瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:泉田の高灯籠

   
箸蔵寺高灯籠7
                  箸蔵寺ロープウエーと高灯籠
 箸蔵寺へは1970(昭和45)年にロープウェイが出来るまでは、山門下からリフトが庫裡まで伸びているだけでした。ここは自動車参道の終点で、駐車場もあり、旅籠や食堂・土産屋が並び賑わっていました。しかし、下からのロープウエーが出来ると、ここは空中を素通りするだけで、参拝者が訪れることもなくなってしまいました。そのため宿や店も閉じられ、今では、駐車場にロープウェイの柱脚が立っています。しかし、ここからは吉野川流域の素晴らしい展望が拡がります。この辺りは「カザミノ丘」と呼ばれて。かつての名勝でもあったようです。

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        箸蔵寺カザミノ丘からのJR土讃線の吉野川橋梁と高速道路の橋
                   
 箸蔵寺高灯籠は、吉野川流域を眺望するカザミノ丘に建つ木造二重の大型灯籠です。下に流れる吉野川や流域一体を一望できる所にあります。大正5年(1916) 刊の「箸蔵村誌」には「何時も夜燈を燈す」と記し、十数㎞先からも明るい灯りが見えたと云います。「この燈籠は吉野川を行き来する川船の目印(標識)として使われていた」とする説もあります。ただ、燈籠や燈台は、人や船を安全に導くだけではありません。毎夜灯る高燈籠の灯りは、地域のシンボルでもあり、人々の信仰を箸蔵寺へと導くモニュメントでもあったと私は考えています。今私たちが考える以上の役割と機能をこの高灯籠は持っていたのではないでしょうか。

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箸蔵寺高灯籠
 それでは高灯籠は、いつ姿を見せたのでしょうか。
高灯籠上層の壁隅に打たれている棟札には、明治17年(1884)建立と記されています。この年代記事を、幕末から明治にかけて勧められた伽藍整備年表の中に入れてみます。

箸蔵寺伽藍整備年表

この年表からは、次のようなことが読みとれます。
①1826年に、箸蔵寺では伽藍焼失し、再建が勧められた。
②1854年に、最後に本殿に着工し、明治維新までには本殿が完成した
③その後、明治になってカザミノ丘に山門が土佐から移築され、護摩堂や本殿への参道が整備された
④その一環として、讃岐の金刀比羅宮の高灯籠に模した建築物が造営された。
つまり、幕末に上部の伽藍が出来上がると、明治になって参道入口に山門が建てられ、参道整備が進むと同時に、賑わい造り創出やシンボルタワーとして、この高灯籠が姿を現すようになったことがうかがえます。
箸蔵寺高灯籠8
高灯籠の様式やデザインについて、報告書は次のように記します。
①初層方三間四方(3,5m四方)、中層方二間、上層方一間
②初層の正面には一間の唐破風向拝を付ける。 
③建物用途は火を灯して灯台の役目なので、室内装飾はなく簡素な仕上げ。
④袴腰を付けた初重は中層とし、上部は漆喰塗り、下部は本来は板張りであったが現在は鉄板。
⑤向拝と初重柱頭部のみに組物や彫刻使用
⑥屋根は全てに桟瓦を用いており、軒裏は初重が扇垂木を組み、二重は二軒の角繁垂木とする
⑧明治期の建築らしく、中層部の壁全面に筋違を使用。
⑨風が強いところに建つので風圧に備えて土壁 (芯壁)
⑩軒裏や火灯窓などに禅宗様式を取り入れた建物

この建物は周囲によく生えたでしょうし、夜に灯りが灯されれば宗教的な意味を持つ存在になったことでしょう。これに先駆けて造られたのが金刀比羅宮の高灯籠です。

金刀比羅宮 高灯籠
金毘羅大権現の高灯籠

金毘羅大権現の高灯籠
           金毘羅大権現の高灯籠の寄進募集のちらし
金毘羅大権現の金光院に次のような願いが提出されるのが、明治維新を目の前にした慶応元年(1865)のことです。
寄付状の事  一 高灯龍 壱基
 右は親甚左衛門の鎮志願いニ付き発起いたし候処、此の度成就、右灯龍其れ御山え長く寄付仕り者也、依って件の如
      讃岐寒川住  上野晋四郎  元春(花押)
      慶応元年    乙丑九月弐拾三日
 これは、高灯籠の寄進を願い出たものです。願主の上野晋四郎は、寒川郡の大庄屋を務めていた人物です。しかし、この寄付は上野晋四郎一人によるものではなく、寒川郡全体の寄付でした。特に、当時好景気に沸いていた砂糖産業に関わる人たちからの寄進が多かったようです。建設資金は3000両とされます。これより前の金堂が30000両でした。
琴平に現れた高灯籠を見て、阿波箸蔵寺の修験者たちは同じような高灯籠を整備が進むカザミノ丘に建てようとしたのではないでしょうか。デザインもよく似ています。

箸蔵寺の高燈籠 煙草・水運関係者
箸蔵寺の高灯籠(右)と山門(左)
こうして山門と高灯籠が並び立って、箸蔵寺の入口周辺が整備されていきます。それが参道で、護摩堂や本殿とむすばれます。今度は、その参道整備が課題となっていきます。ここに玉垣や燈籠がならび、参道は石で白く輝く境内へと変身していきます。
箸蔵寺の高灯籠を眺めていて思い出したのが、四国中央市新宮町上山の安楽寺の近くにある泉田の高灯籠です。
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                     泉田の高灯籠
まるで燈台のようですが、ここからは海も川も見えません。どうして、ここにこんな灯籠が建てられたのでしょうか。これは「金毘羅 → 箸蔵寺 → 安楽寺」という流れがあるのではないかと私は考えています。確かに金毘羅の高灯籠は、沖ゆく船の燈台の役割を果たしたかもしれません。しかし、夜も航海するのは少数でした。それに対して、箸蔵寺は海は見えません。川船を導く燈台の役割を果たしたとされますが、座礁の恐れがあるので夜に行き来する川船はほとんどなかったようです。箸蔵寺の高灯籠が川船の安全のために建てられたという説には、私は疑問を持っています。そして、次のようなことを考えています。
①尾根の先端部に建つ高灯籠は、「私たちの心の支えとなるお寺(安楽寺)があるのは、あの方向だ、灯りが今日も灯った、神と仏に感謝して合掌」という信仰に灯りをともす役割。
②箸蔵寺や安楽寺の存在証明のためにソラの高灯籠は建てられた。
③船のための燈台と云うよりも、ソラの集落の人々の心の燈台の役割を果たした

それでは高灯籠が姿を見せるようになったのは、いつころなのでしょうか?
高灯籠のルーツは、大阪の住吉神社にあるようです。

長谷川貞信(初代)『浪花百景之内 住吉高灯籠』
     長谷川貞信(初代)の『浪花百景之内 住吉高灯籠』(幕末から明治初年頃)
大阪住吉神社の高灯籠 大正時代の絵はがき
住吉神社の高灯籠(大正時代の絵はがき)
  住吉神社の社前には、白砂青松の美しい海岸風景(住吉津)が広がっていました。住吉高灯籠ももともとは、住吉大社の常夜燈ですが、次第に航路標識としての役割が増大していきます。とくに大阪湾の潮流が激しい難波津に比べ、穏やかな海の住吉津は、海上交通の要衝となり、江戸時代になると夜間の航行を守る灯台としての役割が強くなります。 住吉公園の中央を東西に走る「潮掛け道」は、もともとは住吉大社の表参道で、鎌倉時代に創建された初代の高灯籠は「日本最古の灯台」として、ここに建っていたようです。琴平の高灯籠が、これをモデルにしていることがよく分かります。こうして、住吉神社モデルの高灯籠が瀬戸内海の港町には姿を見せるようになります。

御手洗の高灯籠
御手洗の高灯籠(呉市 大崎下島)
 瀬戸内海の風待ち港として栄えた大崎下島の御手洗(みたらい)にある石造りの高灯籠です。天保3(1832)年に北前船などの航行安全を祈って千砂子波止の突端に造り替えられています。金毘羅に約30年あまり先行します。

鞆の常夜灯
              鞆(福山市)の常夜灯
 鞆は、御手洗に遅れること約30年後の安政6年(1859年)に建てられています。港の常夜灯としては日本一の大きさ(海中の基礎から最上部の宝珠まで約11〜12m)です。

敦賀の日本最古の高灯籠
庄山の高灯籠(敦賀市)
敦賀市の観光ホテル前庭に建つ高灯籠は、享和2年(1802)に建てられた現存する日本海側最古の石積み灯台です。底辺2.3m四方、高さはおよそ7.5m。茶町(現:川崎町)の船問屋・庄山清兵衛が自邸の一角に建てたことから「庄山の高灯籠」とも呼ばれています。沖ゆく北前船を港に誘引する効果があったのかもしれません。

高燈籠変遷

 このような港への高灯籠建設が、「海の神様」としての信仰を集めつつあった内陸部の琴平に建てられ、それがさらに明治になると箸蔵にも伸びていくということになるようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
追記 高灯籠は蔵谷巌窟への入口でもあります。
高灯篭の横の木の鳥居をくぐり、参道を下っていくと約20分ぐらいで丸木橋が見えて来ます。それ渡るとお堂があります。ここが弘法大師が金毘羅大権現から寺院を建立するように誓願された場所とされているようです。修験者たちにとっては、聖なる行場であったことになります。

箸蔵寺 東の堂「蔵谷厳窟」2
箸蔵寺
 蔵谷巌窟

箸蔵寺奥の院 蔵谷権現を祀る
蔵谷巌窟に祀られる金毘羅大権現
参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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伊予新宮上村のハゼ
 熊野行者の痕跡と庚申塔を求めて、阿波山城から伊予新宮へのソラの集落めぐりを続けています。その中で出会った新宮の木造校舎を2つ紹介したいと思います。ひとつは、四国中央市新宮町上山の安楽寺を目指せして原付スクーターを走らせていた時に出会った校舎です。
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           伊予新宮上村の寺内
あじさいの里から天日川沿いに森を抜けて行くと、棚田が現れ、収穫の終わった稲藁が「ハゼ」にして干されています。コンバインで刈り取ってしまう中では、もう見られなくなった風景がありました。すこしワクワクしながら坂を登ると、突然現れたのがこの建物です。
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旧寺内小学校
門碑には「寺内小学校」とあります。安楽寺の「寺内」という名称なのでしょう。バイクを下りて、運動場から拝見させていただきます。

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旧寺内小学校
石垣の上に赤い屋根の校舎が長く伸びます。教室が6つあるようなので、1年生から6年生の教室が一列に並んでいるようです。里山の緑と赤い屋根がよく似合います。
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旧寺内小学校
正面に廻ってみます。校舎のすぐ裏側を町道が抜けています。
はい忘れ物やで、と母親が道路側の窓から忘れ物を渡すようなシーンが思いかびます。
グーグルで見ると「新宮少年の家 寺内分館」と記されています。今は、少年の家の施設として使われているようです。手入れも行き届いています。
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こんな素敵な雰囲気の中に身を置いていると、ここで子ども達が元気に活動していた頃のことを、想像せずにはいられません。しばし、いつものようにボケーとしていました。
ここを訪ねたのは、この上にある安楽寺にお参りするためです。

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安楽寺
山門の向こうに本堂が見えます。
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安楽寺本堂
近づいて気づいたのは、軒下に一面の彫刻があることです。何が彫られているのでしょうか?お参りを済ませた後に、拝見させていただきます。
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軒下に彫られた雲龍

龍と雲です。四方の軒下を龍がうねっているのです。
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東側軒下
ゆっくりと四方をめぐって、龍の動きを見ます。
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正面
宮大工の真剣さと遊び心が随所に感じられます。この時の宮大工は、楽しみながら彫っているのもよくわかります。腕が進みすぎて怖かったのではないでしょうか。
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説明版を見てみると、幕末の作品(1854年)のようです。住職からの依頼に応えたのか、自ら申し出て住職が快よく許したのか、持てる力を存分に発揮しています。決して精緻で技術的に高いとは云えないかも知れませんが、その表現意欲は伝わってきます。見ていて気持ちのいい作品です。こんな思いもかけない「宝物」に出会えるので、ソラの集落の寺社めぐりは止められません。縁台に腰掛けて、のんびりと雲龍を眺めてポットに入れたお茶を飲みます。私にとっての「豊かな時」です。
 ちなみに後日、この軒下のレリーフの「手本」と考えられているのが金毘羅宮の旭社だと知りました。
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金毘羅の旭社は、金光院の金堂として総工費2万両で1845年に完成しています。当時は、西日本では大きな金堂とされました。二階の軒下を拡大して見ます。

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ケヤキの大きな板一枚一枚に渦巻き文様が彫られています。この軒下の彫り物が、この金堂の特徴でもあるようです。
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これを見た安楽寺の住職が依頼したのかもしれません。金毘羅大権現という四国の寺社の文化発信地の流行を、機敏に受けいれて取り入れたことが考えられます。

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さて、本来の業務に戻ります。庚申塔捜しです。本堂の前には、いくつものお地蔵さんなどの石仏が並んでいます。しかし、ここにはありません。
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本堂前の庚申塔(一番右側)

ありました。境内の一番外れになります。
庚申塔は、青面金剛が三猿の上に立つ姿が刻まれています。
 青面金剛が邪鬼を踏みつけ、六臂で法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で、頭髪の間で蛇がとぐろを巻いていたり、手や足に巻き付いています。また、どくろを首や胸に掛けたりもします。彩色される時は、青い肌に塗られます。青は、釈迦の前世に関係しているとされます。そして青面金剛の下には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像がいます。

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安楽寺の庚申塔

 庚申塔があるということは、ここで庚申の夜に、寝ないで夜を明かす庚申待が行われていたことになります。60日に一度訪れる庚申の日に、集落の人達が庚申待をおこなっていた証です。今は、地蔵さんに主役を奪われていますが、2ヶ月に一度やって来る庚申待は、集落にとっては大きな意味のある行事でした。ここで光明真言が何千回も唱えられ、その後にいろいろなことが語られ、噂話や昔話なども伝わっていったのです。

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隣の泉田集落の庚申塔

 この庚申信仰をソラの集落に広げたのが修験者たちだったと、私は考えています。
修験者たちは、庚申講を組織し、庚申の日にはお堂に集い光明真言を唱える集会をリードすることを通じて、集落そのものを自分の「かすみ(テリトリー)」としていきます。こうして修験者たちの密度が高かった西阿波や伊予宇摩地方は、今でもお堂が残り、その傍らに庚申塔も立っていることが多いのです。安楽寺にも庚申塔はありました。
 では、讃岐ではお堂や庚申塔をあまり見かけないのはどうしてでしょうか?
それはひとつには浄土真宗の広がりと関係あると私は思っています。浄土真宗は、他力本願のもと六寺名号を唱えることを主眼としますので、庚申待などは「邪教」として排除されます。二つ目には、金毘羅大権現の金光院文書を読んでいると、庚申講を規制する布令が何度も出されています。つまり、丸亀平野では、庚申信仰の広がりを妨げる信仰圏があったのではないかと私は推察しています。

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安楽寺の隣の茎室神社
安楽寺の隣には、大きな銀杏と拝殿が見えます。道一つ挟んで神社が鎮座しています。
立派な拝殿です。後にまわりこんで社殿にお参りします。

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近代以後のものでしょうが、手の込んだ細工が施されています。社殿の周囲にはいくつかの小さな摂社が並びます。

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この神社と安楽寺の今に至る経過を、私は次のように推測します。
①吉野川沿いに張り込んだ熊野行者が、この周辺の行場で修行を行い、定着してお堂を構えた。
②谷川の水量が豊かな土地が開かれ、そこに神社が勧進され、周辺の郷社へ成長した。
③有力な修験者が村から招かれ、安楽寺が建立され、神社の管理も行う神仏混淆体制が形成された。
④安楽寺の歴代住職は密教系修験者で、「熊野信仰+修験道+弘法大師信仰」の持ち主でもあった。
⑤彼らは代々、三角寺や雲辺寺、萩原寺などの密教系寺院とのつながりを保ち、大般若経写経などにも関わっていた。

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こんなことを考えながら「寺内」の里を離れました。岡の上から振り返ると、お寺と神社と学校が合わさった場所であることが分かります。小学校をどこに建てるのかは、地元の関心が高く政治問題化します。その中で宗教的・文化的な地域のセンターであった寺内が選ばれたのでしょう。郷社的な地域の中核寺院のそばに小学校が建てられているというパターンは、ソラの集落ではよく見かける光景です。
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寺内地区の上は、茶畑と白壁の家
 これで寺内ともお別れだと思っていると、もうひとつ驚きが用意されていました。
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泉田の高灯籠
目の前に現れたのがこの建物です。まるで燈台のようです。今まで見てきたソラの灯籠の中では、最大のものです。どうして、ここにこんな大きな灯籠が作られ、灯りを灯したのでしょうか。それは、ソラの集落の燈台の役割を果たしたのではないでしょうか。寺内はお寺があり、神社のあるところですが谷状になっていて、外からはよく見えません。
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泉田からの眺望
しかし、ここは尾根の先端部で周囲からはよく見えます。「心の支えとなるお寺と寺院があるのは、あの方向だ、灯りが今日も灯った、神と仏に感謝して合掌」という信仰が自然と湧いてきたのかもしれません。

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泉田の棚田

 ちなみにこの上には、和泉集落のお堂があり、庚申塔もありました。泉田集落の人々の心を照す燈台だったのかも知れません。
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ここにも刈り入れを終えたばかりの藁束が吊されていました。
こんなことを繰り返しながらソラ集落めぐりを原付バイクで行っている今日この頃です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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