瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:法然寺

法然
法然 
浄土教の盛んだった京都黒谷別所の叡空の下で修学した源空(法然房)は、やがて、源信の『往生要集』に導かれて専修念仏にたどりつき、安元元年(1175)ごろまでに浄土宗を開立したと言われます。念仏以外のあらゆる行業・修法を切り捨て次のように宗旨を宣言しています。

「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申せば、うたがいなく往生するぞ、と思いとりて申外には別の子細候はず。」(一枚起請文)

 こうして浄土教は、一部の知恵者や遁世者、上層階級の者の宗教から解き放たれ、開かれた宗教としての道を歩み始めることになります。しかし、それは苦難の道でした。とくに、南都北嶺の旧仏教勢力からの弾圧を受け続けます。やがて、元久元年(1204)になると、延暦寺衆徒や興福寺などからの専従念仏禁止の運動が活発化するようになります。
 それを庇護したのが法然の下で出家した前摂政の九条兼実の力でした。そのバランスが崩れるのが建永元年(1206)3月のことで、事態は急変します。法然房は、土佐国配流と決まります。土佐国は、九条家が知行国主であったので縁故の土地でもありました。3月16日(旧暦)、京都を立ち、鳥羽から淀川を下り、摂津国の経ヶ島(兵庫)から「都鄙上下の貢船」と呼ばれた海船に乗り換えて、播磨国の高砂そして室津を経て讃岐国塩飽島に到着します。前回までにここまでを「法然上人絵伝」でたどってきました。
今回は、讃岐子松庄の生福寺での様子を見ていくことにします。

子(小)松庄に落ち着き給ひにけり
   35巻第2段 讚岐国子松庄に落ち着き給ひにけり。
当庄(子松庄)の内、生福寺といふ寺に住して、無常の理を説き、念仏の行を勧め給ひければ、当国・近国の男女貴賤、化導(けどう)に従ふ者、市の如し。或は邪見放逸の事業を改め、或は自力難行の執情を捨てゝ、念仏に帰し往生を遂ぐる者多かりけり。辺上の利益を思へば、朝恩なりと喜び給ひけるも、真に理にぞ覚え侍る。
 彼の寺の本尊、元は阿弥陀の一尊にておはしましけるを、在国の間、脇士を造り加へられける内、勢至(菩薩)をば上人自ら造り給ひて、「法然の本地身は大勢至菩薩なり。衆生を度せんが為の故に、此の道場に顕はし置く。我毎日影向し、帰依の衆を擁護して、必ず極楽に引導せん。若し我、此の願念をして成就せしめずんば、永く正覚を取らじ」
とぞ書き置かれける。勢至の化身として、自らその躰を顕はし名乗り申されける、真にいみじく貴き事にてぞ侍りける。

意訳変換しておくと
子松庄の生福寺といふ寺に住居を定めて日夜、無常の理を説き、念仏行を勧めた。すると讃岐の男女貴賤、化導(けどう)に従う者が、数多く現れた。こうして、邪見放逸の行いを改め、自力難行の執着を捨てて、唯一念仏に帰して、往生を遂げる者が増えた。辺境の地である讃岐のことを考えると、まさに法然の流刑は、「朝廷からの朝恩」と歓ぶ者もいたと云うが、まさに理に適った指摘である。
 生福寺の本尊は、もともとは阿弥陀一尊であった。法然上人は讃岐在国の間に、脇士を造ることを思い立ち、自ら勢至(菩薩)を彫った。そして次のような銘文を胎内に書き付けた。「法然の本地身は大勢至菩薩である。衆生を極楽往生に導くために、この道場に作り置く。我は毎日影向して、帰依した者を擁護して、必ず極楽に引導するであろう。もし、この願念を成就しなければ、正覚をとることはしない」
と書き置いた。こうして法然上人は、生福寺に勢至の化身として、自らその躰を現し名乗っている。真にいみじく貴い事である。

小松郷生福寺入口
35巻第2段 子松庄の生福寺の山門に押しかける人々
  生福寺に法然がやって来ると、多くの人が集まってくるようになります。それは日を追う毎に増えていきます。寺の門前は、市が立っているようなありさまです。

生福寺山門拡大
①馬を駆って武士と出家姿の老僧がやってきて賑やかになっています。
②白衣の老婆を背にして門をくぐる若者
③市女笠の赤い服の女房の手をひく男
④大きな黒い傘をもつ旅芸人風の男
門からは多くの人達が、雪崩打つように入ってきます。

小松郷生福寺2
生福寺本堂(法然上人絵伝)
  生福寺の本堂は人で溢れんばかりです。
①本堂の畳の上に経机置かれ、経典が積まれています。その前に法然が座っています
②向かって右側には武士の一団
③左側が僧侶の一団のようで、④尼や女性もいます。僧侶の中には縁台に座れずに立ったままの姿が何人もいます。
⑤の男は顔が青くて、気分が悪いのでしょうか、刀を枕に寝転んでいます。二日酔いかな?
⑥幕の内側からは若い僧侶が、和尚さんをこっちこっちと手招いています。
⑦では、どこかからの布施物者が運び込まれています。
人々は、法然が口を開くのを今か今かと待っています。

小松郷生福寺3
        生福寺本堂後側(法然上人絵伝)

その後からは法然に付き従った弟子たちが、見守ります。
法然の落ち着き先について『法然上人絵伝』は、次のように記します。
①「讃岐国子(小)松庄におちつき給にけり、当庄の内生福寺といふ寺に住」

『黒谷土人伝』には、次のように記されています。
②「同(建永二年)三月十六日二、法性寺ヲ立テ配所二趣玉フ、配所「讃岐国子松ノ庄ナリ」

どちらも配所は「讃岐国子松庄」です。
まんのう町の郷
法然が落ち着いた子(小)松庄(現在の琴平周辺)

法然が落ち着いた子松庄というのは、どこにあったのでしょうか?
 角川書店の日本地名辞典には、次のように記されています。
琴平町金倉川の流域、琴平山(象頭山)の山麓一帯をいう。古代 子松郷 平安期に見える郷名。那珂郡十一郷の1つ。「全讃史によれば、上櫛梨・下櫛梨を除く琴平町全域が子松郷の郷域とされており、金刀比羅官(金毘羅大権現)とその周辺地域が子松と通称されていたという。
中世の子松荘 鎌倉期~戦国期に見える荘園名 
元久元年4月23日の九条兼実置文に、千実が娘の宜秋門院任子(後鳥羽上皇中官)に譲渡した所領35荘の1つとして「讃岐国子松庄」と見える。
 子松郷は現在の琴平周辺で、郷全体が立荘され、九条兼実の荘園となっていたようです。ここからは法然の庇護者である九条兼実が、自分の荘園のある子松郷に法然を匿ったという説が出されることになります。しかし、注意しておきたいのは子松荘のエリアです。小松庄は、現在の琴平町から櫛梨をのぞく領域であったことを押さえておきます。
   次に、拠点としたという生福寺について見ておきましょう。
法然上人絵伝には「当庄の内 生福寺」と、具体的な寺名まで記されています。しかし、生福寺については、どこにあったのかなどよく分かりません。後の九条家の資料の中にも出てこない寺です。
 九条家の資料に出てくる小松荘の寺院は、松尾寺だけです。子松荘には松尾寺があり、鐘楼維持のための免田が寄進されています。この免田は、荘園領主(九条家)に対する租税免除の田地で、この田地の年貢は松尾寺のものとなります。ちなみに、松尾寺の守護神として生み出されるのが「金毘羅神」で、その神を祀るようになるのが後の金毘羅大権現です。
 どちらにしても生福寺という寺は、法然の讃岐での拠点寺院とされるのですが、その後は忘れ去られて、どこにあったのかも分からなくなります。

  それを探し当てるのが初代高松藩主松平頼重です。
その経緯を「仏生山法然寺条目」の中で、知恩院宮尊光法親王筆は次のように述べています。
 元祖法然上人、建永之比、讃岐の国へ左遷の時、暫く(生福寺)に在住ありて、念仏三昧の道場たりといへども、乱国になりて、其の旧跡退転し、僅かの草庵に上人安置の本尊ならひに自作の仏像、真影等はかり相残れり。しかるを四位少将源頼重朝臣、寛永年中に当国の刺吏として入部ありて後、絶たるあとを興して、此の山霊地たるによって、其のしるしを移し、仏閣僧房を造営し、新開を以て寺領に寄附せらる。

意訳変換しておくと
①浄土宗の開祖法然上人が建永元年(1207)に讃岐に左遷され、しばらく生福寺に滞在した。
②その際に(生福寺)は念仏三昧の道場なり栄えた。
④しかし、その後の乱世で衰退し、わずかに草庵だけになって法然上人の安置した本尊と法然上人自作の仏像・真影ばかりが残っていた。
⑤それを寛永年中に高松藩主として入国した松平頼重は、法然上人の旧跡を復興して仏生山へ移し、法然寺を創建し田地を寺領にして寄進した。
⑥生福寺の移転跡には、新しく西念寺が建立された。
ここには、17世紀後半には生福寺は退転し草庵だけになっていたこと、本尊や法然真影だけが残っていたと記されています。注意したいのは、退転し草庵だけになっていた生福寺の場所については何も触れていないことです。「法然上人絵伝」には「当庄(子松庄)の内、生福寺といふ寺に住して、無常の理を説き、」とありました。生福寺は小松荘にあったはずです。旧正福寺跡とされる西念寺は、まんのう町狹間)なのです。ここからは「西念寺=旧正福寺跡」説を、そのままに受け止めることは、私にはできません。
 松平頼重が仏生山法然寺を創建するための宗教的な意図については、以前にお話ししましたので、要約して確認しておきます。
①藩主の菩提寺として恥じない伽藍を作りあげること。
②それを高松藩における寺院階層のトップに置くこと、つまりそれまでの寺院ランクの書き換えを行うこと。
③徳川宗家の菩提寺が増上寺なので、同じ宗派の浄土宗にすること
そこで考えられたのが法然上人絵図の「法然讃岐左遷」に出てくる生福寺なのでしょう。そして、草庵に退転してた寺を「再発見」したことにして、仏生山に移し、その名もズバリと法然寺に改称します。こうして法然寺は藩主があらたに創建した菩提寺という意味だけでなく、法然上人の讃岐流刑の受難聖地を引き継ぐ寺として、「聖地」になっていきます。江戸時代には法然信者達が数多くお参りする寺となります。このあたりにも、松平頼重の巧みな宗教政策が見えて来ます。

法然が讃岐小松庄に留まったのは、わずか10ケ月足らずです。
しかし、後の念仏聖たちが「法然伝説」を語ったことで、たくさんの伝承や旧蹟が産まれてきます。例えば讃岐の雨乞い踊りの多くは、法然が演出し、振り付けたとされています。
 これについて『新編香川叢書 民俗鎬』は、次のように記します。

  「承元元年(1207)二月、法然上人が那珂郡子松庄生福寺で、これを念仏踊として振り付けられたものという。しかし今の踊りは、むしろ一遍上人の踊躍念仏の面影を留めているのではないかと思われる」

ここからは研究者達は「法然=念仏踊り」ではなく、もともとは「一遍=踊り念仏」が実態であったものが後世の「法然伝説」によって「株取り」されていると考えていることが分かります。一遍の業績が、法然の業績となって語られているということでしょう。そして、讃岐での一遍の痕跡は、次第にみえなくなり、法然にまつわる旧蹟が時代を経るにつれて増えていきます。これは弘法大師伝説と同じ流れです。
 中世には高野聖たちのほとんどが念仏聖化します。
弥谷寺や多度津、大麻山などには念仏聖が定着し、周辺へ念仏阿弥陀信仰を拡げていたことは以前にお話ししました。しかし、彼らの活動は忘れられ、その実績の上に法然伝説が接木されていきます。いつしか「念仏=法然」となり、讃岐の念仏踊りは、法然をルーツとする由来のものが多くなっています。

最後に、法然上人絵伝の讃岐への流刑を見てきて疑問に思うことを挙げておきます。
①流刑地は土佐であったはず。どうして土佐に行かず讃岐に留まったのか。
これについては、庇護者の九条兼実が手を回して、自らの荘園がある子松荘に留め置いたとされます。そうならば当時の讃岐国府の在地官僚達は、それを知っていたのか、また知っていたとすればどのような態度で見守ったのか?
②法然死後、約百年後に作られた「法然上人絵伝」の制作意図は「法然顕彰」です。そのため讃岐流配についても流刑地での布教活動に重点が置かれています。それは立ち寄った湊で描かれているのが、どれも説法シーンであることからもうかがえます。「近国遠郡の上下、傍荘隣郷の男女群集して、世尊のごとくに帰敬したてまつりける」から、讃岐にとっては「法然流刑」は、願ってもない往生念仏の布教の機会となって有難いことだったという結論に導いていきます。そのため、後世の所の中には、これが流刑であることを忘れ「布教活動」に讃岐にやって来たかのような視線で物語る書も現れます。それは、信仰という点からすれば当然の事かもしれません。しかし、歴史学という視点から見るとあまりに史料からかけ離れたことが、史実のように語られていることに戸惑いを思えることがあります。空海が四国88ヶ所を総て開いたというのが「弘法大師伝説」であるように、法然に関わる旧蹟や物語も「法然伝説」から産まれ出されたものと割り切る必要があるようです。
以上をまとめておくと、
①土佐への流刑となっていた法然一行は、塩飽から子松庄の生福寺に入った。
②子松荘は現在の琴平周辺で、九条兼実の荘園があっので、そこに法然を保護したとされる。
③生福寺には、数多くの人々が往生念仏の道を求めてやってきて結縁したと伝えられる。
④しかし、子松庄にあった生福寺については、よくわからない。
⑤生福寺が再び登場するのは、高松藩主松平頼重が仏生山に菩提寺を建立する際に「再発見」される。
⑥松平頼重は、法然の聖地として退転して草庵になっていた生福寺を仏生山に移し、法然寺と名付けた。
⑦これは高松藩の寺院ヒエラルヒーの頂点に法然寺を置くための「演出」でもあった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

前回は、途中から金毘羅さんの方へ話が進んでしまって、仏生山のことが尻切れトンボになってしまいました。仏生山門前町の発展に素麺屋さんが大きく寄与していることに前回は触れました。これは、私には面白い話なので、今回はもう少し追いかけて見ます。
    仏生山の素麺業者の願いをうけて享保13年に、法然寺が郡奉行へ出した次のような要望書があります。
門前町人共五拾九年前素麺の座下し置かれ候、近年別而困窮に及び候得共、是れを以て渡世の基二仕り、只今迄取続き罷り在り、偏えに以て開祖君御源空(法然)の程愚寺に於ても在り難く存じ奉り候、然ルニ近年出作村下百相村二而素麺致す二付き、町人共難儀の筋(中略)
申し出候、右隣村の義、近年乍ら致し来たり杯と名付け捨て置き候而、畢竟、龍雲院様(松平頼重)成し置かされ候御義相衰え候段、千万気の毒二存じ奉り候、其の上町人共末々門前居住も仕り難き由の申し立て、尤も以て黙正し難き趣二候段、則ち町人共願書(下略)
意訳すると
①仏生山門前では、59年前に素麺座をつくり共存を図ってきたが近年困窮化している。
②素麺業は藩祖松平頼重のお陰で発展してきたもので、その素麺業が衰えてしまっては困る
③原因は出作村や下百相村での新たな素麺業者の競合
④仏生山素麺業の継承、発展のための保護をお願いしたい
 郡奉行の方では、法然寺や門前素麺業者の意向をくんで、近隣業者の水車のひとつを運転停止にするという措置で、紛争を収めています。この史料からは、いろいろなことがうかがえます。
①まずは、素麺業者の数の増加ぶりです。
59年以前から素麺座があったと云います。しかし、それは寛文十年に当たり、松平頼重によって法然寺が建立された年です。建立当初から素麺座があったとは考えられません。まあ、城下から四・五人の素麺屋を仏生山に移住させて座をつくらせたと考えておきましょう。それが、約60年後には、50人に増加しています。10倍強の増大ぶりで、頼重の「仏生山特区振興策」のたまものかもしれません。同時に座を作り、ギルド的な規制で新規参入者を入れないという動きも見えます。50軒という数字は、幕末まで変わらないことがそれをうかがわせます。
② 次に注目すべき点は、「近年出作村下百相村七川素麺致す」と書かれている所です。
出作村も下百相村も仏生山門前に隣接する村です。とくに下百相村からは平池の水掛りをうけています。隣接する村が仏生山門前の素麺業の活況を見て、新規に参加してきたのです。この動きに対して素麺座の方は、ギルド的閉鎖性から法然寺の力を借りて抑圧する方向に動いていたことが分かります。
 約120年後の天保十三年(1842)に、今度は平池水掛り村々の百姓と素麺業者との間で紛争が起きます。
その決着の際に、浅野村の水車持主三人(素麺業者)が出した詫び状の一札をみて見ましょう。
       一札の事
 平池用水ヲ以て私共渡世致し候義、本掛り衆中丿故障等者之れ無き義与相心得、種々身勝手二趣不束の義致し候所、用水御指支えの趣、卯七月願書の通り、夫々御願い出二付き、水車御指し留め御封印御附け置き成され候上、御役人中様御入り込み、達々御吟味仰せ付けられ、平池用水の義者御収納(水田)第一の義二付き、御普請等仰せ付けられ候義二而、水車の用水与申す義者毛頭之れ無き段、尚、達々仰せ聞かされ二付而者、前件の趣二言の御申し訳相立ち申さず、不調法至極恐れ入り奉り後悔致し罷り在り候、然ル所、本掛り衆中丿水車取り除ケ候様御願い出二付、甚心配仕り候趣、達々御願い申し上げ候所、此の度、岡村庄屋丸岡富三郎殿・寺井村庄屋山崎又三郎殿・東谷村庄屋嘉右衛門殿、右始末、本掛り衆中江御掛合下され候所、取除ケ御願いの義者、御扱い人衆中様江御任せ下され候由、在肛難き仕合せ二存じ奉り候、左の条以来相守り申すべく候(下略)

これをみると、「御取調べの節御指し留めに相成」りとして、これ以前の文化年間にも紛争が起きていたようです。その時は、水車がひとつだけ運転停止になったと記します。
意訳すると、
「私どもは平池の水を使って渡世(稼業)いたしてきました。そのことが本掛りの方々に大層迷惑をかけていたとも知らずに水車を動かしていたわけですが、用水に支障がおこっているため水車の封印を願うという天保十四年七月の本掛りの方々の願書で、役人衆が見分に来ました。その際の吟味で平池用水は年貢収納第一のためのものであって水車の用水ではないことが十分にわかり、これまでのことについては誠に申しわけなく後悔いたしております。
 ですが、本掛り衆の願い出ている水車撤去については困ったことと心配しておりましたところ、岡村庄屋丸岡富一二郎殿・寺井村庄屋山崎又三郎殿・東谷村庄屋嘉右衛門殿が掛け合い、取り除いていただきました事について、まことにありがたき幸せと感じ入り、以後は取り決めを遵守していく所存であります。

素麺業者の「違法行為」を認めた上での詫び状的な内容です。
「平池水掛り衆が水車の取り除ヶを訴える程の一種々身勝手』とあり、百姓の中には水車の撤去を主張する者もいたようです。そこまで百姓を怒らせた背景には、素麺業者の中に
①水車の大きさを次第に大きくしていったり、
②新しい井手を勝手に作って水を流したり、
③水車を新しく建てる際に道を勝手に潰したり、
④ひどいものは、用水を水車小屋の中へ引き込む形にして水車を廻したりする者がいた
からのようです。
   素麺の需要増大と用水問題の発生
 これを逆に考えれば、水車稼働能力を高め小麦粉の増産を求められていたことになります。そこまでして、生産しなければ需要に追いつかないという実情があったのでしょう。その傾向は、文化年間ごろあたりから始まったようです。
 先ほど見た享保十三年の紛争の際には、水車の一つが運転を停止するといった形で妥協したわけですが、その後は素麺業者にとって有利な状況が続いていたようです。その背景には、前回に見たように、松平頼重が門前を繁栄させるために素麺業者を呼びよせたという「始祖物語」と、法然寺の素麺業者保護という背景があったからでしょう。そして素麺需要の増大に対し、素麺業者らは「種々身勝手」なやり方で、その生産量を増やしていきます。

4344098-05仏生山
仏生山
 どうして文化年間ごろから素麺需要が伸びたのでしょうか?
まず、考えられるのは法然寺への参拝者の増加です。文政五年の開帳では、「御触」の中に次のように記されています。
「此の度、仏生山開帳二付き、参詣人多く之れ在るべく候、就中、他国ぶも参詣人之れ在り、貴賤群衆致すべく候」
「先年御開帳の節なども右場所二而一向参詣ノ衆中休足も仕らず模寄々々二至り恰」
と、開帳のたびに以前にまして、参詣人が増えていったことがうかがえます。また、開帳時以外のふだん時でも、参詣者が多くなっていたことが次のように記されています。
 金比羅石燈篭建立願願い上げ奉る口上
 私共宅の近辺、仏生山より金毘羅への街道二而御座候処、毎度遠方旅人踏み迷い難渋仕り候、之れに依り申し合わせ、少々の講結び取り御座候而、何卒道印石燈篭建立仕り度存じ奉り候、則ち、場所・絵図相添え指し出し候間、願いの通り相済み候様、宜しく仰せ上げられ下さるべく候、願い上げ奉り候、已上
 文化七午年十月 香川郡東大野村百姓 半五郎
                   政七
    政所 文左衛門殿
これは仏生山から一つ村を隔てた大野村の百姓半五郎と金七が連名で提出した道印「石燈篭建立願い」です。その建立理由には、
家近くに仏生山から金毘羅への街道があるが、遠方の旅人がよく迷い込んで難渋している様子をよく見る。そこで、講をつくり、その基金で道標・石燈篭を建てて旅人が迷わないようにしたい
というものです。
 仏生山から金毘羅へむかう参詣者・旅人が増えていることを示す史料です。ちなみに、この石燈篭は今でも建っているそうです。
 金毘羅や法然寺などの寺社への参詣の増加という風潮
18世紀後半頃から湯治、伊勢参り、西国巡礼、四国八十八力所巡拝など、庶民が旅行に出るという風潮が広がります。法然寺も「聖地巡礼」のひとつになっていたようです。それは「法然上人遺跡二十五箇所巡拝」と関係します。この巡拝は、18世紀半ばの宝暦年間にはじまります。法然の五百五十回忌が宝暦11年(1762)にあたることから、それを記念する事業として始められたようです。「遺跡二十五箇所巡拝」の25という数字は、『仏教大辞典』によると
「源空(法然)示寂の忌日たる正月二十五日、或は念仏来迎の聖衆たる二十五菩薩などの数に因みたるものなるべし」
とあります。この25霊場は、
一番 作州誕生院 
二番 讃州仏生山法然寺 
三番 播州高砂十輪寺
と続いて、以下摂州→摂津国→大坂→紀州→大和→京都と各浄土宗の寺を巡拝し、第二十五番に大谷知恩院で完了するというルートです。法然寺は、この二番目の霊場に当たるようです。
 宝暦ごろからはじまった法然霊場巡りは、19世紀の文化年間ごろに、最も賑わいを見せるようになります。この頃は、四国八十八ヵ所の霊場巡拝や金毘羅参りも盛んになる時代です。これらの聖地を行楽を兼ねて巡拝することが、全国的に盛んになったのでしょう。そのような中で、法然寺門前も急速に繁栄していき、素麺業も発展します。その結果が
①素麺材料の小麦の増産
②水車の稼働率の向上と大型化
③用水の確保 
④平池の農業用水の権利侵犯と争論発生
という流れとなって現れたようです。
仏生山の繁栄は、周囲の出作村や百相村に波及していきます。
天保五年(1834)百相村の内の桜の馬場・出作村の下モ町(両町とも仏生山門前の続き)との氏子惣代が提出した口上書です。
  願い上げ奉る口上
私共氏神膝大明神定例九月十三日御祭日二而御座候、右祭礼の節者神勇のための檀尻二而花笠踊、仏生山町続き百相村の内桜ノ馬場、出作村の内下モ町二而都合二つつゝ古年仕成二御座候処、(中略)
右下モ町・桜ノ馬場与申す場所者 仏生山町同様二而店々商イ等の義茂御免遊ばされ、尚又桜ノ馬場二於て人形廻シ万歳芸等古年者御願済み二而土地賑いのため春秋仕来たり居り申し候、(中略)
且右場所町並二居り申し候者共商イ等仕り、当時相応の渡世も出来、一統御国恩の程在り難く存じ奉り候、尚又町内障り無く相暮らシ居り申し候義、全く氏神の御与刄奉り候聞、祭礼の節、神勇のため檀尻踊の義御免遊ばされた・・
「仏生山町続き」に注意しながら意訳してみましょう
①神膝大明神定例祭には、仏生山町続きの百相村の内桜ノ馬場出作村の内下モ町も参加してきた。
②このふたつの町は仏生山と同じように商いの特権を与えられてきた
③そのため「賑わい創出」のために人形回しや演芸なども春秋に行っている
④ふたつの村は仏生山と共に商いを行い、発展してきた
と「仏生山との一体性」を強調します。
この口上書には「付札」があり、それには本文に続いて次のように記します。
仏生山同様与申す義者、恐れ乍ら龍雲院様(松平頼重)仏生山御建立の節、百相村の内新開地仏生山江御寄附遊ばされ、当時仏生山町の場所汪居宅等仕り候者者御年貢諸役等御免二仰せ付けられ候由、下モ町桜ノ馬場同様二仰せ付けられ候哉の御模様二而兎角土地祭茂仕り候様二与御趣意二而、本文申し上げ候通り、桜ノ馬場二人形廻シ井万歳芸等土地賑いの為め、御免遊ばされ、庄屋御取り上げ下され候、土地の由申し伝え候間、何卒格別ヲ以て加文、願いの通り相済み候様宜しく願い上げ奉り候
この内容は、
①下モ町と桜ノ馬場は法然寺建立の際に頼重が寄進した新開地に含まれている
②仏生山門前同様に年貢諸役が免除された土地である
③だから人形廻し・万歳芸なども土地賑いのために許されていたのである
という主張展開になっています。そのままこれが事実であるとは云えないようですが、仏生山の影響を受けて享保十三年に「出作村下百相村」で素麺を始めたというのは、この付近なのかも知れません。寛文年間以降、仏生山の門前が次第に拡大し、祭礼を通して周辺の町並との一体化の風潮が進んでいったようです。

以上をまとめると
①松平頼重は仏生山の門前町作りについてもプランを持っていた。
②門前町形成のパイオニアとなったのは素麺業者である。
③彼らは松平頼重の保護を受け、急速にその数を増やし座を形成し特権擁護を図った
④急速な素麺業の発展の背後には、庶民の参拝熱の高揚があった
⑤周辺にも素麺業を始める者が現れ、門前町の拡大が始まる
⑥その際に周辺の商人も特権確保のために昔から仏生山の一員であったと主張するようになる
⑦こうして、周辺地域の仏生山化が進む
4344098-06仏生山法然寺
法然寺
讃岐の門前町は、藩の保護の下で発展していった例が多いようです。特に、高松藩初代藩主松平頼重の貢献は大きかったことが仏生山からも分かります。
参考文献     
丸尾 寛  近世仏生山門前町の形成について

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