瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:法勲寺

前回はまんのう町吉野の大堀居館跡について、次のようにまとめました。

大堀居館と潅漑施設

大堀居館5
大堀居館跡の位置
丸亀平野の中世武士の居館跡について、何度か取り上げてきました。しかし、居館跡を広い視野から位置づける視力が私にはありませんので断片的なお話しで終わっていました。そんな中で出会ったのが「佐野静代 平野部における中世居館と灌漑水利 在地領主と中世村落  人文地理第51巻」です。歴史地理学の立場から中世の居館跡の水堀が灌漑機能をもち、そのことが居館の主人の地域支配力を高めたという話です。何回かに分けて、ここに書かれていることを読書メモ代わりにアップしておきます
①鎌倉期の『沙汰未練書』には次のように記されています。
「御家人トハ、往昔以来、開発領主トシテ、 武家ノ御下文ヲ賜ル人ノ事ナリ」
「開発領主トハ、根本私領ナリ」 
ここから開発行為こそが、御家人(在地領主)の土地所有権の最大の根拠だとしています。そして、領主による開発と勧農を重視しています。讃岐の場合には、絶えず水の確保が大きな課題となります。水の支配権こそが領主支配の根源になっていました。中世の場合は、武士の居館が灌漑用水支配の拠点になっていたと研究者は考えています。

Aまず「館」と「城」の違いを押さえておきます。
 居住機能と戦闘機能のどちらに比重を置くかがポイントにすると、次の3つに分類できます。
A 平時の居住に重きをおくものを「居館」
B 戦闘機能に重心をおくものを 「城」
C その双方の要素を含むものを総称して「城館」
中世は、平常時の居住地としての平野部の居館と、戦闘時の詰城としての山城とがセットになっていたとされています。ここで取り扱うのはAの平時の居住空間としての平野部居館です。

飯山国持居館1
武士の平野部の居館モデル 水堀で囲まれている

中世の平野部居館の特徴の一つは、水堀で囲まれていることです。
空壕や土塁という選択もあったはずですが、水を巡らせたことには、なんらかの意味があったはずです。その理由として考えられるのは
 ①防御機能の強化
 ②低湿地 にお ける排水機能
 ③農業用水への利用
 ④舟運利用 
①の機能は当たり前です。ここでは③の用水支配の関係を見ていくことにします。中世居館は、方形館とも呼ばれるように、水堀で囲まれたその敷地が方形です。 この方形が条里地割に規制されたものが多いことは、丸亀平野の中世居館で以前にお話ししました。方一町の館の場合は、条里地割の坪界線に沿っていて、居館の主人は条里地割型耕地の開発と深く関わっていたと研究者は推測します。

条里制 丸亀平野南部 大堀居館跡
丸亀平野南部の条里制 吉野は条里制成功エリア外である。
 条里地割がいつ行われたかについては、丸亀平野の発掘調査からは7世紀末に南海道がひかれ、それに直行する形で条里線ラインが引かれました。しかし、古代に条里制の造成工事が行われたのはごく一部で、大部分が未開発地域として放置されたことも分かっています。開発が進むのは平安時代後期や中世になってからです。土器川や金倉川の氾濫原が開拓されるのは近世になってからだったことは以前にお話ししました。
荘園制内部の在地領主の勢力実態を知るために、居館の規模を見ておきましょう。
家には、そこに住む人の経済力が反映します。居館の規模は、階層差ともとれます。方形区画の規模については、次の2種類があります。
A 方一町のもの
B 半町四方のもの
Aは地頭クラスの居館、Bは村落の公文や土豪層の居館と研究者は考えています。
大山喬平は、荘園的土地所有をめぐる在地での支配階級として、次の二階層があるとします。
C  荘域を管掌する地頭・下司層=在地領主
D  村落を支配対象とする公文層=村落領主
これは、先に見たA・B]の居館規模の階層差と一致します。一括りに「在地領主」と呼ばれてきた領主にも「荘 園」と「村落」という二重構造 に対応した二種の領主階層があったことがうかがえます。 在地領主と村落領主を、居館規模から分類して、それぞれの役割を考える必要があるようです。

それでは「吉野大堀殿」の居館は、どうなのでしょうか?
①堀・土塁の規模は、南北約170m、東西110m
②堀跡は幅8~10mで、周辺田地との比高差は40~50cm。
ここからは吉野大堀殿の居館は、A・Cの1、5倍で、地頭・下司クラスよりも広いことが分かります。村落規模を超えて大きな力を持っていた「在地領主」であったことがうかがえます。
次に 水利開発の拠点としての中世居館の研究史を整理しておきます。 
A 小山靖憲は、在地領主の勧農機能を説き、「中世前期の居館の堀は農業用水の安定化のためにこそ存在した」と指摘
B 豊田武は「農村の族的支配者としての武士像」を次のように描いた
①用水統御機能を持つ居館を拠点に水田開発が進めらた。
②そこに「領主型村落」が形成され、
③その結果、郡郷内の村々に一族庶子を配置して開発を推進していく「堀ノ内体制」論が展開
東国をフィール ドとして作り上げられたこの2つの理論は、鎌倉期の西遷御家人の西国での開発に対しても適用され、一時は中世前期の在地領主と開発をめぐる「公式」になります。こうして文献史学の立場から「領主型村落」論が示されます。
 ところがその後に中世居館遺構の発掘調査が進むと、考古学の立場から次のような反論が出てくるようになります。
1987年以降の関東での発掘調査の成果から、橋口定志は次のように述べています。、
①12・13世紀の前期居館は周囲を溝で区画したにすぎず、 灌漑機能を持つ本格的な水堀を備えた方形館の出現は14世紀以降であること、
②史料に出てくる「堀ノ内」は領主居館を指すとは考えられないこと
この指摘により中世前期居館の水堀の灌漑機能は否定されます。それを根拠とする 「領主型村落」
論は、根底からの再検討を余儀なくされます。これを承けて「領主型村落」と「堀ノ内体制」論を問い直す試みが始まります。
そのような中で海津一朗は、領主的開発の原動力を次のように説明します。 
①東国領主の堀ノ内は交通路に面した村落と外界の結節点に位置する
②そこに市や宿が建てられ町場が形成され
③そこを基地として、都市と連結した経済活力が新田開拓につながる
④それが「領主型村落」の祖型となる。
 ここでは灌漑力ではなく、交通路の関係が重視されるようになります。 特に前期居館の灌漑機能が否定されて以降、 農業経営以外の要因で居館の立地を説明しようとする傾向が強くなります。これは初期武士団を農業経営よりも、むしろ都市的な富の再分配に大きく依存していた存在とみる見方と重なり会います。
 しかし、「水堀をめぐらす居館は14世紀以前には存在しなかった」という結論に対して、近畿を中心とする発掘調査が進むと反論が出るようになります。
近畿でも和気遺跡・長原遺跡などの中世前期にさかのぼる居館水堀の遺構が出てくるようになります。これらの分析から水堀をめぐらせた居館が12世紀後半には、出現していることが分かってきました。
しかし、12世紀の前期の水堀については、次のような意見の対立があります
A 長原遺跡の水堀は「初期館においては防御を主目的とするものではなく、田畠への水利を目的とするもの」
B 居館水堀の埋土分析から流水状況が認められないとして、水田をうるおす用水路の役割は果たしていなかった
12世紀の前期居館については、このような対立はありますが、中世後期の居館については、水堀が灌漑機能を持っていたことに異論はないようです。
以上をまとめておくと、領主が開発をリードできたのには、次の2つの根拠があると研究者は考えています。
①居館の用水支配に基づく勧農機能
②都市と直結した経済活力の投入
どちらを重視するかによって、居館領主の性格付けは、大きくちがってくることになります。
  居館と灌漑用水について、研究者は次のようなモデルを提示します。
中世居館と水堀の役割
 
 A. 「水堀=溜池」で、旱魃に備えた堀水が、水田へと給水される場合
 B.「 水堀=用水路」で、居館より下流の水田へ の灌漑用水が流れていた場合
 AもBも、用水を提供していたことには変わりありません。
中世居館と井堰型水源

そこでまず考えるべき点は、その水をどこから引いているのかだと研究者は指摘します。つまり、上流にさかのぼって堀水の水源を押さえるるべきだというのです。居館建設に先だって、堀に水を貯めるためには、水源確保がまず求められたはずです。居館建設に先立ってすでに、湧水や井堰などから導入してくる用水供給のためのシステムがあったはずです。さらに用水を 自らの居館に引き込んでいるので、領主が用水の使用権を握っていたことになります。そうだとすると、 水堀そのものに灌漑機能がなくても、用水路網の末端で水を受 けるだけの場合であっても、 居館の主人は用水の支配権を握っていたことになります。ここでは、水堀は防御機能だけで無く、地域の用水システムと深く関わっていたことを押さえておきます。これと最初に述べた勧農権の問題はリンクします。
これを「吉野大堀居館」の主人にあてはまて考えています。

まんのう町吉野

  まんのう町吉野土地利用図を見ると、大堀居館のまわりは土器川と金倉川の扇状地上部で、いくつもの流れが龍のように暴れ回っていたエリアであることがうかがえます。そのため遊水地化し、低湿地が拡がる開発が遅れた地域であったことは以前にお話ししました。そこに承久の乱以後に西遷御家人がやって来て、大堀居館を構えたという仮説を提示しておきます。

大堀遺跡 まんのう町
大堀居館絵図(江戸時代)
居館の掘には、そこから湧き出す出水が利用されます。それだけでなく土器川に井堰を築造し、導水が始められます。その水は居館の水掘を経由して、下流域に供給されていきます。
そして、灌漑用水の下流域の要所には一族が居館を構え、周辺の開発を行い勢力圏を拡げていくというイメージです。灌漑用水路沿いに一族の居館が設置されていたという事例が近江の姉川水系からは報告されています。そを大堀居館にも当てはめて考えて見ると、大堀居館は土器川からの井堰や吉野の湧き水など取水源を抑える勢力の居館だったことになります。だから先ほど見たように居館規模が大きかったのかもしれません。
灌漑用水網と居館群
灌漑用水路沿いに一族の居館が配置された模式図
大堀居館の下流の居館を見ていくことにします。
琴平 本庄・新庄2

        琴平町の「本庄城(居館)と石川城(居館)の推定地(山本祐三 琴平町の山城)
小松荘琴平町)には、中世の居館跡とされる本庄居館と新荘(石川居館)があります。
荘園の開発が進んで荘園エリアが広がったり、新しく寄進が行われたりした時に、もとからのエリアを本荘、新しく加わったエリアを新荘と呼ぶことが多いようです。「本庄」という地名が琴平五条の金倉川右岸に残っています。このエリアが九条家による小松荘の立荘の中核地だったようです。具体的には、上の地図の右下の部分で琴平高校の北側の「八反地」が、本荘の中心エリアと考えられています。

DSC05364
新荘の氏神・春日神社の湧水 ここが石川居館の水源
 一方、新庄は春日神社の湧水を源とする用水の西北で、現在の榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域とされます。春日神社の北側には、丸尾の醤油屋さんや凱陣の酒蔵が並んでいます。これも豊富な伏流水があればこそなのでしょう。さらに春日神社から湧き出した水の流れを追いかけると石川居館の水堀跡に至ります。こうして見ると、本庄と新荘は小松荘の出水からの水を用水路で取り入れ、早くから開けた地域だったことがうかがえます。同時に、水源地を氏神として信仰の場としています。「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)には「本荘殿」「新荘殿」と記されています。ここからは、中世には本荘と新荘の、それぞれに領主がいたことがうかがえます。

 現在では、旧小松荘(五条・榎井)の水源は出水だけに頼っているわけではありません。
満濃池水掛かり図

吉野の①水戸井堰で取水した②用水路の支線が西に伸びて五条や榎井の水田を潤しています。これは、生駒藩時代に西嶋八兵衛の満濃池築造と灌漑用水路の整備の賜と私は考えてきました。しかし、「居館ネットワークによる灌漑水路整備」の実態を見ていると、満濃池が姿を消していた中世に、吉野の大堀居館から小松荘の本庄や石川の居館に水路網が伸ばされてきていたのでないかという疑問が芽生えてきました。最初は、出水利用の小規模水路であったものを、土器川からの取水によって小松荘まで用水供給エリアを拡げる。そして、南北朝にやってきた長尾氏に、この地位は引き継がれていくことになります。こうして長尾氏は、四条や小松荘など丸亀平野南部の土豪たちを被官化して、勢力を拡大するというシナリオになります。

中世居館跡とされる飯野山北土井遺跡(丸亀市飯山町西坂元)を見ておきましょう。

飯山国持居館2地図
飯野山北土井遺跡(丸亀市飯山町西坂元)
北側は飯野山の山裾で、麓の水田地帯には条里型地割が残っています。法勲寺方面から北流してきた旧河道が飯野山に当たって、東に向きを変える屈曲部がよく分かります。その流れを掘にするように居館跡があります。現在の飯山ダイキ店にほぼ合致します。その長さは長辺約170~175m、短辺約110mで、まんのう町の大堀居館とほぼ同じ規模になります。

大束川旧流路
飯野山北土井遺跡から法勲寺も土器川と大束川に囲まれた低湿地帯

土地利用図を見ると、この当たりもかつては洪水時には土器川が大束川に流れ込み遊水地化し、その中野微高地に早くから人々が定住農耕を始めたエリアです。そのため古代には、南海道が東西に走り、鵜足郡郡衙や古代寺院の法勲寺が建立されるなどの先進地帯だった所です。しかし、洪水によって幾度も押し流されたことが発掘調査からも分かっています。そこに現れたのが坂本郷国持に居館を構えた主人です。この国持の地に居館を選定したのも、西遷御家人であり、彼によって周辺開発が進められたと私は考えています。ここでは国持居館と呼んでおきます。
 国持居館と周辺の灌漑用水の関係を見ておきましょう。
坂本郷国持居館と用水路
ここで研究者が注目したいのが東坂元秋常遺跡の上井用水です。       
     上井用水の源流は、近世に大窪池が姿を見せる前は岡田台地の下の出水にありました。古代においては法勲寺周辺の灌漑用水路として開かれたと考えられます。それが中世になって湿原などの開発が進むにつれて、古代に開削された用水路が改修を重ねながら現在にまで維持されてきた大型幹線水路です。今も下流の西又用水に接続して、川津地区の灌漑に利用されています。東坂元秋常遺跡の調査では、古代期の水路に改修工事の手が入っていることが報告されています。中世になっても、下流の東坂元秋常遺跡の勢力が、上井用水の維持・管理を担っていたことが分かります。しかし、それは単独で行われていたのではなく、下流の川津一ノ又遺跡の集団とともに、共同で行っていたことがうかがえます。つまり、各遺跡の建物群を拠点とする集団は、互いに無関係だったのではなく、治水灌漑のために関係を結んで、共同で「地域開発」を行っていたと研究者は考えています。いわゆる郷村連合です。
 各集落が郷社に集まり、有力者が宮座を形成して、郷社連合で祭礼をおこなうという形にも表れます。滝宮念仏踊りに、踊り込んでいた坂本念仏踊りも、そのような集落(郷村)連合で編成されたことは以前にお話ししました。しかし、用水路の管理整備を下流の郷村のみで行っていたとするのは、私は疑問を感じます。なぜなら、用水路が国持居館を経由しているからです。この居館の主人は、用水路について大きな影響力を持っていたことは、今までの事例から分かります。部分的な用水路であったものを、水源から川津までひとつに結びつけ、用水路網を整備したのは国持居館の先祖とも考えられます。だとすれば、この用水路周辺には、一族の居館が配されていた可能性があります。」

飯山法勲寺古地名大窪池pg

以前に見た大窪池周辺の古地図に出てくる地名を確認します。
ここには東小川の土器川沿いに「川原屋敷」や「巫子屋敷」などがあり、近くには「ぞう堂」という地名も見えます。土豪層の存在が見えて来ます。その背後の丘陵地帯の谷間に大窪池があります。しかし、この池が姿を見せるのは、近世になってからです。今見ておきたいのは、この大窪池の下側の谷筋です。ここは谷筋の川が流れ込み低湿地で耕作不能地でした。これを開拓したのが関東の武士たちです。彼らは湿地開発はお得意でした。氾濫原と共に、谷の湿地も田地(谷戸田)化して行ったようです。サコ田と呼ばれる低湿地の水田や氾濫原の開発と経営は、鎌倉時代の後半に、関東からやって来た武士たちによって始められるとしておきましょう。それが、東小川や法勲寺の地名として残っているようです。
  讃岐にやって来た関東の武士たちとは、どんな人たちだったのでしょうか。

飯山地頭一覧
上表は、飯山町史に載せられている讃岐にやってきた武士たちのリストです。鵜足郡法勲寺を見ると壱岐時重が1250年に、法勲寺庄の地頭となっています。彼の下で、法勲寺や東小川の開発計画が進められたことが考えられます。そして、国持居館はその拠点であったと私は考えています。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

法勲寺跡 讃岐国名勝図会
飯野山と讃留霊王神社・法勲寺跡(讃岐国名勝図会) 
神櫛王(讃留霊王)伝説の中には、讃岐の古代綾氏の大束川流域への勢力拡大の痕跡が隠されているのではないかという視点で何度か取り上げてきました。その文脈の中で、飯山町の法勲寺は「綾氏の氏寺」としてきました。果たして、そう言えるのかどうか、法勲寺について見ておくことにします。なお法勲寺の発掘調査は行われていません。今のところ「法勲寺村史(昭和31年)」よりも詳しい資料はないようです。テキストは「飯山町史 155P」です。

飯山町誌 (香川県)(飯山町誌編さん委員会編 ) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

ここには、法勲寺周辺の条里制について次のように記されています。
① 寺跡の規模は一町四方が想定するも、未発掘のため根拠は不明
② 寺域の主軸線は真北方向、その根拠は寺域内や周辺の田畑の方角が真北を向くものが多いため
③ 寺域東側には真北から西に30度振れた条里地割りがあるので、寺院建立後に、条里制が施行された
法勲寺条里制
法勲寺(丸亀市飯山町)周辺の条里制復元
②③については、30度傾いた条里制遺構の中に法勲寺跡周辺は、入っていないことが分かります。これは、7世紀末の丸亀平野の条里制開始よりも早い時期に、法勲寺建立が始まっていたとも考えられます。しかし、次のような異論もあります。

「西の讃留霊王神社が鎮座する低丘陵は真北方向に延びていて、条里制施行期には農地にはならなかった。そのため条里地割区に入らず、その後の後世に開墾された。そのため自然地形そのままの真北方向の地割りができた。

近年になって丸亀平野の条里制は、古代に一気に進められたものではなく、中世までの長い時間をかけて整備されていったものであると研究者は考えています。どちらにしても、城山の古代山城・南海道・条里制施行・郡衙・法勲寺は7世紀末の同時期に出現した物といえるようです。

法勲寺の伽藍配置は、どうなっていたのでしょうか? 

法勲寺跡の復元想像図(昭和32年発行「法勲寺村史」)
最初に押さえておきたいのは、これは「想像図」であることです。
法勲寺は発掘調査が行われていないので、詳しいことは分からないというのが研究者の立場です。
法勲寺の伽藍推定図を見ておきましょう。
法勲寺跡
古代法勲寺跡 伽藍推定図(飯山町史754P)
まず五重塔跡について見ていくことにします。
 寛政の順道帳に「塔本」と記されている所が明治20年(1887)に開墾されました。その時に、雑草に覆われた土の下に炭に埋もれて、礎石が方四間(一辺約750㎝)の正方形に築かれていたのが出てきました。この時に、礎石は割られて、多くは原川常楽寺西の川岸の築造に石材として使われたと伝えられます。また、この時に中心部から一坪(約3,3㎡)の桃を逆さにした巨大な石がでてきました。これが、五重塔の「心礎」とされています。
DSC00396法勲寺心礎
法勲寺五重塔心礎(復元)
上部中央には、直径三尺二寸(約96㎝)、深さ三寸(約9㎝)の皿形が掘られています。この「心礎」も、石材として使うために割られたようです。その四分の一の一部が法勲寺の庭に保存されていました。それを復元したのがこの「心礎」になるようです。
 金堂の跡
 五重塔跡の真東に、経堂・鐘堂とかの跡と呼ばれる2つの塚が大正十年(1921)ごろまではあったようです。これが金堂の跡とされています。しかし、ここには礎石は残っていません。しかし、この東側の逆川に大きな礎石が川床や岸から発見されています。どうやら近世に、逆川の護岸や修理に使われたようです。
講堂跡は、現在の法勲寺薬師堂がある所とされます。
薬師堂周辺には礎石がごろごろとしています。特に薬師堂裏には大きな楠が映えています。この木は、瓦などをうず高くつまれた中から生え出たものですが、その根に囲まれた礎石が一つあります。これは、「創建当時の位置に残された唯一の礎石」と飯山町史は記します。

現存する礎石について、飯山町史は次のように整理しています。
現法勲寺境内に保存されているもの
DSC00406法勲寺礎石
①・薬師堂裏の楠木の根に包まれた礎石1個

DSC00407法勲寺
②・法勲寺薬師堂の礎石4個 + 石之塔碑の台石 +
   ・供養塔の台石
DSC00408法勲寺礎石
③現法勲寺本堂南の沓脱石
  
④前庭 二個
⑤手水鉢に活用
⑥南庭 一個
⑦裏庭 一個
他に移動し活用されているもの
飯山南小学校「ふるさとの庭」 二個
讃留霊王神社 御旅所
讃留霊王神社 地神社の台石・前石
原川十王堂 手水鉢
原川墓地の輿置場
名地神社 手水鉢の台
DSC00397法勲寺心礎
法勲寺五重塔心礎と礎石群(讃留霊王神社 御旅所)
五重塔心礎の背後には、川から出てきた礎石が並べられています。
グーグル地図には、ここが「古代法勲寺跡」とされていますが、誤りです。ここにあるものは、運ばれてここに並べられているものです。
 
法勲寺瓦一覧
              
 飯山町史は、法勲寺の古瓦を次のように紹介しています。
①瓦は白鳳時代から室町時代のものまで各種ある。
②軒丸瓦は八種類、軒平瓦は五種類、珍しい棟端瓦もある。
③最古のものは、素縁八葉素弁蓮華文軒丸瓦と鋸歯文縁六葉単弁蓮華文軒丸瓦で、白鳳時代のもので、県下では法勲寺以外からは出てこない特有のもの。
④ 白鳳期の瓦が出ているので、法勲寺の創建期は白鳳期
⑤特異な瓦としては、平安時代の素縁唐草文帯八葉複弁蓮華文軒丸瓦。この棟端瓦は、格子の各方形の中に圈円を配し、その中央に細い隆線で車軸風に八葉蓮華文を描いた珍しいもの。


①からは、室町時代まで瓦改修がおこなわれていたことが分かります。室町時代までは、法勲寺は保護者の支援を受けて存続していたようです。その保護者が綾氏の後継「讃岐藤原氏」であったとしておきます。 
 法勲寺蓮花文棟端飾瓦
法勲寺 蓮花文棟端飾瓦

私が古代法勲寺の瓦の中で気になるのは、「蓮花文棟端飾瓦」です。この現存部は縦8㎝、横15㎝の小さな破片でしかありません。しかし、これについて研究者は次のように指摘します。
その平坦な表面には、 一辺6㎝の正方形が設けられ、中に径五㎝の円を描き、細く先の尖った、 一見車軸のような八葉蓮花文が飾られている。もとはこのような均一文様が全体に表されていたもので全国的に珍しいものである。厚さは3㎝、右下方に丸瓦を填め込むための浅い割り込みが見える。胎土は細かく、一異面には、小さな砂粒がところどころに認められる。焼成は、やや軟質のようで、中心部に芯が残り、均質には焼けていない。色調は灰白色である.

この瓦について井上潔は、次のように紹介しています。
朝鮮の複数蓮華紋棟端飾瓦の諸例で気づくことだが統一新羅の盛期から末期へと時代が下がるにつれて、紋様面の蓮華紋は漸次小形化して簡略化される傾向をとっている。わが国の複数蓮華紋棟端瓦のうちでも香川県綾歌部、法勲寺出土例は正にこのような退化傾向を示す特殊なものである。
‥…このような特殊な棟端飾瓦が存した背景に、当地方における新羅系渡来者や、その後裔の活躍によってもたらされた統一新羅文化の彩響が考えられるのである。この小さな破片から復元をこころみたのが上の図である。総高25㎝、横幅32㎝を測り、八葉細弁蓮花文を17個配列し、上辺はゆるいカープを描いた横長形の棟端飾瓦になる。
古代法勲寺の瓦には、統一新羅の文化の影響が見られると研究者は指摘します。新羅系の瓦技術者たちがやってきていたことを押さえておきます。法勲寺建立については、古代文献に何も書かれていないんで、これ以上のことは分からないようです。
 
讃留霊王(神櫛王)の悪魚伝説の中には、退治後に悪魚の怨念がしきりに里人を苦しめたので、天平年間に行基が福江に魚の御堂を建て、後に法勲寺としたとあります。

悪魚退治伝説 坂出
坂出福江の魚の御堂(現坂出高校校内)
 その後、延暦13年(793)に、坂出の福江から空海が讃留霊王の墓地のある現在地に移し、法勲寺の再興に力を尽くしたとされます。ここには古代法勲寺のはじまりは、坂出福江に建立された魚の御堂が、空海によって現在地に移されたと伝えられています。しかし、先ほど見たように法勲寺跡からは白鳳時代(645頃~710頃)の古瓦が出てきています。ここからは法勲寺建立は、行基や空海よりも古く、白鳳時代には姿を見せていたことになります。また讃留霊王の悪魚退治伝説は、日本書紀などの古代書物には登場しません。

悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図(明治の模造品)
 讃留霊王伝説が登場するのは、中世の綾氏系図の巻頭に書かれた「綾氏顕彰」のための物語であることは以前にお話ししました。
悪魚退治伝説背景

つまり、綾氏が中世武士団の統領として一族の誇りと団結心を高まるために書かれたのが讃留霊王伝説だと研究者は考えています。そして、それを書いたのが法勲寺を継承する島田寺の僧侶なのです。南北朝時代の「綾氏系図」には法勲寺の名が見えることから、綾氏の氏寺と研究者は考えています。
 しかし、古代に鵜足郡に綾氏が居住した史料はありません。また綾氏系図も中世になって書かれたものなので、法勲寺が綾氏が建立したとは言い切れないようです。そんな中で、綾川流域の阿野郡を基盤とする綾氏が、坂出福江を拠点に大束川流域に勢力を伸ばしてきたという仮説を、研究者の中には考えている人達がいます。それらの仮説は以前にも紹介した通りです。

最後に白鳳時代の法勲寺周辺を見ておきましょう。
  飯山高校の西側のバイパス工事の際に発掘された丸亀市飯山町「岸の上遺跡」からは、次のようなものが出てきました。
①南海道の側溝跡が出てきた。岸の上遺跡を東西に走る市道が南海道だった。
②柵で囲まれたエリアに、古代の正倉(倉庫)が5つ並んで出てきた。鵜足郡郡衙跡と考えられる。

 8世紀初頭の法勲寺周辺(復元想像図)
つまり、南海道に隣接して柵のあるエリアに、倉庫が並んでいたのです。「正倉が並んでいたら郡衙と思え」というのが研究者の合い言葉のようです。鵜足郡の郡衙の可能性が高まります。

白鳳時代の法勲寺周辺を描いた想像復元図を見ておきましょう。
岸の上遺跡 イラスト

①額坂から伸びてきた南海道が飯野山の南から、那珂郡の郡家を経て、多度郡善通寺に向けて一直線に引かれている
②南海道を基準線にして条里制が整備
③南海道周辺に地元郡司(綾氏?)は、郡衙と居宅設営
④郡司(綾氏)は、氏寺である古代寺院である法勲寺建立
⑤当時の土器川は、現在の本流以外に大束川方面に流れ込む支流もあり、河川流域の条里制整備は中世まで持ち越される。
岸の上遺跡 四国学院遺跡と南海道2
南海道と多度郡郡衙・善通寺の位置関係
以上からは、8世紀初頭の丸亀平野には東西に一直線に南海道が整備され、鵜足・那珂・多度の各郡司が郡衙や居宅・氏寺を整備していたと研究者は考えています。このような光景は、律令制の整備とともに出現したものです。しかし、律令制は百年もしないうちに行き詰まってしまいます。郡司の役割は機能低下して、地方豪族にとって実入の少ない、魅力のないポストになります。郡司達は、多度郡の佐伯氏のように郡司の地位を捨て、改姓して平安京に出て行き中央貴族となる道を選ぶ一族も出てきます。そのため郡衙は衰退していきます。郡衙が活発に地方政治の拠点として機能していたのは、百年余りであったことは以前にお話ししました。

 一方、在庁官人として勢力を高め、それを背景に武士団に成長して行く一族も現れます。それが綾氏から中世武士団へ成長・脱皮していく讃岐藤原氏です。讃岐藤原氏の初期の統領は、大束川から綾川を遡った羽床を勢力とした羽床氏で、初期には大束川流域に一族が拡がっていました。その中世の讃岐藤原氏の一族の氏寺が古代法勲寺から成長した島田寺のようです。

讃岐藤原氏分布図

 こうして讃岐藤原氏の氏寺である島田寺は、讃留霊王(神櫛王)伝説の流布拠点となっていきます。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献       飯山町史 155P






金刀比羅宮宝物館の十一面観音について
明治の神仏分離で、金毘羅大権現の仏像たちは全て追い出されて、金毘羅大権現は金刀比羅宮に変身しました。入札で引き取り手のある仏は、他の寺に移っていきました、引き取り手のないものは、燃やされたことが当時の禰宜であった松岡調の日記には書かれています。そして、金刀比羅宮には仏様はいなくなった・・・・はずなのですが二体だけ残されて、宝物館に展示されています。当時の金刀比羅宮の禰宜松岡調が、このふたつの仏だけは残すと決めた仏像です。金毘羅さんにとって、それだけ意味のある仏であったようです。
宝物館に行くと、松尾寺観音堂にあった十一面観音像が迎えてくれます。
11金毘羅大権現の観音
十一面観音(金刀比羅宮)
 もともとこの観音様は聖観音として伝来してきました。しかし、正面に立って見ると頭上の化仏が指し込められていた穴跡が見えます。聖観音ではなく、十一面観音だったことが分かります。

1 金毘羅大権現 十一面観音2
十一面観音(金刀比羅宮)
 左手に持っていた蓮の花を挿した花瓶も失われています。観音を乗せていた蓮華座もありません。よく見ると裳には華文を描いた彩色が残っています。
DSC01221
         十一面観音(金刀比羅宮)
藤原時代前期の作とされて、今は重文指定を受けています。
DSC01222

この十一面観音が神仏分離以前には、松尾寺の観音堂に安置されていたようです。

2.象頭山山上3 ピンク
本堂左側にあるのが松尾寺の観音堂

私はてっきり、この観音さんが本尊だとおもていたのですが、そうではないようです。江戸末期の『金毘羅参詣名勝図会』には、観音堂の本尊は「聖観音菩薩」で、この「十一面観音」は本尊の「前立て」として安置されていて、「古作」であると記されています。江戸末期には、化仏も失われ、花瓶も失われていたので、前立てとして脇役の位置に甘んじていたようです。

DSC01029観音堂

 さて、本題に入っていきます。観音堂が松尾寺の本堂として最初に創建されたのは戦国時代末でした。十一面観音の方は、それよりずっと古い藤原時代前期の作です。本堂と十一面観音の時代が一致しません。
金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現 観音堂(讃岐国名勝図会)

ここからは、創建された本堂に、どこからか十一面観音を持ち込んできて、いつの時代からは聖観音とされていたことが分かります。

金毘羅観音堂略図
十一面観応が安置されていた観音堂平面図
 それでは、この十一面観音は、どこからやってきたのでしょうか
まず考えられるのは、大麻山中にあった古刹の滝寺・小滝寺からやってきたという説です。

金毘羅宮の学芸員を長く勤めた松原秀明氏は「金毘羅信仰と修験道」の中で
①観音堂の本尊は、道範の『南海流浪記』に出てくる大麻山の滝寺の本尊を移したもの
②前立の十一面観音は、その麓にあった小滝寺の本尊であったもの
 滝寺とは、どこにあったお寺でしょうか。

DSC01220
滝寺は現在の葵の瀧辺りにあったいわれる

奥社からさらに、大麻山方面へ工兵道が伸びていきます。この道は戦前の善通寺11師団の工兵たちが演習で作ったので、工兵道と呼ばれています。ほぼ水平のの歩きやすい山道で、野田院古墳辺りに抜けていきます。その途中に、切り立った屏風岩という崖があり、高さはありますが水量は乏しい瀧が現れます。今は地元では、葵の瀧と呼ばれているようですが大雨の降った後は見応えがあります。金毘羅さんの中で、私のお勧めポイントです。ここは修験者の行場としてふさわしいところで、象頭山に全国から集まった「天狗」たちの聖地だったところと私は考えています。

 滝寺と呼ばれた寺院の本尊は?
仁治四年(1243)事に讃岐に流された高野山のエリート僧侶、道範は讃岐での生活を『南海流浪記』に残しています。

史料紹介 ﹃南海流浪記﹄洲崎寺本
南海流浪記 洲崎寺版
 放免になる前年の宝治二年(1248)年11月、道範は、琴平の奥にある仲南の尾の背寺を訪ねた帰路に、琴平山の称名院に立ち寄ったことが次のように記されています。

「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
             (原漢文『南海流浪記』) 
意訳すると
こじんまりと松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった。院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
すると返歌が送られてきたようです。
 道範は念々房がいなかったので、その足で滝寺に参詣し、次のように記しています。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」 (『南海流浪記』)

ここから分かることは
①道範が秋も深まる11月末に滝寺を訪れたこと
②坂を1,6㎞ほど登ると東向きに瀧があり
③古い寺の痕跡を示す礎石も所々に残り  → 古代山岳寺院?
④本堂は五間四方で、千手観音を本尊(?)とする山岳寺院
  大きさが五間というと山中にあるにしては、立派な本堂です。注目したいのは本尊です。「本仏御作千手云々」で「御作」とあるので弘法大師手作りなのでしょう。「千手」とあるので千手観音菩薩と考えられます。しかし、研究者が注目するのは最後の「云々」です。これは伝聞で、断定の「也」ではありません。ここからは宥範は、実際には瀧寺の本尊の観音さまを見ていなかったとも考えられます。そうだとすれば

「金刀比羅宮所蔵の十一面観音像は、滝寺の本尊であった」

という説とも矛盾しないというのです。「本仏御作千手云々」をどう解釈するかの問題になります。

「滝寺の千手観音 → 松尾寺観音堂の十一面観音」説

は、紙一重で生き残っていることになります。実は、これは金比羅神の本地物問題とも関わってくることのようです。そして、研究者が頭を抱えている問題でもあるようです。ここでは十一面観音が滝寺からやって来たということは、認められない立場の研究者の説を見ていくことにします。

称名寺 「琴平町の山城」より
金刀比羅宮神田の上にあった称名寺

十一面観音は、麓の称名寺からやってきたという説もあります。
称名寺の本尊については、道範は何も記していません。江戸時代の多聞院に伝わる『古老伝旧記』に称名院のことが、次のように書かれています。

「当山の内、正明(称名)寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」

意訳すると
象頭山に昔、称名寺という古寺があり、大門や緒堂があった。地域の鎮守として信仰され、西山村の氏神も祀られていたという。本堂には阿弥陀如来がまつられている。それが今の院内の阿弥陀仏である。

 地元では、阿弥陀如来が祀られていたと伝えられます。浄土教の寺としての称名院の姿がうかがえます。ここには十一面観音が称名院にあった痕跡はありません。高野聖に近い念仏聖がいた気配がします。

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称名寺跡の祠
 近世以前の象頭山には、金毘羅神の出現以前に滝寺・称名寺や大麻山などの宗教施設があり、地元の人々の信仰の対象となっていたことが分かります。同時に、霊山として修験者の行場としても機能していたようです。しかし、十一面観音を本尊とする寺院は周辺には見当たりません。
 金比羅神を創出し、金比羅堂を建立した宥雅にとって、十一面観音はどうしても手に入れ、安置したい仏でした。なぜなら金比羅神の本地物は、十一面観音とされていたからです。十一面観音は、どこからやってきたのでしょうか?  その前に、金比羅堂建立について、触れておきます。
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称名寺跡付近から眺めた小松荘

 松尾寺及び金毘羅堂は、いつだれによって建立されたのか
 松尾寺の創建は、古代や中世に遡るものではなく戦国時代末のことであったと現在の研究者の多くは考えるようになっています。その根本史料としてあげられるのが松岡調の『新撰讃岐風土記』に紹介されている次の金比羅堂の創建棟札です。
 (表)「上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿 当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉 
于時元亀四(1573)年発酉十一月廿七日記之」
 (裏)「金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
ここからは次のような事が分かります。
①元亀四年(1573)に宥雅は、松尾寺境内に「金毘羅王赤如神」を祀る金毘羅堂を建てた
②その新築された堂と堂内で祀られた本尊の開眼法要の導師を高野山金剛三昧院の良昌が勤めた
 この棟札は、以前は「本社再営棟札」とされていました。しかし、この内容からは、金毘羅神が鎮座するための金毘羅堂を新しく建立したと読めるのです。「再営」ではなく「創建」なのです。
大麻山と象頭山 A
象頭山
松尾寺のある象頭山は霊山で、修験者の行場も数多くあります。
最初に、ここに行場を開いたのは熊野行者であったようで、熊野行者が祀る薬師如来を本尊として松尾寺が開かれたようです。そのため金毘羅堂では「金毘羅王赤如神」を祀っていても、松尾寺の本尊は薬師如来で、それを春族の宮毘羅大将をはじめとする十二神将が守るという形がとられていた研究者は考えているようです。

 しかし、金毘羅神の本地仏は十一面観音なのです。
十一面観音を本尊とする本地堂(観音堂)が新たに必要になります。そのため寛永元(1624)年までには観音堂が、現在の金刀比羅宮本社前脇に建ってられたようです。そして、ここに十一面観音を安置することで、金毘羅神の由緒の歴史性と正統性が確立されることになります。
次に導師を勤めた良昌とは、何者なのでしょうか?
高野山大学図書館蔵の『折負輯』は、次のようにあります。
「第三十二世良昌善房、讃州財田所生法勲寺嶋田寺兼之、天正八年庚辰四月朔日寂」

とあって、ここからは、良昌は、讃岐三野郡の財田の生まれで、法勲寺と島田寺の管理も任されていたようです。天正8(1580)年に亡くなっていることが分かります。
 法勲寺といえば、「綾氏系図」に出てくる古代寺院で、綾氏の氏寺とされます。また、島田浄土寺は、同寺旧蔵の『讃留王神霊記』には綾氏の氏寺記され、神櫛王の「大魚退治伝説」の発信地のひとつです。以前に、「金比羅神=クンピラーラ + 神櫛王伝説の悪魚(神魚に変身)」説を紹介しました。金毘羅堂落慶供養導師良昌と島田浄土寺・法勲寺と「大魚退治伝説」とを結ぶ因縁が、金毘羅信仰成立にも絡んでいると研究者は考えているようです。

1櫛梨神社3233
神櫛王の悪魚退治伝説(宥範縁起と綾氏系図の比較表) 
悪魚伝説については何度も触れましたが、できるだけコンパクトに紹介しておきます
  法勲寺には、寺院縁起として次のような悪魚退治伝説が、伝えられてきました。
 景行天皇の時代、瀬戸内海には呑舟の大魚が棲んでおり、舟を襲ってば旅客に莫大な被害を与えた。そこで朝廷では、日本武尊の子で勇猛な神櫛王(武卵王)に悪魚を退治させるように命じた。神櫛王はみごと悪魚を退治したので、讃岐国を与えられ国造としてこの地を守ったので、人々は彼を、讃留霊王と呼ぶようになった。讃留霊王が亡くなると、法勲寺の西に墓がっくられて讃留霊王塚と呼んで法勲寺が供養してきた。

というのが、法勲寺に伝わる悪魚退治伝説の粗筋です。
金毘羅神=クンピーラ+神櫛王の悪魚退治伝説

神櫛王の悪魚退治伝説
悪魚は退治されてもその怨念は鎮まらず、たたりとなって悪疫や争乱を引き起こします。そこで、悪魚の怨念を鎮めるために、退治された悪魚の屍が流れ着いたという坂出市の福江浜には、悪魚を祀る魚の御堂が建てられます。
 宥雅は56歳の時、無量寿院縁起を筆録しています。
その中には悪魚退治伝説が含まれていました。宥雅は、法勲寺に伝わる悪魚退治伝説のことをよく知っていたのです。宥雅は、西長尾城城主の弟とも甥とも云われます。彼は長尾氏一族の支援を受けて、1573年に松尾寺境内に金毘羅堂を創建します。その数年前の1570年頃には、十一面観音を本尊として祀る松尾寺を、長尾城主の長尾大隅守高家を始めとする一族の支援を得て建てます。
 新しく建立した松尾寺を守る守護神として、今までの三十番神では役不足と考えた宥雅は、強力な力を持った蕃神の勧進を考えます。その結果生み出されたのが流行神の金毘羅神だという説です。その際に、金比羅神の「実態」イメージとして借用したのが「悪魚退治伝説」に登場する「悪魚」でした。これを「神魚」としてイメージアップして、金比羅神へと変身させていったのです。

   その辺りのことを研究者は次のように、述べます
 大魚を、仏典のワニ神クンビーラや大魚マカラと融合させていかめしく神として飾り立てたのが、金毘羅王赤如神だ。写本した無量寿院縁起の中で宥雅は、悪魚のことを「神魚」だと記している。金毘羅堂の祭神の金毘羅王赤如神は、仏典のクンビーラやマカラで飾り立てられた神魚であったといえる。古くよりワニのいない日本で、ワニとされたのは海に棲む凶暴な鮫であった。鮫=悪魚で、悪魚の姿は仏典に見える巨魚マカラと習合する事で巨大化し、呑舟の大魚となったといえよう。『大集念仏三昧経』には、「金毘羅摩端魚夜叉大将」とあって、ワニ神クンピーラと大魚の摩端魚(マカラ)を結び付けて、夜叉を支配する大将としていた。退治された悪魚は死して鬼神となり、夜叉=鬼神であったから、悪魚は夜叉の大将として祀られる事となった。

 以上をまとめると次のようになります。
①金毘羅堂の創建と悪魚退治伝説には密接な関連がある
②悪魚退治伝説は法勲寺の縁起であって、
③廃絶した法勲寺の寺宝類を預っていたのが良昌で、彼は島田寺も管理していた
④良昌は松尾寺内の金毘羅堂の開眼法要を行っている。
  この上に立って、研究者は次のステップに飛躍します。
松尾寺の十一面観音は、もとは法勲寺にあったのではないかというのです。そして、次のような仮説を立ち上げていきます。
①法勲寺の管理を委ねられた良昌は、その再建の機会をうかがっていた
②宥雅が松尾寺を建立することを聞いて、宥雅に十一面観首を譲ってその管理を頼んだ
③金毘羅堂の創建には、廃絶した法勲寺の悪魚退治伝説を受け継ぎ、後世に伝える期待が込められていた
つまり、現在の宝物館にある十一面観音は、もともとは法勲寺の本尊で、島田寺で保管されていた仏が、松尾寺本堂(観音堂)に持ち込まれたという説になります。
良昌が管理責任者だった頃の法勲寺は、どんな状態だったのでしょうか
法勲寺は室町後期に失火が原因で焼失して廃絶し、焼け残った仏像や聖典・仏具などを島田寺に預けていたと云います。しかし、島田寺も長宗我部元親の讃岐侵攻で焼けてしまいます。その後、生駒親正が讃岐の領主となって入国して高松に城をつくった時に、法勲寺は菩提寺として高松城下に移されてで再建されます。その法勲寺の属寺として、飯山の島田寺も再建されたようです。後に、法勲寺は親正の法名弘憲にちなんで、弘憲寺と呼ばれるようになります。
 再度確認しておくと良昌が法勲寺と島田寺の管理を任されていた頃、法勲寺は伽藍もお堂もない、状態で、焼け残った仏像や寺宝類を島田寺に預けていたと、研究者は考えているようです。
そのような中で良昌は、当時は島田寺に保管されていた十一面観音を宥雅に譲り、松尾寺で金比羅神の本地仏として祀ることを提案したのではないでしょうか。この時の良昌の頭の中には

松尾寺の本尊 薬師如来
=守護神 金比羅神 
=その本地仏・十一面観音

という図式があったのかもしれません。逆に考えると、十一面観音を本地物とする蕃神を新たな松尾寺の守護神とすることを、提案したのは良昌だったとも小説なら書けそうです。もちろん、悪魚伝説もセットになります。
 良昌にしてみれば、高野山にいて故郷の法勲寺や島田寺の荒廃には、心を痛めていたはずです。
そのような中で、悪魚伝説が金比羅神に姿を変えて伝えられることは、神櫛王=讃留霊王伝説を後世に伝え、ひいては綾氏創生伝説を引き継いでいくことにもなります。宥雅が松尾寺・金比羅堂を建立するのを聞いて、良昌は全面的な支援を行うことを決意したのでしょう。新たな地方寺院の建立に、故郷の讃岐の事とは云え、高野山のトップに近い高僧がやってくるというのは普通ではありません。そのくらいの背景があったと考えても不思議ではないでしょう。
もう一度、十一面観音を見てみましょう。
1 金毘羅大権現 十一面観音1

 蓮華座は失われていますが、その形態から十一面観音であることはとは明らかです。松尾寺の十一面観音は、もとは法勲寺のものという仮説はどうでしょうか。史料的な裏付けはありませんが、近世直前の金毘羅さんの動向を考える上では、私にとっては刺激剤となりました。
年表で宥雅と金比羅堂を取り巻く状況を最後に確認しておきましょう
元亀4年1573 宥雅が金毘羅宝殿を建立。良昌が導師として出席
天正元年1573 本宮改造。
天正7年1579 長宗我部元親の侵入を避けて宥雅が泉州へ亡命。
                土佐の修験者である宥厳が院主に
                元親側近の土佐修験者ブレーンによる松尾寺の経営開始 
天正9年1580 長宗我部元親が讃岐平定を祈って、天額仕立ての矢
       を松尾寺に奉納。
天正11年1583 三十番神社葺替。棟札には、「大檀那元親」・
「大願主宥秀」      
天正12年1584  讃岐は元親によって平定。
天正12年1584 長曽我部元親が仁王堂を寄進(賢木門改造)
                棟札の檀那は「大梵天王長曽我部元親公」願主は 「帝釈天王権大法印宗信」
 当時の象頭山は、三十番神、松尾寺、金比羅大権現の並立状態。

以上の仮説をまとめておくと次のようになります
① 松尾寺の観音堂の十一面観音は、松尾寺建立よりもずっ
  と古い藤原時代前期の仏像
② 松尾寺と金毘羅堂の創建は、宥雅と高野山金剛三昧院の
良昌の二人の僧侶の協力によって行われた
③ 良昌は法勲寺の寺宝類を管理する立場にあり、十一面観 音は焼け残った法勲寺の寺宝の一つであった

最後に高松に移され生駒親正の菩提寺となった弘憲寺について見ておきましょう
1 弘憲寺 讃留霊王G

 この寺には、江戸時代に描かれた讃留霊王(神櫛王)の肖像画があります。ここからは、弘憲寺が法勲寺を継承する寺であることがうかがえます。同時に、生駒藩時代には讃留霊王信仰が藩主によって広まっていた形跡もあります。

 弘憲寺の本尊は、平安時代の木像不動明王立像です。

木造不動明王立像|高松市
高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』は、この不動明王について、次のように記します。
 不動明王は、身の丈109センチの檜(ひのき)の一木造りで岩坐の上に立っておられる。頭の髪は、頂で蓮華(れんげ)の花型に結(ゆ)い、前髪を左右に分けて束ね、左肩から垂らす。腰には短い裳(も)をまとい、腰紐で結ぶ。このお姿から、印度の古代の田舎の童子の髪の結い方や服装がうかがわれる。額にしわをよせ眉をさかだて、左の目は半眼に右目はカッと見開く。いわゆる天地眼(てんちがん)で、左の上牙で下唇を右の下牙で上唇をかみしめ、忿怒相(ふんぬそう)をしている。不動信仰の厳しさを感じさせられる。
 全身の動きは少なく、重厚さの中に穏やかさを感じさせ、貞観彫刻から藤原彫刻への移行がみえる。旧法勲寺(ほうくんじ)(飯山町)から移されたと伝えられている。
この不動明王も、もともとは法勲寺にあったもののようです。不動明王は修験者の守護神ですから中世には、法勲寺や島田寺も修験者の寺であったことがうかがえます。しかし、修験者が守護神として身につけた不動明王は、空海によってもたらされた「新しい仏」で、白鳳・奈良時代にはいなかった仏です。奈良時代に開かれた法勲寺の本尊としては、ふさわしくありません。創建当時から本尊とされていたのは、不動明王以外の仏が本尊であったと考えるのが自然です。
それでは、法勲寺の本来の本尊は何だったのでしょうか
 第1候補として挙げられるのが観音菩薩です。そうだとすれば、金毘羅大権現の松尾寺の十一面観音は法勲寺のものであった可能性がでてきます。しかし、それを裏付ける史料はありません。あくまで仮説です。
松尾寺は別当寺として金毘羅大権現を祀り、この松尾寺の中心が観音堂でした
そういう意味では、十一面観音は金毘羅信仰の中でも重要な位置を占めていたわけです。そして、松尾寺は観音霊場でもあった痕跡があります。十一面観音は平安時代からの微笑を浮かべるだけで、その由来に関しては何も語りません。
参考文献
○松原秀明「金毘羅信仰と修験道」(守屋毅編『民衆宗教史叢書 金毘羅信仰』、雄山間発行、一九九六年)
○『琴平町史』巻一 (琴平町発行、一九九六年)
○「金毘羅参詣名勝図会」「讃岐国名勝図会」(『日本名所風俗図会 四国の巻』、角川書店発行)


  
丸亀平野の条里制 地形図

 丸亀市飯山町の法勲寺には、中世以来の地名が残っています。そんな地名を追いかけて見ると何が見えてくるのでしょうか。地図を片手に、法勲寺を歴史散歩してみます。まずは法勲寺の位置を確認しておきます. 
飯山法勲寺開発1地図

 法勲寺荘は土器川の東岸、飯野山の南側で鵜足郡に属し、古代の法勲寺を中心に早くから開けた地域です。エリアの東側を大束川が北流し、飯野山の東を通って川津方面に流れていきます。今は小さな川ですが、古代においてはこの川沿いに開発が進められたと研究者は考えているようです。古代地名を復元した飯山町史の地図がテキストです。
飯山法勲寺古地名全体
この地図を見て分かることは
①大束川流域の上法勲寺は条里制地割が全域に残り、古代から開発が進んだ地域であること
②西部の東小川は、土器川の氾濫原で条里制地割が一部にしか見えない
③また大窪池の谷筋や丘陵地帯も条里制地割は見えないこと
土器川の右岸は、氾濫原で条里制地割は見えません。古代の開発が行われなかった「未開発地域」だったようです。そこへ中世になると開発の手が伸びていくようになります。地図を見ると、太郎丸・黒正・末広・安家・真定や、東小川の森国・国三郎など、中世の人名だった地名が見られます。これらは、名田を開発したり、経営した名主の名前が付けられたものと思われます。

大束川旧流路
国土地理院の土地利用図です。中世には土器川は大束川に流れ込んでいたことが分かります。
東小川の各エリアを拡大して見ていきます。  まず中方橋のあたりです。
飯山法勲寺古地名新名出水jpg


新名という地名は、もとからあった名田に対して、新しく開発された所をさします。地図に見える東小川の新名出水は、土器川からわき出す出水があったのでしょう。これを利用して中世になって、それまで水田化されていなかった氾濫原の開発に乗り出した名主たちがいたようです。その新名開発の水源となったので「新名出水」なのでしょう。地図で、開発領主の痕跡をしめす地名を挙げると
「あくらやしき」「蔵の西」「馬場」「国光」「森国」「馬よけば」

が見えます。新名出水から用水路で誘水し、いままで水が来なかった地域を水田化したことが推察できます。新田の開発技術、特に治水・潅漑にかかわる土木技術をもった勢力の「入植・開発」がうかがえます。
飯山法勲寺古地名2jpg

 さきほどの中方橋のさら北側のエリアになります。ここには
「明光寺又・円明院出水・首なし出水・弘憲寺又・障子又」
などの古地名が見えます。
「出水」は分かりますが「又」とは何でしょうか?
「又」は用水の分岐点です。出水や用水分岐点は、水をめぐる水争いの場所にもなる所で、重要戦略ポイントでした。そんな所は、竜神信仰の聖地としたり、堂や庵などを建立して水番をするなど、農業経営維持のためのしくみが作られていきます。ここにも「堂の元(下)」という地名がみえますからお堂が用水管理のための施設として建立され、時には寝ずの番がここで行われたのかもしれません。こんなお堂がお寺に成長していくことも多かったようです。

 東小川の「障子又」は、「荘司」に由来するようです。
この付近に荘園の管理者、つまり実質的な荘園支配者であった荘司の屋敷か、彼の直接経営する名田があったのでしょう。居館のそばにお堂があったのかもしれません。それが、阿波安楽寺からの伝道者の「道場」となり、農民たちに一向信者が増えると真宗寺院に成長していくというのが丸亀平野でよく見られるパターンのようです。

 土器川東岸の東小川が開発されたのは、いつ、誰によってなのでしょうか?
 飯山町史は鎌倉後期のこと考えているようです。そして、開発の先頭を切ったのは、地頭などとして関東から移住してきた東国の御家人やその関係者であったとします。確かに、彼らは関東を中心とした広大な湿地帯や丘陵地帯で開発を進めてきた経験と新技術を持っていました。それを生かして、自分たちの領域の周辺部の未開拓地であった氾濫原の開発を進めたというのは納得がいく説明です。
飯山法勲寺古地名大窪池pg

この地図は、東小川の土器川沿いに「川原屋敷」や「巫子屋敷」などがあり、「ぞう堂」という地名も見えます。その背後の丘陵地帯に大窪池があ。法勲寺跡の南側に伸びていく緩やかな傾斜の谷の先です。しかし、この池が姿を見せるのは、近世になってからです。相争い分立する中世の領主達に、こんな大きな池を作り出す力はありません。彼らには古代律令国家の国司のように「労働力の組織化」ができないのです。満濃池も崩壊したまま放置され、その池跡が開発されて「池内村」ができていた時代です。大窪池のある台地は、「岡田」と呼ばれますが。ここが水田化されるのは近世になってからのようです。話を元に戻します。
 今見ておきたいのは、この大窪池の下側の谷筋です。
ここは谷筋の川が流れ込み低湿地で耕作不能地でした。これを開拓するしたのが関東の武士たちです。彼らは湿地開発はお得意でした。氾濫原と共に、谷の湿地も田地(谷戸田)化して行ったようです。サコ田と呼ばれる低湿地の水田や氾濫原の開発と経営は、鎌倉時代の後半に、関東からやって来た武士たちによって始められるとしておきましょう。それが、東小川や法勲寺の地名として残っているようです。
  讃岐にやって来た関東の武士たちとは、どんな人たちだったのでしょうか。
飯山地頭一覧
  飯山町史に載せられている讃岐にやってきた武士たちのリストです。全てが実際に讃岐にやって来たわけはなくて、代理人を派遣したような人もいます。例えば那珂郡の櫛無保の地頭となった島津氏は、薩摩の守護職も得ています。後に、島津藩の殿様になっていく祖先です。島津氏は、荘官を派遣して管理したようです。その居館跡が「公文」という名前で、現在も櫛無には残っています。
 法勲寺を見ると壱岐時重という名前が出てきます。
彼が法勲寺庄の地頭となったようです。彼の下で、法勲寺や東小川の開発計画が進められたのでしょうか? いったいどんな人物なのでしょうか?それはまた、次の機会に・・・
以上をまとめておきます。
①飯山町法勲寺周辺は、条里制地割が全域に残り古代から開発が進んだ地域である。
②それに対して東小川は、土器川の氾濫原のため開発が遅れた
③この地域の開発は、鎌倉中期以後にやってきた関東武士たちによって行われた。
④彼らは出水から用水路を開き新田を拓いた。
⑤それが「出水・又・屋敷・堂・障子」などの古地名として現在に伝わっている
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 飯山町史

   
5讃岐国府と国分寺と条里制
 讃岐国の始祖とされる讃留霊王(神櫛王)の由緒を語る伝説があります。この伝説は「悪魚退治伝説」、「讃留霊王伝」などと呼ばれ、中世から近世にかけての讃岐の系図や地誌などにもたびたび登場します。私もこれまでに何回かとりあげましたが、今回は視点を変えて地名から地理的なアプローチを行っている研究を紹介します。

  最初に『綾氏系図』をもとに悪魚退治伝説を意訳したものを紹介します。
 景行天皇23年、土佐の海に鰐のような姿をした大きな悪魚がいた。船を飲み込み、人々を食べた。また舟が転覆するため諸国から都へ運ばれるはずの税が海の中へと消えていった。天皇は兵士を派遣したが、兵士たちはことごとく悪魚に食べられてしまった。天皇が息子であるヤマトタケルに悪魚退治を命じたところ、ヤマトタケルは15歳になる自分の息子・霊公(別名神櫛王)に命じて欲しいと言った。天皇は喜び、ただちに霊公に命じた。
 霊公はわずか10日で土佐に到着、そこにとどまった。悪魚は阿波の鳴門へと移動、24年1月に霊公も鳴門へ向かった。3月1日、讃岐の槌の門に悪魚が現れ、船や積んでいた税を飲み込み、人々を食べた。2日後、霊公は讃岐に移動し、軍船をつくって1,000人の兵士を集めた。
 25年5月、霊公らは船を漕いで悪魚へと立ち向かうが、大口を開けた悪魚に飲み込まれてしまった。兵士は悪魚の胎内で酔って倒れたが、霊公は倒れず10日経っても平然としていた。そして霊公は胎内から火を焚いて悪魚を焼き殺し、剣を振るって肉を裂き、胎外へ出た。
   悪魚の死体は福江湊の浦へと流れ着いた。
そこで一人の童子が波打ち際に現れ、瓶に入った水を霊子に碑げた。霊公がこの水を飲んでみるとせ露のように美味だった。霊公が「この水はどこにあるのか」と問うと、童子は「八十場の水です」と答えた。霊公は「早く私をそこに連れて行って欲しい。そしてその水を兵士たちに飲ませ、元気にさせてやりたい」と言った。霊公と童子は水をくみ、悪魚の死体を破り、兵士に水を飲ませた。すると兵士達はすぐに目を覚ました。
5月5日14時、霊公は兵士を連れて上陸した、
 霊公は薬師如来の威神力で悪魚を退治することができた。霊公は病を除け九横の難を排することを誓い、浦の陸地に精舎を建てて薬師如来像を安置し、法勲寺と名付けた。以後、人々は貢物をおさめられるようになり、船舶や船員の煩いはなくなった。
 童子は日光菩薩が姿を変えた横潮明神であった。この童子の姿にちなみ浦を児ヶ浜と名付けた、水は瑠璃水、瓶は薬壷であるため、薬壷水と言った。
 霊公は鵜足郡に移住し、兵士たちから讃留霊公(讃留霊王)と呼ばれた。また、井戸の行部、田比の里布、師田の宇治、坂本の秦胤の四人の将軍がいた。人々は彼らを四天王と呼んだ。
 霊公は三男一女をもうけた。現在の首領、郡司、戸主、長者たちは、すべて三男一女の子孫である霊公の胸には阿耶の黒点があったため、子孫は綾姓を名乗った。仲哀天皇8年9月15日、霊公は123歳で亡くなった。
  讃留霊王(さるれお)の悪魚退治説話を要約すると 
讃留霊王は、もともとは景行天皇の子・神櫛(かんぐし)王でした。
①景行天皇時代に南海や瀬戸内海で暴れまわる巨大な怪魚がいて、神櫛王がその退治に向かった
②しかし、逆に軍船もろとも一旦これに呑み込まれた。そこで大魚の腹のなかで火を用いて弱らせ、團を切り裂いて怪魚を退治した。
③その褒賞で讃岐の地を与えられ、坂出市南部の城山に館を構えた。
④これにより諱を「讃留霊王」(讃岐に留まった霊王)と呼ばれる
⑤彼の胸間には阿耶の字の點があったので、 子孫は綾姓を名乗った。
⑥彼が讃岐の国造の始祖である。
読んでいて面白いのは①②です。しかし、この話を作った人が一番伝えたかったのは、④と⑤でしょう。つまり綾氏の祖先が讃留霊王 = 景行天皇の御子神櫛王で「讃岐の国造の始祖」であるという点です。自分の祖先を「顕彰」するのにこれほどいい素材はありません。讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話です。
 悪魚退治伝説は中世末から近世にかけての讃岐のいくつかの史料に載せられるようになります。
このうち最も古いのは『綾氏系図』です。この系図は、景行天皇に連なる綾氏の系図で、その前段に綾氏の成立にかかわる悪魚退治伝説が載せられています。この成立時期は15世紀中葉から17世紀後葉で古代に遡ることはありません。神櫛王という名前は紀記にはありますが、悪魚退治伝説はありません。つまり、この伝説は中世讃岐で作られたお話なのです。
 しかし、この中には綾氏の歴史が語られている部分もあるのではのではないかと考える研究者もいます。つまり、綾川流域を地盤としていた古代の豪族・綾氏の「鵜足郡への進出」を深読みするのです。その仮説につきあってみることにします。その際にポイントになるのは地名のようです。
3坂出湾1
「綾氏系図」の悪魚退治説話は、伝承を重ねいくつもの書に書き写され姿を変えていきます。そのために記載内容が少しずつ異なるようになります。その辺りを含んだ上で登場する地名を見ていきましょう。
  悪魚の登場場所は? 槌の門
 悪魚出現地には土佐、鳴門、水崎などもありますが12の史料に共通するのが槌の門(椎門、槌途など)です。槌の門とは、五色台の先に浮かぶ大槌島と小槌島に挟まれた海峡のようです。確かに、小さな円錐形の二の島が海から突き出た景観は独特です。瀬戸内海を行く船からすれば、異界への関門のように思えたかもしれません。悪魚出現の舞台としては、最適の場所です。同時に、この物語が書かれた中世においても、多くの船乗り達が知っていた航海ポイントだったのでしょう。
 退治された悪魚が流れ着く場所は9/12の史料が福江としています。
残りの4史料でも悪魚の死骸が埋められるのは福江です。つまり「悪魚の最期の地は福江」ということになります。福江については前々回に紹介しました。「古・坂出湾」の西部で、西の金山・常山、東の角山に挟まれた現在の坂出市福江町周辺で、近世の埋め立て以前には大きく湾入し、瀬戸内海に面する湊がありました。
 童子の姿をした横潮明神は11/12の史料で登場し、いずれも福江の浜に登場します。
 その童子が持ってくる蘇生の水はすべての史料で八十場(安庭、八十蘇など)の水です。
現在の坂出市西庄町にある八十場の湧水は、『金毘羅参詣名所図会』(弘化4年、1847)で「国中第一の清水」と評されており、近世には広く知られていたようです。
  ここまでで、多くの史料に共通するのは、槌の門、福江、八十場の地名です。
これらの地名を地図上でみると阿野郡の沿岸地域にすべてあります。ここからは、この伝説を聞いた人たちは、少なくとも槌の門、福江、八十場の地名とその位置関係
を知っていたと推測できます。そうでないと説話は時代を超えて伝わりません。

3坂出湾2
 悪魚退治伝説で、イヴェントが発生する回数が多いステージは福江です。
①悪魚の死骸がなんらかの理由で福江にあり、
②横潮明神の化身である童子が現れて倒れた兵士を蘇生させ、
③魚御堂、もしくは法勲寺が建立される、
④讃留霊王が悪魚退治後に上陸したのも、文脈からは福江のようです
ここからは福江が伝説における重要ステージと考えられます。

福江 中世
坂出市史から
 
次に福江について、考古学の発掘調査を見てみることにします。
坂出市西庄
坂出市史より

 考古学者は「福江の景観復元」を次のように述べます「角山北東麓から西に伸びる浜堤げ前縁を縄文海進時の海岸線とし、以後の陸地化も遅く、古代にも浅海が広がる景観

『玉藻集』(延宝5年、1677)には天正7年(1579)、香川民部少輔が宇多津に着いて、そこから居城の西庄城に帰るくだりがあります。そこには、次のように記されています。
①「中道」と呼ばれる海側の浜堤を、潮がひいていたのでなんとか渡ることができたこと
②「中道」と陸地側の浜堤Aとの間が足も立たない「深江」であること
坂出の復元海岸線3

 浜堤Aには文京町二丁目遺跡と文京町二丁目西遺跡があります
文京町二丁目遺跡からは7世紀前葉以降の製塩土器と製塩炉や8世紀の須恵器も出土しています。文京町二丁目西遺跡では、8世紀中~後葉を中心とする土器や、畿内産の9世紀の緑粕陶器や中世後半までの土器、さらに多量の飯蛸壷が出土しています。飯蛸壷漁が行われていたのでしょう。
 両遺跡の調査結果からは、陸地側の浜堤上では7世紀前半に製塩活動が行われ、やや地点を違えて7世紀後半に飯蛸壷漁が開始、8世紀までは続きます。この間、8世紀中~後葉には、生産用具(飯蛸壷)に加えて日用雑器(須恵器など)が増えてきます。ここからは東西を山に挟まれて北向きに湾入する復元景観も含めて考えれば、8世紀中葉以降には港湾機能をもった集落がここにはあったと研究者は考えているようです。それは、『綾氏系図』にも[福江湊浦]と記されているので、これを書いた作者は福江を港として認識していたことと符合します。
坂出の復元海岸線2

下川津遺跡との関係は?
   文京町のふたつの遺跡(福江湊)から約1.5km南西の大東川下流の右岸には下川津遺跡があります。復元図のように、古代以前には下川津遺跡は直近まで海岸線が湾入し、大束川の河口に近い場所だったと研究者は考えているようです。
この遺跡は坂出IC工事に伴う発掘調査の結果、大規模で異色な集落群が出てきて注目を集めました。遺構は、周りを低地帯に挟まれた四つの微高地の上に次のように展開します。
①6世紀後葉に集落が出現
②7世紀中葉には建物が急速に増加、企画性をもつ大型建物も出現
③8世紀後半から9世紀にかけて集落規模が縮小
④9世紀後葉以降には再び建物群が再出現
建物規模や配置の企画性などから、②と④の時期は官街的な性格持ち郡衙跡とも考えられているようです。また②の時期には土師器や飯蛸壷の製作、鍛冶、紡織などの諸生産活動が活発に行われていたようです。
鎌田池2
古代の旧大束川は坂出に流れ出ていた

 浜堤A(福江湊?)と下川津遺跡を合わせてみるとどんなことが分かるの?
5HPTIMAGE
下川津遺跡に集落が出現した時点、浜堤A(文京町)は製塩の場でした。下川津遺跡が官街的性格をもつ7世紀後葉~8世紀中葉には浜堤Aで飯蛸壷漁が行われると同時に港湾機能が充実し活発化したとみられます。「断絶期」を挟み、再び官管的性格が下川津遺跡に現れるのはれた9世紀後葉です。その時期も浜堤Aは継続して利用されたようです。ここからは、7世紀から中世まで両者が共に活動を続けていたことが分かります。
 ふたつの遺跡は直線距離で約1.5kmしかありません。途中に大束川(旧河道)がありますが郡衙とその外港のような関係にあったという「仮説」は考えられます。それは、国府と林田湊、善通寺と白方湊のような関係を私に思い描かせてくれます。
 この仮説を頭に入れて、再び悪漁退治伝説をみてみましょう。
悪魚退治伝説は『綾氏系図』に記され、主人公である讃留霊王もしくはヤマトタケルは綾氏の祖先とされます。このことから悪魚退治伝説は、綾氏によって生み出されたと研究者は考えているようです。綾氏は7世紀後半には有力豪族であり、8世紀にかけて阿野郡で大きな力を持っていたようです。国府が阿野郡に設置された背景には、綾氏の政治力の影響があったとも考えられます。
伝説の共通する槌の門、福江、八十場がいずれも阿野郡にあるのは、伝説と綾氏との関連性を裏付けるものです。
 一方、『綾氏系図』には法勲寺や鵜足郡の地名が出てきます。
これは綾氏の「鵜足郡への進出」が表現されていると考える研究者もいます。また
①嶋田寺本「讃留霊公胤記」にも「讃留霊王が鵜足に居住した」
②『讃岐国大日記』では「讃留霊王が鵜足津(宇多津)へ上陸」
③嶋田寺本「讃留霊公胤記」では「法勲寺か登場」
④『綾北問尋鈴』でも「悪魚の霊を鎮めるために魚御堂または法軍寺を建てた」
とあります。
法勲寺は現在の丸亀市飯山町上法軍寺・下法軍寺にあたります。この地には飛鳥時代~奈良時期の建立とされる寺院跡があり、この寺院跡が古代の法勲寺であった可能性は高いようです。『讃岐国名所図会』では、この地を法勲寺跡とし、福江にあった魚御堂を移して法勲寺としたという内容を『宇野忠春記』から引用しています。

 法勲寺が『綾氏系図』に登場することから「法勲寺は綾氏の氏寺ではないか」と考える研究者もいるようです。法勲寺跡と国府の開法寺跡からは、同文の軒瓦が出土していることも、「」法勲寺=綾氏の氏寺」説を補強します。
 福江湊の位置づけ役割については?
古代の阿野郡には、福江のほかに現在の綾川河口付近(坂出林田町)にも港湾施設があったことは前々回にお話ししました。ふたつの湊の位置を比較すると福江は阿野でも西端に位置し、国府との距離があります。しかし、福江は鵜足郡や下川津(郡衙跡?)へのアクセスが便利です。鵜足郡を流れる大束川は、古代は川船輸送にも使われていたと考えられています。そうすると大束川へ陸揚げルートとしても重要であったはずです。つまり、悪魚退治伝説で福江が重要視されているのは、福江が阿野郡と鵜足郡をつなぐ地であったからと研究者は考えているようです。綾氏が国府のある阿野郡に本拠地をもちながらも鵜足郡への影響を強めていたとするならば、伝説の中で福江が強調されていても不思議ではないというのです。
白峰寺の荘園 松山荘と西庄

以上を仮説も含めてまとめると次のようになります。
①悪魚伝説の中に出てくる福江は、古代には湊として機能していた
②その背後の下川津遺跡は鵜足郡の郡衙跡の可能性がある
③福江湊と下川津遺跡は、郡衙と外港という関係にあった。
④このふたつを拠点に、綾氏は大束川沿いに勢力を鵜足郡にも拡大した
⑤そして飯野山の南側を拠点して、古代寺院法勲寺を建立した。
⑥法勲寺は島田寺として中世も存続し、「綾氏系図」を作成し、悪魚伝説普及の核となった。

このように考えると古墳時代の川津周辺の前方後円墳の立地などもしやすくなります。大束川の河口から流域沿いに開発を進めた勢力が力を失った後に、綾氏がとなりの綾郡から入り込んできた。その入口が福江湊だったというストーリーが描けるようになります。
 もうひとつ曖昧なのは、宇多津の位置づけです。宇田津が港湾機能を発揮するのはいつ頃からなのでしょうか。宇多津と福江と下川津遺跡の関係はどうなのか?
 その辺りは、また別の機会に
 参考文献
乗松真也
「悪魚退治伝説」にみる阿野郡沿岸地域と福江の重要性
        香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか



讃留霊玉の悪魚退治伝説が、どのように生まれてきたのか 

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古代寺院法勲寺跡の礎石を眺めるために讃岐富士の見える道を原付バイクを走らせていると・・
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讃留霊王(さるれお)神社が現れました。
ここに祀られている讃留霊王について、少し考えてみました。

讃留霊王(さるれお)の悪魚退治説話とは? 

讃留霊王とは、もともとは景行天皇の御子神櫛(かんぐし)王でした。
①彼が瀬戸内海で人々を困らせていた悪魚(海賊)を退治し、海の平和を取り戻します。
②しかし、その後も京に帰らず、宇多津に本拠を構えました。
③彼の胸間には阿耶の字の點があったので、 綾を氏姓とします。
④諱を讃留霊公というのは、京師に帰らず、讃岐に留まったからです。
⑤彼が讃岐の国造の始祖です。
さて、この話を作った人は何を一番伝えたかったのでしょうか。
それは、③と⑤でしょう。つまり綾氏の祖先が讃留霊王 = 景行天皇の御子神櫛王で「讃岐の国造の始祖」であるという点です。自分の祖先を「顕彰」するのにこれほどいい素材はありません。
讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話です。
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この説話は、いつごろできたかのでしょうか?

話の中に瓦経という経塚の要素が見られることから平安末期と推定できます。その頃は、古代豪族からの伝統を持つ綾氏が、中世武士団の讃岐藤原氏として生まれ変わりつつあった時代です。綾氏が一族の結束を図った時代背景があります。
先祖を同じくする伝説のヒーローの下に、集い結束を深めるというのはいつの時代にも行われます。その頃に、この説話の骨格はできあがったのではないでしょうか。

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この説話が初めて書物となったのは、いつ頃でしょう

 天正一五年(一五八七)讃岐に入った生駒親正は、法勲寺(高田寺 現飯山町)の良純に帰依し、讃岐武士の始祖としての讃留霊王を再評価し顕彰します。そのための伝説のリメイクと書物化が行われます。それを担ったのが
法勲寺 → 嶋田寺 →  弘憲寺
の学僧ラインではないでしょうか。
法勲寺は親正の子一正の代になって飯山から高松西浜に移され、今の弘憲寺になります。その弘憲寺には、近世に描かれた立派な武士の姿をした讃留霊王の肖像画が伝えられています。讃留霊王を祀っていたことがうかがえます。
 こうして、生駒藩の新参の武土層にも悪魚退治の話と綾氏=讃留霊王の子孫という話は広がっていきます。

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江戸時代になると多少余裕が出てきますから、庶民の中にも悪魚退治の話を写して読む人が現れます。そのためかいくつかの讃留霊王説話の写本が残っています。戦前に編纂された『香川叢書』には、それらの説話集の何種類かが「讃留霊公胤記」として収められています。 現時点で成立年が判明しているものを年代順に並べてみると次のようにります。
1 承応元年 1652 年 友安盛貞 『讃岐大日記』
2 享保三年 1718 年 香西成資 『南海通記』 「讃留霊記」
3 享保二十年 1735 年 書写 嶋田寺本 「讃留霊公胤記」
4 明和五年 1768 年 菊池黄山 『三大物語』
5 文政十一年 1828 年 中山城山 『全讃史』綾君世紀 「霊王記」
6 安政五年 1858 年 丸亀藩京極家 『西讃府史』 
最も古いものでも、江戸時代を遡ることはないことがわかります。
つまり讃留霊王伝説のリメイク本は、近世以後に現れたと言うことがここからも分かります。

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讃留霊王説話に熱い思いを持ち続けた人たちが香西氏です。
香西氏は戦国の戦いの中で、生駒氏が来る前に滅びてしまっています。しかし、庶民としては生き続けていました。香西氏というのは讃岐藤原氏、すなわち綾氏の直系を自負する人たちなんです。香西氏の子孫、香西成資が享保四年(一七一九)に白峯寺に奉納した『南海通記』には「綾讃留王記」が入っています。同じ讃岐藤原氏の血を引く新居直矩が寛政四年(一七九三)に香西の藤尾八幡に奉納した『香四記』にも「讃州藤家香西氏略系譜」が入っていて、讃留霊王のことが出てきます。

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讃岐のローカルヒーローを全国的認知度に高めたのは誰?

 讃留霊王説話はあくまで讃岐独自の物語で全国的には殆ど知られていませんでした。この説話がもともとは地方武士である綾氏の先祖を飾るローカルな話であったことからして、当然なことです。
   しかし、全国的に認知される機会がやってきます
   本居宣長が「古事記伝」で、この讃岐独特の説話を次のように引用したのです。
「讃岐国鵜足郡に讃留霊王と云う祠あり。そは彼の国に古き書ありて記せるは、景行天皇廿二年、南海に悪き魚の大なるが住みて往来の船をなやましけるを、倭建命の御子、此の国に下り来て討ち平らげ給ひて、やがて留まりて国主となり賜へる故に讃留霊王と申し奉る。これ綾氏・和気氏等の祖なりと云うことを記したり。或いは此を景行天皇の御子神櫛玉なりとも、又は大碓命なりとも云ひ伝へたり。讃岐の国主の始めは倭建命の御子武卵王の由、古記に見えたれば武卵王にてもあらむか。今とても国内に変事あらむとては、此の讃留霊王の祠、必ず鳴動するなりと、近きころ、彼の国の事どもを記せる物に云えり」
 
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 何を見て書いたのかはわからないのですが、本居宣長は讃岐で書かれた悪魚退治の本を入手して、これを書いたのでしょう。宣長が「古事記伝」で引用したことで、讃留霊王説話は全国の知識人に知られることになります。そして、明治にかけてその認知度をアップさせていきます。
   宣長の記述から次のような事が分かります
(1)讃岐に讃留霊王という祠があること。
(2 『讃留霊記』という古書があること。 
(3)倭建命の御子が讃岐に来て悪しき魚を退治し、讃留霊王と呼ばれたこと。
(4)讃留霊王は神櫛王・大碓命・武卵王の諸説があること。
(5 「讃留霊」は後の当て字で 「さるれい」の 意味は不明であること。
こうして戦前の皇国史観においては、讃留霊王は郷土の英雄として故郷学習などにも登場し、知らない人がいませんでした。そういう讃留霊王信仰の高まりの中で、元々は、八坂神社の中にあった祠が讃留霊王の古墳とされる上に建立されたのでしょう。

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