領国・小型大名の歩んだ道   中世動乱期に生きる91p」

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中世には「蟻の熊野詣」と言われるほど、多くの巡礼者が熊野三山(本宮・那智・新宮)に参詣したようです。熊野参詣を隆盛に導いた原動力の一つが、地方(在地)の先達(修験者=山伏=熊野参詣の案内人)や、それを支援する檀那の力があったからだと云われます。その中でも中世の伊予国は、全国的にも先達や檀那数は多い地域とされます。
 今回は、先達と檀那の間に結ばれた師檀契約の願文から熊野信仰について迫った研究を見てみることにします。
テキストは「石野弥栄 中世伊予の熊野信仰について ~地域領主との檀縁関係をめぐって~」です。
まず、最初に中世における熊野信仰の広がりを確認することから始まります。
 熊野信仰は、熊野三所権現の成立した11世紀末以降に盛んになりました。熊野坐神社(本宮)、熊野早玉神社(新宮)に加えて、のちに那智社が成立し、それらが「三位一体化」します。熊野三山は、それぞれが同じ神を祀っていますが、同時にそれらの神が神仏習合化(神仏混淆性)していきます。

1熊野信仰 熊野三尊
 本宮は阿弥陀仏、
 新宮は薬師如来
 那智社は千手観音
を本地とします。そして
①本宮の主祭神の社殿を証誠殿といい、浄土思想の流行と相まって、極楽浄土(西方浄土)を意味するようになりました。
②新宮は東方瑠璃浄土、
③那智は補陀落浄土
とも説明されるようになり、庶民にも受けいれやすく「加工」されていきます。
1熊野信仰 那智神

さらに、仏教でも不浄視されていた女性へも寛容的で、女人禁制の厳しい高野山なとど対照的で、親しみやすい性格だったようです。ただこの点は、後には南北朝末期に高野山側が
「熊野者、他国降臨之神体、男女猥雑之瑞籬也」

と非難、攻撃しているように(「高野山文書」)、熊野信仰は、ややもすれば、品位を欠く点もみられたようです。この点が戦国期から江戸時代にかけて、伊勢信仰、高野山信仰の隆盛にともなって、低調になっていった理由の一つと研究者は考えているようです。
 
熊野三山へ参詣する道(熊野古道)は、紀伊路、伊勢路があり、
紀伊路は大辺路・中辺路・小辺路の3ル━トがありました。中世には主として中辺路が一般的となり、公式ル━トにもなります。熊野参詣道には、多くの王子社(熊野権現の御子神を祀る分社、九十九王子と称せられる)が設けられ、参詣者は道すがらここで奉幣したり、経供養をしたり、法楽の催しをしながら、旅の苦労や愁いを一時なりとも忘れたと云われます。
 熊野参詣は、平安時代、院政期から貴族階級の間に盛んになり、法皇・上皇や女院、院の近臣、女房たちが、難路の苦しみを越えて、大行列で度重なる参詣を行うようになります。四国霊場を歩き通すことが人々に達成感や成就感あたえ、明日に生きていく力を養うことにつながると同時に、そこでの非日常体験や宗教的な霊感が信仰心を高めていきます。同時に、長い参拝はある意味で修行生活で学習の場でもありました。鎌倉時代に入ると、地方の武士たちも「世間を学ぶ」ために貴族たちと同じように、参詣をする者が現れます。そして、熊野詣でを、自分の子どもたちに「通過儀礼」として体験させる者も現れます。こうして 
①平安時代の貴族→ ② 鎌倉時代の武士 ③室町時代の商人 

へと熊野信仰は、広がりと安定した基盤をもつようになります。

幕府が鎌倉に開かれたこともあり、東国武士の間に熊野信仰が広がりを見せます。中部・関東・東北が圧倒的に多く、関西地方は遠くそれに及びません。また、熊野三山関係の社領荘園は、紀伊国や東海地方に多く、四国・九州地方は少ないようです。当然、社領荘園には、熊野の末社が勧請されて、熊野信仰の拠点となっていきます。そのため「熊野神社の末社数=熊野詣で参詣数隆盛」という図式がすぐに考えられますが、どうもそうではないようです。それは熊野詣でが近世の金毘羅詣でと違って、個人参拝ではなかったからです。熊野参拝のシステムは
①参詣者を熊野へと導き、道中を案内する先達(修験者)
②熊野での山内の案内、宿泊施設の提供、祈祷など世話役としての御師
③檀那として御師の経済的支援をする武士
この三者の結びつきで出来上がっていました。
 先達に引率されて熊野にやって来た檀那は、神宮と参拝取次を御師に依頼します。その際に御師との間に師檀関係(檀縁関係)を結び、その名前(個人及び集団中の個々人の名前)や住所を記した名簿(願文)を提出しました。これは神との契約関係で、1回だけでなく一生の通じての契約でした。そのため檀那の名やその在所は、御師の家に大切に文書として保管されていました。
1 熊野信仰 檀那願文

 中世後期になると、檀那を金銭で売買することが一般化します。売券類、譲状、寄進状、借銭状、請取状などの経済関係の文書に見られるようになります。檀那を売買するという行為は、私たちから見ると違和感を覚えます利権として当たり前とされたいたようです。
 伊予国の熊野社と先達寺院を見てみましょう
 先ほども触れましたが中世の伊予国には、ほとんど熊野社領荘園はありません。にもかかわらず伊予は熊野神社が全域に分布しています。それはどうしてなのでしょうか。
  その理由を、先達である修験者(山伏)の活動の多さと活発な活動にあった研究者は考えているようです
 熊野神社の分社は、徳島県82社(寛保神社帳)や高知県69社(長宗我部地検帳)に比べると、少ないようですが全県下に分布していることが表からは分かります。分布特徴としては、山間部に多く、宇和町に集中している点を挙げることができそうです。

1 熊野信仰 愛媛の熊野神社一覧1
 伊予の古い勧請事例は大同二年(807)勧請と伝えられる旧新宮村の熊野神社です。
そのため愛媛の熊野信仰は、阿波から吉野川沿いに伝えられ、その支流である銅山川沿いの新宮村の熊野神社を拠点に愛媛県内に入ってきたと研究者は考えているようです。
その意味で新宮の熊野神社は、熊野信仰の布教センターの役割を果たしたようです。また、吉野川を更に遡って土佐方面に向かう熊野行者の拠点にもなったようです。土佐方面への次の拠点は、
①新宮村熊野神社→ ②土佐豊永の熊野神社(定福寺)→ ③大豊町豊楽寺(若一王子神社)→④本山町金剛寺(若一王子神社)

という伝播ルートが考えられ、このルートは土佐の人々の熊野詣でルートであったともされます。
1 熊野信仰 愛媛の熊野神社一覧2

 一方、伊予方面への伝播ルートは、新宮村の熊野神社を拠点にして川之江方面に山を下りていきます。妻鳥(川之江市)には、めんとり先達と総称される三角寺(六十五番札所、同市金田町)と法花寺がいました。また新宮村馬立の仙龍寺は、三角寺の奥院とされます。めんとり先達も、新宮の熊野社を拠点に、川之江方面で布教活動を展開していたようです。そして、めんとり先達の修行場所は、現在の仙龍寺の行場だったことがうかがえます。以上から、次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場として銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開いた
四国霊場の三角寺やその奥社の仙龍寺は、熊野行者の行場が里下りしたお寺のようです。 
伊予国の先達拠点の特徴を、研究者は次のように指摘します
①真言系の旧仏教寺院(四国遍路の札所になったもの)、
②伊予国の東半分の比較的海岸に近い地域に多いこと、
③石鎚・出石山の二大修験霊場、一宮(三島社)という大社
④主要な寺社(宇摩郡新宮の熊野神社、石手寺の鎮守社)
などを拠点にして、熊野先達たちは活動していたようです。
 この中でも、風早郡の熊野谷権現社(ゆやだにごんげんしゃ)は史料が残っていて、詳細な点まで分かるようです。この神社は熊野谷と書いて(ゆやだに)と読むようです。ここの社僧(修験者)である池内氏(河野氏分流)は、檀那の守るべき社役を定めていますが、その中には次のような条文があります。
「当所より熊野参けいの人ハ、湯屋谷権現へ先参也、ふさた候へハ、道中にてしちありと申しつたへ候」(池内家文書、明応九年九月九日付熊野谷権現社僧勝賢置文)。 
 
とあって「熊野参詣の前には、湯屋谷権現(熊野谷権現)へ、まずお参りし絵から出かけること」と記されています。

三 檀縁関係からみた伊予の熊野信仰
 売買の対象になった檀那(武士)は、
(一)檀那の一族、一門
(二)地域
(三)先達
の3つに分類されています。
(一)と(二)について、研究者は具体例をあげて検討しています。 
 中世の伊予国で最大の武士団を形成したのは、河野氏です。
年不詳の「潮崎氏檀那目録」(近藤喜博著『四国遍路』に引用)に次のように河野氏は登場します。
 同国(伊予国)河野ノ一族十八ケ村、其外トウコ・トウセン一円、並川野ゝ一門十八ケ村々一族ケイツ書立有、代弐拾六貫文分
意訳すると
 伊予の河野一族は、18ケ村の他に、道後・道前一円や川野にいる。講の一門18ヶ村の檀那帳の代金は26貫文である。

ここでは、河野氏一族を「十八ケ村」と一括りにして、檀那を26貫文で売買されています。中世には、「一石一貫(米1石=銭1貫文)」という換算方法があったようです。これで計算すると1貫文は、10万円前後となるようです。26貫文は、260万円で、熊野社の檀那売買としては、かなり高額な値段で売却されているようです。「十八ケ村」で括れない河野氏勢力圏全体という意味で、そんな値段になったと研究者は考えているようです。
 しかし、河野氏一族を「十八ケ村」というのは、あいまいな概念です。これをもとに檀那を売買した檀那権をめぐる先達同士の紛争が起きたことが予想できます。このため一族単位に檀那を売買する方式は、一般的ではなかったようです。

河野氏の有力家臣で、熊野社の檀那として名前が見えるものもいます。
伊予郡大平の天神山城主の森山氏とその一門、
久米郡岩加羅城主の志津川氏、
浮穴郡小田(のち久万の大除城主)の大野氏
などです。
この三氏が共通の先達としたのは医王寺(現東温市)です。
医王寺引檀那注文(新出熊野本宮大社文書)に
「しつ河遠江守殿、森山殿、小田大野殿」
が見えます。


有力な氏族単位を檀那とする形とは別に、地域の小規模な武士集団を檀那とする方式も見られます。
応永元年(1394)正月16日の伊予郡長田郷岡田衆中檀那注文(新出本宮大社文書)には、
①岡田衆という伊予郡の武士集団(小田・町田・長田・東・北・森・向居・田中・大西・安松・重延等諸氏)
②長田郷内の農民や氏族単位の檀那(一家中)もいて、
随明寺僧橋本坊を先達としていたようです。こういう地縁的な結合形態(河野氏の軍事組織でもあったか)を利用した檀那もあったことが分かります。
 次に喜多郡の事例をあげてみましょう。
1 熊野信仰 伊予国喜多郡

この地域は、中世には河野氏の支配領域ではなく、宇都宮氏やその系列の武士をはじめ、比較的規模の小さい領主が割拠していたようです。それが熊野の檀那分布状況にも反映されています。喜多郡八多喜寺が先達であった檀那注文(那智大社文書)によると、
①津々喜谷氏(宇都宮氏家臣、滝之城主、在所は横松)、水沼氏(粟津郷)、上須戒の向居氏、延尾氏、篠尾氏、臼杵氏のグル━プ、
②笠間(宇都宮一族)、土屋、市木のグル━プ、
③下須戒氏(矢野氏流)、
④出海の兵藤氏、
⑤富永氏流の小田大野氏・立花氏・石原氏・宇津氏
など、五つの系列に分かれています。これらは、地縁的、氏族的にまとまりがあります。これらの在地領主らの中には、下野国から移住してきた宇都宮氏とその被官、三河国設楽郡から移りすんだとみられる兵藤氏や大野氏など、他国から伊予国へ来た武士たちも交っているようです。
 グループ毎に先達に引き連れられて、ながい熊野詣でに出かけます。先達は現在のツアーコンダクターに、修験道の師匠を加味したような性格を持ち畏敬の念で見られていたようです。ある意味、旅は「鍛錬」や「学習」の場でもありました。日常生活では見たり聞いたり出来ないことも体験します。それが人間的な成長の糧にもなります。武士団の頭領のような人たちにとっては「社会勉強」の役割も果たします。同時に、長い苦楽を共にした参加者との連帯感を養うことにもなります。各武士団が団結を深めるためにも熊野詣では役だったようです。
 熊野への参拝ルートは2つ考えられるようです。
 ①芸予諸島から熊野水軍の「定期船」で熊野へ
 ②新宮村熊野神社を拠点に、阿波吉野川沿いの熊野神社分社を経由し、撫養から紀州へ
この2つのルートが熊野参拝ルートとして中世以来の利用されていたようです。
喜多郡には先達寺院も多く、伊予国の中でも熊野信仰が盛んな地域でした。
 喜多郡菅田の清谷寺に伝わったという暦応三年(1340)十月十八日付の檀那譲状(「大洲旧記」所収)があります。しかし、この文書は文書様式からみても、譲状ではありません。内容的にも、清谷寺が道後河野氏を始め、喜多郡内の武士たち、宇和郡の西園寺氏、宇和郡須智郷の北ノ川氏など有力な領主を数多く檀那していた記録です。そこには誇大な記載があり、年代的にも疑わしと研究者は考えているようです。江戸時代になると、修験者は、信仰圏(霞という)を誇大に吹聴して、虚勢を張ることが多々あったようです。

このような熊野先達の活動が停滞するのが戦国時代です。
16世紀になると応仁の乱に続く戦乱の拡大は、参詣者の減少をもたらします。さらに戦乱による交通路の麻痺によって、熊野先達の業務は廃業に追い込まれるようになったのが全国の史料から分かります。戦乱で熊野詣でどころでなくなったようです。
 「戦乱の拡大とと交通路の不通などにより、檀那の熊野参詣は減少し、熊野先達業務は次第に低調化した」

と研究者は考えているようです。さらに、檀那であった国人領主層の没落も加わります。
このような状況下で、熊野先達たちは活路をどこに求めたのでしょうか。
熊野先達=熊野行者=修験者=山伏たちは、熊野への先達業務から、新たな業務を「開発」して行かざる得なくなります。サービス提供相手を、新たに村落住人へ変えて、地元村落との結びつきを深め、彼らを檀那としてサービスを提供するようになります。その内容は「代参」から始まって、加持祈祷など様々な分野に及びます。地元の定着し里寺を起こす者も現れます。同時に彼らは、修験者としての霊力を保持するために行場での修行も欠かせません。周辺の霊山や霊場での「辺路修行」も引き続いて行われます。それが中世の古四国遍路の完成につながっていき、その上に近世になって素人による四国巡礼が始まると研究者は考えているようです。
  以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「石野弥栄 中世伊予の熊野信仰について ~地域領主との檀縁関係をめぐって~」
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