以前に法然上人絵伝で、讃岐への流刑について見ました。今回は、法然がどうして流刑になったのかを、当時の専修念仏教団をとりまく世の中の動きと絡めながら見ていくことにします。テキストは、「新仏教の形成 躍動する中世仏教66P」です。
その前に「鎌倉新仏教」は鎌倉時代においては仏教界の主流ではなく、勢力も微弱であったことを押さえておきます。
新仏教が大教団へと成長するのは、室町時代後半から戦国時代にかけてです。その際には、祖師たちの思想がそのまま受け継がれたわけではなく、かなりの変容を伴っているようです。そのため、実態としては、「室町仏教」「戦国仏教」と呼んだ方が実態に相応しいと考える研究もいます。とりあえず鎌倉新仏教を「鎌倉期に祖師により創唱され、室町時代に勢力を確立した仏教教団」としておきます。そのトップバッターが法然ということになります。
鎌倉新仏教の中で最も「新仏教」らしい「新仏教」は、法然から始まる専修念仏運動だと研究者は指摘します。
「新仏教」の特徴とされる「易行性」「専修性」「異端性」が、専修念仏には最もよくあてはまります。専修念仏とは、念仏のみを修行することです。法然によれば「阿弥陀仏が本願において選択した口称念仏(南無阿弥陀仏)のみを行ずること」ということになります。口称念仏は誰にでもできる「易行」です。修験者たちの行う「苦行」とは、対照的な位置にあります。しかし、これを実践に移せば非常にラジカルな主張となり、結果的には口称念仏以外の実践や信仰を排除するものになります。そのため旧仏教からは「異端」として批判・弾圧されることになります。当時の世の中では、専修念仏だけを唱え、他の神仏・行業を排除することは、神仏の威を借りて民衆支配を行う権門に対する民衆側の反抗を後押しする役割を担うことでした。つまり、民衆の自立・解放のためのイデオロギーとして機能したとも云えます。 戦後の研究者の中には、この側面を強調する人達が多かった時期があります。この立場からすると、その後の浄土宗の展開は妥協・堕落の歴史だったということになります。しかし、現実の浄土宗の役割は「極端な排他的態度を抑制し、既成仏教との共存の論理を形成」することにあったと考える研究者が今は増えています。そして、法然の死後は、その論理を構築した鎮西義が主流となり大教団へと成長して行きます。
思想史的には、浄土宗には時代の子としての側面があるようです。
戦後の新仏教中心史観が描き出したのは、古代的な国家仏教を、新興階級の新仏教が打ち倒すという図式であり、その背景にはマルクス主義に代表される進歩的な歴史観がありました。一方、顕密体制論において新仏教は、体制に反抗し挫折し屈折していく異端として描かれてきました。これが当時の新左翼運動を始めとする時代潮流に受け入れられていきます。しかし、このような「秩序違乱者」として宗教を評価する視点は、一連のオウム真理教事件やアメリカ同時多発テロ事件の後では、影が薄くなっていきます。
専修念仏の歴史的意義を社会思想的なものに還元しないなら、どのような見方ができるのでしょうか。
一つの視点として、法然から浄土宗各派への展開を、祖師からの逸脱・堕落としてみなすのではなく、むしろ純化過程としてみる見方を研究者は模索します。さまざまな批判や弾圧にもかかわらず専修念仏を選びとった人びとが、一見妥協ともみえる姿勢の中で、なおかつ守ろうとしたものは何だったのだろうかという視点です。
そこに一貫して見て取れるのは、自らの機根が劣っているという自覚です。機根(きこん)についてウキは、次のように記します。
①仏の教えを聞いて修行しえる能力のこと。②仏の教えを理解する度量・器のこと③衆生の各人の性格。④根性は、この機根に由来する言葉
④の根性の根とは能力、あるいはそれを生み出す力・能生(のうしょう)のことで、性とは、その人の生まれついた性質のことです。
「自分は愚かなので、聖道門の修行はできない。称名念仏でしか助からない」
というのが、専修念仏者の基本的な姿勢でした。これは一種の居直りとも思えます。しかし、ここにはふてぶてしい自己肯定があります。「自分のやうなものでも、どうかして生きたい」
島崎藤村『春』)の私小説的な自己意識につながる内面性とつながるものです。このような内面性を生み出したところに、専修念仏の一つの思想史的意義があると研究者は考えています。
次に 法然の略伝を見ておきましょう。
法然房源空(1133~1212)は、美作国(岡山県)で生まれ、比叡山で受戒。その後、善導の著書に出会ったことを契機に、専修念仏を唱導し、多くの信者を集めるようになります。法然は円頓戒の血脈を受けていて、授戒を通じて多くの貴顕の尊崇を集めていました。専修念仏が拡がるにつれて比叡山・南都など旧仏教からの攻撃を受け、「建永の法難」を契機に土佐国(実際には讃岐)に流罪され、その後、赦免。京都で生涯を終えます。
選択本願念仏集
法然の主著は『選択本願念仏集』です
まとまった著書としては、これ以外の著作はありません。法然の本領は、体系的に自説を展開することよりも、直接相手に働きかける人格的な魅力にあったと研究者は評します。それがさまざまな個性を持った多くの帰依者を引きつけるとともに、死後、多くの分派を生み出す一因にもなります。
『選択集』は独立した宗派としての「浄土宗」を確立することを意図しています。その中心になるのが、題名にある「選択本願念仏」の思想です。
①「選択本願念仏」とは、本願において選択された称名念仏のこと。②本願とは、阿弥陀仏が、仏になる前、法蔵菩薩と称されていた時代に立てた誓願のこと③『無量寿経』では四十八願を挙げているが、この中で法然が重視するのは第十八願。
そこには次のように説かれています。
「もし仮に私(法蔵菩薩)が悟りを得る時、十方にいる生けるものどもが、心から願い求め(至心信楽)、私の国に生まれようとして、十回以上念じても(乃至十念)、生まれないというなら、悟りを得ることはない」
法然は、ここで「念」という言葉を使っていますが、これは「声」と同義で、「十念」も十回の意ではなく、生涯にわたる修行から、たった一回までのすべてを包括していると考えていたようです。つまり、たった一回でも「南無阿弥陀仏」と声に出して唱えれば、阿弥陀仏の国(極楽世界)に往生できることを保証する。それ以外の行業は無用である、というのが法然の主張です。
『選択集』末尾には、この立場が次のように要約されています。
それ速やかに生死を離れむと欲せば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣いて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らむと欲せば、正雑二行の中、しばらく諸の雑行を地ちて、選んで応に正行に帰すべし。正行を修せむと欲せば、正助二業の中、猶は助業を傍らにし、選んで応に正定を専らにすべし。正定の業とは、即ち是れ仏の名を称す。名を称せば、必ず生ずることを得。仏の本願に依るが故なり。
意訳変換しておくと
速やかに生死の苦から離れようと思うのならば、2つの道の内の、聖道門を開いて浄土門に入れ。浄土門に入ろうと願うのならば、正雑二行の中の、雑行をなげうって、正行をおこなうべし。正行を修しようとするなら、正助二業の中の、猶は助業は傍らに置いて、正定を選んで専ら務めることである。正定の業とは、仏の名を称すことである。仏名を唱えれば、必ず生死の苦から逃れ、生ずる道を歩むことができる。それが仏の本願であるから。
ここには、生死(輪廻)の苦から離れるためには、本願の行である称名を行ずるべきで、それ以外の教えや実践をすべて捨てよ、と説かれています。これが専修念仏と呼ばれるものです。
ここで研究者が注目するのは、法然が二度「しばらく」と書いていることです。
これが意味深長だといいます。『選択集』の論理構成では、称名念仏は最易・最勝だから選択されるのであって、他の諸行は難であり劣ではあるけれども往生・成仏の行として許容される余地を残しているとします。
法然は浄上門に帰した行者は、聖道門(浄土門以外の諸宗)の行者に惑わされてはいけないと述べます。同時に、浄土門の行者が聖道門の行者と言い争ったり批判したりしてはいけないとも誠めています。ここで重要になるのが、本人の機根の自覚であり、それを示すのが「三心」です。
「三心」とは、『観無量寿経』に説かれる至誠心・深心・廻向発願心のことです。法然は『選択集』の中で、この三心に対する善導『観経疏』(『観無量寿経疏』)の注釈を長々と引用し、三心を行者の「至要」としています。三心の中核は、深心です。善導によれば、深心とは「深信」であり、自らが罪悪深重の凡人であると深く信じるとともに、その几夫を救済する阿弥陀仏本願の正行である称名念仏を深く信じることです。つまりは、「自分のような愚悪の者は、称名念仏以外には救われることはない」と信ずることです。こうした善導流の念仏観を具体的なイメージで説明したものが、有名な二河白道(にがびょくどう)です。法然は、これも全文を引用しています。
『選択集』の中では、三心の教説は、付け足しのようなものにみえます。しかし、法然没後に分派する門下たちが共通して重視しているのが、この三心の教説です。ここからは、三心を起こして口称念仏を行ずることが、法然門下の基本的実践だったことが分かります。
二河白道図
『選択集』の中では、三心の教説は、付け足しのようなものにみえます。しかし、法然没後に分派する門下たちが共通して重視しているのが、この三心の教説です。ここからは、三心を起こして口称念仏を行ずることが、法然門下の基本的実践だったことが分かります。
それを阿弥陀仏が本願として選択したベストな行として位置づけた点に、法然の教説の意義があるとされてきました。しかし、これは「後付けの理屈」に過ぎないと研究者は評します。それだけで専修念仏の爆発的な拡大があったことの説明にはならないとします。それでは、その要因は何なのでしょうか?
新しい宗教が広まるには、主唱者の人格的な魅力が欠かせません。
法然の場合は、並はずれた包容力にその中心があったと研究者は考えています。「南無阿弥陀仏とさえ唱えるなら、あとは何をしてもよい」というのが法然の基本姿勢です。これを支えるのは、単に阿弥陀仏の本願への確信というだけではなく、「自分には他には何もできない」という深い自覚です。称名のみにただひとつの救済の道として見出したとも云えます。三心を「行者の至要」と言う法然の本意は、経や疏にそう書かれているからということではなく、自らの自覚の表現として解するべきだと研究者は評します。
法然は具体的な行法として、長時修(じょうじしゅう)を重視します。
長時修は、四修(ししゅう)のうちの一つで、残りの三修は慇重(おんじゅう)修・無間(むけん)修・無余(むよ)修です。この三修は、称名の際の内面的なあり方を問題にしています。それに対して、長時修は臨終にいたるまで称名をやめるなというだけです。この長時修重視の姿勢は、法然の教説の中では、評判の悪いとされているようです。近代人のものの見方からすれば、当然かも知れません。例えば、ルター流の信仰義認説の立場に立つなら、機械的に称名を続けるなどというのは、はなはだ非宗教的なことで、内面的な信仰こそが重視されるべきだということになります。近代の法然解釈の多くは、こういう立場を暗黙の前提にします。
「何でもいいから称名を続ける」ということは、自分が劣っていると深く自覚したものが、阿弥陀仏の本願のみを頼んで、ひたすら称名し続けるということです。これが法然の基本姿勢で、逆にいえば、これ以外はどうでもよいということになります。そう考えると法然が戒律をたもったことや、授戒を行ったことを、専修念仏に反する矛盾・妥協と非難する必要もなくなります。
称名を行うことが第一義で、戒律の持破もどちらが本人に合っているかということに過ぎないのです。
持戒でなくても往生はできるが、わざわざ破戒する必要はない。持戒の方が称名しやすければ、持戒するのが良いということになります。授戒などの行業についても同じです。法然が貴族らに行った授戒は、病気平癒のためのようですが、これも称名による往生を目指すことと矛盾するものではありません。『徒然草』(第二百二十二段)には、専修念仏者でありながら光明真言や宝筐印陀羅尼による亡者追善を薦めた宗源(乗願房)のことが記されています。これは既成仏教と妥協したというのではなく、法然自身がこのような姿勢を持っていたからとも考えられます。
持戒でなくても往生はできるが、わざわざ破戒する必要はない。持戒の方が称名しやすければ、持戒するのが良いということになります。授戒などの行業についても同じです。法然が貴族らに行った授戒は、病気平癒のためのようですが、これも称名による往生を目指すことと矛盾するものではありません。『徒然草』(第二百二十二段)には、専修念仏者でありながら光明真言や宝筐印陀羅尼による亡者追善を薦めた宗源(乗願房)のことが記されています。これは既成仏教と妥協したというのではなく、法然自身がこのような姿勢を持っていたからとも考えられます。
専修念仏というと、他宗や他の行法を否定した面だけが強調されます。しかし、それは一部の弟子たちの行動で、法然とは異なると研究者は考えています。
七箇条制誡
法然教団への弾圧
法然は『七箇条制誡(ひちかじょうせいかい)』(1204)の末尾で、「三十年間、平穏に暮らしてきたが、十年前から、無智不善の輩が時々出るようになった」と述べています。ここで三十年前というのは、法然が専修念仏に回心した時点を指しています。法然の言葉を信じる限り、彼の思想が問題視されるようになったのは、むしろ弟子たちの言動によってだと考えていたことが分かります。法然没後、活発な活動を展開する弟子たちの多くは、ここでいう「十年」の間の人間者です。
大原談義
法然の教説をめぐって諸宗の碩学を交えての討論会(大原談義)が行われたとされます。
しかし、それ以外に法然の教説が問題視された形跡はないようです。法然の教団への批判が明確な形で現れるのは、元久元(1204)年になってからです。この年、延暦寺は奏状を提出して、専修念仏の停止を訴えます。これに対して、法然が門下の行動を制止するために制定したのが『七箇条制誠』です。これには当時、京にいた法然門下の遁世僧190名が署名して遵守を誓っています。ただ官僧であった隆寛や聖覚は署名していないようです。制誠の内容を要約しておきます。
しかし、それ以外に法然の教説が問題視された形跡はないようです。法然の教団への批判が明確な形で現れるのは、元久元(1204)年になってからです。この年、延暦寺は奏状を提出して、専修念仏の停止を訴えます。これに対して、法然が門下の行動を制止するために制定したのが『七箇条制誠』です。これには当時、京にいた法然門下の遁世僧190名が署名して遵守を誓っています。ただ官僧であった隆寛や聖覚は署名していないようです。制誠の内容を要約しておきます。
①専修念仏以外の行業や教学を非難してはいけない(第1~第3条)②破戒を勧めてはいけない(第4条)③自分勝手な邪義をとなえてはならない(第5~第7条)
これに対して、弟子たちの中には「法然の言葉には表裏がある」などと称し、制誠に従わない者もいたようです。そのため事態は鎮静化しません。翌元久二年には、貞慶が執筆した『興福寺奏状』が提出され、興福寺が専修念仏停止を訴えます。本状では、専修念仏者の悪行として次のような九項目を挙げています。
興福寺の専修念仏停止状
①新宗を立つる失(勅許によらず浄土宗を立てたこと)②新像を図する失(専修念仏者以外の不往生を不す摂取不捨曼茶羅を描いたこと)③釈尊を軽んずる失(阿弥陀仏以外の諸仏を礼しないこと)④万善を妨ぐる失(称名以外の諸行を否定すること)⑤霊神を背く失(神明を礼拝しないこと)⑥浄土に暗き失(諸行往生を認めないこと)⑦念仏を誤る失(観念よりも口称を重んじること)⑧釈衆を損ずる失(破戒・無戒を正当化すること)⑨国上を乱る失(専修念仏によって八宗が衰徴し王法も衰えること)
これを見ると。専修念仏が当時の社会に与えた影響を網羅的に挙げていることが分かります。 親鸞は、『興福寺奏状』が一つの契機となって、法然の流罪を含む専修念仏弾圧が引き起こされたと解釈しています(『教行信証』)。
しかし、興福寺との折衝にあたった藤原(三条)長兼の日記『三長記』には、朝廷側は法然らの処分に消極的であり、興福寺側の強硬姿勢に苦慮していることが記されています。法然側では、興福寺から処罰要求のあった安楽房遵西・法本房行空・成覚房幸西・住蓮のうち、特に問題の多かった行空を破門します。これに対して朝廷としては、興福寺の意を酌んで、専修念仏による諸宗誹謗を戒める宣旨を下すというあたりで、一応の決着が図られたようです。
しかし、興福寺との折衝にあたった藤原(三条)長兼の日記『三長記』には、朝廷側は法然らの処分に消極的であり、興福寺側の強硬姿勢に苦慮していることが記されています。法然側では、興福寺から処罰要求のあった安楽房遵西・法本房行空・成覚房幸西・住蓮のうち、特に問題の多かった行空を破門します。これに対して朝廷としては、興福寺の意を酌んで、専修念仏による諸宗誹謗を戒める宣旨を下すというあたりで、一応の決着が図られたようです。
しかし、建永2(1207)年10月25日に改元して承元元年になると、法然が流罪に、住蓮・安楽房が死罪に処されるという事態になります。これが「建永または承元の法難」と呼ばれます。
同時代人である慈円の『愚管抄』によると、住蓮・安楽房の二人は、善導の『六時礼讃』に節を付けた声明を始め、尼たちの人気を集めるようになります。やがて後鳥羽院の小御所の女房(伊賀局)が安楽たちをひそかに呼び寄せ、宿泊させます。こうしたところから生じた風紀の乱れが、直接の引き金となったようです。しかし、これも全くのでっち上げという可能性もあります。特に安楽房遵西は、既に名指しで非難されていたのに、なぜ行動を慎まなかったのか疑問が残ります。
同時代人である慈円の『愚管抄』によると、住蓮・安楽房の二人は、善導の『六時礼讃』に節を付けた声明を始め、尼たちの人気を集めるようになります。やがて後鳥羽院の小御所の女房(伊賀局)が安楽たちをひそかに呼び寄せ、宿泊させます。こうしたところから生じた風紀の乱れが、直接の引き金となったようです。しかし、これも全くのでっち上げという可能性もあります。特に安楽房遵西は、既に名指しで非難されていたのに、なぜ行動を慎まなかったのか疑問が残ります。
親鸞はこの事件について、次のように処罰の不当さを訴えています。(『教行信証』)。
「主上臣下、法に背き義に違し、恋を成し怨を結ぶ」「罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す」
ここからは多分に後鳥羽上皇の感情的な処置だったと親鸞は考えていたことがうかがえます。。
なお、『歎異抄』の奥書では、安楽・住蓮の他、善綽房西意・性願房が死罪に処され、法然・親鸞以下八名が流罪、そのうち幸西と証空は慈円が身柄を預かり、刑を免れたとしています。しかし、これは他の史料にはみえない記述です。
流配中の法然(讃岐那珂郡小松郷:まんのう町)
法然は土佐国配流に決定します。
しかし、保護者である九条家の荘園だった讃岐の塩飽本島や、那賀郡小松庄(まんのう町)で逗留している内に、その年の秋には罪を許され、畿内へ戻っています。そして摂津国勝尾寺(大阪府箕面市)に滞在した後、建暦元(1211)年に京に戻り、翌年ここで臨終を迎えます。
今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「新仏教の形成 躍動する中世仏教66P」
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