瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:治水技術の歴史

 川西遺跡3

 川西遺跡から河川の石積み護岸としては、国内最古のものが出土しています。川西遺跡は、国道192号を徳島市内西部の循環道として整備するための事前調査で見つかったようです。

川西遺跡4
              徳島市川西遺跡
位置は徳島市の眉山の南を流れる園瀬川が、その流れを北から東に変える川西地区です。現在の園瀬川は遺跡よりも南側を流れていますが、近世までもう少し北まで入り込んで流れていたようです。

上八万盆地の園瀬川の古流路
旧園瀬川の流路(青色) 川西で大きく東へ蛇行している
川西でU字に流れを変えるので、岸の浸食をおさえるために次のような護岸工事が鎌倉時代以後に行われてきたようです。

川西遺跡 護岸工事変遷


①第1段階 鎌倉時代から室町時代にかけて川岸斜面を東西45m、南北10mにわたり、重さ2kg程度の結結晶片岩(青石)で石積みして護岸。
②第2段階 13世紀に重さ15kg前後の青石をその上に積んで、補強。
③第3段階 13世紀後半に石敷き護岸上に直線状の築地状の石積護岸施行
④第4段階 14世紀中葉から砂礫が堆積した中洲に向けて、東西幅5m、南北の長さ15の突堤を設置し、川港化
⑤第5段階 14世紀後半に、築地状の石積護岸と、突堤の西側接合部分を水流から保護するために、縦杭・添え木・横木を組み合わせた複数の柵設置。
⑥その後も補強・増築が行われて、石積みに加え盛土をしたり、捨石と石留め杭で堅固化
ここで私が注目するのは、④の中洲に向けて作られた石積みの上に盛土で覆った突堤です。河川立地の遺跡で、このような突堤構造を採用する遺構は、中世以前には類例がなく、初めての出土になるようです。
 港湾施設が港に現れる時期を、再度押さえておきます。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀
③階段状雁木は18世紀
確かに「石積護岸 + 川港」としては、全国で最も古いものになるようです。
川西遺跡 船着き場

川西遺跡 船着き場2

ポイントをまとめると、
①河川の石積み護岸としては、国内最古の鎌倉時代の護岸施設。
②そこに室町時代に川湊が設置されたこと。
鎌倉時代から室町時代前半の約250年間にわたり、この地区を大規模な洪水から守ってきたことになり、現代の河川護岸の原型とも云えます。また、突堤状の遺構は、船着き場である川湊(=川津)であったと研究者は考えています。
 どうして、ここに整備された川湊が開かれていたのでしょうか
川西遺跡の石積み護岸施設の前の川跡からは、大量の木製製品が出土しています。
川西遺跡 木製品

 斎串(いぐし)や人形(ひとがた)などの祭祀具、将棋の駒、カタカナ文字が書かれた木簡、仏具「独鈷杵(どっこしょ)」の鋳型祈祷などです。その他にも漆器椀、折敷(トレーのようなもの)など食膳にかかわるものや、櫛、下駄、扇など装いにかかわるものもあります。呪術や祭礼に使われた土器は穢れを嫌い、そのまま川へと捨てたようです。そのため無傷なままの土器が大量に出土しています。木製品の中には製作途中のものや木屑もあります。ここからはこの遺跡周辺で、漆器椀などの木製品の生産工房や建築木材の加工場があったことが推測できます。
 木製品が大量に出土する場所は、鎌倉時代の西日本にあっては、寺院であることが多いようです。 それを裏付ける物として、寺院建築の存在をうかがわせる平安末期の軒平瓦や軒丸瓦も出てきています。

川西遺跡 瓦
12世紀末~13世紀前半の瓦 左流水巴文(?)

つまり、川西遺跡周辺に木工工房を持つような有力な寺院があったことがうかがえます。木製品の生産工房や建築木材の加工場を管理統括する寺院が、製品の出荷や原材料などの物資を集積するために、この川湊を築造したと研究者は考えています。以前に、讃岐大内郡の与田寺には増吽によって組織された工房があって、仏像や神像・版木を制作する一方、大般若経書写センターなども兼ねていたことをお話ししました。その工房とイメージがダブってきます。
    那賀川などのように、園瀬川流域でも木材が切り出され、河口に運ばれていたこと、その管理機能を持つ寺院が周辺にあったとしておきましょう。
川西遺跡 西光寺

その寺院とは、どんな寺院だったのでしょうか? 地元の村史には次のように記します。
①川西地区は「道成寺」や「大徳寺」という時期不明の寺があったと、
②近くに「西光寺」の地名が残り、バス停にもなっている。
③約2km東には、2002年に約3700枚の埋納銭(注1)が出土した寺山遺跡(徳島市八万町)がある。
④その近くには、平安末期創建の「金剛光寺」(注2)という大きな寺があったとされる。
④の「金剛光寺」について「八万村史」(1935年)は、次のように記します。
八万村史(徳島県名東郡)昭和10年刊復刻(八万村青年団編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
「境内の広きこと、上八万村の北方より下八万の西方にまたがり、園瀬川屈曲して境内を流れ……」
「七堂伽藍建ちてその宏壮(こうそう)美麗は丈六寺に拮抗せり」
寺山の西隣の小山には、平安時代に建立された金剛光寺があった。寺が栄えた鎌倉時代には境内に閼伽池(あかいけ)と称する庭池があった。この池が昔の園瀬川の流路の一部であったと云うのです。それが天正年間(1573~92)に侵攻した長曽我部元親に焼き払われたとされます。
 寺山遺跡と川西遺跡には、土器の出土状況などに共通点もあるようなので、金剛光寺の工房が川西にあった可能性もあります。

川西遺跡 石積み護岸2
川西遺跡 石積護岸
以上から、次のような仮説を出しておきます。
①鎌倉時代から250年間にわたって木材供給などで大きな利権を持っていた寺院があった。
②その寺院は川西に木工工房を持ち、そこで仏像や版木などが制作されていた。
③同時に、園瀬川の浸食を防ぐために石積護岸が作られ、背後にあった木工工房を護った
④室町時代になると、中堤防が作られ川港が姿を現す。
⑤これは、このエリアが河口と上流を結ぶ河川交通の中継地として重要な役割を果たしていたことを物語る。

以上からは阿波の川港には、室町時代には川西遺跡と同じような護岸と川港を持った施設が各地に姿を見せていた可能性があります。そして、その川港も瀬戸の港のように、寺院の管理下にあったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P
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 中世の絵巻に出てくる港を見ていると、護岸などの「港湾施設」が何も描かれておらず、砂地の浜に船を乗り上げていた様子がうかがえます。しかし、発掘調査からは石積護岸工事を行った上で、接岸施設を設けた川港も出てきているようです。今回は、宇治川太閤堤を見ていくことにします。テキストは「畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P」
 その前に法然上人絵図に描かれた湊を見ておきましょう。
鳥羽の川港.離岸JPG
                  鳥羽の川湊(法然上人絵伝 巻34第2段)
長竿を船頭が着くと、船は岸を離れ流れに乗って遠ざかっていきます。市女笠の女が別れの手を振ります。私が気になるのが、①の凹型です。人の手で堀り込まれたように見えます。この部分に、川船の後尾が接岸されていて、ここから出港していたように思えます。そうだとすれば、これは「中世の港湾施設」ということになります。しかし、石垣などの構造物は何もありません。この絵伝が描かれたのは、法然が亡くなった後、約百年後の14世紀初頭のことです。当時の絵師の鳥羽の川湊とは、こんなイメージであったことがうかがえます。
次は兵庫浦(神戸)のお堂の前の湊です。

高砂
   
海に面したお堂で法然で経机を前に、往生への道を説いています。法然が説法を行うお堂の前は、すぐに浜です。その浜に⑤⑥の漁船が乗り上げていますが、ここにも港湾施設は見当たりません。

兵庫湊
法然上人絵伝 巻34〔第3段」  経の島
 
馬を走らせてやってきた武士が、お堂に駆け込んで行きます。家並みの屋根の向こう側にも、多くの人がお堂を目指している姿が見えます。ここにも何隻かの船が舫われていますが、港湾施設らしきものはありません。砂浜だけです。
兵庫湊2

つぎに続く上の場面を見ると、砂浜が続き、微高地の向こうに船の上部だけが見えます。手前側も同じような光景です。ここからはこの絵に描かれた兵庫湊にも、港湾施設はなく、砂州の微高地を利用して船を係留していたことがうかがえます。手前には檜皮葺きの赤い屋根の堂宇が見えますが、風で屋根の一部が吹き飛ばされています。この堂宇も海の安全を守る海民たちの社なのでしょう。後には、これらの社の別当寺として、寺院が湊近くに姿を見せ社僧達によって湊を管理するようになります。そこから得る利益は莫大なものになっていきます。
私が気になるのが浜辺と船の関係です。ここにも港湾施設的なものは見当たりません。
砂浜の浅瀬に船が乗り上げて停船しているように見えます。拡大して見ると、手前の船には縄や網・重石などが見えるので、海民たちの漁船のようです。右手に見えるのは輸送船のようにも見えます。また、現在の感覚からすると、船着き場周辺には倉庫などの建物が建ち並んでいたのではないかと思うのですが、ここにもそのような施設もなかったようです。
  当時日本で最も栄えていた港の一つ博多港を見てみましょう。
博多湊も砂堆背後の潟湖跡から荷揚場が出てきました。それを研究者は次のように報告しています。

「志賀島や能古島に大船を留め、小舟もしくは中型船で博多津の港と自船とを行き来したものと推測できる。入港する船舶は、御笠川と那珂川が合流して博多湾にそそぐ河道を遡上して入海に入り、砂浜に直接乗り上げて着岸したものであろう。港湾関係の施設は全く検出されておらず、荷揚げの足場としての桟橋を臨時に設ける程度で事足りたのではなかろうか」

ここからは博多港ですら砂堆の背後の潟湖の静かな浜が荷揚場として使われていたようです。そして「砂浜に直接乗り上げて着岸」し、「港湾施設は何もなく、荷揚げ足場として桟橋を臨時に設けるだけ」だというのです。日本一の港の港湾施設がこのレベルだったようです。12世紀の港と港町(集落)とは一体化していなかったことを押さえておきます。河口にぽつんと船着き場があり、そこには住宅や倉庫はないとかんがえているようです。ある歴史家は「中世の港はすこぶる索漠としたものだった」と云っています。ここでは港湾施設が港に現れる時期を、押さえておきます。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀
③階段状雁木は18世紀
ここからが今日の本題です。発掘調査から出てきている①②の遺構を見ていくことにします。
宇治川太閤堤築堤
宇治川太閤堤
 秀吉によって作られた宇治川太閤堤です。
 文禄元年(1592)に、豊臣秀吉は伏見城の築城に着手します。この城は、当初は隠居所と考えられていたので大規模なものではなかったようです。それが文禄3年(1594)に、淀城を廃して、一部の建物を伏見に移築して本格的城郭として体裁を整えていきます。城下には宇治川の水を引き入れた船入も造成され、城下町が整備されています。そして8月には伏見城は完成し、秀吉は伏見に移っています。築堤工事は伏見築城と並行して行われていて、10月には前田利家が宇治川の付け替え工事を命じられているほか、織田秀信は伏見・小倉間の新堤を築堤し、宇治橋を破却しています。

宇治川太閤堤築堤2
宇治川太閤堤の石積護岸

 宇治川太閤堤築堤の目的は、次の2点です
①宇治川の治水ではなく、伏見港の機能を高めるためで、朝鮮半島への派兵を行うための水運の拠点を築くこと
②大和街道を伏見城下に移し、大坂と伏見を結ぶ京街道が整備し、伏見を水陸交通の要衝として機能させること
発掘調査地点は、宇治橋下流側の宇治川右岸300mにわたって続いています。
宇治川堤防1
宇治川太閤堤
護岸遺構からは川側に向けて「石出し」が4ケ所、「杭出し」が2ケ所突き出ています。
宇治川太閤堤築堤4
宇治川太閤堤築堤 石積み護岸
石積み護岸は、馬踏(天端)幅2m、敷(護岸底辺)幅が約5m、高さは2、2m。石積み護岸は上半の石張りと下半の石積みの2段構造です。簡単な整地後、板状の割石を直接張り付けただけです。

宇治川太閤堤築堤3

杭止め護岸は、杭などの木材を用いて垂直に岸を造る工法です。
杭止め護岸は上図3-2のとおり、かせ木・横木(頭押え)支え柱で構成され、裏側に拳から頭くらいの石が詰め込まれています。

 宇治川太閤堤築堤5
宇治川太閤堤は、石出で水流を弱めて護岸の侵食を防ぐ目的がありました。その下流の杭出しは、杭が何本も建ち並び、船着き場として使われていたようです。つまり、この工事は護岸工事であると同時に、船着き場設置工事でもあったようです。

宇治川太閤堤築堤 杭だし(船着場)
杭出し(船着場)復元
  中世から近世にかけての石材を用いた河川護岸施設の多くは、船着き場や物資の集積流通拠点だったと研究者は考えています。そのために巨額の資金と労働力が投下されたようです。
  宇治川太閤堤築堤 石出し

 また宇治川太閤堤の石出しの石垣には、城郭の石垣技術が援用されていることを研究者は指摘します。
城郭と治水・利水施設は目的は違いますが、技術は相互に援用されたようです。例えば、徳川家康の家臣で深溝(愛知県幸田町)を本拠とした松平家忠は、数多くの城普請を手掛けたことが『家忠日記』から分かります。その技術は、領地である永良や中島での築堤工事によって培われたようです。
 満濃池再築を果たした西嶋八兵衛が、若い頃は藩主藤堂高虎の下で二条城や大阪城の天下普請で土木工事技術を身につけていたのも、このような文脈の中で理解すべきようです。それが讃岐での治水工事やため池築造に活かされます。ここからは、築城と築堤が密に関係していたことを押さえておきます。

 宇治川太閤堤跡は、秀吉の伏見築城の付帯工事として着工された河川改修工事です。
そのため秀吉の命により配下の大名達が分担する「天下普請」でした。この工事の重要性は
①文禄3年という時期が分かること
②大名クラスの治水についての思想や技術が込められていること
つまり、時期と築造階層が特定できる点で、非常に重要な遺跡だと研究者は考えています。例えば、甲斐の信玄堤や、加藤清正による肥後での河川工事などの実態についてはよく分かっていません。具体的にどのような工事が行われたのかは、はっきりせず「俗説」が一人歩きしている状態だと研究者は指摘します。そのなかでこの宇治川太閤堤は、用いられた資材や施行内容までもが具体的に分かります。そういう意味でも、中世以来の治水技術の到達点であると同時に、近世の治水技術の出発点の指標となる遺跡です。同時に、川湊という視点からは、石積護岸化と川湊の関係が見えてくる遺跡とも云えます。
 次回は、宇治川太閤堤に作られた川湊の原点とも云える徳島市の川西遺跡の石積護岸を見ていくことにします。
川西遺跡3

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P」
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    吉野川 山川バンブーパーク
吉野川市バンブーパーク
 竹は根は浅いけれども、広く密に生えるので、洪水対策として土留め効果があるとされて、水害防備林として川筋に育てられてきました。阿波の吉野川の川筋には長く続く竹林が今でも数多く残ります。そのため河と竹林は古くから見られた光景のように私は思っていました。
 一方、竹材はその柔軟性を活かし、編みあげることが可能で、いろいろな工芸品として活用されてきました。そして、各種水防施設にも用いられてきたようです。今回は、水害対策に竹材がどのように利用されてきたのか、洪水対策として竹林がいつ頃から姿を見せるようになってきたのかを見ておきましょう。

治水技術の歴史 : 中世と近世の遺跡と文書(畑大介著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

テキストは、「畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P」です。

蛇籠1
蛇籠の制作
 竹材を編んで細長く筒状にし、その中に川原石を入れた蛇籠が使われてきました。
このルーツは中国にあり、世界遺産に登録されている都江堰(四川省)紀元前3世紀)が築造された時に、はじめて用いられたとされています。
四川省の旅2004/都江堰編
都江堰(四川省)の蛇籠

蛇籠が我国に伝来したのは、いつ頃なのでしょうか? 
 古事記に蛇籠に相当する「荒籠」がみえるので、早くから伝わっていたとされてきました。しかし、古代の遺跡から蛇籠が発見された例はないようです。ここからは、古墳時代頃に伝来して、古代には日本国内で広く用いられるようになったとは云えないと研究者は考えています。
蛇籠3

それでは、蛇籠が確認できる史料はなんなのでしょうか?

富士川 船橋
富士川の舟橋(一遍上人絵伝)
『一遍上人絵伝』の富士川に渡された船橋の綱の右方は、蛇籠に固定されているように見えます。しかし、中世でも発掘調査で蛇籠が確認された事例はないようです。蛇籠が確認されるのは、戦国時代になってからです。永禄5年(1562)の穴山信君判物写に「籠」とあるので、戦国時代に甲斐国では蛇籠が使用されていたことは確かです。近世になると農書、地方書、定法書、川除普請仕様帳などから蛇籠は、広く普及していたことが分かります。蛇籠は寛永4年(1627)の吉田光由『塵劫記』に登場します。ここからは、江戸時代の早い段階ですでに知られていたことが分かります。

蛇籠 霞堤
かすみ堤に使用されていた蛇籠
「かすみ堤」などの山梨県内の堤防発掘調査では、江戸時代の蛇籠が確認されています。以上から蛇籠の一般的な使用は戦国時代になってからであり、中世後半までは一般的ではなかったと研究者は考えています。
蛇籠2
堤に用いられた蛇籠

次に治水対策として竹林が育てられていた事例を見ておきましょう。
長者舘門前 粉河寺縁起
板壁の内側に竹が植えられている(粉河寺縁起 長者屋敷)

  粉河寺縁起の長者(武士統領)の舘の周りには、竹が植えられているのが見えます。堀に面した塀沿いに、敷地を護るためと、弓矢の矢の作成材料として、武士の舘に植えられていたことが、絵巻物は描かれています。
 竹材が実際に護岸施設に用いられていた事例としては、次のような所があります。
①奈良県大和郡山市の本庄・杉町遺跡の河川護岸(図10)
②東京の汐留遺跡の大名屋敷の土留め竹柵
杉町遺跡の河川護岸

しかし、これらの事例は近世になってからです。中世に、河川沿いに竹が植えられた事例はないようです。それは、竹の全国普及への時期と関連します。
沖浦和光氏は、竹の普及について次のように記します。
①古代から中世初頭にかけては、温暖な南九州を除いて竹林は全国的には広がっていなかった
②竹林の造成技術が各地に伝わり、竹がいろいろな分野で用いられるようになったのは南北朝時代以後
③室町時代後半になって、治水灌漑のための竹林の造成が盛んに行われるようになった
つまり竹林の全国的普及は、南北朝以後ということにまるようです。竹は、古代からどこにでもあった身近な植物ではないようです。いまは里山では、竹藪が放置され、周りの山々を浸食して大きな問題となっています。私の家の竹藪も、すべて切り払って櫻を植えて、竹藪から山桜の山へと転換中です。このような讃岐の竹藪も、近世からあったわけではなく、明治以後に作られた景観のようです。我が里の「佐文誌」を読むと、大正時代に他所から持込、移植した竹が竹藪として拡がったことが分かります。現在の竹藪に囲まれた景観も百年前にスタートして、高度経済成長の時代にタケノコ景気の時代に急速に面積を拡げていったようです。竹と讃岐の里が結びついたのは近代になってからでした。それ以前は、以前にお話したように里山は「刈敷山」として、肥料のための草木刈りのための重要資源供給地でした。そのためタケノコなどは植えられなかったようです。竹藪が讃岐の里山に広がり始めたのは百年前からだったことを押さえておきます。
じゃかご・ふとんかご・特殊ふとんかご|金網の株式会社伊勢安金網製作所
現在の蛇籠
以上、竹材活用の歴史をまとめておくと
①古代では『竹取物語』の竹取翁に象徴されるように個人の手工的生産が中心
②鎌倉時代になると生活に身近な井戸の材料として使用されるようになり
③戦国時代頃になると治水工事で蛇籠が用いられ
④近世になると多量の竹材が護岸施設にも使用されるようになる。
蛇籠の普及も、この流れに沿うもので、伝来と普及は時期を分けて考える必要があると研究者は考えています。竹は古代から身近にあったものではないこと、竹は外来植物で九州から次第に生育エリアを拡大したことを押さえておきます。

防災と環境を両立する「蛇籠技術」の普及に向けた機関横断型の取り組み | SCENARIO 社会課題の解決を目指して
蛇籠
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P

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