象頭山にあった松尾寺の守護神は、もともとは三十番社だったとされます。
金毘羅権現の創生期を考える時に、三十番神の存在を避けて通るわけには行かないようです。ということで、今回は三十番神と向き合うことにします。
江戸時代中期に書かれた「箸片治良太夫日記」という記録があります。
これは「象頭山内五家之神職」、つまり、五人百姓の一つである箸片家の日記です。箸片氏は、御寺方と称し象頭山内で神職の地位にあり、神前において箸一本を得たので箸片氏と改めたと記されています。この中に、つぎのような記事があります。
御寺方之事 往古依神代古式以神職付山内故云御寺方明応六年秋山土佐守泰忠 三十番神奉勧請使加祭御八講
ここには明応六年(1497)、秋山泰忠が三十番神を勧請して御八講の神事を始めたと記されています。
秋山泰忠というのは、西遷御家人として東国からやって来た法華経門徒で、三野町に本門寺を建立した秋山氏のことです。讃岐の日蓮宗は正応二年(1289)に、この秋山泰忠が日華を招いて、那珂郡杵原郷(現丸亀市)に本門寺大坊を建立したことに始まります。同寺は焼失した後は、日仙が正中元年(1324)に三野郡高瀬郷(現)に本門寺を建立します。秋山氏は所領など関係をもっていた那珂郡の柞原などの讃岐内の七か所に日蓮宗の三十番神を建立したといいます。その一つが、この史料の象頭山の南嶺の三十番神なのでしょうか。これをそのまま信じることはできませんが、当時の人達は法華経や、それを守護する三十番神は秋山氏がもたらしたものと考えていたことはうかがえます。
中世の法華経は、日蓮宗に限られものではありませんでした。天台宗のよりどころとなる教典も「法華経」でした。天台宗では法華教八巻を講説する法要を「法華八講」といいます。この法華宗信仰は、祖先や由縁の人々を供養する法事として、平安時代以降広く一般民衆の中に深く根を下ろしていきます。小松荘の墓寺としての機能を果たしていた松尾寺に法華経講会が行われていても不思議ではありません。しかし、鎌倉末期の泰忠と箸方氏の伝える泰忠とは、時代の差に二百年の隔たりがあります。ただ、秋山氏を先祖とする法華経信者集団が小松荘にもいて、信仰行事としておこなっていたことは考えられます。秋山氏の祖先で、讃岐における法華信者の大恩人としての秋山泰忠を担ぎ出したのかもしれません。このあたりはよく分かりません。
中世の法華経は、日蓮宗に限られものではありませんでした。天台宗のよりどころとなる教典も「法華経」でした。天台宗では法華教八巻を講説する法要を「法華八講」といいます。この法華宗信仰は、祖先や由縁の人々を供養する法事として、平安時代以降広く一般民衆の中に深く根を下ろしていきます。小松荘の墓寺としての機能を果たしていた松尾寺に法華経講会が行われていても不思議ではありません。しかし、鎌倉末期の泰忠と箸方氏の伝える泰忠とは、時代の差に二百年の隔たりがあります。ただ、秋山氏を先祖とする法華経信者集団が小松荘にもいて、信仰行事としておこなっていたことは考えられます。秋山氏の祖先で、讃岐における法華信者の大恩人としての秋山泰忠を担ぎ出したのかもしれません。このあたりはよく分かりません。
あるいは、明応6年の15世紀末頃に、番神社が再興(創建?)されたことを示す物かもしれません。いずれにしても、この象頭山でも法華信仰の八講法会が、死者への追善供養のために行われ、墓寺や氏寺では、氏人らの回忌ごとに盛んに行われていたとしておきます。
それでは、守護神である三十番社とは何者なのでしょうか。
それでは、守護神である三十番社とは何者なのでしょうか。
古代末から中世には「神が仏を守る」ということが始まります。その先駆けは八幡信仰です。九州の八幡神が東大寺造営の際に守護神として勧進されたのをスタートに、八幡神は寺院の境内の中に守護神として「勧進=移住」してきます。こうして「仏を守る守護神」たちが姿を変えて、寺院の境内に姿を見せるようになります。それは「神は仏の姿を変えたもの インドの仏が日本では神に化身して現れる」と神仏習合へと進むようになります。番神は、最澄が中国の唐から帰り、比叡山に天台宗法華経の道場を開いた時、その山門を守護してもらうため、これまで日本にあった神々を祭ったことに始まるといいます。
続いて円仁は、法華経の功徳は「授持・読誦・解説・書写」にありといって、法華経の経典を人に授けたり、持っていたり、唱えたり、解説したり、書写したり、そのどれか一つを行っただけでも仏の功徳を受けることができると説きます。円仁自身も法華経八巻約七万字を越える経典を三ヵ年かかって写経し、これを如法経と呼びます。この写経を安置する堂を比叡山横川に造って根本如法堂として、この法華経の守護を神々に願います。
番社神の神像の一部
そして日本国中から主な神々三十神を勧進して祀り、一ヵ月三十日を一日交替で守護するようにしました。三十の神々が順番に守護するから、三十番神と呼ばれるようになります、現在で比叡山では、根本道場の横川如法堂の隣に鎮座して、法華経を守護しています。
番社神の神像の一部
そして日本国中から主な神々三十神を勧進して祀り、一ヵ月三十日を一日交替で守護するようにしました。三十の神々が順番に守護するから、三十番神と呼ばれるようになります、現在で比叡山では、根本道場の横川如法堂の隣に鎮座して、法華経を守護しています。
鎌倉時代に出た日蓮は、法華経を最高の経典と定め、その教えを実践し布教することが真実の道だと説きます。そのためには、まず日本の国の神々に加護を願わねばならぬと考えるようになります。こうして、法華経とともに大小の神々を祭るという思想が発展します。
丸亀市の田村町にある番社を訪ねてみましょう。
田村町の旧国道沿いの道路の北側に面して鳥居が立っています。これが番神宮です。ここの三十番神は、木像で、五体七段の35体が厨子に祀られています。それぞれ厚畳の上に座る神像で、一体の高さは約七㎝と小さいものです。最も下の段は、両端に一体ずつの衛士、中央の三体は向かって右から、一日の熱田大明神、三日の広田大明神、四日の気比大明神であり、最上段は向かって右から、十日の伊勢大明神の座像、大日天王の立像、中央は大明星天王の立像、大月天王の立像、左端は十一日の八幡大菩薩の僧形座像です。最上段のこの五体を特に五番神と呼ぶようです。
厨子には「開眼主 慧光山本隆寺日政(花押)」と記されています。
日政は弘化四年から嘉永三年まで本隆寺貫主として四ヵ年在職していますが丸亀を訪れたという記録はありません。この神像は京都の仏師によって作られ、日政によって開眼された後に丸亀へ祭られたものではないかと考えられています。田村の番神さまは、江戸末期の天保から弘化のころまでに作られたもののようです。ちなみに、京極藩は藩主とともに家臣にも番神信仰が厚かったようです。
それでは日本中から勧進された三十の神々を見てみましょう
一日 熱田大明神 愛知県名古屋 衣 冠二日 諏訪大明神 長野県諏訪 狩人姿二日 広田大服神 兵庫県西宮 黒束帯四日 気比大明神 福井県敦賀 衣 冠五日 気多大明神 石川県羽咋 黒束帯六日 鹿島大明神 茨城県鹿島 神将姿七日 北野天神 京都府葛野 衣冠八日 お七大明神 京都府愛宕 唐 服(女神)九日 貴松大明神 京都府愛宕 鬼神形十日 伊勢大明神 三重県伊勢 黒束帯十一日 八幡大菩薩 京都府鳩峰 僧形十二日 賀茂大明神 ″ 愛宕 黒束帯十三日 松尾大明神 ″ 葛野 黒衣冠十四日 大原野明神 乙訓 唐 服(女神)十五日 春日大明神 奈良県奈良 鹿座十六日 平野大明神 京都府葛野 黒束帯十七日 大比叡大明神 滋賀県滋賀 僧形十八日 小比叡大明神 滋賀県滋賀 大津 白狩衣十九日 聖真子権現 滋賀県滋賀 僧形二十日 客人大明神 滋賀県滋賀 唐服(女神)二十一日 八王子大明神 滋賀県滋賀 黒束帯二十二日 稲荷大明神 京都府紀伊 唐服(女神)二十三日 住吉大明神 大阪府住吉 白衣老形二十四日 祇園大明神 京都市八坂 神将形二十五日 斜眼大明神 京都府談山西麓 黒束帯二十六日 建部大明神 滋賀県瀬田 ″二十七日 三上大明神 滋賀県野洲 ″二十八日 兵主大明神 滋賀県兵主 随身形二十九日 苗鹿(のうか)大明神 滋賀 唐 服(女神)三十日 吉備大明神 岡山県岡山 黒束帯
「日本中から集めた」といわれますが、殆どが畿内で、最も東が鹿島大明神(茨城県鹿島)、もっとも西が「吉備大明神」(岡山県岡山)のようです。東北・九州・四国からは一社も呼ばれていないようです。当時の「世界観」の反映なのかなと思ったりもします。
「金毘羅大権現神事奉物惣帳」 伝宥範書写の神事記について
この文書は、冠名に「金毘羅大権現」の名前がつけられていますが、研究者は「必ずしも、適当ではなく、『松尾寺鎮守社神事記』とでも言うべきもの」と指摘します。
また「右件の惣張(帳)者、観慮元年己未十月日於讃屈仲郡子松庄松尾寺宥範写之畢」とありますが、書き込みや年号などの検討から善通寺中興の祖である宥範が写したものではなく、後世に書き加えられたものと研究者は判断しています。
金毘羅大権現神事奉物惣帳
ここに記載された神事の内容は、「八講大頭人」とあることからも分かるように、法華八講についてのものです。また、江戸時代以降の金毘羅大権現の大祭の儀式も、その頭人名簿のことを「御八講帳」と呼んでいます。さらに、精進屋の祭壇の後ろに掲げられる札にも「奉勧請金毘羅大権現御八講大頭人守護所」と書かれています。以上からも、金毘羅大権現の大祭は中世の法華八講の姿をそのまま踏襲していることが分かります。
ここに記載された神事の内容は、「八講大頭人」とあることからも分かるように、法華八講についてのものです。また、江戸時代以降の金毘羅大権現の大祭の儀式も、その頭人名簿のことを「御八講帳」と呼んでいます。さらに、精進屋の祭壇の後ろに掲げられる札にも「奉勧請金毘羅大権現御八講大頭人守護所」と書かれています。以上からも、金毘羅大権現の大祭は中世の法華八講の姿をそのまま踏襲していることが分かります。
諸貴所宿願状は第一丁から第八丁までの料紙に記載された事項です。
ここには料紙半切の中央に、祭祀の宿(頭屋)を願い出た者の名前を書き、その脇にそれらの頭人からの寄進(指し入れの奉納物)が記入されています。それらの家々は、小松荘の地頭方や「領家分」「四分口」などという領家方の荘官(荘司)らの名跡が見えるなど、当時のこの地域を支配する国人・土豪クラスの領主などと比定することができます。
家名の順序は、地頭方の地頭、地頭代官、そして、領家方の面々となっています。
つまり中世の惣村の「実態」があるのです。このことから彼らが祭祀を担う構成員で、いわゆる宮座の組織を示していると判断できます。諸貴所の右脇には、最初に「八講大頭人ヨリ指入」の奉物が書かれていて、その内容は、道具・紙・福酒・折敷き餅などです。
家名の順序は、地頭方の地頭、地頭代官、そして、領家方の面々となっています。
つまり中世の惣村の「実態」があるのです。このことから彼らが祭祀を担う構成員で、いわゆる宮座の組織を示していると判断できます。諸貴所の右脇には、最初に「八講大頭人ヨリ指入」の奉物が書かれていて、その内容は、道具・紙・福酒・折敷き餅などです。
以上から、この史料は宥範が写したものというのは疑わしいようですが、16世紀前半ころに小松庄に三十番神社が存在し、それを信仰する信者集団が組織され、法華八講の祭事が行われていたことを示すものです。 その祭事を、戦国末に金比羅堂を建立し、金比羅信仰を創出した初期の指導者である宥雅・宥盛は、三十番社から金比羅大権現の祭事に「接ぎ木」したということです。
琴平の地元では、こんな話がよく言われます
「三十番神は、もともと古くから象頭山に鎮座している神であった。金毘羅大権現がやってきてこの地を十年ばかり貸してくれといった。そこで三十番神が承知をすると、大権現は、三十番神が横を向いている間に十の上に点を入れて千の字にしてしまった。そこで千年もの間借りることができるようになった。」
この種の話は、金毘羅特有の話ではなく、広く日本中に分布するものです。ポイントは、この説話が、旧来の地主神と、後世に勧請された新参の客神との関係を伝えていることです。つまり、三十番神が、当地の地主神であり、金毘羅神が客神であるということになります。
かつての三十番神社は、いまは睦魂(むつたま)神社とされています。
睦魂神社(旧三十番社)
金毘羅会式の祭礼日である十月十日には、今でも頭人が本社に参詣の後、この社に奉幣するようです。小松庄で中世以来の宮座を組織し、祭事を担ってきた人々の後裔たちにとって三十番神社拝礼は、特別の意味をもっていたはずです。そうした過去の伝統に対して畏敬の念を示すものであり、かつての儀礼・作法の残照と言えるのかも知れません。そして、三十番神の祭礼として行われてきた「法華八講」の法式を金毘羅権現の祭礼として取り込んでしまったことへの鎮魂のセレモニーかもしれません。しかし、現在の睦魂神社の説明版からは、三十番社の痕跡をもうかがえません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
睦魂神社の説明版
金毘羅会式の祭礼日である十月十日には、今でも頭人が本社に参詣の後、この社に奉幣するようです。小松庄で中世以来の宮座を組織し、祭事を担ってきた人々の後裔たちにとって三十番神社拝礼は、特別の意味をもっていたはずです。そうした過去の伝統に対して畏敬の念を示すものであり、かつての儀礼・作法の残照と言えるのかも知れません。そして、三十番神の祭礼として行われてきた「法華八講」の法式を金毘羅権現の祭礼として取り込んでしまったことへの鎮魂のセレモニーかもしれません。しかし、現在の睦魂神社の説明版からは、三十番社の痕跡をもうかがえません。
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