瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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DSC03562宮島厳島神社の鳥居
安芸の宮島(一遍上人絵伝)

一遍は、正応元年(1288)12月、伊予三島社(現大山祗神社)に参詣します。前年の弘安十年(1287)春に天王寺を出発して播磨の教信寺、書写山円教寺、備中の軽部の里、備後の一宮、安芸の厳島神社を経て四国に渡った最後の遊行の途中でした。一遍は河野氏出身ですが、その河野氏が信仰していたのが三島社です。今回は、伊予三島社が一遍上人絵伝の詞書にどのように書かれているのかを見ていくことにします。テキストは「山内一譲  『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」です。まず、詞書の前半部を見ておきましょう。
① 正応元年(1288)、 一遍は安芸の厳島神社から伊予に渡り、菅生の岩屋への巡礼、繁多寺での三日間の参籠を経たのち、12月16日に三島社に参詣した。
② 三島の神の「垂跡の濫腸」を尋ねると、文武天皇の大宝3年3月23日に跡を垂れたという。それ以降、五百余年を過ぎ八十余代の天皇の御代を守ってきた。
③一遍の始祖越智無窮は、当社の氏人であり、幼いころから老境にいたるまで朝廷に仕えて武勇を事とし、我が家にあっては「九品の浄行」をつとめとした。その念仏往生の様子は往生伝に記されている。
④一遍の祖父通信は、神の精気をうけて三島社の氏人となった人物で、参詣のたびに神体を拝した。
⑤一遍は、「遁世修行」の道に出た身ではあるけれども、三島の神の垂跡の徳をあおぎ、読経念仏を捧げて島を去った。
これが詞書に書かれていることです。この中には、三島社の縁起を取り入れて記された部分があると研究者は指摘します。その部分を見ておきましょう。
まず②の、文武天皇の大宝三年二月二十三日に三島の神が垂迹したのが三島社の創始であるとする記述です。この記述は「伊予三島社縁起」に、次のように記されています。

「同(文武)三年癸卯初宮作在之、大山積明神卜申也、鳴」

これを取り入れたものです。研究者が注目するのは、その際に詞書がわざわざ「依一説」と注記を加えていることです。ここからは、次のような諸説があったことを作者は知っていたことがうかがえます。
①「臼杵本」の大宝元年開創説 「文武天皇御時大宝元年并大明神御社改」で、
②「予章記」(長福寺本)の大宝二年説

此時(大宝二年)奇瑞有テ三嶋大明神造営アリ、(中略)
大宝二年妊文武天皇御尋二付テ、当社ノ深秘ヲ奏達有ル間勅号ヲ被成、正一位大山積大明神卜額二被銘之」

このように三島神社の起源については諸説があった中で、詞書はわざわざ「依一説」と注記しているのです。これは作者の聖戒が、漫然と三島社の縁起を取り入れて記述したのではなく、異説のあることを知った上で、それらを検討したうえでこの説を取り上げたことを示していると研究者は考えています。そうだとすると詞書の構想を練る聖戒の傍らには、いろいろな異説を記したメモがあったのかもしれません。
 もうひとつここで注意しておきたいのは、「三嶋大明神・大山積大明神」と記されていることです。   
大権現・大明神は、修験者(社僧)によって管理運営されていたことを示します。
神仏習合時代、神宮寺の最盛期には二十四坊があったと伝えられます。
『大三島詣で』は、その二十四坊の名を、次のように記します。

泉楽坊・本覚坊・西之坊・北之坊・大善坊・宝蔵坊・東円坊瀧本坊・尺蔵坊・東之坊・中之坊・円光坊・新泉坊・上臺坊・山乗坊・光林坊・乗蔵坊・西光坊・宝積坊・安楽坊・大谷坊・地福坊・通蔵坊・南光坊
 
『本縁』は、天正五年(1577)には「検校東円坊、院主法積坊、上大坊、地福坊」の四坊しか残っていなかったと記します。南北朝から戦国期に多くの坊が廃絶したようです。ここが修験者たちの拠点で、伊予三島社は神仏混淆時代には、社僧の管理下にあったことを押さえておきます。
話を元に戻します。
聖戒が詞書を記すにあたって参考にしたのは、三島社の縁起ばかりではないようです。
③に記された一遍の先祖・越智益男についての伝承などもそうです。越智益男は、河野氏の家譜や系図では、河野氏の祖とされる伊予皇子の17代の孫とされる人物です。この人物についての詞書は次のように記します。
聖(一遍)の嚢祖越智益窮は、当社(三島社)の氏人なり。幼稚の年より、衰老の日にいたるまて朝廷につかえては三略の武勇を事とし、私門にかへりては九品の浄業(念仏阿弥陀信者)をつとめとす。鬚髪をそらされとも、法名をつき十成をうけき。ついに臨終正念にして往生をとけ、音楽そらに聞こえて尊卑にはにあつまる。かるかゆへに名を往生伝にあらはし、誉を子孫の家におよほす‥

意訳変換しておくと
一遍)の始祖・越智益窮は、三島社の氏人である。幼年時代から、年老いるまで朝廷につかえ武勇を誉れとした。また私的には九品の浄業(念仏阿弥陀信者)であり、剃髪はしなかったが、法名を持ち、十成を受けた。臨終正念して往生をとげた際には、天から迎えの仏たちがやって来て音楽が聞こえ、尊卑大勢に見送られた。そのため彼の名前は往生伝にも載せられている。今もその誉は子孫の家に及んでいる。

整理すると次の通りです。
①三島神社の氏子であったこと
②優れた武人であったこと
③同時に、九品の浄業を勤める熱心な念仏信者であったこと
④念仏信者として往生伝に名前が載っていること

④の往生伝とは「日本往生極楽記」のことで、10世紀後半に養滋保胤が著したものです。この中の越智益窮の項には詞書とよく似た、次のようなフレーズが出てきます。

「費髪を剃らずして早く十戒をうけて」(極楽記)
 → 「費髪をそらざれども、法名をつき十成をうけき一(詞書)、
「村里の人、音楽あるをききて」(一極楽記一) 
 → 音楽そらにきこえて尊卑にはにあつまる」(詞書)
ここからも聖戒が「日本往生極楽記」を、そばにおいて引用しながら詞書の執筆を進めていたことがうかがえます。
もうひとつは一遍の祖父通信に関する記述です。これも河野氏に伝えられた伝承が取り入れられています。
一遍 河野家系図

河野通信は、源平争乱時には平家の優勢な瀬戸内海にありながら、いちはやく早く源氏方に味方して兵を挙げ、源氏の西国支配に大きく貢献します。その戦功によって、伊予での支配体制を固めます。ところが承久の乱では、京方に味方して奥州に流されていまいます。そこで、祖父通信は無念の死を迎えます。
祖父の墓参りに奥州を訪ねたシーンが一遍聖絵の中にも載せられていることは以前にお話ししました。

祖父河野通信の墓
祖父・河野通信の墓参り 奥州江刺郡(一遍上人絵伝)
幼いころの一遍と、祖父通信との間にどのような交流があったのかは分かりません。一遍や聖戒の時代になると、一族の中の偉大な祖父として語られるようになっていたようです。それが一遍を遠く奥州江刺郡にまで墓参りに訪ねる原動力となっていたのでしょう。
 通信に関する記述は長いものではありませんが、興味深い内容があると研究者は指摘します。
例えば、「祖父通信は、神の精気をうけて、しかもその氏人となれり」などという記述です。これは「予章記」などの河野家伝承を受けたものです。その伝承について「予章記」は、次のように記します。

通信の父通清は、その母が三島大明神の化身である大蛇によって身ごもって誕生した。そのため通清は、「其形常ノ人二勝テ容顔微妙ニシテ御長八尺、御面卜両脇二鱗ノ如ナル物アリ、小シ賜テ
背溝無也」

「その躰は常人よりも大きく、身長八尺(240㎝)、顔と両脇には鱗のようなものがあった。

「予章記」の家伝では、母親が三島大明神に通じて誕生したのは通信の父通清となっています。ところが「聖絵」では通信自身に変更されています。これには2つの説が考えれます
①「聖絵」が通信と通清を混同した
②鎌倉期には『聖絵』の記すような家伝があって、それが戦国期になると「予章記」に見られるような形に変化していった
本当はどうであったのは分かりませんが、聖戒が河野氏に関する詳しい知識を持っていて、それを取り入れたことは間違いないことを押さえておきます。
このように詞書の前半部を見て分かることを整理して起きます。
①聖成が三島社の縁起や、河野氏の家伝を積極的に取り入れて詞書を作成したこと
②その際の聖成の執筆態度は、伝聞情報をもとに思いつくままに記すことはしていないこと。
③関連するメモや文献をおいて、それを参照しながら筆を進めるという、かなり考証的な態度であったこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「山内一譲  『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」
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一遍 河野通信の鎧刀
河野通信と伝えられる鎧と刀 大三島神社
一遍は伊予の名門河野家の出身です。一遍が生まれる前後の河野家を巡る情勢を見ておきます。
源頼義は義家とともに奥州の安倍貞任一族を討って、いわゆる前九年の役を鎮めた功により、伊予国司に任命されて伊予にやってきます。その子・親清が河野親経の女と結婚して河野家を継ぎます。河野氏は貴種であり、かつ武勇の名の揚がった源氏と結び付くことの有利さをねらったのでしょう。
大通智勝仏
三島大明神の本地仏であった大通智勝仏

 河野氏の氏神が伊予国大三島の三島大明神(大山積大明神)だったことは以前にお話ししました。
三嶋大明神の本地は大通智勝仏で、『法華経』によると「 過去三千座点劫以前に現れて法華経を説いた仏」ということになるようです。河野氏の氏神である三島神社(大山祗神社)に、航海安全と武運長久のために数多くのものを寄進しています。

特20565/三島水軍旗 奉納河野通信 伊勢大神宮/八幡大菩薩… | 古書ふみくら
河野通信の奉納したとされる三島水軍の軍旗

 河野氏の中で有名なのは、 一遍の祖父通信の活躍です。
治承四年(1180)8月、伊豆国に流されていた源頼朝は、平氏を倒すべく兵を挙げます。石橋山の戦いでいったんは敗れますが、同年10月には富士川の戦いで平氏を敗走させ、東国を支配下に収めることができました。この時に、頼朝の働きかけで通信と父の通清は頼朝側に立って、伊予国の平氏勢と戦端をひらくのです。通清はまもなく戦死しますが、通信は奮戦してよく河野水軍の力を保ち、寿永四年(1185)には平氏を追いつめてきた源義経に助勢します。 義経は河野水軍の支援を受けて平氏を減ぼします。通信はこの功で、鎌倉幕府内で大きな位置を占めることになります。かれは北条時政の娘の谷(やつ)を妻とし、頼朝と相婿となります。そして道後七郡の守護職に任命され、また伊予の御家人を統率する地位を与えられます。
その後、承久三年(1221)の承久の乱までが通信と河野一族との全盛期でした。
 承久の乱で、通信の子通俊は西面の武士として院に仕えて後鳥羽上皇の皇孫を妻としていました。
その関係で幕府軍と戦うはめになり、敗れて本国に逃げ帰ります。通信とその一族は、高組山城に立てこもって幕府方の軍と戦いますが、7月に城は落ちます。通信は捕えられて鎌倉に送られ、奥州江刺に流されて、寛喜二年(1230)に同地で没しました。享年六十八歳でした。
一遍 祖父河野通信墓碑
河野通信の墓(流刑地の岩手県北上市稲瀬町水越)
聖塚(ひじりづか)〔河野通信(こうのみちのぶ)の墓所〕 | 岩手経済研究所
 孫の一遍(河野通秀)は、後に祖父通信の墳墓を訪れ供養を行いました。その様子が「一遍上人絵伝」に伝えられています

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通信供養の一遍の短歌(法厳寺)
通信には通俊・通政・通久・通広・通宗・通末の六人の男子がありました。
このうち、通広と通久を除く四人はすべて死刑か流刑になっています。 一遍の父通広は、通信とともに捕えられますが、後に放免されています。
一遍 河野家系図
河野氏略図(一遍関係)
①祖父通信は奥州江刺(岩手県北上市)に流され、
②長男通俊は戦死
③次男通政は信濃国葉広(長野県伊那市)で斬首
④4男通末は信濃国伴野(長野県佐久市)に流刑
 6人の息子たちの中で、五男の通久のみが無事でした。
母が北条時政の娘の谷であり、乱勃発時に通久は母とともに鎌倉に住んでいました。そのため幕府方として合戦に加わって、宇治川の戦いでは功をたてています。この功により父通信の死罪は免れ、通久には阿波国富田荘を与えられます。しかし、父祖の地を忘れがたく、伊予復帰を願い出て許されて、貞応二年(1223)、久米郡石井郷(松山市)を与えられ「帰国」します。他にも高繩山城の攻防戦で戦死した長男得能通俊の子孫は、桑村郡得能の地を領することを認められていますし、池内公通は、乱後も所領をもっていたようです。乱後の処分で、河野一族の所領がことごとく没収されたということはないようです。 
 しかし、河野一族は、所領53ヵ所、一族49人の領地が没収されてしまいます。その後、弘安四年(1281)の蒙古襲来において河野通有が戦功を挙げるまで、約50年間の没落期を送ることになります。
承久の乱で、一遍の父道広が罰せられなかったのはどうしてでしょうか?
通広は、兄通政らとともに西面の武士として朝廷に仕えていたようですが、病弱のためか承久の乱のころは郷里に帰っていました。これが難を免れる結果となります。彼は「別府七郎左衛門」と俗称されているので、浮穴郡拝志郷別府(現温泉郡重信町)に別府荘を所領としていたとされていますが、たしかな史料があるわけではないようです。

一遍は、河野氏の没落期の悲運の中で生まれます。
父の通広は、規模は小さいながらも所領を持つことは許されていて、一応の生活は保証されていたようです。しかし、本来ならば広い領地を持ち、固い同族結合で結ばれた惣領制の中で誇り高く生きるはずであった一遍の幼い日に映ったものは、一族の苦しい生活と過去を懐かしむ老人の姿でした。

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     法厳寺 この前にはいくつもの坊が建ち並んでいた
一遍の誕生地は、松山市道後湯月町の宝厳寺(時宗)とされています。
この寺は河野氏が大檀那で、父通広はこの寺の別院に住んで、 一遍ほか数人の子を育てたと云います。
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法厳寺山門
この寺には15世紀後半ころの一遍の木像(重文)が保存されています。一遍の肖像彫刻は、現存するものは数少ないために、貴重な資料です。宝厳寺の門前にはかつては、中央の道をはさんで右に六坊、左に六坊のあわせて12の塔頭が並んでいたと云います。最後まで残っていた林迎庵(来迎庵・林光庵とも)に祀られていたのがこの一遍木像だったと伝えられます。

一遍 木像
一遍木像
 この庵が通広隠棲の場所だったのかもしれません。一遍は宝厳寺の地で生まれたとされますが、父通広がここに住んだことも確かではありませんし、記録もないようです。

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一遍上人御誕生旧蹟碑(法厳寺の山門前)

ただ一族の得能通綱が建武元年(1334)に建てたと伝えられる「一遍上人御誕生旧蹟」碑があるだけです。もし、通広に承久の乱後も引き続いて、浮穴郡拝志郷別府(現温泉郡重信町)の別府荘が所領として認められていたのなら、そこに領主として居館を構えていたことも考えられます。後には還俗しているので、所領を持っていたと考える方が説得力があります。

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法厳寺(時宗)

母については『一遍上人年譜略』に「母は大江氏」と伝えるだけです。
大江氏は鎌倉幕府の有力な御家人で、もとは京都の学問の家系であり、一遍の母と伝える女性は大江季光の娘とも云われます。祖父通信が御家人として鎌倉幕府で重きを成していたときの婚姻関係なのかもしれません。一遍は、鎌倉幕府要人の大江氏の一族であったことは頭に入れて置いた方がよさそうです。承久の乱の際の通広の助命も、大江氏の働きがあったことは考えられます。
 一遍の幼名は松寿丸で、七歳にして継教寺の縁教律師に学びます。随縁と名づけられて学問に励んだと『年譜略』には記されます。継教寺は、宝厳寺近辺の天台寺院なのでしょうが詳しくは分かりません。10歳で母を失って、父の命によって仏門に入ったようです。
一遍を仏門に入れた父の思いを探っておきましょう。
直接の背景は、母の死だったと研究者は考えています。中世では所領を失った豪族が社会的な位置を保つには、出家するしかったようです。法然がそうでした。一遍の父通広には、わずかばかりの所領は残ったようですが、それも寺の別院に住んでいるようではたいしたものではありません。子供が数人いるうえにわずかばかりの所領では、行く末の没落は目にみえています。河野の一族としての誇りを保つため、子供たちを出家させねばならないと考えるのは、当たり前だったのかもしれません。こうして一遍は父の命令で出家し、法名を随縁と付けられます。そして13歳まで故郷の寺に住んでいました。
 一族の将来を思い、自分の行く末を思って、やがて建長3(1251)年、九州大宰府にいた僧・聖達のもとに送られることになります。
 これ以後の伝記は『一遍聖絵』に詳しく述べられています。

「建長三年の春、十三歳にて僧善入とあひ具し、鎮西に修行し、大宰府の聖達上人の禅室にのぞみ給ふ」

と13歳で僧善入と出会い、鎮西(太宰府)に修行にでることになります。これは、父通広のすすめと紹介があったようです。父は若い頃に後鳥羽上皇に仕えて都にいたころから、仏道への志厚く、西山派証空に教えを乞い、その弟子聖達や華台を知っていたようです。そのことが太宰府行きの決め手となったようです。

 一遍絵図 旅立ち
一遍聖絵 太宰府への出発
一遍が修学のため、太宰府へ出立する場面を描いたものです。

全体図から見ておきましょう。
①右側に大きな茅葺屋根の館が見えます
②その縁側に男女が座って、旅立つ 一遍を見送ります。
③その縁台の前に童を囲むように武士姿の男達が立ちます。
④縁側の奥には2人の女と女童が見送ります。
⑤彼方の道を3人が去って行きます。
 ①②③④の見送る側の人たちから見てみましょう。
一遍聖絵 旅立ち2
     一遍聖絵 太宰府への出発(拡大部 見送る人々)
一見すると「縁側から見送る父と母」という構図ですが、そうではないようです。一遍の母は、すでに亡くなっています。また父は、出家していますの僧姿のはずです。そうだとすれば、広縁の武将が叔父の通久なのでしょう。とすれば、その隣の朱の衣を纏うのが伯母になります。

一遍聖絵 旅立ち5
    一遍聖絵 太宰府への出発(拡大部 見送る人々その2)
しかし、よく見ると伯父は、甥の一遍には、目をやってはいないように見えます。視線は庭の童に向けられ、会話をしているようにも見えます。その前に立つ男達も、やはり一遍に視線を向けていません。これも庭の童の方を向いています。一遍よりも童に関心が向いているように私には見えます。別れを悲しんでいるようには思えないのです。
 なぜこうした構図にしたのでしょうか。不思議な構図です。
 その奥の広縁の角には頭巾姿の女が描かれています。
乳母ともいわれます。確かにこちらは、別れ悲しむ姿に見て取れます。二人の女達の間に女児らしき人物がいます。この人物については、制作途中で描き足されたものだと研究者は考えているようです。そうだとすると当然、それは絵師円伊の独断ではなく、制作責任者であり、発注者でもある聖戒の意向を受けたものとなります。
それにしても、なぜ加筆されたのでしょうか。この小童が一遍の妹であると考える研究者もいるようですがよくは分かわないようです。これも『聖絵』の謎の一つのようです。

  この館は誰の館なのでしょうか? 生家と云うけれども、叔父の通久の館なのではないでしょうか?
  承久の乱で軍功のあった五男通久は、久米郡石井郷(松山市)を与えられ「帰国」したことは、先ほど述べたとおりです。その居館からの出立姿を描いたものだとすれば、館の見送る人たちのそぶりのすげなさも腑に落ちてきます。また、父通信は法厳寺の別院に「間借り」状態だったことは先に見たとおりです。
一遍聖絵 旅立ち3
    一遍聖絵 太宰府への出発(拡大部 去りゆく一遍)
見送る人々の視線の先には、当時は「随縁」と名乗っていた一遍、
そして同行の僧善入の姿が見えます。この時、一遍は十三歳。
十歳で母を亡くし、父の命により出家のために生家を出立する姿です。詞書の割注には、父通広は出家して如仏と号したとあります。

一遍聖絵 旅立ち6

さて、黒い僧体の善入は振り向いて一遍(15歳)に何か話しかけているようです。どんな言葉をかけているのでしょうか。
①「さあ、さあ、後ろなど振り向かずに、さっさとお歩きなされよ」と、せきたてている
②「見納めになるかもしれません。しっかりと故郷の風景を目に焼き付けておかれよ」
③「さらなる修行のための旅立ちです。元気に参りましょう」
しかし、振り返る一遍は描かれていません。

絵図の中では館から見える位置ですが、ストーリー的には、一遍らは伊予灘を沿うように歩いているようです。つまり、館から遠く離れた場所まできているのです。このシーンは、宗教者一遍の門出を語る大切な場面になります。 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献



 
大山祗神社1

 大山積神社は芸予諸島の真ん中にあり、一番大きな大三島にあります。古来から瀬戸内海交易ルートのど真ん中にあるで、モノと人が行き交う流通ルートに位置していました。この神社の由緒は古く延喜式内社で、のちに一ノ宮と称せられ、明治時代には国幣大社となっています。この神社には、有名な武将たちが奉納した鎧兜・太刀等が数多くあります。その数量は国宝七点、重要文化財七四点に達し「刀剣・兜の宝庫」ともいわれます。平安初期から鎌倉・室町・戦国・江戸の各時代を通じての、逸品が時代を超えて納められています。
大山祗神社 甲冑1

例えば国宝に指定されている平安期のものを4つ挙げてみると、
①わが国最古の作品といわれる沢潟威鎧兜(国宝)
②源頼朝が寄進したという豪壮華麗な紫綾威鎧(平安末期の制作 国宝)
③源義経の奉納と伝える赤糸威胴丸鎧(平安末期、国宝)
④伊予の豪族河野通信の寄進にかかる紺糸威鎧兜(平安末期 国宝)
  武将が武具類を奉納した背景には、祭神大山祗神が海の守護神であるとの信仰があったようです。
「大山祗神社=大三島神社=海の神様」というイメージを私も、何の抵抗もなくうけいれてきました。しかし、考えて見れば、大山祗神そのものは山の神です。それが、なぜ海の神に「変身」したのでしょうか。そこには、神社をとりまくいろいろな社会事象があったようです。それを今回は見ていく事にします。

大山祗神2
 大山祗神は、もともとは山を祀る神
 この神社の祭神は大山祗神であって、大山積・大山津見とも書き、三島大神・三島大明神とも呼ばれました。今では大山祗と表記しますが、古くは大山積でした。『古事記』によると、大山祗神はイザナギ・イザナミの二神の子です。この神を同書および『日本書紀』の一書では山の神とし、また書紀の一書に火神の分神としています。大山祗とは山津持を意味し、山を持つ神すなわち山を掌る神としています。
大山祗神1
大山祗神
 また古事記では、伊井諾命が十拳剣カグツチ石神を斬った時、オド山津見神・奥山津見神・志芸山津見神・羽山津見神・原山津見神・戸山津見神らの山神が生まれたことを伝えます。本居宣長の説によると、大山祗神はこれらの山神を統轄する神であるとしています。
 ところが、天平二十年(七四八)までに編集されたと思われる『伊予国風土記』逸文のなかに大山祗神に関する異説が記載されています。そこには次のように記されます。

 宇知(越知)郡御島坐神御名大山積神、一名和多志大神也、是神者仁徳天皇御世、此神自百済度来坐而津国坐云々、謂御島者津国御島名也、
この本文のなかの「宇知」は「乎知」(すなわちのちの越智)の当字と考えられます。意訳変換しておくと、
越智郡の大三島に鎮座する大山祗神は、別名を和多志大神と称する。この神は仁徳天皇の時代に百済国から渡来して津国(伊予)に鎮座したという。御島とは伊予の島名である。

ここに書かれる津国の神社とは、式内社の三島鴨神社のことのようです。伊予以外に、由緒の古い三島神社は、伊豆国賀茂郡にもあって、同社の金石文によると天平二年に伊予国から勧請したと記されます。これらの三島神社が賀茂氏と関係が深いこと、また伊予国越智郡内に鴨部郷があるので、はじめは伊予国には賀茂氏の手によって勧進されたと研究者は考えます。
 越知氏が越智郡司となって権勢が強大になると、越智氏は大山祗神を氏神(一族の守護神)として祭祀するようになります。
 風土記逸文のなかに書かれた大山祗神の説話については、次のようないろいろな解釈があります。
その1 仁徳期の朝鮮半島遠征の際に、従軍した越知氏がもたらした説
しかし、仁徳期に、越智氏とよぶ強大な部族の出現は視られません。越知氏の存在が分かるのは7世紀になってからです。この説を研究者は次のように考えています。
「この説話は史実ではなく、恐らく風土記が編集されたころ、大山祗神が百済国から渡来したとの伝承が醸成せられていたのであろう。この説話の背景に、先進国家百済国と関係づけ、その評価を高めようとする考えがひろく存在していたことがうかがえる。」

  その2 越智直が百済救援軍に参加した伝承と深い関係があるとする説
『日本国現報善悪霊異記』のなかに、越智直が百済に出征した際、不幸にして唐軍の捕虜となり中国に拉致され、九死に一生を得て帰国した。朝廷ではその労苦をねぎらうため、彼の要望によって越智郡がつくられた旨を述べています。そこで、彼が帰国した事件を奇縁として大山祗神が百済から渡来したとの説話を生むようになったと解釈する説です。
   霊異記は弘仁十三年(812)に景戒の手によって編集された仏教説話集です。そのため大部分は因果応報物語で、資料的な信憑性について問題があるのは当然です。研究者達は次のように指摘します。
「この説話は史実として見るべきではなく、越智郡の創設された時期を推察する一参考資料として取扱わなければならない」

大山祗神が百済から渡来したとの説話を、霊異記と関係づけて伝承史料とするには、無理があるようです。
 仏教が伝わり、平安時代中期に神仏習合思想がおこり、日本の神々の本地は印度の仏菩薩であり、仏菩薩が衆生を救済するために神の姿で現れると説きます。
大山祗神は、どんな仏が神様に「変身」したものなのでしょうか?
伊予の豪族河野家で編集された『予章記』・『予陽河野家譜』等によると、大山祗神の本地仏は大通智勝仏としています。大通智勝仏は法華経化城喩品の中に登場する仏で、はるか昔に出世した仏となっています。
大通智勝仏
 大通智勝仏
大山祗の本地仏を大通智勝仏としたのなぜでしょうか? 
それは本社を祀った越智氏(のちの河野氏)が、自分の姓の越智すなわち「知慧に越ゆ」ことから出発して、仏教思想に結びつけたからのようです。また平安末期の河野通清・通信をはじめとして、その嫡子たちが名前に通の字を使用したのも、大通智勝仏にあやかったからでしょう。後世の記録ですが『北条五代実記』のなかには、このことについて次のように記します
 抑三島大明神卜申ハ 元来ハ伊予国二御鎮座アリ、(中略)本地ハ大通知勝仏ニテ御座ス、是二依テ彼御神ノ氏人伊予河野ノー門ハ、今二至テ大通ノ通字ヲ名乗トカヤ、越智ノ姓是也、

意訳しておくと
そもそも三島大明神は、もともとは伊予国に鎮座していた。(中略)
その本地仏は、ハ大通知勝仏である。ここにこの神の信者(氏人)の伊予河野ー門は、今にいたるまで大通の通字を名乗るという。越智の姓もそうである。
大通智勝仏の弟子達1
               大通智勝仏の弟子達

 大山祇神社の創建については、『予章記』などの郷土史料に次のような「創建説話」があります。

越智玉興が海路により伊予国に帰る途中、備後国の沖で飲料水の欠乏に苦しんだ時、霊験によって潮中に清水を得て、苦難をまぬかれた。そこで玉興はこの奇瑞を朝廷に報告し、勅宣によって大三島に社殿を造営し、大山積大明神と称した
 
創建説話とは別に、確実な史料によって本社の変遷をたどってみましょう。
『続日本紀』天平神護二年(七六六)四月の条に、大山祗神に神階従四位下と神戸五戸があてられています。
天平神護二年夏甲辰、伊予国神野郡伊曾乃神、越智郡大山積神、井授従四位下、充神戸各五戸、

この記事によってすでに奈良時代には本社が存在し、地域の尊崇をうけていたことが分かります。さらに大同一年(八〇六)に神封五戸があてられ(『新抄格勅符抄)承和四年(八三七)に明神に列しています(『続日本後紀』)。

大山祗神社3

 延長五年(九二七)に『延喜式』の編集が完成し、その神名帳のなかに、本社が国幣大社として記載されています。神名帳に登載された神社は、延喜式内社と呼ばれ、古くから朝廷の尊崇をうけ、祈年の頒幣に預かった官社でした。その中でも神祇官の祀る神社を官幣社、国司の祀る神社を国幣社と称しました。国幣社に指定されていたという事は、この神社が特別な厚遇をうけ、また国との関係も深かったことが分かります。
 天慶三年(九四〇)九月に封戸が施入されますが、これには藤原純友の乱討平の祈願がこめられていたようです。その後も幾たびかの火災に遭いながら現在の本殿および拝殿が再建されたのは、応永年間(一三九四~一四二八年)のことです。

大山祗神社2

さて、この神社を神仏混交時代に管理していたのはどのような人たちでしょうか
 この神社には早くから塔頭が置かれ僧侶が勤務していたことが『大山積神社文書』によって分かります。また大三島の『神原文書』からは、大三島の十六坊が16世紀初頭の文亀年間にはあったことも分かります。ここからも神仏習合の下に、社僧による神社の管理が行われていたことがうかがえます。そして社僧の多くは熊野系の山岳修験者であったようです。

越智氏の台頭と大山祗神社の関係は?
大山祗神社の保護者であった越智氏は、古代末期に風早郡河野郷に移住して河野氏と称するようになります。河野氏はどんな一族だったのでしょうか?また、どのような過程をたどって武士化したかのでしょうか。
 越智氏の出自については、古くからいろいろの説があります。
①孝霊天皇の子伊予親王から出た説(『予章記』・『予陽河野家譜』による)
②武内宿禰から出た説(一条院坊宮内侍原刑部卿家蔵本『河野系図』による)
③大山祗命から系統を引く説(『三島系図』および『水里玄義』による)
④伊予御村別の祖先である武国凝別命から出た説(『和気系図』・『与州新居系図』による)
 これらの説に対し考証がすすめられた結果、現在ではニギハヤヒ命から出た小致命の子孫とする説(『天孫本紀』・『国造本紀』による)が妥当なものと研究者達は考えているようです。
 越智氏は、はじめ伊予国の中枢部に位置する越智地区を本拠としていました。
『国造本紀』によると応神天皇の代に大新川命の孫の小致(おち)命が国造に任ぜられています。その後、越智郡が設置されると、その子孫は越智郡司に任命されます。したがって、越智氏は国造→郡司のコースを歩んだ地方豪族のようです。

 越知氏が郡司であったことを物語る史料は「正倉院文書」の「正税出挙帳」です。
これは天平八年(七三六)に伊予国から政府へ提出された正税に関する報告書で、次のように記されますある。
   郡司 越知直広国 主政越知東人
  「?」税穀「?」千伍栢弐拾肆餅玖斗陸升参合
  頴稲肆万伍仔陸俗五拾漆束捌把
  出挙壱万弐千束
  借貸壱万「?」
  「?」伍拾漆東捌把
この記録には、大領の越智広国と主政の越智東人らの名が見えます。さらに『続日本紀』の神護景雲一年(七六七)二月二十日の条によると、大領の越智飛鳥麻呂が「あし絹」および銭貨を献納した功によって、外従五位下に叙せられています。

神護景雲元年二月庚子、伊予国越智郡大領外正七位下越智飛鳥麻呂、献絶二百舟疋銭一千二百貫、授外従五位下。

当時は物資を献納して叙位されることはよく行われていました。ここからは越智氏が開発領主として大規模な農地経営に乗り出して経済的な成長を背景に位階を高めている様子がうかがえます。
 海賊討伐と越智氏の武士化
 古代律令体制の傾きとともに、瀬戸内には海賊が横行するようになります。伊予国も彼らの震源地となります。治安の維持のために警備増強が求められるようになります。しかし、海賊の横行は激しくなるばかりで官物を強奪し、人の命を奪うので瀬戸内海の交通も途絶えがちになります。『日本紀略』『本朝世紀』・『扶桑略記』等には、朝廷が各国府に対し山陽・南海の両道の海賊を逮捕するように命令し、諸社には海賊鎮圧の祈願をさせた記事が載せられています。
 このような中で伊予では、藤原純友が瀬戸内の海賊をまとめて、宇和郡日振島を拠点にして反乱をおこします。越智郡司であった越智氏も、政府の討伐指令に従って動いたはずですが、正史のなかにその名を見出すことはできません。
信頼できる史料によって、それ以後の越智氏の活躍を追ってみましょう。
『貞信公紀抄』によると、越智用忠が海賊の平定につくしだので、天暦二年(九四八)七月にその功労を賞するために、国衙から叙位を申請しています。
天暦二年七月十八日、伊予国申、越智用忠依 海賊時功、可叙位解文等、
令公輔朝臣奏之、加用忠貢書即還来、伝仰可被叙之状、
この海賊がどこのものであるかは解りませんが、純友の一軍だったものかもしれません。
また『権記』によると、長保四年(1002)に越智為保が伊予追捕使に任ぜられています。
 長保四年三月十二日戊申、(中略)伊予追捕使越智為保任符、
奉送前守許、依有彼守之所示、令労成也、
さらに『除目大成抄』によると、
治安三年(1023)に越智時任が大目に(『江家次第』)
永久五年(1117)に越智貞吉が大徐に任ぜられている(『除目大成抄』)
越智氏はもと武官ではありませんでした。しかし、在庁官人の地位を長く占める事で、中世の混乱かの中で在地土豪化し武装化するようになったようです。そして「海賊討伐」などを通じて地方の兵権に関わり、彼ら自身が武士集団化するようになります。当時の愛媛の在庁官人層は精神的な拠点として大山祗神社を重視し、その祭祀に務めていました。
大山祗神社6重文宝塔

 越智郡を本拠とした越智氏は、親清の代に風早郡河野郷に移ります。
そこで中世には姓を河野氏ともよばれるようになります。越智氏一族の移動した時期は、十二世紀の前半期のようです。河野氏は道前と道後との境にある髙縄山(986㍍)に城砦を築きます。
河野氏は武士団を結成するにあたって、越智郡から風早郡にわたる地域の中小領主層を多く従え、家臣団を組織していきます。その間、家臣による私有田経営も行なわれ、また荘園の開発も積極的にすすめられたようです。こうして河野氏一族の所領は、伊予国の各地域に拡大されていきます。
 一方河野氏は、引き続き大山祇神社を氏神として奉祀します。
また風早郡内の式内社である国津彦神社・櫛玉姫神社も尊崇します。これらの神社を本所とし、みずから領家となった荘園も出てきます。
大山祗神社5

  大山祗神は武士団の団結を誓う聖地へ
 源平の争いである保元・平治の二大乱(1156・1159)の結果、西国に根拠地を持つ平氏が源氏の勢力を圧倒して、一門の極盛時代を迎えます。河野氏は源氏に親しかった関係から、平氏の制圧をうけて失意時代を経験することになります。しかし、それも長くは続きませんでした。治承四年(1180)八月に、源頼朝が平氏討伐の兵をあげると、河野通清・通信父子はこれに応じ(『吾妻鏡』・『源平盛衰記』)高繩山城に兵を集結させます。
 さらに源義経が四国に上陸すると、その指令によって屋島・壇の浦海戦に舟師を率いて活躍しました。また義経の死後、頼朝は奥羽の藤原泰衡を討って、全国の統一をはかりますが、この奥州征伐に河野通信が従軍したことは『吾妻鏡』に詳細に記述されています。ここからは河野通信は頼朝に非常に近かったことがうかがえます。そのため河野家は頼朝亡き後の北条氏政権に素直に従えないところがありました。
 こうして上皇方に加担した河野氏は敗軍となります。
通信は伊予国に帰り、高縄山城によって抗戦しますが、幕府の征討軍によって陥落し、通信は傷ついて捕えられ、奥州平泉に配流されます。
 『築山本河野家譜』・『予陽河野家譜』には、承久の変のまえにして、通信は大山積神社に参詣し神託を請うたところ「幕府に応ずべし」とあったにかかわらず、神慮に背いて上皇側に味方したと書かれています。
 これは家譜の編者が承久の変における結果論から「創作した説話」とも考えられますが、その背後に大山祗神に対する崇敬心の厚かったこともうかがえます。

大山祗神社117

 承久の変によって、河野家は衰微の過程をたどります。これを再建したのは通信の孫通有です
彼は元寇で功績をたてます。通有は文永の役(1274)の後、幕命によって防衛のために九州に出動することになります。その際に『八幡愚童記』によると、大山祇神社に参詣し
「一〇年以内に蒙古が来襲しなかった場合、異国に渡って戦いを敢行する」
との起請文を神前に捧げ、これを焼きその灰をのんで武運の長久を祈願したという話を載せています。
 この後に、弘安の役(1281年)に通有は、博多湾内の志賀島の海戦に大きな功を挙げます(『八幡愚童記』・『蒙古襲来絵詞』)
 このエピソードからは、河野氏が大山祇神を深く信じていたことが分かります。
また河野氏にとって、大山祗神社が一族の精神的な精神的拠点であり、危機的事案が乗じたときには一族で、ここに集まり協議し、祈願したのです。そのため、この神社の神事費用は一国平均役として調達されたようです。これらの史実・伝承からは、河野氏が軍事的に海上に活躍する際には、お山の神様である大山祗神に海上の守護神の性格を習合していたことが見えてきます。

大山祗神社52

 長々と大山祇神社と越知氏(河野氏)の関係を述べてきましたが、ゴールにたどり着いたようです。武士化した越知氏、河野氏にとっては、戦いは海上戦を伴うものでした。そこでその戦いの勝利をもともとは「山の神様である大山祗神」に祈るようになったのです。
 こうして大山祗神社は、一族的な団結を図る聖地として機能すると同時に「海の神様」としての信仰を集めるようになったようです。

 

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